ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2003年5月31日、佐伯城址など

2021年04月14日 00時14分15秒 | 旅行記

 久しぶりに、私のサイト「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」に掲載したものを再掲載します。今回は、第60回として2003年8月2日〜11日に掲載した「佐伯城址など」です。平成の市町村合併による新しい佐伯市が成立する前の話ですが、修正などをしておりませんので御注意ください。

 

 現在、大分県内で、市町村合併に向けての準備が最も進んでいる佐伯市および南海部郡。その中心となるのは、やはり佐伯市です。今回は、その佐伯市から、中心部の風景を紹介いたします。

 2003年5月31日、午前中に宇目町のととろの里、そして木浦を訪れた後、この「待合室」でも取り上げた重岡駅、そして直川村を経由して、佐伯市に出ました。合併が進めば、宇目町も新しい佐伯市の一部となるのですが、木浦から佐伯市の中心部、大手前までは、実に40kmを超えます。首都圏などにお住まいの方は、この距離について実感が湧かないかもしれませんが、東急田園都市線全線(渋谷~中央林間)の営業キロ程が31.5kmですから、どれほどの長さかおわかりいただけるでしょう。ちなみに、西鉄天神大牟田線の西鉄福岡駅からであれば、西鉄久留米の二つ先、試験場前駅までの営業キロ程が40.1kmです(特急停車駅の大善寺までは45.1km)。どちらにしても、途中に幾つの市町村を経由するでしょうか。

 勿論、木浦から重岡までは鉄道路線がありませんし、バスの本数も多くありません。急な坂道、細い道などを何度となく進まなければなりません。

 それはともあれ、佐伯市の中心部に到着しました。佐伯駅からは少し離れています。

 大手前の交差点付近を脇に入ると、佐伯城址があります。その入口付近にある佐伯小学校です。御覧のように、校舎は近代風ですが、門は古風で、しかも立派なつくりです。詳しい歴史などを調べていませんのでよくわかりませんが、佐伯城址のすぐそばということで、昔はおそらく武家屋敷か何かだったのでしょう。もっとも、よく見ると扉は今風の構造です。

さて、佐伯城址です。これは三ノ丸の跡です。この写真の右側に、武家屋敷などが続きます。奥のほうに見える建物は佐伯文化会館です。

 この写真を御覧になって「?」と思われるかもしれません。実は、佐伯市はスーパーマーケット寿屋の発祥の地です。1947年に小売店としてスタートした寿屋は、1957年に株式会社となり、1968年に本部が、1971年には本店が熊本市に移転しました。その後は九州内では大手のスーパーマーケットとして発展したのですが、1999年に、上場(福岡証券取引所および大阪証券取引所第一部)後の初の赤字決算を計上、2001年2月期の決算では連結で60億円以上の債務超過、同年8月中間決算では70億円以上の債務超過となりました。そのため、2001年12月、寿屋は民事再生法の適用を熊本地方裁判所に申請しました。そして、昨年の2月には、全店舗を一時閉鎖しています。

 大分県内にも、主要な都市を中心に寿屋の店舗や、系列のくらし館の店舗が展開されていました。しかし、2002年2月、やはり県内の全ての店舗が閉鎖されました。その後は、大分市内などで別の経営体(トキハインダストリーなど)によって営業が再開される店舗も増えたのですが、中津、そして発祥の地である佐伯などでは、今も閉鎖されたままです。

 なお、寿屋は、昨年の12月4日、民事再生計画の認可決定を受けて新会社として再スタートを切り、今年の5月に社名をカリーノに変更しています。本社は熊本市に置かれています。

 (以上は、熊本日日新聞社のホームページに掲載されている記事を参照しました。)

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2005年6月25日、清水・三保の松原にて

2020年11月29日 21時11分00秒 | 旅行記

 今回は、私の「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」の第218回「清水、三保の松原にて(その1)」(2007年6月24日〜7月1日)の再掲載です。修正などをしておりませんので、御注意ください。なお、撮影日は2005年6月25日です。

 

 今回は、かつての清水市、現在の静岡市清水区にある名所の一つ、三保の松原を取り上げます。もう一つの名所、清水港のほうは撮影していません。

  実のところ、静岡県は、川崎生まれの川崎育ちである私にとっても縁の深い所です。先祖が静岡県のどこかの出身らしいのです。よくわからないのですが、私の名字からして、遠江、つまり遠州の森町あたりではないかと思います (あくまでも、私の思い込みのようなものです。伊豆に縁があることは割にはっきりとしていますが)。森町は、森の石松の出身地です。森の石松(現代風に言えば、森町出身の石松さんということですが)と言えば 、遠州ではなく駿河ですが清水の次郎長。清水港の名物と言えば?

  全く、平成の市町村合併で愚かなことが続出しました。貴重な地名を亡き物にしたり、訳のわからない名前をつけたりしています。 もっとも、こういうことは歴史の上で繰り返された訳で、嘆いても仕方のないことではあるのですが。清水市はなくなりましたが、静岡市に清水区ができたことは、せめてもの救いであるかもしれません。 

 東名高速道路の清水インターチェンジを降り、清水駅の前を通り、東海大学海洋学部の施設などの近くを通ります。このあたりには、旅客列車が一日一往復しかないという国鉄清水港線が通っていました。今でも、客車などが保存されています。さらに進み、三保の松原の近くにやってきました。

 まだ三保の松原に着いていませんが、すぐ近くです。いや、三保の松原の東端と言うべき場所かもしれません。無料駐車場のような場所があったので、車を停め、太平洋を眺めました。

 左に写っているのが私の4台目の車、5代目ゴルフGLiです。実は、 納車されて1ヶ月ほどのこの車を遠出させたくて、三保の松原にやって来たのでした。2台目の車、日産パルサーJ1Jでは、何度も遠出をしていて、最長で川崎から神戸まで走っています(大分大学に就職する際に運転したのでした。さらに、神戸からフェリーに乗って大分まで行きました。大分に住んでいる時には、九州半周もやりました)。また、3台目の車、日産ウイングロードXでは、大分から福岡、佐賀、熊本へ走りましたし、大分大学から大東文化大学へ移るために川崎に帰った時には、大分から神戸までフェリーに乗り、神戸からは川崎まで運転しました。

 今の私の車では、2005年12月に浜松まで運転したのが最長ということになっていますが、機会があれば、大阪か神戸か宝塚まで、なんなら福岡まで運転したいと思っています。実際、2006年9月の集中講義の際には、川崎から福岡まで運転するという計画も立てていました。しかし、長丁場の集中講義で余計に体力を消耗したくないということで、やめました。2007年には2回、福岡に行くことが決まっていますし、2008年3月にも福岡に行くことが決まっていますので、その時にゴルフで行こうかと思っています。しかし、今年の2回はいずれも集中講義ですし、来年3月の1回は学会ですので、車で行くのはまずいかな、などと思っています。

さて、いよいよ三保の松原に入ります。砂浜に、何本かわからないほどたくさんの松が生きています。方向感覚を失いそうになります。

 

