ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2014(平成26)年もあと少し

2014年12月31日 00時40分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

 あれこれとあった今年ですが(否、これは毎年のことですが)、私にとっては、(共著ですが)租税法の教科書、日税研論集の論文、『行政法の争点』所収の論文、そして自治総研の論文など、最近では多くの業績を公表できた年でした。来年はもっと多くの業績を発表できるようにしたいと考えています。

 また、8月29日、9月1日および2日に、国土交通大学校で憲法の講義を担当しました。大分大学時代は教養科目として日本国憲法の講義を担当しましたから(余談ですが、当時、教育福祉科学部で、そしておそらくは大分大学全体でも、最も多くの教養科目を担当していたのは私です)、約10年ぶりということになります。私にとっては、行政法であれ租税法であれ財政法であれ、必ず憲法と結びつくものなのです。

 仕事以外では、8月30日に青葉台のフィリアホールで行われた渡辺香津美さんと沖仁さんのコンサート、10月12日にサントリーホールで行われた堤剛さんのコンサート、そして12月13日にフィリアホールで行われた吉野直子さんと堤剛さんのコンサートが、強く印象に残っています。特に、吉野さんのコンサートでは現代音楽の優れた作品が必ず取り上げられ、行く度に、それまで知らなかった曲の魅力に引きつけられたりします。ドビュッシーの「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」を知ったのも、数年前のコンサートでしたし、今月はヒンデミットとユン・イサンでした。

 当たり前ですが、全てが上手くいった訳でもありません。とくに、メインのSDカードがトラブルを起こしたことは、最近のことであるだけに打撃を受けました。

 ところで、10月24日から大晦日の今日まで、毎日ブログを更新してきましたが、いかがでしたでしょうか。今年、OCNのブログ人サービスが終わったことで、やむをえずgooブログに移行しましたが、ホームページの更新より手軽なので、あれこれのネタを取り上げてみた訳です。来年も、できる限り毎日のように更新しようかと考えています。

 あとは、今日の23時30分からテレビ東京で生中継される東急ジルヴェスター・コンサートを見て、来年を迎えるだけです。年末年始のテレビ番組で楽しみにしているのはこれだけです。もう10年以上、大晦日はこの番組しか見ません。ただ、今回、フィナーレがラヴェルのボレロであることだけは気に入りませんが(ラヴェルが残した最悪の曲と思っていますので)。

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溝口三丁目散歩(2)

2014年12月30日 00時31分35秒 | まち歩き

前回に引き続き、溝口三丁目を歩きます。国道409号線の裏道のような場所を歩き、旧大山街道へ向かいましょう。

 前回の後半に登場した交差点で、北側を撮影してみました。国道409号線に出る道で、今年の9月30日14時まで営業していたローソン高津駅前店(「近所のコンビニが閉店する」でも取り上げました)の脇に出ます。途中に高津湯という銭湯があります。溝口でも高津駅付近には木造アパートがまだ多いためでしょうか。

 私が小学生時代を過ごした1970年代後半には、川崎市高津区や中原区にも多くの銭湯が営業していたのですが、その頃に坂戸三丁目にあった銭湯が廃業しています。1980年代から目に見えて減少し始め、1990年代、私が大学院生であった頃には溝の口駅南口の片町にあった銭湯も今はないようです。神奈川県浴場組合のサイトによると、高津区には8軒あるのですが、6軒は橘支所管轄地区にあり、橘地区でないのは高津湯と湯プラザウェルネス(諏訪一丁目)だけです。

 交差点を西へ、旧大山街道へ向かって歩くと、溝口南公園に着きます。この公園については、2011年4月11日9時32分52秒付の「川崎市高津区溝口 旧大山街道散歩 その3」において記しておりますので、そちらも御覧いただきたいのですが、重複を承知で記すと、かつての高津図書館所在地がこの公園です。現在の高津図書館は溝口四丁目、高津小学校の東隣にありますが、そこには文教大学の付属小学校がありました。公立の小学校と私立の小学校が隣り合っている所というのは珍しいのではないでしょうか。あまり聞いたことも見たこともありません。

冬休みに入って間もない時期で、子どもたちが遊んでいました。高津図書館の建物があった頃には、写真の奥の方に利用者の出入口があり、手前側からは入ることができなかったと記憶しています。 

 公園の敷地内と言ってよい場所に、高津こども文化センターがあります。いわゆる公設民営方式を採用している施設で、設置者は川崎市ですが、運営を行っているのは公益財団法人かわさき市民活動センターです。「こども」という言葉も抽象的で、何歳から何歳までなのかがよくわからないのですが、この施設は0歳から18歳までを利用対象者としています。7月の高津区民祭や2月の大山街道フェスタにも協力しているそうです。詳しい活動内容についてはかわさき市民活動センターのサイトを御覧いただくことといたしましょう。

 なお、この文化センターの管轄施設として、高津小学校わくわくプラザ下作延小学校わくわくプラザおよび久地小学校わくわくプラザがあります。

寒い冬の昼間ですが、私が小学生であった頃には、もう少し子どもの数が多かったような気がします。単純に少子化のためであるという訳でもなく、塾通いなどの影響もあるのでしょう。

それにしても、奥のほうに写っているマンション群を見る度に、月日の流れを感じます。

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溝口三丁目散歩(1)

2014年12月29日 13時35分19秒 | まち歩き

 高津区の中心である溝口と言えば、多くの方はJR南武線武蔵溝ノ口駅、東急田園都市線溝の口駅の周辺を思い浮かべることでしょう。しかし、地図を見ればすぐにわかるように、双方とも溝口の南端にあります。昭和になって鉄道が通るまでは、むしろ外れの地域でした。元々、大山街道の溝口宿として賑わっていたのは、現在の三丁目や四丁目でした。最寄り駅は田園都市線の高津駅です。

 住居表示が実施される前の溝口1番地は、高津駅前、現在の四丁目1番で、マクドナルドがある場所です。高津警察署も四丁目にありますし、溝口交差点と言えば府中街道と旧大山街道が交差する地点、現代流に言えば国道409号線と神奈川県道14号鶴見溝ノ口線とが交差する地点にして県道の終点で、南側が三丁目、北側が四丁目です。

 さて、今回は高津駅から溝口三丁目を歩きます。大まかに言えば、東は田園都市線、西は国道246号線、南は二ヶ領用水、北は国道409号線に囲まれた地帯ということになります。

  高津駅から田園都市線の高架に沿い、溝の口駅方面に歩いて行きます。右側に見えるのが帝京大学医学部附属溝口病院で、三丁目で一番目立つ存在となっています(正面は国道409号線のほうにあります)。田園都市線の電車からもこの建物はよく見えますので、迷うことはないでしょう。

 建物が古そうに見えますが、1973年7月に開院していますから、もう40年を超えています。現在、田園都市線を基準とすると反対側の二子五丁目、田園都市線の高架と住吉書房高津店跡との間で新病院を建設中で、完成次第、移転するようです。なお、二子五丁目には以前から研究棟があります。

 田園都市線の高架沿いに歩くと、程なくT字路となり、ここからは迂回せざるをえなくなります。最近自転車置き場も設置されたこの場所ですが、記憶に誤りがなければ、右側の空地となっている場所やマンションの辺りに変電施設か何かがあったはずです。

 T字路を右に曲がります。溝口は一丁目から六丁目まで、幅の狭い一方通行の道路が多いのですが、ここもそうです。帝京大学医学部附属溝口病院の裏側というべき場所です。周囲は昔から住宅地ですが、梨畑なども多かったことを覚えています。

 帝京大学といえば、本部は板橋区にあるのですが、川崎市の高津区と宮前区には医療関係の施設が点在しています。第三京浜道路を走ると、川崎インターチェンジと都筑インターチェンジとの間に帝京大学老人保健センターの建物が見えます。所在地は高津区と宮前区の境界に近い宮前区野川となっています。最寄り駅がどこなのかがわからないような場所にあり、近くにバス路線も通っていないので、自家用車などで行くしかないでしょう。もっとも、第三京浜道路に沿う一般道の坂を下ると尻手黒川線で、路線バスも通っていますが、坂のきつさを考えるとバスで行くのは現実的でありません。

 少し歩くと、程なく信号機が見えます。優先道路となっているこちら側は常に黄色の点滅、交差する道路は常に赤の点滅となっています。それにしても、いつの間にかマンションが増えたなという印象を受けました。私は小学生の頃から、高津図書館へ行くためにこの辺りをよく自転車で走っていたのですが、当時は所々に梨畑があり、一軒家が多い場所であったからです。私が大分大学に勤め始めてから、長らくこの辺りを通ることがなかったので、変化の様子を知らないだけでしょう。

 この交差点から見る光景は、月日が流れたら街並みも大きく変わるという事実のよい見本です。左側にマンションが建ち並んでいますが、かつては一軒家や木造のアパート、そして田園都市線の変電所か何かの施設がありました。右側か左側かを覚えていませんが、梨畑もあったはずです。

 何度も梨畑と書いていますが、高津区の溝口、二子あたりから久地、多摩区の堰、宿河原にかけては、梨畑の多い所でした。今でも久地や堰などには梨の直売所がありますが、溝口にもあったのです。ちなみに、川崎市の梨は多摩川梨とも言われており、長十郎という品種が川崎市発祥の梨です。全く季節外れであるということはわかっていますが、書いているうちに梨を食べたくなってきました。

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長津田駅で横浜高速鉄道Y000系を

2014年12月28日 00時04分12秒 | 写真

 東急田園都市線とJR横浜線との乗換駅であり、東急線の駅としては唯一、横浜市緑区にある長津田駅(DT22、KD01)から、こどもの国線が分かれます。12月12日12時37分41秒付の「『東急沿線の不思議と謎』(じっぴコンパクト新書)に重大な誤りがあります」でも記した、横浜高速鉄道の路線です。時々、何となく行きたくなることがあり、今年も8月7日と12月26日に行きました(他にも行った日があるかもしれませんが、SDカードのトラブルで日記が消失してしまい、わからなくなりました)。

