ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

東急7600系が2月に引退する、ということで

2015年01月31日 13時32分13秒 | 写真

今日、たまたまネットの記事で、東急7600系が2月に引退すること、2月7日に蒲田駅で引退記念イベントが行われるということを知りました(東京急行電鉄も発表しています)。

そこで、今回は7600系の写真を掲載します。2007年2月16日に東急多摩川線下丸子駅で撮影しました(この1枚しかありません)。

 7600系は、1967年から製造された7200系のクハ7500形をVVVF制御車に改造した車両です。最初に登場したのは1986年で、6両編成で大井町線を走っていました(当時は大井町~二子玉川園)。その頃には何度か乗ったことがあるのですが、1990年代に池上線に集結してから、乗る機会を失いました。一時的に目蒲線でも走りましたが、2000年の目蒲線分割(目黒線と東急多摩川線)以降、池上線および東急多摩川線で運用されました。

 7200系を改造したため、車体の長さが18メートルです。8000系から20メートル車が続いており、18メートル車(営業車)は1000系、7000系(2代目)、7700系(初代7000系をVVVF制御に改造したもの)のみとなっています。

 また、7200系は東急で最後のツーハンドル車(マスコンとブレーキハンドルが別物となっている)でしたが、7700系はワンハンドルマスコンに改造されています。

 7200系は田園都市線用として製造されましたが、東急の鉄道線全線で、2両編成から8両編成まで自由に使用できるという設計になっており、東横線でも急行などで使われましたし、1972年に登場した冷房車は目蒲線で使われていました。新玉川線(現在は田園都市線の渋谷~二子玉川)を除く全線を走っていましたが、とくに目蒲線と大井町線ではよく乗ったものです。

 また、デハ7200とクハ7500の2両は東急では珍しいアルミ車で、長くこどもの国線で活躍し、電気計測車のデヤ7200とデヤ7290に改造されていました。2012年2月26日に田園都市線、大井町線、東横線でさよなら運転をした後、長らく長津田車両工場に置かれていました(「まだ見られる(?)デヤ7200+デヤ7290 その5」を御覧下さい)。

 現在、7200系は豊橋鉄道、上田電鉄でも走っています。また、7700系の一部も十和田観光電鉄に譲渡されました。

 書いているうちに思い出したのですが、この7200系・7600系と同じようなデザインの車両が静岡鉄道静岡清水線で走っています。1000系です。これも近々引退することが報じられています。今年中に見に行こうかと考えているところです。

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三箇日に溝口を歩く(8)

2015年01月30日 01時10分06秒 | まち歩き

ようやく、このシリーズも終わりです。今回は溝口一丁目を出て、三丁目に入ります。

二ヶ領用水です。ここで溝口一丁目から三丁目に入ります。左側が一丁目、右側が三丁目です。この辺りまで来ると、溝の口駅より高津駅のほうが近いでしょう。

私が小学生であった1970年代、二ヶ領用水はどぶ川でした。しかし、水質改善が進み、現在では鯉などの魚も棲むようになっています。

 同じ橋ですが、反対側に向けてみました。二ヶ領用水は、この先、二子(五丁目および六丁目)、北見方、中原区宮内を通ります。南武線と並行するような形ではあるのですが、北見方や宮内は南武線から離れているために、同線を意識することはないでしょう。他方、府中街道(国道409号線)とは付かず離れずというような感じで、平行線のように進んでいきます。

 二ヶ領用水は、以前にも記したように川崎市の歴史になくてはならない存在です。もっとも、歩いたからと言って直ちに川崎の歩みを示す痕跡に出会える訳でもありませんが、とくに高津区内であれば、事前に歴史を学んでから実際に歩くことにより、新たな発見があるでしょう。なお、幅が狭い道路ばかりであり、自動車通行が禁止されている区間もありますので、注意してください。

 溝口三丁目を歩き続けると、三角形の土地があります。戸張会計事務所が入居するビルです。そこを左に曲がりました。田園都市線の高架に向かって歩きます。左側が溝口三丁目、右側が二子五丁目です。奥に見えるのが帝京大学医学部附属溝口病院で、現在は溝口三丁目にありますが、近い将来、高架の手前、二子五丁目に移転します。また、以前から研究棟が二子五丁目にあります。

 今度は、右側が溝口三丁目、左側が二子五丁目です。この辺りも一方通行だらけなので、自動車で走るという方は注意してください。奥へ進めば二ヶ領用水で、坂戸一丁目、さらにイト—ヨーカドー溝ノ口店への近道でもあります。

 二子五丁目となると、最寄り駅は田園都市線高津駅です。急行も準急も、そして大井町線のG各停(またの名を緑各停)も停まらないのですが、意外なことにB級グルメにとっては目が離せない所でもあります。

