今年も、近くの池に水鳥が来ている。
鴨かもしれないし、そうではないかもしれない。
調べればわかると思う。野鳥図鑑なり、野鳥のサイトを検索すれば、簡単にわかることなのかもしれない。それなのに調べない。
面倒くさいこともあるが、わからないままで、鴨かもしれないとか、鴨ではないかもしれないとか、曖昧な鳥が曖昧なままで水面を泳いでいるのが、それはそれでいいと納得してしまう。
ぼくと鳥とは、そういう関係だ。名前のわからない鳥がいっぱいいる。
鴨かもしれない鳥は、寒波が来るたびに数を増してゆく。
寒波は北極だかシベリヤだか、たぶん北の方からやってくる。だから、この鳥も北の方から飛来したのだろうか。
あるいは、山の向こうから来たのかもしれない。
よくわからない所から突然やってくる。そして冬が終ったら、またどこかへ飛び去って、かもしれない鳥たちのことは、かもしれないままで忘れてしまう。
限られた短い季節だけそこにいて、再びどこかへ行ってしまうものたち。
それは鳥のようでもあるし、通り過ぎる季節の徴(しるし)のようにもみえる。
彼ら、鳥に話しかけることもできないし、話を聞くこともできない。彼らの飛ぶ姿も鳴き声も、すべてのことどもが、かもしれない領域を、やがて季節のように通り過ぎてゆくだろう。
空や水に残された景色を想い、離れたところにいる誰かのことを、ふと思う。
もしかしたらその誰かも、ぼくのことを思ってくれてるかもしれない。あるいは、そんなことは妄想かもしれない。
かもしれないという、曖昧な関係がある。
それを確かめるのは簡単なことかもしれない。だが確かめない。いや、確かめられない。そのような曖昧な関係というものもある。
曖昧だから、それは夢の領域に似ている。
手を伸ばしても届かない。掴もうとしても掴めない。けれども、どこかにあったし、あるかもしれないもの。
かもしれないという、可能性があるから夢となってみることができる。
夢の中でぼくは、鳥のように羽を広げることができる。空を飛ぶこともできる。つかの間であるにしろ、木々にやどる季節の幻とまみえることもできる。それは夢かもしれないし、夢ではないかもしれない。