ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

どこまで当たっているか

2012年09月26日 00時58分54秒 | 国際・政治

 今から10年前、私が助教授になりたての頃に書いた文章を、ふとしたきっかけで読み直してみました。どこまで当たっていたのか、今も変わらない点は何か、ということを考えながら。

 「大分県に望まれること~ある大学教授のつぶやき~」〔大分ジャーナル創刊号(6月号。2002年5月10日)44~45頁、ESN出版。http://kraft.cside3.jp/for_Oita-Prefecture.htm

 ちなみに、この副題は、私がつけたものではありません。大分ジャーナルは程なく廃刊になり、ESN出版もないようです。

 上記とは全く無関係ですが、我がゼミの卒業生に幸あれ。

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待っていました、渡辺香津美さんの「ギター・ルネッサンスⅤ」

2012年09月25日 23時05分23秒 | 音楽

 日本を代表する世界的ギタリストの渡辺香津美さんが「ギター・ルネッサンス」シリーズを始めたのは21世紀に入ってからで、第1弾は2003年に発売されています。1990年代前半のレゾナンス・ヴォックスの数枚を除いて、香津美さんのアルバムは全て買い集めましたが、時折、オベーション・アダマズなどのアコースティック・ギター(あるいはエレクトリック・アコースティック・ギター)による演奏が収録され、また、1981年11月には「ドガタナ」も発表されていますが、アコースティック・ギターの独奏だけというアルバムは「ギター・ルネッサンス」第1弾が始めてのことでした。

 それ以降、2005年に第2弾、2006年に第3弾、2007年に第4弾が発表されましたが、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番の第5曲と第6曲が残されたまま、このシリーズが終わってしまうのか、と懸念していました。ようやく、今月中旬、第5弾が発売されました。私が知ったのは先週で、今日、先程聴き終えました。

 バッハの上記の曲は第5曲と第6曲が収録されていますので、第1番はこれで終わりということになります。第2番ニ短調の全曲を期待したいところです。

 香津美さんと言えば、時期によって使用楽器が異なることでも知られています。「ギター・ルネッサンス」シリーズでも同様で、今回は第4弾までとは全く違う楽器が使われており、聴いた瞬間にわかります。

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合併して再び分離?

2012年09月23日 23時22分43秒 | 国際・政治

 私が大分大学教育福祉科学部に勤務した7年間のうち、後半は平成の市町村合併の大波が日本中に押し寄せていました。大分県もその例外ではない、どころか、全国的にみても市町村合併に最も熱心に取り組んだ都道府県の一つでした。何しろ、私が大分市に住んでいた時には58の市町村があったのですが(しかも私はその全てに行っています)、現在は14市3町1村の18市町村しかありません。今回、合併しなかったのは、別府市、津久見市、日出町、玖珠町、九重町、姫島村のみです。

 九州では、宮崎県を例外として、どの県でも合併に熱心でした。とくに熊本県は、熊本市を政令指定都市にしようという動きがあり、実際にそうなったため、全国的に目立っていたような気もします。同じような動きは、静岡県や新潟県でも見られました。我が神奈川県でも、全体的には合併の動きが低調であったものの、相模原市だけは合併に積極的で、結局は県内三番目の政令指定都市になりました。

 しかし、平成の大合併を個々の事案ごとにみると、かなり無理なものも見受けられます。禍根を残したものもありますし、面積ばかり広くなって合理化とは逆の結果を招きかねないような例もあります。何よりも、当時、合併に反対する住民の声が強かった地域は非常に多かったのです。私は、今でも2003年4月17日の夜、当時の耶馬溪町柿坂のサニーホールでの出来事、そして熱気を覚えています。耶馬溪町の「市町村合併を考える会」など4団体が主催する「市町村合併フォーラム」に招かれ、講演をしたのです。西日本新聞でも報じられたのですが、私が演題に立った時、おそらく300人は下らないだろうと思われる人々が、私の話を熱心に聴いて下さりました。その空気は「中津市には合併されない。耶馬溪町は独自の道を進んでいく!」というもので、むしろ私が圧倒されました。しかし、それからほどなく、耶馬溪町は下毛郡の他の町村とともに中津市と合併しました。今どうなっているのか、また様子を見たいと思っています。

