ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

簡単な説明をすることができるように

2013年11月29日 01時43分50秒 | 法律学

 毎週木曜日(と言っても講義期間中だけですが)の2限に、2年生向けのクラス別講義を担当しています。そこでは、ほぼ毎回のように小テストを行うのですが、改めて感じることがあります。

 短い説明を求める設問を苦手とする学生が多いのです。とくに、理由の説明ができていないという答案が目立ちます。

 これは、用語や制度などについて基本的な事柄を十分に理解していない、ということを意味します。いわば、出だしで躓いている訳です。応用問題、発展問題に対処できるはずがありません。

 学部の段階でも、法科大学院の段階でも、用語などについて簡単な説明ができるようにしておくことは大事です。厳密に何文字とは言えませんが、B5のノートで2行か3行くらいで、理由を含めて簡単に説明できるようにしておきましょう。「簡にして要を得る」と言うは易しく、実行するのは難しいのですが、目標はそこにあります。これができれば「理解が深められた」と自信をもって言えるのです。

 先程、1時15分頃に地震がありました。そのすぐ後に採点を終えたので、ここに記してみました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの東急8000系(渋谷駅、多摩川駅)

2013年11月23日 10時23分53秒 | 写真

 (今回の内容は「待合室」に掲載したものですが、経緯が複雑です。2006年6月26日、別室8として掲載→2007年6月23日、一部修正および補充の上で再掲載→2009年3月15日、一部修正および補充→2010年10月17日、別室7へ移行→2010年11月10日掲載終了。なお、このブログに掲載するにあたり、一部を修正しています。)

 今回は、私が長い間馴染んできて、ついになくなってしまったものを取り上げます。

 私は、小学校入学前から、何かというと渋谷へ行きました。たとえば、両親の買い物のために、東急百貨店(東横店、本店)や東急プラザ、西武百貨店などに行きました。最初の音楽の勉強の場も渋谷でした。それから、一体何度、東横線渋谷駅を利用したのでしょうか。しかも、2004年からは、講義期間中の毎週一回、仕事のために渋谷へ行っています。学部生時代、院生時代、そして大分大学在職中には、田園都市線で渋谷へ行くことが多かったのですが、それ以前は東横線で渋谷に出ていましたし、結婚するまでは通勤経路の関係で東横線を使っていました。

 その東横線渋谷駅が、2013年3月に地下駅となりました。開業以来の高架駅は廃止され、現在、解体工事が進められています。今後の発展のためには仕方がないのでしょうが、やはりさびしいものです。そこで、今回は、まず2005年に撮影した写真を掲載します。この年に、東横線と副都心線との相互直通運転のために渋谷駅が地下化することはわかっていました。

Tokyu800020050722

 2005年7月22日に撮影した、4番線に停車中の8000系です。日本で(少なくとも本格的なものとして)最初にワンハンドルマスコンを採用したのがこの8000系です。他にも様々な新機軸を性能面に出したもので、ローレル賞を逃したのが今でも理解できない、というほど、現在までに大きな影響を与えた名車です。東横線の主力であり続けただけでなく、田園都市線や大井町線でも活躍しました。

 私の場合、東急だけは、少なくとも1975年以降に運転されていた全形式(事業用車などの特殊なものを除く)に乗っています。鉄道線であれば、旧3000系(デハ3450形やクハ3850形など)、旧5000系、5200系、6000系、7000系(改造車の7700系も)、7200系(改造車の7600系も)、8000系、8500系、8090系、8590系、9000系、1000系、2000系、3000系、新5000系、5050系、5080系  です。軌道線であれば、玉川線と砧線が廃止され、世田谷線のみが残った時からのデハ70形、デハ80形、デハ150形、そして1999年に登場し、2001年にグローリア賞を受賞した300系です。

 そのうち、8000系と8500系が、一番利用の機会が多かった形式です。8000系は、長いこと東横線の各駅停車のみに使われていて、1980年代の一時期に急行で使われたことがある程度でしたが、特急運転が開始されてからはどの種類にも使われていました。

 8000系が最初に登場したのは昭和44年ですので、既に40年近く活躍してきたことになります。そして、ここ数年、廃車され始めています(一部は伊豆急行に転出していますし、さらにはインドネシアにも輸出されています)。この8039Fは、登場時から1980年代の中頃まで続いた無塗装無帯の姿に復元されたものです。また、方向表示機もLEDから幕に戻されました(但し、正面のみ)。東急8000系、7000系、7200系の赤帯には最後までなじめなかったので、うれしい復元です。

Tokyu800020051004

 同じ8000系ですが、こちらは1990年代に内装などを改造したもので、赤帯の他、正面に黒帯が入り(帯はいずれもシールです。塗装ではありません)、隈取りに似ていることから歌舞伎色というあだ名もついています。最初に見た時は驚きましたが、慣れるとそれなりに格好良く見えたりするものです。方向表示はLED式になっています。

 8000系は、幼少時から知っていて、何度乗ったかわからないくらい乗りました。しかし、あと何年、東急線でこの車両を見られるかわかりませんので、撮影したのでした。田園都市線と大井町線を走っている8500系も、一部が廃車されたり、長野電鉄、秩父鉄道に譲渡されたりしています。

 渋谷駅の屋根のデザインは昔からのものです。東口、国道246号線と明治通りの交差点にかかる歩道橋から見ると、渋谷駅のデザインがよくわかりました。

Tokyu800020060605

 1枚目の8039Fの写真が、渋谷駅の照明などのためなのか、暗くなっていますので、明るく写ったものもここに掲げておきましょう。但し、撮影地は渋谷ではなく、東横線多摩川駅で、撮影日は2006年6月5日です。8039Fは、2007年6月30日と7月1日に「リバイバル急行8000系号」として走った後、引退しました。

