ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

憲法ノート:経済的自由権序論、憲法第22条

2014年10月31日 10時25分17秒 | 法律学

 今回も、「日本国憲法ノート」〔第5版〕からの復活掲載です。第16回の「経済的自由権その1—序論と憲法第22条—」ですが、ここに掲載するにあたって改題しました。なお、一部を修正しています。

★★★★★★

 1.経済的自由権序論

 歴史的に見れば、経済的自由権こそが、近代市民革命の原動力となったものである。このことは、とくに財産権の保障に、そして裏返しの形で、しかも濃厚な意味合いを帯びて納税の義務に現われている。そして、精神的自由権の優越性を承認するにせよ、経済的自由権が保障されない限り、人間が人間としての生活を(十分に)営めないことは、近年においては東欧諸国における体制変換(ドイツ民主共和国の消滅)から理解しうる。

 フランス人権宣言第17条は、財産権を「神聖かつ不可侵」の人権と位置づけていた。これを文字通りに理解することには注意が必要であるが、少なくとも、経済的自由権の絶対性は基本的に支持されていたと考えてよい。とくに、19世紀のイギリスではベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)やJ.S.ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)の功利主義が勃興し、急速な展開を見せるようになる。これは、他の国にも強い影響を与えた。

 しかし、経済的自由権は、或る意味において市民の利己心を正当化することになるし、競争を正当化することになる。これを放任した場合、結局、経済的強者と弱者を拡大再生産することになり、平等規定の空洞化を生じることになるし、多くの社会問題を生ずることになる。さらに、いわゆる市場の失敗という現象がある。そのため、経済的自由権については、とくに内在的制約のみならず、外在的な政策的制約がなされることになった。

 このことを憲法において示した最初の例が、ドイツのヴァイマール憲法第153条である。この規定は、次のようなものである。

 「所有権は、憲法により保障される。その内容とその限界は、法律によって定める。

 公用収用は、公共の福祉のため、かつ法律上の根拠に基づいてのみ行うことができる。公用収用は、ライヒ法律に別段の定めがないかぎり、正当な補償の下にこれを行う。補償の金額について争いのあるときは、ライヒ法律に別段の定めがないかぎり、通常裁判所に出訴することができるようにしなければならない。ラント、公共団体および公益上の団体に対してライヒが公用収用を行う場合には、必ず補償しなければならない。

 所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立たなければならない。」

 〔訳は、カール・シュミット(阿部照哉=村上義弘訳)『憲法論』(1974年、みすず書房)468頁による。〕

 もっとも、1990年代より「政府の失敗」が叫ばれるように、経済的自由権に対する規制の結果として、かえって既存の業者などが保護され、国民に不利益を与える現象が多く見られることは否定できない( 規制緩和やビッグバンの問題である)。従って、外在的な政策的制約の是非については、個別的に再検討をする必要がある( おそらく、数多くの規制が、その正当性を失うことになるであろう)。

 但し、そのことは、新保守主義が説くように、社会福祉などを含めた政府の役割を全て否定し、または、そこまで行かなくとも大幅に削減することを、直ちに正当化するものではない。環境問題などを考えれば明らかである。

 また、最近では、たとえばタクシー業界における労働条件などの悪化、およびそれが原因の一つと考えられる交通事故の増加、ネットカフェ難民など、規制緩和の行き過ぎによると考えられる弊害が顕著になっている。いかに「政府の失敗」が強調されようとも、「市場の失敗」が完全に克服される訳ではない。

 経済的自由権を考察する場合、以上の点に留意しなければならない。

 日本国憲法においては、経済的自由権として、職業の自由(憲法第22条第1項)、居住・移転の自由(同第22条第1項)および財産権(同第29条)が規定される。このうち、居住・移転の自由は、歴史的な経緯によって、便宜的に経済的自由権に含められているのであり、純粋な経済的自由権ではない。むしろ、憲法学は、精神的自由権あるいは人身の自由として扱う。第22条第1項は明文で「公共の福祉」を定めるが、居住・移転の自由については安易に「公共の福祉」による制約を認めるべきでないとするのが、憲法学において述べられるところである。

 これに対し、職業の自由と財産権については、明文により、「公共の福祉」による制約が認められる。

 なお、経済的自由権の解釈(とくに第29条)に際しては、憲法第25条ないし第28条(とくに第25条)に留意する必要がある。歴史的な経緯という理由もあるが、原理的にも、第29条第1項と第25条とが対抗関係にあり、両者の均衡を保つような解釈が求められる。少なくとも、第29条第1項に示された原理は、第25条に示された原理によって制約を受けると理解するのが妥当であろう。

 2.職業の自由(憲法第22条第1項)

 憲法における「職業選択の自由」は、職業を決定する自由(狭義の選択の自由)と職業活動の自由とを含み、職業活動の自由は、憲法第29条第1項をも根拠とする。職業の自由は経済的自由として位置づけられるが、そればかりでなく、「人格的価値」としての意味をも有することに注意しなければならない(判例においても、薬事法事件最高裁判所判決が、職業の自由における人格権的性格に着目する)。

 職業を決定する自由には、開業の自由、継続の自由、廃業の自由が含まれる。また、公務に就くことも、職業決定の自由に含まれる。なお、外国人については、合理的な理由が存在する限りにおいて制約することが可能であるとされており、現在、弁理士、公証人などについて禁止されている。

 また、職業活動の自由に関連して、営業の自由が説かれている。しかし、営業の自由は、論者によって内容を異にする傾向が見られ、内容も複雑になるので、ここでは解説を省略する 。

 (1)職業の自由の限界

 憲法第22条第1項により、明文において「公共の福祉」による制約が認められている。その内容は、財政上の理由によるもの(例、酒類製造・販売の免許制)、事業の公共性を理由とするもの(例、電気、ガス、交通、郵便)、警察的規制(例、旅館、風俗営業、古物商、食品販売業)、一定の資格を要求するもの(例、医師、弁護士、公認会計士、建築士)、経済の健全な発展を目的とするもの(例、大規模小売店舗に対する規制)があり、形式としては、届出制、登録制、許可制、特許制がある。

 職業の自由を制約する立法に関する審査基準は、いかなるものであろうか。最高裁判所判例をはじめとして、多くの説が、経済的自由権に対する規制を積極的目的による規制(政策的規制ともいう)と消極的目的による規制(警察的規制ともいう)とに分類し、積極的目的による規制については合理性の基準を、消極的目的による規制については厳格な合理性の基準を用いる。

 消極的目的による規制とは、国民の生命、健康、公安、風俗、公衆衛生、安全などを保護するための規制を指す。これについては、職業の自由の内在的限界を超えるか否かが問題とされる。この問題をクリアすると、次に、その目的達成のための手段との関連において判断される。具体的には、導入されようとしている(あるいは、された)規制がなければ目的を達成できず、あるいは著しく困難であるという程度の客観的な合理性(必要性)が問われる。

 ●最大判昭和35年1月27日刑集14巻1号33頁

 無資格者が業として医業類似行為(この事件の場合は、あんま、はり、きゅう、柔道整復)を行うことを禁止するあん摩師等法第12条の規定を合憲とした。しかし、理由は「公共の福祉」があげられる程度で、それほど説得性はない。

 消極的目的による規制については、次の判決が最も重要である。

 ●薬事法事件最高裁判所判決(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)

 原告は、広島県内で薬局を開設するため、県知事に営業許可の申請をした。しかし、県知事は、薬局解説の距離制限を規定する薬事法第6条第2項(および第4項)および広島県薬局等の配置基準を定める条例第3条(いずれも当時)の基準に適合しないとして不許可処分をした。原告は、これらの規定が憲法第22条第1項に違反すると主張して、不許可処分の取消しを求めて出訴した。広島地判昭和42年4月17日行裁例集18巻4号501頁は、憲法判断を避けたものの、不許可処分を取り消した。これに対し、広島高判昭和43年7月30日判時531号17頁は、これらの規定が憲法に違反しないと判断した。原告が上告した。

 最高裁判所は、これらの規定を違憲無効と判断している。

 理由として、まず、「一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由自体に制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定するためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、(中略)自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成できないと認められることを要する」という前提があげられ、薬局の「適正配置規制は、主として国民の生命及び健康に対する危険の防止という消極的、警察的目的のための規制措置であり」、「これらの目的のために必要かつ合理的であり、薬局等の業務執行に対する規制によるだけでは右の目的を達することができない」か否かが問題であり、「薬局の偏在」や「一部薬局等の経営の不安」という事由は、規制のために必要かつ合理的とは言えない、と述べている。

