ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

やはり、近鉄内部線・八王子線はBRT化されるのか

2013年04月28日 13時29分16秒 | 社会・経済

 先々週から中日新聞などで報じられていましたが、取り上げるのが遅くなりました。

 近鉄内部線・八王子線について、近鉄のBRT化の意思は変わらず、四日市市議会でもその意思が表明されました。四日市市は、今後、どのように対応するのでしょうか。

 まず、読売新聞社の4月19日付記事(おそらく三重版)「近鉄内部八王子線 存続策8月末までに」(http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/news/20130419-OYT8T00135.htm)によると、18日に四日市市議会総合交通製作調査特別委員会が開かれ、そこで近鉄の鉄道事業本部の担当者が参考人として出席した上で、次のように述べました(要点)。

 (1)内部線・八王子線を鉄道として残すなら、今年8月末までに交渉の結論を出さなければならない。

 (2)鉄道として存続させるならば、公有民営方式しかない。

 (3)内部線・八王子線は、鉄道として残すのではなく、BRT化し、バス路線とするのが最善である。

 このうち、(1)の理由は、車両にあるようです。現在、内部線・八王子線では14両の車両があるそうですが、このうちの1両が2015年8月28日に予定されている定期検査の際に廃車となる、ということが理由としてあげられています。「予備車がないのか?」とも思うのですが、市議会で突っ込まれたりしなかったのでしょうか。仮に新しい車両を製造するとなれば、設計から完成まで2年くらいかかるということも述べられています。このように主張されているということは、近鉄の廃線の意思が固いということです。近鉄自身が特殊狭軌線と言っているように、内部線・八王子線の場合はどこかから中古の車両を購入するという訳にいきませんし、存続を前提としているならば、既に新型車両の設計などに取り掛かっているはずです(少なくとも、わざわざ定期検査と廃車の話など出さないでしょう)。

 次に(2)ですが、この公有民営方式を採用するのであれば安泰かというと、そうではありません。まず、四日市市(場合によっては三重県も)の財政負担が大きくなります。鉄道施設を四日市市が保有するのですから、固定資産税などの収入もなくなります。

 しかも、近鉄の主張によると、近鉄自身が有償で借り受けるということにならないのです。まずは別会社を作り(これも具体的にどのような形態になるのかは不明です)、その会社が無償で四日市市から施設の貸与を受け、しかも補助金が四日市市からその会社に支払われます。人によっては「随分と虫がいい話じゃないか?」と思われることでしょう。さらに、ここまでしても1年間で1億円を超える赤字が見込まれるというのです。「何のために残すのかわからない」という話にまでなります。これなら、いっそうのこと、富山県の万葉線のような形態とし、四日市市が中心となって第三セクターを作るほうがよいでしょう。一民間企業のために公有財産を無償で貸与し、その上に赤字を補助金で補うというのは、多くの人の納得を得られるのか、疑問とせざるをえないからです。

 こうなると、近鉄も主張するようにBRT化するほうがよいということになります。ただ、BRT化するとしても、土地などの施設は必要です。これをどこが保有するのでしょうか。おそらく四日市市か三重県か、ということになるでしょう。ただ、車両などの保有まで市や県が行う必要もありませんので、運賃収入がさしあたっての問題ということになるでしょうか。

 4月24日には、朝日新聞社が「公有民営も選択肢」(三重版)として報じています(http://www.asahi.com/area/mie/articles/MTW1304242500002.html)。それによれば、四日市市長が記者会見(23日)で公有民営方式の案に難色を示したようですし、翌日の中日新聞社の「近鉄2線公有民営に疑問の声 四日市市議会」という報道(http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130425/CK2013042502000006.html)によれば、24日に開催された四日市市議会総合交通政策調査特別委員会において近鉄の方針に対して多くの疑問が出されたようです。今後、四日市市がアンケートなり住民投票なりを行わざるをえない事態となるかもしれません。

 四日市市は、現在のところ、近鉄内部線・八王子線を鉄道路線として存続させる方向をとることを表明しています。しかし、近鉄の路線として存続することが難しく、かつ、四日市市がBRT化に低い順位しか与えていないことからすると、(鉄道として残すのであれば)富山県の例、まずは先にあげた万葉線、および、JR西日本から移管されてLRT化された富山港線(富山ライトレール)の例にならうくらいしか手がないと思われます。勿論、その際には完全に近鉄の手から離すしかありません。基本的には近鉄の資本参加を要請しない、ということになるでしょう。第三セクターという形式に問題があることは承知していますが、現実の問題として純粋な民営私鉄の形をとることはできないでしょう。

