姪の結婚式で四国の松山に行ったことがある。
ぼくにとっては漱石と子規の松山でもあり、四国行きはこころ浮き立つものだった。
漱石と子規は親友だった。神経を病んでいた漱石を気遣って、子規が松山中学の先生の職を用意して漱石を呼び寄せた。その松山である。温暖な風土とのんびりした人情の町は、漱石の病いを癒すのには最適な土地だったのではないか。快癒する中で、漱石は都会と辺境との文明の落差に戸惑いながらも、そこから『坊っちゃん』という、ユーモアとシニカルに満ちた文学作品を生み出したのだった。
明治の日本は、虫のように触角を伸ばしていた。
その触角の先にはヨーロッパがあった。かつての遣唐使のようにロンドンへ遣られた漱石は、文明の先端を真面目に吸収しようとして苦闘し、心身ともに疲れ果てた。
文明という怪物は、研ぎ澄まされた刃物を持っていた。人が集まる都会では、文明が生み出す便利さや速さというものは、人が生き易いためだけにあるのではなく、ただ欲望を満たすためにあったりもする。都会人は刃物の先っちょで生きているようなものだから、しばしば傷つかなければならない。文明の先端は、とても生きにくく疲れる環境でもあったのだ。
漱石が癒された松山の1年間は、ぼくにとってはたった2日間の松山だった。
ぼくの神経もそのころは少々傷みかけていた。だからぼくは城山のカラスになって、せっせと道後の湯(ぶんぶ)に通った。
道後温泉本館の建物は、漱石が通っていた頃は、ちょうど新築されたばかりだったはずだ。それから百年以上もたっているから古い。
建物が古いということは、中にこもっている空気が違う。時間が淀んで後戻りし人の呼吸もゆっくりになる。漱石の時代までタイムスリップできれば、かなりのんびりとくつろげるはずだ。聖徳太子も浸かったというお湯だから、その気になれば千年以上の時空を超えることだって不可能ではない。
浴室の壁には「坊っちゃん泳ぐべからず」と書かれた木札が架かっていた。そんな木札を見ると、坊っちゃんならずとも反骨心が煽られて、しばし道後の湯と戯れてみたくなるのだった。
愛媛とは不思議に縁がある。娘の相手も愛媛の出身だし、ぼくの母方の祖父は今治出身の人だった。
祖父の名字は珍しい方だと思うが、以前に『今治の歴史』という本を読んでいたら、ある城の城主に祖父と同じ名字があった。もしかしたら先祖は城持ちだったのかもしれない。城といっても大阪城や姫路城を想像してはいけない。かつて今治には城が40余りもあったそうだから、せいぜい庄屋屋敷程度のものだったにちがいない。
それも400年ほど昔の天正の陣で、秀吉の軍勢にことごとく踏み潰されてしまったのだから、どのていど交戦できる武力があったんだか。祇園精舎の鐘の声、ただ春の世の夢のごとし……、そのとき、伊予の国主河野氏も滅んでしまったという。
あかん。温泉に行ったんじゃなかった。結婚式に行ったんじゃった。
幸せな新婚カップルは、ハワイの海で手をつないで泳いだにちがいない。若い河野水軍の末裔は泳げばええ。海賊は海で泳ぐ、それでええ。
傷ついた文明人は、ただただ、道後の湯(ぶんぶ)で泳ぐ。
「泳ギヲ知ラヌ者ハ動物デ無イ」と、漱石先生もおっしゃったぞな、もし。
楽しい文に湯あみできました。
行ってみたいと思い焦がれていた松山です。
しゃれたコメント、ありがとうございます。
ぼくの雑文で湯あたりしないように!
ぜひ松山の湯で、きれいになってください。