柿ぬしは不在なり、落柿舎の秋
田んぼの畦に、コスモスが咲いていた。
やさしげな花色の向こうの、林の中に茅葺き屋根の小さな庵が見える。元禄の俳人・向井去来(1651~1704)が住まいした落柿舎である。
去来は、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と芭蕉に称えられ、師翁にもっとも信頼された高弟だった。
小さな門をくぐって入ると、正面の土壁に笠と蓑が架けられている。
この家の主が在宅であることを、訪ねてきた客人に知らせるためだったという。
玄関は2畳、右手に土間続きで小さな台所。その奥に2畳の部屋がふた間。その西側に3畳の書斎と南側に4畳半の部屋と縁側が庭に面している。10坪ほどのこじんまりとした間取りの家だ。
芭蕉は、この庵を3度訪れている。
元禄4年(1691)には、4月18日から5月4日まで滞在し、その間に『嵯峨日記』を書き残した。
「障子つヾくり、葎(むぐら)引かなぐり、舎中の片隅一間なる處臥處(ふしど)ト定ム」(4月18日の日記より)。
障子の破れをつくろい、庭の草引きをし、部屋の片隅になんとか寝床を確保した、といったところだろうか。
更に4月20日の日記には、
「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ……」など、荒れてる風情もなかなかいい、とあばら家の様子などが書かれている。
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 (芭蕉)
去来の功績としては、凡兆とふたりで、俳諧の古今集といわれた芭蕉の『猿蓑』を編集したことと、晩年『去来抄』を書き残したことだろうか。なかでも『去来抄』は、芭蕉研究書として高く評価されている。
柿ぬしや梢はちかきあらし山 (去来)
落柿舎の名の由来として、去来の『落柿舎記』には、庭に柿の木が40本あったのだが、その柿の実が一夜の内にほとんど落ちてしまった。そのことから落柿舎の名が付いたと書かれている。
「ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるる声、よすがら落ちもやまず」だったという。
ぼくが訪ねた落柿舎には、さいわい柿の実がまだ落ちずにたわわになっていた。
落柿舎制札という、面白いものが壁に掲げてあった。
一.我家の俳諧に遊ぶべし 世の理屈を謂ふべからず
一.雑魚寝には心得あるべし 大鼾をかくべからず
一.朝夕かたく精進を思ふべし 魚鳥を忌むにはあらず
一.速に灰吹を棄つべし 煙草を嫌ふにはあらず
一.隣の据膳をまつべし 火の用心にはあらず
右條々
俳諧奉行 向井去来
芭蕉の作だとも、去来の作だとも言われている。いずれにしても俳人としての諧謔がうかがえて楽しい。
「雑魚寝には心得あるべし」や「隣の据膳をまつべし」などは、生活の様子まで髣髴とさせて微笑ましくなる。
居心地がよくて、長い時間ぼくは縁側に腰かけていた。そばに投句箱があったが、俳句は一句も浮かんでこなかった。
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