 合併の渦中に大分県にいた私は、この平成の大合併に対して最初から疑問を持っていました。そのことは、講演や公務員研修の場でも何度となく話しました。一度だけ、2001年9月3日に宮崎県の市町村職員一般研修を担当させていただいたことがあり、その際にも合併推進政策に対する疑念などを述べました。大分大学在職中には何度か月刊地方自治職員研修に論考を発表する機会がありましたが、サテライト日田問題を扱った論文を除き、市町村合併推進への違和感などを、法律論に昇華させ、議論を進めています。何故、合併ばかりなのか。大都市など、むしろ分離分割もありうるはずである。横浜市など、果たして市としての一体感があるのか。面積の狭い川崎市でさえ、少なからぬ住民が川崎市の一体感など知らない。こんなことを考えていたのです。

 その意味で、合併が進められても、その反動は遠からぬ時期に来るだろう、と思っていました。やはり、その動きは発生しました。九州は熊本県からです。朝日新聞社が、今日の19時55分付で「『平成の大合併』別れたい  熊本・旧泗水町で過半数署名」(http://digital.asahi.com/articles/SEB201209220002.html)として報じています。

 泗水町は、2005年、菊池市と合併しました。旧菊池市、菊池郡七城町、同郡旭志村、同郡泗水町が合併して、現在の菊池市となった訳で、新設合併でした。旧泗水町は、現在の菊池市の南部にあり、かつて熊本電気鉄道菊池線も通っていました。

 上記記事によると、旧泗水町にある「泗水をよくする会」という住民グループが、今月20日、旧泗水町を菊池市から分離する旨の要望書、および「住民の半数を超える署名」を市長と市議会議長に提出したとのことです。住民がどの範囲の住民を指すのかはわかりませんが、6873人分の署名が集まったそうで、これは旧泗水町の有権者のおよそ57パーセントにあたるとのことです。

 理由としてあげられているのは市庁舎で、やはり上記記事によると「合併協議会で合意したはずの市庁舎建設を白紙にしたことなどに反発」したというのです。さらに「価値観などで受け入れがたい相違点がある」というのですが、具体的なことは記事からでは不明です。ただ、市庁舎建設は合併の際にも大きな問題となった地域が多く、解決できなかった結果として合併論議が決裂したという例もありました。「つまらない話だ」と批判する見解もありますが、地元にとって、市役所、町役場、村役場という地方公共団体の中心がどこに置かれるかは、とくに合併の場合は重大な関心事となります。面積が広くなるだけに、中心部が置かれなかった旧地方公共団体の区域は周辺部となり、寂れたりする危険性があるのです。合理化などとは矛盾するとしても、過疎地域などの場合は中心部が置かれなければいっそうの過疎化を招き、限界集落の増加などという深刻な事態を生じかねない訳です。

 勿論、合併以上に分離独立または分割は厄介です。今回の旧泗水町の分離独立の場合、菊池市議会での議決が必要なのは当然ですが、熊本県議会での議決も必要となります。これまで合併に関心が向けられてきただけに、議会で賛成意見が多くなるとは思えません。仮に菊池市議会で承認されるとしても、熊本県議会がどのように判断するか、というところでしょう。

 但し、分離独立が不可能な訳ではありません。たしかに、平成の市町村合併の結果として成立した市町村では、まだ分離独立または分割の例がありません。しかし、今までの歴史を振り返ると、分離独立または分割の例は意外に多いのです。たとえば、東京都練馬区は、第二次世界大戦後に板橋区から独立して成立しています。また、現在の逗子市は、やはり戦後に横須賀市から分離しており、座間市もやはり戦後に相模原市(当時は相模原町)から分離しています。この他、富山県にあった新湊市(現在は射水市の一部)は高岡市から分離していますし、山口県にあった小郡町は、戦後に山口市から分離独立し、平成の大合併によって再度山口市と合併しました。

