いつも通る池沿いの道の、土手の一角を赤く染めて、小さな赤い実が群がってなっている。
きょねんの今ごろも、同じ木の、同じ赤い実のことを書いたら、そのときは名前を知らなかったのだが、ある人からピラカンサスだと教えられ、それからぼくは、この赤い実のなる木の名前を覚えた。
たしか、炎と棘がこの木のキーワードだったと記憶している。ピラカンサスの赤い実は、熱く燃えて突き刺さってくるのだ。
ああ、あれから1年がたったのかと、同じ赤い実を見ながら思う。
炎と棘、この激しさがなかったな、ぼくのこの1年には。赤い実と実を突きとおす、確かな手応えがなかったんだ、とおもう。
きょねんの赤い実とことしの赤い実が、どうしても、ひとつのものになってしまう。きょねんとことしとの間に、判然とした距離がみえない。赤い実の、ふたつの風景のあいだを埋めるものがない。
実が成熟するまでの長い1年があったはずなのに、きょねんの場所に、きょねんと同じ、そのままの赤い実があるとは。季節の巡りとは、すべてが始まりに還ってしまうことなのだろうか。
赤い鳥 小鳥 なぜなぜ 赤い
赤い実を 食べた
また、同じ歌を口ずさんでいる。
赤い鳥は、いつも赤い実を食べる。無意識に口をついて出る歌には、幼時に戻ったような安心感がある。快く納得してしまう、歌にはそんな力があるのかもしれない。
赤い実を食べて、赤い鳥になろうとしたわけではないが、赤い実に触れようとしたら、鋭いとげの痛みが指先に走った。
炎と棘の、この痛みだけは確かにおぼえている。