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ソールズベリーの旧市街、素敵。




ストーンヘンジからの帰り道、お茶をする前に最寄りの街、ソールズベリーに立ち寄った。

ソールズベリーに行くのは初めて。何、この素敵な旧市街!

13世紀に形成され始めた街で、14世紀にはウィルトシャー一の街に成長。
有名なソールズベリー大聖堂を中心に、広々としたシックな前庭を持つ大陸風の家が立ち並ぶ。
エイヴォン川の清流、豊かな緑、さえずる小鳥。

ほれぼれと邸宅を眺めながら散歩していると、ひとつ気がついたことが...

フランス語の名前がついている家が多い(英国は家屋には番号ではなく名前がついていることが多い)。
「猛犬注意」の札もフランス語Attention, chien méchant だったり...

単に偶然フランス人の家族が住んでいるのかもしれないが、それにしては多すぎるし、こういう注意書きは家族のためにではなく、侵入せんとする他人に対してのものである。
はて、なぜだろう。




ネットで一通り見てみたが、答えは見つからない。

わたしの推理はこうだ。

先にその結末を書いておく。

1066年のノルマン・コンクエストで、ウィリアム一世とともにノルマンディ(フランス)から来た貴族の子孫であると「自認」し、支配階級であることを「誇示」するためではないか...

気が遠くなりそうな1000年近く前の話だが、聞いて頂戴。

急にわたしがそんなことを言い出すのは頭がイカれているからではない(そうかもしれないけど)。


1066年のヘイスティングの戦いで勝利した「フランス人」ウィリアム征服王(ウィリアム一世。フランスではギョーム二世)は、1086年、ここソールズベリーで諸侯に忠誠を誓わせた。ソールズベリーの宣誓である。

そして大陸式の封建制による主従関係を明文化したのが、同年に製作されたドゥームズ・デイ・ブック(最後の審判の日の土地台帳)である。これをもとに税金を取ったりするわけです。

この時、王の直参180人の領主貴族のうち、被征服民族アングロサクソン系はたった6人。残りは全てフランス人家臣。イングランドの土地は勝者フランス人に与えられたのである。

この結果、支配階級はフランス語を話すフランス人、町人や農民は英語を話すアングロサクソン人、となった。

つまり、ソールズベリー旧市街のフランス語名を持つ美しい家々は、持ち主が「支配階級である」であることを誇示するものではないか...

というのがわたしの推理。

ベルギーにも同じような現象はあって、フラマン語を話す北ベルギーにおいても、過去、支配階級であったということを誇るためにいまだにフランス語を話す家族、人はいるのである。




英国島は、古来ケルト民族が住んでいた島だ。

ローマ時代、帝国に組み入れられてからも、基本的にケルト民族の国だったが、4世紀ごろに始まるゲルマン民族の大移動によって、その一部族であるアングロサクソン人が波及状に移住してきた。

この時にトコロテンのように押し出されたケルト人の末裔が、スコットランド、アイルランド、ウェールズ人ということになっている(もちろん「民族」がはっきり綺麗に分かれているというのは幻想である)。
この時、新たに移住してきたアングロサクソンの国という意味でのちに「イングランド」と呼ばれるのである。

アングロサクソンの国はしかし不安定だった。
そのうちの大国は7王国(ヘプターキー)と呼ばれ、400年の抗争の後、10世紀になってやっと統一王国となるが、このころはスカンジナビアからヴァイキングがたびたび襲来し、11世紀にはデーン人の王がイングランド王を兼ねた。
地図を見るとスカンジナビアと英国島はとても近い。

11世紀になると、7王国のうちのひとつ、ウェセックス王国(今のイングランド南部地方)のエドワード懺悔王には世継ぎがなく、周辺からは国と地位を狙われていた。


さて、このころフランスのノルマンディー地方は、ノルマンディ家の支配下にあった。
ノルマンディもイギリス海峡のすぐ向こうだ。
ノルマンディ家は10世紀のロロを祖にする、元はフランスに攻め入ったこれまたヴァイキングの末裔であった。
のちに西フランク王国のシャルル三世によって封土され、ノルマンディに定住してすでに何世代かが経過し、フランス人化していた。

ノルマンディ家の庶子、ギョーム二世(ウィリアム一世のことね)は、エドワード懺悔王の母エマが、ギヨームの大叔母であることで王位継承権を主張、英国島に攻め入り、征服したのである。

これが今に続く、エリザベス女王に続く王朝の祖である。


...こういう話を聞くと、ヴァイキング、強い。ヴァイキング(ゲルマン系)の子孫、めちゃくちゃ多いんんじゃない? という感じすらする!
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