ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

おしらせです(2015年6月30日)

2015年06月30日 19時50分08秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 地方自治総合研究所から刊行されている雑誌「自治総研」の最新号(2015年6月号)が刊行されました。

 この中に、私の「2015(平成27)年度税制改正の概要と論点~地方税制の重要問題を中心に~」が掲載されています(76~102頁)。また、この雑誌は、地方自治総合研究所のサイトでもPDFファイルで見ることができますので、御覧いただけば幸いです。

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第8回 行政裁量論(その1)

2015年06月29日 10時12分26秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 はじめに

 今回の内容については、私の「租税法における行政裁量」『税務行政におけるネゴシエーション(日税研論集65号)』(2014年、日本税務研究センター)233頁もお読みいただければ幸いである。

 

1.裁量(Ermessen)の意味

 最近では、マスコミなどにおいても裁量という言葉が一般的に使用されている。かつて、田中二郎博士は、行政法の真髄は裁量であると言われたという。それほど、行政法において、裁量は重要な意味を与えられている。

 そして、裁量は、行政法において基本的な事柄(?)でありながら、最も難しい問題の一つでもある。もっとも、これは、日本の教科書において裁量という言葉そのものに対する説明がないことにもよるのかもしれない。私が学部生であった頃、日本語の行政法学の教科書で裁量について初学者向けにわかりやすく説明したものは皆無であった。むしろ、ドイツ語の行政法学の教科書のほうが、説明としては丁寧かもしれない。実際、日本でも定評のあるHartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrechtには図による説明が掲載されており、これによって私はようやく意味を理解したほどである※※

 ※以前、「現在も事情はそれほど変わらない。これでは教科書が売れなくなる訳である」と記したが、最近の教科書では裁量の意味などについて解説がなされているものが増えている。良い傾向である。

 ※※但し、現在のドイツ行政法学においては、後に取り上げる効果裁量のみが認められており、要件裁量を認める日本の行政法学とは異なっていることに、深い注意を必要とする。ドイツにおいては、学説も判例も要件裁量の存在を否定するのが一般的である。これは、裁量を認める範囲を限定しようとする意図から生じているのであろう。これとは対照的であるのが、日本の行政法学であり、判例である。とくに、これまでの行政法学は、行政裁量を統制する必要性を説きながらも、(少なくとも結果的には)判例に追従する形で、行政裁量が認められる範囲を広げてきた。

 また、裁量は、これ自体は行政作用でも何でもないが、行政法学においては、古くから行政行為(行政処分)について説明がなされてきたものである。現在においても、行政裁量論を行政行為(行政処分)の箇所において扱う教科書が少なくない。しかし、憲法学から明らかなように、裁量は、何も行政行為(行政処分)の専売特許ではない。憲法学においては立法裁量が登場するし、行政法学において、裁量は行政立法、行政指導、行政契約、委任立法などにおいても登場する。

 ここで、裁量という言葉の意味を説明しておくこととしよう。まず、国語辞典を開いて欲しい。私があの『広辞苑』とともに使用してきた、西尾実=岩淵悦太郎=水谷静夫編 『岩波国語辞典』〔第5版デスク版〕(1994年、岩波書店)432頁によると、裁量とは「自分の意見でとりさばき、処置すること」である。次に、法律学辞典を参照しよう。やはり私が長らく使用してきた、竹内昭夫=松尾浩也=塩野宏編『新法律学辞典』〔第5版〕(1989年、有斐閣)669頁によると「国家機関の判断又は行為が法の認める範囲内で法の拘束から解放されることを広く自由裁量という」。

 もう少し簡単に言うならば、裁量とは、法(主に法律であるが、憲法などによる場合もある)によって国家機関に与えられた判断や意思形成の余地のことである。

 例えば、Xという事実が存在し、それに対して考えられる適法な法的効果としてA、B、Cがあるとする。その際、行政庁は、どの法的効果が適切であるかを選択するという判断をする権限が与えられることがある。この場合、行政庁は、違法な法的効果Dを選んではならないが、A、B、Cのいずれの効果を選んでもよい(適法である)。A、B、Cの中からの選択において問題となるのは、違法性の有無ではなく、当・不当(妥当性・不当性)に留まる。そして、裁量行為とは、行政庁に裁量が与えられ、その裁量の結果としてなされた行為のことである。

 これに対し、Yという事実が存在し、それに対して考えられる適法な法的効果がEしか存在しない場合には、そのEをもたらす行為をしなければならない。こうした行為を羈束行為という。この場合、Fという法的効果をもたらせば、違法である。

 さて、以後の説明との関連もあるので、ここで不確定概念を取り上げておく。不確定概念が往々にして行政庁の裁量につながり、慎重に扱うことが求められているからである。もっとも、不確定概念が用いられているからといって行政権に裁量が認められるとは限らないことには、注意が必要である。

 法律の条文には、よく不確定概念が用いられる。これは、抽象的・多義的な概念のことである。本来、このような概念を用いないことが望ましいのであるが、現実には用いざるをえない場合が多い。不確定概念の例として、「正当な理由」(国税通則法第65条第4項など)、「必要があるとき」(国税通則法第74条の2第1項など)〔以上は経験概念を内容とする〕、「公益上必要のあるとき」(これは目的概念あるいは価値概念の例)がある。

 ●最三小判平成9年1月28日民集51巻1号147頁(Ⅱ―210)

 YはX所有の土地について収用裁決を申請したが、この土地については賃借小作権の存否に関する争いがあったので、収用委員会は小作権割合を4割とする不明裁決を行った。問題となったのは土地収用法第71条に規定される「相当な価格」の意味であるが、最高裁判所第三小法廷は、これを不確定概念であるとしながら、「通常人の経験則及び社会通念に従って、客観的に認定され得るものであり、かつ、認定すべきものであって、補償の範囲及びその額(中略)の決定につき収用委員会に裁量権が認められるものと解することはできない」と述べた。

 なお、この判決は、土地収用法における損失補償について完全補償説を採用したものとしても重要である。

 

 2.要件裁量と効果裁量

 一連の行政過程のうち、いずれの段階において行政権に裁量が認められるかという観点に立つ場合、要件裁量と効果裁量との区別が語られてきた。

 要件裁量とは、行政行為の根拠となる要件の充足について、行政庁が最終認定権を有する場合の裁量である。具体的には、認定された事実を(行政行為の)構成要件にあてはめる段階での裁量である。この段階にのみ裁量の余地を認めるのが、戦前の佐々木説(京都学派)であり、要件裁量説ともいう。