 2008年1月1日、東京急行電鉄のホームページを見ると、「東横線8000系引退記念イベント第2弾『8000系さよなら運転』~39年間活躍した8000系が東横線から引退します~」という記事(http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/mid/oshirase/071228_1_8000-Lastrun.html)が掲載されていました。この記事によると、1月13日、東横線での8000系最終運転として、臨時特急が何往復か走行すると書かれていました。

 8000系は、1969(昭和44)年、東急では初めての20メートル車として東横線にデビューし、長きにわたって同線の主力として運用されました。外見は非常に地味で、長らく各駅停車専用でしたが、時には急行としても用いられました。そして、特急が走るようになってからは特急、通勤特急、急行、各駅停車とオールマイティに活躍してきました。また、大井町線でも一時期は主力として活躍しましたし、田園都市線でも運用されていた時期があります。

 外見とは裏腹に、日本で初めて、界磁チョッパ制御、そしてワンハンドル・マスコンを採用するなど、技術などの面に関してはまさしく名車中の名車として位置づけられます(そうかと思うと、空クーラー車という、クーラーキセのみ屋根に載せていながら実は冷房車でないという車両もありましたが)。とくに、ワンハンドル・マスコンは、阪急、京成、京浜急行、東武、西鉄、東京メトロ、都営地下鉄、そしてJRなど、様々に改良なり変更なりを加えつつ普及しました。その元祖が東急8000系です。どうして8000系がブルーリボン賞やローレル賞を受けることができなかったのか、いまだに理解できません(名鉄モ600形がローレル賞を受賞していますが、後の鉄道車両への影響力では比較になりません。しかも、モ600型の活動期間はあまり長くありません)。この時の鉄道友の会には、よほど見る目がなかったのでしょうか。結局、ただの人気投票に近かったのでしょう。近鉄、名鉄、阪急、阪神、京浜急行などのファンは多くとも、東急のファンはあまり多くありませんから(もっとも、阪神の車両でブルーリボン賞やローレル賞を受けたものはないのですが)。

 原稿作成の仕事のため、1月13日の最終運転を見に行くことができなかったのですが、私自身も幼少のころから親しんできただけに、寂しいという思いがあります(寝台特急が廃止される度に騒がれますが、私は「当然である。むしろ、少なくとも10年は遅すぎた」と思うのです)。まだまだ十分に活躍できるような気もしますが、仕方のないことなのでしょう。

 翌日、神奈川新聞と産経新聞の記事を読みました。8017Fが使用されていたようです。

 ここで記しておきますと、東急8000系の場合、上り側の制御車であるクハ8000形の奇数番号車で編成を表現するというのが慣習になっています。また、下り側の先頭車はクハ8000形の偶数号車です。

 1月14日から、8000系は大井町線の5両編成8001Fのみとなりましたが、活躍は長く続かず、2月20日をもって、ついに8001Fも最終の営業運転となりました。1月13日の東横線最終運転と異なり、東急もほとんど宣伝しておらず、記念電車も運行されなかったのですが、どこかから情報を得ていました(その情報源を思い出すことができません)。2月20日が土曜日か休日であれば、二子玉川駅、尾山台駅、自由が丘駅のいずれかにでも行っていたことでしょう。しかし、この日は水曜日で、大学院法学研究科の春季入試、法律学専攻協議会、法学研究科委員会が行われることとなっていました。法律学専攻主任の役職に就いている者として、欠席する訳にもいきません。しかも朝早くに大学にいなければなりません。そこで、大学からの帰途、途中の大岡山で下車し、8001Fを撮影することとしました。

 大岡山で目黒線の電車を降りました。程なく、運よく、8001Fが大岡山駅3番線に到着しました。大井町行です(この頃、大井町線には急行が走っていません)。カバンの中には、私が愛用していたデジタルカメラ、SONY Cyber ShotのDSC-L1もDSC-P5も入っていなかったのですが、携帯電話を持っていましたから、下り側の制御車、クハ8002を撮影してみました。撮影者の腕とカメラの性能とがあいまって、あまりきれいな写真ではないのですが、まさに東急線では最後の8000系を捉えることができました。あと何十分かすれば、この編成に乗ることもできましたが、用事があったために乗っていません。下の2枚が、当日撮影したものです。

080220_1649001

080220_1649002

 東急8000系の一部は、東急の系列である伊豆急行、およびインドネシアで見ることができます。5代目ゴルフを買ったばかりの2005年6月に伊東駅の近くで8000系を見ました。東急の赤色ではなく、水色の帯を巻いています。

 また、東急8000系というのは、本来ならば広く捉えるべきものであるようで、8000系の他、8500系、8090系、8590系を含みます。

 このうち、8500系は、長らく田園都市線の主力として活躍したローレル賞受賞車で、初期の編成はほとんどが引退し、一部が他社、さらに外国へ譲渡されていますが、現在も10両編成が田園都市線で、5両編成4本が大井町線で活躍しています。10両編成は東京メトロ半蔵門線に乗り入れますし、さらに8606Fと8642Fを除く全編成が東武伊勢崎線の久喜、または日光線の南栗橋まで乗り入れます。東横線で活躍した時期も長かったので、御記憶の方も多いでしょう。

 8090系は、日本最初の軽量ステンレスカーで、当初は東横線急行用として使用されましたが、後に5両編成化されて大井町線の主力となりました。しかし、東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転開始のために9000系が5両編成化されて大井町線に移ったため、いわば玉突きの形で運用から外され、ついに今年(2013年)の5月、東急線から引退しました。一部が秩父鉄道に譲渡されています。

 また、8590系は、横浜高速鉄道みなとみらい線乗り入れ用として東横線用として登場し、急行として活躍しましたが、9000系と同じ理由により、9000系よりも早く大井町線に移りました。また、一部の編成が10両編成となって田園都市線で運用されています(途中、中断時期があります)。大井町線の5両編成は今年の5月か6月に運用から外され、一部が富山地方鉄道に譲渡されました。現在残っているのは田園都市線の8694Fと8695Fで、機器の関係などにより、東武線には乗り入れません。

 地味ながら飽きの来ないデザイン、最初は突飛に思われてもすぐに馴染んでしまうデザインは、東急の伝統といってよいでしょう。デビューしたばかりの8090系を中学生時代に見て、最初は格好悪いと思っていたのですが、すぐに馴染んでしまいました。8000系、7600系、7700系に施された歌舞伎色についても同様です。JRや他の私鉄のような「わざとらしさ」などがないからでしょう。8000系と交代するように大井町線の急行用として登場した新6000系、池上線および多摩川線で活躍する新7000系も、大胆なデザインですがすぐに馴染んでしまいます。勿論、私は新6000系、新7000系の全形式に乗っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水前寺公園を訪ねて(2003年3月23日)

2013年11月20日 00時33分40秒 | 旅行記

 (以下は、「待合室」第45回として2003年4月12日から25日まで掲載した記事に修正を加えたものです。)

 今回は、今から約10年8ヶ月前の2003年3月23日(日)、約1年ぶりに熊本県を訪れた時に撮影したものです。場所は、熊本市の名勝です。

 一般的には水前寺公園といわれますが、正式の名称は、上の写真にあるとおり、水前寺成趣園です。

 すぐそばにある案内板によりますと、ここに、寛永9(1632)年、細川忠利が玄宅のために水前寺を建立しました。玄宅は、もともと、豊前の羅漢寺(現在は本耶馬溪町)にいた僧で、細川家が肥後に入国する際に従ってきたとのことです。その後、寺は北隣に移され、跡地に庭園と茶屋を設けました。これが現在の水前寺成趣園です。桃山式回遊庭園で、東海道五十三次をかたどったものと言われています。

 水前寺成趣園を初めて訪れたのは、めまぐるしいほどに天候が変わった1999年8月7日のことでした。それから4年7ヶ月以上経ってようやく2度目の訪問となったこの日は、一日中晴天に恵まれました。

 春休み中の日に熊本市を訪れたのは、その年の8月に熊本県立大学総合管理学部で集中講義「財政法」を担当することが決まっており、下見をすることを目的としていたからです。この頃の私は、何かと言えば下見をしていました。大分市の明野地区で公務員研修の講師を初めて務める際にも、郊外の少々わかりにくい住宅地の中にあったということで、夕方に都市地図などをたよりに下見をしましたし、仕事の関係で他にも様々な場所(例、福祉施設)の下見をしています。

 熊本県立大学の場所、そして付近の様子がわかり、宿泊施設の様子なども調べました。当時の愛車、日産ウイングロードXを運転しながらでしたので、自ずと限度は生じましたが、水前寺駅周辺の様子などもわかりました。

 熊本市に来たからには元東急5000系も見たいということで上熊本駅まで走り、そばで昼食をとりました(「上熊本駅で孤独な老兵を見る」)。そして、せっかく来たのだから、ということで、水前寺公園に向かいました。アナログの一眼レフカメラとデジタルカメラの両方を持ち込みましたが、ここに掲載しているものは、デジタルカメラによる写真です。

公園の池というと、鷺と鴨、そして鯉です。ここには、白鷺、鴛などが多く、鴎(詳しいことはわかりませんが)も飛来してきます。

 何かの本で読んだのですが、日本人は、単に自然をだけでなく、むしろ、自然に手を入れることによって自然を維持してきた、 という趣旨のことが書かれていました。山林が典型なのですが、人工の空間である庭園もその一種かもしれません。

上の写真は能楽堂です。この公園では薪能が行われます。

鯉の群れです。中には美しい鯉もいました。

上の写真の右奥に、茶屋があります。

 

 2012年まで、私は毎年集中講義を担当しておりました(しかも、年によっては2つも担当していました)が、熊本県立大学が最初の体験でした。2003年度のみという約束で、実際にもそうでしたが、その後10年間にわたって集中講義を担当することになるとは、当時、全く考え付かないことでもありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代替道路の整備終了は10年後?

2013年11月19日 13時21分57秒 | 社会・経済

 廃線が決定された岩泉線については、今月、二度取り上げました。11月6日付の「岩泉線の廃止は確定的に」と11月10日付の「岩泉線の廃止が届け出られた」です。同線の押角トンネルを道路に転用するということで、地元にも受け入れられた訳ですが、ここにきて問題が発覚しました。岩手日報社が今日(11月19日)付で「道路利用は22年度から JR岩泉線、住民は落胆」として報じています(http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20131119_3)。

 岩泉線と並行するように通る国道340号線の押角峠(宮古市⇔岩泉町)は難所で、国道ならぬ酷道となっています。これが岩泉線の存続につながったことは有名です。そこで、岩泉線の廃線後に押角トンネルを道路に転用するということなのですが、道路としての利用開始は2022年度、つまり、今からおよそ9年後になるというのです。

 これは18日に岩手県が明らかにしたものです。トンネルの長さは2970メートルですが、鉄道用のトンネルとしてはそれほど長くないとしても、自動車用のトンネルとしては長いといえるかもしれません。換気の問題などがあるからです。また、幅、高さなども考えなければならないでしょう。

 それにしても、地元が上記の県の計画なり方針なりを知らされていなかったとするならば、これは大きな問題です。2022年度というのは、おそらく、計画通りに早く進んで、ということでしょう。これより遅くなることは珍しくないので、10年も待たされるというのでは、落胆や怒りの声が出てもおかしくありません。

 岩手新報社の報道によると、やはり、鉄道用の押角トンネルをそのまま道路にすることは難しいということか、掘削して幅を7.5メートルにし、片側一車線の道路にするということです。今のところ、総事業費として見込まれているのはおよそ65億円で、2014年に本格的な調査を始めて設計し、2015年度から着工するという計画が立てられています。