 ちなみに、同じく近鉄の路線であった北勢線が三岐鉄道の路線となって10年が経ちます。これについては中日新聞社の4月22日付の記事(三重版)「【三重】自治体支援も厳しい経営 三岐鉄道北勢線10周年」(http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20130422/CK2013042202000020.html?ref=lcrk)に興味深い内容が記されています。三岐鉄道にとって、北勢線の受け入れにメリットなどなかったはずで、実際にその通りだったのですが、三岐鉄道の路線になってから乗客も増え、およそ7億円もあったという赤字の額も半分ほどにまで減ったそうです。しかし、経営状態が苦しいことに変わりはなく、三岐線の乗客も減少していることからすると、今後、また問題がぶり返される可能性もあります。

 過去の記事をあげておきます。

 「近鉄内部線・八王子線が廃止される可能性」(2012年8月22日付)

 「別に目新しくも何ともないBRT(バス高速輸送システム)」(2012年8月25日付)

 「近鉄内部線・八王子線に乗ってみました」(2012年11月1日付)

 「存廃問題に揺れる近鉄内部線・八王子線に乗る(その1)」(2013年1月7日付)

 「存廃問題に揺れる近鉄内部線・八王子線に乗る(その2)」(2013年1月8日付)

 「存廃問題に揺れる近鉄内部線・八王子線に乗る(その3)」(2013年1月9日付)

 「近鉄内部線・八王子線の存廃問題について住民アンケートが行われるようです」(2013年2月28日付)

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渡辺香津美さんの「GRACIM」

2013年04月24日 23時33分05秒 | 音楽

 今日発売のCD、渡辺香津美さんの「GRACIM」を購入しました。

 私は、中学生時代から香津美さんの演奏を聴いていて、何度かライブやコンサートに行ったこともあります。1990年代のレゾナンス・ヴォックスの数枚を除き(この時期、ジャズから離れていたため。しかも現在は廃盤)、アルバムを全部持っています。

 そして今回のアルバムですが、今までとは随分と違った感じのサウンドに驚かされました。少なくとも、これまでのリーダーアルバムで耳にした覚えのないサウンドです。演奏が香津美さんと谷川公子さんの二人のみで、香津美さんがベースやシタールも弾いているからかもしれません。ちなみに、最後の曲はサン・サーンスの「動物の謝肉祭」の一曲、「白鳥」をアレンジしたものですが、これも非常に面白い曲です。

 曲の感じなどは全く違うのですが、「これまでとはかなり違うぞ」と思わせるという点では、1983年にトリオレコードから発売された2枚組の「モボ」と似ています。このアルバムで、日本のフュージョンからはるか先に飛び出した、まさに先鋭的な演奏に驚かされました。マイルス・デイヴィスのバンドへの加入を誘われたというエピソードも納得できる作品なのです。

 それとは全く違う性質の音楽ではありますが、「GRACIM」を何回も聴き込んでみたいと思っています。

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行政法講義ノート〔第5版〕の修正について

2013年04月23日 15時30分43秒 | 法律学

 私のホームページに掲載している「行政法講義ノート〔第5版〕」の作業が遅れていますが、第22回「行政調査」については、税務調査の根拠規定が所得税法などから外され、国税通則法に移されましたので、なるべく急いで作成します。

 国税通則法第7章の2「国税の調査」(第74条の2~第74条の13)

 これまでなかった「納税義務者に対する調査の事前通知等」が第74条の9に定められています。

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川崎市高津区の地ビール

2013年04月22日 00時07分12秒 | 写真

溝口のノクティB棟1階に、我が川崎市高津区の地ビールが売られているので、買ってみました。

Takatsubeer

 これを何で知ったのか、よく覚えていないのですが、マルイの広告であったかもしれません。川崎市高津区久地(くじ)四丁目にある会社、ブリマー・ブルーイングが発売しています。まさに私にとっては地ビールです。4種類がありますが、溝口では3種類が売られており、いずれも330ミリリットルの瓶で450円です。今回はゴールデンエールとペールエールを選んでみました。

 まずはゴールデンエールです。こちらは、溝口の店でも軽めで飲みやすいという旨の説明書きがありましたが、まさにその通りで、すっきりしています。軽いだけにコクはないということになりますが、嫌味もくどさもなく、それでいて味わいがあるビールです。すぐに気に入りました。ビールの苦味が苦手という方も意外と多いのですが、ゴールデン・エールはすんなりとした味ですので、たとえばパーティーか何かの席で乾杯をする際に、まさに最初の一杯として選べます。うちで安心して飲むには最適のビールとも言えますが、確実にもう一本飲みたくなるビールでもあります。

Takatsupalebeer

 次がペールエールです。こちらは少しばかり色も濃く、コクのある味です。しかし、飲みやすさではゴールデン・エールといい勝負で、ビールのお好きな方には最初からいける酒でしょう。私は両方とも気に入りましたが、どちらが好きかと尋ねられるならばペールエールと答えます。