 こどもの国線は、一般的に東急の路線として扱われることが多いのですが、正式には横浜高速鉄道の路線で、同社が第三種鉄道事業者であり、車両や線路などの施設を保有しています。長津田駅、恩田駅およびこどもの国駅には、横浜高速鉄道と、第二種鉄道事業者である東京急行電鉄の両方が記された看板などが掲げられています。

 この路線は、そもそも成立が特異でした。こどもの国のある場所には、陸軍の田奈弾薬庫(正式名ではないかもしれません)がありました。いつ開通したのか、手元に資料がないので不明ですが、横浜線の長津田駅から田奈弾薬庫までの引き込み線が設けられ、貨物列車が運行されます。これがこどもの国線の原型です。終点のこどもの国駅の東側に駐車場があり、それに沿う形で並木が続いているのが、弾薬庫までの線路跡です。

 戦後、田奈弾薬庫はアメリカ軍に接収されます。引き込み線もいつの間にか廃止されたのですが、法的に鉄道営業法や地方鉄道法の適用を受けていなかった路線ではないかと思われるため、よくわからないことが多いようです。ちなみに、田奈は地名なのですが、遠い昔から存在する訳ではなく、長津田、恩田、奈良の各村が合併したことによって誕生したものです。

 さて、終戦から14年ほどが経過した1959年、当時の皇太子、すなわち今上天皇が成婚されました。これを記念する施設が、1965年、田奈弾薬庫の跡に開設されました。そうです、こどもの国です。1965年のことで、運営は財団法人こどもの国協会が行いました。しかし、この頃にはまだ田園都市線も開通していませんし、長津田駅から3キロメートルほど離れており、バスしか交通機関がないという状態でした。そこで、かつての引き込み線を再利用する形で新たな鉄道路線が建設されました。これがこどもの国線で、開通は1967年4月28日です。前年の1966年4月1日に田園都市線の溝の口~長津田が開業しており、こどもの国線は開業当初から田園都市線に接続しています。

 長らく、こどもの国線はこどもの国協会が所有しており、同協会が東急に運行などを委託していました。そのため、同線の専用とされた車両は東急のマークを外し、塗装も変えられた上でこどもの国のシンボルマークを付けていました。完全にこどもの国の利用客を前提とした路線で、始発は朝の8時台、終電は夕方の18時台、休園日(通常は月曜日でした)には非常に本数が少なくなるダイヤでした。通勤通学路線としての機能を全く持っていなかった訳です。東急各駅にはこどもの国の開園日・休園日を知らせる案内表示が改札口などに置かれていました。1981年にはこどもの国協会が社会福祉法人となります。

 第三種鉄道事業者、第二種鉄道事業者という用語が登場するのは、1980年代の国鉄分割民営化、JRグループの発足と同時に施行された鉄道事業法(昭和61年12月4日法律第92号)によります。施設を保有するこどもの国協会は第三種鉄道事業者、運行などを委託されていた東急は第二種鉄道事業者となります。そして、1989年から、東急では初のワンマン運転が行われています(純粋な東急線では1998年、池上線が最初となります)。

 田園都市線の利便性が向上するとともに、沿線にも住宅が増えてきました。通勤通学はバスが担当していたのですが、人口が増えればそれでは足りなくなります。利便性を求める声が増えたため、こどもの国線を通勤通学路線化することとなりました。しかし、通勤通学路線の保有となると社会福祉法人こどもの国協会の存在目的から逸脱します。そこで、同協会は、横浜高速鉄道に第三種鉄道事業免許を譲渡します。こうして2000年3月29日、こどもの国線は通勤通学路線となり、Y000系が運用されることとなります。また、同日、長津田車両工場のそばに恩田駅が開業しました。これにより、列車交換が可能となっています。

 今回の2枚の写真は、長津田駅のそば、長津田検車区の入口のような場所に留置されているY000系001Fです。こちらに前面を向けている車両がクハY001で、その後に連結されているのがデハY011です。こどもの国線は写真の右側を通っており、かなりの急カーブとなっています。ここにも、田奈弾薬庫への引き込み線であったことの名残があるのでしょう。

 Y000系は、東急目黒線はもとより都営三田線、東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道線でも運用される2代目3000系を基本として設計された車両で、2代目3000系と同じく1999年に登場しました。横浜高速鉄道が所有していますが、東急の長津田検車区に所属しており、運転や整備なども東急が行っています。

 基本は同じとしても、Y000系はこどもの国線で使用されるため、2代目3000系とは違いがあります。まず、Y000系は20メートル3扉車であり、側面の行先表示器がありません(2代目3000系は4扉車で、側面にLED式の行先表示器が備えられています)。帯の色も異なりますし、車内には一切広告がありません。また、2代目3000系はATOやTASCの機器を備えていますが、Y000系にはありません。さらに、長津田駅を発車してすぐの急カーブ(写真の右側)を通るためか、Y000系の台車には防音車輪が取り付けられています。

 さて、ここで問題です。この記事で何度も記している「長津田」ですが、何と読むのでしょうか。

 「ながつだ」と読む人も少なくないのですが、駅名としては誤りです。

 正解は「ながつた(Nagatsuta)」なのです。

 横浜市の、都筑郡であった地域の地名には、山田と書いて「やまた(Yamata)」、高田と書いて「たかた(Takata)」と読ませる例があります。横浜市営地下鉄グリーンラインの高田駅、東山田駅、北山田駅の読み方も、それぞれ「たかた」、「ひがしやまた」、「きたやまた」です。長津田も都筑郡に属していた地域で、「ながつた」と読むのです。しかも、昔の地の人は最後の「た」を少し間延びさせたような、橘樹郡の人間でも真似をしがたいような独特の発音をするという話を聞いたことがあります。

 もっとも、都筑郡であった場所ならどこでも「田」を「た」と読む訳でもないようで、勝田は「かちだ」、荏田(駅名は江田)も「えだ」と読んだりします。これもよくわからないところがあり、もしかしたら長い歴史の中で読み方が変化しているかもしれません。何せ、宮前区にある馬絹は、今では「まぎぬ」と読みますが、昔の人は「まぎの」と言っていたという話もあるくらいです。

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閉店から4ヶ月が経とうとしている住吉書房高津店

2014年12月27日 00時25分56秒 | まち歩き

 2014年8月3日21時44分46秒付で「近所の本屋が今月末で閉店する」という記事を載せました。8月31日を最終営業日として、住吉書房高津店が閉店しました。帰り道に気軽に寄ることができる書店であっただけに、残念です。

 それから4ヶ月が経とうとしています。毎日のように見ていますが、シャッターが閉まったままで、後に何が入るのか、ということなどはわかりません。

 高津駅西口改札口を出て高架下を歩くと、すぐに信号つきの横断歩道があります。それを渡り、東急ストアの前の歩道を左側に進めば、すぐに住吉書房高津店の跡があります。今も看板などが残っていますが、シャッターは閉じられています。

 住吉書房は、その名称から察しが付くように、東横線元住吉駅の近く、木月一丁目に1号店である元住吉店があります(但し、本社は新丸子町にあります)。公式サイトによると、元は「やぶそば」だったそうで、戦後には「川崎住吉ストアー」というスーパーマーケットを開店させます。現在も元住吉駅東口のオズ通りで営業しており、私も何度か入った記憶があります。住吉書房元住吉店が開業したのは1971年ですが、現在の社名である住吉書房に名を改めたのは意外に遅く、2006年になってからのことです。

 閉店しても、店の存在を示す緑色の地に黄色いロゴが貼られたままで、手つかずとなっています。

 住吉書房と言えば、グーグルで検索すると日吉店がよく出てきます。西口にあり、私も何度か入ったことがあります(どこの街でも、立ち寄れば書店に入ります)。いつ閉店したのかはわかりません。また、稲城長沼駅付近にもありましたし(入ったことはありません)、鷺沼駅の近くにもありました(入ったことがあります)。宮前平駅の近くにもあったようですが、こちらについては記憶がありません。

 現在の店舗は、川崎市中原区に3(元住吉店、新丸子店、武蔵中原店)、同宮前区に1(宮崎台駅前店)、同多摩区に1(登戸店)、横浜市緑区に1(中山店)、同磯子区に1(新杉田店)、同保土ケ谷区に1(保土ケ谷店)、戸塚区に1(東戸塚店)、横須賀市に1(久里浜店)、東京都世田谷区に1(駒沢店)、同江戸川区に1(小岩店)、同足立区に1(五反野店)、千葉県市川市に2(市川店、本八幡店)、計15です。

 最後に、住吉書房高津店跡の真向かいにある建物を紹介しましょう。中興3ビルです。現在も屋上にマルコーイン神奈川と大きく書かれており、いかにもホテルのような建物ですが、実際にホテルとして営業していました。困ったことに、グーグルで検索すると今も営業中であると案内しているようなページが見つかるのですが、既に廃業しています。地下1階から地上2階までは飲食店などの店舗が入っており、その上はマンションか何かになっています。

 ちなみに、現在、1階には灰吹屋薬局高津西口店が入居していますが、以前は丸三証券高津支店でした。現在は多摩川を越えて世田谷区玉川の二子玉川ライズに移転し、二子玉川支店となっています。

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「まち・ひと・しごと創生法」と地方分権(その3)

2014年12月26日 01時04分42秒 | 国際・政治

 12月15日0時5分25秒付の「『まち・ひと・しごと創生法』と地方分権(その2)」から少し時間が経ちました。

 24日から26日までの三日間、第188回国会(特別会)が開かれており、初日に安倍晋三氏が内閣総理大臣に指名され、同日に第三次安倍内閣が発足しました。基本的に第二次安倍内閣と同じ陣容であるため、方針や政策に大きな変更はないものと思われます。従って、「まち・ひと・しごと創生法」に基づく地方創生政策も、余程のことがない限りは推進されるでしょう。

 「地方創生と地方分権は全く別個の概念であり、両者は少なくとも部分的に対立するものではないのか。あるいは、地方創生とは、少なくとも部分的に地方分権を否定する概念ではないのか。」

 これは、私が「『まち・ひと・しごと創生法』と地方分権」シリーズを書くにあたって抱き続けている疑問です。既に公布されている法律を議案の段階から読んでいますが、「第二章 まち・ひと・しごと創生総合戦略」および「第三章 都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略及び市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略」に置かれた諸規定を概観すると、地方分権の否定という側面が浮かび上がっているものとも読みうるのです。

 ここで、「『まち・ひと・しごと創生法』と地方分権(とりあえず『その1』)」において記したことを再び掲げておきます。この法律は、国として地方を、人材を、そして仕事(雇用なども)を作り出すことが明示されています。そして、何故か平仮名で書かれている(その意味が未だによくわかりません)「まち」も「ひと」も「しごと」も客体(対象)であり、主体として位置づけられていません。つまり、地方は国の客体であって主体ではない、と言いうるのです。これがその通りであるかどうかが、私の問題意識の中にあるのです。

 それでは、「まち・ひと・しごと創生法」の第二章に置かれた規定を再度掲載しておきましょう。

「第八条 政府は、基本理念にのっとり、まち・ひと・しごと創生総合戦略を定めるものとする。

2 まち・ひと・しごと創生総合戦略は、次に掲げる事項について定めるものとする。

 一 まち・ひと・しごと創生に関する目標

 二 まち・ひと・しごと創生に関する施策に関する基本的方向

 三 前二号に掲げるもののほか、政府が講ずべきまち・ひと・しごと創生に関する施策を総合的かつ計画的に実施するために必要な事項

3 まち・ひと・しごと創生本部は、まち・ひと・しごと創生総合戦略の案を作成するに当たっては、人口の現状及び将来の見通しを踏まえ、かつ、第十二条第二号の規定による検証に資するようまち・ひと・しごと創生総合戦略の実施状況に関する客観的な指標を設定するとともに、地方公共団体の意見を反映させるために必要な措置を講ずるものとする。

4 内閣総理大臣は、まち・ひと・しごと創生本部の作成したまち・ひと・しごと創生総合戦略の案について閣議の決定を求めるものとする。

5 内閣総理大臣は、前項の規定による閣議の決定があったときは、遅滞なく、まち・ひと・しごと創生総合戦略を公表するものとする。

6 政府は、情勢の推移により必要が生じた場合には、まち・ひと・しごと創生総合戦略を変更しなければならない。

7 第三項から第五項までの規定は、まち・ひと・しごと創生総合戦略の変更について準用する。」

 この法律自体は一種の大枠あるいはプログラムを規定し、「まち・ひと・しごと創生本部」の組織法上の根拠を定めるに過ぎません。そのため、「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の具体的な中身については今後の課題ということになりますが、気になる点があります。第7条が「国は、まち・ひと・しごと創生に関する施策を実施するため必要な法制上又は財政上の措置その他の措置を講ずるものとする」と定めるに過ぎず、既存の法律(例えば地方自治法、地方財政法、地方税法)との関連が明確にされていると読み取れないので、法律間で食い違いなどが生ずることも考えられます。あるいは、「まち・ひと・しごと創生法」が地方自治法、地方財政法、地方税法などの改正を促す効果を持つこともありうるでしょう。

 1990年代からの課題である地方分権も、国の強力な推進を必要とします。パラドックスにみえるかもしれませんが、やむをえない話です。但し、主題が主題だけに、地方側の同意・合意を得る必要もあります。地方と一括りにしていますが、実際には都道府県と市町村があり、都市部、農村部など、様々な地域が存在しますから、コンセンサスの形成は容易ではありません。そのために、国の強い姿勢を必要とするのです。

 ただ、これは諸刃の剣ともなりえます。政府部内での同意・合意を作り上げることも難しいですし、強い推進も方法や手段を誤れば地方分権ではなく中央集権となるからです。

 今回の「まち・ひと・しごと創生法」に関して、地方側の態度がどのようなものであるのか、わからないところもありますが、ふるさと納税に熱心な地方公共団体が少なくないことからすると、支持する所は少なくないでしょう。もしかしたら、地方分権よりも高い支持率となるかもしれません。しかし、第8条から第10条まで続けて読むと、国が決定し、地方が従うという図式が浮かび上がることも否定できず、トップダウンの「地方創生」となりそうです。否、「地方創生」という言葉自体が、国が中央集権的にトップダウンで政策を決定し、地方に実行させるという意味合いを帯びているとも言いうるのです。これには、もう地方分権と言っている段階でも暇でもない、少子高齢化と地域間格差が同時に進行している状況に対処するには中央が積極的に取り組むしかない、という意図があるのでしょう。一応、第17条第1項において「まち・ひと・しごと創生本部」が「地方公共団体」などの「代表者に対して、資料の提出、意見の表明、説明その他必要な協力を求めることができる」と定めていますが、この文言からしてあくまでも主体は国であり、地方公共団体との「協議」は予定されていないと解釈することが可能です。

 さしあたっては以上のところから、地方創生とは、少なくとも部分的に地方分権を否定するための概念である、と言うことができるでしょう。

 ただ、次の「第三章 都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略及び市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略」にある第9条および第10条の表現を見ると、多少は地方分権を意識しているであろうとも思えます。再びあげておきます。

「(都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略)

第九条 都道府県は、まち・ひと・しごと創生総合戦略を勘案して、当該都道府県の区域の実情に応じたまち・ひと・しごと創生に関する施策についての基本的な計画(以下「都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略」という。)を定めるよう努めなければならない。

2 都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略は、おおむね次に掲げる事項について定めるものとする。

 一 都道府県の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関する目標

 二 都道府県の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関し、都道府県が構ずべき施策に関する基本的方向

 三 前二号に掲げるもののほか、都道府県の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関し、都道府県が講ずべき施策を総合的かつ計画的に実施するために必要な事項

3 都道府県は、都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略を定め、又は変更したときは、遅滞なく、これを公表するよう努めるものとする。

(市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略)

第十条 市町村(特別区を含む。以下この条において同じ。)は、まち・ひと・しごと創生総合戦略(都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略が定められているときは、まち・ひと・しごと創生総合戦略及び都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略)を勘案して、当該市町村の区域の実情に応じたまち・ひと・しごと創生に関する施策についての基本的な計画(次項及び第三項において「市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略」という。)を定めるよう努めなければならない。

2 市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略は、おおむね次に掲げる事項について定めるものとする。

 一 市町村の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関する目標

 二 市町村の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関し、市町村が講ずべき施策に関する基本的方向

 三 前二号に掲げるもののほか、市町村の区域におけるまち・ひと・しごと創生に関し、市町村が講ずべき施策を総合的かつ計画的に実施するために必要な事項

3 市町村は、市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略を定め、又は変更したときは、遅滞なく、これを公表するよう努めるものとする。」

 それぞれの規定から明らかなように、「都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略」および「市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略」の策定(および変更)ないし公表は努力義務とされています。国の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」に沿う形となる蓋然性が高いだけに、努力義務とすることによって中央集権の色彩を弱めたと解することもできます。

 しかし、策定そのものが努力義務とされているとは言え、第8条に定められる国の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」と「都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略」または「市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略」とが矛盾するようなものであってはならないでしょう。そればかりでなく、国の戦略にない事柄について地方が独自に定めることが許されるかどうかという問題があり、今回の「まち・ひと・しごと創生法」の規定からは明確な解答を出せません。地域ごとに事情や状況が異なることからすれば、或る程度の独自性なり地方公共団体の裁量なりを認めざるをえないはずですが、どの程度の幅で認められるのかは、具体的な戦略が立てられなければわからない、というところではないでしょうか。

 既に、国は税制や地方交付税を通じて、地方創生に関する具体的な方針を出しつつあります。12月25日付の日本経済新聞朝刊5面14版に掲載されている「人・仕事 地方に誘導 税優遇・交付金 柱に 地方創生で数値目標 新卒の地元就職80% 1子出産後就業55%」という記事でも取り上げられています。明らかに、国が地方を作り出し、人を作り出すのです。同日の日本経済新聞朝刊1面14版に掲載されている「ふるさと納税 拡充 政府・与党 減税額を2倍に」という記事の内容も同様です。ふるさと納税は、地方税の根幹をなす都道府県住民税および市町村住民税の存在意義を曲げるという点で望ましくない制度であり、東京都のように住民でない者に対する行政サービスを手広く行わなければならない地方公共団体にとっては「ふざけるな!」の一言で片付けてもよい制度であり、「お礼」という名のおまけなり景品なりをたくさん出してとにかく金を集めることが至上命題である勘違いしている地方公共団体を多くしかねない制度ですが、そうまでしても地方を作り出そうとしている熱意が感じられます。なお、12月25日付の朝日新聞朝刊33面12版に掲載されている「広がる出生目標 上 佐賀『出生率17年に1.71』■県職員の未婚率を公表増やせ赤ちゃん 県が婚活政策」は、佐賀県の取り組みと県民の意識などの対比がよく示されており、興味深い記事です。

 なお、観点が全く別のものとなりますが、第9条および第10条において、地方公共団体による戦略の策定または変更の公表が努力義務とされている点については、評価を下げざるをえません。行政手続法第6条の例でも明らかなように、策定と公表は別物であり、策定したからには公表すべきでしょう。そうしなければ、何のために第5条で「事業者の努力」を、第6条で「国民の努力」を定め、事業者および国民に努力義務を課したのかがわからなくなります。公表を義務づけることは、住民自治の観点からも重要であり、地方分権を損なうことになりません。ここにも、国が「ひと」を客体として作り上げるという趣旨が隠されていると言えるでしょう。

★★★★★★★★★★

 それにしても、「ふるさと」、「まち」、「ひと」、「しごと」と、最近は平仮名により表記する概念が目立ちます。法律にもおいてもそうであり、濫用されているとまでは言えないにしても多用されています。一見してわかりやすい、取っつきやすいということがあるのでしょうが、敢えてそのようにする意味がわからないこともあり、内閣法制局の方々に伺ってみたいところです。

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今はもう見られない光景

2014年12月25日 06時00分56秒 | 写真

2012年3月13日、日比谷線に乗り、北千住駅に行ってみました。その時に撮影した写真です。

 今となっては懐かしい、と言えるかもしれません。北千住駅で発車を待つ東急1000系1008Fの菊名行きです。

 日比谷線と東横線との相互直通運転が開始されたのは1964(昭和39)年8月29日のことです。長らく、東横線の日吉駅で折り返していましたが、1988年8月に菊名まで延長されました。また、日比谷線開業時の車両は、営団が3000系、東急が初代7000系、東武が2000系でしたが、1980年代後半に相次いで姿を消し、営団が03系、東急が1000系、東武が20000系・20050系・20070系となっています。このうち、最も早く日比谷線での運行を終えたのが東急1000系でした。2013年3月16日の東横線・副都心線相互直通運転開始とともに東横線・日比谷線の相互直通運転が終了したからです。なお、03系、20000系・20050系・20070系も、数年後には日比谷線での運用を終えることとされています。

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麹町駅から二番町と六番町を歩く

2014年12月24日 00時20分27秒 | まち歩き

 年に何回か、千代田区六番町へ行きます。私が公益財団法人地方自治総合研究所の「地方自治関連立法動向研究会」の一員であるためです。

 ここに向かうにはいくつかのルートがあり、JRや都営新宿線などを利用するには市ヶ谷駅から歩くということになりますが、私が自宅から行く際には有楽町線の麹町駅を利用します。六番町は市ヶ谷駅と麹町駅との間にあり、麹町駅からのほうが近いと思われるからです。

 さて、今回は、その麹町駅から六番町まで歩きます。この駅は麹町三丁目を所在地としていますが、地図をよく見ると北側は二番町にあります。現在も多くの施設を二番町に残している日本テレビのすぐ近くで、6番出口はこの放送局のビルにつながっています。六番町へ向かうには、6番出口か5番出口を利用するのがよいでしょう。

 

 「日本テレビは汐留へ移転したんじゃないの?」という声が聞こえてきます。たしかに、本社は汐留、正確に記せば港区東新橋一丁目に移転しました。しかし、二番町には分室として施設が残されています。

 

 6番出口のすぐそばに日本テレビの麹町分室があることがわかります。それにしても、私の少年時代には「4チャンネル」などということが多かったのですが、いつから「日テレ」というようになったのでしょうか。

 現在、東京にあるテレビ局(CATVなどを除きます)をみると、NHKが渋谷区神南、東京都の地域局であるTOKYO MXが千代田区麹町一丁目に本社を置いていますが、民放のキー局の本社はすべて港区にあります。

 このうち、TBSは元々赤坂五丁目にありますし、テレビ朝日もNET時代から六本木六丁目に本社を置いています(一時期、六本木一丁目に置いていました)。また、東京12チャンネル→テレビ東京も、当初は芝公園、後に虎ノ門に移転しているとは言え、港区に本社を置き続けています(何年か経つと六本木三丁目に移転します)。しかし、日本テレビとフジテレビは港区以外の場所に本社を置いていたのです。日本テレビは上に記したとおりであり、フジテレビは新宿区河田町から港区台場へ移転しています。また、日本テレビと異なり、フジテレビは完全な移転であり、河田町の跡地にはマンションが建てられています。日本テレビが二番町に施設を残しているのは、放送施設の都合によるという話を聞いたことがあります。

 ついでに記すなら、文化放送も新宿区若葉から港区浜松町一丁目に移転しており、ニッポン放送も一時期のみ港区台場に本社を置いていました(現在は千代田区有楽町一丁目に戻っています)。ちなみにRFラジオ日本の本社は横浜市中区長者町にあり、港区麻布台にあるのは東京支社です。

 この「麹町ビル西館」の北側に、名称を示す標識のない交差点があり、南側が二番町、北側のうちの東側が四番町、西側が六番町となっています。バス通りでもあるとは言え、地下鉄が通っているにしては狭い道路で、麹町駅は地下1階に改札口など、地下2階に1番線(新木場方面)、地下3階に2番線(池袋方面)のホームがあります。

 そして、この交差点が「番町文人通り」の入口になっています。

 麹町や番町の界隈には、明治時代から昭和時代にかけて、日本の文学史に大きな足跡を残した文人たちが居宅を構えていました。私がこの話を本格的に知ったのは、まだ私が大分大学に勤務していた頃、三遊亭圓歌師匠の落語「中沢家の人々」を聞いたことによります。圓歌師匠は六番町にお住まいで、この新作落語でも六番町界隈が何度も登場します。よく知られた話ですが、師匠の自宅は有島武郎邸であった場所にあります。

 今回は撮影していませんが、交差点付近に番町文人通りの案内板があり、通りに沿って名だたる文豪の邸宅が並んでいた(時期に差があるかもしれませんが)ことがわかります。これをまずよく見てから歩くことをおすすめします。

 道幅の割には歩道の部分が広く取られており、歩きやすい道路です。右側が六番町、左側が二番町です。番町文人通りは大妻通りから麹町大通りまでとされており、日本テレビ通りとの交差点は中間地点にして旧有島邸のあった中心部分とも言える箇所です。とくに六番町に文豪の居宅跡が多いようです。

