ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

5月下旬の溝口緑地

2024年05月31日 00時34分36秒 | まち歩き

 うちの近所なのですが、やはり、溝口4丁目にある溝口緑地を何度も取り上げてしまいます。ここしばらく、全国的に中原区の武蔵小杉駅周辺(小杉町、新丸子町、新丸子東など)ばかり取り上げられていますが、あの辺りは、少なくとも私の幼少時代である1970年代から、溝口に比べて緑が少ない所です。高層建築物ばかり並んでいる街のどこに魅力を感じれば良いのか、私にはわかりません。何せ、港区台場を通った時に「殺風景な街だ」と感じたくらいですから。六本木ヒルズ、虎ノ門ヒルズ、麻布台ヒルズなどに至っては「金太郎飴」という言葉が思い浮かびました。ちなみに、六本木三丁目には森ビル六本木住宅がありますが、最初に見た時にはあまりのギャップに驚きました。

 それはともあれ、うちから高津駅まで、私の通勤のためのルートともなっている溝口緑地です。今回も、iPhone15 Proで、しかもRAWで撮影した写真です(勿論、このブログに掲載するにあたり、圧縮などを行っています)。

 ここに文教大学附属溝の口小学校があったとは信じられない、と何度も書いています。私は、現在の溝口南公園に高津図書館があった時代に、自転車に乗って何度も高津図書館に行ったのですが、

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2024年5月某日、溝口5丁目で

2024年05月21日 00時00分00秒 | まち歩き

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2024年5月、緑が深まる溝口緑地

2024年05月20日 00時00分00秒 | まち歩き

桜の花が散ると、木々の緑の色が深まります。私が好きな季節が始まりました。

 神奈川県川崎市高津区溝口4丁目。高津図書館と同じ敷地にある溝口緑地の木々を、iPhone15 Proで撮影しました。葉の緑の色が濃くなってきました。日陰に入ると、少しばかりであっても爽やかな空気が流れてきます。時間帯を問わず、このような場所を歩くのは心地よいものです。

 東急田園都市線高津駅から歩いて5分もかからない所です。しかも、ここは、1985年3月まで私立の小学校の校舎と校庭があった場所なのです。にわかには信じられないでしょう。かく記す私も、小学生時代から高校生時代までの1970年代後半から1980年代前半まで、ここに小学校があったことを知らなかったのでした。すぐそばの川崎市立高津小学校のことは知っていたのに。

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六本木三丁目にて

2024年05月14日 00時00分00秒 | まち歩き

 植草甚一氏が書かれたものを読んでいると、よく、六本木の誠志堂で古本や古雑誌を買って、というような記述に当たります。六本木六丁目にあった青山ブックセンターで晶文社刊の「植草甚一スクラップ・ブック」シリーズを買っては、植草さんが通っていた誠志堂はどこにあるのだろうと思っていました。前に取り上げた誠志堂書店は古書店ではないからです。街を歩けばいつの間にかわかるようになるもので、六本木交差点から六本木通りを谷町、溜池のほうに下り始めてすぐ、三河台の六本木三丁目側に誠志堂があるのを見つけました。

 それから何十年も経ち、誠志堂はどうなったのかと思い、三河台を歩いてみると、枻川誠志堂ビルがありました(枻川は「かじかわ」と読みます)。

 私が初めてこのビルの前を通った時には、古書店が1階にありました。買取大吉の場所に古書店があったのではないでしょうか。一目見ただけでは、古書店があることがわからなかったのですが、東京都古書籍商業協同組合の「日本の古本屋」というサイトには、このビルの5階に枻川書店誠志堂がある旨が書かれています。ただ、古物商許可番号は書かれておらず(同じサイトで神田神保町などにあるいくつかの古本屋も探してみたら、書かれている店と書かれていない店が混在していました)、適格請求書発行事業者登録番号は「なし」となっています(これについても神田神保町などにあるいくつかの古本屋を見たら、「あり」と書かれているところと「なし」と書かれているところがありました)。