 これに対し、効果裁量とは、行政行為をするか否か、するならばいかなる行政行為をするかということについて、行政庁が最終認定権を有する場合の裁量である。この段階にのみ裁量の余地を認めるのが戦前の美濃部説(東京学派)であり、効果裁量説ともいう。

 要件裁量説に立てば、効果裁量はいかなる場合であっても認められないことになる(認める必要がないということであろう)。逆に、効果裁量説に立てば、要件裁量は認められないことになる。美濃部達吉博士は、行政行為(処分)の性質や、自由裁量・羈束裁量の区別との関連において、効果裁量についての三原則を提唱した。それによると、(1)「人民」の権利を侵害し、負担を命じ、またはその自由を制限する「処分」は、いかなる場合でも自由裁量行為ではない、(2)「人民」に新たな権利を設定し、その他「人民」に利益を供与する「処分」は、法律がとくに人民にその利益を要求する権利を与えている場合を除いて、原則として自由裁量行為である、(3)直接に「人民」の権利義務を左右する効果を生じない行為は、法律がとくに制限を加えている場合を除いて、原則として自由裁量である。

 判例はいかなる傾向を示しているのであろうか。戦前は効果裁量説に立っていたようである。戦後も、例えば最二小判昭和31年4月13日民集10巻4号397頁は、効果裁量説に立ちつつ、農地調整法第4条(昭和24年改正前)の規定は自由裁量を認めない趣旨であると述べた。この判決は要件裁量を否定したものであると理解されている。

 しかし、判例は、不確定概念との関係において要件裁量を認める傾向を強めている。そのため、近年において、要件裁量・効果裁量の区別はそれほど重要ではないとも言いうる。

 ●最一小判昭和36年4月27日民集15巻4号928頁

 事案:Y市立A中学校教諭であった原告Xは、Y市教育委員会からB中学校への転補処分を受けた。しかし、Xは、処分が違法であるとしてBに移らず、Aに留まった。Yは職務命令を発したがXが拒否したので、Xを懲戒免職処分に付した。Xは、この処分の取消を求める訴訟を提起した。いくつかの問題があったが、紹介処分に関する教育委員会の開催の告示が開始30分前になされ、しかも非公開であったことが、旧教育委員会第34条第4項にいう「急施を要する場合」に該当するかということなどが争点の一つであった。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、「急施を要する場合」についてY市教育委員会委員長(会議の招集権者)の要件裁量を認めた(高裁判決と逆の判断)。

 なお、この裁量は、後に取り上げる覊束裁量であると解すべきであろう。

 ●最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁(憲法判例としても有名なマクリーン事件、Ⅰ―80)

 事案:アメリカ人の原告Xは、在留期間を1年とする許可を受けて日本に居住した。Xは1年間の在留期間更新を申請したが、彼が在留期間中に無届で転職したこと、政治活動を行ったことが理由となり、Y法務大臣は申請を拒否する処分を行った。この事件では、当時の出入国管理令第21条第3項にいう「在留期間の更新を適当と認めるに足りる相当の理由があるときに限り」という文言が問題となった。

 判旨:最高裁判所大法廷は、まず、在留外国人の在留期間の更新が権利として保障されるものでないと述べ(出入国管理令第21条が根拠とされる)、在留期間の更新について法務大臣の広汎な要件裁量を認めた。また、法務大臣の判断が「全く事実の基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合に限り、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があったものとして違法となるものというべきである」とも述べている。

 この判決についての評価は少々難しいが、在留期間の更新が権利として保障されるものでないとする点において効果裁量説的な要素を持ち、美濃部三原則に従っているようにも見える(実際、効果裁量を否定している訳ではなかろう)。しかし、基本的には要件裁量を正面から認めるので、裁量の所在という点では佐々木説に立っているということになる。

 ●(専門的・技術的裁量) 最一小判平成4年10月29日民集46巻7号1174頁(伊方原子力発電所訴訟、Ⅰ―81)

 事案:某電力会社が核原料物質等規制法に基づき、内閣総理大臣に原子力発電所設置許可の申請を行い、内閣総理大臣は設置許可を行った。これに対し、近隣住民などが設置許可の取消を求めて取消しを求める訴訟を提起した。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、要件裁量という言葉こそ使わないが、原子炉施設設置許可について「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的判断にゆだね」られると述べた。さらに「原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてなされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきである」と判示し、実質的に裁量を認めている(原子力委員会や原子炉安全専門審査会という存在の意味が大きい)。

 専門的・技術的裁量は、主に要件裁量の段階において認められることになる。もっとも、本件の場合、内閣総理大臣に効果裁量が与えられているようにも解されるが、その前提が「原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断」にあることから、要件裁量も認められるという構造になっているのであろう。

 ●(やはり専門的・技術的裁量) 最三小判平成5年3月1日民集47巻5号3843頁(家永教科書第一次訴訟、Ⅰ―82①)

 最高裁判所第三小法廷は、教科書検定において「学術的、教育的な専門技術的判断」が求められることから文部大臣(当時)の合理的な裁量に委ねられるとした。しかし、「合否の判定、条件付合格の条件の付与についての教科用図書検定調査審議会の判断の過程(検定意見の付与を含む)に、現行の記述内容又は欠陥の指摘の根拠となるべき検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等に看過し難い過誤があって、文部大臣の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、右判断は、裁量権の範囲を逸脱したものとして、国家賠償法上違法となるものと解するのが相当である」と述べた。

 この判決においては、結局、裁量権の行使が違法と判断されたことになる。

 ●(清掃計画と裁量)  最一小判昭和47年10月12日民集26巻8号1410頁(Ⅰ―78)

 事案:浄化槽清掃業を営むXは、市長Yに対してH市における汚物処理業の許可申請を行ったが、Yは不許可処分をした。Xは不許可処分の取消しを求めたが、最高裁判所第一小法廷は、Xの請求を認めた東京高等裁判所判決を破棄し、事件を同高等裁判所に差し戻した。

 判旨:市町村長が許可を与えるか否かについては「清掃法の目的と当該市町村の清掃計画とに照らし、市町村がその責務である汚物処理の事務を円滑完全に遂行できるかどうかという観点から、これを決すべきものであ」り、市町村長の自由裁量に委ねられている。

 以上の事例は、要件裁量が認められたものである。しかし、判例の立場が効果裁量説から要件裁量説に移ったという訳ではない。

 ●(学生に対する処分) 最三小判昭和29年7月30日民集8巻7号1501頁

 某公立大学の学生は、A教授の解雇反対を主張して教授会の会場に入り込み、退場を求められたが拒み、大声で発言を続けて教授会を流会させた。このため、学長はこの学生を放学処分に付した。最高裁判所第三小法廷は、学生について懲戒処分を発動するか否か、懲戒処分のうちのいずれの処分を選ぶかを決定することが懲戒権者の裁量に委ねられていると述べている。

 学生に対する懲戒処分は、次に示す例とともに効果裁量が認められる典型的な事例であるといえる。

 ●(公務員の懲戒処分)  最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(神戸税関事件、Ⅰ―83)

 事案:税関の職員だった被上告人3名は、組合活動において指導的役割を果たし、業務の処理を妨げたとして懲戒免職処分に付された。3名はこの処分の無効確認と取消しを求めて出訴した。

 判旨:最高裁判所第三小法廷は、国家公務員法に定められた懲戒事由が公務員について存在する場合に「懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されている」と述べている。

 判例の流れを概観する限り、結局、要件裁量か効果裁量かという問題ではなくなっており、法律の規定の仕方、あるいは立法による行政への委任の仕方によって要件裁量が認められるか否かという問題になっている。

 そればかりでなく、裁量は、要件裁量の段階、効果裁量の段階においてのみ認められる訳ではない。ここでは、塩野宏『行政法Ⅰ』〔第五版補訂版〕(2013年、有斐閣)125頁以下の説を取り上げ、説明をしていく。

 行政庁の判断過程は、①事実認定、②事実認定への構成要件のあてはめ(要件認定)、③手続の選択、④行為の選択(するかしないか、するとしたらどのようなものをするか)、⑤時の選択(いつするか)に分けられる。

 ①は、裁判所による審査の対象となる。事実認定に裁量を認める訳にはいかないであろう。

 ②について裁量が認められるとする考え方が要件裁量説である。この場合、行政の終局目的というような程度にしか要件が定められていない、あるいは要件が法律上何も規定されていない場合に認められるというのである。

 ③についても、認められる場合がある。逆に、実体判断のための行政手続について裁判所による統制をした例(最一小判昭和46年10月28日民集25巻7号1037頁。Ⅰ―125番。個人タクシー事件)、行政庁の判断した材料およびその判断の仕方(他事考慮など)について裁判所による統制をした例(東京高判昭和48年7月1日行裁例集24巻6・7号533頁)がある。いずれも、後に取り上げる。

 ④について認める説が効果裁量説である。この考え方は、美濃部三原則に示されているように、国民の権利を侵害し、国民に負担を命じ、または国民の自由を制約する行為には(自由)裁量を認めず、逆に、国民に新たに権利を設定するなど利益を供与する行為、または直接的に国民の権利義務に関係のない行為には、原則として(自由)裁量を認める、というものである。

 ⑤についても、認められる場合がある。その例と考えられるのが、次の判決である。

 ●最二小判昭和57年4月23日民集36巻4号727頁(Ⅰ―131)

 事案:上告人である不動産会社Xは、建設会社Aと建物の建築請負契約を締結した。Aは建築資材の搬入をBおよびCに依頼したが、車両が道路法と車両制限令に抵触するため、道路管理者である東京都Y区に特殊車両通行認定を申請した。この申請は受理されたが認定がなされなかった。この建物の建設については住民の反対運動があり、Y区は、反対する住民との間での話し合いによる解決がなされるまで車両認定を保留するという通知をし、実際に半年近くも保留された。これに対し、Xは工事の中断によって損害を受けたとして損害賠償請求を行った。

 判旨:最高裁判所第二小法廷は、車両制限令第12条に規定される、道路管理者による車両の認定は許可などと異なり、確認的行為としての性格を有するもので基本的には裁量の余地はないとしつつも、この認定に附款を付しうることなどを理由として、具体的な事案に応じて裁量権を行使することが全く許されない訳ではないと述べた。

 現在においては、上述②および④のいずれにも裁量が認められ、さらに②および⑤についても裁量を認める場合がありうる、という傾向にある。これは、法律によって全ての行政活動を拘束できるように規定することが、もともと難しいし、ますます難しくなっていること、仮にそのようにするとかえって行政の硬直化を招くおそれがことによる。それだけに、裁量統制の問題はさらに重要になる。

 ▲事実認定に裁量は認められるのか?

 上記においては、「事実認定に裁量を認める訳にはいかない」として、行政庁による事実認定は全面的に裁判所による審査の対象となる、という立場をとった。しかし、近年、学説において、事実認定に裁量が認められる場合がある、という立場もみられる。

 たとえば、宇賀克也『行政法概説Ⅰ行政法総論』〔第5版〕(2011年、有斐閣)322頁は、「事実認定については行政裁量は認められないのが原則であるが、原子力発電所の安全性のように高度な科学技術的問題について専門的行政機関が判断を行った場合、裁量を承認する判例もある。この点を明言するのが、高松高判昭和59・12・14行集35巻12号2078頁である」と述べている(宇賀教授があげる判決は、伊方原発訴訟控訴審判決である)。

 また、櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕(2006年、有斐閣)98頁は、伊方原発訴訟最高裁判決のように、安全性の審査のような専門技術的判断が問題とされる場合には、要件裁量ではなく、事実認定裁量とでも言うべきものが認められるか否かについて見解が分かれる、と述べる。さらに、同書99頁は、ドイツ法とアメリカ法との違いを述べたうえで実質的証拠法則を持ち出しており、事実認定についても行政裁量が存在すると表現するかのような記述をなす

 ※なお、櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第4版〕(2013年、弘文堂)118頁も参照。

 もし、ここで事実認定に裁量が認められるというのであれば、安全性の審査は事実認定の段階での審査であり、そこに裁量が認められる、というように理解しうることとなる。

 実際のところ、宇賀教授の記述のうち、前半は曖昧な記述となっていて、事実認定と要件認定とが区別されているのか否かが判然としない。

 そして、仮に事実認定の裁量をいうのであれば、具体的にいかなる場面において裁量が働くのか。

 しかし、安全性云々が問題となる場合に、事実認定とは「設計図に書かれた数字、図、計算式が●●のようになっている」と判断することである、ということを意味するのではなかろうか。従って、その段階において裁量が認められる訳はないのである。原子力発電所に限らず、高層マンションでも何でもよいのであるが、数字、図、計算式が安全性の基準に照らして妥当なものであるか否かは要件認定の問題であるはずである。

 もっとも、「各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的な判断」というのは、実質的に要件認定が原子力委員会で行われているということで、内閣総理大臣が事実認定をしているというようにも読めなくはない。しかし、これでは諮問という形式を無視しかねないし、原子力委員会の判断を尊重したところで必ずしもその通りに判断しなくともよいということであれば、事実認定とは全く異なる。むしろ、効果裁量的なものと理解したほうがよいくらいである。

 宇賀教授による記述についてのもう一つの疑問は、伊方原発訴訟控訴審判決のどの部分が、事実認定に裁量を認めるものと理解しうるのであろうか、という点である。

 解答として考えられるのは、「原子炉等規制法が右のとおり抽象的、包括的な規定をするにとどめていることは、原子炉の安全性に関する判断につき行政庁の専門技術的裁量を予定し、その一環として、右判断のために必要な具体的基準を下位の法令及び行政庁の内規等で定めることを是認しているものとみられ、要するに、その基準の内容については、科学的・専門技術的見地から原子炉の安全性を確保するに足りると合理的に考えられる範囲内で、これを行政庁の裁量に委ねているものと解せられる」という部分である。

 しかし、これは事実認定ではなく、安全基準の設定の話である。安全基準の設定は、事実などを基にはするであろうが、要件設定を意味するのであり、要件認定に関する部分であろう。従って、事実認定における裁量ではない。このことは、判決の次の部分からも明らかであると思われる。

 「更に、右の原子炉規則等に定められている審査基準や設置法の安全審査会に関する規定からも明らかなごとく、原子炉の安全性に関する判断は、極めて複雑な技術体系を有するものを対象とし、多くの専門分野にわたる事柄につきそれぞれの専門家を動員して行われるものであり、しかも、その判断には、将来の予測に係る事項についてのものも含まれており、なお、事柄によつては、判断の方法・根拠等につき選択の余地があり、複数の方法のうちいずれかを選択したことが専門技術的見地からして不合理ではないとみられる場合もあると考えられる。したがつて、原子炉の安全性に関する判断は、それぞれの専門分野についての専門技術的知見に基づく個別的な判断を集積し、現在における科学的技術的知見、実績、専門家である審査委員の学識、経験等を結集した上での総合的な評価・判断として成り立つものといわざるを得ないから、かかる判断過程等からしても、右判断が行政庁の裁量を伴うものであることは否定すべくもない。

 そうすると、原子炉等規制法及び関連法令は、行政庁に対し、原子炉の安全性が肯定された場合における原子炉設置の許否についての政策的裁量のみでなく、安全性を肯定する判断そのものについても専門技術的裁量を認めていると解せられるから、原子炉設置許可処分は行政庁の裁量処分であるといわなければならない。

 もつとも、原子炉の安全性に関する判断が行政庁の裁量とされているのは、その判断の性質にかんがみ、具体的・かつ詳細な判断基準や判断過程等を法律に定めることが適切でないことから、いわば手段的に個別的な判定を行政庁に委任する趣旨であると思われるので、その裁量は、周辺住民の生命、身体にかかわることにも照らし、法律の委任する範囲内で合理的な根拠に基づき適正に行われるべきものである」。

 これが事実認定における裁量を肯定する論であるとすれば、事実認定という概念の幅が拡大されてしまっているとしか考えられない。日本における行政裁量論が抱える問題の一端を示すものと言いうるであろう。

 

 3.裁量と司法審査―自由裁量と覊束裁量―

 伝統的・通説的見解は、裁判所が審査しうる範囲という点から、自由裁量と羈束裁量とを分けていた。

 まず、自由裁量は、便宜裁量ともいい、法が個別事案の処理を行政庁の公益判断に委ね、行政庁の責任で妥当な政策的対応を図ることを期待している場合になされる裁量のことである。行政庁の政治的・政策的事項に属する判断や高度の専門的・技術的な知識に基づく判断であり、それを誤るとしても原則として当不当の問題にすぎない(客観的な法則性に即した法的判断ではない)。従って、判断の誤りは裁判所の審査の対象とはなりえない。当不当の問題として行政不服申立てなどによって行政内部の矯正を待つしかないとされ、適法違法の問題ではないこととなる。授益的行政行為の多くが自由裁量行為であるとされた。

 次に、覊束裁量は、法規裁量ともいい、法は明確な規定を欠いているが、行政庁が経験則や法的衡平感に基づいて客観的視点から個別事案に相応しい判断を行うことが予定されている場合になされる裁量のことである。通常人が共有する一般的価値判断に従いつつ、裁判所が法規裁量の正誤を判断する。つまり、法律問題として、裁判所の全面的審査の対象となる。賦課的行政行為の多くが覊束裁量行為であるとされた。

  要件裁量と効果裁量との区別については、覊束裁量と自由裁量との区別との関連で争われていた。東京学派は、要件裁量を否定しており、その上で、要件裁量を否定し、基本的に、賦課的行政行為を覊束裁量行為であるとし、授益的行政行為の多くが自由裁量行為であるとした。これに対し、京都学派は、効果裁量を否定し、基本的に、要件が規定されている場合であれば、たとえ不確定概念であっても覊束裁量行為であるとし、全く要件を定めていないか公益概念を示すのみであれば自由裁量行為であるとした。

 しかし、この区別も絶対的なものではない。具体的に区別が困難であることも多いし、両者が相対化していることもあって、区別しなくなる傾向にある。自由裁量であるからといって裁判所の司法審査権が全く及ばないという訳ではない(行政事件訴訟法第30条を参照。なお、現在のドイツ行政法学において自由裁量は存在しない旨が述べられるのは、この点にあるものと思われる)。逆に、覊束裁量であるからといって裁判所の司法審査権が完全に行使されるとは限らない。その意味において、自由裁量と覊束裁量とは量的な相違に留まるのであり、質的な相違を示すものではない。