 但し、当時の建物は残っておらず、区画もそのまま残っているという訳でもないようです(案内板にもその旨が書かれています)。今回、私が歩いた範囲では、ほとんどがマンションなどになっています。

 交差点のすぐそばにある明治女学校跡です。元からここにあった訳ではなく、1885(明治18)年、現在の千代田区飯田橋に開校し、1892(明治25)年にこの地へ移転します。しかし、4年後の1986(明治29)年には現在の豊島区西巣鴨に移転しました。1909(明治42)年に閉校しており、後継の学校もありません。

 上の写真に登場する案内板には「羽仁もと子、野上弥生子ら、先進的な女性を輩出した」と書かれています。校長は巌本善治で、教員には島崎藤村や北村透谷などの錚々たる人たちが名を連ねていたのでした。それだけに、短命に終わったことが惜しまれます。

 明治女学院跡から少し歩くと三つ角があり、その辺りに有島武郎、有島生馬、里見弴(この三人は兄弟)らが住んでいた場所があります。さすがに当時の建物は残っていないものの、脇道に入れば完全な住宅街です。元は広大な敷地だったのかもしれませんが、現在の様子を見てもよくわからなくなっています。

 さらに進むと四つ角があります。右へ曲がれば番町小学校というその交差点のそばに、菊池寛旧居跡があります。ここも現在はマンションとなっていますが、このように案内板があり、当時の写真も残されているのがうれしいところでしょう。菊池寛と言えば「恩讐の彼方に」などを残した文豪ですが、編集者でもあり、現在の文藝春秋社を興したのも彼です。より正確には「文藝春秋という雑誌を私費で発行した」ということのようで、発祥の地が六番町なのです。

 今回は案内板などを見つけられなかったのですが、直木三十五の居宅もこの辺りにあったとのことです。また、すぐ先に泉鏡花の居宅もあったそうです。

 ついでに記すと、通りをはさんでちょうど反対側に某有名フォーク歌手S氏の事務所があります。

 さて、番町文人通りを離れ、番町小学校へ向かう道路を歩いてみましょう。千代田区ですが、この辺りは閑静な住宅街で、自動車が通ることも少なく、歩きやすいのです(もっとも、東京では自動車よりも歩行者のほうが偉いというような場所が多いのですが)。

 番町小学校は千代田区立の学校ですが、1871(明治4)年創立の伝統校です。学制が公布されたのは1872(明治5)年であることに注意してください。

 この伝統という背景もあってのことなのか、名門と言うべき地位にあるようで、現在でも、麹町小学校とともに我が子を越境入学させようとする親が少なくないとのことです。公式サイトによれば、2011(平成23)年12月4日(日曜日)に創立140周年記念式典が行われており、皇太子殿下も出席されました。番町小学校のサイトには皇太子殿下のお言葉も掲載されています。

 ほぼ同じ場所を反対側から撮影してみました。この道路を真っ直ぐ奥のほうへ進むと日本教育大学院大学、ベルギー王国大使館に行くことができ、さらに進むと国道20号線(新宿通り)との交差点(参議院宿舎前交差点)に出ます。

 もうそろそろ、研究会開始の時刻が近づいてきました。番町小学校の交差点を右折して、会場へ向かうこととします。

 研究会と懇親会(忘年会?)が終わり、これからうちに帰ろうという訳で、会場から近い麹町駅を目指します。その際に撮影した写真です。手前が六番町で、奥の左側が日本テレビの麹町ビル西館です。私は、これから有楽町線の新木場行きに乗り、次の永田町で半蔵門線に乗り換えて渋谷からそのまま田園都市線を利用します。

 今回は研究会のついでということで歩き回っただけなので、動いた範囲も狭く、写真も多くありません。来年度は、或る事情により、市ヶ谷駅周辺を歩く機会も増えますので、番町、麹町の界隈はもとより、市谷など旧牛込区の様子も紹介することができるでしょう。私の好きなまち歩きの様子を、今後もブログで取り上げていきます。

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おしらせです(2014年12月23日)

2014年12月23日 00時59分33秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 地方自治総合研究所から刊行されている雑誌「自治総研」の最新号(2014年12月号)が刊行されました。

 この中に、私の「税源の偏在と地域間格差~地方法人税法(平成26年3月31日法律第11号)~」(地方自治関連立法動向研究1)が掲載されています(73~89頁)。また、この雑誌は、地方自治総合研究所のサイトでもPDFファイルで見ることができますので、御覧いただけば幸いです。

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12月24日の補講(國學院大学法学部「行政法I」、金曜日4限)

2014年12月22日 15時09分42秒 | 受験・学校

 既に17日付で國學院大學のサイトに公表されていますが、24日の4限に補講をします。

 教室は2303です。

 そして、2015年1月の予定は、次の通りとなります。

 1月9日(金):休講←この分の補講を、12月24日に前倒しして行います。

 1月16日(金):通常通り実施します。

 1月23日(金):通常通り実施します。なお、この日が2014年度の最終日となります。

 期末試験期間中:期末試験を行います。

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