 この地域でも少子高齢化が進行しているはずです。代替バスの利便性が高まらない限り、早晩、公共交通機関空白地帯になってしまうことは目に見えています。しかし、代替道路の整備が進まなければ、バスの利便性が高まるはずもなく、問題は深刻化します。財政(とくに予算)、地形など、制約も多いことでしょう。その中で効率的に整備することが求められることになります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交通基本法案⇒交通政策基本法案

2013年11月15日 08時48分01秒 | 法律学

 昨日、或る研究会に出席して資料を見ていたところ、現在行われている第185国会(臨時会)において、交通基本法案(衆議院議員立法として提案)が「撤回」され、新たに内閣提出法案として交通政策基本法案が提出されていました。

 交通基本法案は、民主党政権時代の第177回国会に提出されましたが、衆議院にて「閉会中審査」の扱いが続き、衆議院が解散された第181国会で審議未了のため廃案となります。この時までは内閣提出法律案でした。衆議院議員総選挙によって政権交代が実現した後、第183国会において、交通基本法案は衆議院議員提出法律案として扱われたのですが、やはり「閉会中審査」が続き、結局、交通政策基本法案と引き替える形で「撤回」されました。

 先程、新法案(交通政策基本法案)を少しばかり概観しましたが、旧法案(交通基本法案)とあまり変わらないように見えます。しかし、よく読むと、所々で変更がなされています。例えば、旧法案の第1条は「目的」という見出しの下、次のように定めていました。

 「この法律は、交通に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国、地方公共団体、交通関連事業者、交通施設管理者及び国民の責務を明らかにすることにより、交通安全対策基本法(昭和四十五年法律第百十号)と相まって、交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」

 これに対し、新法案の第1条は、やはり「目的」という見出しの下に、次のように定めています(旧法案と異なる部分に下線を引きました)。

 「この法律は、交通に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにすることにより、交通安全対策基本法(昭和四十五年法律第百十号)と相まって、交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」

 次に、旧法案の第2条は「国民等の交通に対する基本的な需要の充足」という見出しの下、次のように定めていました。

 「交通は、国民の自立した日常生活及び社会生活の確保、活発な地域間交流及び国際交流並びに物資の円滑な流通を実現する機能を有するものであり、国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図るために欠くことのできないものであることに鑑み、将来にわたって、その機能が十分に発揮されることにより、国民の健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動その他国民等(国民その他の者をいう。以下同じ。)が日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動、物資の円滑な流通その他の国民等の交通に対する基本的な需要が適切に充足されなければならない。」

 新法案の第2条は、見出しも「交通に関する施策の推進に当たっての基本的認識」と改められた上で、次のように定めています(旧法案と異なる部分に下線を引きました)。

 「交通に関する施策の推進は、交通が、国民の自立した日常生活及び社会生活の確保、活発な地域間交流及び国際交流並びに物資の円滑な流通を実現する機能を有するものであり、国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図るために欠くことのできないものであることに鑑み、将来にわたって、その機能が十分に発揮されることにより、国民その他の者(以下「国民等」という。)の交通に対する基本的な需要が適切に充足されることが重要であるという基本的認識の下に行われなければならない。

 ここで止めておきますが、上記の変化は、政権交代を象徴するものとなっています。第1条で、法律によって明らかにされるべき責務を負う者の範囲が「国、地方公共団体、交通関連事業者、交通施設管理者及び国民」から「国及び地方公共団体」に狭められています(しかも、新法案は「責務等」としています)。また、旧法案第2条では「国民の健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動その他国民等(国民その他の者をいう。以下同じ。)が日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動、物資の円滑な流通その他の国民等の交通に対する基本的な需要」となっていたのに対し、新法案第2条では「国民その他の者(以下「国民等」という。)の交通に対する基本的な需要」と変えられています。単に簡略化したのではなく、旧法案の審議の際に言われていた「交通権」の保障をほとんど消滅させた、と理解すべきでしょうか。

 おそらく、第2条などの変化について、交通経済学などの分野では批判が高まることでしょう。しかし、現段階で、という断り書きを付けるならば、私は、この変化は妥当なものであり、旧法案が「撤回」されるのは当然であって、むしろ遅すぎた、と考えています。理由は「交通権」という言葉の曖昧さにあります。

 「交通権」は、交通経済学者などの間で使われる言葉のようで、交通権学会という団体も存在するそうです。あまり多くを読んではいないのですが、管見の限りにおいて「交通権」がいかなる権利であるかを具体的に説明する学説などは存在しません。中身がよくわからない権利は「交通権」の他にもたくさんありますが、「交通権」ほどわからないものもそうは多くありません。おそらく、一種の運動から来た言葉で、悪い表現を使うならば軽い気分で使用され始めたのでしょう。そのこと自体を否定するつもりはありませんが、法律に盛り込むならば、権利の内容や性質を具体的なものにしなければなりません。旧法案の第2条を見ても、憲法第25条第1項の文言が引用されているだけで冗長な表現になっており、そもそも規定が「交通権」を保障するのかどうかもわからないような文章になっています。

 権利が法的なものとして成立するためには、主体(誰がその権利を有するか)、客体(誰に対する権利なのか。言い換えれば、誰が義務を負うのか)、内容(いかなる事柄を請求しうるのか)が明確にされなければなりません。金の貸し借りや物の売買を考えれば簡単です。債権者は、債務者に対し、「▲▲をせよ」(例、「期限を過ぎているから金を返せ」、「金を払ったのだから早く品物を引き渡せ」)と請求できます。但し、ただ請求できるだけではだめで、債務者が債権者の請求を実現する義務を負わなければなりません。そして、債務者が義務を履行しない場合には、債権者が裁判所に訴訟を提起し、国家の力を借りる形で請求を実現できる必要があります。

 (この点については、たとえば高橋和之『立憲主義と日本国憲法』〔第3版〕298頁を参照してください。)