 学部生時代および大学院生時代には、神田神保町、神田小川町、西早稲田、三軒茶屋、池尻などの古本屋によく寄ったものでした。最近はあまり足を向けていません。もっとも、最近では古書もインターネット販売が多くなっており、高津駅のそばにあった小松屋書店も、実店舗は既に閉店しており、現在はインターネット販売のみを行っているとのことです。

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2024年5月10日の六本木交差点

2024年05月13日 00時00分00秒 | まち歩き

まずは、六本木交差点の六本木四丁目側から六本木ヒルズを眺め、撮影してみました。

 写真の右側、六本木七丁目側には誠志堂書店本店がありました。いつしか書店はなくなりましたが、誠志堂ビルのままです。1階のテナントは何度か変わっているようです。

 私が六本木によく行っていた1980年代後半から1990年代前半まで、覚えている限りではありますが、誠志堂書店は七丁目にあった本店の他、六丁目の東日ビル(現在は六本木ヒルズノースタワー)の地下、そして赤坂九丁目の防衛庁(現在は東京ミッドタウン)の中にありました。本店よりも東日ビル店のほうが規模が大きく、ペーパーバッグや洋雑誌も売られていたので、私は六本木WAVEに行く途中か帰る途中に寄ったものでした。

 ROPPONGIの文字が目立つ高架橋は首都高速3号渋谷線です。その下で六本木通りと外苑東通りが交差し、さらに芋洗坂への道が交差しています。東京メトロ日比谷線は、西麻布交差点からこの六本木交差点まで六本木通りの真下を走り、写真の右側にある六本木駅を出るとすぐに右にカーブし(そもそもホームがカーブの途中にあるようなところです)、外苑東通りの下を走ることになります。 何かの本で読んだのですが、日比谷線はコースの選定に手間取ったという話があり、たしかに中目黒駅から神谷町駅まではやたらとカーブが多く、速度もかなり遅いのです。

 長らく六本木駅は日比谷線のみの駅でしたが、現在は都営大江戸線も通ります(但し、大江戸線六本木駅の所在地は赤坂九丁目となっています)。上の写真でビルとビルとの間の道路が奥のほうに見えますが、そこが芋洗坂への道であり、その真下を大江戸線が通っています。そして、この交差点から南青山一丁目まで外苑東通りの真下を走ります。少なくとも首都圏では地上から最も深い場所にある駅として有名で、エスカレーターに地下20mの標識も付けられていますが、ホームはさらにその下にあり、1番線ホーム(大門、両国方面)は地下42m程の場所に、2番線ホーム(都庁前、光が丘方面)は地下33m程の場所にあるとのことです。

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南足柄市といえば

2024年05月12日 00時00分00秒 | まち歩き

 神奈川県にある市町村で、私が唯一足を踏み入れたことのなかった市がありました。南足柄市です。神奈川県内の市では最も人口が少ない所でもあります。

 この市には伊豆箱根鉄道大雄山線という鉄道路線が通っています。JR東海道新幹線・東海道本線、小田急小田原線、箱根登山鉄道線の小田原駅を起点とし、名前の通り大雄山駅まで向かう路線です。大雄山線の相模沼田駅、岩原駅、塚原駅、和田河原駅、富士フイルム前駅および大雄山駅が、南足柄市にあります。

 南足柄市の代表駅が、大雄山線の終点である大雄山駅です。市役所もこの駅の近くにあります。なお、大雄山駅の名は、ここから3キロメートルほど離れた最乗寺の山号にちなんでいます。

 駅の構内には車庫があり、大雄山線の全車両が所属しています。上の写真でもかすかに電車が見えますが、これが5000系で、同線の営業車両は5000系3両編成に統一されています。ただ、編成によって色が異なります。また、コデ165も見ることができます。

