goo

forget-me-not



庭のわすれな草。毎年咲くたび第一声「小さい!」。イングランドの春。



先月、英国のエジンバラ公フィリップ王配がお隠れあそばした。

その日からどのテレビ局も連日連夜、彼の人生を振り返る特別番組を流し、その多さには「視聴者は選択できるべき」という批判があがったほどだった。

感心すべきか、当然その権利はあるわなと思うべきか、エジンバラ公はご自分の葬式セレモニーはもちろん、霊柩車などをご自分でプロデュースされたそうである。
大袈裟でない式がご希望だったそうだ。


わたしも、いきなり「聖人化」されたエジンバラ公のカラフルなエピソード満載の番組にうんざりさせられたクチである。

彼が嫌いだとか、立憲君主制がどうのというシステムへの反感というよりは、「自分の人生を他人によって総括され、美談にされる」ことに対する反感、「イタコの話はもう結構」という嫌悪感だった。

もちろん死者を悼むというのは生者にとって非常に重要な儀式だ(そうしないと死者は祟るのである)が。


わたしは時々、一人娘と夫に「わたしの死後はこうしてほしい」という希望を述べている。

夫には「わたしが来月死んでも後悔のないように、わたしが今欲しがっているあれをあなたは今プレゼントすべきである」とか「わたしが行きたがっているあそこへ今連れて行くべきである」(<コロナ禍では難しくなったが)というのは当然として。

娘は母親の希望を聞くのを嫌がる。
が、わたしはまずは娘からでさえも、どんな人生を送ったとか、あのときはどんな気持ちだったろうとか、どのような貢献をしたとか、微笑ましいエピソードとか、あるいは「最高の母でした」などと葬式の場で言われたくないのである。

ましてや聖書からの引用をもって聖職者に説教をされたり、「彼女はこの世からいなくなりましたが、あなた方の心の中で生き続けるのです」「もっと良いところへ行かれたのです」などと絶対に言われたくない。


わたしの死は、そのままそれとして弔ってほしい。

意味をつけないでほしい。


わたしが死んだら葬式は一切いらない。墓石もいらない。

どこでもいいから海に散骨して(世界につながっているわけだから)、それで生き残った人の気が済まない場合はピアニストをひとり雇い、ベートーヴェンのソナタ『葬送』を演奏してもらい、それで完全に終わりにしてほしい、と。
まだ予算があるなら、ロイヤルオペラハウスの座席に寄付してプレートをつけてもらってもいいけど、と。



例えばわたしの少し年上の世代に松任谷由実は人気だった。
人気なのはそうだろうなと理解できるものの、残念ながらわたし自身はあまり良さが分からなかった。

理由としては、わたしの失恋や、思い出や、海を見ていた午後は、わたしだけのもので、一般に普及している歌の歌詞に乗せてしまう、変えてしまうのはもったいないと感じたからだ。

逆にわたしがそう感じるくらい絶大な人気があった、とも言える。

年上の親友だったら(松任谷ファンであっても)分かってくれるのではとその話をしたことがあるが、「モエは私が好きなものを全て否定する」とひどく怒らせてしまった...わたしは彼女に甘えていたのだ。


また少し話が違うが、今週はメリンダとビルのゲイツ夫妻が離婚したそうな。

テレビで彼らの出会いや結婚生活、成長、今後の活動などが全くの他人によって数分の枠で語られるのを見て、ああ、有名人って大変だなあと感じたのだった。


同じように感じる人、いらっしゃるかなあ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )