いつの間にか、肩に触れていた雪の手は彼から離れていた。
淳の瞳に宿るその暗い闇を感じ取り、触れるのを無意識に躊躇ったせいなのかもしれない。

淳は血の気の引いた顔をして、雪のことをただじっと見ていた。
いつもは下がった目尻が印象的な彼の、吊り上がった目つき。雪は絶句した。

先輩、と声を掛けてみようとしても、声が掠れて出なかった。
軽い質問すら拒ませる程、彼は尋常では無い表情をしている。


淳は瞬きもせぬまま、前に座る亮の方へ視線を流した。
亮はまだ電話で蓮と会話を続けていたが、ふと視線に気が付き淳の方を見る。

しかし目が合ったと思った途端、淳の方が先に目を逸らした。
スローモーションの様に、淳の視線は流れて行く。

そして淳は、そのままゆっくりと俯いた。
何も言わず何も見ず、彼は自分の世界へ入り込んで行く。

雪が目にした彼の横顔は、なんと形容して良いか分からぬほど異常だった。
普段目にする彼とは全く違う。何もかもがはぎ取られ、心の暗い所を剥き出しにしてしまった様なその姿。
人望が熱く人気者で優等生の表の顔とは、対極にあるその裏の顔‥。

雪は絶句し、目を見開いたまま彼の横顔を見つめていた。
彼の発する闇にただただ圧倒され、何も考えることが出来なかった。

淳は自己の意識が、心の深い所へ潜って行くのを止めることが出来なかった。
無意識に、トントンと規則的なリズムを刻んでいた。それは、心の音に良く似ている。

浮かんで来る記憶は、高校時代のものだった。
亮の背に手を回し、優しく言葉を掛ける父親の後ろ姿。

二人はこちらを振り向かない。
父は自分の方を振り向かない。

トントントンと、規則的な音がする。
指を叩いているのかつま先を鳴らしているのか、それとも頭の中に響いているだけなのか。
記憶は意識の深い所から、その場面を見せつけるかの様に引き出してくる。

あの時立ち尽くしていた自分の方を、亮は振り向いた。父の隣で。
その表情を思い出した途端、胃の中が不快感でいっぱいになる。
息も出来ないほど苦しい。
ここは暗い、深い闇ー‥。
‥んぱい、先輩‥

遠くから、微かに声が聞こえた。
徐々にその声は大きくなり、気がついた時には、雪が血相を変えて彼のことを呼んでいた。
「先輩!」

淳は口元を抑えたまま、彼女の方を見ずに一言発する。
「‥気持ち悪い‥」

そして淳は席を立った。
「もう行く」とだけ口にして。

そのまま早足で学食を後にする淳を、「待って下さい!」と言って雪は必死に追いかけた。
亮は眉を顰めながら、「んだぁ?いきなり‥」と小さく呟く。

すると淳は亮の方へ振り返り、凄まじい形相で彼の事を睨んだ。
見る者を凍てつかせるような、怨念の篭ったそんな瞳で。

亮は心の先端が、ピリッと感電したように痺れるのを感じた。
あれと同じような淳の表情を、自分はかつて目にしたことがある。


暗い記憶とともに思い出すのは、どこからともなく響いてくるその音。
規則的なそのリズム。

トントントン。
トントントン‥。


あの後ろ姿が、現在の彼のそれに重なる。
まだ心の先端がピリピリしている。亮の危険を知らせるシグナルが、それを感じ取って警鐘を鳴らす。

亮は過去のあの事件を思い出しながら、
とてつもない不安が胸の中に広がるのを感じていた。
虚飾の笑顔を取り去り、裏の顔を剥き出しにした淳の恐ろしさを、きっと自分は誰よりも知っているー‥。

「先輩!」

ガシッと、雪は淳の手を握った。
早足で歩く彼に、雪はようやく追いついたのだ。少し息が上がっている。

雪は手を握りながら、なんと話を切り出して良いのか迷った。
戸惑いながら、ただ「先輩‥」と口にする。

淳はそんな雪を見下ろしながら、冷淡な瞳をして淡々とこう言った。
「随分仲良くなったみたいだな」

冷たいその言い方に、雪は何も言えずに俯いた。そして顔を上げ、とにかく謝ろうと口を開く。
「先輩、ごめんなさ‥」

しかし雪が言い終わる前に、淳は小さくこう言った。
「今日はもういい」と。

そして雪が掴んでいたその手を、淳は振りほどいて背を向けた。
雪の手は力なく垂れ下がり、その場に置いて行かれる。

雪は呆然として立ち尽くした。
彼がこうなってしまった理由も、その原因も、何も確かなものが分からない。

雪は焦る心のまま、彼に向かって駆け出していた。
「先輩待って!先輩‥!」

すると彼は一旦立ち止まり、雪の方を振り向くこと無くこう言った。
「明日も来るから‥今日は本当にもう‥無理だ」

「無理だ‥」

立ち尽くす雪に向かって、最後に彼はこう言った。
どこか聞き覚えのある、その言葉を。
「もういいから、行ってくれ」

そして彼は行ってしまった。一度も振り向くこと無く。
雪の表情が、彼の背中を見つめたまま陰って行く。

彼の後ろ姿が、どんどん小さくなって行く。
雪の頭の中で、それはとある場面と重なって見えた。
うんざりするほど‥

うんざりするほど見た‥

あの疎ましい、後ろ姿

そして雪の記憶は、およそ一年前に飛ぶ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼の裏>でした。
先輩はとうとう限界を迎え、裏の顔が剥き出しになってしまいましたね‥。
自己の世界にこもる時の、トントンという音が印象的でした。
さて次回は過去編です。去年のとある出来事ですので、カテゴリは雪2年に入ります。
<<雪と淳>誘い> です。
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淳の瞳に宿るその暗い闇を感じ取り、触れるのを無意識に躊躇ったせいなのかもしれない。