 これまでは、消極的目的による規制について述べたので、次は、積極的目的による規制について述べておく。

 積極的目的による規制とは、福祉国家的理念から導かれるものであり、私的自治の原則や契約自由の原則が社会的正義をもたらさないことに鑑み、構造的弱者を保護することを目的とする規制である。このため、取引の一方当事者を保護し、他方に対して規制を加えることになる。この場合は、規制について、原則として合憲の推定が働くことになる。すなわち、立法府の裁量を尊重することになる訳である。従って、その裁量に逸脱または濫用が見られ、規制が著しく不合理である場合に、はじめて違憲と判断されることになる。

 小売市場距離制限事件最高裁判所判決(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)は、小売市場の開設を許可する条件として適正配置、すなわち距離制限を要求する小売商業調整特別措置法第3条第1項を合憲と判断した。理由として、経済的基盤の弱い小売商による事業活動の機会を適正に確保することが必要であり、その一つとして、小売市場の乱設に伴う小売商相互間の過当競争による共倒れから小売商を保護するという目的があげられている。

 〔他に、製造たばこ販売業の許可制と適正配置規制(たばこ事業法第22条・第23条第3号による)を合憲と判断した最判平成5年6月25日判時1475号59頁などがある。〕

 消極的目的と積極的目的との区別については、近年、批判がある。その趣旨は、規制目的のみで全てを判断することは不可能ではないか、両者の区別は不可能ではないか、あるいは全く不可能ではないとしても両者の区別は相対的であり、できない場合もあるのではないか、消極的目的の規制について、より厳格な審査を必要とする理由が不明確ではないか、というものである。

 私も、このような批判を正当と考える。

 まず、消極的目的と積極的目的との区別自体、常に貫徹しうるものではない。或る規制が両者のいずれにも妥当する場合、いずれにも妥当しない場合が存在する。そして、仮に消極的目的と積極的目的との区別をなしうるとしても、規制の意味は時代によって変わりうる。また、規制の性質が変わらなくとも、もはや時代に合わないということもある。法律を解釈する際、立法者の意思に基づくことは誤りではないが、法律自体は立法者の意思から離れて存在しうる(法律意思説)。そればかりでなく、解釈者によって、規制の意味が異なることもありうる。

 消極的規制および積極的規制の双方に該当するもの、または規制の意味が時代によって変わりうるものの代表例として、公衆浴場の距離制限がある。

 ●最大判昭和30年1月26日刑集9巻1号89頁

 被告人は、昭和27年、福岡県知事の許可を受けずに公衆浴場を開業した。そのため、公衆浴場法第2条第1項違反に問われ、福岡地吉井支判昭和28年6月1日刑集9巻1号104頁および福岡高判昭和28年9月29日高刑特26号36頁によって罰金刑を受けた。そこで、被告人は、公衆浴場法第2条第1項および福岡県条例に定められた公衆浴場設置の距離制限規定が憲法第22条および第94条に違反するとして上告した。

 最高裁判所は、これらの規定を合憲と判断した。その理由として、距離制限が公衆浴場の偏在や濫立を防ぐためのものであること、そして公衆衛生の確保のためでもあることがあげられている。

 判決は、国民保健や環境衛生の保持という点を強調する。しかし、公衆衛生の確保という点に着目すれば消極的規制と考えられるのであるが、公衆浴場の偏在や濫立を防ぐという点は、積極的規制を正当化する根拠ともなりうる。そのため、距離制限を消極的目的による規制と考えるには根拠が薄弱であると言われており、行政法の学説などからは積極的目的による規制と捉える見解も現れていた。また、消極的目的と積極的目的との相対性などを指摘する見解もある〈芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第五版〕(2011年、岩波書店)220頁。なお、長尾一紘『日本国憲法』〔第3版〕(1997年、世界思想社)263頁を参照〉。

 ●最判平成元年1月20日刑集43巻1号1頁

 やはり公衆浴場の距離制限に関する判決である。この判決においては、積極的目的による規制と理解されている。

 ●最三小判平成元年3月7日判時1308号111頁

 これも公衆浴場の距離制限に関する判決である。この判決においては、消極的目的による規制と積極的目的による規制の双方と考えられている。

 次に、消極的規制および積極的規制のいずれにも該当しないと考えられるものとして、酒類製造および販売の免許制がある。酒税法第10条第10号の事由に該当するとして酒類販売業の免許申請に対して行われた拒否処分の是非が争われた最三小判平成4年12月15日民集46巻9号2829頁がある。酒類製造および販売の免許制は、昭和13年の酒税法改正によって導入されたものであり、当時は酒税徴収の確保を目的としていた。判決においても、この点が理由の根幹をなしている(酒税は、国税収入全体から見れば相対的に割合を落としているが、重要性は失われていない)。また、酒税は消費者に負担が転嫁されるべき間接税の一種であること、酒類が販売秩序維持のために販売を規制されてもやむをえないことも述べられている。

 また、規制目的が正当であるとしても、それだけで規制を正当なものとしないことは当然である。

 さらに、私は、積極的目的に関して、単純に合憲性を推定することに疑問を抱いている。このような態度を採れば、様々な理由をつけることにより、全ての規制が合憲となってしまうであろう。政策的な理由によるとされる規制こそ、必要性および合理性が厳しく審査されるべきであろう。このような理由によるとされる規制が、官民癒着、不透明な行政などの悪弊を生み出す原因の一つでもある。

 3.居住・移転の自由(憲法第22条第1項)

 日本国憲法第22条第1項においては、居住・移転の自由も保障される。これは、経済的自由権としての意味を有するのであるが、それはむしろ歴史的な経緯によるものである(封建時代において、居住・移転に対する制約は職業選択への制約に結びついていた)。しかし、居住・移転の自由は、個人の人格発展の自由でもあり、その意味において その意味において精神的自由と捉えられるべきものであるとともに、人身の自由でもある。現在は、この意味のほうが重要である。従って、居住・移転の自由に対し、政策的理由による制限を簡単に許容するものではない。「公共の福祉」という制約原理は、少なくとも国内における居住・移転の自由に対する制約の原理とはなりえない。

 この自由は、住所(または居所。国内・国外を問わない)を決定または変更する自由であり、「何人」に対しても保障される。また、第22条第2項において外国への移住の自由が定められている。

 出入国管理及び難民認定法(旧出入国管理令)、旅券法の合憲性については、以前から争いのあるところである。

 ●帆足計事件最高裁判所判決(最大判昭和33年9月10日民集12巻13号1969頁)

 前参議院議員(当時)の帆足計氏が、モスクワで開催される国際経済会議への出席を招請されたため、外務大臣に旅券発給を申請した。しかし、外務大臣は、旅券法第13条第1項第5号によって拒否処分をした。そこで、帆足氏は損害賠償請求訴訟を提起したが、東京地判昭和28年7月15日下民集4巻7号1000頁、東京高判昭和29年9月15日下民集5巻9号1517頁は、ともに請求を棄却した。帆足氏は上告したが、最高裁判所大法廷は上告を棄却した。

 判決理由において、憲法第22条第2項にいう「外国に移住する自由」に外国へ一時的な旅行をする自由も含まれるとされており、その上で、外国へ一時的な旅行をする自由も「公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきである」とされた。そして、旅券法第13条第1項第5号はこの種の制限を規定したものであり、「漠然たる基準を示す無効のものであるということはできない」と述べられている。

 この判決には、田中裁判官および下飯坂裁判官による補足意見が付せられている。それによると、憲法第22条は旅行の自由を保障しているとは言えず、この自由は「一般的な自由または幸福追求の権利の一部分をなしている」。

 まず、この判決については、外国へ一時的な旅行をする自由は精神的自由の一つでもあることを指摘しうる。そのため、「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に対して旅券の発給を拒否できるとする規定は、不明確なものであり、憲法違反の疑いも濃いと思われる。

 次に、外国への一時的な旅行の自由について、検討を加えておく。

 第一説は、第22条第2項を根拠とする。前掲最大判昭和33年9月10日の多数意見の他、最三小判昭和60年1月22日民集39巻1号1頁の多数意見がこの立場を採っており、学説にも支持が多い(通説であろう)。この説は、第22条第1項を国内に関連する規定、第2項を外国に関連する規定と捉えた上で、永住のための出国が保障されるのに旅行のための出国を認めないというのは不合理であると述べる。

 第二説は、第22条第1項を根拠とする。最二小判昭和44年7月11日民集23巻8号1470頁の色川裁判官補足意見、前掲最三小判昭和60年1月22日の伊藤裁判官補足意見の他、有力な学説が採用する。この説は、第1項の「移転の自由」を、居住所の変更のみならず、旅行の自由を含めて解釈する。そして、旅行を第2項の「移住」に含めることには無理があるし、移住は日本国の支配を脱することを意味することになると考える。

