伊吹聡美は、深い深い闇の中に居た。
心細さと迫り来る不安を抱えながら、先の見えない真っ暗なトンネルの中にいるみたいだった。
俯いて膝を抱えた彼女は、とても小さかった。
その小さな彼女が、しゃくり上げながら手術室の前の椅子に座っている。
彼女はたった一人だ。
隣で肩を抱いてくれる母親も居なければ、大丈夫だよと励ましてくれるはずの姉も傍には居なかった。
たった一人で、肩を震わせてこの叫び出しそうな恐怖と戦っているのだ。
「どうして誰も来ないの‥」
彼女に駆け寄る人間はいない。携帯電話も鳴らなかった。
ただ壁にかかった時計の秒針だけが、カチカチと一定の音を発しているだけの空間。
聡美は孤独に押しつぶされそうだった。
「お姉ちゃん、早く来て。ママ、怖いよ‥」
「パパ、どうなっちゃうの‥?あたし怖くて死にそうだよ‥。怖くて死にそうだよぉ‥!!」
口に出す言葉が、しんとした空間に響いて、消えた。
誰か助けてと、心の中から必死に手を伸ばす。
誰か、誰でもいい。今この空間に風のように駆けつけて、抱きしめてくれたなら。
ダダダダダ、とその大きな足は全速力で走っていた。サンダルは片方履きのまま、足の裏は薄汚れている。
彼は勢い良くドアを開け、病院内を風のように走った。看護師から注意されても、耳に入らなかった。
バタバタと、凄いスピードで風を切る。
もう少し、もう少しだ。
そして彼は、手術室の前で膝を抱える彼女の前まで行くと、息を切らしながらその名前を呼んだ。
「聡美さん!!」
聡美がバッと顔をあげる。
目は泣きはらして腫れ、マスカラが滲んで顔は汚れている。でもそんなことは気にならなかった。
だが目の前に居る彼だって、見た目はヒドイものだった。
ボサボサの髪に無精髭、適当なジャージを着ていてサンダルは片方脱げていた。
ハァハァと息せき切りながら、福井太一はもう一度彼女の名を呼んだ。
「聡美さん!!」
そして彼は聡美に駆け寄る。
大丈夫ですかと手を差し伸べながら。
太一の登場によって、この空間の空気が動き、風が起こった。
暗いトンネルに光が差し込む。聡美の目から大粒の涙が溢れ出した。
膝を抱えて溜め込んでいた震えるほどの不安と、壊れるほどの恐怖が外に出る。
聡美は思わず太一に向かって叫んだ。
「なんでこんなに遅かったのよぉ!バカヤロー!!」
そう言って聡美は、太一のことをボカボカと殴った。
加減をしない上に、太一も避けずに聡美をなだめていたので、されるがままだ。
「聡美さん!ごめん‥オレが悪かっ‥ぐえっ」
聡美は太一を叩いたり掴んだりしながら、湧いてくる不安を彼にぶつけた。
後から後から涙が溢れてくる。
「パパどうなっちゃうの?!あたし‥怖いよぉぉ!!」
太一は感情のままに泣き叫ぶ彼女を前に、その中に居る少女の姿を透かして見た気がした。
小さな小さな彼女の姿を。
あの時も、あの時も、太一はそんな彼女の姿を見た。
子供のような彼女の姿を。
太一は泣きじゃくる聡美を抱き締めて、小さな子をなだめるように背中をさすった。
「聡美さん、オレが悪かったから‥ね? 泣かないで。大丈夫だから‥」
太一は時に母のように聡美を慰め、
「どうしよう。パパに何かあったらあたしどうすればいいの‥?」
「そんなこと言うもんじゃない!」
そして時に父のように彼女を叱った。
あたしにはパパしかいない、パパがいないと生きていけないと泣きつく聡美に、
太一はその大きな愛で包み込んだ。
「絶対大丈夫です」
聡美の目から、涙が零れた。
しっかりと掴まれた肩が、温かだった。
エレベーターの扉が開いて、また新たな風が吹き込む。
雪と淳は聡美に気がつくと、バタバタと駆け寄った。
「聡美!」
聡美は雪の姿を見ると再び涙が溢れ出し、
泣きながら彼女に抱きついた。
背中に回される彼女の腕の強い力と、悲痛なまでのその泣き声。