 松林から海が見えます。太平洋です。撮影した時期、早稲田大学の法職課程教室公務員講座で行政法の講義を担当していました。楽しい仕事でしたが、実は準備に相当の時間が必要で、大変でもありました(だからこそ、楽しかった訳でもあるのですが)。撮影日の翌日にも講義をやりましたが、ちょうどよい気分転換にもなったようです。

 また折を見て、続編をやります。

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2003年8月23日、別府駅東口

2020年09月27日 20時46分35秒 | 旅行記

 今回は、私の「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」の第64回「別府駅東口の現状」(2003年8月30日〜9月5日)の再掲載です。掲載当時は大分大学教育福祉科学部助教授で、大分医科大学医学部医学科および別府大学文学部人間関係学科の非常勤講師も務めていたため、別府市は旅行先ではなかったのでした。そのため、カテゴリーを旅行記とするかどうかは迷いました。なお、以下の内容については修正などを加えておりませんので御注意ください(ダイエー別府店など、既になくなっている店もあります)。

 

 皆様は、別府(勿論、大分県別府市のことです)について、 どのようなイメージをお持ちでしょうか。おそらくは温泉という答えが最も多いと思われます。中には、競輪、サテライト日田問題、などというものも出てくるでしょう。それはともあれ、別府市は、日本でも温泉を基盤とする観光地としては最大の規模を誇る所でしょう。東日本であれば静岡県熱海市や神奈川県箱根町、西日本であれば大分県別府市が、大温泉地帯として有名です。

 箱根はともあれ、別府と熱海には、類似する点がいくつかあります。まずは地形です。熱海市も、山が海のすぐ近くにまで迫り、平地が少ないのですが、別府も同様です。国道10号線が海のそばを通り、そこから日豊本線のほうに向かうと、すぐに登り坂になります。さらに西へ向かうと、勾配がきつくなり、大分自動車道は山の中を通っています。そのため、同じ市内でも天候が違うということが度々生じます。

 もう一つ、別府と熱海の共通点は、観光地としては長期低落傾向にあるということです。熱海の場合は、東京に近いということもあって、バブル期には東京の通勤圏内になりました(それにしては、東京駅から100キロメートル以上離れているのですが)。しかし、別府の場合は、1980年前後から低落傾向が続いています。例えば、修学旅行客の動向を見ると、1980年代に入ってからは減少の一途をたどっています。一般の観光客もそうで、ワールドカップなどで一時的には増加したものの、根本的な解決には程遠く、最近も、ホテルの閉鎖などが相次いでいます。また、地価の下落率も大きく、中心地の北浜の下落率は、今年、熊本国税局管内で最大の幅を記録しました。

 別府駅東口です。首都圏や関西圏で高架駅は珍しくないのですが、大分県では別府駅と中津駅のみです(大分駅は、現在、高架化工事中。微妙なのは豊後竹田駅)。時期について詳細はわからなかったのですが、昭和42年、つまり1967年には、別府駅は高架化されていました。上の写真の手前側1番線に停車している普通列車(C57牽引)の写真が、手元の本に掲載されていますが、昭和42年8月6日撮影となっていました。おそらく、昭和42年か前年に高架化されたのでしょう(中津駅は、まだ高架化されていなかったようです)。

 この写真は、この夏、8月23日土曜日の昼に撮影したのですが、客待ちのタクシーは何台も見られたものの、肝心の人があまりいません。別府駅は、バス路線の関係なのか、いつも西口のほうにお客が多いようです。また、高架駅の中には、ファーストフード店、ダイエー、数件の食堂などがありますが、利用客はそれほど多くありません。

 先ほどの場所から、東側、つまり海側に歩きます。北浜の ほうに出る別府駅前通りです。この通りには、かつて、大分交通別大線の支線が通っていましたが、昭和30年代には廃止されています。なお、別大線は1972(昭和47)年に廃止されました。

 それほど多くの回数ではないのですが、私がこの通りを歩く時は、だいたい、このような感じです。観光地とは言え、閑散としていて寂しいものです。例外は、2000年12月9日です。この日は、サテライト日田設置反対デモが行われました。この時だけは、別府駅前通りは、日田市民、別府市民、そして報道関係者などであふれかえっていました〈サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題・第8編を参照〉。こんな皮肉な話もないものです。地元の温泉まつりですら、あの時ほど多くの人がいないのですから。ただ、不思議なことに、通りに10件近くあるパチンコ屋だけは、そこそこお客が入っています。

 この写真を御覧になって「何でこんな空き地を撮影してるんだ?」とお思いの方もおられるでしょう。実は、ここが近鉄百貨店の跡地なのです。私が大分大学に着任した1997年には既に閉店しており、建物だけが残っていました。そして、2000年には建物も壊されました。ここに場外馬券売場(だったと思います)を設置する構想などもあるようですが、実現に至っておりません。

 また、写真の右上のほうに、かすかですが「コスモピア」が見えます。北浜の交差点付近にある、トキハ別府店に隣接する商業施設です。実は、このコスモピアは第三セクターが運営していたのですが、1990年代初頭に経営が破綻し、地元の百貨店であるトキハに譲渡されました。

 坂を下ってすぐのところに、やよい商店街があります。土曜日の昼間、御覧のように、歩いている人はほとんどいません。平日の夕方などもそうです。以前聞いた話では、別府国際観光港の埠頭が北浜付近から現在地(別府大学駅のほうが近い)に移転したことが影響しているとのことでしたが、車社会の進展でこうした商店街が衰退した、と考えるのが自然でしょう。ここもシャッター通りで、何件もの店がシャッターを閉めていました。また、営業してはいるのですが、店の中が見えにくいなど、いかにも入りにくそうな店も見受けられます。私も、商店街の何処かで昼食をとろうとしたのですが、中がよく見えないので入りづらく、結局、入るのをやめました。改善を訴えたいところです。

 問題のある写真かもしれませんが、別府市中心街の現状を紹介するため、あえて掲載します。大分県内各地の中心街では、よく見られる光景です。

 一般的に、道路網の発達と自家用車の普及により、中心街は寂れる一方で、郊外のスーパーマーケットにお客が流れています。ただ、別府市を周ってみても、国道10号線沿いなどに郊外型のスーパーマーケットやディスカウントショップがあるものの、それほどお客が多い訳ではありません。大分市や挾間町にみられるような大規模な店舗は、別府市に存在しません。おそらく、少なからぬ買い物客が大分市に流れているものと思われます。実際、別府在住の学生などに尋ねると、普段の買い物はともあれ、衣服や本などであれば大分市内で買うし、遊びに行くのも大分市内の中央町や郊外の大規模店舗などがあげられます。