 その代表の一つが、マイナーながらファンが多いとも言われるどん亭の高津店です。高津駅から国道409号線を川崎方面に進めば、すぐにわかります。今ではよくみかける牛丼カレーを昔からメニューに加えていましたし、曜日によってはどん亭スペシャルという、恐ろしいほどにボリューム感のあるメニューが、600円くらいで食べられます。名前に違わず、牛丼カレーにトンカツが盛られているのです。おまけに味噌汁まで付いてきます。これほど安い食事も、そう滅多にはお目にかかれません。築地で牛丼カレーを見たことがありますが、高津のほうがはるかに安いのです。首都圏でもこんなメニューがあるのはどん亭だけでしょう。

 どん亭は、かつて都内にも展開していましたが、現在は、何故か川崎市と沖縄県にしかありません。川崎市には2店あり、1つが高津店、もう1つが叉玄寺交差点にある新城店です。

 二子五丁目のB級グルメの代表をもう一つあげるならば、いや、本当は「いの一番」にあげなければならないのが、叶食堂です。上の写真では交差点の奥、緑色の庇(ビニール製?)が目印となります。名前の通りで定食屋ですが、焼魚なども食べられるためか、平日の夕方には多くのお客(たいていは男性の会社員)がここで夕食をとっています。私も何度か行きました。開店から何年経っているのかわかりませんが、私もだいぶ前から知っていました。

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三箇日に溝口を歩く(7)

2015年01月29日 01時23分54秒 | まち歩き

溝口の商店街を歩いています。書き忘れていましたが、ノクティ、溝口中央商店会、溝の口駅前商店街、いずれも溝口一丁目の話です。

 ノクティの前から続く商店街も、ドン・キホーテ(旧長崎屋)のそばにある三つ角を過ぎると、人通りが少なくなります。左側にあるメガネストアーの場所には、1980年代の初め頃までイトーヨーカドーがありました。現在のイトーヨーカドー溝ノ口店は久本三丁目にあるパークシティ溝の口の中にありますが、そちらは1985年頃にオープンした所です。

 ここにイトーヨーカドーがあった頃には食料品売り場がなく、しかも売り場が二つの建物に分かれていました。あまり入ったことがない上に、30年以上も前の話ですから、ほとんど記憶にありません。わずかに、この建物の2階にグーテンバーガーの自動販売機があったこと、別の建物にレコード屋があったことを覚えているくらいです。

 脇道です。奥に田園都市線の高架がかすかに見えます。その少し手前に高津中央病院があり、高架の先には、溝口では有名な十字屋があります。

 こちらにあったイトーヨーカドーの話ですが、左側のメガネストアーの他、右側にも店舗がありました。現在は建て替えられた上でマンションとなっており、1階に薬局があります。上の写真ではわずかに「処方」と書かれた黄色い看板が見えますが、そこがかつてのイトーヨーカドーです。

 1980年代に現在のイトーヨーカドー溝ノ口店が開店してから、右側の建物にはザ・プライスがオープンしました。イトーヨーカドーのディスカウントショップというような店です。一家でよく行ったのですが、あまり良い思い出がありません。正直なところ、サービスはいまひとつでした。例えば、ということで一つだけ記しておきましょう。父親の仕事の関係で、挨拶の品として持って行くためにタオルを買おうとすると、タオルに巻かれている紙に値札シールが貼られているのです。そのような物を年始の挨拶などとして相手に渡す人はいないでしょう。常識で考えてわからないかと思うのですが、サラリーマンの家庭ではわからないのかもしれません。他にも、不快な思いをさせられたことが何度かありますが、決定的なことがあったために二度と行かなくなった、ということ以外には記さないこととしておきましょう。

 1990年代には客も減っていたようです。そして、いつのことかよくわからないのですが、閉店していました。

 メガネストアー、石原文具店本店のそばの交差点です。ここは面白い形をしており、三叉路が二つ続くのです。上の写真では右に脇道が伸びていますが、その手前に、次の写真に登場する三叉路があり、左に脇道が伸びています。

 最近ではゲームセンターを見かけることが少なくなりました。神保町のミッキーが閉店した時、渋谷センター街にあった渋谷会館が閉店した時には、新聞などでも報じられました。

 溝口も、1980年代には、長崎屋の屋上にあったゲームコーナーを含めれば5軒くらいあったはずです。今はムサシボウルの1階と、この交差点のそばしかありません。もう少し歩いて二子に出るとラウンドワン高津店がありますが、最寄りは高津駅です(そこが開店するまで、高津駅の周辺にはゲームセンターがなかったはずです)。