 今のところ、平成の大合併の荒波から生まれた市町村で、分離独立の動きが明確となった例は、この旧泗水町しかありません。しかし、今後もいくつかのケースが、たとえ数が少ないとしても生ずるのではないでしょうか。

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大牟田市の中心地空洞化は加速する

2012年09月22日 23時42分21秒 | 社会・経済

 今年は島原から福岡に戻る際に三池港と大牟田駅を利用しただけですが、これまで2回、大牟田市の中心街を歩きました。いずれも集中講義の期間中のことで、私のホームページにある「待合室」の「別室9  大牟田駅から新栄町まで歩く(2007年9月8日撮影)」(http://kraft.cside3.jp/wartesaal12.html。現在は閉じておりますので、「大牟田駅から新栄町まで歩く(2007年9月8日)その1」、「大牟田駅から新栄町まで歩く(2007年9月8日)その2」および「大牟田駅から新栄町まで歩く(2007年9月8日)その3」で御覧ください)、および「別室21  再び、大牟田駅から新栄町まで歩く(2010年9月5日撮影)」(http://kraft.cside3.jp/wartesaal24.html。やはり現在は閉じておりますので、「再び、大牟田駅から新栄町まで歩く(2010年9月5日)」で御覧ください)で取り上げています。

 今から5年前と2年前、2回だけ歩いたのですが、私が訪れたことのある街の中では、福岡県田川市の田川後藤寺駅周辺、大分県中津市の中津駅周辺、もう一つあげるならば佐賀市の佐賀駅の南方にある白山商店街とともに、その激しい寂れ方で特に強い印象を受けた場所です。しかも、3年の間を空けて大牟田市を再訪した際には、空洞化がいっそう進行していることがわかり、表現が悪いのですが空洞化を通り越し、荒廃としか言いようがない状況でした。シャッター通りどころの話ではありません。佐賀市の白山商店街や直方市などでも見受けられたのですが、そもそも建物がなく、空き地と化しているような場所がいくつもあったのです。歩道にアーケードが設けられているのに、建物がないのですから、アーケードの意味が失われています。5年前には残っていた大牟田松屋の建物が、2年前には既に消失していましたし、井筒屋大牟田店の跡はマンション予定地でありながら全く建設されないままでした。

 さて、このような大牟田市の中心街について、今日付で西日本新聞社が「空洞化進む大牟田市中心街  “老舗”6店相次ぎ閉店」として報じています(http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/325332)。この記事には店の名前と開業年まで記されています。銀座通と築町商店街で、どちらも歩いたことがあり、写真を見て「ああ、銀座通りのあそこだな」とわかりました。銀座通には大牟田松屋があったのですが、広大な更地となってからは、まだ話が進んでいないのでしょうか。

 中心街の空洞化には様々な原因があります。各地に共通する部分もあれば、固有の原因もあるので、分析には注意を払う必要があります。そうしなければ、再生策が有効に機能しません。各地域ごとの差異を無視して一律の治療を施す訳にはいかないのです。

 大牟田市の場合は、何と言っても三池炭鉱の閉山が大きな原因でした。これによって人口が減少したのです。大牟田市に限らず、炭鉱で成り立っていた市町村の場合、炭鉱が閉山されると、その代替となる産業がなかなか見つかりません。最も苦闘していた市町村の例が夕張市ですが、結果として失敗が続き、財政再建団体になってしまいました。福岡県、佐賀県、長崎県には炭鉱が多かったので、大牟田市のような状況は飯塚市、田川市、嘉麻市などでも見られます。とくに、合併によって嘉麻市が成立する前の山田市は、人口が急激に減って市の中では歌志内市に次いで2番目に人口が少ないところにまでなり、市制返上の話まで出ていたそうです。