 おそらく、別府で公営カジノ構想が真剣に議論されているのも、こうした商店街の現状に由来するのでしょう。

 また、別府駅前通りを北浜のほうに歩きます。坂を下りきり、もう少しで北浜の交差点という所に、ソルパセオ銀座という商店街があります。ここもアーケードです。大分県内に限ったことではないのかもしれませんが、少なくとも県内で、アーケード商店街は衰退する傾向にあります。中津市新博多町もそうですし、臼杵市の商店街もそうでした(現在はわかりませんが、数年前の臼杵市のアーケード商店街は惨憺たるもので、空いている店が10件に満たず、しかも、お客が入っている店舗はさらに少なかったのです)。佐伯市のアーケード商店街も寂れていました。大分市の竹町商店街もアーケードになっていて、ここも衰退しています。幼い頃、私が生まれ育った川崎市の某所(溝口ではありません)の駅前もアーケード商店街でしたが、今はかなり廃れています。大分市中央町商店街は、結構人通りが多いのですが、それでも、衰退傾向にあることは否定できません。そう言えば、直方駅前のアーケード商店街も寂れていました。九州のアーケード商店街で活気があるのは、小倉の魚町と熊本の上通、下通くらいでしょうか(鹿児島の天文館や長崎の浜町はどうでしょうか)。

 アーケードに限らず、中心街の衰退は大分県内の至る所にみられます。私が実際に歩いた経験から言えば、大分県内でとくに衰退が著しいと思われるのは、別府の他、中津、臼杵、津久見、佐伯、竹田です(津久見市と竹田市は過疎地域に指定されています)。

 上の写真は、デジタルカメラの望遠機能を使い、道路の反対側から撮影したものです。最初見た時には「珍しく人通りが多いぞ!」と思ったのですが……。

 ソルパセオ銀座に入ってみると、人が多いように見えたのは錯覚でした。この写真でも、奥のほうには人通りが多いように見えますが、実際は違います。通りの真中に、写真にあるように商品が並べられていることが多く、これが錯覚を起こす原因にもなっています。

 大分県内では大分市に次ぐ人口規模(約12万人)で、大分県では唯一、市町村合併をせずに単独で残ることが決まっている別府市ですが、人口も減少しており、温泉などの観光面でも、湯布院などに水をあけられています。今回は、こうした現状の一環を取り上げました。

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2009年3月21日と22日の朝、すすきの

2020年09月24日 00時00分00秒 | 旅行記

 2009年3月20日から22日まで、学会の関係で札幌市を訪れました。その時に撮影した写真などを掲載しておきます。

 なお、札幌市電の営業区間は、長らく西4丁目〜すすきの(電車事業所前経由)でしたが、2005年に西4丁目〜狸小路〜すすきのが開業したことにより、完全な環状運転を開始しました。

 街の中、しかもビルの上に観覧車があるというのは、考えてみると変な話なのですが、所々にあるものです。2008年9月に訪れた鹿児島市にもありましたが、上の写真は、私が宿泊していた札幌東急インの部屋から撮影したものです。

 2009年3月20日の夜、およそ8年4か月ぶりに札幌駅を利用しました。すぐに地下鉄南北線に乗り換え、すすきので降りました。前回の訪問時には札幌駅前のホテルに宿泊し、麻生(あさぶ)や真駒内(まこまない)、新札幌を歩いたにも関わらず、繁華街のすすきのを歩いていません。地下鉄で通過しただけなのです。そこで、今回はすすきのを歩いてみようと思い、ホテルを選びました (実は割引券を持っていたからでもあるのですが)。

 翌朝、上の写真を撮影してみました。観覧車は、このホテルの北側、狸小路というアーケード街の中にあるビルの上に設置されているようです。

 ホテルから出て、すすきの駅まで歩きます。すすきのと言えば、日本中で有名な歓楽街であり、駅から中島公園に向かうほう、つまり南側には風俗営業の店がたくさん並んでいます。しかし、土休日の朝は、自動車の通行量が少なくないのに、人通りは少なく、眠っているかのようです。

 私は、20日の夜、ホテルのチェックインを済ませてすぐにこの周辺を歩いたのですが、何故か博多ラーメン、もつ鍋など、九州の料理を扱う飲食店が多かったことに驚きました。観光客より地元の客が足を踏み入れる地帯を通ったのかもしれませんが、九州料理を扱う店が多い一角があるのです。勿論、北海道料理店もたくさんあります。しかし、地元の人間がどれくらい利用するのでしょうか。故宮脇俊三氏は、『最長片道切符の旅』という名著の高山駅周辺の箇所で「土地の人間相手ですから珍しいものはない、とは意義深い。土地の人は『高山料理』など食べないのである。それはどの町だって東京だってそうだ。お上りさんの入る店に京都の人は見向きもしない」と書いています(新潮文庫版226頁)。札幌市在住の方々に、この宮脇氏の記述はどの程度まであてはまるのでしょうか。

 以前に札幌を訪れた時にも感じたのですが、気候などを別にすれば、札幌駅周辺からすすきのまでを歩いていても、東京近辺を歩いているのと変わりません。東京の延長とすら思えてきます(この街の一部だけしか触れていないのですが)。首都圏に本拠を置く百貨店やスーパーマーケットの支店が多いこと(例、西武百貨店、イトーヨーカドー、東急ストア)、逆に札幌市に本拠を置くドラッグストアや家具屋などが首都圏に多いこと(例、ニトリ、ツルハドラッグ)が、東京の延長という印象を強めるのでしょう。また、街を歩いている人たちに訛りがないようで、そのことも影響しているのかもしれません。

 札幌市には市電が走っています。奥に電車が止まっていますが、そこがすすきの電停です。地下鉄整備が進んだことなどによって、市電は廃止されることになっていたようですが、西4丁目~すすきのの路線は残りました。20日の夜に乗ってみたのですが、意外に利用客が多く、存在意義は十分にあるようです。地下鉄南北線のすすきの駅は、交差点の下にあり、市電と連絡しています。

 ところで、私は、ここで「すすきの」と平仮名で書いています。これは札幌市交通局の駅名表記にならっているのですが、本などによっては「薄野」、「ススキノ」と書かれていることもあります。そもそも、すすきのはこの辺りの通称とも言うべきものでして、札幌市の地図を見ても正式な住居表示などとしては登場しません。私が宿泊した札幌東急インの所在地は札幌市中央区南4条西5丁目となっています。この辺りでは、大通を基準としてその北にあれば北何条といい、南にあれば南何条といいます。そして、東西を何丁目と言い分けます。そのため、交差点には、たとえば「南4西5」と書かれています(同じ交差点でも信号機によって表示が異なることがあります)。従って、歩くのには最も楽でしょう。これまで私が歩いた中で、京都市と大阪市の中心部における道路のわかりやすさには感心したのですが〔京都市は東西に伸びるメイン(?)の道路が「四条」などとなっています。大阪市の場合は、南北に伸びる道路が「筋」、東西に伸びる道路が「通」となっています)、札幌市はさらにわかりやすいのです。

 〔追記:さらに記せば、わかりやすさでは札幌市、大阪市の順でしょう。〕

 ラッピング広告車となっている市電です。札幌市電は、今ではどこの地方にも普及しているVVVF制御を日本で2番目に採用しました(最初の採用は熊本市電)。以前から進取の精神に富んでいたと言えます(ローレル賞を受賞した連接車を導入したり、ディーゼルカーを導入したりもしています)。