雪は彼女の苦しみを目の当たりにして、心が締め付けられるようだった。
聡美の背中越しに、未だ”手術中”のランプが点灯しているのを見て、
雪は心がざわめいた。
大変なことになった‥。聡美にはお父さんしかいないのに‥。もしものことがあったら‥。
雪は悪い方へ向かう自分の考えを改め、
「大丈夫だよ」と聡美に向かって力強く言った。それは自らに言い聞かせる言葉でもあった。
しばらく雪にもたれかかりながら泣いていた聡美だが、
不意に雪の腕の中でぐったりと力が抜けた。
何が起こったのか分からず、必死に聡美の名前を呼びかける雪と太一の横で、淳が振り返って看護師を探す。
そして手短に要点を伝え始めた。
「すみません、友人が泣きすぎて脱水症状になってしまったようなんですが、
どこか空き部屋は無いでしょうか?」
看護師はそれを受けて、「すぐにこちらへ」と案内を始めた。
太一が聡美をおんぶし、雪が自分のカーディガンを聡美に着せかけてやる。
「ここは俺らに任せてまずは横にならせてやった方がいい。結果が出たら伝えに行くから」
淳の言葉に太一は頷き、
看護師の指示にしたがって病院の廊下を歩いて行った。
雪と淳はしばらくその場に佇んでいたが、やがて手術室前の椅子に並んで腰掛けた。
時刻は夜六時十分過ぎ。
長い夜の、始まりだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<風のように駆けつけて>でした。
太一~~~!!(感涙)という感じの回です。
太一は本当に心根が温かな人ですね。愛されて育ってきた人間という感じです。
そして前々回、今回と出て来たあのカーディガンは‥
聡美の毛布になりました~
細かい倶楽部です(笑)
次回は<ズレたピント>です。
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心細さと迫り来る不安を抱えながら、先の見えない真っ暗なトンネルの中にいるみたいだった。
俯いて膝を抱えた彼女は、とても小さかった。
その小さな彼女が、しゃくり上げながら手術室の前の椅子に座っている。
彼女はたった一人だ。
隣で肩を抱いてくれる母親も居なければ、大丈夫だよと励ましてくれるはずの姉も傍には居なかった。
たった一人で、肩を震わせてこの叫び出しそうな恐怖と戦っているのだ。
「どうして誰も来ないの‥」
彼女に駆け寄る人間はいない。携帯電話も鳴らなかった。
ただ壁にかかった時計の秒針だけが、カチカチと一定の音を発しているだけの空間。
聡美は孤独に押しつぶされそうだった。
「お姉ちゃん、早く来て。ママ、怖いよ‥」
「パパ、どうなっちゃうの‥?あたし怖くて死にそうだよ‥。怖くて死にそうだよぉ‥!!」
口に出す言葉が、しんとした空間に響いて、消えた。
誰か助けてと、心の中から必死に手を伸ばす。
誰か、誰でもいい。今この空間に風のように駆けつけて、抱きしめてくれたなら。
ダダダダダ、とその大きな足は全速力で走っていた。サンダルは片方履きのまま、足の裏は薄汚れている。
彼は勢い良くドアを開け、病院内を風のように走った。看護師から注意されても、耳に入らなかった。
バタバタと、凄いスピードで風を切る。
もう少し、もう少しだ。
そして彼は、手術室の前で膝を抱える彼女の前まで行くと、息を切らしながらその名前を呼んだ。
「聡美さん!!」
聡美がバッと顔をあげる。
目は泣きはらして腫れ、マスカラが滲んで顔は汚れている。でもそんなことは気にならなかった。
だが目の前に居る彼だって、見た目はヒドイものだった。
ボサボサの髪に無精髭、適当なジャージを着ていてサンダルは片方脱げていた。
ハァハァと息せき切りながら、福井太一はもう一度彼女の名を呼んだ。
