風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

山の手紙

2010年05月14日 | 詩集「一瞬の夏」
Kamikouchi


きょう手紙が届いた
とおい山のホテルの
便せんと封筒
差出人はぼく
自分を発ち自分へ帰ってゆく
孤独な便りだ


恵那山トンネルという
中央自動車道の長いトンネルを抜けた
恵那山の語源は胞衣(えな)だという
トンネルの長い闇に
胎児のようにつつまれる


とつぜん闇がひらく
赤子になってぼくは
知らない土地に生まれでる
聳えるものは山と呼ばれ流れるものは川と呼ばれる
空に向かって膨らんだ乳房
山襞には白い乳が流れている
ぼくは赤子だから
ただ青いものと白いものに口をひらく
赤い花の名前も知らない


カラマツソウ
ミヤマニワトコ
ウツボグサ
ハクサンオミナエシ
花は花
名前は名前にすぎないけれど


深い森を抜ける
木々のそよぎは鳥の言葉に似ている
近づくと黙ってしまう
逃げてゆく青い影を追いかけてゆく
飛び交うものは名前を失い
水底の小石は黙りこくっている
川だろうか風だろうか
懐かしさだけが頷いてくれる


魚には斑紋があった
ここで生きてここで死ぬのだろう
それは美しい命のしるしだ
水のようにやさしく泳いでいる
その冷たい水に
ぼくの指の魚はきっと
30秒も生きていない


道をふりかえると
赤子はたちまち老人になって
道標の文字が読めない
どこから来てどこへ行くのか
不動の山はのどかに噴火している
ぼくは噴火しない


快晴
気温25度
標高1500メートル
胞衣をぬぎすて
雲のひだを裂いて夏が見えた


ぼくは振りかえり
そして追うだろう
記憶となった山と川を
さらには花と風の赤子たちを
だがもう
手紙は書かないだろう
すでに旅人は
立ち去ったあとだから


(2008)


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