 この市電の走行区間は実に面白いものです。方向幕に「西4丁目~すすきの」と書かれていますが、すすきの電停から西4丁目電停までは数百メートルしか離れておらず、地下鉄南北線の真上の道路を歩いても数分で着きます(地下鉄ですと大通駅の次がすすきの駅です)。しかし、この市電は45分ほどかけて両電停を結びます。すすきのを発車すると西に向かい、資生館小学校前電停の所で左折して南に向かいます。幌南小学校前を出て右折して西に向かいます。この辺りは完全に住宅地となっており、郊外型店舗も見受けられます。電車事業所前の手前でまた右折して、今度は北に向かいます。そして、西15丁目で右折して東に向かいます。そして西4丁目に到着します。すすきのと西4丁目がつながっていれば完全な環状線になりますから、どうして残しておかなかったのかとは思います。

 さて、地下鉄のすすきの駅に入りました。この地下鉄がまた独特です。札幌市営地下鉄は南北線、東西線、東豊線の3本から構成されていますが、そのいずれも中央案内軌条式を採用しています。

 上の写真では少しわかりにくいかもしれませんが、線路のように光っている部分が案内軌条といい、真ん中に敷かれています。車両は、この案内軌条を真ん中に抱え込むような形で走ります。つまり、東京モノレールや多摩モノレールなどの跨座式モノレールとよく似た構造になっているのです。そして、通常なら鉄製の線路が敷かれているはずの部分には線路が敷かれておらず、道路のような舗装が施されています。上の写真ですと、黄色い帯が2本見えますが、そこが舗装の部分です。車両の台車には、通常の鉄道車両で使われる金属の車輪ではなく、ゴムタイヤが付けられています。そのため、レールから発せられる騒音はほとんどありません。

 但し、道路の上を走っているようなものなので、自動車が道路を走る時に感じるような振動があります。いや、振動という点では自動車以上に激しいというべきでしょう。これは、やはり案内軌条式を採用する新交通システムと共通する点で、舗装状態やゴムタイヤの状態が悪いと上下左右の振動が激しくなります。私は、新交通システム路線では 東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)、東京都交通局日暮里・舎人ライナー、大阪市交通局南港ポートタウン線、神戸新交通ポートアイランド線、神戸新交通六甲アイランド線を利用したことがありますが、いずれも振動が激しく、しかも速度が出れば出るほど振動が複雑になり、乗り心地が非常に悪かったことを覚えています。ほとんどの新交通システムが赤字を抱えているといいますが、原因の一つは振動にあるかもしれません(運賃が高いことも難点です)。

 札幌市営地下鉄は、横浜市営地下鉄などと並び、赤字額が大きいことで知られています。南北線を利用している限りでは、どうして赤字額が大きいのかわかりかねる部分もあるのですが、このような特殊なシステムでは設備維持費が多いのではないでしょうか。鉄の車輪よりゴムタイヤのほうが磨耗しやすいでしょうし、鉄製のレールより道路の舗装のほうが早く傷むからです。

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2001年12月23日、シーボルト居宅跡

2020年09月21日 00時00分00秒 | 旅行記

 私のホームページ「川崎高津公法研究室」では、2002年から2014年まで「待合室」というコーナーを設けていました。そこで、私が歩いた街などの写真と雑文を掲載していたのです。掲載分は原則として保存しているのですが、消失したデータ(主に写真)もあります。また、2014年掲載分が見当たりませんので、都営三田線途中下車シリーズの数回分が掲載できないままとなっています。

 さて、今回は、2002年10月12日から同月25日まで第24回として掲載した分の再掲載です。但し、写真1枚が消失しています。文章は掲載時のままとしましたので、長崎電気軌道の運賃など、現在とは異なる内容もあります。御注意ください。なお、写真撮影日は2001年12月23日です。

 

 第15回目「平和の意味を問う」でも1枚だけ掲載したシーボルト(Dr. Phillip Franz von Siebold, 1796-1866)の居宅跡を紹介します。言うまでもなく、江戸時代後期、長崎は出島にあったオランダ商館の医師として来日したドイツ人です。彼の功績は、何と言っても、日本の植物などを世界に紹介したことです。帰国時、禁制の日本地図を所持していたことによって国外退去処分を受けましたが、その後、もう一度来日しているとのことです。長崎滞在中に日本人女性と結婚しました。その時に生まれた娘は、明治期に女医となって活躍しました。なお、彼の名字ですが、シーボルトというのはオランダ語の読み方なのでしょうか。ドイツ語であればズィーボルトとなります。

 居宅跡は、小さな公園のようになっています。敷地面積もそれほど大きくありません。入った瞬間、建売の敷地とあまり変わらない広さではないかと思われました。今では、御覧のように、建物が全く残っていませんので、ここで彼がどのような生活をおくったのか、などのようなことは、ここに立っているだけでは推測がつきません。

 上の写真は、敷地に入って左側にある居宅跡です。右側には書斎跡があります(下の写真)。ここにどのような書物が並べられたのか、彼がどのような研究を進めていたのか、色々なことを考えていました。

 そして、1945年8月9日に長崎の街が一瞬にしてカタストロフに見舞われることになるとは、想像もしていなかったことでしょう。また、彼が勤務していた出島は、当時は人口の島でしたが、今では周囲も埋め立てられ、島ではなくなっています。

 長崎市内の観光地を回る時には、路面電車が一番便利です。100円均一ですし、500円で一日乗車券を手に入れれば、大体の所をまわることができます。長崎の場合、廃止された区間は一つもありません。下の写真は蛍茶屋電停です。ここから3系統(赤迫行き)に乗ると長崎駅や浦上方面に、5系統(石橋行き)に乗ると眼鏡橋、浜町、大浦天主堂方面に行けます。また、蛍茶屋からでもシーボルト記念館に行くことができますが、遠回りになります。

 

 ※第15回目「平和の意味を問う」:2002年8月2日から同月16日まで掲載。

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2003年5月31日、ととろの里

2020年08月19日 08時51分30秒 | 旅行記

 今から17年前のことになりますが、2003年5月31日、大分市に住んでいた私は、同県の南部、南海部郡宇目町まで車で走りました。2005年3月3日、佐伯市と南海部郡の各町村とが合併し、新しい佐伯市が誕生しました。宇目町も現在は佐伯市の一部です。

 それはともあれ、今回は宇目町を訪れた時の様子です。

 