「聡美さん!!」
そして彼は聡美に駆け寄る。
大丈夫ですかと手を差し伸べながら。
太一の登場によって、この空間の空気が動き、風が起こった。
暗いトンネルに光が差し込む。聡美の目から大粒の涙が溢れ出した。
膝を抱えて溜め込んでいた震えるほどの不安と、壊れるほどの恐怖が外に出る。
聡美は思わず太一に向かって叫んだ。
「なんでこんなに遅かったのよぉ!バカヤロー!!」
そう言って聡美は、太一のことをボカボカと殴った。
加減をしない上に、太一も避けずに聡美をなだめていたので、されるがままだ。
「聡美さん!ごめん‥オレが悪かっ‥ぐえっ」
聡美は太一を叩いたり掴んだりしながら、湧いてくる不安を彼にぶつけた。
後から後から涙が溢れてくる。
「パパどうなっちゃうの?!あたし‥怖いよぉぉ!!」
太一は感情のままに泣き叫ぶ彼女を前に、その中に居る少女の姿を透かして見た気がした。
小さな小さな彼女の姿を。
あの時も、あの時も、太一はそんな彼女の姿を見た。
子供のような彼女の姿を。
太一は泣きじゃくる聡美を抱き締めて、小さな子をなだめるように背中をさすった。
「聡美さん、オレが悪かったから‥ね? 泣かないで。大丈夫だから‥」
太一は時に母のように聡美を慰め、
「どうしよう。パパに何かあったらあたしどうすればいいの‥?」
「そんなこと言うもんじゃない!」
そして時に父のように彼女を叱った。
あたしにはパパしかいない、パパがいないと生きていけないと泣きつく聡美に、
太一はその大きな愛で包み込んだ。
「絶対大丈夫です」
聡美の目から、涙が零れた。
しっかりと掴まれた肩が、温かだった。
エレベーターの扉が開いて、また新たな風が吹き込む。
雪と淳は聡美に気がつくと、バタバタと駆け寄った。
「聡美!」
聡美は雪の姿を見ると再び涙が溢れ出し、
泣きながら彼女に抱きついた。
背中に回される彼女の腕の強い力と、悲痛なまでのその泣き声。
雪は彼女の苦しみを目の当たりにして、心が締め付けられるようだった。
聡美の背中越しに、未だ”手術中”のランプが点灯しているのを見て、
雪は心がざわめいた。
大変なことになった‥。聡美にはお父さんしかいないのに‥。もしものことがあったら‥。
雪は悪い方へ向かう自分の考えを改め、
「大丈夫だよ」と聡美に向かって力強く言った。それは自らに言い聞かせる言葉でもあった。
しばらく雪にもたれかかりながら泣いていた聡美だが、
不意に雪の腕の中でぐったりと力が抜けた。
何が起こったのか分からず、必死に聡美の名前を呼びかける雪と太一の横で、淳が振り返って看護師を探す。
そして手短に要点を伝え始めた。
「すみません、友人が泣きすぎて脱水症状になってしまったようなんですが、
どこか空き部屋は無いでしょうか?」
看護師はそれを受けて、「すぐにこちらへ」と案内を始めた。
太一が聡美をおんぶし、雪が自分のカーディガンを聡美に着せかけてやる。
「ここは俺らに任せてまずは横にならせてやった方がいい。結果が出たら伝えに行くから」
淳の言葉に太一は頷き、
看護師の指示にしたがって病院の廊下を歩いて行った。
雪と淳はしばらくその場に佇んでいたが、やがて手術室前の椅子に並んで腰掛けた。
時刻は夜六時十分過ぎ。
長い夜の、始まりだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<風のように駆けつけて>でした。
太一~~~!!(感涙)という感じの回です。
太一は本当に心根が温かな人ですね。愛されて育ってきた人間という感じです。
そして前々回、今回と出て来たあのカーディガンは‥
聡美の毛布になりました~
細かい倶楽部です(笑)
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