 「交通権」は、主体はよいとしても客体が不明確ですし、それ以上に内容が全く不明のままです。国民、例えば私は、誰に対して、何を請求できるのでしょうか。そして、その請求は、最終的には裁判所の判決を得ることによって実現されうるのでしょうか。この点は、是非とも御教示願いたいところです。

 旧法案の第2条が憲法第25条第1項を引用していることにも、問題の一端があります。おそらく、旧法案では国民の「交通権」が生存権の一種であるという位置づけが採用されたのでしょう。しかし、そうなると、いっそう、客体と内容が明確にされる必要があります。また、憲法第25条の性質については憲法学でも長年の議論が存在します。さすがにプログラム規定説は多数説の地位を失っていますが、だからといって影響力を失った訳でもありません。判例を概観すると、実はプログラム規定説を採用しているのではないかと思われるような判決もあります。通説とされるのは抽象的規定説ですが、(実は一括りにされる割には見解が多様であるという点を度外視するとしても)この説によっても生存権の中身は抽象的なままですから、結局は法律によって具体化されざるをえません。自由権と異なる所以です。旧法案では、結局、「交通権」の中身は一向に明らかにされていないのです。

 まだ新法案の全体を深く読んだ訳ではないので、今回はこの程度にしておきます。

 第185国会は臨時会ですので、開会期間がかなり短くなっています。新法案が法律として成立するかどうかはわかりません。ただ、これまで、交通安全に関する法律があり、また、交通の各分野に個別の法律があるが、交通全体をまとめて「交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進する」ための法律が存在しなかったために、国や地方公共団体の交通政策が一貫性を欠き、公共交通機関の衰退を招いたことは否定できないでしょう。その意味では、早期の成立が待たれる法律である、ということになります。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

撤去作業が進む東急東横線渋谷⇔代官山の高架橋(並木橋駅跡も含む)

2013年11月12日 08時34分44秒 | まち歩き

 (私のサイトにある「ひろば」の第545回として、2013年11月4日から12日まで掲載したものです。一部、文章を修正しました。なお、写真撮影日は2013年10月25日です。)

 2013年3月16日(土)、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始されました。これは、東武東上線、西武有楽町線・池袋線との相互直通運転が開始したということをも意味します。首都圏の交通網に大きな変化をもたらした出来事ですし、様々な問題を抱えていると言えるものの、利便性の向上は明らかでしょう。元々、東急東横線は首都圏でも非常に便利な路線の一つですので、さらに強力な路線となったことは言うまでもありません。

 その一方で、1964年から50年近くにわたって続けられてきた東京メトロ日比谷線との相互直通運転が3月15日を最後に終了し、1000系も運用を離脱しました。また、東横線を走っていた9000系が、この日を最後に同線を離れました(現在は大井町線で活躍しています)。

 そして、何よりも大きな変化は、渋谷駅です。明治通りの地下にあるホームには、既に東京メトロ副都心線が乗り入れていましたが、このホームに東横線が乗り入れることとなりましたので、開業以来の高架駅も3月15日が最終日となってしまいました。私も、幼少時から東横線の高架駅になじんでいましたので、残念な気もしました。

 3月16日から渋谷駅が地下化していますから、当然、渋谷駅と代官山駅の間も地下化されていますし、高架区間は使用されていません。果たしてどうなっているか、気になっていましたので、10月25日、国学院大学での講義が終わってから並木橋の交差点まで歩いてみました。

 東横線の線路は、並木橋交差点の付近から大きく右に曲がり、山手線を越えて代官山駅に向かっていました。カーブがきついこともあってか、この辺りでは最高速度が40km/hほどに制限されていました。

 使用されなくなってから7ヶ月ほどが経過しています。東横線の高架橋撤去作業は進んでおり、道路を越える部分では橋が消滅しています。上の写真の手前が並木橋交差点で、奥が代官山町のほうです。急カーブの部分では橋と架線柱が残されています。この区間を、レールのきしむ音を出しながら電車がゆっくりと走っていたことを、すぐに思い出しました。

 並木橋は、渋谷川にかかる橋の名前です。場外馬券売場が交差点の近くにあることでも有名ですが、実は、かつてこの界隈に多くの学校があり、現在は目黒区にあるトキワ松学園や、やはり現在は世田谷区にある東京農業大学も、戦前にはこの辺りにありました。現在も国学院大学、実践女子学園、青山学院があります。

何年後になるかわかりませんが、この東横線の高架橋も完全に姿を消します。よく目に焼き付けておきたい、消滅する前に姿を証拠として残しておきたい、と思い、撮影しました。

 並木橋から、先程とは逆の渋谷駅方向を撮影してみました。何の意味がある写真かとお思いの方もおられるでしょう。実は、非常に貴重な痕跡が消滅する可能性が高いので、撮影しておいたのです。

 東横線にも廃止された駅がいくつかあります。そのうちの一つが、渋谷駅と代官山駅との間にありました。並木橋という駅で、その所在地を撮影したのが上の写真です。渋谷駅から500メートルか600メートルくらいしか離れていないのですが、先程記したように周辺に学校が多かったため、利用客も多かったそうです。

 並木橋駅が開業したのは、東横線の渋谷~多摩川の開業と同じ1927年8月28日です。当初から高架駅で、開業当初は構内踏切もあったそうです。しかし、第二次世界大戦の末期、1945年5月の空襲で大きな被害を受け、同年6月1日に休止となりました。結局、1946年5月31日に廃止されてしまいましたが、その理由は、空襲による被害の他に、渋谷駅から近すぎたという事情があるのかもしれません。戦時中には全国で駅の統廃合が積極的に行われていたからです。もっとも、東急線には駅間距離が短いという区間が少なくないので、正確なところは不明としておきましょう。なお、廃止後もしばらくの間、ホームの基礎部分が残されていましたし、よく見れば駅の痕跡があることは電車の中からでもわかりました。