 国際的に通用する、しかも一級品の日本文化とは何でしょうか。

 どうやら、漫画とアニメがあげられるようです。実のところ、私にとってはどちらもあまり得意ではない分野です。漫画といえば、新聞の4コマか、病院の待合室にある雑誌を手に取るくらいで、漫画週刊誌を買ったことはないのです。単行本なら何度か購入したことがありますが、あまり日本の漫画を読んでいません。1970年代、私の小学生時代には、鶴書房で刊行されていた日本語版ピーナツ・コミックス(スヌーピーやチャーリ・ブラウンなどが登場する漫画)を買いに、自転車で小杉へ行ったくらいです。それでも全部を買った訳ではありません。アニメも、よくテレビで見ていたのは小学生時代で、中学生になってからはあまり見なくなりました。しかも、小学生時代には東京12チャンネル(現在のテレビ登場)で夕方に放送されていた番組で外国発のアニメ(ピンク・パンサーやバーバ・パパなど)を少し見ていたくらいでしょうか。日本のアニメ番組を最初から最後まで見たこともほとんどないのです。

 2003年当時、オタクという言葉は英語にもなっており、ポケットモンスターをはじめ、日本の漫画やアニメは世界的にも高い芸術的な評価を受けていました。宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」がベルリン映画祭で金熊賞を受けたことなどからも、このことは理解できます。

 アニメといえば映画ということにもなるのでしょうが、私は、基本的に映画を好まないため、映画館にも滅多に足を運びません。何しろ、高校3年生の時に、今はない六本木シネ・ヴィヴァンで「或る女の不在証明」という映画を見て以来、一度も映画館に行っていません (それまででも、2回か3回しか行ったことがありません)。ヴィデオを借りたりすることもありませんし、映画のヴィデオやDVDも、やはり今はない六本木WAVEで「真夏の夜のジャズ」を買ったくらいです。テレビの映画番組もあまり見ません。

 このような私でも、宮崎駿監督の映画は、「天空の城ラピュタ」など、日本映画には珍しく(?)、音楽もよいと思っています。これは、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のテーマ曲が爆発的なヒットを記録したことから明らかです。ちなみに、私自身は「天空の城のラピュタ」のテーマ曲 「君をのせて」が好きで、一時期はよく歌っていました。歌手の井上あずみさんの声がよかったからかもしれませんが(児童合唱ヴァージョンはあまりよくありません)、歌詞がいいのです(J-POPには陳腐な歌詞が多いのでほとんど聴かないのです)。

 実は、大分県に、宮崎駿監督の映画にちなんだ、あるいは引っ掛けた名所が、南海部郡宇目町にあります。まずは写真を御覧いただきましょう。

 映画ではトトロになっていますが、バス停は「ととろ」です。しかし、本当に映画のトトロが登場しそうな里です。 そう言えば、「となりのトトロ」のテーマ曲も、井上あずみさんが歌っていました。撮影をしながら、最初の部分だけ思い出しました。しかし、ここに来るまで車の中で聴いていた音楽は、ととろの里のイメージとはかけ離れ、映画とも全く関係のない、マヌエル・ゲッティングのE2-E4でした。大分大学時代に知ってから現在に至るまで、何かといえば聴いている曲です。

 何年前のことか覚えていないのですが、大分県内の新聞やラジオで「ととろの里」が紹介され、話題になりました。しかし、私にはピンと来なかったのです。ととろと言えば、宮崎県延岡市に日豊本線の駅があります。土々呂と書きます。読み方は「ととろ」です。何度か通ったことがあります。ただ、私が通った時には、映画に引っ掛けたようなものはなく、里というようなイメージもわきにくい所でした。その意味では、宇目町のほうが相応しいでしょう。 なお、宇目町の場合、漢字で記すと轟です。

 国道326号線を走り、宇目町に入ってしばらくすると「ととろ入口」という交差点があります。ここから県道6号線(日之影宇目線)が分岐します。その県道に入ります。少し走ると日之影、木浦などの案内板がある交差点に出ます。そこで「ととろ」と書かれた方角へ向かうと、数分で到着します。狭いながらも木浦(傾山登山口)行きの大分バスが佐伯駅方面から走ってくる所です(但し、時刻表を見ると、佐伯駅方面は1日3往復しかなく、他の行き先のバスを入れても5往復くらいしかありません。 豊肥本線三重町駅のほうが近いと思うのですが、バスの便はありません)。

 御覧のように、映画に登場するキャラクターの絵がバス停にあります。これを見る限り、地元の住民、あるいは宇目町、あるいは大分バスが、観光目的のためにこのような仕掛けを作ったのではないかと思われることでしょう。しかし、実際はそうでないようで、少なくとも最初は、誰かわからないがこのような絵を描いたか何かをして、それが有名になったとのことです。最近では整備などをしているのでしょう。それにしても、極端に本数の少ない路線のバス停が有名になるとは……。

 ここまで書いておいて、という気もしますが、実は、私は「となりのトトロ」という映画を見たことがありません(テレビで放送されていたのを少しだけ見たかもしれませんが)。ただ、テーマ曲だけは何度か聴いたことがあります(「君をのせて」とはあまりにも違う曲調なので、最初の部分しか覚えていません)。このトトロはぬいぐるみにもなっていて、見る度に「あれはミミズクじゃないの?」と思っていたのですが、一体何なのでしょうか。

 「猫バスの停まる里」ということで、その猫バスの登場です。勿論、実際に走るバスは、こんな格好をしておらず、箱型のものです〔もっとも、先ごろ廃止された南部縦貫鉄道(青森県)のレールバスを猫バスに似ていると評価した人がいます。たしかに、この絵を見ると納得します〕。バスと言っても色々な大きさ、型がありますが、猫バスでは宇目の狭い道を走れないでしょう (逆に、猫バスだから走れるかもしれないのですが)。しかし、実際にこの地を通ると、猫バスが来るような錯覚に陥りそうになります。私自身が、ファンタジックな世界を好むからかもしれません(現実のスキャンダルなどには嫌悪感を催すことのほうが多いのです)。

 バス停の小さな待合室には、上の写真にあるように、小さな待合室の中に、字の名前の由来が貼られていました。 日照り続きで旱魃に見舞われそうになったところに竜巻が起こり、豪雨と嵐が後に続き、農村は救われた、という訳です。竜の存在はともあれ、実際にあったことを基にした話なのでしょう。

 ととろバス停のすぐ裏を流れる小川です。台風の強風域に入り、大雨が降ったために、川の水量が増えています。この周囲を歩いても、この川の流れと鳥のさえずり声だけが聞こえてきます。晴れている夏の日であると、懐かしさにあふれる、いい風景になるでしょう。

バス停から、国道326号線側に戻って撮影しました。岸などがコンクリートで固められているらしいのは残念ですが、それなりの雰囲気を漂わせています。

車を停めておいた場所から、奥の方向を撮影してみました。

 ここでもう一度、バス停の小屋に貼られているトトロと猫バスの絵を掲げておきます。別にわざとぼかした訳ではありません。デジタルカメラの望遠をきかせただけです(撮影技術の程度がわかりますね)。なお、奥にある自動車は、当時私が運転していた車です(どうでもいいことですが、5速マニュアルミッションです)。

 御覧のように、バス停の待合室は川の上にあります。 しかも、両岸に丸太か何かを渡し、その上に建てているのです。また、待合室と言っても、柵があって中に入れません。なお、ととろバス停の標柱は、道路の反対側に立てられていません。このように、道路の片側にだけバス停の標柱が立てられるのは、大分県ではよくあることで、大分市内でも、例えば大分大学正門バス停などがそうです。だからと言って、一方向しかバスが停まらない訳ではありません。