 中心街空洞化、商店街の衰退で、全国に共通すると言われる原因の一つが、後継者の問題です。大牟田市の場合も、商店主が高齢化している上に後継者がいないという状態であったようです。さらにその背景を探ることが必要であると思うのですが、大型店の進出などにより、小規模の商店(多くは個人経営)は徐々に販売力(営業力)を失っていったのでしょう。そうなると、後継者となるべき者も将来を考えて後を継がない、あるいは継げないのではないでしょうか。

 そして、自動車社会の進展と、郊外型大規模小売店舗の進出です。大牟田市の場合も、1980年代からニコニコドー(ゆめタウン熊本に併合)などがオープンし、競争が激化します。これは中心街に不利なものでした。おそらく、徐々に空洞化は始まったのでしょう。そして、20世紀も終わろうとする頃に、ゆめタウンが大牟田に進出するというニュースが飛び込んできました。21世紀が始まった2001年、新栄町駅の東方にゆめタウン大牟田がオープンしました。これは致命的な打撃で、中心街は大きな打撃を受けました。その象徴が大牟田松屋で、後に民事再生法の適用を申請するものの、結局は破産宣告を受けています。実は、大牟田松屋の場合、1980年代からダイエーと資本関係を結んでいましたが、裏目に出てしまい、苦しい経営を迫られていたのでした。御存知の通り、ダイエーは1990年代に業績を悪化させ、各地で店舗の閉鎖を進めます。大牟田松屋もその影響をかぶりました。

 以上のような状況において、大牟田市の中心街の活性化は日に日に困難なものとなっていくようです。西日本新聞の記事によると、これまで秋に行われてきたイベントも中止とならざるをえなくなっています。銀座通商店街の店舗数は12で、これは30年前のおよそ3分の1です。この商店街の空き店舗にNPO法人が施設を開いていますが、その法人が行っている活性化のための事業も、かなり苦しくなるようです。

 こうなると、大牟田市全体の再編が問題として浮上するのではないでしょうか。中心街だけに目を向けて活性策を行うには、現在の大牟田市の状況はあまりに厳しいように思われます。同じ福岡県内の久留米市の六ツ門地区であれば、まだ再活性化の可能性が高いようにみえるのですが、大牟田市の中心街の場合はシャッター通り化の度合い、再び良くない表現を用いるならば荒廃の度合いが高きに過ぎる、という印象を受けました。西鉄天神大牟田線の特急が今も新栄町に停車するのが救いでもあり、また「信じられない」とも言いうるのです。

 全国的にシャッター通り問題が存在しており、克服の取り組みが行われています。一度衰退してしまったものを再び活性化することは容易ではありませんが、大牟田市の場合はとくに困難性が高いのではないでしょうか。

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問題外の外

2012年09月21日 09時00分32秒 | 社会・経済

 今日の朝日新聞朝刊1面に「まったり がっつり 使います? 国語世論調査 『話せば済むこともメールで』30%」という記事が掲載されています(38面にも関連記事があります)。なかなか興味深い内容です。

 「まったり」というのは、たしか京都弁であったはずです。「ゆっくり、のんびりする」というような意味合いですが、いつごろから全国的に聞かれるようになったのでしょうか。おそらくテレビの影響でしょう。

 この記事の中には、私が使わないような言葉もいくつか載っています。その一つが「真逆(まぎゃく)」で、記事で初めて知りました。漢字をみれば一目瞭然で、正反対という意味なのですが、聞いたことがありません。

 私の周りではとくに女性が使っているという印象を受けるのが「なにげに」です。妻や知人がよく使っているのですが、最初に聞いたときには意味がわからず、聞き返したほどでした。「何気なく」という意味だそうですが、「何となく」という意味合いもあるようです。

 また、妻が「半端ない」と言った時にも、最初は「変な言葉だな」と思いました。これも最近は使われるそうです。中途半端でないという意味合いでして、私も「半端じゃない」と言うことはあります。「半端」と「ない」の間に助詞などがないことからして、関西の言葉ではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

 逆に男性には最近おなじみの言葉が「がっつり」でしょう。渋谷のセンター街の飲食店でも、よく、幟などでみかけます。但し、これはこの数年の話です。元々は北海道の方言だそうで、これも芸能人などが使っていたから広まったのでしょう。ただ、北海道と一口に言ってもかなり広く、函館、松前、札幌、釧路、根室、網走、旭川、稚内など、地域によって違うのかもしれません。

 記事には「むかつく」も登場します。私の小学生時代から使われていた言葉ですが、元々は方言なのでしょうか。

 記事には登場しないのですが、私が使わない言葉の一つが、自転車を意味する「ちゃり」です。妻はよく使いますし、私の周囲でも使われています。逆に、私が「たからんちょ」を使うと、妻に怪訝な顔をされました。これは、ものをあげるという意味合いの言葉で、横浜言葉とも東京言葉とも言われています。私の父が時々使っています。「たからんちょ」と言われたら「あんちょ」と答えるのです。ただ、川崎では使われていたのかいなかったのか、知らない人も多いようで、私は伊豆の方言かと思っていました。最近は聞かれなくなりましたが、テレビ神奈川が、昨年まで「たからんちょ」をもじった名称の番組を放送していました。

 こうしてみると、言葉もかなり変化するものであるということが実感できます。実のところ、私は、言葉以上にアクセントの変化が気になっています。東京の30代以下の人たちの言葉を聞いていると、アクセントが上げ調子化、または平板化しているような気がするのです。言い方を変えれば、東北や北関東の方言のような発音です。その代表が、「~したんじゃね?」です。私の世代までは「じゃ」の部分を下げ、そこから「ね」を伸ばし気味に、しかも上げ気味に発音します(本来は「~したんじゃない?と言うべきだと叱られたりもしました」)。南関東ではそのような言い方でした。しかし、30代以下の人たちは「じゃね?」を上げ調子のまま平板に発音します。それを聞いた私は、相手に思わず「出身地はどこか」と尋ねました。どう聞いても栃木県以北の言葉なのです。ちなみに、福岡や大分ではこのような言い方を使わないようで、耳にしたことはありません。

 また、外来語のアクセントでは、いくつかの言葉については東北や北関東の方言のようなものになっています。たとえばライヴです。英語の発音では頭の「ラ」を強く発音します。私も同じような発音をします。しかし、とくに日本の音楽関係者は「イヴ」の部分を高く上げて発音します。

 もう一つあげるならば、ゼミです。私などは「ゼ」から「ミ」に向けて下げて発音しますが、30代以下の人たちは「ゼ」から「ミ」に向けて上げて発音します。今も違和感を覚えます。

 国語世論調査の記事には関心があるのでよく読むのですが、どうせのことならアクセントについても調査していただきたいものです(文章表現が難しいかもしれませんね)。

 さて、タイトルの言葉ですが、これは方言にもなっていない表現です。私が神奈川県立多摩高等学校の生徒であった時によく使われたのですが、他では聞いたことがありませんので、多摩高校だけで通用していたのでしょう。「問題外」に余計な「外」が付いているのですが、強調表現とお考えください。「問題外」のさらに外ということですから、「てんで話にならない」というような時に使えます。

 「この表現が普及しないかな」などと思うのですが、無理でしょうか。

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おしらせです(2012年9月17日)

2012年09月17日 20時45分23秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 成文堂から、下山憲治・田村達久編『判例ライン行政法』が発売されました。この中の78事件から86事件までを私が担当しています。

 御一読をいただければ幸いです。

 なお、上記の本を、私が担当する講義「行政法1」(大東文化大学法学部)および「行政法Ⅰ」(国学院大学法学部)の参考書とさせていただきます。

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Atelier Pink Noiseの新譜

2012年09月17日 00時07分33秒 | 音楽

 15日、妻と渋谷のBUNKAMURAへ行き、レーピン展を楽しんできました。3年前に同じBUNKAMURAで開かれた国立トレチャコフ美術館展でも見ることができた絵が何枚かあり、再び見ることができました。また、有名なムソルグスキーの肖像画も出展されています。作曲家の最晩年の、痛ましい様子が手に取るようにわかるような絵です。

