雨は降り続いていた。
亮は下宿の窓から雨模様を眺めつつ、一人憂鬱な顔をしていた。
下宿の仲間たちはそんな亮の後ろ姿を窺いながら、そっとしといてやろうと陰ながら見守っている。
亮は、先日のことが気にかかってしょうがなかった。
軽い気持ちで意地悪をしていたら、とんでもないことになってしまった‥。
脳裏に、打ちひしがれた赤山雪の顔が浮かんだ。
どうしよう、と彼女は言った。必死に取ったノートだったのに、と‥。
亮はガラス窓に額を付けながら、罪悪感に苛まれていた。
雨は依然として降り続き、翌日になっても止むことはなかった。
次の日、SKK学院塾。
雨がザアザアと降る中、雪はノートを広げて途方に暮れていた。
水に落ちたノートのページは判別不可能だったので、新しいノートに要点を書き写しているところだった。
いつも真面目な雪のことだ。授業内容はおおよそ覚えてはいる。
しかし急いでメモした所や細かい箇所などはさすがに覚えておらず、ノートには空白が目立った。
雪は頭を抱える。
「何してるの~?ノート整理?」
顔を上げると、今日はグリーンのカラコンをした近藤みゆきが、雪の後ろからノートを覗きこんできた。
水たまりにノートを落としたんだと言うと、みゆきは気の毒そうに雪を見、そして屈託ない表情で言った。
「あたしのノートで良ければ見る?」
雪は彼女の言葉が信じられなくて、思わず聞き返した。
「えっ?」
みゆきは雪にノートを差し出した。
「そんなに細かくは書き込んではいないけど、白紙よりはマシでしょ?」と言って。
雪はそれを受け取り、申し訳なさそうに彼女にお礼を言った。
今ノートを借りるということは、みゆきが授業中勉強出来なくなるということだった。
それにも雪は恐縮したのだが、みゆきは気にしていない様子でカラカラと笑った。
「いつも頑張ってノート取ってたのにかわいそう。あれがゴミ箱行きなんて~!
超ショックだったでしょ~??」
そう言ったみゆきは窓の外を見て、未だ激しく降っている雨に顔を顰めた。
気晴らしにどこか飲みに行こうと彼女は言い出した。良い店を知ってるんだ、と明るく提案する。
「あ、そうだ!それと‥」
みゆきは鞄の中から、一本のボールペンを取り出して雪に差し出した。
先日雪のペンを壊してしまったので、新しい物を買ってきてくれたのだった。
雪はお礼を言って、それを受け取った。
心の中がほっこりと温かくなって、自然と口元には笑みが浮かんだ。
貸してもらったノートを開いて、新しいノートに書き写そうとした雪だったが、
そのページを見た瞬間動きが止まった。
スッキリ‥
このページだけかもしれない、と雪はペラペラとノートを捲ってみたが、全てのページが白紙同然だった‥。
いくらでも見ていいからね、と笑顔で言う彼女にもう一度お礼を言いつつ、雪は微妙な気持ちだった‥。
授業が終わり、雪は一人教室を出た。
先ほど飲みに行こうと誘って来たみゆきは、急用が出来たからと言って授業中にもかかわらず出て行った。
相変わらずの彼女に圧倒されつつも、雪は内心感謝の気持ちを感じていた。
とにかく少しでも筆記出来て良かった。誰も貸してくれなかったのに‥。思ったよりいい子なのかも
そのまま廊下を歩いて行こうとする雪だったが、後ろに居た女学生が”トーマス”を見て声を上げた。
「あれトーマスじゃない?また講師先生に怒られてる~。かわいそ~もっと優しくしてあげればいーのに~」
女学生達が見ている方向を窺うと、困ったような仕草で講師に向かっている亮の姿があった。
またなにかやらかしたのかと思いつつ、雪はそのまま立ち去ろうとした。
しかしそこで、講師の言葉が聞こえてきた。
「しかし生徒のノートを迂闊に触るだなんてどういうことかね?」
雪は思わず振り向いた。自分のノートのことに違いないからだ。
亮は大きな身体を折り縮めながら、ペコペコと講師相手に頭を下げていた。
そんな亮に講師先生はグチグチと暴言を繰り返す。出来ない奴だとか、何度失敗すれば気が済むんだとか‥。
亮は何度かムッとした表情もするが、その度笑顔を浮かべ直して講師に向き合った。
「ははは!まぁまぁ。人一人助けると思って貸していただけませんかねぇ?」
どうやら亮は、講師が持っている講義案を貸してもらおうとしているらしかった。
講師はなぜ亮のミスに自分が付き合わなきゃいけないんだと言って、なかなかそれを渡そうとしない。
むしろ懐疑的な表情を浮かべて亮を見た。
「どうしてそこまで欲しがるんだね?先ほど君の言ったことは実はただの口実で、
本当は私のノウハウを盗もうとしてるんじゃないのか?」
思いがけない講師の言葉に、亮は思わず固まった。
講師が言うには、自分のノウハウを盗んで新しい塾を開こうとしている人間が何人かいるらしい。
そして亮もその中の一人なのではないかと疑っているのだ。
亮は心外と言わんばかりに、思わず唸った。そして講師に向かって人差し指を突きつける。
「オレが塾を開くだって?!んなわけねーだろ!第一そんな頭もねーってんだ、ああん?!」
声を荒らげた亮に、講師は誰に向かって口を聞いているんだと言ってたしなめた。
亮は悔しさに暫し唇を噛んでいたが、気持ちを落ち着かせると再びへりくだった笑みを浮かべた。
「まぁまぁ、そう仰らずに~!どうか一度だけ貸して下さいよ。決して嘘じゃありませんから!