 たとえば、前掲最三小判昭和52年12月20日は、公務員の懲戒処分(賦課的行政行為)について「国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである」と述べている。東京学派による伝統的・通説的な考え方によれば、懲戒処分は覊束裁量行為であるが、国家公務員法第82条(その前提として同法第98条第1項・第101条第1項、人事院規則14-1第3項(当時)がある)の規定は、覊束裁量と自由裁量との双方を認める規定である(第82条の本文は覊束裁量行為であるとも考えられるが、第3号は自由裁量を規定するものと解釈しうる)。

 また、最二小判昭和63年6月17日判時1289号39頁(Ⅰ―93)は、 優生保護法に明文の根拠がないにもかかわらず、医師会による医師指定処分の撤回を認容している。

 このようにしてみると、むしろ、行政庁に認められる裁量は質的にも量的にも増大している、ということがわかる。このため、裁量に対して裁判所がどの程度まで審査しうるのかという問題は、依然として重要であり、また、重要性を増してきているとも言いうる。

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やはり! JR北海道が留萌本線の廃止を検討

2015年06月28日 18時41分51秒 | 社会・経済

 私は北海道に2回しか行ったことがなく、しかもその2回とも北海道大学で行われた学会に出るためであって、新千歳空港と札幌市を往復しただけのような状態でした。ついでのことなので、札幌市内を走る地下鉄の全線と路面電車全線には乗りましたが、その他の路線と言えば、千歳線の新千歳空港⇔白石、函館本線の白石⇔桑園、札沼線の桑園⇔新琴似を利用しただけです。

 勿論、機会があれば鉄道を利用して北海道をまわってみたいとは思っていました。しかし、広大で、鉄道網を利用したくとも本数が少ないなどの問題があり、行けずじまいのままです。

 そのような私が北海道の話を記してよいものかと考えたのですが、やはり、昨日、今日と報じられているところを見て、取り上げない訳にもいかないと思い、記します。

 江差線の木古内⇔江差が廃止されたのは2014年5月のことですが、輸送密度の低い路線は多く、1980年代の国鉄分割民営化に際して設定された特定地方交通線の基準を仮に当てはめてみたらさらに廃止されそうな路線がいくつか出てきます。今日のテーマである留萌本線(深川⇔増毛)がその一つです。また、1月の土砂災害により鵡川⇔様似が不通となり、その後一部区間が再開したものの、再び不通となっている日高本線も、輸送密度が非常に低い路線です。

 留萌本線の先行きについては、かなり暗い見通しが一部で主張されていました。書名を忘れてしまいましたが、何冊かの本で読み、「近々廃止が言われるかもしれない」という予想も立ちました。そして、昨日(6月27日)の6時30分付で、北海道新聞社が「留萌線の廃止検討 まず留萌―増毛、18年度までに JR、沿線自治体に意向」(http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0150361.html)として報じました。IDとパスワードを入力しないと全体を読むことができないので、今回は一部のみを読みました。また、毎日新聞社が、今日(6月28日)の9時55分付で「JR北海道:留萌線の廃止検討 沿線自治体と協議へ」(http://mainichi.jp/select/news/20150628k0000e020132000c.html)として報じています。

 毎日新聞社の記事には、北海道内で輸送密度が500人未満となっている路線があげられています。2014年度の数字で、JR北海道再生推進会議によるものです。

 1.札沼線 北海道医療大学⇔新十津川(47.6km) 81人

 2.石勝線 新夕張⇔夕張(16.1km) 117人

 3.留萌本線 全線(深川⇔増毛。66.8km) 142人

 4.根室本線 滝川⇔新得(136.3km) 277人

 5.日高本線 全線(苫小牧⇔様似) 298人

 6.宗谷本線 名寄⇔稚内(183.2km) 405人

 7.根室本線 釧路⇔根室(135.4km) 436人

 8.釧網本線 全線(網走⇔東釧路。166.2km) 466人

 留萌本線はワースト3位となっています。しかも全区間でこの数字です。たしかに、この数字では廃止が検討されてもおかしくありません。

 また、札沼線(学園都市線という愛称があります)の場合は桑園⇔北海道医療大学の輸送密度が1万人を超えていますので、区間によって極端な差が出ています。最近、桑園⇔北海道医療大学が電化されたのに対し、北海道医療大学⇔新十津川は非電化のままであり、このうち、浦臼⇔新十津川は一日に3往復しかありません。

 さて、留萌本線です。記事では「留萌線」となっておりますが、ここでは「留萌本線」と記しておきます。この路線は、四国を除くJRグループの各本線では筑豊本線に次いで短い路線であり、2倍以上の距離を有していた羽幌線が廃止されてからは、支線もない地方交通線で、本線とは名ばかりの存在となりました。現在、深川駅の時刻表を見ると、留萌本線の下り列車は一日に8本で、このうち増毛行きが6本、留萌行きが2本となっています(なお、普通列車しか走らないのですが通過する駅もあります)。このようになったのは、沿線の過疎化と深川留萌自動車道のためでしょうか。なお、留萌本線には列車交換を行うことができる駅が(起点の深川を除けば)峠下と留萌しかありません。

 詳しいことはわからないのですが、留萌本線の中では末端区間となる留萌⇔増毛の利用客が特に少ないようで、この区間を2018年度までに先行して廃止するというのがJR北海道の意向です。この区間は、これまでにも雪崩、大雪などが原因で度々不通となっており、落石などに対する安全対策も行き届いていないようです。2012年にはこの区間で脱線事故も発生したのですが、抜本的な対策をとるためには50億円が必要とのことで、JR北海道としては拠出できない額であるということなのでしょう。たしかに、乗降客が少ないのに多額の費用をかけてもあまり意味がありません。

 これまで、JR北海道では利用者の少ない、あるいは皆無の駅を次々に廃止してきました。留萌本線では、1990年に桜庭駅が廃止され、1995年に浜中海水浴場駅(臨時駅)が廃止され、2006年に東幌糠駅が廃止されています。しかし、駅の廃止、ワンマン運転化、本数の削減、列車交換施設の廃止など、合理化を進めても、留萌本線の状況は良くなりません。JR北海道全体を見ても、2015年度3月期決算で営業赤字が過去最大になっています。これでは、留萌本線の廃止もやむをえない状況でしょう。

 しかも、問題は留萌本線に留まりません。上に示した路線、とくに現在は日高本線の行方が気になるところです。

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国学院大学と中京大学の法科大学院も募集停止へ

2015年06月26日 07時54分01秒 | 受験・学校

 昨日(6月25日)の日本経済新聞の6月25日付夕刊14面4版に「法科大学院の募集停止 中京大、来年度から」という記事が出ていたので、それを取り上げようかと思って書き始めたところ、今月16日に国学院大学が法科大学院の募集を2016年度以降に停止するという発表をしていました(「法科大学院に関するお知らせ」)。法学部で非常勤講師をしている私ですが、完全に見落としていました。同大学は、補助金の「基準額算定率」に基づくランキングでEランクとされていました。また、2014年に行われた司法試験で、国学院大学の法科大学院は合格者数4名で46位(桐蔭横浜大学、大東文化大学および鹿児島大学と同順位)、合格率は6.3%で、5月29日付の朝日新聞朝刊38面14版「法科大学院 サバイバル」の「昨年度の司法試験で合格率が1割未満の法科大学院」という図表に登場します。

 一方、中京大学ですが、日経の夕刊では完全なベタ記事で、相当に気をつけていないと見落とすようなものでした。また、今日付の朝日新聞名古屋本社版朝刊27面14版にも「中京大、法科大学院募集停止」という記事が掲載されていますが、こちらも完全なベタ記事です(位置の関係で、こちらのほうが探しやすいのですが)。中京大学は、5月29日付朝日新聞朝刊の図表に登場していません。また、2014年の司法試験で、中京大学の法科大学院は合格者数3人で50位、合格率は13.0%でした。同じ順位となったのが名城大学、獨協大学、青山学院大学、東北学院大学、静岡大学、琉球大学、京都産業大学、香川大学、関東学院大学ですが、獨協大学、東北学院大学、静岡大学、京都産業大学、香川大学および関東学院大学は、既に募集停止をしているか募集停止を発表しているところです。

 何度も出している「基礎額算定率」を、再び出しておきます。既に募集停止を公表している大学については取り消し線を付しました。

 【基礎額算定率】

 A(90%)

 早稲田大学(45%加算)、一橋大学(40%加算)、東京大学(35%加算)、京都大学(30%加算)、慶應義塾大学(30%加算)、北海道大学(15%加算)、大阪大学(15%加算)、上智大学(10%加算)、名古屋大学(5%加算)、学習院大学(5%加算)、中央大学(3%加算)、東北大学(1%加算)、筑波大学(加算無し)

 B(80%)

 神戸大学(20%加算)、創価大学(15%加算)、成蹊大学(5%加算)、愛知大学(5%加算)、千葉大学(5%加算)、九州大学(加算無し)、横浜国立大学(加算無し)

 C(70%)

 同志社大学(35%加算)、岡山大学(24%加算)、琉球大学(15%加算)、立教大学(10%加算)、甲南大学(5%加算)

 D(60%)

 立命館大学(7.5%加算)、金沢大学(5%加算)、明治大学(5%加算)、広島大学(5%加算)、関西大学(5%加算)、関西学院大学(5%加算)、西南学院大学(5%加算)、青山学院大学(4%加算)、静岡大学(加算無し)熊本大学(加算無し)、法政大学(加算無し)、神奈川大学(加算無し)中京大学(加算無し)、南山大学(加算無し)、近畿大学(加算無し)、日本大学(改革案提案無し/加算無し)、山梨学院大学(改革案提案無し/加算無し)東洋大学(改革案提案無し/加算無し)、名城大学(改革案提案無し/加算無し)、福岡大学(改革案提案無し/加算無し)

 E(50%)

 北海学園大学(加算無し)、京都産業大学(加算無し)國學院大學(改革案提案無し/加算無し)、駒澤大学(改革案提案無し/加算無し)、専修大学(改革案提案無し/加算無し)、桐蔭横浜大学(改革案提案無し/加算無し)、愛知学院大学(改革案提案無し/加算無し)

 また、これまで法科大学院の募集停止を公表した大学も記しておきます(既に廃止となっているところもあります。また、公表順ではありません)。

 東北地方:東北学院大学

 関東地方:白鷗大学、大宮法科大学院大学(桐蔭横浜大学に統合)、獨協大学、駿河台大学、大東文化大学、東海大学、東洋大学、明治学院大学、国学院大学、関東学院大学、神奈川大学

 中部地方:新潟大学、信州大学、山梨学院大学、静岡大学、愛知学院大学、中京大学

 近畿地方:京都産業大学、龍谷大学、大阪学院大学、神戸学院大学、姫路獨協大学

 中国地方:島根大学、広島修道大学

 四国地方:香川大学

 九州地方:久留米大学、熊本大学、鹿児島大学

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古川元久『財政破綻に備える 今なすべきこと』(ディスカヴァー携書146)

2015年06月24日 10時40分27秒 | 本と雑誌

 先程、日経平均株価がITバブル期の高値(20833円、2000年)を突破したという速報が入りました。

 これで景気が回復していることが明らかである、アベノミクスは正しい、という論調が強まりそうですが、そのように単純な評価が妥当であるかどうかには疑問が残ります。円安基調が続いているからです。

 一時的には良い調子なのかもしれませんが、国債の格付け、国・地方を通じた債務の高さなどを考慮に入れるならば、今の日本の「安売りセール」が長い目で見れば損失をもたらすとしか言えないのではないでしょうか。2000年代当初のいざなみ景気と似たような状況になるかもしれません。

 通貨が安くなって経済が長期的によくなったという国は、あまり聞いたことがありません。逆に、通貨安で通貨危機や経済危機を迎えた国なら、いくらでもあげられます。最近(?)の例なら、韓国、タイ、マレーシア、ロシアといったところがすぐに思い浮かびます。通貨が強いほうが望ましいのは、とくに日本のようにあらゆる資源を輸入に頼っている国であれば当然のことでしょう。通貨安で多くの国富が逃げ出すということは、覚悟しておかなければなりません。少なからぬ日本企業が買収される可能性すらあります。

 昨日、たまたま入った書店で、古川元久『財政破綻に備える 今なすべきこと』(ディスカヴァー携書146)を買いました。このディスカヴァー携書は、最近の新書にしては良質なものが多いので、私も何冊か購入しました。今回買った本もそうです。限られたスペースに様々な論拠が具体的な数値などとともにあげられており、説得力のある本です。一読をおすすめします。

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国学院大学法学部「行政法1」(金曜日4限)の補講について

2015年06月21日 10時06分34秒 | 受験・学校

 かなり前から、6月27日に補講を行うことをお伝えしておりましたが、昨日の午後に時間割が発表されました。

 補講は、6月27日の3限(12時50分~14時20分)に5201教室で行います。

 通常の講義とは異なる教室ですので、注意して下さい。

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小倉駅で北九州モノレールを

2015年06月20日 00時50分45秒 | 写真

今回も2003年6月28日に撮影した写真を掲載します。

 北九州市小倉北区にある、北九州市の代表駅と言える小倉駅から、同市小倉南区にある企救丘(きくがおか)駅までの北九州モノレールです。正式には北九州高速鉄道小倉線というのですが、北九州モノレールと言われるのが一般的です。

 写真の車両は1000形で、この路線が開業した1985年から現在まで30年にわたって運用されています。ワンマン運転で、私が利用した時にはATO装置による自動運転が行われていましたが、現在はATC装置を利用した手動運転に変わっています。

 西鉄北方線の代替という意味も有するモノレールですが、開業からしばらくの間、小倉駅に乗り入れることができず、現在の平和通駅が当初の小倉駅でした。そのため、JR小倉駅から離れてしまい、乗客が乗り換えるには徒歩連絡を強いられる環境となり、長らく赤字が続いていました。JR小倉駅に乗り入れるようになったのは1998年のことです。

 JRの改札口や駅ビルの通路からモノレールのホームと電車が見えるという特徴的な構造で、一度見れば忘れられない光景です。また、この構造のためか、屋根が低く、圧迫感を覚えます。

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行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版 第13回 行政行為論その5:行政行為の職権取消と撤回

2015年06月17日 00時55分01秒 | 行政法講義ノート〔第6版〕に向けての暫時改訂版

 ★はじめに

 第9回の冒頭において「行政行為に限らず、行政契約などを含めて行政作用を学ぶ際には、まず、民法学の法律行為論を復習していただきたい」と記した。第10回において扱った行政行為の附款は、民法の附款論と土台を共通とするし、第12回において扱った行政行為の瑕疵も、実は民法学における法律行為論の応用であることがおわかりいただけるのではないかと思う。今回取り上げる行政行為の取消も、基本となるのは法律行為論である。

 

 ★★本論

 

 1.裁判所(の判決)による取消と行政庁による取消

 行政行為の取消という場合、裁判所による取消と行政庁による取消とがあるが、日本の行政法学においては双方を取消と称するために、混乱を避ける意味で、この講義ノートにおいては行政庁による取消を職権取消と表わすことにした。ドイツにおいては、裁判所による取消をAufhebung、行政庁による取消をRücknahmeというのが一般的である。ちなみに、撤回はWiderrufである。

 

 2.行政行為の職権取消

 (1)職権取消の意味

 行政行為の職権取消とは、既に述べたように行政庁による取消である。取消とは、違法な行政行為の効力を、原則として行政行為がなされた時点まで遡って失わせることである※。法律関係を元に戻すということでもある。この点において、法律による行政の原理の回復であると言いうる。

 取消権を有するのは、第一に行政行為を行った行政庁である。その他、その行政庁の上級行政庁は、監督権限の行使の一環として取消権を有する。なお、行政不服審査法に基づく不服申立の結果として、不服審査庁が行政行為を取り消す場合は、ここにいう職権取消に該当しない。

 ※民法第121条は「取消しの効果」として「取り消された行為は、初めから無効であったものとみなす。ただし、制限行為能力者は、その行為によって現に利益を受けている限度において、返還の義務を負う」と定める。

 (2)職権取消の根拠

 行政行為の職権取消も、行政行為である。そのため、第9回において示した行政行為の定義などからすれば、職権取消にも法律の根拠が必要ではないかと思われるかもしれない。

 しかし、通説(・判例)は、職権取消について法律の根拠を不要と解する。問題はその理由であるが、塩野宏教授は「法治国原理の要請するところ」と主張している※。取消が法律関係を瑕疵のない状態に戻すことを意味し、また取消が法律による行政の原理の回復であると理解することができるので、妥当な見解であろう。

 ※塩野宏『行政法I』〔第五版補訂版〕(2013年、有斐閣)170頁。

 (3)行政行為の職権取消に制約はあるのか?

 職権取消は、行政庁が瑕疵ある行政行為の効力を失わせるものである。しかし、そのことから行政庁が職権取消を無制約になしうるという訳ではない。これについては、対象となる行政行為の性質に照らして検討をなすべきである。

 まず、賦課的行政行為(不利益処分)の職権取消については、とくに問題はないと考えられる。但し、行政行為の相手方にとっては賦課的行政行為であっても、他の関係者など第三者にとっては授益的行政行為であるというような場合には、第三者の利益を保護する必要性から、制約があるものと考えられる。

 これに対し、授益的行政行為(許可、認可など)については問題がある。私人は行政行為の存続を信頼している。そこで、信頼保護の観点からの制約、さらに法的安定性の観点からの制約が存在すると考えられるのである。学説は、一般論としてこうした制約を認めているが、具体的にいかなる場合にこうした制約が認められるか、答えることは難しい。

 (4)職権取消の効果

 既に記したように、一般的には行政行為がなされた時点にまで遡り、行政行為の効果は失われる。これを「取消は遡及効を有する」と表現する。但し、学説は、授益的行政行為の職権取消について遡及効を持たない取消(つまり、将来に向かってのみ効果を生ずる取消)の余地を認める。

 

 3.行政行為の撤回

 行政行為の撤回とは、成立時には適法であった行政行為を、その後の事情によって効力を存続させるのが望ましくなくなったときに、将来に向かってその効力を失わせることである※。法令上は取消しという言葉を使うが、全く意味が違う。

 ※法律によっては、特別な場合に撤回に遡及効を認めている。

 職権取消と同様に、行政庁による撤回行為も行政行為である(このように考えないと説明がつかない)。しかし、通説・判例は、撤回についても、とくに法律の根拠を必要としないとする。実はその理由が明確であると言えないのであるが、一つの考え方は公益適合性である※。また、処分権限に法的根拠を求めることも可能であるかもしれない※※。

 ※田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1974年、弘文堂)155頁。塩野・前掲書173頁も参照。

 ※※塩野・前掲書174頁も参照。

 これに対し、授益的行政行為の撤回については法律の根拠を要するという説も有力である。もっとも、撤回については法律に明文の根拠を置く場合が多い。

 ●最二小判昭和63年6月17日判時1289号39頁(Ⅰ―93)

 事案:Xは産婦人科などを開業する医師であり、医師会Yから優生保護法第14条第1項の指定を受けていた。しかし、Xは実子斡旋行為を行っており、これを公表した。こうした事実などが存在したため、Yは指定を「取り消した」。Xは指定取消処分などの取消と損害賠償を求めて出訴した。

 判旨:最高裁判所第二小法廷は、撤回によってXが不利益を受けることを考慮しても、その不利益を公益上の必要性が上回るような場合には、法令に直接の根拠がなくともYはXに対する指定を撤回することができると判断した※。

 ※ちなみに、この判決の事案がきっかけとなって、民法に特別養子制度の規定が追加されることになった。

 なお、職権取消の場合と異なり、行政行為をした行政庁のみが撤回をなしうる(上級行政庁が外されている点に注意すること)。

 (2)撤回に制約はあるのか?

 撤回は、違法な行政行為の効力を失わせる行為ではない。敢えて言うなら公益などに照らした上で(適法ではあるが)不当な行政行為の存続を断ち切る行為である(そのために、遡及効がないとされるのである)。その上で、とくに法律の根拠が必要とされていないために、制約については職権取消以上に問題がある。学説などにおいては、職権取消と同様に、対象となる行政行為の性質に照らして議論を展開させている。

 まず、賦課的行政行為の撤回については、原則として自由であると解される。これは、適法性の問題ではなく、行政行為の相手方の利益保護という問題に由来するものであると思われる。

 これに対し、授益的行政行為の撤回については、やはり信頼保護などの問題がある。適法な行政行為の効力を失わせるのであるから、行政行為の相手方の利益保護という観点は欠かせない。他方、公益上の要請など、適法ではあっても行政行為の存続が望ましくないという場合もありうる。そのため、基本的に比較衡量的な視点に立って考察を進めなければならない。

 制約については、おおむね、次のような原則が立てられることとなるであろう。

 ①行政庁は恣意的に撤回することが許されない。

 ②公益上の理由による撤回については、既得権保護の要請を上回るものでなければならず、認められたとしても、私人の既得権益などとの調整を必要とする。

 ③授益的行政行為を受けた相手方が、その行政行為の根拠となる法律に定められた義務に違反した場合など、有責事由をなした場合には、撤回が認められる。このような場合については、明文で定めることが多い。

 ④当初は許可要件などが私人に存在したが、その後消滅した場合にも、撤回が認められる。このような場合についても、明文で定めることが多い。

 このうち、②については、期間の定めがあれば(法律の規定により、または附款により)、期間内の撤回が許されないと解することが可能である。そうでない場合には撤回をなしうるが、その際に相手方に補償をすべきか否かという問題が残る。

 ●最三小判昭和49年2月5日民集28巻1号1頁(Ⅰ―94)

 Xは、レストランなどの事業を営むために東京都が所有する土地を借り受けた。この土地はXの自己負担で整地されたが、程なく一部が占領軍に接収され、一部は喫茶店の敷地として利用されたが、大部分は放置された。東京都は卸売市場の用地とするため、土地の半分強についてXに対する使用許可を「取消し」た上、喫茶店の建物を残りの土地に移転することを命じた(行政代執行で実現)。この事件においては、使用許可を「取り消された」部分について補償金の支払いが必要か否かが争われた。

 判旨:最高裁判所第三小法廷は、行政財産としての土地についての使用許可によって与えられた使用権に期間の定めがない場合には「当該行政財産本来の用途または目的上の必要を生じたときはその時点において原則として消滅すべきものであり、また、権利自体に右のような制約が内在しているものとして付与されているもの」であるとして、補償の請求を認めた東京高等裁判所判決を破棄し、差し戻した。

 なお、判決において、「使用権者が使用許可を受けるに当たりその対価の支払いをしているが当該行政財産の使用収益により右対価を償却するに足りないと認められる期間内に当該行政財産に右の必要(注:行政財産本来の用途または目的上の必要)を生じたとか、使用許可に際し別段の定めがされている等により、行政財産について右の必要にかかわらず使用権者が当該使用権を保有する実質的理由を有すると認められる特別の事情が存する場合」には補償が必要とされると述べられている。

 

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2003年6月28日、平成筑豊鉄道

2015年06月16日 21時36分01秒 | 写真

 平成筑豊鉄道は、旧国鉄の赤字ローカル線であった伊田線(直方~田川伊田)、田川線(行橋~田川伊田)および糸田線(金田~田川後藤寺)を引き受けた路線です。実際には国鉄からではなく、JR九州から引き継がれました。1989年秋のことです。それ以来、2009年度まで、第三セクター用の気動車であるLE-DC(富士重工製)の一つ、100形を運行してきました。

 今回は、その100形の写真です。2003年6月28日、大分駅から特急に乗り、行橋駅で降り、田川線に乗ろうとしているところです。

 田川線の起点にして日豊本線との接続駅である行橋駅で撮影しました。高架駅の片隅で、日豊本線の上りホーム(小倉方面)の南側が切り欠かれており、そこが平成筑豊鉄道のホームです。

 この列車に乗り、直方を目指しますが、到着したのは金田行きでした。伊田線の途中にある駅なので、最初は「変だな」とも思ったのですが、車両基地は金田駅の構内にあります。また、金田駅で糸田線と接続します。

田川線は単線ですが、伊田線は石炭輸送のために複線化されています。日本各地に旧国鉄ローカル線から転換された第三セクター(などの)路線がありますが、全線複線は伊田線だけです。

私が乗ったのが金田行きであったため、ここで直方行きに乗り換えます。

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2003年6月28日、直方駅にて

2015年06月15日 00時13分36秒 | 写真

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