固く握り締められていた拳は、今や力なくぶらんと垂れ下がっていた。
露呈した真実を前に、何も出来ない自分が居た。雪はただ、ぼんやりとその場に立ち尽くしている。
心の中にポッカリと、大きな穴が開いた気分だった。
雪ちゃん、と淳は何度か声を掛けたが、雪は反応することなくただ突っ立っていた。
淳は彼女の肩に手を掛けると、雪の気持ちを慮るようにして彼女に声を掛ける。
「雪ちゃん‥今はメールのことで腹が立っているだろう。ショックだったと思う」
雪は、彼が肩に手を置いた力にふらつくほどぼんやりしていた。
目眩しそう‥
目の前がグラグラと揺れている。血の気が引いて、指の先が冷たくなっていく。
淳はそんな雪に身を寄せ、彼女に語りかけるように言葉を続けた。
「でもね、雪ちゃん。去年のメールを今になって見せるだなんて、横山に何か意図があるよ。
全ての元凶は、メールをありのままに受け入れて行動した横山にあると俺は思う」
それは彼女に怒りが消えたことを認識した上での、彼の誘導だった。物事の問題点をすり替える。
「あいつのせいで、俺達がケンカするのは嫌だよ。雪ちゃん」
機械のようにピッと、彼は”俺達”と”他者”との間に線を引く。
良いか、悪いか。味方か、敵か。
その極端なまでの線引きに、雪は絶句した。
彼の言葉に違和感を覚えるのに、目の前がグラついて深く考えられない。
淳は、更に話を続けた。静香のことに言及する。
「それに静香があんなデタラメを言うのも、同じ様に俺等が揉めるよう仕向けてるんだ。
ただ単に家があの子達をサポートしてたというだけの仲だと、前に俺が話しただろう?
たまたま俺の携帯を静香が持ってくことになったってだけで、彼女と言ったのはただ無視していればいい」
全く気にしなくていい、と淳は言った。
だんだんと顔が曇っていく彼女の前で、あっけらかんとした表情の淳は続ける。
「俺等はそんなことに気を取られず、これからもやっていけばいいんじゃない?
未来のことを考える方が、ずっと合理的じゃないか」
そう口にする彼の瞳は澄んでいた。本心でそれを口にしているのが分かる。
そして彼は、疑いの無い眼差しをしながらこう続けた。
「もう去年のことを蒸し返すのは止めて、全て水に流そうよ」
淳は少し背を屈め、雪の瞳を覗き込んだ。
彼女の心にある隙を見抜き、彼は彼女を導く。彼の信じる”正しい”方向へ。
「雪ちゃんも、そうしたいだろう?」
そう口にする淳の表情からは、自分の不当性など微塵も疑っていないことが見て取れた。
世の中全てが自分の意のままになると確信しているような、強い瞳。
雪は口を開けたまま、小さく息を呑んだ。
反論の言葉が出かかるが、
見上げた彼はいつもの青田淳だった。
すました顔で、彼女を見つめている。
雪は淳から顔を背けると、再び俯いた。
心の中はもうグチャグチャだ。
雪は俯いたまま、やがて口を開き始めた。
色々な感情が混沌と渦巻いている中の、とりあえず言葉に出来る部分だけを。
「時々先輩には本当に感心させられます」
「物事全てを、刃物で切るようにスパッと理性的に考えられて」
「私は今、自分が何の為に怒っているのかも、今が一体どういう状況なのかも分からず、
頭が爆発しそうなのに」
心臓がズクズクと胸をえぐり、目の前が歪む。精神的にも身体的にも、限界が来ていた。
けれど目の前の彼は飄々としているのだ。こんなに取り乱している自分の前で、一瞬たりとも動揺せずに。
雪は更に俯き、呟くように話を続けた。
「‥去年のことを水に流すだなんて‥何一つ解決出来なかったのに。
それはそんなに、簡単なことですか?」
「何かを水に流すには‥時間がかかるじゃないですか」
悩んで、憤って、自己嫌悪して、必死に我慢して‥。
去年雪は、溜め込んだ彼への不信を押し込める課程でさえ、数え切れない感情を経験した。
結論へ行き着くまでの行間にこそ、人間臭い感情がある。
彼がスパッと切り捨てているその間にこそ、大切なものが詰まっているのに。
彼の表情は窺えなかった。
けれど見なくても雪には分かった。自分が今口にした言葉を、彼は理解していないということが。
雪は彼から顔を背けると、淡々とした口調でこう言った。
「先輩の速度にはついていけそうにないです」と。
そして雪は彼に背を向けた。
早足で、その場から立ち去ろうとする。
淳は彼女が去って行くのを、その場に立ったまま見つめていた。
このまま彼女を引き止めたとしても、話は平行線だろう。淳は彼女に向かって、口を開いた。
どうしても、伝えておきたいことだった。
「それなら、待つよ」
そう口にした彼の瞳は澄んでいた。
今は混乱して考えられないという彼女を、いつまでも待つと。
雪は一瞬立ち止まり、一度深く俯いた。
そして大きく息を吸ったかと思うと、一目散に走り出した。
雪は様々な感情が入り乱れる心中で、一人考えていた。
横山や、河村氏のお姉さんのこと‥。
それら全てに対して、全く動揺することなく説明する先輩に、更に腹が立つのは何故だろう。
私の感情は曖昧に流され‥
けれどいくら説明されたって、何もかもに腹が立つ。到底納得なんて出来そうもない。
雪は夜道をひた走りながら、納得出来ない事柄について思いを巡らせていた。
家がサポートしてた女性だからって、携帯番号が似ていることも、”彼女だ”なんて言ったことも、その場で理解しろって?