 「足柄山の金太郎」ということで、南足柄市は「金太郎のふる里」を名乗っています。

 このように書いておいて水を差すような形になりますが、この金太郎の伝説は、足柄ということで、静岡県の小山町にもあります。南足柄市とは県境で隣接しているだけでなく、足柄峠が小山町と南足柄市に跨がっています。また、JR御殿場線の足柄駅が小山町にあります。南足柄市は相模国、小山町は駿河国に属していますが、どちらに由来してもおかしくないでしょう。

 そうかと思えば、金太郎の伝説は日本のあちらこちらにあるようで、例えば滋賀県の長浜市です。同市には足柄神社があります。他にも伝説のある場所は日本に点在しています。伝説とはそういうものである、と言いうるかもしれません。私は神奈川県民ですので、南足柄市、または静岡県の小山町を採りたいと思っています。

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東京都世田谷区玉川一丁目にて

2024年05月10日 00時00分00秒 | まち歩き

多摩川にはいくつもの渡し船がありました。そのうちの一つが、今の二子橋の付近にありました。二子玉川駅の東側、玉川一丁目に、このような石碑があります。

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2024年立夏の兵庫島 その2

2024年05月07日 00時00分00秒 | まち歩き

前回に引き続いて、多摩川と野川の合流地点、兵庫島の様子です。

 公園となっている兵庫島で少しばかり高くなっている場所の周囲は、御覧のように木々が生い茂っています。2019年10月の台風19号で多摩川が増水し、玉川一丁目と玉川三丁目で床上浸水の被害が出ましたが、当然、この兵庫島も浸水がありましたし、一時的には水没したのかもしれません。しかし、現在は御覧の通りです。植物の強さあるいは強かさというべきでしょうか。

 以前に訪れた若山牧水の碑をまた見たいと思い、歩いていたら、前回登場した「兵庫島」の石柱と同じようなものが建てられていました。前回は気付かなかったのですが、玉川地域活動団体連絡協議会は既に解散していますから、最近設置されたものではありません。20世紀中に建てられたはずです。

 若山牧水の石碑です。2015年4月に訪れた時より少しばかり風化したかもしれませんが、牧水の短歌「多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは われにもおもふ ひとのあれかし」を長男の若山旅人による書で碑に再現したということになります。牧水は短命でしたが(43歳で亡くなっています)、旅人は長命で、1913年に誕生し、1998年に没しています(84歳か85歳で亡くなったということです)。

石碑の隣に、御覧のようなものが設置されています。二子玉川郷土史会によるもので、牧水については次のように説明されています。

「若山牧水、本名 繁。明治末から大正期の歌人。旅、酒、恋の歌に代表作多し。若き日、玉川にも足跡を残している。旅人は子息。」

そして、石碑に刻まれた短歌以外にも次の短歌が示されています。玉川に滞在していた時に詠まれたということでしょうか。

「幾山河 超えさり行かば 寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」

「白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」

「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」

「多摩川の 浅き流れに 石なげて 遊べば濡るる わが袂かな」

 ここに立っていると、すぐそばに多摩川が流れ、二子玉川ライズや玉川高島屋、マンションなどの高層建築物があることを忘れてしまうほどです。だから、短い時間であってもここにいたくなるのでしょう。整然とした、いかにも人の手が入ったことが強調されるような庭園などよりも、このような場所のほうに惹かれます。

 

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2024年立夏の兵庫島 その1

2024年05月06日 10時10分00秒 | まち歩き

 2015年4月、このブログに兵庫島で撮影した写真を掲載しました

 その後、2019年10月の台風で被災し、しばらく兵庫島に行けない状態が続きました。何時頃のことかわかりませんが、兵庫島に行くことができるようにはなりました。しかし、長期工事中であり、現在も迂回を強いられます。

 写真掲載から9年、2024年の立夏に、妻と兵庫島を歩きました。その際に何枚か、SONY Cyber-shot DSC-WX500を使って撮影をしたので、掲載しておきます。2015年の写真は何のカメラを使ったか、CANON EOS Kiss X5だったかな、そう言えば、2012年2月、EOS Kiss X5を買ってからすぐに兵庫島で撮影したな、などと思いながら歩いていました。最近手放したのですが、またミラーレス一眼カメラを手にしたいと考えています。どうでもよいことを記しました。

 以前にも記したことですが、兵庫島は、現在、二子玉川緑地・多摩川二子橋公園と陸続きになっています。多摩川と野川の合流地点が兵庫島ですので、二子橋は(喩えが悪いですが)石を投げれば届くほどの所にあります。ちょうど、大井町線の5両編成が橋を渡っています。手前が道路の二子橋で、かつては大井町線の電車が道路の真ん中を走っていました。

田園都市線の電車と大井町線・田園都市線を直通する急行が行き交うところを撮影しましたが、遠すぎました。右側に二子新地駅が見えます。

 2019年10月の台風で水没したはずの池ですが、御覧のように復活しました。角度のせいか、それとも底のためなのか、緑色に見えます。二子橋と新二子橋との間で、被災前は二子橋から少しばかり新二子橋のほうに向かった所から野川に架かる橋を渡ってここに着くことができましたが、現在は工事中で二子橋の下流側、玉川一丁目からの迂回を強いられます。

 地図を見ると、この池は東京都世田谷区玉川三丁目にあるのですが、左側に僅かながら神奈川県川崎市高津区の場所があります。境界を示すものが何もないのでわかりませんが、高津区瀬田と高津区久地一丁目となっている所があるのです。この辺りに限らず、多摩川をめぐる東京都と神奈川県との境界は複雑です。

 兵庫島は世田谷区立の公園とされています。先程の池のそばに木々が生い茂る場所があり、小高い丘のようになっています。登ってみると、新奥沢線新奥沢駅跡砧線中耕地駅跡と同じような石柱が建てられていました。玉川地域活動団体連絡協議会が設置したものでしょう。

 兵庫島の名称の由来が書かれた説明板です。これも以前に取り上げたことがあるのですが、世田谷区は、矢口渡について大田区ではなく稲城市にあったという説を採るようです。同市には矢野口という地名があり、南武線の矢野口駅もあります(京王相模原線の京王よみうりランド駅も矢野口にあります)。矢野口と調布市多摩川との間に多摩川原橋が架かっていることも付け加えておきましょう。

 ただ、同じような地名が近隣にいくつもあるという例は少なくありません。矢口渡が大田区と稲城市の双方にあってもおかしくはないでしょう。

 左側に案内板があります。ただ、この裏の説明板の内容が古く、駅名が二子玉川園になっていたり、二子玉川駅から渋谷に向かう鉄道路線が新玉川線となっていたりします。勿論、二子玉川ライズなど書かれていません。新玉川線が田園都市線に編入されたのが2000年8月6日で、二子玉川園が二子玉川に改称されたのも同日です。従って、案内板は20世紀中に作られたのでしょう。

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吉沢橋を砧線が通っていた

2024年05月05日 23時29分50秒 | まち歩き

 東京都世田谷区玉川二丁目にある東急田園都市線・大井町線の二子玉川駅のちょうど真下のあたりで、野川が多摩川に合流します。そのため、国道246号と東京都道11号大田調布線とが交差する二子玉川交差点から喜多見、調布方面への東京都道11号大田調布線は、通称が多摩堤通りというにもかかわらず、多摩川ではなく野川の近くを通ります。

 都道11号を二子玉川交差点から歩き、新二子橋の下を抜けてコヤマドライビングスクール二子玉川のそばを過ぎると、まもなく、玉川高島屋の北側から中耕地バス停を通る中吉通りと合流します。この辺りから吉沢と言われる場所になります。現在の世田谷区に吉沢という行政上の地名はありませんが、玉川三丁目の西側にあった大字か何かであることは間違いないでしょう。もしかしたら、玉川四丁目、鎌田三丁目、鎌田三丁目にまたがった地名であったのかもしれません。

