風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

泳ぐことや飛ぶことや

2025年02月10日 | 「2025 風のファミリー」



鳥になって空を飛んだり、魚になって水中を泳いだりする、そんな夢をみることは、たぶん誰でも経験することだと思う。かつてアメーバだったころの古い記憶が、ひとの深層にある眠りの回路を伝って、原始の海から泳ぎだしてくるのだろうか。あるいはまた、かつてコウノトリに運ばれた未生の感覚が、意識の底から夢の中へと舞い戻ってくるのだろうか。
近くにある公園の池に水鳥が飛来している。毎年、こんな小さな池を忘れずにやってくる渡り鳥たちも、何か抗いがたい自然の力に支配されているのかもしれない。

彼らにエサを与えるのを日課にしている人もいるのを心得ていて、鳥たちは人の気配を感じると橋の下に集まってくる。三角の尾をピンと立て、さかんに鳴き騒ぎながら、次第に興奮状態になっていく。人の手が欄干の上に伸びると、鳥たちは水面を十センチほど飛び上がってエサを取り合うのだが、うまくキャッチできずに、結局は水面に落ちたエサを追って水球選手のように慌しく泳ぎまわって争っている。

この池は、大昔に作られた農業用ため池なのだが、いまや公園の景観に欠かせないものになっている。最近発行された地域の広報誌によると、この池の水はすべて雨水だという。雨の少ないこの地域で、池にたまった水は貴重なものだったに違いない。いまでも一部農業用水として管理されており、毎年秋口になると池の水を完全に干してしまう。それでも満水になると、いつの間にか小さな魚が泳いでいる。魚の放流は一切していないということだが、春から夏にかけては、フナやブラックバスが泳ぎまわっている。まさか魚が天から降ってくるわけでもあるまいし、いったいどこから湧いてくるのか不思議だった。

ところが池の魚を運んでくるのは、鳥だという。
広報誌の記事によると、魚の卵が水鳥たちの水かきにくっついて運ばれてくるのではないかとのこと。そんなことを初めて知って、私は納得するよりもびっくりした。
山深い源流の小さな水たまりに、ハヤなどが泳いでいるのを見かけることがあるが、あれも鳥たちに運ばれた命だろうか。まるで蜂などの昆虫が花粉を運ぶようなものではないか。さまざまな生物がさまざまな方法で命をつないでいく、小さな生命が循環する姿をおもうと神秘でもある。

やがて春がきて、池の水が温かくなるころ、水鳥たちはまた何処かへと去っていく。そのあとで魚たちの卵は孵り始めるのだから、魚たちは鳥のことを知らず、鳥たちは魚のことを知らない。この池の魚は魚族でありながら、いちどは空を飛んだことがあったのだ。
池や空の、水と大気の境界が曖昧になる薄暮のころ、魚たちが跳ねているのを見かけることがある。水面近くのエサの虫を狙っているのだろうが、魚たちは、小さな虫たちの飛翔に憧れる、ということはないだろうか。
泳ぐことや飛ぶことが、四季折々の変遷の中で夢幻の交錯をしながら、こうして池の風景もまた、命があるもののように再生しつづけている。

 

 

「2025 風のファミリー」




 

この記事についてブログを書く
« 恋する水鳥たち | トップ |   
最新の画像もっと見る

「2025 風のファミリー」」カテゴリの最新記事