 右手前に石原文具店本店が僅かに写っています。当初からここにあったのではなく、再開発事業の伸展とともに移転してきました。以前はJR武蔵溝ノ口駅から少しばかり武蔵新城駅方面に歩いた所にありました。たしか溝ノ口百貨店という名前だったと記憶していますが、呉服店、履物店などと同居していました。小売市場というものでしょうか。ちなみに、現在はノクティプラザ1となっています。

 その奥に見えるホームセンターは島崎商店本店金物店で、こちらは創業からかなりの年月が経っているはずです。私は小学生時代から何度か入ったことがあります。ホームセンターというと郊外にあってチェーン店ばかりであると思われがちですが、溝口には地場のホームセンターがあるのです。また、溝の口駅と高津駅の周辺には、現在も金物屋、園芸店がいくつかあります。関心のある方は歩き回ってみることをおすすめします。

 右に石原文具店本店、左に島崎商店本店金物店という通りです。少し奥に三田文具店があります。私が初めて製図用の補助軸(ドイツのSTAEDTLER)を買った所で、こちらは昔からここにあります。

 右側の少し奥に溝ノ口中央郵便局があります。記憶に誤りがなければ、そこに、末長一丁目に移転する前の高津郵便局があったはずです。さらに進むと、左側にパークシティ、右側に神奈川県高津合同庁舎、てくのかわさきがあります。高津区役所があった場所です。

みよし(三吉野)のという和菓子屋などがある建物です。1月3日ということで、閉まっていました。この建物を通り過ぎると二ヶ領用水で、溝口一丁目は終わります。

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期末試験問題の公開について

2015年01月28日 00時07分02秒 | 法律学

 私は、一部の科目を除き、期末試験問題、レポート課題を全て「川崎高津公法研究室」にて公開しています。

 1月26日に実施した「税法」(大東文化大学法学部)後期末試験問題も、翌日の更新により掲載いたしました。御活用などをいただければ幸いです。

 なお、1月22日に実施した「行政法1」(大東文化大学法学部)および「行政法1」(國學院大學法学部)の期末試験問題は、2月2日に公開する予定です。

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三箇日に溝口を歩く(6)

2015年01月27日 09時47分04秒 | まち歩き

 1月3日(土曜日)、我々は自宅から溝口神社まで歩き、初詣を済ませ、甘酒を堪能しました。その後、栄橋交差点、西口商店街を経由して田園都市線の溝の口駅に出て、ノクティで買い物をしました。生まれて初めて福袋なる物を買いましたが、最近ではどこでも中身がわかるようになっていますので、或る意味ではわかりやすく、或る意味ではつまらなくなっているような気もします。ちなみに、福袋として買ったのは緑茶とコーヒーです。

 ノクティは再開発事業の中心として誕生したビルで、南武線に近い南側がノクティプラザ1、マルイが入居する北側がノクティプラザ2です。2のほうの11階と12階には高津市民館があります。

 時々指摘されることですが、高津区は公共施設が分散しており、その点では不便です。区役所は溝の口駅南口に近い場所(下作延二丁目)にありますが、高津警察署は高津駅の近く(溝口四丁目)、高津図書館は高津駅から少し離れた旧大山街道沿い(溝口四丁目)、高津郵便局(配送局)は梶が谷駅に近い場所(末長一丁目)、高津消防署は高津駅に近い場所(二子五丁目)、となっています。高津市民館も、ノクティに入る前には現在の川崎市男女共同参画センタースクラム21の場所にありました。駅から歩けば15分以上はかかるでしょう。

 駅前は大きく変わりました。こうなってしまうと、再開発前の街並みを覚えているとしても正確な位置関係まではわからなくなります。定点撮影をされた方の比較写真を参照したいものです。

 何となく、漠然と当てはめていくならば、商店街は今のペデストリアンデッキ辺りまで伸びていました。狭苦しかったバスターミナルは上の写真で言えば交番の辺りだったでしょうか。その奥にはヤストモというショッピングセンター(とは言っても、細長い2階建ての1階にいくつかの商店が集まった程度のもの)があり、武蔵溝ノ口駅のほうに文教堂書店、スギザキ時計店、中程に珍来軒、えんよし、みづほ、溝の口駅側に石原文具店(玩具などのコーナー)、八百長という八百屋がありました。その隣にツバメというパチンコ屋もありました。見事に跡形もなくなっています。文教堂書店、スギザキ時計店、石原文具店などは、移転の上で現在も盛業中ですが、珍来軒などはなくなりました。大学院生時代、珍来軒でよく弁当を買っては昼に大学で食べたものです。安価で美味しい弁当の見本のような存在でした。

 ノクティの前から高津駅方面、二子五丁目まで伸びる溝口中央商店会の通りです。再開発によって、多少道幅が広がり、歩きやすくなり、車でも走りやすくなりましたが、失われた物は多いと感じます。