 吉沢橋は野川を渡る橋であり、吉沢橋交差点を左折して1分もかからない場所にあります。交差点と橋梁との間に吉沢駅があったようですが、今回は見つけられませんでした。ただ、吉沢橋のすぐ北側に、砧線代行バスの東急バスの玉06系統の吉沢バス停(砧本村行きのみ)があるので、その辺りに駅があったのでしょう。 

 橋に玉電のレリーフ(?)があります。実質的に砧線の専用車両となっていたデハ60形の64号が彫られており、「二子玉川園⇔砧本村」という列車の方向板まで再現されています。現在の玉06系統は二子玉川駅から砧本村に向かうバスのみこの橋を渡っており、砧本村から二子玉川駅に向かうバスは全く別の天神森橋を渡りますが、単線だった砧線の電車は砧本村行き、二子玉川園駅行きのどちらも吉沢橋を渡っていました。

 レリーフの下の方に、「野川を渡る吉沢の鉄橋風景 昭和36年 (玉電・砧線)」と書かれた写真付きの説明碑があります。この写真は関田克孝氏が撮影したもので、私も所持している『玉電が走った街 今昔』(林順信編著。1999年、JTBパブリッシング刊)から転載されています。吉沢橋については次のように説明されていました。

 「この橋は関東大震災直後1924年(大正13年)玉電・砧線の開通に合せて架けられた鉄道橋でした。砧線は、現在の二子玉川駅と砧本村を結ぶ約2.2kmの路面電車で、人々の通勤・通学手段としてだけでなく、関東大震災復興のため多摩川の砂利を都心方面に運搬するため大きな貢献を果たしました。しかし、その後車社会の到来とともに路面電車は姿を消すこととなり、1969年(昭和44年)玉電は世田谷線を除き全線廃止となりました。廃止後は道路橋として世田谷区に移管され今日に至っています。この度、野川の河川改修に合せて上流の吉澤橋と新吉澤橋を統合し、新しい吉澤橋に掛け替えました。

 平成19年3月」

 昭和36年を西暦に直せば1961年ですから、今から63年前の風景ということになります。今では野川の両岸に住宅が建ち並んでいますから、想像する、あるいは思い返すのに苦労するかもしれません。右側に進めば砧本村、左側に進めば中耕地、二子玉川園でしょう。

 なお、少しばかり補足をしておくと、砧線は鉄道線であって軌道線ではありません(当初は軌道線でしたが、1945年に鉄道線に転換されています)。また、二子玉川駅周辺はともあれ、中耕地駅から砧本村駅までは併用軌道ではなかったようです。ただ、玉電タイプの車両が使われていたことは確かであり、それが「路面電車」と表現されたのでしょう。

 砧線の跡は、吉沢橋交差点で終わる花みず木通りに続きます。交差点から中耕地に向かうところで歩行者および自転車の専用道路となりますが、そのカーブが電車にはかなりきついものとなっています。砧線は1両編成であったので減速程度で済んだのでしょうが、現役当時に「連結2人乗り」が行われていた玉川線および世田谷線の2両編成では曲がることができなかったかもしれません。宮崎台駅構内の電車とバスの博物館に保存されているペコちゃんことデハ200形では無理であったことでしょう。下高井戸駅の急カーブよりきついのではないかと思われる程ですから。

 上の写真に登場するモニュメントは吉沢橋交差点から中耕地駅跡に向かう途中の玉川三丁目側にあります。花みず木通りの辺りは閑静な住宅街ですが、車道が何とか自動車一台が通れるほど狭く、トラックやバスは到底無理、救急車や消防車でもどうだろうかと疑いたくなるのに対し、歩道は車道の倍程あるだろうというほど広いので、歩きやすいとは思います。ただ、付近の住宅に置かれている車を見ると3ナンバーが多かったので、よくこんな道路を走ったりすることができると感心しました。私が住民であったならば軽自動車を選びますし、それ以前に購入しないという選択肢を採るかもしれません。なお、玉06系統など、東急バスおよび小田急バスは、この花みず木通りの南側を並行する中吉通りか、さらに南の都道11号を走ります。

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