 ととろバス停の付近は、小さな集落になっています。 少し前までは、神奈川県でも見られた光景です。写真は、大分県南海部郡宇目町、少し走ると宮崎県の北川町、日之影町です(北川町は、現在、延岡市の一部となっています)。

 バス停から150mほど離れた所に、このようなオブジェが置かれています。川の対岸にあるのですが、渡ることはできません(この日だけだったのかもしれません)。誰が作ったのかはわかりませんが、ちょっとした風景になっています。

 アップで写してみたら、いまだにデジタルカメラの光学ズームに慣れていないためか、ぼやけた写真になりました。このトトロを見る度に「あれはミミズクじゃないの?」と思っていたのですが、一体何なのでしょうか。

 猫バスのある場所から、方角を変えて周囲を捉えてみました。軽自動車が走っている道路は、路線バスが通っているとは思えないほど道幅が狭いのですが立派な県道でして、傾山の登山口である木浦、そして宮崎県日之影町へ向かいます(但し、相当に長い道のりで、さらに道の条件が悪くなります)。また、三重町の稲積鍾乳洞に行くこともできます。

 今度は、猫バスのオブジェと反対側のほうです。御覧のような郵便ポストがあります。私が子供のころには見慣れたものでしたが、今、全国的には少なくなっています。おそらく、首都圏などでは見られないでしょう。大分県には意外に多く残っていて、別府駅西口などでも見られます。しかし、ここまできれいな赤色のポストは、ととろの里くらいでしょう。

 この辺りには郵便局も簡易郵便局もありませんし、店舗らしいものもありませんが、上の写真のように、葉書記載所があります。左側の緩い坂を登ると、ととろの里オリジナル葉書(?)を販売している民家があります。

 猫バスの大きなオブジェが置かれている場所の対岸に、このような風景があります。天満宮の絵馬かけ、あるいは地蔵尊にも似た様子です。何故か御賽銭も置かれています。御覧のように、大きなトトロと小さなトトロがたくさん並べられています。じっくりとは見ていないのですが、一つ一つのトトロに願い事が書かれていたりします。

 この日は私一人だけがおりましたが、天候の良い休日には、何人もの観光客が訪れるのでしょうか。小さなトトロは、何百も置かれています。また増えるのかもしれません。

 同じトトロでも、一つ一つの形が少しずつ違います。狸のように見えるものもありますし、ミミズクのようにも見えます。何とも不思議な光景ですが、気分が和らいでくるのも事実です。大袈裟な仕掛けなど何もありませんが、一つ一つに手作りのやさしさ、ぬくもりのようなものを感じます。色々な人が、色々な思いを込めて、ここにトトロを置いていったのでしょう。

 木浦方面に角度を変えると、またトトロがたくさんおります。奥に見える黒い自動車は、私の当時の愛車、日産ウイングロードXです。

 日本もたくさんの映画を送り出していますが、このように、自然発生的に(と表現しておきます)映画にちなんだ名所ができたというのも、ここくらいのものでしょう。俳優でも女優でもなく、監督でもない。アニメのキャラクターが、この名所を生み出したのです。しかも、ディズニーランドのようなテーマパークなどという大袈裟なものではないのです。そこにこそ、驚嘆の念を覚えます。

 今度は、ととろバス停の方向です。階段を下りていくと、川を渡って猫バスのオブジェに行けるのかもしれませんが、撮影日は雨、間近に猫バスを見ることができなかったのは残念です。

 先ほどの写真から少しだけ右に動くと、このようになっています。それにしても、映画にちなんでとは言え、このような場所、アイディアを考えつかれた方、そして、これを維持管理している地元の方々には、敬意を覚えます。

 最後に、もう一度、猫バスのオブジェに登場してもらいましょう。そして、こことお別れといたします。また、時間があったら、ととろの里に行きたいと思っています。しかし、果たして、また行くことができるのかどうか、今の時点ではわかりません。

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2000年2月5日、太宰府天満宮

2020年08月10日 00時33分40秒 | 旅行記

 私が最初に太宰府天満宮に行ったのは、2000年2月5日(土曜日)のことです。

 7ヶ月ぶりの福岡行き、しかも、車をパルサーJ1JからウイングロードXに変えてからは初めてということもあり、まずは太宰府天満宮へ行こうと思い、朝早く自宅を出ました。実は、それまで太宰府天満宮に行ったことがなかったのです。太宰府市は何度も通っていたのですが、場所がわからなかったのです。

 大分大学に就職してから、私は法律学科の代表を務めていました。このように記すと偉そうに見えるかもしれませんが、実は法律学の担当者が私しかいないため、自動的に代表となっただけのことです。色々な事情もあって、2000年3月に法律学科は消滅します。1月、私は法律学科の最後の学生2人の卒業論文指導をしていました。真夜中まで取り組んでいたため、大変だったはずなのですが、辛いとかというようなマイナスの感情はなく、楽しい思い出として残っています。

 大分自動車道を鳥栖まで走り、そこからは九州自動車道で太宰府インターチェンジまで走ります。そこで一般道に入ります。少々わかりにくい道のりでしたが、太宰府天満宮に到着しました。

 受験シーズンだったせいか、高校生の集団を何度となく見ました。大型の観光バスを連ねてやって来るのです。市街地の道路は狭いので、少し離れた所にある駐車場から歩きます。西鉄太宰府駅からでもすぐに着きます。

 太宰府天満宮は、言うまでもなく、菅原道真を祀った神社です。おそらく、彼が大宰権帥として左遷された時、都府楼(大宰府)にいたと思われますが、それはここから離れた所にあります。

 なお、「だざいふ」は、歴史的には大宰府と記しますが、現在の市名は太宰府です。 たしか、この日、他にも数枚の写真を撮っているはずですが、3枚しか見つかりません。

 太宰府天満宮には、その後も大分大学時代、そして大東文化大学に移ってからは西南学院大学および福岡大学での集中講義を担当する度に行きました。宇佐神宮、そして太宰府天満宮が、九州の中で私が気に入っている所です。

 写真では晴れているのですが、この日の午後、福岡では曇り後雨となりました。そして、車を太宰府の駐車場に停めたまま、西鉄電車で天神(西鉄福岡)へ行きました(西鉄電車に乗ったのも、この日が初めてだったと思います)。理由は簡単で、天神付近が激しく渋滞するからです。そして、IMSなどをまわり、太宰府に戻り、佐賀市へ出て(日記には「船橋と厚木と町田を足して3で割ったような市街地」と記しています)、久留米、日田をまわって帰りました。

 天瀬高塚インターチェンジから大分自動車道を走り、ラジオを大分放送に入れてみたら「アニメマインド」という番組が流れてきました(既に終了しています)。実は、この番組に当時の法律学科にいた学生が出演していました。最初だけ聞いたのですが、その学生が少しだけ卒業論文のことを話していました。本名ではなく、愛称(芸名というほどのものではない)で出演していたのですが、すぐにわかりました。と言っても、声だけだとわからなかったかもしれません。生の声とマイクを通した声とで相当に変わる場合があるからです。

 最後は、太宰府天満宮と全く関係のないことを記しました。撮影時期の関係で法律学科のことを思い出したからです。

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2003年6月7日、京都京町家小路

2020年07月11日 00時03分10秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は、「待合室」の第73回として2003年11月1日から7日まで掲載した記事の再掲載です。但し、文章の一部を大幅に修正しました。なお、写真撮影日は2003年6月7日です。

 

 このブログに、2013年8月21日20時31分3秒付で「京都・高台寺月真院の紅葉」という記事を載せました。今回は、或る意味でその続編とも言えます。

 私が大分大学教育福祉科学部の助教授になった2002年であったと記憶しています。京都府にお住まいの税理士の方から、京都府職員の方々が中心となっている21世紀型行政スタイル研究会ヘの参加のお誘いを受けました。面白そうであったため、参加することとしました。「第4回リアル研究会」に出席したのは2002年11月23日で、会場は高台寺月真院でした。

 それからしばらく経ち、2003年6月7日、再び京都へ行きました。やはり21世紀型行政スタイル研究会に参加するためです。この時は、当時の最寄り駅であった豊肥本線の敷戸駅で列車に乗って大分駅に出て、特急ソニック20号とひかり370号(500系レールスターでした)を乗り継ぎました。私は、大分大学時代に近畿地方へ移動する際には飛行機を使ったことがありません。

 新大阪で新幹線を降りて東海道本線に乗り換え、大阪駅で降りました。ここから阪急京都線に乗りました。わざわざこのようにしたのは、会場が阪急京都線の烏丸駅に近かったこと、梅田に寄ろうかと思っていたことと、そして阪急の電車に乗りたかったからです。阪急の梅田駅(現在は大阪梅田駅)で写真撮影をして、学部生時代以来、約14年3か月ぶりに阪急京都線を利用しました。特急に乗ったのですが、学部生時代に乗った時は梅田の次の駅である十三を出ると京都の大宮まで停車しなかったのですが、2003年6月には梅田→十三→茨木市→高槻市→長岡天神→桂→烏丸→河原町と停車するようになっていました(今はさらに停車駅が増えています)。

 終点の河原町駅(現在は京都河原町駅)で降り、新京極を歩き、三条通から寺町京極通りを歩き、クラシックが流れている喫茶店でコーヒーを飲んだりしてからジュンク堂で本を買い、烏丸駅まで歩いてから錦町通り、そして新町通りに出て北へ歩きます。すると、百足屋町という変な名前の所に着きます。研究会の会場がその通りの古風なおばんざい料理店だったのです。

 このあたりは、比較的細い道です。しかし、この周辺も、古い家並みが残る一方で鉄筋コンクリートの建築物も増え、何ともちぐはぐな風景になっています。しかも、それほど広くない幅の通りには意外にも車の通行量が多く、少々驚きました。

 百足屋町に、京町家小路があります。京都府庁の方の案内で、やはり研究会のメンバーである武蔵野市役所の方とともに入りました。この時の出席者は私を入れて7名で、京都府職員が4名、京都府の税理士が1名、武蔵野市職員が1名、大分大学教育福祉科学部助教授1名という構成でした。

 中京区新町通錦小路上る百足屋町という、いかにも京都らしい、やたらと長い住居表示が見えます。この小路を奥に入っていきます。都市には、こうした小路が付き物です。とくに京都には多いと感じます(もっとも、東急武蔵小杉駅のある中原区小杉町にも、こうした小路が多いのですが)。

 京町家小路を入って少し歩くと、このような箱庭があります。羊歯(しだ)や苔のかもし出す雰囲気がいいですね。私自身は、こうした箱庭と無縁な環境に育ちました。それだからなのか、こうした箱庭、さらには庭園をみて、いいものだなと思います。よく考えると人工的なのですが、身近に自然を置きたがるのが日本人の伝統的、そして文化的な性質なのでしょうか。

 また、私は、何故か羊歯や苔に興味があり、そういうものが生えている山の中を歩くのも好きです。もっとも、こう書いたからといって羊歯や苔の種別などに詳しい訳ではなく、ほとんどわからないというほうが正解なのですが(トクサなどならわかります)、植木鉢に生えているゼニゴケの形を見て、どこかの島のミニアチュアに思えてきて、育ててみたいなどと思ったこともあります。そう言えば、苔の栽培を趣味にしている人は意外に多いようで、ラジオでも時折聞きます。

 小路をさらに進みます。左側に人形が陳列されているのですが、おわかりでしょうか。このお店に入り(残念ながら撮影禁止)、京都の土産物などを見ました。2階には、小さいながら能の舞台があるというホールがありました。結婚式場にも使われているそうで、私たちが入った時も、結婚式のセッティングがなされていました。

 お店を出て、百足屋町の通りのほうを撮影してみました。通りに出ると無機質な建物が見えて興ざめするのですが、細い通りに入ると、何故か落ち着いたりするものです。京都という場所柄なのか、少しばかり、時間の流れを忘れかけました。 

 その後、四条河原町の裏のほう、鴨川のほとりにあるショットバーで2次会があり、シーバスリーガルとフィンランディアを飲みました。四条通を歩き、烏丸駅から京都線の快速急行に乗って梅田駅に出ます。特急と違うのは大宮と西院に停まることだけでした。梅田の街を歩いてから寝台特急富士号に乗り、大分へ戻りました。

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2003年6月1日、豊後国分駅付近の風景

2020年06月21日 11時24分15秒 | 旅行記

 かつて、私の「川崎高津公法研究室」には「待合室」というコーナーを設けていました。その第55回として2003年6月28日から7月4日まで掲載した記事「豊後国分駅付近の風景」を改題の上で再掲します。但し、文章は少し修正しました。

 今回は、福岡県の久留米駅から大分県の大分駅までの鉄道路線、久大本線の豊後国分駅付近です。近くに大分市歴史記念館があります。終点の大分駅から久大本線に乗ると、大分市内では最後の駅となります。

 大分市には意外なほどに麦畑が多い、ということに気がついたのは、今年になってからのことです。豊肥本線の中判田駅から竹中方面に向かうと、その麦畑が点在していました。道が細いために車を停めておけず、撮影をあきらめましたが、いつかは写真におさめたいと思っていました。

 2003年の6月1日、大分大学の開放イベント(開学祭と同時開催)が終わり、私は、何となく、大分医科大学(現在は大分大学医学部)のほうへ向かいました。これと言った目的はなかったのですが、開放イベントでは福祉科学研究センターの運営委員として写真撮影などを行っていたため、カメラを持っていました。大分医科大学から別府大学大分キャンパスのほうに出ると、すぐに野田に出ます。この辺りは畑が広がっています。大分市は中核市なのですが、面積が広いためか、農村や山村と言うべき場所が多く、この野田の周辺、机張原(きちょうばる)、竹中、端登(竹中駅の所在地)、吉野、大分大学の裏の住床などが代表的な所です。