 この他の廃止駅については、後に「付記」としてあげておきましょう。

 並木橋駅の痕跡が僅かに残る高架橋でも、解体作業が進んでいます。架線柱も外されていました。1980年代には簡易旅館もあったような場所ですが(電車からも見えました。今もあるのでしょうか)、おそらくは埼京線・湘南新宿ラインの渋谷駅が開業した影響で、大きく変化しました。

 つい7ヶ月ほど前まで線路が敷かれ、電車が行き交っていた高架橋の上には、工事用の車が置かれています。並木橋駅の痕跡も完全に消滅し、高架橋が姿を消すのも、そう先のことではありません。時が流れれば、街の姿も変わります。

 仕事の関係で、講義期間であれば毎週(2013年度は金曜日)、渋谷駅周辺を歩きます。しばらく、この解体作業の経過を見ようかと思っています。

 〔付記〕

 東横線で並木橋駅以外に廃止された駅をあげておきましょう。

 まず、川崎市中原区です。現在は全国的にも注目を浴びている武蔵小杉駅ですが、実はこの駅は2代目で、開業は戦後の1953年4月1日で、古い駅が多い東横線の中では最も新しい駅であるとも言えます。つまり、東横線の多摩川~神奈川(廃止)が開業した1926年2月14日からしばらくの間、新丸子駅と元住吉駅との間には一つも駅がなかったのです。

 1927年、現在の南武線の前身である南武鉄道(後に鉄道路線が国に買収され、現在は太平洋不動産)の川崎~登戸が開業しましたが、東横線と南武線との乗り換え駅はなく、不便でした。また、南武線には武蔵小杉という駅もありましたが、現在とは違い、国道409号線と交差する地点(小杉御殿町交差点のそば。中原区役所の近く)にありました。こちらは1944年に廃止されています。現在の武蔵小杉駅は、元々グラウンド前という名称であり、1944年に改称されています。

 こうなると、南武線との乗換駅がないという状況では不便です。この辺りには軍需工場が多かったために、接続は必須でした。そこで、1945年6月16日、東横線に初代の武蔵小杉駅が開業します。当初は定期券利用客のみが乗降できたようで、朝夕の通勤時のみの営業だったそうですが、1947年元旦から一般の駅となりました。

 しかし、初代武蔵小杉駅には問題がありました。南武線の線路の上にホームができたとは言え、新丸子駅に近すぎ、また、隣にあった工業都市駅にも近すぎたのです。そこで、1953年4月1日、初代武蔵小杉駅と工業都市駅が統合されて、2代目となる現在の武蔵小杉駅が営業を始めたのです。

 工業都市という見慣れない名称が登場しました。この駅は、現在の武蔵小杉駅から元住吉駅側、国道409号線を越えて目黒線の線路が地上へ下り始める場所にありました。開業は1939年12月11日です。

 次に、横浜市内へ移りましょう。最初は、東白楽駅と反町駅との間にあった新太田町駅です。1926年2月14日に開業し、1945年6月1日に休止、1946年5月31日に廃止されました。休止の理由は並木橋駅と同様です。しかし、1949年3月15日、近くで日本貿易博覧会が開催されたため、廃止されたはずの新太田町駅は「博覧会場前」として再度営業を始めました。これは復活という訳ではなく、期間限定の仮駅としての営業で、同年6月15日に廃止されました。現在は記念碑が建てられているとのことです。

 反町駅と横浜駅との間にも、廃止された駅がありました。神奈川駅です。1926年2月14日、多摩川から開業した東横線の、当初の終着駅で、東横線の東白楽~横浜の地上時代にあった高島山トンネルを出てすぐの場所にあったようです。当時は東海道本線にも神奈川駅がありましたし、現在も京浜急行の神奈川駅がありますので、連絡が行われていたようです。ところが、東海道本線の神奈川駅が廃止され、3代目(当代)横浜駅が開業したことから、東横線の神奈川駅が1928年10月15日に移転開業します。やはり空襲にあい、1946年7月25日に休止となり、1950年4月7日に廃止されました。

 そして、2004年1月30日に廃止された横浜~桜木町です。この日に高島町駅と桜木町駅が廃止されたのですが、実はもう一つ、廃止された駅がありました。本横浜駅です。1928年5月18日、東横線が神奈川駅から延長された際の終点で、当初は高島という名称でした。同年8月3日に本横浜と改められましたが、1931年1月20日に廃止されています。これは、関東大震災後の区画整理事業の完成を待っていたこと、東横線の前身である東京横浜電鉄が桜木町方面への延長を鉄道省と協議していたことによるもので、1931年1月20日、高島町駅が開業します。桜木町駅の開業は1932年3月31日で、これによって東横線の全区間が開業したことになります。高島町駅と桜木町駅が廃止されたのは、2004年2月1日に開始された横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転のためです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩泉線の廃止が届け出られた

2013年11月10日 07時23分48秒 | 社会・経済

 ついに、JR東日本の路線で初めて、純粋な廃止路線が登場することになりそうです。11月8日、JR東日本は、3年以上にわたって運休している岩泉線の廃止を国土交通大臣に届け出ました。朝日新聞社が、8日の18時14分付で「JR東、岩泉線の廃止届け出 岩手県中部のローカル線」(http://www.asahi.com/articles/TKY201311080251.html)として、また、11月9日の5時付で「JR東、岩泉線の廃止届け出」(http://www.asahi.com/articles/TKY201311080783.html)として報じています。読売新聞社も、8日付で岩手版に「岩泉線きょう廃止届 押角トンネルなど無償譲渡」(http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20131108-OYT8T00032.htm?from=popin)として報じていています。

 鉄道営業法第28条の2第1項は「鉄道事業者は、鉄道事業の全部又は一部を廃止しようとするとき(当該廃止が貨物運送に係るものである場合を除く。)は、廃止の日の一年前までに、その旨を国土交通大臣に届け出なければならない」と定めます。従って、正式な廃止は2014年11月8日ということになりそうです。