 溝口のノクティにはポーターも売られています。これは黒ビールだそうですが、私はギネスなどの黒ビールをあまり好みませんので(サンクトガーレンのチョコレートスタウトは別ですが)、今回は購入していません。また、ブリマー・ブルーイングのサイト(http://www.brimmerbrewing.com/ja/)によれば限定品のスペシャルビールもあるそうで、今回は溝口でも売られていなかったのですが、試してみたいと思っています。

 それにしても、我が地元の川崎市高津区でこれほど美味いビールを作っているとは、最近になるまで全く知りませんでした。発売されている場所が限られているかもしれませんが、ゴールデンエールとペールエールはおすすめできます。

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映画の舞台にもなった一畑電車

2013年04月21日 13時22分14秒 | 写真

 4月も下旬となっているのに、今日は寒いですね。

 8時に、うちのベランダに温度計を置いてみたら、5度しかありません。「今、何月だっけ?」とカレンダーを確認してしまいました。18日の午後には「暑い!」というくらいの陽気だったのに、19日、20日、そして今日、気温が低い日が続いています。

 これでは体調を崩してもおかしくありません。気をつけなければ。

 ※※※※※※※※※※

 さて、今回は島根県を走る一畑電車を取り上げます。持株会社である一畑電気鉄道の子会社で、自動車社会の進展などによる乗客の減少により、存続が危ぶまれた時期もありました。1990年代に当時の運輸省が欠損補助金の見直しを表明した際に、この山陰の小私鉄の他、和歌山県の野上電気鉄道や宮城県の栗原電鉄なども欠損補助金に多くを頼っていたため、存続か廃止かの岐路に立たされました。野上電気鉄道は路線の廃止、さらに会社の解散を選択しましたし、栗原電鉄は第三セクターのくりはら田園鉄道に移行しました(2007年4月に路線廃止、会社解散)。一畑は地元自治体の支援を受けて存続しましたが、会社再編などが行われていますし、乗客の減少は現在も続いています。

 私が一畑電車を利用したのは、2010年8月1日のことです。当時、大東文化大学法学部法律学科の主任で、米子市と松江市での仕事が入り、初めて山陰地方に足を踏み入れました。前日に米子市で仕事をして、松江市に入りました。1日の午前中で業務が終わったので、せっかくだから出雲大社へ行こうと考えたのです。

 松江市から出雲大社へ行くにはいくつかの方法があります。最初はJR山陰本線に乗り、出雲市駅へ向かうことも考えました。しかし、本数が少ないのが難点です。また、仕事をした場所は松江駅から少し離れています。そこで、一畑電車北松江線の松江しんじ湖温泉駅に向かいました。

 名称の通り、すぐ近くに温泉がありますが、松江市役所の最寄り駅ともなっています。

 この駅は元々が北松江といい、松江温泉に改称された後、現在の駅名となっています。北松江線はこの駅から電鉄出雲市駅までの路線なのですが、時刻表を見ると松江しんじ湖温泉→電鉄出雲市の列車番号が偶数、電鉄出雲市→松江しんじ湖温泉の列車番号が奇数となっています。つまり、松江しんじ湖温泉→電鉄出雲市が上り電車ということになります。山陰本線であれば松江→出雲市は下りですので、逆になっている訳ですが、これは大正時代に電鉄出雲市側から開通し、昭和に入ってから松江しんじ湖温泉まで開通したという歴史的な事情によるもののようです。

 それにしても、JR松江駅から離れているというのは不便です。ここに一畑電車が抱える問題の原因の一つがあるように思えます。JR松江駅が宍道湖の南、松江しんじ湖温泉駅が宍道湖の北にあるという地理的な要因があることはわかりますが、もう少し東へ伸ばせば宍道湖の東端から大橋川となりますので、川を渡ってJR松江駅に接続できたでしょう。あるいは、松江城など市の中心部に入り込めたら、事情は変わっていたかもしれません。松江しんじ湖温泉駅も市街地の中にあると言えるのかもしれませんが、西の外れと言ってもよい場所にあります。

 ともあれ、上り電車の電鉄出雲市行きに乗ります。出雲大社への直通電車もあるのですが、本数が少なく、私が松江しんじ湖駅に到着した時には、乗ることができなかったのでした。そのため、出雲大社へ行くためには途中の川跡で大社線に乗り換える必要があります。

 上の写真は5000系です。外見ではわかりにくいのですが、私が学部生であった時代に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)京王線で走っていた5000系でした。内装も変えられていますが、京王線を走っていた頃の雰囲気は少々残っています。なお、同じ京王5000系でありながら2100系は全く外観が異なっており、京王時代の雰囲気が残っています。

 そう言えば、山陰本線の伯耆大山~西出雲が電化されるまで、島根県内の国鉄・JR線には電車が走っておらず、当時の一畑電気鉄道の各路線でしか電車を見ることができなかったのでした。

