なぜか京都の食事は、ニシン蕎麦
秋の嵯峨野歩きは、早い夕暮れと、山から下りてくる冷気に追いかけられるようだ。体が温まる美味しいものでも食べて、旅の一日を締めくくりたくなる。
とはいえ季節の京料理や懐石を、奥座敷で落ちついて食べられる身分でもない。
いつも京都に来ると、気軽に食べられるニシン蕎麦に落ちついてしまう。いつからか、それが京都の味になってしまった。
京都の蕎麦が、特別にうまいわけでもない。
細くて白っぽい蕎麦は、柔らかめに茹で上がっている。関東のしゃきっとして喉ごしのいい蕎麦の味とは違う。薄味でうどんに近い歯ざわり。それに甘辛く煮た身欠きニシンが添えられている。
箸の先で触れると砕けるほどの柔らかいニシンを、蕎麦の合間に口に入れる。どちらかというと、蕎麦よりもニシンを味わっている。
ニシン蕎麦の始まりは、京都南座近くの松葉という蕎麦屋らしい。
松葉の創業は、およそ150年前の幕末の文久元年(1861年)。ニシン蕎麦は、この店の2代目が考案したといわれている。
京都は海から遠く、新鮮な魚介類は乏しかった。
身欠きニシンは、もとはアイヌの保存食だったらしい。北海道の江刺がニシン漁で賑わった頃、北前船によって大量の身欠きニシンが、大阪や京都に運びこまれた。
大阪では河内木綿の栽培肥料となり、京都では手間をかけて、食用として素晴らしい味に仕上げられた。
嵯峨野でも、ニシン蕎麦の看板をあちこちで見かける。その内の1軒に入った。
傾きかかったような木の門をくぐる。かつては誰かの屋敷か別荘だったような、古い平屋建ての家。玄関の狭いたたきに靴を脱いで上がる。
間仕切り戸を取り払った広い座敷に、不揃いなデコラのテーブルが幾つか置いてある。客がいなかったら空き家のように殺風景だろう。
食堂らしく手が加えられてないところが、古びたままの自然さでいいといえなくもない。
庭が見える席を選んでニシン蕎麦を注文する。薄っぺらな座布団の下から、ひんやりと湿っぽい畳の感触が伝わってくる。
広い庭には、赤い毛氈が敷かれた縁台がいくつか置かれ、そこにも客はいて蕎麦の鉢を抱えている。落葉がたまって干上がった池の、大小の石組みが白く乾いている。
ニシン蕎麦が運ばれてきて、ニシンと蕎麦を食べて汁を吸った。他には何もない蕎麦だ。
庭との仕切り戸に、注意書きの紙切れが貼ってあった。
「一五〇年前の戸です。触らないで下さい」と書いてある。
障子の部分はきれいに張り替えてあるが、庭が望める覗き部分のガラスは波打っている。ギヤマンとでも呼びたくなるような古いガラスだ。この戸が150年前のものだということは、この家も150年前に建ったものなのだろう。
すきま風が寒いので、きちんと閉めようとしたが動かない。なるほど、しっかりがたがきている。
京都の時間は過去へと動いていく。
幕末の四條河原町の南座では芝居興行が賑わい、芝居帰りの客を当て込んで、蕎麦屋の松葉が開業した頃だ。熱い血に燃える土佐や長州の若者たちが、新しい時代を夢みて京都に集まった。激動の時代だった。
芭蕉や去来が俳諧の地固めをした、その時代までおよそ300年。平家の栄華までは800年余。京都の平安京に都が移った時代まではおよそ1200年。
振り返ってみると、京都の150年などは、ほんの昨日のことなのかもしれない。
一時の熱気と喧騒は、そのまま都とともに東京に遷されて、あとには静かに輝く文化だけが残された。それはそれで良かったのかもしれない。
おかげで静かにニシン蕎麦が食える。
蕎麦だけで満腹とはいかないが、とりあえずは1200年の歴史の味付けで腹を騙し、大阪に帰ってから茶漬けでも食べるとしよう。
秋の日はつるべ落とし。さらに小倉山が西の太陽を早々に隠してしまうので、嵯峨野の夕暮れは早い。
ふたたび渡月橋に戻ったときは、夜の帳が下りていた。
おりしも十五夜のまん丸な月。いつもの顔をして、にぎわう橋までは降りてこずに中空で留まっていた。
月は真夜中に、ゆっくりと橋を渡るのだろう。
にしん蕎麦、とても懐かしく読ませていただきました。
大晦日には思い出す味です。
本当に愛想のない、にしんがどんと入っただけの蕎麦ですね。
にしんのほろりが懐かしいです。
コメントありがとうございます。
ソバにニシンが添えてある。ただそれだけの
ニシン蕎麦を初めて食べたときは驚きでした。
でもニシンがおいしくて、
いつのまにか忘れられない味になりました。
ぼくにとっての京都の味です。