淳は血の気の引いた顔をして、雪のことをただじっと見ていた。
いつもは下がった目尻が印象的な彼の、吊り上がった目つき。雪は絶句した。

先輩、と声を掛けてみようとしても、声が掠れて出なかった。
軽い質問すら拒ませる程、彼は尋常では無い表情をしている。


淳は瞬きもせぬまま、前に座る亮の方へ視線を流した。
亮はまだ電話で蓮と会話を続けていたが、ふと視線に気が付き淳の方を見る。

しかし目が合ったと思った途端、淳の方が先に目を逸らした。
スローモーションの様に、淳の視線は流れて行く。

そして淳は、そのままゆっくりと俯いた。
何も言わず何も見ず、彼は自分の世界へ入り込んで行く。

雪が目にした彼の横顔は、なんと形容して良いか分からぬほど異常だった。
普段目にする彼とは全く違う。何もかもがはぎ取られ、心の暗い所を剥き出しにしてしまった様なその姿。
人望が熱く人気者で優等生の表の顔とは、対極にあるその裏の顔‥。

雪は絶句し、目を見開いたまま彼の横顔を見つめていた。
彼の発する闇にただただ圧倒され、何も考えることが出来なかった。

淳は自己の意識が、心の深い所へ潜って行くのを止めることが出来なかった。
無意識に、トントンと規則的なリズムを刻んでいた。それは、心の音に良く似ている。

浮かんで来る記憶は、高校時代のものだった。
亮の背に手を回し、優しく言葉を掛ける父親の後ろ姿。

二人はこちらを振り向かない。
父は自分の方を振り向かない。

トントントンと、規則的な音がする。
指を叩いているのかつま先を鳴らしているのか、それとも頭の中に響いているだけなのか。
記憶は意識の深い所から、その場面を見せつけるかの様に引き出してくる。

あの時立ち尽くしていた自分の方を、亮は振り向いた。父の隣で。
その表情を思い出した途端、胃の中が不快感でいっぱいになる。
息も出来ないほど苦しい。
ここは暗い、深い闇ー‥。
‥んぱい、先輩‥

遠くから、微かに声が聞こえた。
徐々にその声は大きくなり、気がついた時には、雪が血相を変えて彼のことを呼んでいた。
「先輩!」

淳は口元を抑えたまま、彼女の方を見ずに一言発する。
「‥気持ち悪い‥」

そして淳は席を立った。
「もう行く」とだけ口にして。

そのまま早足で学食を後にする淳を、「待って下さい!」と言って雪は必死に追いかけた。
亮は眉を顰めながら、「んだぁ?いきなり‥」と小さく呟く。

すると淳は亮の方へ振り返り、凄まじい形相で彼の事を睨んだ。
見る者を凍てつかせるような、怨念の篭ったそんな瞳で。

亮は心の先端が、ピリッと感電したように痺れるのを感じた。
あれと同じような淳の表情を、自分はかつて目にしたことがある。


暗い記憶とともに思い出すのは、どこからともなく響いてくるその音。
規則的なそのリズム。

トントントン。
トントントン‥。


あの後ろ姿が、現在の彼のそれに重なる。
まだ心の先端がピリピリしている。亮の危険を知らせるシグナルが、それを感じ取って警鐘を鳴らす。

亮は過去のあの事件を思い出しながら、
とてつもない不安が胸の中に広がるのを感じていた。
虚飾の笑顔を取り去り、裏の顔を剥き出しにした淳の恐ろしさを、きっと自分は誰よりも知っているー‥。

「先輩!」

ガシッと、雪は淳の手を握った。
早足で歩く彼に、雪はようやく追いついたのだ。少し息が上がっている。

雪は手を握りながら、なんと話を切り出して良いのか迷った。
戸惑いながら、ただ「先輩‥」と口にする。

淳はそんな雪を見下ろしながら、冷淡な瞳をして淡々とこう言った。
「随分仲良くなったみたいだな」

冷たいその言い方に、雪は何も言えずに俯いた。そして顔を上げ、とにかく謝ろうと口を開く。
「先輩、ごめんなさ‥」

しかし雪が言い終わる前に、淳は小さくこう言った。
「今日はもういい」と。

そして雪が掴んでいたその手を、淳は振りほどいて背を向けた。
雪の手は力なく垂れ下がり、その場に置いて行かれる。

雪は呆然として立ち尽くした。
彼がこうなってしまった理由も、その原因も、何も確かなものが分からない。

雪は焦る心のまま、彼に向かって駆け出していた。
「先輩待って!先輩‥!」

すると彼は一旦立ち止まり、雪の方を振り向くこと無くこう言った。
「明日も来るから‥今日は本当にもう‥無理だ」

「無理だ‥」

立ち尽くす雪に向かって、最後に彼はこう言った。
どこか聞き覚えのある、その言葉を。
「もういいから、行ってくれ」

そして彼は行ってしまった。一度も振り向くこと無く。
雪の表情が、彼の背中を見つめたまま陰って行く。

彼の後ろ姿が、どんどん小さくなって行く。
雪の頭の中で、それはとある場面と重なって見えた。
うんざりするほど‥

うんざりするほど見た‥

あの疎ましい、後ろ姿

そして雪の記憶は、およそ一年前に飛ぶ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼の裏>でした。
先輩はとうとう限界を迎え、裏の顔が剥き出しになってしまいましたね‥。
自己の世界にこもる時の、トントンという音が印象的でした。
さて次回は過去編です。去年のとある出来事ですので、カテゴリは雪2年に入ります。
<<雪と淳>誘い> です。
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