
その不条理に倒れた男を、月だけが見ていた。
遠藤は暫くそのまま横たわっていたが、やがてゆっくりと体を動かし、ポケットに入れてあった携帯電話を探った。

どくどく、と脈拍に合わせて血が流れていくのが分かる。
その血液は今や後頭部から、額を伝って地面に染みを作っていく。

朦朧とする意識の中で、震えながらリダイヤルのボタンを押した。
しかし耳に入って来たのは、またしても”ただいま電話に出ることが出来ません”という無機質な音声だった。
遠藤は携帯を置くと、再び力無く地面に横たわった。

空を見上げると、満月が浮かんでいた。
高いところから、手を差し伸べることなく、それがこの世の常であるというように、
何も語ることなく、ただそこにぽっかりと浮かんでいた。

汚れた地べたに横たわりながら、遠藤は先ほど男から言い捨てられた言葉を、ぼんやりと反芻した。
虫唾が走る、反吐が出る、汚らわしいと、無遠慮に投げつけられた心ない言葉の数々。
遠藤は、どうしても分からなかった。
悪いことをしているわけでも、犯罪を犯したわけでもないのに、なぜ度々人々から後ろ指を刺されて非難されるのか‥。
俺が秀紀と一緒にいて、何が悪い?

世の中には、自分より”悪い奴”が沢山居る。
それは遠いどこかの話ではなく、すぐ隣にあるリアルな話だ。
金持ちだからって人を見下す人間もいる、道行く人をこうして襲う人間もいる‥。



ニュースを見れば、自己中心的な人間が罪の無い人を踏みにじったりする事件が毎日起こっている。
事の真偽などお構いなしに、ただ気に食わないからと言って他人を傷つける人間もいる。
そんな人間たちに比べたら、自分は遥かにマシな人間じゃないか‥。
俺の何がそんなに間違ってるってんだ‥

意識が少し遠のいて、遠藤は母親から罵倒された記憶を思い返していた。
母は遠藤が同性愛者だと知ると、号泣しながら遠藤の足元に縋り付き、彼を責めた。

このままでは病気になって死んでしまう、と言って泣き叫ぶ母親の顔が、脳裏にありありと浮かんだ。
そして秀紀とまだ知り合って間もない頃の記憶も、浮かび上がって来た。
いつも遠藤の行く先行く先を、秀紀はついてきた。隠れることが下手な彼は、すぐに見つかってしまう。

遠藤は彼に向かって、よく声を荒げたものだった。
「ったく!俺はそちらさんが気に食わねーんだよ!不細工だし!金の自慢ばっかりしやがって!」

そう言った後は決まって、秀紀は涙を浮かべて俯いた。

気に食わなかったはずなのに、なぜだかその姿を見ると放っておけなかった。

それから二人は何度も食事を共にし、長い時間を共有していった。
秀紀の天真爛漫なところや、根が温かいところ、そして何より自分を想ってくれるところに、だんだんと遠藤は惹かれていった。

頭に思い浮かぶのは、いつだって嬉しそうに笑う秀紀の笑顔だった。
ただ彼と一緒に居たい、そんなささやかな願いを持ち続けることが、どうしてこんなにも難しいのだろう‥?

そうして遠藤は目を閉じた。
薄れゆく意識の中で、その瞼の裏側で、秀紀が幸せそうに微笑んでいる‥。


遠藤が意識を失ったその頃、
雪、淳、秀紀の三人は、テーブルを囲んで談話している最中だった。
とはいっても、秀紀はもうノックダウン寸前で机に突っ伏し、ウダウダとくだを巻いている。
「あれ?」

不意に雪が、床に落ちた携帯電話に気がついた。秀紀が落とした物のようだ。
雪はそれを拾い秀紀に手渡そうとするが、彼はそれに気を留めず嘆きを続けていた。
「あたしだって分かってるわよ、情けないってこと‥」

「馬鹿みたいでしょう? あんなに偉そうにしておいて‥」

秀紀はそう淳に向かって言った。
幼い頃から兄貴分として、彼に上手に世の中を渡っていくための処世術を教えこんだこともあった。

しかし今やこの姿だ‥。
淳の、彼を見る視線は冷ややかだった。

尚も嘆き続ける秀紀の隣で、雪は先ほど拾った携帯を見る。
どうやらもう充電が無いようだった。

雪はそのままそっと携帯を秀樹の隣に置いた。
彼の感情の吐露を邪魔せぬように、その嘆きを静かに受け入れるように。
「もうとっくに落ちぶれちゃって、このまま実家に帰ろうかって何百回、何千回思ったわ。
ずっとずっと、考えてたの」

だけど、と秀紀は言った。
閉じた瞼のその裏には、彼の笑顔が浮かんでいた。
「だけど、どんなにずっと考えてみても‥」

心の中にある幸せな記憶が、いつも秀紀を押しとどめた。
直面している現実から酒を煽って逃げる度、その記憶が枷となって動けなかった‥。

それきり秀紀はテーブルに突っ伏したまま眠り込んでしまった。
雪と淳は顔を見合わせて、彼をどうすべきかと思案する‥。

同じ頃、雪の家もとい秀紀の家の近辺を、河村亮はぐるぐると回っていた。
「ったく!どこも似たような道ばっかじゃねーか!迷路か?!迷路なのか、ああ?!
おりゃ一体何回まわってんだ?!また回って~!回って!!」



大声で騒ぎ立てる亮に、通行人は目を留めるがすぐに足早に去って行く。
そうしてまた静かになったところで、ようやく亮は雪の家へ続く細い道を見つけた。
「あっ!みーっけ!」

そこで亮の目に飛び込んで来たのは、
倒れている一人の男の姿だった。亮の心臓がドクンと脈打つ。

亮は恐る恐る近づくが、男は地面にうつ伏せに倒れたまま、ピクリとも動かない。
まずい、と亮は思った。
「お、おい!しっかりしろ!」

慌てて駆け寄った亮が見たのは、ベッタリと頭部に張り付いた血痕だった。
依然として男の意識は無い。

普段見慣れない血を見たせいか、亮は気分が悪くなって口元を押さえた。
そんな亮を見た通行人の女性が、誤解をして叫び声を上げる。
「キャアアア!」

亮は顔を上げると、その女性に向かって「早く119番しろ!」と言い、
着ていたシャツを脱いだ。女性はパニックのあまり泣き出している。

バサッと、亮は脱いだシャツを男の頭に掛けてやった。

怪我の箇所が見えなくなると、幾らか冷静に亮は物事を見れるような気がしたが、
依然として女性は当惑しながら、なかなか電話を掛けられないでいる。
「おい!電話は?!早くしろよ!!」

ふと亮が男の方を見ると、先ほど掛けたシャツに血が滲んでいた。
必死なんですと言って震える女性と実は同じくらい、亮も身が竦んでいた。

早くしろ、とがなる亮の大声が、暗くひっそりとした路地に響く。
空ではやはり満月が、その騒動を密やかにただ照らしていた。

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<不条理>でした。
亮が雪の家の界隈で「また回って~!回って!」と言っているのは、歌の歌詞だそうです。
チョンイングォン 「回って回って回って」 (1988年)
日本ではここでの曲はこれでしょう!
♪ 夢想花 / 円 広志
飛んではないですが、回って回って回って回りますからね‥(^^;)
次回は<義理堅い彼女の提案>です。
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