コピーだけしてすぐに返しますって~」
講師は、ノートを落としたという生徒の名前を亮に問うた。
亮は思わず「ダメージヘアー」と言いかけるが、何とか彼女の本名を思い出して口に出した。
すると講師はその名前を聞いて、私の授業で一番集中して頑張っている子だと記憶を辿ってみせた。
亮はこれ幸いと言わんばかりに言葉を続ける。
「あんなに頑張ってるのに可哀想だと思わないんですか?!このまま見捨てるおつもりですか?!」
そりゃないでしょうと言う亮に、講師はとうとう根負けして講義案を差し出した。
すぐにコピーして返すようにと言われ、亮は了承してコピー室へ向かう。
「テンキューッス!先生、近々きっといいことあるはずッスよ~!ハハハ!」
ヘラヘラと笑いながら講師を見送った亮は、彼が見えなくなると一つ息を吐いた。
柄にもなくペコペコと頭を下げて、機嫌を窺って‥。
疲労感がドッと押し寄せてきたようだった。
コピー室に着いた亮は、一人大声で先ほどの講師の愚痴をこぼしていた。
力任せにコピー機をガシャガシャとセットする。
しかし慣れないせいか、勘でボタンを押していくと変な出来になってしまった。
用紙が大きすぎる‥。
実は亮はコピー機をちゃんと使ったことが無かった。学生たちが使ってるのは見たことあるのだが‥。
用紙やサイズなど選んでいる内にワケが分からなくなってきた。コピー機はどこを押しても反応しない。
「ったくなんなんだよ!壊れてんじゃねーのか?!」
そんな亮の後ろから、オズオズと彼女が声を掛けた。
「あの‥そのボタンじゃないです‥」 「うぉっ?!」
突然現れた雪に、亮は心臓が止まるかと思った。思わず足を滑らせ、その場に倒れこんだ。
「なんだお前?!お化けか?!いつからいたんだ?!」
たまたま通りかかったら見えたのだと雪が言うと、亮は決まり悪そうに口を噤んだ。
ダラダラと汗を掻く亮と、タジタジと言葉を濁す雪。
二人の間の空気はぎこちなさが漂い始めたが、雪はコピー機に向き直って作業を進めた。
用紙を設定し直し、亮が気付かなかったボタンを押すとコピー機は正常に作動した。
亮はいとも簡単に動いたコピー機にキレた。ボタンに見えないボタンにも。
雪はそんな彼を見ながら、少しぎこちなく微笑む。
亮は彼女の方を見ながら、きまり悪さに口を噤んだ。
コピー機の前で二人、なんとも言えない気まずさを感じていた。
特に動揺しているのは亮の方で、雪の言動一つ一つに大きなリアクションで反応していた。
「次のページ開いて下さい」 「お、おう!」
「あの‥ありがとうございます」 「あ?!なんで分かったんだ?!」
「通りすがりに見たって言ったじゃないですか。それこそ怒られてる時から‥」 「ちくしょー!!」
雪の不運は、律儀な人たちの心遣いでなんとか良い方向へ向かいそうだ。
どしゃ降りの雨はいつか止み、やがて暖かな日が差すだろう。
きっとそれは、もうすぐだ。
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<律儀>でした。
コピー機使えない亮、なんだか可愛らしい(笑)
前回と今回と、雨が良いモチーフになっていますね。今回で雪は雨が止みそうです。
次回は未だどしゃ降り中の二人が出て来ますね‥うーん。。
次回は<霧煙る関係>です。
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