 しかし、岩泉線の場合、既に3年以上も運休しています。また、元々利用客が少なく、JR東日本はもとより、全国のJR線でも最も輸送密度などが低いのです。そのため、届出から1年以内の廃止でも支障がないと判断される可能性もあります。鉄道事業法は、こういうことも想定していて、先程の第28条の2には、次のような規定も存在しています。

 第3項:「国土交通大臣は、前項の規定による意見聴取の結果、第一項の届出に係る廃止の日より前に当該廃止を行つたとしても公衆の利便を阻害するおそれがないと認めるときは、その旨を当該鉄道事業者に通知するものとする。」

 第4項:「鉄道事業者は、前項の通知を受けたときは、第一項の届出に係る廃止の日を繰り上げることができる。」

 第5項:「鉄道事業者は、前項の規定により廃止の日を繰り上げるときは、あらかじめ、その旨を国土交通大臣に届け出なければならない。」

 読売新聞社の報道によると、岩泉線の廃止は来年の4月1日付です。そのため、第3項ないし第5項の適用があったということになります。半年も残されていませんが、支障がないと判断されたのでしょう。1キロメートル辺りの1日平均が46人では少なすぎるからです。路線バスでも空席ができるくらいでしょう。

 今後は代替バスになるのですが、これはこれで問題があるようです。バスの運賃は鉄道と同じと設定するようですが、赤字分はJR東日本が負担するとのことです。1年間で4000万円ほどが見込まれていますが、これで済むのかという疑問は残ります。また、岩泉線の土地・施設は区間に応じて宮古市、岩泉町、岩手県に無償譲渡されることになっていますが、岩泉線の最大の存続理由ともなっていた押角峠のトンネルについては、岩手県に無償譲渡するのみならず、国道340号線への転用のためにJR東日本が最大で20億円を負担するとのことです。130億円もかけて復旧するよりは安上がりですが、どこまで道路事情の改善につながるかはわかりません。

 岩泉線が廃止されるとなれば、他のJR路線がどうなるのか、という問題もあります。岩泉線ほどではなくとも、輸送密度、平均通過人員などが低い路線が全国にあります。有名なところでは三江線(JR西日本)、大糸線の南小谷~糸魚川(JR西日本)、只見線(JR東日本)、吉都線(JR九州)、というところでしょうか(他にもたくさんあります)。1980年代まで悪化した国鉄の下で、これらの線は廃止か存続かで揺れ、かろうじて存続したところばかりです。JRの路線となってから、状況はいっそう悪化しており、1980年代の基準に照らせば廃止が妥当という路線も増えつつあります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩泉線の廃止は確定的に

2013年11月06日 09時22分02秒 | 社会・経済

 このブログでは、ローカル線の存廃問題も取り上げています。今回は岩手県のJR岩泉線です。過去に2回取り上げておりますので、そちらも参照していただければ幸いです。

 「やはり、岩泉線は廃止か」(2012年3月30日付)

 「JR東日本が改めて岩泉線の廃止を提案した」(2013年9月10日付)

 さて、3度目となる今回ですが、今日付で岩手日報社が「岩泉線廃止、地元容認の方向 押角トンネル県道に」(http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20131106_3)として報じておりますので、その内容を紹介しながら進めることとしましょう。

 前の2回でも記したように、岩泉線は2010年7月末日に生じた土砂崩れの影響で、現在に至るまで不通が続いています。しかも、この際に現場に列車が通り、脱線するという事故も発生しています。既に3年3カ月も運休が続いており、復旧工事もなされていません。元々が1980年代に第二次特定地方交通線として廃止されるはずだった路線です。道路の未整備を理由に残されたとは言え、利用客は年々減少し、不便な運行ダイヤと相まって状況は悪循環の一途でした。他の幾つかの路線についても言えることですが、1980年代に廃止せずに先送りしたことが、問題を大きく、かつ厄介なものとしたと評することもできるでしょう。

 岩手日報社の上記報道によると、宮古市と岩泉町は、岩手県が提案した国道340号線の道路改良のための押角トンネル(鉄道トンネル)の利用について、受け入れの方針を示す方向で最終的な調整を図っています。

 とくに影響を受けるのが岩泉町ですが、同町は5日に町議会の全員協議会を開きました。ここで県の案が説明され、町長は受け入れの方針を示したようです。これに対し、議会側からは大きな異論が出なかったということです。勿論、着工の時期や費用についての説明は求められたようですが。

 宮古市でも同様で、先月の住民説明会、市議会の全員協議会でも、道路の改良を求める意見が多かったとのことです。よくわからない点もあるのですが、鉄道の再開を求める声は少なかった、ということでしょう。

 鉄道トンネルを道路改良のために利用する訳ですから、岩泉線の再開を求めるならば新たにトンネルを掘らなければなりません。しかし、日本の鉄道路線で最も輸送密度が低い路線ですので、費用対効果の点からしても、新たなルートを作って再開させるだけの意味はありません。従って、廃止するしかないということになります。

 JR東日本と言えば、今年の台風18号で只見線の会津川口~只見で大きな被害を受けています。同線も赤字線で、同社では岩泉線の次に輸送人員が少ない路線です。やはり1980年代に廃止される可能性も高かったのですが、冬の道路事情の悪さがあり、存続となりました。JRは同線について、復旧するか否かを「総合的に判断する」としていますので、部分廃止などの可能性は残されています。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民法総則に登場する代理の話

2013年11月06日 08時31分30秒 | 法律学

 今年度、私は木曜日の2限に、2年生向けの「基本法学概論」を担当しています。時間の関係で実施できないこともあるのですが、なるべく小テストを行うようにしています。

 変な名称の科目と思われるかもしれませんが、これは1年生で学習した内容の復習を主な内容とするもので、基礎を固め直すための科目と考えていただければよいでしょう。小テストも、1年生の時点で勉強した内容だけでは復習にもならないので応用なども入れていますが、やはり基礎的な問題は何回やり直してもよい訳で、私も、1年生の「現代社会と法」で出された小テストを出し直したりします。用語はしっかりと習得して身につけなければならないからです。