 見終わってから、ナディッフ・モダンに寄りました。これまで、Dustin O'Halloran, Piano Solos Vol. 1 and 2、蓮沼執太「シーシーウー」といった、私が気に入って何度となく聴いているCDを買うことができましたが、今回も面白いCDが見つかり、結局、5枚も買いました。

 店で流れていたのはScavenger Quartet, Hats(Novel Cell Poem, INC)で、聴いた瞬間に買うことを決め、トウヤマタケオ「三月のワルツ」(Windbell)も試聴できたので買うこととしました。8月下旬に発売されたばかりのChilly Gonzales, Solo Piano Ⅱ(Beat Records)もよかったのですが、これについては別の機会に触れるとして、今回はAtelier Pink NoiseのCDを取り上げてみます。

 私は、普段、ジャズとクラシックを中心に買うため、エレクトロニカなどの分野についてはよく知らないのですが、嫌いな訳ではなく、耳にして気に入れば買うことがあります。今回は全く知らないままにAtelier Pink NoiseのLive at Daikanyama M 2010. 10. 13(Ultra-Vybe)と新譜のNeos(Ultra-Vybe。9月12日発売!)を買ったのですが、売られている店からして大体の予想はついていました。

 Pink Noiseは、シンセサイザーにも音源として搭載されている、重い音のノイズのことです。ラジオの「ガー」というノイズが該当します。それをプロジェクトの名称に取り入れているのですが、それとは裏腹に、美しいサウンドでした。車を運転する際のBGMにも適していると思います(E2-E4の代わりになるかもしれません)。音量によって、サウンドが軽くも重くもなるかもしれません。私はパソコンで、音量を小さくして聴いています(他のCDについても同様です)。

 元々、Atelier Pink NoiseのCDは、ナディッフ・モダンなど、美術館のショップでのみ売られており、一般のCDショップで入手できるようになったのはLive at Daikanyama M 2010. 10. 13(Ultra-Vybe)からであるということです。

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国際人権規約A規約第13条(高等教育の無償化)の留保をやめることに

2012年09月16日 11時43分57秒 | 法律学

 朝日新聞2012年9月14日付朝刊7面14版に「高等教育無償化留保撤回を通知  国際人権規約で政府」という記事が掲載されていました。これは小さな記事ですが、内容は非常に重要です。この「ひろば」で取り上げておくべきであると考えました。

 上の記事によると、日本国政府が国際人権規約A規約で定められている高等教育の無償化に関する留保を撤回することを国際連合に通知し、受理された、ということです。具体的にいつ通知されたのかが書かれていませんが、11日の閣議で決定されたとのことで、外務省が奨学金の対象の拡大や大学の授業料減免措置の拡大などという状況を見て判断したようです。

 高等教育とは、高等学校の教育ではなく、大学や高等専門学校における教育を言います。一般に国際人権規約A規約と言われる「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」の第13条は、次のように定めています。

 「1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。

 2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。

 (a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。

 (b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。

 (c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

 (d) 基礎教育は、初等教育を受けなかつた者又はその全課程を修了しなかつた者のため、できる限り奨励され又は強化されること。

 (e) すべての段階にわたる学校制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。

 3 この規約の締約国は、父母及び場合により法定保護者が、公の機関によつて設置される学校以外の学校であつて国によつて定められ又は承認される最低限度の教育上の基準に適合するものを児童のために選択する自由並びに自己の信念に従つて児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。

 4 この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。ただし、常に、1に定める原則が遵守されること及び当該教育機関において行われる教育が国によつて定められる最低限度の基準に適合することを条件とする。」

  第14条もここで紹介しておきましょう。次の通りです。

 「この規約の締約国となる時にその本土地域又はその管轄の下にある他の地域において無償の初等義務教育を確保するに至つていない各締約国は、すべての者に対する無償の義務教育の原則をその計画中に定める合理的な期間内に漸進的に実施するための詳細な行動計画を二年以内に作成しかつ採用することを約束する。」