 野田からさらに進むと、久大本線の豊後国分駅に出ます。名前の通り、国分寺があったところと推測されますが、駅は無人で、周囲も畑などが広がっています。 

 畑の麦穂を拡大して撮影してみました。御覧のように、実っています。この麦が刈り取られてからどのような製品に加工されるのかはわかりませんが、大分県といえば麦焼酎ですから、焼酎の原材料になるのかもしれません。あるいは、食パンなどでしょうか。

 上の2枚の写真とほぼ同じ地点から撮影したものです。写真ではわかりませんが、撮影者、つまり私の背中のほうに大分市歴史資料館があります。写真の右側に「豊後国分駅」という表示があります。駅を撮影したつもりなのですが、ホームはかなり左のほうにあり、ほとんど写っていません。奥に見える丘の上は住宅地で、国分台団地です。

 今度は、道路を挟んで反対側、大分市歴史資料館の真横にある麦畑を撮影しました。御覧のように、民家が点在してはいますが、緑に囲まれた地帯です。奥のほうに進むと賀来に出ます。左奥に見える丘は国分台団地につながります。また、大分医科大学、東野台などにもつながっています。

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2006年9月3日、桂川駅、原田駅

2020年06月19日 00時00分00秒 | 旅行記

 最初にお断りです。今回は、「待合室」の第273回として2008年7月7日から15日まで掲載した記事の再掲載です。一部、文章を修正しましたが、基本的な内容に変化はありません。なお、写真撮影日は2006年9月3日です。

 

 JRは、どこを問わず、訳のわからない、と記すと問題がありますが、正式な名称を蔑ろにするような愛称を付けたがります。東北本線の一部分に宇都宮線(東武宇都宮線と勘違いしそうです)、東海道本線の一部に京都線(阪急京都線と間違えます)、東海道本線・山陽本線の一部に神戸線(阪急神戸線と間違えてしまいます)、筑豊本線と篠栗線に福北ゆたか線( 「このネーミングは何なんだ?」)としているのが代表的な例です。

 今回取り上げるのは、その福北ゆたか線という、本当に訳のわからない愛称を付けられた、筑豊本線と篠栗線との分岐駅、桂川です。漢字だけを見て「かつらがわ」と読む方がおられるかもしれませんが、この駅は「けいせん」と読みます。

 筑豊本線は炭鉱に深い関係のある路線です。そのためか、この桂川駅も構内は広かったようです。 

 桂川駅の2番線で、筑豊本線の原田(はるだ)行きの列車を待っています。この駅で篠栗線が分岐しますが、現在、この桂川から博多(正式には吉塚)までの篠栗線のほうが幹線であり、利用客も多いのです。筑豊本線で原田に出るよりも、篠栗線で博多に出るほうが、乗客の需要が多いことはすぐにわかります。そのためもあり、 飯塚を発車して桂川を通る列車のほとんどは篠栗線を経由して博多に向かいます。また、筑豊本線の筑豊本線の折尾~桂川と篠栗線は2003年に電化しましたが、桂川~原田は単線で非電化、1日に7往復しかありません。 

 この日は、天神から地下鉄に乗って貝塚に出て西鉄宮地岳線に乗り、終点の津屋崎に行きました(昨年の3月、部分廃止され、線名も変更されています)。それから小倉に出て、日田彦山線に乗り、田川後藤寺で後藤寺線に乗り換え、新飯塚で筑豊本線に乗り換えて飯塚で降り、駅周辺を歩きました。時刻を見計らい、再び筑豊本線の普通電車博多行に乗って桂川にやってきました。飯塚から桂川までは私しか乗っていなかったのですが、車掌は律儀にアナウンスをしていました。

 桂川駅の改札口を出てみようかと思ったのですが、見たところ、めぼしいものがなく、時間をつぶせないような所です。そこで、仕方なく、駅の中にいました。今度の原田行は18時54分発です。

 何の変哲もないような風景にも思えます。日本全国の駅を周れば、上の写真と似たような景色を見ることができる駅はたくさんあるでしょう。炭鉱華やかりし時代にどようであったかは知りませんが、今は郊外の住宅地という感じがします。埼玉県あたりの、東京からかなり離れた駅にも似ているような気がします。 

 このディーゼルカーに乗り、桂川から原田まで移動しました。大分に住んでいた時に豊肥本線や久大本線でよく乗ったキハ31です。私は、大分に住み始めるまでディーゼルカーに乗ったことがほとんどなく(八高線の1回と片町線の1回だけ)、大分市に住み始めて最初に乗ったのがこのキハ31でした。もっとも、製造番号までは覚えていません。このキハ31 1は熊本のほうを走っていたものではないかと思われます(熊本駅で見た記憶があるのです)。

 京浜地区で生まれ育った者にとって、整理券方式は無駄に思えてきますし、いつまで経っても慣れることができません。このキハ31には整理券発行機が付けられており、初めて乗った時には「田舎のバスか?」と驚きました。東京都23区地域、川崎市、そして横浜市の大部分では、鉄道は勿論、バスでも整理券は発行されません。

 10人ほどの乗客を乗せて桂川を出発し、鹿児島本線との乗換駅、原田に到着しました。このキハ31が桂川まで戻ります。

 かつて、筑豊本線にも寝台特急あかつき号などが走っていました。しかし、桂川から原田までは、かつて特急が走っていたということが信じられないほどに寂しい路線でした。途中の駅は全て無人駅で、列車交換もありません (列車交換設備がないためです)。しかも、並行する片側2車線の道路を走る車に次々と抜かされます。冷水峠を越えるような路線だけに勾配が多く、気動車では自家用車にかなうはずがありません。ただ、筑前山家駅の手前あたりの長いトンネルからは下り勾配が続くようでかなり速度が出ていて、この駅に到着する前のかなり長い時間、ブレーキが掛かりっ放しになります。

 九州では、鉄道の沿線よりも道路沿いのほうが夜でも明るいということが多いようです。筑前山家(ちくぜんやまえ)駅周辺はその典型で、駅そのものと周りは真っ暗ですが、道路沿いからは明るい光が見えてきます。

 筑前山家駅を過ぎますと、西鉄天神大牟田線を越えます。筑紫駅が見えますし、三国が丘の近くにある東急ストアも見えます。しばらくして原田に到着します。

 原田は乗換駅ですが、ここも駅の周りが暗く、乗換駅にしては賑やかさも感じられません。ここで夕食を取ろうと思ったのですが、鹿児島本線で博多に出たほうがよいと判断しました。しかし、実際には二日市で特急と快速に抜かされ、快速に乗り換えたら南福岡でまた特急に抜かされました。 博多駅に出るまで、かなり時間がかかったような気がします。これならば、二日市で降りて西鉄二日市まで行くか、南福岡駅で降りて西鉄雑餉隈駅まで歩き、天神大牟田線に乗って天神に出たほうがよかった、と後悔しました。

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