昨日は仕事の打ち合わせで行った先の方がランナーだったので、仕事の話より専ら「走る」話に。
自分より一回り上だが、毎年ホノルルマラソンにも参加しているし、東京も過去三回走っているとかで、さらに息子さんは「おんたけ100km」を完走しているとか。
帰りがけには、毎年12月に皇居で駅伝を主催しているので、誘われたりもして、会話が進んで無事に仕事の方も終了。
会話と言えば、最近は電車に乗ってもスマホの画面を見ている人が多いこと。
5年前にはなかった光景が、今は普通となった。
居ながらにして情報が入る便利な時代になったと言う反面、これから先大丈夫?という気もする。
過剰なほどに情報が入り、いろいろな事が擬似体験することができるようになると「本質」とは何かが見えなくなってくる。
息を切らし山を登り、山を走っていると、大地から足の裏を通じで体の中に伝わって来るものがある。
ある登山家の書籍のなかに「野蛮な現代人よりも、プリミティブな野生人」の意味ような言葉があったことを思い出す。
「野生人」とはいい響だ
自分より一回り上だが、毎年ホノルルマラソンにも参加しているし、東京も過去三回走っているとかで、さらに息子さんは「おんたけ100km」を完走しているとか。
帰りがけには、毎年12月に皇居で駅伝を主催しているので、誘われたりもして、会話が進んで無事に仕事の方も終了。
会話と言えば、最近は電車に乗ってもスマホの画面を見ている人が多いこと。
5年前にはなかった光景が、今は普通となった。
居ながらにして情報が入る便利な時代になったと言う反面、これから先大丈夫?という気もする。
過剰なほどに情報が入り、いろいろな事が擬似体験することができるようになると「本質」とは何かが見えなくなってくる。
息を切らし山を登り、山を走っていると、大地から足の裏を通じで体の中に伝わって来るものがある。
ある登山家の書籍のなかに「野蛮な現代人よりも、プリミティブな野生人」の意味ような言葉があったことを思い出す。
「野生人」とはいい響だ