 国際人権規約A規約は、1966年に国際連合総会で採択されました。日本が批准したのは1979年ですが、その際、上に引用した第13条の第2項(b)および(c)については留保し、規定の拘束を受けないこととしましたが、これに対しては日本でも批判がありました。参議院のサイトには、第165回国会に出された「国際人権A(社会権)規約第十三条二項(b)及び(c)の留保撤回に関する請願」が掲載されています。国際連合の反応なども簡単に紹介されていますので、勝手ながら全文を引用させていただきます。

 「1966年、国連総会は国際人権規約を採択した。日本は1979年に、A規約(社会権規約)、B規約(自由権規約)とも批准したが、A規約第13条2項(b)及び(c)については、日本政府は『拘束されない権利を留保する』ことを宣言している。A規約第13条2項(b)及び(c)は、中等教育及び高等教育における無償教育の漸進的導入を定めたものである。留保に対して、国連の社会権規約委員会は、繰り返し撤回を求め、2001年8月には、日本政府にこれまで以上に厳しい内容を伴った留保撤回の検討を強く求める勧告を行っている。また、同委員会は、日本政府の第三回報告を2006年6月30日までに行うことを求め、勧告を実施するために採った手段についての詳細な情報を含めることを要請するとしている。国際人権規約の批准の際には、衆参の外務委員会で、『留保については諸般の動向を見て検討すること』が、全会派によって附帯決議されている。さらに、1984年7月には、日本育英会法の審議に際し、衆参の文教委員会で『諸般の動向を見て留保の解除を検討すること』が、全会派によって附帯決議されている。日本政府は、無償教育の漸進的導入の理念とは逆行する有償教育の急進的高騰を事実上推進してきた。今日、経済格差が広がる下で、学びたくても学べない若者が増えており、高い教育費の負担は少子化の一因ともなっている。

 ついては、次の事項について実現を図られたい。

  一、国際人権A規約(社会権規約)第13条2項(b)及び(c)の留保を撤回し、無償教育の漸進的導入に着手すること。

 (以上、http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/165/yousi/yo1650951.htm によります。なお、数字の一部を漢数字から算用数字に改めました。)

 以上の内容からして、A規約第13条第2項(b)および(c)の留保の撤回は、日本の文教政策を大きく変えることを意味します。これが閣議のみで決定されたことがよいことなのか、国会で議論されなくてもよいことなのか、などという疑問は湧きます。そればかりでなく、留保の撤回をしてこれらの条項の拘束力を認めるということは、法律上も予算上も「漸進的」とは言え、無償化に向けて確実な措置を取らなければならないということを意味します。つまり、国会、内閣、裁判所のいずれの国家機関も、高等教育の無償化に向けた措置を取らなければならないということです。

 少し考えていただければおわかりのことと思いますが、これは今までの日本の常識を覆すような大きな意味を持ちます。無償化の範囲が問われるかもしれませんが、少なくとも入学金や授業料というところを指すということに異論はないでしょう。少しばかりの奨学金の拡充というところでお茶を濁すという程度では済まされないはずです。先進国あるいはOECD加盟国では最低の教育予算を拡大せざるをえませんし、組織面での制度を多少なりとも変えなければなりません。しかも、その一部は復古的な変更とならざるをえないでしょう。より明確に記すならば、独立採算制を基本とするような制度を改める必要が出てきます。

 現在、日本には純粋な国立大学も公立大学もなく、独立採算制を大幅に導入した(と考えるべきである)独立行政法人制度が採用されています。このため、国立大学あるいは公立大学と言われる諸大学は、国の機関でもなければ地方公共団体の機関でもなく、一応は国とも地方公共団体とも異なる独立の人格を持っています。一方、予算ないし財政という点からすると、独立行政法人に対しては一定の基準によって交付金がわたされます。これだけでも、何とも中途半端な組織となっているのです。