 さて、先週の木曜日、ということは10月31日、私は学会報告を前にして大変なことになっていたのですが、講義は一つも休講にせず、しっかりとやりました。それはどうでもいいとして、2限の「基本法学概論」をやり、小テストも行いました。出題したのは民法総則に登場する代理です(但し、無権代理と表見代理は明日、つまり11月7日に出題の予定です)。

 このところ、欠席も多いし小テストの出来もあまりよくないので、「どうしたものか」と思っていましたが、10月31日実施分も「?」と疑いたくなるほどの出来でした。代理を理解しておかないと、たとえば商法や会社法も理解できないはず。そうでなくとも、実は日常的に代理が必要となることも少なくないのですから。

 ということで、以下、若干の解説などを。

 (1)顕名

 代理人が「本人Aの代理人」とか「B株式会社 代表取締役C」などとして、自分が代理人であることを「顕名」(けんめい)というのですが、これが答えられていない答案が多かったのでした。「意思表示」という解答が多かったのですが、これは誤りです。考えてみて欲しいのですが(実際に考えない人も多いのですが、しっかり考えなさい!)、代理人は、単に「私は▲▲の代理人でございます」と明示するのみです。別に代理人自らの意思を示している訳でもなければ、意思表示の効果を代理人自らに帰属させる訳でもありません。わかりやすく言えば、権利も義務も代理人ではなく、本人のものとなります。あくまでも無権代理ではないという前提で記しておきますと、代理人が本人から授権されて行った契約の履行などは、法律上、本人が行ったものとして扱われます。だから代理の意味があるのです。

 このことから、顕名が意思表示でないことは明らかでしょう。少なくとも、意思表示とは区別しなければなりません。「買おう」とか「売ろう」などという意思を持つのは本人であって代理人ではありません。また、顕名がなされなくても、状況によっては目の前にいる人物が誰かの代理人であることが明らかである場合も少なくありません。そのため、民法第100条ただし書きで「相手方が、代理人が本人のためにすることを知り、又は知ることができたとき」に第99条第1項を準用すると定められています。

 ちなみに、本人が代理人に対して行う代理権授与行為は、契約ではなく、単独行為です。理解の前提となるので、記しておきます。

 (2)未成年者を代理人とすることができるのは何故か?

 自分の子にお使いを頼む親も多いことでしょう。私も、子どもの頃は親に「◇■を買ってきて」と言われて、近所のスーパーマーケットや雑貨屋へ行ったりしたものです。この時、子は明らかに親の代理人として買い物をしている訳です。お使いを頼むということは、代理権授与行為なのです。

 未成年者は制限行為能力者で、その未成年者が本人として契約を行う際には、法定代理人である親権者の同意などを必要とします。しかし、親が本人で未成年者が代理人である場合には、親権者の同意など問題になりません。子が他人の代理人となる場合とは異なります。答案では、何故か親権者の同意を引き合いに出すものが多く、誰が本人で誰が代理人か、しっかりと区分けして考察することが出来ていないことがわかりました。法律を扱うならば、学問であれ実務であれ、誰がいかなる立場にあるのかを把握しなければ、事案を正確につかめなくなります。

 民法第102条は、「代理人は、行為能力者であることを要しない」と定めています。その理由は何でしょうか。

 私の手許には『我妻・有泉コンメンタール民法総則・物権・債権』〔第2版追補版〕があります。この本の235頁から引用しておくこととしましょう。

 「代理行為の効果は、ことごとく本人に帰属するものであるから、代理人は、代理行為によってはなんらの不利益をこうむるおそれがない。したがって、制限行為能力者(以下、制限能力者と略称する)を保護するために制限能力者は代理人になれないとする必要はない。むしろ、制限能力者が代理人になった場合、そのために相手方に不利益が生じることのないようにする必要がある。これが本条の立法趣旨である。」

 既に説明したことも織り込まれています。代理行為が行われたならば、その効果として、権利も義務も本人に帰属します。代理人には帰属しません。だから未成年者であってもよい訳です。子にお使いを頼んだ親は、無意識であっても親の自分が全ての権利・義務を引き受けています。相手も、子がお使いにやってきたときには親の代理人として店などに来ていることはすぐにわかるでしょう。

 以上のようなことを記せばよいのですが、不十分な答案が少なくなかったのでした。

 「今後、復習に復習を重ねる必要がある」と考えています。楽器の練習と同じで、基礎は何回でも繰り返すものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都から帰ってきました/御礼

2013年11月03日 23時32分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 11月2日(土)と3日(日)、同志社大学今出川校舎で開催された日本租税理論学会第25回研究大会に、報告者として出席させていただきました。

 考えてみると、日本租税理論学会での報告を担当させていただいたのは、2002年11月16日、中央大学駿河台記念館で開催された第14回大会以来のことです。

 私は2日の午後に「格差是正と租税法制度」という題目の下で報告を担当いたしました。非常に根が深い問題であるだけに、戸惑いを覚えたまま準備を進めました。それも十分でなかったことは、私自身が重々承知しております。

 格差と言っても所得格差、資産格差など、租税法に関係するだけでも幾つかの側面が浮かび上がります。今回は所得格差に絞り、憲法論なども交えて話を進めさせていただきました。

 少なくとも私にとっては意外なことに、出席された方々の御関心をいただいたようで、2日の懇親会の席で、また3日のシンポジウムは質疑応答の場で、多くの御質問を頂戴いたしました。果たして、私が上手く解答を出すことができたかどうかわかりませんが、今後取り組んでみたいテーマも思い浮かび、貴重な機会となりました。

 この場を借りて、皆様に厚く御礼を申し上げます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする