ぼんやりとした月明かりが空に滲む夜、
青田淳は車の中に居た。
スポーツジムの帰り、運転席に座りキーを回そうとすると、父親から電話が掛かって来たのだ。
携帯をイヤホンに繋ぎ、通話ボタンを押す。
開口一番、父親は淳にこう言った。
「亮は近頃どうしてる?元気にやってるのか?」
またその話か‥。
淳は座席にもたれかかりながら曖昧な返事をした。
「そうみたいですよ」
そんな淳の答えに父親は不満気だ。
ちゃんと三人で連絡を取り合っているのか、と続けて聞くが、淳は答えない。
「静香が最近お前が冷たいって、昔と変わったって寂しがってたぞ」
「あれがそう言ってたんですか?」
父はその質問に答える代わりに、まさか静香とも喧嘩したのかと逆に聞いてきた。
二人仲良かったじゃないかと、幾分声のトーンが落ちる。
「もうそろそろ亮とも仲直りしたらどうだ。
変に我を張らずにさっさと謝って、仲良くやっていけばいいじゃないか」
淳の脳裏に、若い頃の父親が浮かぶ。
「我を張らず自ら与えよ」というのは、昔からの父の教えだった‥。
父は「もう少し大人になりなさい」と淳に諭すと、
彼は素直に「はい、分かりました」と返事をした。
それで気が済んだのか、父は話題を変える。
「それもそうだが、もう4年の夏休みなんだからインターンにも行かないとだめじゃないか。
急に夏期講習だなんて、どうしてせっかくの休みを無駄にするんだ」
淳はハンドルを握り、人差し指で、トントンと軽くそれを叩く。
これは彼の癖だった。
「卒業まであと一学期じゃないですか。大学生活ももう残り少ないし、
聴いてみたかった授業受けてみたくって」
淳はそう笑って言った。卒業までは大目に見て下さいと。
父は少し考えたが、最終的には淳の判断に任せると言った。
そしてどんな授業を受けているんだと聞いて返された「科学的性の理解」は、父にはよく分からなかった。
時刻を見るともう帰宅すべき時間だったため、別れの挨拶をして親子は電話を切った。
無音になったのを確認すると、淳はイヤホンを外し、より深く座席に凭れ掛かる。
長かった大学生活も、ようやくあと残り一学期となった。
淳にとっては、常に疲れ続けた四年間だった。
人々から晒される喧騒にも似たノイズは、いつも彼を疲弊させるから。
静かな夜の車内で、淳は学生生活を振り返っていた。
ふと、去年復学して初めて参加した飲み会のことを思い出した。
久しぶりに会う学生たちは皆凡庸で、退屈で、そしてやはり彼を疲れさせた。
続く学生生活の中でもそれは変わらず、皆淳の前では下心を持ったり媚びへつらったり、つまらない者ばかりだった。
柳に誘われて行った英語の自主ゼミだって始めはそうだった。退屈が蔓延して、つまらなくって仕方が無かった。
しかしあの時に、初めて意識した後輩がいた。今でも耳に残る、あの小さなノイズ。
「ぷっ」
あの嘲笑いを契機に、赤山雪への悪感情は積もり始めた。
彼女について何も知らず、知ろうともせず、ただ気に障った去年の春。
彼女のことを考える時淳は、暗く沈んだ瞳をしていた。
あれから一年と少し経った夏の日、淳は赤山雪の目の前に居た。
「よく食べるね」
学食でランチを共にしていた二人であるが、この日の雪の食べっぷりはすこぶる良い。
「お腹すいてたの?」
そう言われて顔を上げた雪は、先輩が目の前に居ることに改めて気付いたみたいに、目を丸くした。
実は今朝寝坊してしまい朝ごはんを食べれなかったのだと、つい夢中でガッツいてしまった理由を説明した。
「今日の学食おいしいですね」と、雪は本日のメニューを絶賛する。
おいしそうに食べる雪に、先輩は味趣連の話題を振ってきた。
「雪ちゃんって友達と一緒によく外に食べに行ってるよね?皆美食家なんだな?」
美食家、というフレーズに思わず雪は笑ってしまった。そんな大それたものではないですと。
「ただ一緒に色々なものを食べて楽しんでるだけですよ。
太一は大食いで、聡美はお店巡りが好きな子なんです。私も特に好き嫌いもないですし」
太一と聡美の名前が出て来たことで、淳は二人とはどうやって知り合ったのかと雪に質問した。
雪は思いを巡らすように、二人と初めて会ったその場面を思い出す。
太一との初対面は、去年復学してすぐの飲み会だった。
その後は、聡美と仲が良かったので自然と3人で行動するようになった。
聡美とは、高校3年生の時通っていた塾の受験単科ゼミで知り合った。
遠くから来ていた雪の見慣れない制服を見て、珍しそうに近づいてきたのが、聡美だった。
はじめは正直とっつきにくくて、そのあけっぴろげなところに若干引き気味だったが、
いざ喋ってみたら結構気が合って、関係は続いた。
今ではかけがえのない友達ですと、雪は穏やかな表情をしながら語る。
「こんなこともあるんですね。第一印象が悪かったとしても、
喋ってみると意外と大丈夫だったり」
「実は第一印象よりも遥かにいい人で、知れば知るほど好きになっていったり‥」
知れば知るほど、好きになっていく‥。
淳の心に、このフレーズが強く響いた。
彼女について何も知らず、知ろうともせず、ただ気に障った去年の春から、一年余りが経った。
そして淳は、こう雪に問いかける。
「それじゃあ、俺はどうだった?」
「前より良くなったかなぁ?」
クリアな瞳は、真っ直ぐに彼女を見つめている。
雪は突然のその質問に、パチクリと目を見開いた。
意図が掴めず、どう答えて良いのか分からない。
「俺達、去年の今頃はここまで親しくもなかっただろう」
そう言って微笑む先輩は、あんぐりと口を開けた雪に構うこと無く質問を続けた。
「一緒に過ごしてみてどう?俺もそうだった?」
「知れば知るほど好きになるってやつ」
「‥‥‥‥」
雪は困惑した。
質問も質問だが、今まで避けてきた去年のことへのいきなりの言及に、何よりも雪は戸惑っていた。
「はい‥そりゃあ‥先輩はいつも‥かっこいいし‥とても‥」
しどろもどろの心の内は、ぐるぐると様々な思いが入り交じっていた。
確かに第一印象よりはいい方向に変わったかもしれない。しかし答え方が分からない。
そう言ってしまうと、去年は好印象じゃなかったということになってしまう。
無論、もうとっくに気付かれているかもしれないが‥。
答えに詰まり、下を向いた時だった。
穏やかな声が、頭上から降って来る。
「俺はそうだよ」
雪が顔を上げると、先輩は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
思考が停止したような雪と、二人は暫し視線を交らせる。
フッと、彼は微笑んだ。
そして柔らかなその声で、最後にこう一言言った。
「俺は、そうだったよ」
去年の春、淳の心に芽生えた雪への悪感情、そして最悪な第一印象は、彼女を知れば知るほど変わっていった。
彼自身が変わったのか? 彼女がそれを変えたのか?
明確な答えはない。
けれど今の淳の心の中には、これまでの悪感情は微塵も無くなった。
絡まった糸がほどけるように、
凍てついた氷が ゆっくりと溶けるように。
淳は穏やかな表情で微笑んでいた。
知れば知るほど、好きになっていく彼女を見つめながら。
夕方の道を、雪は放心したように歩いていた。
お昼を食べてから、何をしたのか正直覚えていない。
頭の中では、何度も先輩との会話がリプレイされていた。
まさか去年の話を、あんなにも堂々と出してくるとは思いもしなかった。
今までずっと避けてきた話題だったのに。
俺はそうだよ
またあの場面がリプレイされて、彼の声がリフレインする。
知れば知るほど好きになるってやつ
雪はその意味について考えていた。
本気なのか?どういう意味で受け取ればいいんだろう‥。
そう思った時に、今まで友人達に言われて来た言葉が実感を持って響いてきた。
聡美も、太一も、萌菜も、頭の中で雪に呼びかけてくる。
あんたに気があるんだって!
自然と導き出される結論に、雪は信じられない思いで向き合っていた。
けれど、もう誤魔化しようもないことに、意識の底では気がついていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<消えたあの感情>でした。
久しぶりの淳目線が少し出て来ましたね。
Mr.裏目のお父さん、淳が小学生の時と同じお説教してますよ‥。orz
過去回想から雪との会話へ続くのは、今まで淳が抱いていた雪への悪感情が、彼の中で全て昇華したということを表した流れなんだと思います。
すれ違っていた二人がなんとかランチを共に出来たのも、進展の一つですね。
翻訳ですが、今回は会話の部分を本家版に寄り添い、日本語版よりもシンプルにしています。
その方が雪の困惑感が出るような‥。主観ですが。
次回は<世渡り下手の反撃>です。
人気ブログランキングに参加しました
人気ブログランキングへ