 上の写真からは信じられないかもしれませんが、1990年代前半までのこの通りは、川崎市内で二番目に人通りが多いと評価してよい商店街でした。狭くてごちゃごちゃとした通りでしたが、日中は買い物客などが道を埋め尽くしており、賑わっていました。

 しかし、再開発により、人通りが激減しています。ノクティに集中するようになったのでしょう。かつての勢いはどこへ行ったのか、現在は閑散としています(あくまでも再開発前との比較ですが)。

 川崎駅前などに天野屋という呉服店があります。その支店が溝口にもありました。上の写真では柵で囲まれている場所です。2012年2月23日付の「夜の溝口」を記した時点においては営業していたのですが、その年か翌年に閉店しています。

 溝口中央商店会とポレポレ通り(溝口駅前商店街)との交差点です。左奥に高層建築物が見えますが、そこが映画館のあった場所です。

 上の写真にはサンマルクカフェが写っています。以前にも記したように、1970年代後半、文教堂書店の本店がここにありました。また、1階と2階に不二家があり(1階がケーキなどを売っていたところ、2階がレストラン)、かなり長い間営業していたはずですが、今はなくなっています。その上、4階ににカワイ音楽教室があります。私は小学校4年生か5年生の頃から6年生まで、ここに通っていました。今から35年以上も前のことです。

 溝口中央商店街をとらえてみましょう。奥に進むとイトーヨーカドー溝ノ口店、坂戸一丁目、さらに武蔵新城駅北口のほうに出られます。手前のほうに進むとムサシボウル、みずほ銀行溝ノ口支店などを経由して溝の口駅に出ます。

 左側にQiz溝ノ口があります。現在は飲食店や洋品店が入居していますが、かつてはマルエツB館でした。川崎市内にはマルエツが多いのですが、これは川崎市内で創業したサンコーというスーパーマーケットが展開していたためです。そのためか、現在でもサンコーと言う人も市内にはいるようです。サンコーは1970年頃にダイエーの系列に入り、1981年、マルエツに吸収合併されます。

 溝ノ口店でA館、B館と分かれていたのは、食料品売り場と衣料品売り場が分かれていたためで、衣料品売り場はB館にありました。いつの頃であったか覚えていませんが、業務を縮小するようになり、A館だけが残りました。

 左側に歩道ができているのを見て、大きく変わったと改めて感じました。買い物客や通勤者の自転車が並んでいたからです。勿論、駐輪場などではありません。放置自転車です。場所取りの争奪戦も行われたことでしょう。あまりに多かったので、撤去にも費用と手間が馬鹿にならないほどであったはずです。

★★★★★★★★★★

 今回も記しておかなければなりませんが、同じ街、同じ読み方であるのに「溝口」、「溝ノ口」、「溝の口」と表記が分かれ、混在しています。公式の町名は「溝口」ですが、古くから「溝ノ口」とも記しました。「溝の口」という表記は田園都市線の駅が1966年に「溝ノ口」から改められて以来のことで、比較的新しい表現ですが、最近はかなり浸透しています。

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小さい字、薄い字では、必ず損をする!

2015年01月26日 01時08分16秒 | 受験・学校

 22日に行政法1(大東文化大学法学部)の期末試験を行い、その後に採点をいたしました。講評は後日に行うこととして、今回は採点して非常に気になり、苦痛すら覚えたことを記します。

 私は、基本法学概論という講義の中でも何度となく「字はなるべく大きく、濃く書け!」という趣旨のことを言います。そうでなければ、私自身が読めず、採点しづらいからです。

 ところが、聞いていないのか、それとも「ぼくは視力がいいんだ!」とでも言いたいのか(逆かもしれませんが)、それとも小さく書けば誤字であってもごまかせるとでも思っているのか、小さく書かれた字が非常に多いのです。大げさな話ではなく、虫眼鏡でも使わなければ読めないような字を書いてくる学生もいます。

 また、薄い字も少なくありません。私の本務校である大東文化大学と、非常勤として学部の講義を担当している國學院大學では、筆記用具に制限を設けていないためか、鉛筆やシャープペンシルで答案を書く学生が圧倒的に多いのですが、中に「製図でもやっているのか」と思えるほど薄い字を書く学生がいます。私自身が3Hという芯の鉛筆を使ったことがありますので、どう考えても3Hとか4Hなどというような芯で書いたとしか思えない薄さです。

 そして、小さくて薄いという字があります。何かが書かれているから採点せざるをえないのですが、小さいから判読しにくいし、薄いので蛍光灯などの光が反射してしまい、加減によっては紙と同化してしまい、字の形がわからなくなります。点すら不明となります。「採点を拒否しているのか?」と勘違いされますよ。「教員には正直者なり素直な性格なりの者が多い」かどうかは知りませんが、読めないものについては直ちに判読不能として落第点を与えるという人が多いはずです。