 松江しんじ湖温泉から出雲大社までは1時間ほどかかります。単線で、宍道湖の北側を走りますが、カーブも多く、速くありません。

 途中の一畑口ではスイッチバックをします。これは、一畑口から、一畑薬師に近い一畑駅までの路線があったことによるもので、戦争中に一畑口~一畑が休止され、後に廃止されてからも、スイッチバックは残ったままです。

 川跡駅で大社線に乗り換えます。やはり単線で、北側に山地を見ながら進むと、終点の出雲大社前駅に到着します。名称の通り、有名な出雲大社の最寄り駅です。かつてはJR大社線の大社駅もありましたが、1990年3月31日を最後に営業を終了しています。これは、大社線そのものが赤字ローカル線であり、国鉄からJR西日本に承継された後、1990年に廃止されたためです。なお、出雲大社に近いのは、立派な駅舎を有することで有名であったJR大社線の大社駅ではなく、一畑電車の出雲大社前駅です。

 2番線に3000系が止まっていました。車体にはかなりの傷みも見られます。それもそのはず、元は南海高野線を走っていたズームカー 、21001系で、昭和30年代に製造されたものなのです。南海時代とは全く異なる塗装を施されており、また、「しんじ湖ラムサール号」と書かれたヘッドマークをつけています。正面から見て左側の窓に「急行  松江温泉」という方向板(サボ)を掲げていますが、客を乗せていません。「松江温泉」は松江しんじ湖温泉駅の旧称です。

 京王5000系は1963年から69年まで製造された車両ですから、たとえ最後に製造されたものであるとしても44年が経過しています。50年前後と考えてもよいでしょう。南海21001系は1958年から1964年まで製造された車両なので、ほぼ確実に50年を経過しています。外見から老朽化が手に取るようにわかるくらいですから、そろそろ引退すべき時期に来ています。今後、東急の中古車(系列は不明)などを導入し、車両の置き換えをするようです。昨年廃止された十和田観光電鉄線を走っていた7700系あたりが手頃ではないかと思うのですが、果たしてどうなるのでしょうか。

 一畑電車の出雲大社前駅の駅舎は、国の登録有形文化財に登録されており、近代化産業遺産の指定も受けています。ここから少し離れたJR大社駅も、駅舎が残されており(観光案内所として利用されています)、重要文化財にも指定されていますが、造りは全く異なります。JR大社駅の駅舎は出雲大社を模したものといわれており、木造です。これに対し、一畑電車の出雲大社前駅の駅舎は西洋建築となっています。

 多くの中小私鉄と同様に、一畑電車もワンマン運転を実施しており、また、多くの駅には駅員がいません(つまり、無人駅です)。出雲大社前駅は、一畑電車でも数が少ない有人駅、つまり、駅員が配置されている駅です。

 駅舎の中に入ると、左側に改札口と窓口があり、自動券売機も置かれています。天井が高いので見上げてみると、天窓のガラスに色が付けられています。教会のステンドグラスをイメージしたものなのでしょうか。左右で同じ色のガラスが使われていますが、配置は非対称です。 この天窓のおかげで駅舎の中は明るいため、ガラスの配置には何らかの意味があるのかもしれません。

 時折、大型家電店やホームセンターへ行きます。照明器具を見ることもあります。上の写真にあるような照明器具を見たような記憶もありますが、よくわかりません。それにしても、この建物の屋根によく合う形をしています。

 松江しんじ湖温泉から一畑電車に乗り、この出雲大社駅にやってきたのは、勿論、出雲大社へ行きたかったからです。駅から5分ほど歩くと、出雲大社の入り口に着きます。意外だったのは、参道の人通りがあまり多くなく、店舗も少なかったことです。訪れたのが8月1日(日曜日)の午後で、たしかに初詣の時期ではないので、当たり前かもしれません。しかし、それにしても閑散としていました。太宰府天満宮を訪れると、季節を問わず参拝客や観光客が多いので、それに慣れてしまっているからかもしれません。

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また古い写真で恐縮ですが、西鹿児島駅の写真などです。

2013年04月19日 00時57分20秒 | 旅行記

 デジタルカメラの登場により、静止画および動画の撮影、そして保管も容易なものとなりました。私は、これまで撮影した写真や動画をSD、メモリースティック、USBメモリ、CD-R、DVD-Rなどで保管しています。さらに、アナログカメラで撮影した写真をデジタル化したものもいくつか保存しています。

 時々、そうしたデータを見返すことがあります。これまでにも、掘り出してはブログに掲載してきましたが、今回もそうです。1999年8月、私は宮崎県と鹿児島県を当時の愛車、日産パルサーJ1Jを運転して周るという旅をしました。その記録を、ここに載せておくこととします。以下は、「ひろば」に第145回「鹿児島での夏」として、2005年8月9日から9月21日まで掲載した記事の再録です。なお、一部に修正を施しています。

※※※※※※※※※※

 デジタルカメラを購入するまで、私は、それほど写真に関心がなく、あまりカメラを持ち歩いたりしていません。そのため、大分大学での卒業式(教育学部時代に私が代表を務めていた法律学科のもの)などを別とすれば、旅先の写真などもあまりありません。また、少ない写真も、整理をあまりうまくやらなかったこともあって、散逸しています。多分、何枚かは紛失しているのではないかと思われます。惜しいことをしたものです。

 もっとも、私は、いつも近所などを歩き回り、時には車で走り回っているのに、本格的な旅はあまりしていません。日帰りばかりなのです。大分に住んでいた頃も、福岡や佐賀、熊本や宮崎には何度か行っていますが、仕事の時を除けばどこかで宿泊することなく、たとえ真夜中であっても帰ります。自家用車を持つとこういうことになるのでしょうか。目的の一つが買い物だから、ということかもしれません。

 そんな私ですが、鹿児島と長崎に行った時は本格的な一人旅でした。既に長崎についてはこのコーナーでも取り上げていますので、今回は鹿児島です。撮影日は1999年8月13日と14日です。ちょうど、ザビエル上陸450周年にあたる時で、市内では関連の行事などが行われていたはずです。

 なお、アナログ二眼レフで撮影した写真をスキャナで読み込んだものばかりですので、画質の悪さについては御了承下さい。

Kagoshima01

 鹿児島市の代表駅、西鹿児島駅です。地元では西駅と言っていました。市の代表駅が鹿児島駅でなく西鹿児島駅というのも珍しく、とくに県庁所在地ではここだけでした。九州新幹線の開業日に鹿児島中央と改称しましたが、今も私は西鹿児島駅と言ってしまいます。それは、おそらく、私が小学生だった頃に訪れたブルートレインブームのせいでしょう。東京駅で「はやぶさ」や「富士」を見て、この西鹿児島駅まで行ってみたいと思っていたのです。「はやぶさ」は鹿児島本線(博多、熊本)経由、「富士」は日豊本線(大分、宮崎)経由で、どちらも24時間以上かかっていました。今は「はやぶさ」も「富士」も西鹿児島まで行きません。

 この駅は、私が訪れた九州島内の駅で、博多駅および小倉駅の次くらいに立派で大きな駅です。九州各県を代表する駅と言えば、博多駅、佐賀駅、長崎駅、大分駅、熊本駅、宮崎駅、そしてこの西鹿児島駅ですが、これらの全ての駅を利用したことがある私としては、西鹿児島駅の印象が非常に強く残っています。もっとも、それは大きさだけでなく、売られているお土産品のためかもしれません。商品を見ていたら、サツマイモで作ったものばかりが並んでいるのです。サツマイモそのものが段ボール詰めで売られていて、その隣に芋焼酎があり、という具合なのです。

 私が宿泊したのは、この西駅の近くにある鹿児島東急インですが、すぐそばに西郷隆盛と大久保利通の生家らしい場所があります。

Kagoshima02

 西駅の前に鹿児島市電の停留所があります。何日の何時頃に撮影したかわかりませんが、市内はこれに乗ってめぐることにしました。通勤用であれ観光用であれ、路面電車が走っているのは便利です。

 この時の旅行は、当初、鉄道を使うつもりでしたが、時刻表などで調べた結果、私が周りたいコースを取ると接続などに問題が生じることがわかりました。しかも、鹿屋には鉄道路線がありません(1980年代に大隅線と志布志線が廃止されました)。そのため、当時の愛車日産パルサーJ1J(川崎ナンバーで茶色のメタリック)を運転しました(この1ヶ月後にウイングロードXに乗り換えています)。

 8月12日に大分の自宅を出て、まもなく走行距離の総計が40000キロメートルを突破し、延岡で昼食のために休憩しただけで、宮崎市を南下して青島海岸を通り、鬼の洗濯岩を遠くから眺め(もっと近くで見たかったのですが駐車できなかったのです)、日南市に入って飫肥や油津などをまわり、都城へ出たのでした。都城駅前で一泊し、翌日は都城から鹿屋市と垂水市を周って桜島に入り、活火山の様子を見ていました。それからフェリーで鹿児島市街へ出ています。午後には指宿枕崎線に乗って山川へ行っているのですから、いかに気ままな一人旅とはいえ、よくぞここまで無茶苦茶なコース選択をしたものだと思います。もっとも、列車のダイヤなどがよければ終点の枕崎まで行くつもりでした。

Kagoshima03

 西駅から市電に乗り、終点の郡元に到着しました。市電は、鹿児島駅から交通局前を経由して谷山へ行く1系統と鹿児島駅から西駅を経由して郡元へ行く2系統があります。奥のほうが、交通局、天文館、そして鹿児島駅の方向です。

Kagoshima04

 もう6年前のことで、どのような行動をとったのか、日記を見返しても思い出せない部分もありますが、8月14日の午前中に、2系統に乗り、郡元で1系統に乗り換えて終点の谷山へ出ています。郡元から少し走ると、道路の上ではなく、専用の軌道に移っています。指宿枕崎線と並走しつつ、鹿児島市電で最も乗降客が多いという終点に到着しますが、指宿枕崎線の谷山駅は少し離れた所にあり、最初は迷います。

 谷山駅の周辺は、昭和42年まで谷山市という独立の市でしたが、同年に鹿児島市と合併しています。昭和40年前後は、昭和28年から30年あたりまでほどではないのですが、ちょっとした合併ブームだったようです。大分市と鶴崎市、大在村、坂ノ市町などが合併したのは昭和38年、宇佐町、駅川町、四日市町、長洲町が合併して宇佐市が誕生したのは昭和42年です。旅をしていた時には、合併のことを全く知らなかったのですが、合併後の谷山地域の発展はどうなのでしょうか。合併してよかったのか、悪かったのか。

Kagoshima05

 多分、市電で谷山から鹿児島駅前まで乗ったのでしょう。鹿児島駅から少し歩くと港に着きます。1549年8月15日、ザビエルは鹿児島に上陸します。その地点の付近なのでしょうか。それから450年、私が歩いた時は晴天でした。気温は30度を超えていたはずですが、東京のような異常な暑さを感じた記憶がありません。

Kagoshima06

 ザビエル上陸の記念碑などがある場所です。8月14日に撮影しました。この後、鹿児島県歴史資料センターに行き、ちょうど行われていた大ザビエル展に行きました。そこで色々な資料を見たのですが、かなり興味深いものばかりが並べられていました。

 ザビエルは、1549年8月15日に鹿児島に上陸しています。この鹿児島には10ヶ月ほどしか滞在していなかったそうですが、その後、平戸など、九州、中国地方などを周っており、現在の大分市を最後にして日本を離れています。そのためなのかどうか、当時のヨーロッパ人による日本地図では、九州がBungo(豊後)と記されています。最初の地点である鹿児島(薩摩)ではなく、最後の地点である大分(豊後)が選ばれている訳です(どうでもいいことですが、大分市の銘菓に「ざびえる」があります)。また、当時の地図には北海道が記されていません。日本人も北海道を知らなかったような時代だからでしょう。

 さらに、鹿児島は、大伴家持による「海行かば」に関係の深いところでもあります。万葉集に収録された長歌として知られていますが、続日本紀にも登場します。大日本帝国憲法時代の昭和12年に曲がつけられましたが、その際には万葉集のほうが選ばれています(続日本紀とは若干の違いがあります)。

 似たような例が、万葉集に撰ばれている持統天皇の短歌でしょう。百人一首にも登場するのですが、一部だけ言葉が違っており(変えられたのでしょうか?)、意味も違うものになっています。私は万葉集のほうがストレートで好きなのですが、いかがでしょうか。

Kagoshima07

先ほどの記念碑の場所にある説明板です。ここで、以前の水前寺公園の時と同じく、私自身が登場しています。別に狙った訳ではありませんので、あしからず。

Kagoshima08

 また市電に乗り、或る電停で降りました。鹿児島と言えば西郷隆盛、という訳でもないのですが、代表する人物であることは間違いありません。上野公園の銅像は幼い頃から何度も見ていますが、鹿児島の銅像はこの時1回だけです。こちらは犬を連れていません。

 さらに歩いて喫茶店で昼食を取ります。12日に都城駅前で夕食をとった時、地元の人に話しかけられたのですが、大分の方言には慣れた私でも理解しにくい方言であった上に相手が完全に酔っ払っていたので理解不能で、店の人に通訳をしてもらう始末でした。鹿児島市でも同様でした。当時の日記には「ハングルにも似た抑揚」と記していますが、熊本、鹿児島、宮崎の言葉を聞いていると、東北地方の人が九州の言葉を話しているようにも聞こえるのです。そのためか、テレビの時代劇などで西郷隆盛の役の人の台詞を聞いていても違和感があります。もっとも、西郷隆盛や大久保利通が公式の場でどのような言葉をいかなる口調で話していたのかは、もはや明らかにしようがないことでしょうが。

 今思い出したのですが、大分県の方言は、九州ではかなり異質で、中国地方や四国地方の言葉に近いような気がします。

Kagoshima09

 現在、鹿児島県歴史資料センターがある場所のあたりが鹿児島城(鶴丸城)でした。説明板にもあるように、17世紀の初頭、つまり江戸時代の初期に島津家の居城として建築されたものです。天守閣はなかったとのことです。明治6年に本丸居館群が焼失し、明治10年には西南の役によって二の丸が焼失しています。

Kagoshima10

 さらに歩き、西郷洞窟に出ます。ここは、西南の役の際に西郷隆盛が隠れた洞窟です。一日で回ると、頭の中が奈良時代と戦国時代と明治初期とでごちゃごちゃになりますが、ここは明治初期の話です。宮崎県の延岡市などにも西南の役の合戦場が残されていますが、やはり西郷隆盛の最期の場所であるこの周辺が最も有名でしょう。

Kagoshima11

 西郷洞窟のある場所からはバスに乗り、城山へ出ました。ここがまさに西南の役の最後の場所です。ここからは桜島がよく見えます。書いているうちに思い出し、また行きたくなりました。鹿児島最大の繁華街、天文館も見えます。

 この辺りを歩いていた時でしょうか、ごみの集積場に火山灰専用のコーナーがあることを知り、少しばかり驚きました。私が訪れた時はよくわからなかったのですが、活火山の桜島からは灰が噴出されます。風向きによっては鹿児島市内にも降り注がれますから、天気に関係なく傘が必要であるとのことです。ホテルで天気予報を見ていると、火山灰情報を目にすることができます。

 この後は、バスで天文館に行きました。南九州では最大の繁華街だということですが、たしかにその通りです。熊本市の通町筋電停付近もかなりの繁華街ですが、それより規模が大きいかもしれません。さらに西鹿児島駅前に行き、芋焼酎を数本買って一本を飲みながら無料のロックコンサートを見ました。この時の酔っ払ったおじさんが、演奏中のバンドにからんでいるのか楽しんでいるのかわからない状態で、しまいには曲にのって拍子をとったりしていました。

 8月15日に鹿児島市を離れたのですが、この日がまさに一人旅というべき、しかも出鱈目といえるコースで、まずは谷山を経由して薩摩半島を南下、長崎鼻へ出て、開聞岳を見ながら(かなり強い雨だったのであきらめました)枕崎に出て、廃止された鹿児島交通鉄道線の跡に沿うように加世田などを通り、串木野、出水を通り、水俣、日奈久温泉を通って八代へ出て昼食をとり、松橋などを通って熊本市に出ました。その間、高速道路は使っていません。さらに、国道57号線を使って阿蘇を抜け、朝地町から国道442号線を使って大分市の木ノ上に抜け、田尻を通って光吉で買い物をして帰りました。朝から夜まで運転し続けていたのです。パルサーのトランクの中には、都城と鹿児島で買った10本ほどの焼酎が入っていました。

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北青山一丁目にて

2013年04月14日 23時59分55秒 | まち歩き

港区北青山一丁目を歩いていた時に撮影しました。

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佐賀駅から中心街を歩く(その6)

2013年04月13日 00時42分25秒 | 旅行記

以下は、「待合室」の第351回として2010年2月26日から3月5日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。内容については一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 

佐嘉神社で参拝を済ませました。境内には大砲が置かれています。

 佐賀藩(鍋島藩)で製造された大砲で、日本で最初の鉄製カノン砲です(但し、復元したもの)。

 御存知のとおり、江戸幕府は1639(嘉永16)年から鎖国政策を続けてきました。しかし、時は19世紀に入り、イギリスやフランスの植民地活動が活発になってきます。ロシアも東への膨張政策を続けていました。1808(文化5)年にはフェートン号事件(同名のイギリス軍艦がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕えるなどの狼藉を働いたという事件)が起こります。そこで、鍋島直正が藩主に就いてからこの大砲が製造されたのです。佐賀藩ではペリーの来航より前から砲術の研究が進められており、1850年代には火薬の製造も始められています。また、反射炉の建設も進められ、1850(嘉永3)年には築かれていました。

 大砲のそばに、上の写真のような説明板があります。大砲(「太砲」と書かれています)の鋳造に関わった人々、鉄の精錬に関わった人々の名前が記されており、とくに東芝、川崎造船所の創立者の名前が目に付きます。日本の科学技術の原点を見るような思いがします。

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佐賀駅から中心街を歩く(その5)

2013年04月13日 00時13分32秒 | 旅行記

 以下は、「待合室」の第350回として2010年2月19日から26日まで掲載した記事です。写真の撮影日は2009年8月3日です。内容については一切修正を施しておりませんので、御注意ください。

 再び佐賀市に戻ります。しらやま商店街から南へ歩き続け、堀を渡り、公園のようになっている場所を歩きました。すると、佐嘉神社に着きました(佐賀は、かつて佐嘉と記されていたこともありました)。

 私はよく神社に行くのですが、詳しい訳ではありません。佐嘉神社も、場所を知らなかったばかりか、存在することも知らなかったのですが、かなり大きな神社であることがすぐにわかりました。佐賀県で最も大きな神社なのでしょうか。

 佐賀県と長崎県はかつての肥前国、佐賀市は鍋島藩の城下町です。肥前国からは明治政府の建設および発展に貢献した人々が多く輩出されました。上の7人はその代表的存在です。但し、明治政府の方針に不満を持つ人も少なくなかったようで、江藤新平は1874(明治7)年に佐賀の乱を起こして処刑されていますし、大隈重信は明治14(西暦1881)年の政変で一旦下野し、立憲改進党を組織しており、副島種臣は征韓論を主張してやはり一旦下野しています。もっとも、大隈は伊藤博文内閣および黒田清隆内閣で外務大臣となっておりますし、内閣総理大臣に二度就任しています(二度目に第一次世界大戦への参戦を決定したということです)。また、副島は枢密顧問官や内務大臣を歴任しています。

 1871(明治4)年、廃藩置県が行われました。この時には現在よりもはるかに多くの県が置かれており、佐賀県もその一つでした(当初は伊万里県と称していたようです)。しかし、各地で県の併合や分離が繰り返されます。佐賀県もその一つで、県が置かれて程なく、長崎県に併合されます。分離独立の上で再び佐賀県が設置されたのは1883(明治16)年のことです。九州では、他に宮崎県が鹿児島県に併合され、分離独立したという歴史があります。

 このような例は他の地方にもあります。代表は香川県でしょう。同県は高松県と丸亀県が合併して成立したにもかかわらず、すぐに徳島県と合併して名東県となり、2年後に分離して再び香川県として独立したのですが翌年には愛媛県に併合されます(徳島県は高知県に併合されます)。香川県の再分離は1888(明治21)年です。また、奈良県も一時期は堺県に併合されていました。

私が訪れた時にはほとんど参拝客がいなかったのですが、初詣の時期などには多くの参拝客が訪れるのでしょうか。

本殿に入ります。これから参拝をします。

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「基本法学概論」第1回目小テスト(4月11日実施)

2013年04月12日 01時29分18秒 | 受験・学校

 今年度は「現代社会と法」(1年生)ではなく、「基本法学概論」(2年生Cクラス)を担当します。

 早速、第1回目の小テストを実施しました。ここで一部を載せておきましょう。皆様も解いてみてください。

 ※※※※※

 Ⅲ 次の文章を読み、( ① )~( ⑤ )に適切な語句を入れなさい。なお、略語は不可とする。

 昨年12月に行われた( ① )議員選挙では最大で2.43倍の「一票の( ② )」があり、憲法に違反するとして各地で訴訟が提起された。3月6日に東京( ③ )裁判所から違憲判決(事情判決)が出されたのを皮切りに、多くの( ③ )裁判所から違憲(14件)または違憲状態(2件)という内容の判決が出された。中でも、3月25日の広島( ③ )裁判所の判決、および翌日の広島( ③ )裁判所岡山支部の判決は、この選挙を違憲かつ無効であると判断するものであり、衝撃を与えた。広島県選挙管理委員会は、3月29日に( ④ )へ上告する方針を固めており、( ④ )大法廷がいかなる判断を下すのかが注目される。ちなみに、選挙区や議員定数などを定める法律は( ⑤ )である。

 ※※※※※

 「現代社会と法」などの講義の内容に関わる設問でもあり、時事問題でもあります。3月、新聞、ネットなどで大きく報じられ、論じられた問題でしたが、意外に出来がよくなかったという印象を受けました。

 ( ① )の正答は「衆議院」ですが、ただ「衆」としか記されていない答案が目立ちました。「衆議員」という表現は、厳密にみて正しいものと言えませんので、不正解としています。また、「小選挙区」と記されている答案もありまして、全くの不正解とも言えないのですが、「小選挙区議員」という表現となるとどうなのか、と言われるでしょう。衆議院議員選挙の定数配分は、小選挙区選出議員だけの問題ではないからです。

 ( ② )の正答は「格差」です。意味からすれば「較差」でもよいのですが(むしろこの表現のほうが厳密には正しいのでしょう)、一般的には「格差」が使われています。この問題について空欄の答案が何枚かありますが、これはまずいと思われます。

 ( ③ )の正答は「高等」ですが、「地方」と書かれた答案も多かったのでした。引っ掛け問題に近いのかもしれませんが、報道をしっかり読んでいればすぐにわかりますし、憲法の講義でもこの辺りのことには触れられるでしょう。それ以前に、広島地方裁判所に岡山支部があるとすれば岡山県に地方裁判所がないということになりかねないので、おかしいとわかるはずです。ちなみに、選挙関連の訴訟の第一審が地方裁判所でなく高等裁判所であることは、公職選挙法第203条(「地方公共団体の議会の議員及び長の選挙の効力に関する訴訟」)、同第204条(「衆議院議員又は参議院議員の選挙の効力に関する訴訟」)などに規定されています。

 ( ④ )の正答は「最高裁判所」です。

 ( ⑤ )の正答は「公職選挙法」です。これも憲法の講義などで扱われるでしょう。

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