私が横山を好きだの何だの簡単にメールしたのも、それで私がストーカー被害に合ったのも、彼にとっては消化してしまう過去の出来事に過ぎないと?
私にとっては、恐ろしくショックな出来事だったのにー‥
感情の昂ぶるまま駆けていた雪だったが、不意に胸の中が違和感に騒いだ。
徐々に歩を緩め、息を吐く。
雪は混沌とした感情の中で、何が一番引っかかっているのかを見出していた。
違う‥そういう問題を全部取っ払って、今一番私がショックを受けているのはー‥
思い浮かぶのは、暗闇にひっそりと立つ彼の姿だった。
青田先輩という彼自身‥
雪が今一番ショックを受けているのは、青田淳という人の人間性が、分かってしまったからだった。
今まで気のせいだと曖昧にしていた部分が、剥き出しになってしまったからだった。
混沌とした心の中が、更にモヤモヤと渦巻いて行く。
どう考えたって去年の先輩は私のこと嫌ってたし、脅迫したし、私に悪意を持っていて‥。
そんな彼が、善意で横山にそんな話をしたわけがないって考えが、止めどなく溢れるけど‥
それでも、それ以上の話が出来なくて逃げる私は‥
先輩と別れるのが嫌だということなのか‥。
真実は分かった。彼という人間の性質も明らかになってしまった。
けれど雪は、自分の気持ちが分からなかった。
いや、明らかになったからこそ、分からなくなってしまったのだ。
不意に、リュックの中で携帯電話が震えた。
取り出してみるとメールが一通入っていた。学科全員に送られたメールだった。
みんな月曜からの中間考査、ガンバロー!ファイティン!
学科代表 直美
そのメールを見て、雪は現実に引き戻された。
週明けから、中間考査が始まるのだった。
「‥‥‥‥」
今の自分の状況などお構いなしに、時間は無慈悲にも流れ行く。
こんな気持ちのまま迎える中間考査に、雪は頭を抱えて息を吐いた。
その場で俯く雪の姿を、壁に隠れて窺っていた男が居た。
河村亮だった。
「‥んだよ」
亮は俯き、青筋を立てながら、一人呟くように漏らした。
「何言ってんだ、アイツらー‥!」
嫌な胸騒ぎがした。
沈めてあった暗い記憶の断片が、既視感の尻尾が、今目にした彼女に繋がっていた‥。
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<流出(4)>でした。
<導火線>から始まり、→<炎上>→<煙>→<爆発>→<流出>と、爆弾シリーズでした^^;
特に最後の<流出(1)~(4)>は長かったですね。修羅場でした‥。
そして以前姉様のところでも話題になった、亮の居場所の不思議‥。
雪と先輩が話し合ってた場所から、話し合いが終わった雪ちゃんは結構走り、そして立ち止まった場所に亮が居ました。
しかし亮は二人の会話を聞いていた様子‥。
どんだけ耳がいいの、亮さん!
それか、雪ちゃんまさかのパントマイム”その場走り”?!
(参考 ”その場走り”)
謎は深まるばかりです。
次回は<姉の携帯>です。
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