 ここで記しておきます。小さい字、薄い字は損です。必ず、どこかで誤解されたりして失敗します。おそらく、自分が何かを伝えたくても、相手がまともに読んでくれません。社会に出て損をするのは、あなたです。

 大学生に対してこんなことを記すのもどうかとは思うのですが、正しく漢字を書くためにも、鉛筆やシャープペンシルを使って字を書くのであれば、そして適切な大きさで適切な濃さの字による答案を書くのであれば、次のことを心がけて下さい。

 ①基本的にはシャープペンシルを避けるのが無難ですが、そうも言っていられないでしょう。私が実際に使っておすすめするのは、1.3ミリまたは2.0ミリのシャープペンシルです。本体も替え芯も少々高いのですが、これらのHB以上の濃さの芯であれば、大きく濃い字を書くことができるでしょう。0.3ミリとか0.5ミリの芯よりも、楽に書けます。私は高校時代に溝口の文具店で2.0ミリの芯のシャープペンシル(補助軸とも言います)を見つけて以来、溝口、二子玉川、六本木などで何本も買い、使ってきました。鉛筆のような使い心地なので、書きやすいのです。

 ②筆圧が弱い人は、HBをやめ、Bか2Bの芯を選んでください。これらより濃いほうが本当は良いのですが、あまり濃いと消しゴムを使いにくくなりますし、紙も汚れます。

 ③社会人ともなれば、鉛筆やシャープペンシルは、特殊な仕事でもなければ全くの私用でしか使うことがありません。ボールペンか万年筆を使うことになります。早いうちから使いましょう。

 実は、何年か前より、私の担当科目でレポートなどを提出していただく際に、鉛筆やシャープペンシルは不可としています。手書きの場合は万年筆(黒かブルーブラック)またはボールペン(黒)と指定しています。レポートでも小さくて薄い字で悩まされたからです。

 2015年度から、私の担当する科目では、期末試験でも鉛筆、シャープペンシルは使用不可としようかと、真剣に考えているところです。そのために、今回、以上のように記しました。

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都バスのリバイバル塗装

2015年01月25日 09時01分53秒 | 写真

1月23日(金)の午後、渋谷駅東口で、懐かしい塗装の都バスを見ました。3枚撮影しましたので、御覧下さい。

 

 

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許可制と免許制の違いとは?

2015年01月24日 00時58分58秒 | 法律学

 今年に入り、1月11日に青葉台へ行きました。その際にブックファーストで、上浦正樹・須長誠・小野田滋『鉄道工学』(森北出版)という本を見つけ、買いました。20世紀最後の年である2000年に出版された本なのですが、興味深い内容でした(ちなみに、私が購入したのは21世紀最初の年である2001年の10月に発行された第2刷です)。

 行政法や租税法などという分野に取り組んでいると、書店であれ図書館であれ、法律学ではなく、政治学、経済学や社会福祉学、さらには工学や建築などのコーナーに足を向けることがあります。そこに題材があるからで、以前から交通関係に関心があり(そのことは、このブログを読んでいただければわかります)、研究しているため、複数の分野に目を向けざるをえません。逆にそれが楽しみでもあります。実際に、交通、とりわけ鉄道とバスは行政法の題材にあふれています。

 さて、『鉄道工学』の「第1章 体系」には、最初に法体系のことが書かれています。基本となるのが鉄道営業法と鉄道事業法ですが、今回は鉄道事業法の話が問題となります。

 1999年、鉄道事業法の一部が改正されました。規制緩和の波を受けて、鉄道事業が「免許制」から「許可制」となりました。

 さて、ここで私が「免許制」、「許可制」とカギ括弧を付けていることに御注目ください。

 『鉄道工学』3頁では「免許制」と「許可制」との違いについて、次のように記しています。

 「免許は排他的であるが、許可制は条件を満たせばだれでも鉄道事業に参加できる。また改正では参加が自由になったとともに撤退も自由になった。すなわち鉄道事業の入退出が自由になったことである。」

 素通りしそうな記述です。「へえ、そうなの」と感心して終わりかもしれません。

 しかし、例えば自動車の運転免許をお持ちであれば、この記述にたちまち疑問が湧くことでしょう。「免許は排他的なのか? だいたい、免許と許可って違うもんなのか?」

 断っておきますが、『鉄道工学』の記述が誤っている訳でもなければ、おかしい訳でもありません。正しいのです。しかし、自動車の運転免許と鉄道事業の免許とを比べると、同じ免許であるのに違う性格のようにも読み取れます。私が「免許制」、「許可制」と記したことの意味も、そこにあります。

 日本の法律用語では、許可、免許、認可、特許、登録、届出、などと様々な言葉が登場します。困ったことに、これらには厳密な使い分けがなされていません。法律専門の辞典を見ても、よくわからないままで終わります。

 行政法の教科書などではおなじみですが、自動車の運転免許は許可そのものです。手前のもので恐縮ですが、「行政法講義ノート〔第5版〕」の「第9回    行政行為論その1:行政行為の概念」から引用させていただきます(以下、全て同じです)。

 行政法学において許可とは「法律による一般的な禁止(不作為義務)を解除する行為」です。不作為義務の免除、と言い換えてもよいでしょう。そこで、

 「許可は、本来であれば人の自由に属する事柄を、公益上の理由などから全面的に禁止しておき、一定の場合にその禁止を解除するというものである。許可の対象は法律的行為である場合もあり、事実的行為である場合もある。」

 と説明されるのです。自動車の運転には免許が必要なのに自転車の運転には不要であることの理由を考えていただければ、おわかりでしょう。

 他方、民法学では、かつて、公益法人の設立について「許可制」という言葉が用いられました。ところが、行政法学では「特許制」として扱われました。理由は、公益法人の設立が「本来であれば人の自由に属する」事柄とされていなかったためです。ここで特許とは「私人に対して新たに権利能力、権利、包括的法律関係を設定する行為」をいいます。

 『鉄道工学』では詳しく述べられていませんが、鉄道事業は、かつて特許制であったと考えられます。明治時代、鉄道国有法が制定・施行されたほどで、日本では鉄道事業が国によって行われることが前提とされていました。実際には財政事情などによって前提の通りとはならなかったのですが、鉄道事業が多少とも地域独占的な性格を有することは理解されていたようです。特許は「本来、私人が有しないとされる特別な権利能力や権利、包括的な地位などを設定する行為である」とされており、「特許を受ける私人に、第三者に対抗しうる法律上の力を与えることになる。また、特許は、申請を前提要件とする」ものです。

 軌道法では特許という言葉が使われますが、道路の上に線路を敷いて、その部分について排他的に利用する訳ですから、まさに特許です。性格はやや異なるものの、鉄道も同様であると考えられます。

 現在、鉄道事業法では、鉄道路線の廃止について「届出」としています。これが行政手続法の「届出」と同じであるかどうかも、興味のあるところでしょう。行政手続法制定以前には、「許可制」と「届出制」の区別も曖昧でした。それだからこそ、徳島市公安条例事件最高裁判決などのような判例がある訳です。

 日本の交通法は、道路交通、鉄道、船舶、航空と各分野がバラバラに存在し、統一がとれていません。その上、用語の使用法にも曖昧な点があります。交通整理ができているとは言えない訳です。

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三箇日に溝口を歩く(5)

2015年01月23日 11時35分00秒 | まち歩き

 栄橋交差点から溝の口駅に行くには、素直に南武沿線道路を通るのが最もわかりやすいのですが、今も昭和の面影を残す西口商店街を歩いてみます。溝口二丁目です。

 光線の加減を見誤りましたが、こちらが栄橋交差点から最も近い入口となります。旧大山街道踏切のそばにも入口があり、商店街はYの変形のようなものになっています。

 戦後の闇市がそのままアーケード商店街になったような構造で、高津区では唯一の、そして川崎市でも数少ないアーケード商店街です。ただ、私が市内のアーケード商店街として知る新城駅南口と川崎駅東口は、いずれも本式のアーケード商店街ですので、ここ西口商店街とは全く趣が異なります。

こちらには商店街であることを示す看板の類がありません。飲食店の多い所ではありますが、再開発以前と以後とではかなり姿を変えているように思えます。

 さすがに正月三箇日の午前中では人通りも少なく、多くの店が閉まっています。ここはやはり、平日の夕方以降に歩くのが最も面白いのです。大学院生時代にはよく歩いていましたが、まだここで飲んだことがないので、一度は飲んでみたいところです。最近は女性の客も多く、時の流れを感じさせてくれます。

 左側には、今、溝の口駅周辺にある書店(古書店を除く)では唯一、文教堂でない書店があります。しかし、ここでは右側のほうに注目したいところです。

 少し進み、注目したいところを遠目に撮影しました。一見するとただの店です。しかし、ここは、昼は八百屋、夕方から焼き鳥屋なのです。まるで性格の異なる商売を一つの店がやっている訳で、私は溝口以外にこのような例を知りません。焼き鳥屋として営業をしているところを何度も見ていますが、立ち飲み屋と考えていただいてよいでしょう。

 ちなみに、左側の壁の向こうは南武線です。

左側に進むと旧大山街道踏切、右側に進むと栄橋交差点です。ここでは屋根に御注目下さい。川崎市で、このような商店街は他にあるのでしょうか。

 古本屋の明誠書房は、もう営業していました。ここにも時々寄ります。古書店ですが、所々におもちゃが置かれており、何故か記念切符などもたくさん置かれたり貼られたりしています。ちなみに、南武線の上り電車に乗ると次である武蔵新城駅の南口にも支店があります。

 溝の口駅周辺には、現在も何軒かの古書店があります。いずれもメインの商店街にないのですが、昔ながらの、味のある店ばかりですので、まわってみるのも面白いでしょう。

 アーケードを抜け、田園都市線溝の口駅の近くに出ました。再開発事業完成以前には、アーケードがさらに先まで伸びており、右側にはクリーニング店と菓子屋を兼ねた店がありました(現在は奥のほうへ移転しています)。少し手前のほうには帽子屋もあったはずです。

 溝口が大きく変わったのは1990年代後半、ノクティの営業開始などによる再開発事業竣工後です。それまで、西口商店街は、田園都市線のガード下付近、亀屋呉服店の辺りまで伸びていました。再開発により、西口商店街は短くなった上に店舗も少なくなりました。

 ここから奥のほうへはあまり歩いたことがない私は、どのような店があったのかを覚えていません。ただ、カレーハウスデリーがあることは知っています。1980年代には駅の反対側にあったのですが、いつの間にか西口に移転していました。今ではほとんど見かけなくなった魚屋もありました。

 また、右側にハセガワという洋食屋がありました。大衆食堂のようなものですが、安い上に美味く、しかも店主がニュースを見ては突然客に話しかけてきたりするという店でした。

 しかし、2007年2月、放火による火災が起こります。この事件について触れているサイトやブログも多いようで、写真も掲載されていますが、季節と建物の構造により、甚大な被害となりました。これにより、ハセガワなどが閉店してしまいます。昭和の光景が多く失われた訳です。

 もっとも、川崎市としては、火災に遭ったからと言って再建を認める訳にもいかなかったようです。理由は、この西口商店街の一部(よくわからないので、一部としておきます)が川崎市の市有地(など)を不法占拠するような形となっていたからです(戦後の闇市から始まったのですから)。市は立ち退きを要請するしかなかったのでしょう。古い建物が残っているのも、同じ理由によるもののようです。

 火災はこの辺りまで広がりました。そのためか、屋根型アーケードも津久波商店の奥のほうにしか残っていません。手前左側、自転車が置かれている場所にも何軒かの店舗があったのですが、移転したり廃業したりしています。

 田園都市線溝の口駅の西口です。いつからこのような構造になったのか、私もよく覚えていません。私が大学院生としてこの駅を利用していた頃には、西口がなかったと記憶しています。改札口は地上1階にあり、南武線の武蔵溝ノ口駅側を向いていました。改札口が2階に移ってから、西口ができたのです。いや、復活した、と記すべきかもしれません。

 今回は西口商店街を取り上げました。この名称は、1966年の高架化より前、地上駅であった頃の構造に由来するのでしょう。宮田道一『東急の駅 今昔・昭和の面影』(2008年、JTBパブリッシング)165頁には、1961年11月5日の写真(荻原二郎氏撮影)が掲載されています(当時は「溝ノ口」と表記されていました)。それを見ると、駅を経由して西口から武蔵溝ノ口駅まで通り抜けられるような構造になっています。

 高架化以降、溝の口駅には西口がなく、中央口と南口だけがありました。また、おそらくは再開発事業竣工時まで、武蔵溝ノ口駅には南口がなく、現在の北口だけしかなかったのです。すぐ前が狭いバスターミナルで、何故か駅前公衆便所のそばに屋台のラーメン屋が出ていたことを覚えています。

 現在の溝の口駅の1階には24時間営業の東急ストアが入っています。私が小学生であった1970年代には、長崎屋(現在のドン・キホーテ)の地下1階(楽園というパチンコ屋が入っています)に東急ストアがあったのですが、いつの間にか駅の構内に移転しました。長崎屋と東急ストアが同居していたのも不思議な話ですが、理由はよくわかりません。

 また、文教堂書店の本店が駅構内にあった時代もあります。考えてみると、文教堂書店本店は何度も移転しており、1970年代後半には溝口中央商店街とポレポレ通りとの交差点のそばにあるフジモトビルの1階にありました(ちなみに、現在も4階にカワイ音楽教室があります)。1980年代に、溝の口駅構内に移転したのですが、1990年代には再び溝口中央商店街とポレポレ通りとの交差点のそばに移転しました。但し、今度はマルエツ溝ノ口店のB館、現在のQiz溝の口です。ノクティがオープンした頃に、現在の本店ができたと記憶しています。

