手術室の前に戻って来た雪が見たのは、
ぐっすりと眠り続けている青田先輩の姿だった。
雪は彼の前に立って、少しの間そこに佇んでいた。
静かな寝息が聞こえてくる。
全然起きない。
まさに爆睡と呼ぶに相応しい眠りっぷりだった。
彼の寝顔をじっと見ていると、口を開けたままどこか間抜けな表情をしている。
雪の中のイタズラ虫が騒ぎ出し、写メを撮ろうかと思い携帯を探ってワタワタした。
すると気配を察したように、先輩はフッと目を開ける。
雪は、エスパーさながらの彼のセンサーにビックリ仰天だ。
内心ビクビクながらも、雪は彼に今の状況を伝えた。
「お、起きました?聡美のお父さん無事手術成功して、リカバリールームに運ばれました」
それを聞いた彼は居住いを正し、いつの間にか寝てしまったと頭を掻いた。
しかし次の瞬間彼は微笑んだ。いつもの目尻の下がった笑顔で。
「とにかく、良かったよ」
雪はそのまま、先輩の隣に腰掛けた。
並んで座りながら、二人は目を合わす。
あの、と雪は口を開いた。
先輩は黙って彼女の言葉の続きを待つ。
「さっきは‥怒鳴ったりしてすみませんでした」
雪は頭を掻きながら、どこか決まり悪そうに乾いた笑いを立てた。
すると今度は先輩が、静かに口を開く。
「いや、悪いのは俺の方だ」
「雪ちゃんの言う通りだよ。俺がどうかしてた」
先輩は尚も言葉を続けた。
その謝罪に意外そうな顔をしている雪の隣で。
「亮のことは俺が口出しする問題じゃなかったのにな。雪ちゃんもそこら辺分かって行動してると思うし」
それに、と彼は雪の方をチラリと見て言った。
雪は真っ直ぐに先輩の方を見つめている。
「急に無視したり冷たくなったり、そういう行動、これからは気をつけるよ。
この前もそうだったよな」
二人の脳裏に、雪が合コンに行った次の日のやりとりが思い浮かぶ。
あの時も彼は雪を無視して、冷たい態度であしらった‥。
彼は珍しく幾分狼狽するような素振りで、言葉を続ける。
「どうして時々子供のようになってしまうのか、自分でも分からないんだ」
そんな彼の姿に、雪はその意外な一面を見る。
前に二人が和解した時も、そうだった。
それまで傲慢で堅苦しいと思っていた彼が素直に謝ったことで、雪は彼に対する印象が少し変わった‥。
雪は下を向きながら、その決心の全てを口にした。
「私も‥努力します。お互いに嫌なことがあったとしても全部忘れて‥」
「これからは失望することや不満に思うことがあれば、すぐに話し合って‥だから‥」
たどたどしく言葉を紡ぎながら、雪は先輩の方を見た。
口元に僅かな微笑みを湛える雪に、彼も柔らかく微笑んだ。
「‥私も、先輩も」 「ああ」
「俺、雪ちゃんを怒らせるようなこと絶対しないよ」
「はは、本当ですか?約束ですよ?」
二人の間にある空気の温度が、ゆっくりと上がっていく。
そして次の瞬間、雪のお腹の虫が大きく鳴いた。
ぐうう、というその音に雪は赤面し、今日はろくに食べられなかったんですと言ってお腹を抑えた。
それもそのはず。もう時刻は深夜三時を回っており、二人は夕飯もまだだった。
すると先輩がブランケットの下から、ビニール袋を取り出して中を探る。
先ほど買ってきたのだが忘れていたと言いながら、中の物を取り出した。
「はい」
彼が取り出したのは、コンビニのおにぎりだった。
雪がきょとんとしてそれを目にする。
なんの変哲もない、コンビニのおにぎり。
けれど二人の間には、共通の記憶があった。
あのあまりにもぎこちない、コンビニでの食事。
しかしあのコンビニでのひとときこそが、今の二人を形作る出発点になった。
「バクダンは無かったよ」 「あれはレアですからね」
あの疑心と不信とぎこちなさでいっぱいだった雪の心は、
確かに前に進み、今彼と向かい合おうとしている。
彼もまた、雪を興味の対象としての存在から、
”彼女”として、特別な存在として、今彼女と向かい合おうとしている。
二人はもう一度ここから、二人を始めるのだ。
ジュースもあるから、と言って先輩は雪に袋の中身を勧めると、
自らおにぎりを剥き始めた。
あの時とはまるで違い、きれいなおにぎりが出来上がった。
「もう上手に剥けますね?」
そして彼は雪に向かって口を開く。
どこかで見たような表情で、どこかで聞いたようなその台詞を。
「俺に不可能なことがあると思う?」
夢の中の彼も、確かにそう言っていた。
あの時雪は何も言えなかった。
けれど今は、彼に向かって冗談も言える。
「見栄っ張り」 「え?俺がなにって?」
フフンと得意げな彼と、小さく吹き出す彼女と。
目を閉じて皮肉を返す彼女と、そんな彼女を横目で見ている彼と。
豪華な食事でもなければ、素敵な場所でもない、
ただのコンビニのおにぎりを、病院内の小さな椅子で。
そんな此処が彼氏と彼女としての、出発点となる。
二人は笑い合った。
消毒液の匂いに包まれた、温かな空気の中で。
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<もう一度ここから>でした。
さて今回の話は「二人の再出発」という感じですね。台詞の無い最後のカットがとても好きです。
そしてこの一日の中で雪の靴の色がコロコロ変わりました‥。気づいただけでも三回‥。(^^;)
二枚目のやつ、上履きみたい‥。
次回は<それぞれの関係>です。
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