 無償教育の漸進的導入を本格的に進めるならば、一度は国や地方公共団体から切り離して独立の法人とした国立大学や公立大学を、再び国や地方公共団体の機関に戻す必要があるのではないでしょうか。つまり、独立行政法人という制度を廃止することが求められると考えられるのです。そもそもが中途半端な制度ですし、果たして独立行政法人化して具体的に何が改善されたのか、多くの国民にはわかりにくいでしょう。徹底的な再検討など全くなされていないはずですので、まずはそれが求められます。

 しかも、独立行政法人化の経緯からして、無償教育の漸進的導入とは逆の方向を歩んできたはずです(私が大分大学に勤務していた頃、独立行政法人化は最終的に私立大学化を目指すことなのである、とまで論じられたこともありました)。独立行政法人と無償教育が矛盾するとは言えないというのであれば、確固とした方策を示す必要があります。日本政府が、国内法の整備などを徹底して考えた上で、留保撤回の決断を下したのかが問われるのです。

 勿論、私立大学の在り方にも無償教育の漸進的導入は少なからぬ影響を与えます。詳しく調べた訳ではないのですが、日本は、人口の割には大学が多いほうかもしれません。とくに私立大学の多さには驚かされる方々も多いでしょう。統廃合が進められざるをえなくなります。先日の司法試験合格発表を受けて法科大学院の統廃合が議論されていますが、それに留まりません。各都道府県に、国立大学、公立大学、私立大学を問わず、いくつも大学がある、という状況は、条約の遵守を妨げるものであるのかもしれません。

 朝日新聞では小さな記事でしたが、そこからいくらでも話は膨らみます。教育制度そのものが大きく変わっていく可能性を秘めているからです。

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まだ見られる(?)デヤ7200+デヤ7290 その4

2012年09月12日 00時00分48秒 | 写真

 長津田車両工場に留置されているデヤ7200とデヤ7290を取り上げています。今年の東急電車カレンダーの9月の写真もこの2両で、大井町線の大岡山~緑が丘で撮影されたことが記されています(実質的には緑が丘駅の構内と言ってもよい場所です)。

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この2両が長津田車両工場に留置されているのは、解体を待つためなのか、譲渡を待つためなのか、車籍のない機械扱いとされているためなのか、どれかでしょう。

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 デヤ7200の屋根をよく見ると、長方形の小さな通風機が残っています。7200系と8000系のオリジナルは、この形の通風機を付けていました。東急で全車が最初から冷房車として登場したのは、8500系が最初です。

 7200系の大部分の車両は冷房化されたのですが、デヤ7200+デヤ7290は、デハ7200+クハ7500の時代に冷房化されておらず、結局は非冷房のまま、事業用車両に改造されました。また、営業用車両としては3代目のこどもの国線専用車両として、こどもの国のシンボルマークをつけており、東急の社紋は外されていました。ちなみに、こどもの国線専用車両の4代目は7000系のデハ7052とデハ7057で、ワンマン化され、ワンハンドルマスコン化されました。

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最後に、デヤ7290と後ろの1000系です。1000系のほうは、号車札から8両編成の中間車とわかりました。また、右側の黄色い車両はモーターカーです。5050系や8090系も写っています。

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まだ見られる(?)デヤ7200+デヤ7290 その3

2012年09月11日 00時51分24秒 | 写真

横浜高速鉄道こどもの国線恩田駅のそばにある長津田車両工場から、三度目です。

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8090系が並んでいますが、手前の車両は秩父鉄道に譲渡されたもので、その1でも登場したクハ7707です。帯の色が違うので、すぐにわかります。

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デヤ7200の連結側を撮影してみました。すぐ隣は9000系の中間車ですが、番号などはわかりません。

2012090809

 奥には1000系の中間車が止まっています。見たところでは8両編成(日比谷線直通用)の中間車です。来年(2013年)の3月、東横線と日比谷線との直通運転が廃止されますが、1000系はどうなるのでしょうか。池上線および東急多摩川線用の3両編成からも廃車が出ています。

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