 あれこれと思い出したりしましたが、ここから駅の中に入って用事を済ませ、ペデストリアンデッキを利用してノクティに入ることとしましょう。

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三箇日に溝口を歩く(4)

2015年01月22日 16時08分32秒 | まち歩き

溝口神社を出て、宗隆寺の前を通り、栄橋交差点に着きました。1990年代後半に完成をみた再開発により、この交差点も大きく変わりました。今回はその様子です。

 普段なら交通量が多いのですが、三箇日ともなるとさすがに車の量も少なめです。交差点の左奥は下作延で、旧大山街道でもある神奈川県道14号鶴見溝ノ口線と交差するのは南武沿線道路(正式には川崎都市計画道路3.5.6小杉菅線というらしい)で、手前側が溝の口駅、武蔵小杉駅方面、奥へ進めば津田山駅、久地駅方面です。

 現在は四つ角となっていますが、これは再開発の結果であり、以前は三つ角でした。南武沿線道路側の溝の口駅からこの交差点までの部分は、道路となっていなかったのです。従って、再開発事業完成前の時代、武蔵溝ノ口駅・溝の口駅から津田山駅方面へ、車で向かうには、現在のバス路線(小杉駅前行き、川崎駅西口北行き、向ヶ丘遊園駅東口行き、登戸駅前行き)と同じく、田園都市線のガード下を抜けて溝口交差点を左折し、旧大山街道を通ってこの交差点で右折する、というルートをとらざるをえなかったのです。

 我々は、この交差点を渡り、西口商店街を通って溝の口駅に向かいます。私の用事があったためです。或るブログでは田園都市線の異端児と称された溝口ですが、その理由の多くは西口のためでしょう。ずいぶんと寂れてしまいましたが、とくに夕方以降であれば、歩いていて楽しい所です(もっとも、酔客ばかりですが)。

先程にも記しましたが、栄橋交差点からこの方向の道が、わずか20年足らず前まではなかったのです(少なくとも大型自動車が往来できるようなものとしては)。

 奥にノクティが見えます。言うまでもなく、溝口の地名から来ています。一般的かどうかわからないのですが、「のくち」と略す言い方があり、それをもじったのでしょう。意外かもしれませんが、根っからの地元の人間は地名を略したりしないものです。小杉町のことを「むさこ」などという馬鹿な表現で言う人もいますが、これでは武蔵小杉なのか武蔵小山なのかわからない場合もあるでしょう。地元の人間は小杉、あるいは字の名称で言うかもしれません。

 いつの頃からか、栄橋交差点の東南側に、御覧のような案内板が建てられています。田園都市線の溝の口駅から二子新地駅までの間ということになりますが、溝口、二子は勿論、久地、諏訪にも関連するものがあります。だいぶ減ってしまいましたが、現在でも歴史的な価値のある建物が(高津交差点付近を中心に)いくつか残っています。

 また、7月下旬(最終の日曜日)に高津区民祭が行われます。会場は旧大山街道ですが、その南端が栄橋交差点です。二子新地駅付近まで(高津交差点を除いて)通行止めとなりますので、普段は車に追い立てられるように歩く人たちも、この時ばかりは堂々と道の真ん中を歩くこともできます。但し、人出は多いので、お気を付け下さい。

 そう言えば、この案内板には登場しないのですが、三丁目に糀ホールがあります。岩崎酒店の真上で、ミニクラシックコンサートなどが催されます。時々、名を見て聞いて驚くような方が来られるそうです(実際、何年も前にポスターで前橋汀子さんの名を見た時には驚きました)。実はまだ私も入ったことがないので、機会を見て行ってみようと思っています。

 現在はどこを見ても橋もなければ川もないような場所ですが、ここは二ヶ領用水と平瀬川が交差していた場所で、そこにかけられていたのが栄橋です。読み方ですが、この案内板には「さかえはし」と書かれています。

 東京、川崎、横浜では「××坂」を「××さか」と濁らずに読む所が多く、東急バスのバス停名には、その伝統に忠実なものがいくつかあります。例えば、横浜市都筑区にある道中坂下は「どうちゅうさかした」ですし、世田谷区にある深沢坂下は「ふかさわさかした」です。

 それはともあれ、ここ栄橋ですが、元々は境橋という名であったと書かれています。由来は、溝口村上宿(かみじゅく)と下作延村片町との境にある橋、ということです。また、別名として「馬上免(ばんじょうめん)橋」とも言われていました。案内板には「古代から中世にかけ、このあたりに馬上からの検見(見積もり)で税などが免除された田畑があったと伝えられている」と書かれています。

 境橋が栄橋となったのがいつの頃かはわかりませんが、明治21年に発行された溝口村の「地誌」に栄橋とあるとのことです。

親柱石が立てられています。再開発事業のために工事が行われた際に掘り出されたとのことです。

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