 第三説は、第13条を根拠とする。前掲最大判昭和33年9月10日の田中裁判官および下飯坂裁判官の補足意見がこの立場を採る。この説は、旅行について「移転」とも「移住」とも異なると考える。

 まず、第三説については、文言解釈に最も忠実であるという点において評価しうるものの、妥当とは言い難い。この考え方によると、まず、国内旅行の自由の根拠をどの条文に求めるのかが問題となるであろう。仮に、根拠を第13条に求めるとすると、第22条第1項の「移転」は転居のみを意味することになるが、「居住」と「転居」を第22条第1項の問題とし、旅行を第13条の問題とすることは、バランスを欠いた解釈であると言わざるをえなくなる。また、国内旅行の自由の根拠を第22条第1項に求めるとすると、外国旅行の自由だけが第13条に根拠を求めるべきことになり、これもバランスを欠くこととなる。

 次に、第一説と第二説については、どちらが妥当であるか、にわかに判断し難い。一時的な外国旅行は、日本から外国に住所を移すことを意味しないから、「移住」に含めることには無理が伴う。しかし、それでは「移転」に含めうるのであろうか。これもかなり苦しいのではないか。他方、第一説が指摘するように、永住であれ旅行であれ、出国をしなければ話が始まらない。また、或る国民が外国に永住すると言っても、帰国の可能性が全く存在しないという訳ではない。そのように考えると、永住のための出国が自由であるのに旅行のための出国については一切自由が認められないというのも不合理である。ここでは、第一説を妥当としておきたい。

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憲法ノート:人身の自由―刑事訴訟入門の入門として―

2014年10月30日 00時31分12秒 | 法律学

 今回も、「日本国憲法ノート」〔第5版〕からの復活掲載です。第18回の「人身の自由―刑事訴訟入門の入門として―」で、やはり基本的な内容は2007(平成19)年10月14日のものであることをお断りしておきます。

★★★★★★

 憲法第22条により保障される居住・移転の自由も、実質的には人身の自由の一種として捉えるべきものである。しかし、この講義においては、経済的自由との関連において説明した。

 1.奴隷的拘束および苦役からの自由(憲法第18条)

 これは、アメリカ合衆国憲法修正第13条に由来するものである(ちなみに、制定当時のアメリカ合衆国憲法には、人権に関する条項は含まれていない)。大日本帝国憲法において、人身の自由を直接的に規定する条文はなく、奴隷制度が公的に存在しなかったとは言え、実際には、監獄部屋・タコ部屋、娼妓契約などが存在していた〔憲法第18条にいう「奴隷的拘束」(人格の尊厳が奪われるに至る身体的・精神的拘束のこと)の具体的事例である〕。国家がこのような行為を行うことは勿論のこと、私人間において行われた場合であっても、憲法第18条に直接違反するので無効となる(すなわち、本条の場合、間接効力説を採るにせよ直接効力説を採るにせよ、私人間効力が妥当する)。

 「その意に反する苦役」:懲役刑、労役場留置などの場合を除き、強制労働のように、苦痛を伴う肉体的労役などの拘束は禁じられる(精神的苦痛を与えるものも含めるべきであろう)。法律においては、人身保護法第2条や労働基本法第69条第1項などが、憲法第18条の趣旨を受けたものである。なお、消防法第29条や水防法第17条などに規定されている、一定地区の住民に対する応急措置の作業への義務づけは、緊急目的のために必要であるから、憲法第18条に違反しない。

 ちなみに、 多数説は、徴兵制度が憲法第9条の他、第18条によっても許されないと理解する。政府見解も、徴兵制度が違憲であるとする点において結論的には同じであるが、具体的に憲法のいかなる条文に違反するおそれがあるかを示していない。

 私も、かつては多数説と同様に理解していたが、この見解は妥当ではないため、説を改めることとする。徴兵制度が許されないのは第9条が存在するからであって、第18条によって許されない訳ではない。多数説は、何故に徴兵制度が「奴隷的拘束」に該当するのかをまともに説明していない。また、徴兵制度が「その意に反する苦役」に該当するとも言い切れない(もし、該当するのであるとすれば、志願兵制度の存在理由を説明できなくなる)。また、多くの国においては、徴兵制度が「奴隷的拘束」にも「その意に反する苦役」にも該当せず、むしろ、納税などと並ぶ国民の義務と理解されている。国民主権原理からも、徴兵制度の存在理由を説明しうるであろう。

 2.法定手続(適正手続)の保障(憲法第31条など)

 日本国憲法は、第31条ないし第40条において、刑事手続に関する基本的原則を規定する。このうち、第32条および第40条は、自由権というよりも、受益権としての性格を有する。このように、刑事手続に関して多くの条文が置かれているのは、刑事手続こそが個人の権利・利益に対する重大な侵害であるとともに、その侵害が不当にかつ広範になされやすかったという事情を踏まえたものである、と理解しうる。但し、第32条は、刑事手続(とくに刑事訴訟)のみならず、民事訴訟および行政事件訴訟にも関係する。とくに、行政事件訴訟に関して意味が大きい。

 憲法第32条によって保障される「裁判を受ける権利」は、民事事件および行政事件に関しては、何人も裁判所に自ら訴訟を提起することができ、その裏返しとして、裁判所は、適法な訴訟の提起に対して裁判を拒絶できない、という意味を有する(とくに行政事件に関して意義がある)。これに対し、刑事事件に関しては、裁判所以外の機関によって刑罰を科せられない(より精確に言うならば、裁判所以外の機関によって刑罰を科す旨の決定がなされない)という意味を有する。そのため、刑事事件に関しては、第37条第1項と重複する部分が存在する。

 憲法第31条は、刑事手続に関する最も重要な、出発点的な原則を定める。

 第一に、刑事手続法定の原則である。従って、恣意的な刑罰権行使は許されない。

 第二に、適正手続の原則である(アメリカ法で言うdue process of law)。刑事手続は、単に法律で定められればよいというものではなく、内容が適正でなければならない。

 第三に、憲法第31条には明文で示されていないが、刑法などの実体法が適正であること(実体的適正)の原則が読み取られるべきである。実体法が適正でなければ、手続法が適正であっても意味がないからである(日本国憲法において規定されなかったのは、これが当然の前提であるからである、と考えられる)。実体的適正の内容としては、罪刑法定主義があげられる。いかなる行為が犯罪であり、それに対してどの程度の刑罰が科されるかということが、刑法などの実体法において規定されていなければならない(Nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege.)。

 罪刑法定主義についてはラテン語を示しているが、実は、1801年に刊行された、ドイツの刑法学者アンゼルム・フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach, 1775-1833)の教科書において初めて登場したものである。なお、彼は、有名な哲学者であるルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804-1872)の父親であり、『カスパー・ハウザー』や『バイエルン犯科帳』の著者としても知られている。

 ここで、罪刑法定主義の内容をあげておく。

 (1)予め発布された法律がなければ刑罰はない(Nulla poena sine lege praevia.)。

 (2)成文の法律がなければ刑罰はない(Nulla poena sine lege scripta.)

 (3)法律の明文の規定がなければ刑罰はない(Nulla poena sine lege stricta.)。

 (1)からの派生原則として刑罰不遡及の原則(第39条)、(2)からの派生原則として慣習刑法排除の原則が、(3)からの派生原則として刑罰法規の類推解釈の禁止が導かれる。また、絶対的不定期刑の禁止も説かれている。さらに、実体的適正の原則は、犯罪と刑罰とが均衡を保っていること(比例原則)などをも要求する。

 また、罪刑法定主義の派生原則としては、刑罰法規明確の原則もあげなければならない。しかし、刑罰法規には不明確な文言を使用するものも多く、度々問題となっている。

 ちなみに、憲法第73条第6号は、法律の委任がない場合の政令による刑罰の禁止を規定する。

 ●福岡県青少年保護条例事件判決(最大判昭和60年10月23日刑集39巻6号413頁)

 この条例は、満18歳未満の者(小学校就学時から)を青少年と定義し(第3条第1項)、その上で「何人も、青少年に対し、淫行又はわいせつの行為をしてはならない」と定めた(第10条第1項)。被告人は、少女が当時16歳であることを知りながらホテルなどにおいて性行為を繰り返したため、この条例 の第10条第1項に違反するとして有罪判決を受けた。これに対し、被告人は、「淫行」の意味が不明確であるとして上告した。最高裁判所は、被告人の上告を棄却した。

