街にクリスマスソングが流れ、LED電球が枯木の街路樹を多彩な光で満たしていく。生まれ変わったように夜の風景が輝きはじめる。この時期になると、クリスチャンではないぼくでも、なんだか神の懐に抱かれているように心が浮きたってくる。
言葉は神なりきという、神の言葉が聞こえてくるような気分になる。
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神とともにあり、言(ことば)は神なりき。」
これは新約聖書のヨハネ伝福音書の書き出しの文章だが、神ではなく、言葉というものに捉われているぼくは、神と言葉が同義であるという聖書の言葉に感動してしまう。
以前に『隠れキリシタン』という詩を書いたときに、400年前のキリシタン(切支丹)たちの実像に少しでも接近してみたくて、ポルトガル人のレオン・パジェスという人が書いた『日本切支丹宗門史』という古い本を読んだことがある。
そこには、囚われの身となったキリシタンたちの悲惨な様子が描かれていた。
「切支丹達が入ってくると、鉄の鈎で髪の毛や耳を押へられ、引きづられ、殴打され、素裸にされ、足をくくられ、挫かれ、泥まみれの草履で顔まで打たれた。これは日本の習慣では、一番ひどい侮辱であった。」と。
それでもなお、キリシタンたちの信仰心はくじけなかったようだ。
キリシタンたちの、さまざまな殉教の様子が細かく記述され、拷問で死んでいった殉教者たちの名前が数多く記録されていた。
「ヨハネ・ヒョーヱモン(兵右衛門)、ドミニコ・ナンガノ・ヨイチ(永野與一)、パウロ・ジャソダジョー(八十太夫)、トマス・ウスイ・フィコサンブロ(臼井彦三郎)、アドリヤン・スンガ・サンザキ(須賀三吉)、パウロ・レオエイ・モッタリ(服部了永)、ドミニコ・シェヱモン(清右衛門)」などなど。
ポルトガル人宣教師たちが伝道したものは、神であるとともに言葉でもあったのだ。
デュウ(天主)という異国の言葉は、キリシタンにとって神そのものではなかっただろうか。
キリシタンたちは聞き慣れない言葉の響きの中に、新しい神の言葉を聞き、神の姿を見たのではなかったか。
一方、バテレンたちによって、殉教者たちの名前は神に近い言葉に翻訳され、海を渡って神の国ポルトガルに報告される時、兵右衛門や彦三郎はヨハネやパウロという言葉が付されて、神の新しい使徒とされたのだった。
ヨハネ伝福音書は次のように続く。
「この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。」
かつてキリシタンたちが信じたもの、それは神は言葉であり、言葉は命であり、人の命は光だったのだ。
師走の夜は満ちてゆく光で明るく華やいでいる。暗い季節はことさらに、人々は光を求め、命の輝きに歓喜するようだ。
コメントありがとうございます。
聖書はあまり細かく読んだことはありませんが、聖書も言葉で記述されており、神というものを信じる者は、その言葉を神の言葉として享受するわけですから、言葉は大切なものだと思います。
ブログでお互いに交信し、繋がりあうことができるのも、言葉のお陰ですものね。
シェークスピアも「言葉、言葉、言葉」と役者にしゃべらせてますね。
「生命は人の光なり」であるならば、「言葉も人の光なり」でありたいものです。
創世記1章1節 「初めに神が天と地を創造した。」(新改訳聖書)
から始まり、
3節「神は仰せられた。『「光があれ』すると光があった。」
神は言葉によって天地を創造されました。神の言葉を私たちは今見ているのです。
ヨハネの福音書1章1節は、その旧約聖書の言葉と重なります。
「神と言葉が同義であるという聖書の言葉に感動してしまう。」
と言われた風のyo-yoさんのお言葉に心を動かされました。
このことを、心に指し示された神さまの祝福をお祈りしています。
キリシタンの迫害について、その様子を教えてくださって感謝いたします。
多くの先人たちの殉教の上に在って、今の恵みに預かる身であることを改めて思わされました。
イエス・キリストは神のことばとして、人の救いを成し遂げるために来てくださいました。「この生命は人の光なりき」
唯一滅びることのない光です。