
ベンチに並んだ淳と雪は、長い間黙っていた。夕暮れの涼風がキャンパスの茂みを揺らす。
淳は横目でちらりと雪を見た。
握りしめた拳を膝の上に置き、背筋をまっすぐに伸ばしている。
建物の窓に灯った明かりが、長い髪を浮かび上がらせていた。


沈黙を破ったのは雪だった。
真剣な面持ちで淳を見上げている。
淳は開いていた足を揃え、肩の力を抜いた。

淳の声音は自分でも驚くほど艶かしかった。
又斗内に対抗するために考案した“ピンク淳”。
毎晩、鏡の前でコツコツと練習を重ねて生み出した新キャラだった。


雪はそれについて、何も言わなかった。
清々しいくらいのすべり方だった。

君のツッコミは、首を伸ばせばすぐ届くところにあると思っていた。

いつものベンチで、雪はいくぶん気落ちしたようすで父の会社が潰れたことを話した。
――父さんの会社が倒産
シンプルな駄洒落だが、このネタで笑いを生むには技術と配慮が必要だ。
雪も痛いほどわかっているようだった。

家族をネタにすることの苦労を雪は知ったようであった。

淳が言った。


一度、父はネタに巻き込まれたことがある。
淳の同級生の人騒がせなネタがひとり歩きして、隠し子騒動に発展したのだった。

父はその同級生を家族同然に養い、実際に父親のような振る舞いをすることもあったので、
ネタとして許されるだろうと淳の同級生は考えたのかもしれなかった。
しかし、父は全力で火消しに動き、
わざわざその同級生の目の前で「もちろん私の息子ではありません」と冷たく言い放ったのである。

それ以来、淳が父をネタに取り入れようとすることはなくなっていた。
同じような困難に直面しながらも、ネタにすることを決してあきらめようとしない雪の言葉に、淳は聞き入った。


二人の前を学生や教員が次々と通り過ぎていく。
授業の時間が迫っていた。
高い壁が越えられなくて、挫けそうになる気持ちが淳の口からこぼれた。

ピンク淳のお蔵入りで傷ついた心を、
秀紀兄さんより面白いキャラだったと言い聞かせることで癒していた。

「なおさら憂鬱になったり」

又斗内の名前を思い出すだけで気分が塞ぐ、
そんな弱さも雪がいれば克服できそうな気がした。


笑いを生み出そうとする苦労を語り合った二人は、連れ立って教室へ向かった。
お互いのことを前よりも知り始めていた。
俺達だったら、どんなことがあっても、ドキドキラブコメな大学生活に変えていけると思った。

又斗内への劣等感が消えたわけではなかった。
ただ、二人が明るく笑っていられたらいいと思った。

授業が始まる直前、淳は会話の最後にそう言った。
しかし、すぐに自分の考えは甘かったと思い知ることになる。

高校の同級生たちとの飲み会で耳に入った言葉が、淳の気を引いた。
写真があるらしく、同級生たちは肩を寄せ合って携帯電話を覗き込んでいる。

テーブルに近づいて淳は言い、携帯電話を受け取った。
画面には、雪の手を引く河村亮の後ろ姿があった。

名前ボケの鬼才、河村亮。

タブーを恐れず、笑いのためには手段を選ばないボケの求道者。
父の隠し子騒動の元凶だった。

ネタに名前を絡めることが多く、淳が通った高校では、
亮がボケに使った名前と本名の区別がつかなくなって混乱が生じることも珍しくなかった。

淳の隣で同級生が首を傾げる。白川というのも亮がネタで使っていた名前だった。
いまだに同級生が間違えるほど、強烈なインパクトのボケだったということだろう。
淳は唇を噛んだ。

しかし、何より恐ろしいのは、笑いのためであればどんな犠牲も厭わない覚悟だった。

ハリセン取り違え事件が脳裏をよぎる。
校舎の裏手で、亮は上級生のお笑いグループとツッコミの練習をしていた。

きつくどついているように見せて、決して相手に怪我を負わせないという鉄則を守りながら、
さまざまなツッコミを繰り返し試す。

その練習に、亮と同じピアノ学科の生徒が飛び入りで参加した。

人生で初めてツッコミをすることになった彼は、
上級生たちがギャラリーとして取り巻く状況にすっかり舞い上がってしまったらしい。
ハリセンと間違えて、あろうことか鉄パイプを手にしてしまったのだった。

異変に気付いた上級生の一人が「やめろ」と叫ぶ。

「僕の名前はショパンじゃない!」


亮は、そのツッコミを避けなかった。
鈍い音がして、亮の左手が潰れた。


別の携帯電話で亮の写真を見た同級生が言う。
亮はいつか笑いに殉じるのではないかという不安を抱いていたのだろう。
その言葉には安堵の響きがあった。
違う。こいつは何も変わっていない。


亮の絶叫がよみがえる。
ショパンのネタを認めようとしない俺に、亮は凄まじい形相で掴みかかろうとした。

おそらく俺にネタを認めさせようという執念は消えていない。
それで、ショパンのツッコミを再現して俺を笑わせようとしているのだ。
そのツッコミ役に雪を選んだ。
きっと、雪にも変なあだ名をつけているのだろう。

そうやって、魂のツッコミを引き出そうとしているにちがいない。
あの日のショパンのように。


何としてでも止めなければ。淳は奥歯を噛み締めた。
互いのことを知る、それだけで十分だ、なんて言ったけど、
いや、不十分。
雪を第二のショパンにするわけにはいかなかった。


ドキドキラブコメな大学生活を送るはずだったのに。
卒業の日に告白して、きれいに完結するつもりだったのに。

ある日、あっさりと口説いてしまった。

ドキドキからもラブコメからもほど遠い直球の質問に、

身も蓋もない答え。

全然、ドキドキラブコメしてないじゃないか。
雪を第二のショパンにしたくないという気持ちが、思い描いていたストーリーを蝕んでいった。
それなのに……。

路地で向き合っている雪の足の傷が涙で霞んだ。
それなのに、守れなかった。

名状しがたい無力感に淳は立ち尽くしていた。
冬の低い夜空と街の灯りが溶け合い、淡い光となって雪の髪を包み込む。
ふわりとなびいた髪が、風の輪郭をまとう。

通りの喧騒が遠のき、淡い光が白へと還っていった。
静かで何もない世界が広がっていく。
一人で親しんできたその世界に、雪がいた。

fin
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<青い春(4)〜名前ボケ〜>でした。
四部からなる壮大な淳のドキドキラブコメシリーズ、これで完結でございます。
ボケを求道する淳のピュアな本心が輝いていました。
改めて寄稿して下さった友人Y氏に感謝と秀紀感激

ありがとうございました