 次に、適正手続の内容について述べる。この原則は、公訴権濫用の禁止、上訴権の保障、告知・聴聞の法理などの原則からなる。とくに重要のものが告知・聴聞の法理であり、公権力が国民に不利益を課す時には、予めその内容を告知し、当事者に弁解ないし防御の機会を与えなければならない、という内容である。

 ●第三者所有物没収事件(最大判昭和37年11月28日刑集16巻11号1593頁)

 適正手続の原則について問題となったものである。当時の関税法第118条第1項は、密輸犯罪行為の用に供した船舶や犯罪にかかる貨物を没収する旨を定めていた。この規定に基づき、犯人以外の第三者が所有する物をその第三者に告知・弁解の機会を与えることなく没収することが憲法第31条に違反するとして争われた(但し、被告人による主張であり、第三者が主張したのではない)。

 判決は、「第三者の所有物を没収する場合において、その没収に関して当該所有者に対し、何ら告知、弁解、防禦の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であって、憲法の容認しないところである」、関税法第118条第1項は没収に際して「第三者に対し、告知、弁解、防禦の機会を与えるべきことを定めておらず」、この規定に基づいて第三者の所有物を没収することは憲法第31条および第29条に違反する、と述べた。

 これまでは、刑事手続に関して述べてきた。それでは、行政手続についても適正手続の原則が妥当するのであろうか。行政手続の中には、個人の権利・利益を制約し、その程度が刑事手続と大差ないものもある。また、刑事手続と目的などを異にするとは言え、外形的には類似するものもある。その意味において、憲法第31条は行政手続に関しても適用があると解されるようになっている(但し、第13条説などもある)。行政手続においても、告知・聴聞の法理は重要である。

 ●成田新法事件最高裁判所判決(最大判平成4年7月1日民集46巻5号437頁)

 成田新法とは、新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(現在は「成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法」)のことである。運輸大臣は、この法律の第3条第1項に基づいて、規制区域内にある原告(控訴人・上告人)所有の工作物について、毎年「暴力主義的破壊活動者の集合の用」または「暴力主義的破壊活動等に使用され、又は使用されるおそれがあると認められる爆発物、火炎びん等の物の製造又は保管の場所の用」に供することを禁止する旨の処分を繰り返していた。これに対し、原告はこの処分の取消を求めて出訴した。

 最高裁判所は、憲法第31条に定められる法定手続の保障(直接的には刑事手続に関する規定)が行政手続にも適用される可能性を認めつつも、行政処分の内容などによって決まるものであるとした上で、「暴力主義的破壊活動者」の定義(同第2条第2項)などの規定は「過度に広範な規制を行うものとはいえず、その規定する要件も不明確なものであるはいえない」と判断し、原告の請求を棄却した。

 なお、憲法第31条と行政手続との関連に関する判例としては、他に、個人タクシー営業免許事件(最一小判昭和46年10月28日民集25巻7号1037頁)、群馬中央バス事件(最一小判昭和50年5月29日民集29巻5号662頁)がある。

 最後に、刑事補償請求権について述べておく。

 憲法第40条は、刑事補償請求権を規定する。この場合は、例えば逮捕・拘留などが適法であったとしても、結果として無罪判決が出されたならば、結果として、本来ならば刑事責任を追及されるべきでない者が犯罪の嫌疑をかけられたことに対する被害を経済的に補填することを請求する、という権利である。従って、原因たる行為が違法であることを必要としない点において国家賠償(第17条)とは異なり、原因行為がなされた当時において適法であっても、それが結果的に違法であることから損失補償(第29条第3項)とも異なる。なお、第40条を受けて刑事補償法が定められているが、補償の額が低額であること、および、無罪判決を得られた場合には補償請求権が発生するが、例えば捜査などの段階において証拠が得られなかったなどの理由によって裁判に至らなかった場合には補償がなされないなど、問題も多い。

 3.令状主義(憲法第33条・第35条)

 或る犯罪の被疑者を逮捕するには、彼が現行犯である場合を除き、司法官憲(事件発生地を管轄する地方裁判所の裁判官)によって発せられる、逮捕の理由とされる犯罪事実の内容が明示される令状を必要とする。また、被疑者などの住居などに立ち入って取り調べを行ったり証拠物件の押収をなしたりするにも、司法官憲によって発せられる個別の令状(捜索令状、押収令状)が必要とされる。

 ここで「彼」という言葉を使っているが、「彼女」を含む(古語の用法)。

 逮捕令状に関しては、現行犯の場合が例外として定められているが、その他、準現行犯(刑事訴訟法第212条第2項)、緊急逮捕(同第210条)、別件逮捕(令状に記載される事実以外の事実の取り調べを目的とする逮捕)については問題がある。

 まず、現行犯については、逮捕に着手した時期と現実の逮捕の時期という問題がある。判例は、逮捕に着手した後に犯人の追跡が継続していれば、数時間経過した後においても適法な現行犯逮捕であるとしている(最一小判昭和50年4月3日刑集29巻4号132頁)。

 田宮裕『刑事訴訟法』〔新版〕(1996年、有斐閣)77頁、白鳥祐司 『刑事訴訟法』〔第2版〕(2001年、日本評論社)147頁も参照。

 準現行犯については、通説・判例は合憲としている。

 緊急逮捕についても、判例・通説は合憲とするが(最大判昭和30年12月14日刑集9巻13号2760頁)、違憲説も有力である。

 田宮・前掲書78頁によれば、緊急逮捕も令状逮捕と考えてよいとする説(令状逮捕説)、現行犯に準じて合理的と称しうるとする説(合理的逮捕説)、治安維持上の緊急行為であるとする説(必要説)がある。刑事訴訟法第210条は、第2文において裁判官が発する令状を要求していること、第3文において「逮捕状が発せられない時は、直ちに被疑者を釈放しなければならない」と規定することで、かろうじて違憲性を免れている、と言えようか。

 また、別件逮捕は、通常、本件について逮捕の要件がまだ備わらないうちに、その取り調べのために別件(軽微な事件など)で逮捕することである(従って、余罪の取り調べとは意味が違う)。形式上は適法な逮捕であるが、実質的には脱法行為であるとも言いうる。

 これについて、警察実務などは合憲(合法)説(別件基準説)を採る。別件逮捕が違法となるのは、その別件について逮捕の要件を欠く場合に限る、とする説である。しかし、この説に対しては、別件逮捕に見られる逮捕権の濫用という脱法的本質を無視する考え方であるという批判が妥当する(田宮・前掲書97頁)。

 一方、狭山事件決定(最二小決昭和52年8月9日刑集31巻5号821頁)は、別件が名目上利用されるだけで実質的には本件の逮捕という場合を違法としている〔同旨として、帝銀事件(最大判昭和30年4月6日刑集9巻4号663頁)がある〕。学説の多くも、別件による逮捕について本件を基準にしてその適否を判断する本件基準説を採る。この説の場合、別件については名目上利用されるだけであるならば、逮捕を自白獲得の手段とみなし、別件による拘束の後に本件の拘束が見込まれるという点において法定の拘束期間を逸脱し、令状主義に反する、ということになる。本件基準説は、別件逮捕が憲法違反であると明言している訳ではないが、その趣旨を徹底するならば、別件逮捕は憲法違反であろう。

 捜索令状・押収令状に関しては、まず、例外として規定される「第三十三条の場合」が現行犯逮捕の場合のみを指すのか、令状による逮捕の場合も指すのかが問題となる。刑事訴訟法第220条は、同第199条を受け、逮捕令状による逮捕の際には、捜索令状・押収令状がなくとも捜索および押収をなしうると規定している。次に、「正当な理由」のある場所や物件についての明示が問題となる。都教組勤評反対闘争事件(最大決昭和33年7月29日刑集12巻12号2776頁)は、押収令状になされた「その他本件に関係ありと思料せられる一切の文書及び物件」という記載について、令状に記載された被疑事件に関係があり、かつ例示の物件に準じられるような文書・物件を含むことは明らかであるとした。

 また、学説の多数は、憲法第35条に違反して押収された押収物の証拠能力を否定する。

 4.拷問・残虐な刑罰の禁止(憲法第36条)

 拷問は、自白を得る目的でなされることが多く、これによって数々の冤罪事件を引き起こしたこともあり、禁止されている。また、憲法第38条第2項により、拷問などによって得られた自白には、証拠能力が認められない。

 残虐な刑罰の禁止について問題となるのは、死刑である。これについて、最大判昭和23年3月12日刑集2巻3号191頁は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法」によらなければ憲法第36条に違反しない、とも読める趣旨を説いている。このことから、刑法第11条第1項に規定される「絞首」は残虐な刑罰にあたらない、ということになるのであろうか。なお、日本は、死刑廃止条約に加入していない。

 5.不当に監禁されない権利(憲法第34条)

 憲法においては、抑留および拘禁の際、理由を直ちに告げられること、および、直ちに弁護人に依頼する権利を与えることが規定されている。しかし、弁護人に依頼する権利については、刑事訴訟法第39条第1項において規定されているものの、同第2項・第3項などにより制約を受けており、必ずしも十分に保障されていない状況にある。また、拘禁に際しては、「要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」とされ、刑事訴訟法第82条以下にも「勾留理由開示」に関する規定がある。

 この場合の抑留は、比較的短い期間における身体の自由の拘束をいう。例として、逮捕に引き続いての留置などである。また、この場合の拘禁は、比較的長期にわたる身体の自由の拘束をいう。勾留(刑事訴訟法第60条以下)、鑑定留置(同第167条など)が該当する。

 6.刑事被告人の権利(憲法第37条ないし第39条)

 (1)公正な裁判を受ける権利 「公正な裁判所」は、その組織と構成において不公正な裁判のおそれのない裁判所である、とされる(最大判昭和23年5月5日刑集2巻5号447頁)。刑事訴訟法第20条以下には、裁判所職員(裁判官)の除斥・忌避に関する規定が置かれている。

 裁判の遅延は、実質的に裁判の拒否につながる。従って、不当に遅延しないように要請されている(尤も、日本の裁判は、刑事訴訟などの別を問わず、長い時間がかかっており、問題も多い)。最大判昭和47年12月20日刑集26巻10号631頁は、15年以上にわたって審理が中断していた高田事件(愛知県瑞穂警察署高田巡査派出所が襲撃破壊された事件)について、憲法第37条第1項を直接的に援用して、免訴判決を下し、被告人を救済した。

 このような判断は、迅速な裁判を求める被告人の権利を正面から認めることを意味する。最大判昭和23年12月22日刑集2巻14号1853頁は、迅速な裁判に関する権利性を認めていなかった。

 「公開裁判」は、憲法第82条からも要請される。略式手続(簡易裁判所において、公判手続を経ないで財産刑を科する制度)は、事後に正式の裁判を請求する権利を奪っていなければ合憲である。

 証人審問権と証人喚問請求権は、刑事訴訟における当事者主義の原則を明示するものであるとともに、被告人自身に不利な証言を行う証人への反対審問を行う権利などを保障するものである。

 弁護士選任権:刑事訴訟において、一種の原告たる検察官と被告人とが対等の立場で相互に攻撃防禦しうるように、被告人に認められる権利である。また、その実質を担保するために、国選弁護人の制度が設けられている。

 (2)不利益供述強要の禁止

 刑事被告人自身の刑事責任に関する不利益な事実の供述は、自発的になされるならば別として、多くの場合、強要されることが多い。そのため、憲法第38条第1項は、黙秘権を保障している。この黙秘権は、証人や被疑者についても認められる(証人について刑事訴訟法第146条、被疑者について同第198条第2項を参照)。なお、黙秘権は、行政手続において問題となることが多い。

 (3)自白

 憲法第38条第1項は、任意性のない自白このような自白の証拠能力を否定する。これにより、不利益供述強要の禁止および拷問の禁止の趣旨が補強されることになる。

 また、自白のみが刑事被告人にとって不利な唯一の証拠である場合(任意性があるものであっても同じ)、刑事被告人は有罪とされない(従って、刑罰も科されない)。自白を補強する証拠が必要とされるのである。

 (4)事後法の禁止、一事不再理の原則、二重処罰の禁止

 事後法の禁止は、刑罰不遡及の原則である。また、実行の際には適法であった行為は勿論、事後的な刑罰の加重や責任の強化をも禁止するものと解されている(逆に、事後的に刑罰が軽くなる場合には、この原則は妥当しないであろう)。

 一事不再理の原則(憲法第39条)とは、既に無罪判決が確定している行為について、これを覆して処罰することは許されない、とすることをいう(逆に、有罪とされた行為について、再審によって無罪判決を得ることは禁止されていない)。なお、少年法に基づき、家庭裁判所が「審判を開始しない旨の決定」を下しても、これによって「既に無罪とされた行為」とはならない。

 二重処罰とは、前の確定判決をそのままにして、さらに新たな別の判断を加えることである。これも禁止されている。この場合、例えば法人税を脱税した者に対して、刑罰と追徴税とを併科することは違憲ではない、とされる(最大判昭和33年4月30日民集12巻6号938頁)。

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講義「税法」(月曜日3限)の参考文献 追加

2014年10月29日 00時41分55秒 | 法律学

 残念ながら大東文化大学図書館にないのですが、ぎょうせいから刊行されている雑誌「税理」の2014年11月号(57巻14号)の特集「所得区分をめぐるトラブル事例と実務判断」は、応用的な内容であるものの、所得区分を理解するのに役立ちます。そこで、これを講義の参考文献として追加します。

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正解者がいなかった小問

2014年10月28日 22時56分36秒 | 受験・学校

 私が木曜日に担当している「基本法学概論」の受講者に、このブログを見ている学生がいるかどうかわかりませんが、記しておきます。「まさか」と思ったのですが、正解者が一人もいなかった小問がありました。

 10月16日、つまり先々週の木曜日に行った小テストで、「事理弁識」能力が正解となる小問を出しました。ところが、全員が不正解でした。

 この言葉は、少なくとも法学部法律学科の1年生であれば、「現代社会と法」で頭に叩き込まれているものであるはずです。事理弁識能力に衰えがあるから、制限行為能力者とされうる訳です。いかに普段から民法の条文を読んでいるかいないかがわかるというところでしょう。

 突飛な問題を出したりしたのであれば、正解者ゼロであっても不思議ではありません。しかし、1年生、2年生と、小テストで何回も登場している言葉です。

 参考までに、民法の条文を引用しておきます。

(後見開始の審判)

第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。

(保佐開始の審判)

第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

(補助開始の審判)

第十五条 精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、保佐人、保佐監督人又は検察官の請求により、補助開始の審判をすることができる。ただし、第七条又は第十一条本文に規定する原因がある者については、この限りでない。

2 本人以外の者の請求により補助開始の審判をするには、本人の同意がなければならない。

3 補助開始の審判は、第十七条第一項の審判又は第八百七十六条の九第一項の審判とともにしなければならない。

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肥薩おれんじ鉄道に乗って

2014年10月28日 01時05分31秒 | 写真

 (今回は、2010年7月14日から21日まで「待合室」第372回として掲載した記事です。なお、一部を修正しています。)

 九州の大動脈というべき鹿児島本線は、門司港から小倉、博多、鳥栖、熊本、八代、水俣、川内を経由して鹿児島までの路線でした。しかし、九州新幹線の開業とともに、門司港~八代、川内~鹿児島に分断されました。八代~川内は第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に移管されたのです。この区間は鹿児島本線でも利用客の少ない部分でしたが、移管に際して地元の自治体が熊本県側と鹿児島県側とで分かれており、鹿児島県側では阿久根市(九州新幹線の駅がない)以外の沿線市町村が消極的な態度をとっていたという話を聞いたことがあります(但し、確かではありません)。旧鹿児島本線として建設されたのに支線に転落し、極端に本数の少ない区間もある肥薩線がJR九州に残り、幹線の一部分がJR九州から分離されるというのも、実におかしな話です。それとともに、今も鹿児島本線という名称が残っているのも不思議なことで、熊本本線と川内線などというように変更すべきではないでしょうか。

 それはともあれ、2008年9月1日、鹿児島本線の一部であった肥薩おれんじ鉄道を川内から利用してみることとしました。

 川内駅で八代までの乗車券を手に入れました。2250円です。この川内駅では、ホームの番号の付け方がわかりにくいものとなっています。その駅の隅に、肥薩おれんじ鉄道のディーゼルカー、HSOR-100形が停車していました。奥にコンテナが見えるように、鹿児島本線は貨物の動脈でもあります。そのため、肥薩おれんじ鉄道には貨物列車が走っており(JR貨物も出資しています)、その関係もあって交流電化がなされています。しかし、経費の節減ということで肥薩おれんじ鉄道の車両はディーゼルカーです。交流電車の製造および維持のコストが高いという理由もあるようです。これに対し、JR貨物が運行する貨物列車は、電気機関車が牽引する列車です。この日もED76が牽引するコンテナ貨物列車を見ました。

 このディーゼルカーは途中の出水まで走ります。車体には表示がないのですがワンマン運転です。片手操作のワンハンドルマスコンを備えています。実際に乗ってみるとやたらと変速します。また、線形があまりよくないのに意外に早く走るためか、エンジン音もかなり大きなものになります。 薩摩高城駅からは東シナ海に沿って走りますが、ディーゼルカーの中では寝たり起きたりしていたこともあって、車窓を撮影することはできなかったのが残念です。折口駅から海が見えなくなり、出水駅に到着します。

 かつては787系の特急「つばめ」、さらに寝台特急の「はやぶさ」や「なは」も走った区間を、一両のディーゼルカーは各駅に停車しながら走ります。私が乗った時には乗客が少なく、これでは第三セクターに分離されても仕方がないと思いました。川内駅を12時23分に発車し、出水駅には13時26分に到着しましたので、1時間3分もかかったことになります。九州新幹線なら12分です (そもそも、比較するのがおかしなことかもしれません)が、在来線時代の特急はどの程度の時間をかけていたのでしょうか。

 出水と言えば鶴の飛来地です。そのため、駅には何羽かの鶴がいます。勿論、生きている鶴ではありません。

 出水市を最初に通ったのは1999年8月のことですが、この時、私は川崎ナンバーの日産パルサーJ1Jを運転していました。そのため、出水駅のことは知りません。おそらく、何年も前からこのような鶴のモニュメント(?)が置かれていたのでしょう。

 鶴とディーゼルカーの組み合わせです。ここは787系か寝台客車との組み合わせを見ておきたかったところですが、もうそれはできません。次にここを通ることがあれば、鶴の飛来の季節にこの駅を降りてみたいと思っています 。ただ、肥薩おれんじ鉄道の経営状況がよくないとのことですから、いつまで存続するのか、不安も残ります。

 出水駅で八代行に乗り換えます。こちらはラッピング車両となっています。奥のほうに九州新幹線の高架橋が見えますが、このラッピング車両は鹿児島本線であった区間の各駅に停車します。

 13時26分、八代行が発車しました。次の米ノ津あたりから有明海がよく見えてきます。天草諸島も見えました。米ノ津を発車してしばらくすると、鹿児島県から熊本県に入ります。そして、袋、水俣、新水俣と停車していきます。肥後田浦駅あたりからは不知火海が見えます。ただ、残念ながら、東シナ海、有明海、不知火海の境目などはよくわかりません。

 八代に到着したのは14時57分でした。出水から八代まで1時間27分もかかったことになります。従って、川内から八代までは、接続のための待ち時間を除外して2時間30分もかかったことになります。九州新幹線なら、川内から新八代まで26分か32分で行けます。速さでは格段の違いがありますが、九州新幹線はトンネルばかりで海を見られる時間はほんの少ししかありません。車窓を楽しむなら、断然、肥薩おれんじ鉄道です。

 鹿児島本線の普通電車に乗り換えたいのですが、発車時間まで14分あります。どちらにしても八代駅を出なければならないので、駅の周りを見ることとしました。ちなみに、八代駅は肥薩線の起点でもあります。

 肥薩おれんじ鉄道の八代駅です。JR八代駅の南側にあります。線路はつながっていますし、ホームもつながっているのですが、駅舎は別となっています。

 この辺りは、中心街から離れているようです。それにしても寂れた駅のように感じられます。駅のすぐそばには日本製紙の工場があり、降りた瞬間にはどこかの工業地帯に入り込んだかのようにも感じられます。この駅を利用したのは初めてのことでしたが、何度か写真や動画で見たことがあります。実際に目で見ると、写真や動画とは違うような印象を受けます。

 九州には前衛歌人の種田山頭火の足跡が多く残っています。彼は1882年に山口県で生まれ、1940年に没しました。ここで「前衛」と記しましたが、山頭火の俳句は自由律であり、私にはむしろ俳句の原型を復活させたかのようにも思われます。文庫で句集を買った程度で、あまり詳しくはないのですが、心にズシリと来るような断片の重みを感じます。

 考えてみると、日本語の詩が誕生した時、まだ一定のリズムなり作法なりは出来ていなかったはずです。万葉集の最初に登場する雄略天皇の長歌は、五・七調ではなく、典型的な長歌や短歌に慣れた者にとっては完全にリズムが崩れているかのように感じられるでしょう。しかし、歴史が進むに従って、五・七調という日本語特有のリズムが形成されたのでしょう。

 

 

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宇美八幡宮など(2004年8月29日撮影)

2014年10月27日 00時01分11秒 | 旅行記

 (今回は、2004年10月8日から15日まで「待合室」第114回として掲載した記事です。なお、一部を修正しています。)

 今回も2004年夏の福岡で、デジタルカメラでも一眼レフでもなく、天神で購入した使い捨てカメラによるものです。

 8月29日、台風16号が九州に接近していました。しかし、福岡市は晴れていましたので、午前中から出歩きました。最初に川端町まで歩いたのですが、その時のコースことについては、既に「博多・川端町」で記しました。川端町から、そのまま博多駅まで歩きました。地下鉄だと2駅ですが、たいした距離ではありません。

(博多駅博多口)

(博多駅博多口付記)

 博多から、まだ乗ったことのない香椎線で西戸崎と宇美へ行ってみようと思い、鹿児島本線に乗りました。東区に入り、香椎で香椎線の気動車に乗り換えます。元は博多湾鉄道汽船という私鉄の路線で(今の西鉄宮地岳線と同じ)、一時期は西鉄の路線だったせいか、和白から先は駅間距離が短い箇所があります。福岡という大都市で単線非電化の路線があるというのも驚きますが、だんだんと天気が悪くなり、風が強くなる中、海ノ中道を通過して、並行する道路を走る自動車に抜かされたりしながら、西戸崎駅に着きました。ここまで石炭が運ばれ、博多湾に積み出されたのでしょうが、今は静かな終着駅です。

 西戸崎にはフェリー乗り場がありますが、この日は強風などのため、運休していました。午前中に回った博多、長浜、天神が見えます。周囲にはマンションなどもありますが、大きな商店などはありません。

 (香椎線の終点、西戸崎駅。)

(西戸崎駅付近にあるフェリー乗り場のそばから、博多湾などを臨む。)

 ここから、今度は香椎線の下り列車で宇美へ行きます。距離としてはそれほど長くないはずですが、何しろ単線非電化ですから時間がかかります。福岡市から糟屋郡に入り、しばらくすると終点の宇美駅に到着します。

 宇美駅です。ここから少し離れた所に、勝田線の宇美駅がありましたが、国鉄民営化の波を受けて廃止されています。このあたりには炭鉱が多かったのですが、高度経済成長期に訪れたエネルギー革命により、次々に閉山しました。北海道、そして福岡県の筑豊地方には、炭鉱の閉山とともに衰退した市町村が多いのですが、宇美町などの場合は福岡市に近かったため、福岡市のベッドタウンとなることにより、大幅な人口減を免れました。現在、宇美町の人口は30000人を超えています。

 2004年8月末の時点で、宇美町は、志免(しめ)町および須恵(すえ)町と任意の合併協議会を構成していました(事務局は志免町)。何年か前に自家用車で通ったことがあるのですが、その時は、勝田線の廃線跡に沿うような形で志免を通り、博多駅に抜けただけでした。

 宇美駅からどのくらい歩いたでしょうか。住宅街の中を歩いていくと、宇美八幡宮があります。左の写真をごらんいただければおわかりだと思いますが、宇美八幡宮は第15代応神天皇の誕生の地であると言われています。

 宇美町役場のホームページによると、このあたりは、3世紀の中ごろ、中国の歴史書である魏志に「不彌国」として登場します。そして、古事記、日本書紀では、神功皇后が応神天皇をお生み(産み)になった土地であるとされています。これが宇美という地名の由来です。応神天皇の陵墓と伝えられているのは大阪府羽曳野市にある恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)ですが、応神天皇が当時の筑紫で誕生したということは、 皇室九州起源説を裏付けるものなのでしょうか。

(「御由緒」などの案内板)

 宇美八幡宮のホームページによると、宇美八幡宮の祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫、住吉大神、伊弉諾尊です。歴史はかなり古いようで、宇美八幡宮の「伝子孫書」というものによると、敏達天皇三年といいますから西暦で574年に創建されたとのことです。平安時代には石清水八幡宮と関係があったようです。

 

 ちなみに、大分県にある宇佐八幡宮は、全国八幡宮の総本宮ですが、こちらも応神天皇と深い関係があります。宇佐八幡宮のホームページによると、応神天皇は、欽明天皇32年(西暦571年)に初めて宇佐の地を訪れたといいます。宇佐神宮は、神亀2年(西暦725年)に、聖武天皇の勅願によって造立されたとのことです。応神天皇(誉田別尊。「ほんだわけのみこと」と読む)は、宇佐神宮の一之御殿の祭神(八幡大神)として祀られており、神功皇后(息長帯姫命。「おきたらしひめのみこと」と読む)は三之御殿の祭神として祀られています。

 それでは、本殿に向かいましょう。ここは安産を祈願する人が多い所ですが、私は、集中講義が無事に終わるようにと祈願してきました。次の日に福岡県が台風16号の暴風域に入ったため、講義ができず、日程が1日だけずれたのですが、体調を崩すことなく、勤め上げました。

そして、本殿から右のほうに進むと「湯蓋の森」があります。樟の大木で、大正11年に、内務大臣によって天然記念物に指定されています。

 宇美八幡宮まで、私は香椎線の西戸崎から来ましたが、博多駅からであれば、篠栗線に乗り、長者原で香椎線に乗り換えればよいでしょう。私は、この後、香椎線と篠栗線を使って博多駅へ出て地下鉄に乗り換え、天神駅で降りて大名を散策しました。

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博多・川端町(2004年8月29日撮影)

2014年10月26日 00時09分15秒 | 旅行記

 (今回は、2004年9月17日から24日まで「待合室」第111回として掲載した記事です。なお、一部を修正しています。)

 私が大東文化大学法学部の助教授となった2004年、ちょうどアテネでオリンピックが開かれていた8月23日(月曜日)の夕方、福岡空港に着きました。翌日の朝から西南学院大学法学部での集中講義を行うためです。

 2003年の8月7日から10日まで、私は初めて、熊本県立大学総合管理学部で集中講義を行いましたが、その時は2単位分の計15コマで4日間でした。西南学院大学での集中講義は4単位分ですので、単純に計算すれば倍の日数となります。半年ぶりの福岡でしたが、大分大学教育福祉科学部在籍中にも何度も行っているとはいえ、仕事のため、しかも一週間以上も滞在するのは、全く初めてのことでした。福岡という場所、とくに天神周辺が好きなのですが、果たして体調を維持できるのかという不安もありました。しかし、実際に行ってみると何とかなるものです。この時には、2012年まで西南学院大学での集中講義を担当し続けることになるとは予想もしていません。最も履修登録者が多い年には240人以上ともなり、こちらも気合いが入りました。さらに、2007年、2009年および2011年には福岡大学法学部でも2単位分の集中講義を担当していますから、1年に2回も集中講義を担当したこととなります。

 一方、8月下旬から9月の上旬にかけてという時期は、台風に注意しなければなりません。2004年の集中講義期間中には、週末に台風16号が接近して集中講義の日程が一日ずれる可能性も出てきました。果たして、8月30日(月曜日)は福岡市も台風の暴風域に入ったために休講となり、31日(火曜日)までの予定であったのが9月1日(水曜日)までとなりました。

 少しばかり時間を戻して、8月28日(土曜日)と29日(日曜日)には講義がなかったので、せっかくのことだから台風が近づかないうちに、と思い、福岡市の何箇所かを歩き回ることにしました。

 大分大学に就職してから、福岡市には何度も行っているのですが、博多区の古くからの中心街である川端などを歩いたことがなかったし、8月は原稿などを抱えていて外出できない日ばかりでしたので、宿泊していた渡辺通から川端まで歩いてみることとしました。

 私は、知らない街などを歩き回るのが好きでして、大阪の難波から心斎橋筋を通って淀屋橋まで行き、船場へ出て千日前を通って日本橋、そして上本町まで、地下鉄もバスもタクシーも使わず、文字通り歩いたこともあります。今回も、天神から長浜の九州朝日放送本社まで北上し、須崎公園の北側を通って那の津大橋を渡り、神屋町の北側から大博通りへ出て呉服町駅の手前の蔵本交差点を右折し、昭和通りに入って奈良屋町を通り、博多リバレインがある下川端町へ出て博多座の横を通りました。ちょうど、中洲川端駅のそばに出た訳です。地下鉄であればたったの一駅ですが、こうして歩き回ると、街の様子などが多少ともよくわかるようになります。

 すぐそばの横断歩道を渡ると上川端通りに出ますが、その入口にありました。明治時代に流行した「オッペケペー節」を唄った人物で、この唄が演歌(そして艶歌)の原型だとのことです。立ち止まって歌詞を読んでみますと、当時から自由、とくに政治的な意味での自由が渇望されていたことがわかります。

 〔但し、最近、明治時代の演歌と現在の演歌は別物であるという見解が強くなっています。この点については、輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)をお読みください。〕

 川上音二郎の銅像です。彼は、1864(文久4)年、現在の博多区対馬小路にあった藍問屋に生まれ、様々な職を経て(福沢諭吉の書生にもなったとか)当時の自由党に入って政治活動をしたそうですが、中江兆民のアドバイスを受けて芝居活動を始めたといいます。オッペケペー節も自由民権運動と深い関係があります。その後、興行師として「オセロ」や「ハムレット」の上演などに携わったのですが、1911(明治44)年、大阪で亡くなりました。

 上川端通りです。日曜日の午前中だったためか、人通りは少ないようです。

 記すのを忘れるところでしたが、今回は、天神で買った使い捨てカメラを使っています。デジタルカメラを持って行くつもりでしたが、かばんの中に入りきれなかったのであきらめました。久しぶりだったせいか、使いにくく、自分の指まで写る始末で、今回、写真のサイズなどがバラバラなのは、スキャナで読み込んだ写真にトリミングなどの加工を施したためです。

上川端通りの途中にある交差点です。右側に歩くと中州方面に出ます。脇のほうの通りにも色々な店がありましたが、飲み屋ばかりですから、日曜日の午前中はほとんどが閉まっています。

 上川端通りのキャナルシティ博多側(博多駅側)にある櫛田神社です。ここは、7月に行われる有名なお祭り、博多祇園山笠で、各流(西、千代、恵比須、土居、大黒、東、中洲)の山笠のゴール地点となっています。なお、上川端流もあるそうです。

 博多のお祭りといえば、5月のどんたくが最も有名で、ゴールデンウィークの観光客数では長らく日本一を誇っています。一度、天神に行った時にちょうど博多どんたくの最中で、天神が人であふれかえったことを思い出しました 。天神は中央区にありますので、博多でなく福岡ですが、博多祗園山笠の場合は集団山見せの際に福岡地区に入るようです。

 福岡市博多区は、現在でこそ福岡市の一行政区になっていますが、元々は福岡と違う街で、福岡が武士の街であるとすれば、博多は商人の街でした。福岡と博多とでは言葉も違うそうです。市の名前は福岡ですが、鹿児島本線の駅名が博多であるのは、歴史的経緯によるものです〔なお、天神にある西鉄天神大牟田線の駅名は西鉄福岡で、最近になって西鉄福岡(天神)となりました〕。

 ここから少し歩くとキャナルシティ博多で、これは玉屋という百貨店の跡にできた複合商業施設です。そこから西のほうへ歩くと中州、東のほうへ歩くと地下鉄の祇園駅(旧博多駅の近辺)、そして博多駅です。私は、その博多駅まで歩いて行きました。

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おしらせです(2014年10月25日)

2014年10月25日 07時04分49秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、おしらせです。

 法律文化社より、日本租税理論学会編『格差是正と税制』(租税理論研究叢書24)が刊行されました。この中に、私の「格差是正と租税法制度―日本およびドイツにおける議論を踏まえての序説的検討-」が掲載されています。御一読をいただければ幸いです。

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阿蘇山・中岳(2000年4月16日撮影)

2014年10月25日 06時58分31秒 | 旅行記

 (今回は、2003年4月5日から11日まで「待合室」第44回として掲載した記事です。なお、一部を修正しています。)

 2000年4月16日、初めて阿蘇山に登りました。結局、この時だけのこととなってしまいましたが。

 その日、私は久しぶりに阿蘇のほうへいってみようと思い、自宅を9時過ぎに出ました。国道10号線を南に向けて車を走らせ、犬飼久原(いぬかいくばる)から国道57号線に入ります。しばらくすると竹田です。急勾配の坂を登り、さらに走ると、熊本県波野村に入ります。それまでにも何度か熊本県を訪れていましたが、どうやら、1999年12月11日、阿蘇郡小国町に足を運んで以来のことのようです(日記を改めて読むと、1999年には、どういう訳か何度も熊本県に行っています)。大分市では摂氏18度でしたが、波野村では摂氏8度しかなく、かなり冷えたのを、今でも思い出します。2003年3月23日に熊本県立大学の下見を目的に熊本市へ行った際にも、波野村などでは雪が残っていました。

 一ノ宮町(現在は阿蘇市の一部)に入り、日光にあるいろは坂の小型版ともいえる滝室坂を下り、宮地駅付近から仙酔峡道路に入ります。既に阿蘇山の威容が目に飛び込んできます。

 さらに車を走らせます。大分市内では晴れていたのですが、阿蘇では曇り空でした。車で中岳の頂上に行くことはできないので、ロープウェイの駅の前にある駐車場に当時の愛車ウイングロード(上の写真に少しだけ登場します)を停め、四線交走式のロープウェイに乗ります。駅の辺りが仙酔峡でした。

 修学旅行なのか、中学生の列が見えました。彼らは、ロープウェイに乗らず、自分の足で登ります。私もそうしたかったのですが、時間がかかりそうでしたし、かなりの距離になりそうなので、やめました。

 ロープウェイを降りてから、急な登山道を登ります。阿蘇山は活火山ですから、時折、火山灰や溶岩が飛んできます。そのため、所々に避難所があります。久々に山を登ったので息苦しくなりました。しかも目がまわります。標高が高いからか、少々寝不足のためだったからか、わからないのですが。

 しかし、とにかく広大でした。さすが、世界一のカルデラ火山というだけあります。残念ながら、南のほう、そして九重山系がよく見えなかったのですが。

 波野村の気温が摂氏8度でしたから、中岳ではもっと低かったはずです。それなりの服装で行ったのですが、かなり寒く、耳たぶのあたりが少し痛くなりました。

御覧のように、現在も噴煙を上げています。

 この後、周辺をしばらく歩き、ロープウェイに乗って宮地駅周辺に戻り、産山(うぶやま)村を通り、大分県に戻りました。朝地町で昼食をとり、大分大学に行って仕事などをしました。

 1999年の夏に桜島へ行った時にも、自然の恐ろしさを実感しましたが、阿蘇の火口を見た時には、桜島以上の驚異を感じました。幼少のころ、図鑑でカルデラ火山のできかたを読んだのですが、山の形が、そして高さが変わるほどの噴火の力なのです。山頂などが吹き飛ぶほどの威力でなければ、カルデラは誕生しないとのことです。ただ、日常生活ということでは、桜島のほうに軍配が上がるかもしれません。鹿児島市で天気予報を見ると、桜島の火山灰情報がわかります。風向きによっては、晴れていようが何であろうが傘をささなければなりませんし、鹿児島市のごみ集積場には火山灰の捨て方などが書かれています。

 しかし、自然を前にして、比較などをすべきではないのかもしれません。我々の想像などでは捉えきれないものを持っているのですから。

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竹田にあるちょっとしたオブジェ(?)

2014年10月24日 09時09分36秒 | 旅行記

 今月(2014年10月)、私が大分大学教育福祉科学部助教授になったばかりの2002年4月27日に開始した「待合室」を休止しました。これまでにも何度か転載していましたが、本日は、その「待合室」が始まってから2ヶ月ほど経った2002年6月29日に第10回として掲載したものです。体裁や文章の一部を修正しておりますが、内容には変更がありません。

 その頃、大分県には58の市町村がありました。その中で代表的な観光地はどこだろうと考えると、まずは別府市が思いつきます。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という言葉があるくらいです。その他としては、

 別府以上に温泉地として人気がある湯布院町

 全国八幡宮の総本山、宇佐神宮がある宇佐市(ここは、九州のアメリカ合衆国としても有名です。何故でしょうか?)

 福沢諭吉が少年時代をすごした中津市

 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台である青の洞門の所在地である本耶馬溪町

 陶芸の里である小鹿田(おんた)や天領時代の面影を色濃く残す豆田町、そしてここ数年ではサテライト日田問題やサッポロビール新九州工場、そして天領水で有名になった日田市

 石仏のある臼杵市(醤油などでも有名です。)

 ワールドカップでカメルーンのキャンプ地となって全国的に有名になった中津江村(鯛生金山でも有名です。また、大分大学の研修施設もありました。)

 国東半島のほぼ真ん中にある両子山のふもとにある両子寺の所在地である安岐町(武蔵町とともに大分空港の所在地でもあります。)

などがあります。

 しかし、少なくとも学習指導要領の改訂前には必ず音楽の教科書にも登場する「荒城の月」(作詩は土井晩翠)の舞台とも言われる竹田市を忘れてはいけません。大分県の南西部にあり、阿蘇山にも近いこの人口18000人台の市は、東京で生まれた滝廉太郎が少年時代をすごした場所です。豊後竹田駅付近の狭い市街地には、滝廉太郎が少年時代をすごした家が保存されており、彼が弾いていたというヴァイオリンなどが保存されています。文化的な点では、宇佐市および中津市とともに日本史に名を残す場所なのです。ちなみに、滝廉太郎が亡くなった 場所は現在の大分市で、大分県庁の近くには記念碑が建てられています。

 2002年6月22日、久しぶりに、竹田市へ行きました。「荒城の月」の舞台とも言われる岡城址に行きたくなったからです。臨時の講義などが入って忙しいので、休息を欲し、敷戸駅から豊肥本線のディーゼルカー(キハ200系)に乗りました。豊後竹田駅では、列車が到着する度に「荒城の月」が流れます。ここから1.5kmほど歩くと、岡城址に着きます。私が大分大学に着任して半年ほど経った時(1997年9月)、友人とともに訪れて以来のことでした。

 岡城址から阿蘇山や久住連山を眺め、写真を撮りながら色々なことを考えていました。岡城址を出て、竹田市街に戻ろうとした時、歩道に置かれていた面白い物に気づきました。遠くから見ると、本物のグランドピアノかと思われるようなデザインです。

 念のために記しておきますが、これは本物のピアノではありません。あくまでもオブジェです。木ではなく、石で作られていたものですし、本当のピアノより鍵盤が大きくなっています。 勿論、音を鳴らすことはできません。

    

 滝廉太郎にちなんだものであることは、言うまでもありません。それにしても、ちょっと洒落た、粋なことをしてくれるものです。福岡であれば、大名から警固、六本松にかけての道路で見かけてもおかしくないものです。東京や横浜でも、ここまで洒落たものはないでしょう。ただ、こうしたものが竹田市のまちづくりなりイメージアップなりにどれほど貢献しているのか、疑問も多いのですが。

 先ほどのピアノのそばに、滝廉太郎が作曲した代表的な歌の詞が、山の斜面を利用してこのように示されています。その中から、神奈川県に縁の深い「箱根八里」を選んでみました。今の小学生は音楽の時間で習うのでしょうか。 歌詞の続きは、左のほうに書かれています。

★★★★★★★★★★

 上の記事では当時の市町村名をそのまま記しましたが、その後の市町村合併により、大分県内の市町村は18にまで減りました。下に列記しておきます。

 1 県内の市

 ①大分市:2005年1月1日、大分郡野津原町および北海部郡佐賀関町を編入。

 ②別府市

 ③中津市:2005年3月1日、下毛郡の各町村(耶馬溪町、本耶馬渓町、山国町および三光村)を編入。

 ④宇佐市:2005年3月31日、宇佐郡の安心院町および院内町と合併(新設合併)。

 ⑤豊後高田市:2005年3月31日、西国東郡の真玉町および香々地町と合併(新設合併)。

 ⑥杵築市:2005年10月1日:速見郡山香町および西国東郡大田村と合併(新設合併)。

 ⑦日田市:2005年3月22日、日田郡の各町村(天瀬町、大山町、前津江村、中津江村および上津江村)を編入。

 ⑧竹田市:2005年4月1日、直入郡の直入町、久住町および荻町と合併(新設合併)。

 ⑨臼杵市:2005年1月1日、大野郡野津町と合併(新設合併)。

 ⑩津久見市

 ⑪佐伯市:2005年3月3日、南海部郡の各町村(鶴見町 、蒲江町、弥生町、上浦町、宇目町、直川村、米水津村および本匠村)と合併(新設合併)。

 ⑫豊後大野市:2005年3月31日:大野郡の三重町、朝地町、緒方町、犬飼町、清川村および千歳村が合併して成立。

 ⑬由布市:2005年10月1日、大分郡の挾間町、庄内町および湯布院町が合併して成立。

 ⑭国東市:2006年3月31日、東国東郡の国東町、国見町、武蔵町および安岐町が合併して成立。

 2.県内の町村

 ⑮姫島村(東国東郡)

 ⑯日出町(速見郡)

 ⑰玖珠町(玖珠郡)

 ⑱九重町(玖珠郡)

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