ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

秋月城址へ行く(1)

2015年02月28日 20時17分40秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第284回(2008年9月17日から24日まで)として掲載した記事の再掲載です。かなりの時間が経過したこともあって、一部を修正しております。なお、写真撮影日は2008年9月7日です。〕

 以前から何度も記しておりますが、私は2004年度から2012年度まで、西南学院大学法学部の集中講義「税法」を担当していました。途中、2007年度、2009年度および2011年度には福岡大学法学部の集中講義「財政法」も担当していましたので、本務校(大東文化大学)の夏休み期間中に2回も福岡市へ行きました。1日4コマを7、8日行うこととなっていたので、同僚などから「大変だね」などと言われることも多かったのですが、大分大学時代から福岡市、とくに天神にはよく遊びに行っておりましたので馴染みもありましたし、気に入っている都市で仕事をすることができるのはよいものです。

 2008年度は、9月2日から、途中に2日間の休みをはさんで10日まで、西南学院大学で集中講義を担当いたしました。この年か翌年の世界都市ランキング(住みやすさなどのランキング)で、福岡市は、日本では東京の次という順位だったはずです。トップ10に入ったのが東京と福岡で、東京が3位、福岡が9位か10位であったと記憶しています。ニュースを聞いた時に納得した覚えがあるのです。

 西南学院大学における集中講義の期間中には土曜日と日曜日があり、この両日が中休みでした。そこで、毎年、この中休みを利用して、福岡県内を軸としてどこかへ行くことにしていました。2007年には、およそ4年ぶりに大分県日田市を訪れましたし、大牟田市、九州国立博物館も訪れています。今年は、朝倉市にある西鉄甘木駅へ行き、さらに秋月城址へ行こうと決めていました。

 ただ、秋月城址は甘木駅から少し離れた場所にあります。バス路線があるのかどうか調べたのですが、地域が地域だけに本数が少なく、そればかりか調べにくかったこともあり、これまで行く機会を見出せずにいました。甘木駅までなら、西鉄甘木線か甘木鉄道甘木線を利用すればよいことはすぐにわかるのですが、そこから先が大変なのです。レンタカーを借りようとも思ったのですが、費用などを考えれば電車とバスを利用したほうがはるかに安くあがりますし、楽です。

 ともあれ、甘木駅までは行ってみようと思い、西鉄福岡(天神)駅へ行きました。

 西鉄福岡(天神)駅 から甘木駅へ行く場合、いくつかの方法が考えられます。多分、最も多いのが、特急で西鉄久留米まで乗り、西鉄久留米で甘木行に乗るという人でしょう。次が、小郡まで急行に乗り、甘木鉄道に乗り換えるという人です。 かつては、急行で朝倉街道に出てバスに乗り換えるという人も多かったようです。しかし、私はいずれの方法もとらず、急行で宮の陣に出て、そこで甘木行に乗り換えるという方法をとりました。特急で西鉄久留米まで行って甘木行に乗っても、この甘木行が宮の陣で急行の到着を待つだろうと思ったからです。時刻表を調べたらその通りでした。それなら、特急に乗らず、8分後に発車する急行で十分ですし、 西鉄久留米で乗り換えるよりも宮の陣で乗り換えるほうが運賃が安く済みます。また、小郡で甘木鉄道に乗り換えるという方法ですと、接続の問題があり、甘木鉄道でよかネットカードを使用できないという問題もありました。

 大牟田行特急に間に合う時間で、3番線に特急大牟田行が止まっていますが、あえてその8分後の急行に乗ります。上の写真がそうで、2番線に急行花畑行が止まっていましたので、これに乗ることにします。かつての特急用、2000形です。かつて、と記しましたが、2008年にも時々特急に使用されていました。そうかと思うとラッシュ時などには普通電車として走っていました。

 右に写っているのは、現在の特急用の8000形で、今年導入されたICカードのnimocaの広告ラッピングをつけています。別の編成では西鉄100周年のラッピングになっていました。

 元々特急用としてデビューした2000形は、1973(昭和48)年から翌年にかけて製造され、同年にローレル賞を受賞しています。 6両編成6本が製造されており、私が撮影したのは最終編成です。計36両が製造されましたが、既に1編成か2編成が廃車となっています。1989(平成元)年に8000形がデビューしたため、2扉から3扉に改造された上で急行用に格下げされましたが、座席などは転換クロスシートのままです。中央に運転席があるという点も珍しいでしょう。

 ローレル賞受賞を示す円形プレートが付けられています。その左隣は電光式の案内表示板で、停車駅などを表示します。

 「懐かしい」とお思いの方もおられるでしょう。2000形は、2010年10月17日を最後に、西鉄天神大牟田線から引退しました。なお、2000形の2枚の写真は、このブログに2012年01月07日23時22分10秒付で掲載した「西鉄2000形の写真」に掲載されています。

 9時38分になり、急行花畑行が発車しました。私が時折歩いたりする薬院と大橋に止まり、太宰府天満宮へ行く際の乗換駅である西鉄二日市、車庫のある筑紫を過ぎると、かなりのスピードを出し、いつの間にか筑前から筑後に入り、無人駅の味坂あたりを通過する際には九州自動車道の向こう側に鳥栖の市街地を眺め、10時12分、宮の陣駅に着き、1番線の甘木行ワンマン電車に乗り換えます。単線で、時折は住宅地、大部分は畑の中をゆっくりと走っていきます。乗客の態度までガラリと変わります。電車の中では、若い連中がこのあたりの方言丸出しで大声で話しまくっていました。今、関西地方は別として、きつい訛を聞ける機会は少なくなりつつあります。

 10時13分に宮の陣駅1番線から発車した甘木行ワンマン電車は、10時47分に終点の甘木駅に到着しました。到着する前に甘木鉄道の線路が見えますが、駅は全く別の場所にあります。西鉄の甘木駅は、上の写真の通りで、駅前にはバスターミナルもなく、秋月や田主丸などへ行くバスの停留所もありません。 なお、この駅舎は、現在の西鉄の駅では最も古い建物だそうです。

 考えてみれば、甘木駅で降り立ったのはおよそ7年7か月ぶりのことです。当時、私は大分大学教育福祉科学部の講師でした。翌年(2002年)に助教授になり、その2年後(つまり2004年)には大東文化大学に移り、またその3年後(つまり2007年)には教授になりました。月日の流れるのは……と言いますが、駅とその周辺はあまり変わっていないように見えます。

 それにしても、ここが旧甘木市の玄関口であるとは思えない小さな駅です。これでも甘木線の駅としては大きいほうで、この駅には自動改札機がありますからよかネットカードは問題なく使えますが、ホームが狭いこと、駅員が1人か2人しかいないことなどは共通していますし(馬田と上浦は無人駅)、他の駅には自動改札機もありません。

 上の段落で旧甘木市と記したのは、2006(平成18)年3月20日から、この甘木駅周辺が朝倉市の一部となったからです。

 甘木市は、元々朝倉郡の一部でした。1954年に甘木市が成立しましたが、平成の市町村合併と言われる大波の中、甘木市と朝倉郡全町村、1市4町2村での合併が検討され、任意の合併協議会が設置されました。しかし、法定の合併協議会が設置される際に夜須町と三輪町は参加せず、この二つの町は別に合併して筑前町となっています。法定合併協議会での協議も整わず、2004(平成16)年4月に解散しています。この結果、小石原村と宝珠山村は枠組みから外れ、別に合併して東峰村となりました(以前、このコーナーで取り上げた宝珠山駅のある場所です)。同年10月、甘木市、朝倉町、杷木町が合併協議会を設立します。その結果、朝倉市が成立した、という訳です。

 旧朝倉町と旧杷木町には大分自動車道が通っていますが、鉄道路線はなく(第二次世界大戦前にはあったのですが)、甘木駅が朝倉市の玄関であるということになります。

 先ほどまで私が乗っていた7000形です。ここから大牟田まで2両で走ります。甘木線と天神大牟田線(宮の陣~大牟田)のワンマン運転用ですが、編成によっては4両で天神大牟田線の福岡側や太宰府線を走ります。2001(平成13)年にデビューしています。

 駅前の道路は国道322号線で、奥のほうへ進むと大分自動車道甘木インターチェンジの少し西側を通り、大刀洗町役場の近くを通って久留米に行けます。逆に手前のほうに進むと、すぐに交差点がありますので左折し、次の交差点で右折しますと、秋月のほうへ行けます。国道322号線は、北九州市小倉北区から田川市、嘉麻市を通ってこの甘木駅に出て、大刀洗町を通って久留米市へ向かう道路である、ということなのです。

 右側に公衆電話があり、そのすぐそばに灰色のポストのようなものがあります。プロパンガスのボンベのようにも見えますが、これが「悪書追放」ポストです。東京都や神奈川県ではあまり見られませんが、福岡県などでは時折見かけます。形は様々ですが、このような場所では駅前などに置かれています。ただ、大分県で見た記憶がありません。

 九州では、市街地が駅から離れているという場所が少なくありません。熊本市はその代表ですが、朝倉市もそうでして、市街地はこの駅から少し離れた場所にあります。自動車であれば難なく探し出せるかもしれませんが、鉄道を利用する旅行客にはわかりにくいでしょう。レンタカーを借りればよかったかな、などとも思ったのですが、料金とガソリン代などを考えてあきらめたのでした。今回は、集中講義の期間中にしては珍しく運転免許証を持参していたのですが。

 駅の改札口を出て左に歩くとすぐに交差点があります。懐かしさを覚えるような建物がありましたので、失礼して撮影させていただきました。

 川崎市でも、東急田園都市線の沿線、とくに旧大山街道では、このような構造の建物を見かけます。入口が引き戸になっていて、そこを開けて入るという店です。最近は少なくなってきて、郊外などでは見かけませんが、街道筋などでは残っています。私が小学生の頃には、上の写真のような建物の駄菓子屋や煎餅屋などが多くみられたものです。引き戸などは、営業時間中には完全に開けられている店も多かったのですが、閉める際には雨戸などを、ということになります。

 秋月へ行くバスは、西鉄甘木駅から少し離れた甘木鉄道甘木駅の前から出ます。そこにバスターミナルがあるからです。問題は出発時刻です。

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地域振興のための商品券~果たして地域振興に貢献するか~

2015年02月27日 12時13分40秒 | 国際・政治

 (今回の記事は、カテゴリーを「社会・経済」、ジャンルを「経済」としてもよいものですが、現在の内閣が基本政策の一つとして打ち出している「地方創生」と深く関わるため、「国際・政治」→「政治」としておきます。)

 このブログでは、「地方創生」と「地方分権」との関係について「「まち・ひと・しごと創生法」と地方分権(とりあえず「その1」)」(2014年12月05日10時06分39秒付)、「「まち・ひと・しごと創生法」と地方分権(その2)」(2014年12月15日00時05分25秒付)、「「まち・ひと・しごと創生法」と地方分権(その3)」(2014年12月26日01時04分42秒付)、として記してきました。十分な内容ではないことを承知しておりますが、これらの記事を書いた時点においては、次のような疑問がありました。

 「地方創生と地方分権は全く別個の概念であり、両者は少なくとも部分的に対立するものではないのか。あるいは、地方創生とは、少なくとも部分的に地方分権を否定する概念ではないのか。」

 「ふるさと納税」の拡充、地域振興のための交付金などという形で、政策は進められています。これらが妥当なものであるかどうか、疑問無しとはしないでしょうが、全国の地方自治体の多くは、「地方分権」ではなく「地方創生」にこそ活路などを見出しているように見えます。そのような中で、今日(2015年2月27日)付の朝日新聞朝刊3面14版に掲載された「地域振興に商品券 効果は? 『使い道自由』交付金4200億円」という記事(以下、朝日①記事。デジタル版では、今日の5時付でhttp://digital.asahi.com/articles/DA3S11623224.htmlとして掲載されています)が興味深い内容を含んでいるので、ここで紹介しつつ、少しばかり考えをめぐらせてみましょう。

 商品券というと、小渕内閣時代の「地域振興券」を想起される方も多いでしょう。1999年に各地で施行されましたが、そもそも与党、とくに永田町でも懐疑的な意見が多かったと言われており、実際に蓋を開けてみたら期待された効果はほとんど現実のものとはならなかったのです。「交付の対象を限定したからである」という解釈も成り立ちえますが、そもそも一時的に消費を増やすだけの政策であったため、持続的な効果を生じうるものではなかったでしょう。選挙対策であると言われるならば、その通りであり、その面での効果はあったのかもしれませんが、これでは超短期的な効果しかないことが明らかです。

 その後も似たような政策が繰り返されましたが、しっかりとした検証がなされてきたのかどうかは不明確であると言えるでしょう。しかし、再び商品券配布政策が繰り返されようとしています。

 朝日①記事には、大和郡山市(奈良県)、茨城県、延岡市(宮崎県)および紫波(しわ)町(岩手県)の話が書かれています。とくに、商品券ということでは大和郡山市の話が参考になるでしょう。小渕内閣期の地域振興券でも同じような話があったからです。

 大和郡山市は、昨日(2月26日)に補正予算案を同市議会に提出しました。その中に、プレミアム付き商品券の発行が盛り込まれています。何枚綴りなのかはわかりませんが、1冊の商品券を1万円で購入します。そうすると、12000円分の買い物をすることができるというものです。バスの回数券と似ているシステムで、勿論、大和郡山市内でしか使えません。

 しかし、大和郡山市内であれば、どこの店でも使用できる訳です。既に同市は2012年度から商品券発行政策を行っていますが、「やはり」というべきか、商品券の多くは地元の商店街などで使われておらず、イオンモール大和郡山など、大型店で使用される割合が非常に高いとのことです(消費者とすれば当然の行動であり、責められるような話ではありません)。2014年度に大和郡山市商工会が調査したところ、商品券の91%は大型店で使用されていました。地域の雇用(主にパートタイム労働)には役立つかもしれませんが、自営業の振興には役立っていないと言えるでしょう。朝日①記事を引用させていただくならば「地元商店街の活性化もねらいの一つだったが、この3年で商工会の会員数は1198店から1118店に減った」とのことです。プレミアムが付いたところで、同じ結果となるでしょう。

 茨城県は、2500円で購入すると5000円分も使用できるという、プレミアムとしては破格とも言える宿泊券を6万枚発行します。そのための補正予算案を県議会に提出するというのですが、4億5千万円も支出するだけに、効果の検証が望まれます。

 朝日①記事によると、この宿泊券は2013年度から始められたそうで、「県内の宿泊者数や観光客が使うお金は2割近く増えた」のですが、「宿泊券が使える宿の登録数は当初185カ所あったが、『宿泊券の利用がゼロだった』などの理由で抜ける宿が相次ぎ、2年目は133カ所に」減少したとのことです。しかし、茨城県は「観光施設の入場券などが入った『周遊券』も新たに売り出す予定」を立てています。

 延岡市も、配布された「交付金の大半をプレミアム商品券に充てる」とのことですが、一方で、人口減少の「原因を探るところから始めようと、昨年の転出・転入世帯を対象に引っ越しの理由を尋ねる調査を始め」ました。

 最も興味深いのは紫波町の話でしょう。ここは、交付金の一部を再開発事業に充てます。詳しくは書かれていないのですが、2009年度から紫波町内にある東北本線の、おそらくは紫波中央駅(市内には日詰駅、古館駅もあります)周辺の再開発事業を進めており、既に「オガールプラザ」という複合施設が存在しており、ここには図書館、地域交流センター、子育て応援センター、病院、学習塾、スーパーマーケットなどが入居しています。これによって「駅周辺の人口が5%伸びた」ということで、紫波町は「民間がまちづくりを主導する原則は変えないという」方針であるとのことです。

 交付金と言えば、竹下内閣の「ふるさと創生事業」を思い起こさせますが、今回の交付金は昨年12月27日になされた閣議決定に基づいています。総額で3.5兆円という経済対策で、地方自治体に交付金を配り、使い途は地方自治体の考えるところに委ねるというものです。だからこそ交付金なのであり、地方交付税と同じようなものですから、地方自治体がいかなる政策を打ち出すかが問われる訳です。この件については、2014年12月27日付の朝日新聞朝刊3面14版に掲載された「政権、地方重視前面に 3.5兆円経済対策、きょう決定」という記事(以下、朝日②記事。見出しはデジタル版によります。http://digital.asahi.com/articles/DA3S11526883.html)が参考となります。朝日②記事は、交付金を目玉とする経済政策について「来春の統一地方選を意識し、地域経済を下支えするねらいもあるが、かつての地域振興券のような『ばらまき』にもなりかねない」と指摘しています。

 甘利明経済再生担当大臣(当時。現在の第三次安倍内閣においても同じ)によれば地方と消費を焦点に充てたということになる訳ですが、やはり2014年7月~9月期のGDPがマイナスとなったことが大きかったようです。アベノミクスの「恩恵」を地方に、消費者に実感してもらいたいということなのでしょうが、問題は、過去に行った経済対策の検証をしっかりと行ったか、ということです。この点が政治主導では疎かにされかねないだけに、強調されなければならないでしょう。

 朝日②記事では、1999年の「地域振興券」について「子どもやお年寄り向けに1人2万円分の商品券を配ったが、旧経済企画庁(現内閣府)の分析では、消費喚起効果は振興券使用額の3割強、GDPの押し上げ効果は0.1%程度にとどまった。09年に麻生政権が配った1人1万2千~2万円の『定額給付金』も、内閣府の分析で消費を増やす効果は給付額の3割程度だった」と指摘されています(第一生命経済研究所の熊野英生氏による厳しくかつ的確なコメントも参照してください)。

 ともあれ、「地方創生」政策に基づく経済政策は推進され、交付金も各地方自治体に配分されます。各地方公共団体がいかなる政策を打ち立てるかが課題となります。育児や教育など、長期的な視点を必要とする政策は、短期的な効果を測ることが難しいために敬遠される可能性もありますが、このような方面にこそ有意義に公的資金を利用して欲しいと考えるのは、私だけでしょうか。

 ★★★★★★★★★★

 このところ、大臣の金がらみの問題が続発し(あたかも、2006年9月から1年しか続かなかった第一次安倍内閣・第一次安倍改造内閣の再現を見ているかのようです)、果たして2015年度当初予算が2014年度内に成立するかどうかがわからないような状況となっています。それ以前に、昨年の衆議院解散により、厳しい日程になっていました。衆議院のサイトには現在開かれている第189回国会の「議案の一覧」が掲載されていますが、例年よりも議案数がまだ少なく、提出日も遅くなっています。

 例えば、2015年度当初予算(一般会計予算、特別会計予算および政府関係機関予算)が内閣から衆議院に提出されたのは2月12日ですし、「所得税法等の一部を改正する法律案」(閣法3号)は2月17日に内閣から衆議院に提出され、26日に衆議院財政金融委員会に付託されました。また、「地方税法等の一部を改正する法律案」(閣法5号)は、やはり2月17日に内閣から衆議院に提出され、26日に衆議院総務委員会に付託されました。一方、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律案」(閣法8号)などは、2月20日に内閣から衆議院に提出されたものの、まだ(衆議院内の各委員会への)付託がなされていないようです。 

 2015年度税制改正の内容を含む諸法律がいつ成立するか、その他の重要な法律がいつ成立するか、注意をしていますが、会期の延長をしなければ多くの議案が会期中に審議を終えられなかったが故に閉会中審査となるか廃案となるか、ということになるかもしれません。

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おしらせです(2015年2月26日)

2015年02月26日 19時19分12秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 今月28日、有斐閣から、法学教室編集室編「判例セレクト 2009-2013 Ⅱ 行政法/商法/民事訴訟法/刑事訴訟法」が発売されます。

 同書の29頁に、私の「法人事業税について欠損金額の繰越控除を定めた地方税法の規定と法定外普通税−神奈川県臨時特例企業税控訴審判決」が掲載されています(これは、法学教室366号(2011年3月号)別冊付録「判例セレクト[Ⅱ]行政法/商法/民事訴訟法/刑事訴訟法」の12頁に掲載されたものです)。

 御一読をいただければ幸いです。

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溝口四丁目で

2015年02月26日 15時07分02秒 | まち歩き

たまたま歩いている時に見つけ、撮影しました。

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なかなか見られない東急2000系(4)

2015年02月25日 20時49分10秒 | 写真

なかなか見られない東急2000系(3)」(2012年6月30日12時1分0秒付)以来の、東急2000系の写真を載せておきます(下の写真をクリックすると拡大します)。

  今回は2002Fです。渋谷側1号車から中央林間側10号車に向かって、クハ2002−デハ2252−デハ2202−サハ2702−デハ2352−デハ2302−サハ2802−デハ2452−デハ2402−クハ2102となっています。この編成は、全車が1992年に東急車輌で製造されました。

 2000系の3編成は、いずれも東武線に乗り入れることができないため、平日朝夕ラッシュ時に運用されることが多かったのですが、最近は平日の昼間などでも見かけることが多くなりました。

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溝口三丁目散歩(9)

2015年02月24日 12時05分51秒 | まち歩き

 国道409号に近づきました。しかし、そのまま歩くのも面白くないので、もう少し脇道を歩くこととします。

 前回の最後と同じ地点から、逆の方向を撮影しました。一方通行で、手前の旧大山街道から奥の国道409号に向かうこととなります。

 何度か記しているように、川崎市民の多くは、現在でも国道409号および神奈川県道・東京都道9号川崎府中線を府中街道と呼び慣わしています。しかし、厳密には違う道路なのかもしれません。拡幅の都合などで旧道と新道の双方が存在しても、別におかしな話ではありません。また、歴史散歩などをする際に注意しなければならないのは、戦後の農地改革、土地区画整理事業などです。

 最初の写真は何の変哲もない住宅地に見えるものでしたが、実はここに明治の歴史が隠されていました。

 川崎市の大部分は橘樹(たちばな)郡に属していました。明治の初期に興った自由民権運動の、橘樹郡の拠点がここ溝口であり、そのまさに中核であったのが上田家でした。川崎市のサイトにある「川崎市高津区:大山街道コース」によれば、上田家は江戸にも出店を持っている醤油屋で、質屋も兼ねていました(屋号は「稲毛屋」です)。その7代目である上田忠一郎は、甥に家業を譲り、政界に入り、1879(明治12)年に最初の神奈川県会が開かれた際の議員になりました。彼が民権結社「橘樹郡親睦会」を結成したのは2年後の1881(明治14)年のことですが、それより前から民権運動家が集まる場となっていたようです。また、川崎市市民ミュージアムのサイトにある「近代川崎人物伝 人物紹介 その3上田忠一郎」によれば、1890(明治23)年、忠一郎は立憲自由党に入党しています(ちなみに、そのページでは「上田家は八王子道と大山街道が交差する交通の要衝地に位置していた」と書かれています。「八王子道」はあまり用いられない表現ですが、稲城市大丸で府中街道から分岐する道を進めば、多摩市関戸、日野市高幡を経由して八王子へ向かうことができます)。

 現在も上田家はこの溝口で続いています。ちなみに、この上田家の分家が、溝口二丁目の旧大山街道沿いにある稲毛屋金物店です。

上田家から西の方へ歩きます。真っ直ぐ進めば、「溝口三丁目散歩(5)」の5枚目の写真に登場する交差点に出ます。

 ここで右に曲がり、高津小学校の前にある交差点に向かうこととします。南側は三丁目、北側の高津小学校が四丁目、反対側が五丁目となる場所です。まだ、三丁目で取り上げていない所もありますが、折を見て歩き、撮影します。

 さて、最後に川崎市の歴史などについて若干の補足をしておきましょう。

 先に「川崎市の大部分は橘樹(たちばな)郡に属していました」と記しました。橘樹郡は、川崎市の川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域、麻生区の一部、横浜市の鶴見区と神奈川区の全域、西区、港北区、保土ケ谷区のそれぞれから一部を範囲としていました。他方、麻生区の柿生駅周辺(柿生村であった地域)および岡上は都筑(つづき)郡に属していました〔この郡名が、1994(平成6)年の港北区および緑区の分区の際に都筑区として復活します〕。

 橘樹郡の名称は、高津区子母口富士見台(しぼくちふじみだい)にある古墳に由来すると言われています。この古墳が、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)の陵であると伝える説があるためです。子母口には橘樹神社があり、日本武尊と弟橘媛を御神体としています。また、正確な年代などはわからないのですが、橘樹郡の中心部は現在の千年(ちとせ)にあったとも言われています。高津区の南半分〔千年、千年新町、子母口、子母口富士見台、久末、蟹ヶ谷、明津、末長、新作、および野川(高津区の部分)〕が、千年にある高津区役所橘出張所の所管地域とされているところは、郡名の名残と言えるでしょう。

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溝口三丁目散歩(8)

2015年02月23日 01時14分03秒 | まち歩き

 今回は、二ヶ領用水を離れ、国道409号に向かって歩きます。

 この辺りは古くからの一軒家とアパートメントハウス(俗に言うマンション)が入り交じっています。しかし、川崎市による線引き(都市計画法による)のためか、三丁目の東側や四丁目、五丁目と異なり、高層建築物は多くありません。

 完全に旧大山街道の裏道で、幅は狭いのですが、何故か一方通行ではありません。しかし、この先は一方通行だらけのため、自動車の通行量は多くありません。そのため、私は溝の口駅方面へ歩く際によく使います。旧大山街道(神奈川県道14号鶴見溝ノ口線)も幅が狭く、歩道もなく、バス通りであるだけに自動車の通行量は多いためです。

 溝口は、JR武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅周辺を除けば、ほとんどが住宅地(一部は農地)です。そして、三丁目には旧家が多いのです。敷地はそれほど広くありませんが、庭があります。私も木々の生えた庭のある家で育ちましたので、こうした家を見ていると懐かしさを覚えます。

 柑橘系の木が道路から見えます。川崎市はミカンなどの産地ではないはずですが、高津区、中原区、宮前区、多摩区、麻生(あさお)区では、時々、このように庭に植えられている柑橘系の木々を見かけます。

 季節柄でしょうか、たくさんの実がなっていました。

 高津区は梨、ブドウなどの産地でもありました。また、千年や久末では野菜を作っています。溝口三丁目にあった大和屋という洋菓子店では、高津区産の人参を使って作ったケーキが売られていました。なかなかの美味でしたが、改装で1年ほど休業し、名称もアンディガーデンに変わって再開してからはそのケーキがなくなってしまいました。

 高津区でも橘地区であればこのような住宅は多く残っていますが、高津地区では少なくなったようにも思えます。但し、溝口六丁目や久地、宇奈根といった所をあまり歩いていませんので、よくわかりません。

 一見すると教会のように見えますが、アパートメントハウス(マンション)です。周囲には一軒家が多いこともあり、溶け合っているようにも感じられます。

 この少し先に、コンビニエンスストアとスーパーマーケットの中間のような店舗、まいばすけっとがあります。2010年までは吉田屋という、完全に地元の小さなスーパーマーケットがありました。お客は多かったはずです。その場所にまいばすけっとが開店したのは翌年でした。

 それにしても、最近のまいばすけっとの増殖には驚かされます。溝口三丁目にオープンする前は二子新地駅前商店街(松栄会)にある程度で、私がまいばすけっとの存在を知ったのもその店でしたが、今、この辺りでは二子四丁目、溝口六丁目、二子一丁目、少し離れて久地二丁目、北見方三丁目にあります。都営三田線の西台駅周辺にも、私の知る限りで東口と西口に一軒ずつあります。高島平には、まいばすけっとと同じくイオン系のアコレもあります(西台二丁目にもアコレがあります)。イオン系と言えば郊外の大規模ショッピングモールというのが、大分時代からの私のイメージでしたので、意外でした。

この道を奥へ進めば、「溝口三丁目散歩(6)」で取り上げた更科やバードランド・カフェの近くに出ることができます。

 旧大山街道の近く、掛川新聞店のそばの交差点を臨みます。真っ直ぐ進んでも左折しても溝口南公園に行くことができますが、高津バス停(高津駅前バス停ではありませんので、注意して下さい)、灰吹屋薬局旧本店に向かうには左折します。さらに少し進めば高津交差点で、お茶と秤の店である田中屋があります。

 右折すると川崎市大山街道ふるさと館、アンディガーデンや糀ホールに出られます。いずれも三丁目にあるので、機会があれば寄りたい所です。

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法科大学院と予備試験 まだ受験資格制限の議論?

2015年02月22日 14時25分52秒 | 受験・学校

 今月8日の12時18分20秒付で「予備試験は抜け道なのか?」という記事を掲載しました。この他にも予備試験に関連する記事を載せています。

 今日(2015年2月22日)の朝日新聞朝刊38面14版に「法科大学院 淘汰の波」という記事が掲載されています。デジタル版では今日の5時付で「法科大学院、淘汰の波 学費高く、人気は予備試験へ」として掲載されています。今回はこの記事に対する批判的な内容となることをお断りしておきまして、まずは、繰り返しになってしまいますが、私自身の見解を再び述べておきましょう。

 第一に、予備試験は、現行の司法試験制度における例外的な位置づけを保っています。そのため、抜け道でも何でもありません。

 そもそも、予備試験そのものの合格率が低いのです。合格率は1.1%(2011年)→3.0%(2012年)→3.8%(2013年)と高まってはいますが、毎年千人受けたとすると11人→30人→38人しか合格していない訳です(22日0時0分5秒付の「偶然、見かけた記事ですが(続)」を意識した表現になりました)。

 2013年の予備試験短答式試験受験者数は9224人であり、最終合格者は351人です。この人たちが2014年の司法試験を受験する資格を得ており、実際に受験したのが244人で、司法試験に合格したのが163人です。

 前の段落の最後の部分だけを見るから、予備試験合格者の司法試験合格率が66.8%となるのです。しかし、予備試験という厳しい前段階を課されたのですから、どの法科大学院修了者よりも高くなるのは当たり前です。仮に、予備試験合格者の司法試験合格率が10%台というように低かったら、逆に予備試験そのものの存在意義が問われます。

 むしろ、2013年予備試験短答式試験受験者→2014年司法試験最終合格者と全体を見るべきなのです。9224人→163人ですから、最終合格率は約1.77%です。これだけ厳しい数字を目にすれば、予備試験が機能を発揮していることが明らかなのです。

 第二に、以上のような「合格実績」を前にすれば、予備試験の受験資格を制限する必要は全くありません。

 元々は経済的理由などによって法科大学院に進学できない者に対して司法試験受験の機会を与えるために、予備試験という制度が設けられました。そのため、上記朝日新聞記事の「考/論」で「予備試験の受験資格の制限がもちろん前提となる」(中央大学法科大学院大貫裕之教授)という意見が出るのも、兼担で法科大学院の講義を担当したことがある私としては理解できます。しかし、これはむしろ、法科大学院に批判的な立場からすれば「問題外の外」としか言えない態度である、とまでは言えなくとも法科大学院の存在が抱える矛盾を何ら解決するものではないでしょう。旧司法試験においても問題とされた合格者の平均年齢の高さを促進するものでしょう。

 法科大学院関係者などから主張される受験資格制限がどのようなものになるのか、よくわからないのですが、法科大学院に在学している学生であるから予備試験を受けることができないとするのであれば、それは果たして合理的でしょうか。憲法違反にすらなるような話ではないでしょうか。

 さて、ここで上記朝日新聞記事の内容に触れることとしましょう。

 既に示したように合格率という点から厳しい難関である予備試験に人気が出るのは、時間と金の問題があるからです。司法改革で法科大学院の設置が決定された頃から、時間と金について疑問や不安が湧き出ていました。2003年か2004年の新聞記事をくまなく探せば、いくつか見つかるはずです。司法修習生に対する修習資金が給付制から貸与制に変えられたことと合わせるならば、受験生は借金の山に埋もれることになりかねませんので、進学に躊躇してもおかしくありません。

 そもそも、法科大学院に入学した場合、(途中で予備試験を受けて合格し、司法試験にも合格できた場合を除けば)修了することが司法試験受験資格を得るための条件です。従って、修了してからしばらくの間は履歴書に空白ができる可能性もあります。合格できなければ再度の挑戦ということになりますが、時間も金も余計にかかります。逆に合格できたとしても、よほど経済的な余裕がなければ、借金を抱えずに済ませることは難しいでしょう。裁判官や検察官として任官される途は、司法改革を経ても拡げられず、(成績で評価されることもあって)圧倒的多数は弁護士になるしかありません。しかし、弁護士事務所に就職できれば御の字という状態が続いています(大手の事務所ほど厳しく選抜します。以前、妻が受け取った手紙にも、ここに記すことが憚られるほどに厳しい採用人事の現実が書かれていました)。かなり単純化しましたが、以上のような現実を見せつけられれば、躊躇することは当然です。

 また、上記朝日新聞記事には、文部科学省の立場として「予備試験組の増加に、『医学部を修了していない医者がメスを握ることとなるのと同じ』との批判もある。『時間をかけて質の高い法律家を育てる』という理念を堅持する。」と書かれています。

 しかし、私には、ここに書かれている医学部云々の喩えの意味がよくわかりません(医学部を「修了」という表現もおかしいのですが、原文の通りです)。このようなことを言うならば、あらゆる資格試験を医師国家試験のようにしなければならなくなります。旧司法試験では原則として大学の3年生以上であれば受験できたことが忘れられているのでしょうか。

 医師国家試験の受験資格が原則として医学部を卒業した者に限定されているのは、業務内容の故です。手術、注射など、刑法で違法性を阻却されなければ傷害罪や傷害致死罪などに問われかねないような行為を業務として遂行する訳で、可能な限り安全に医師としての職務を果たすには、高度な専門知識と技術が要求されます。そのために、自ずと受験資格を厳しくせざるをえないのです。

 〔ついでに記しておきますと、実は、医師国家試験にも予備試験が存在しています。厚生労働省のサイトにある「医師国家試験の施行について」というページには、受験資格として次のように書かれています(一部省略の上で引用します)。

 「(1)学校教育法(昭和22年法律第26号)に基づく大学において、医学の正規の課程を修めて卒業した者(平成27年3月10日(火曜日)までに卒業する見込みの者を含む。)

 (2)医師国家試験予備試験に合格した者で、合格した後1年以上の診療及び公衆衛生に関する実地修練を経たもの(平成27年3月10日(火曜日)までに実地修練を終える見込みの者を含む。)

 (3)外国の医学校を卒業し、又は外国で医師免許を得た者であって、厚生労働大臣が(1)又は(2)に掲げる者と同等以上の学力及び技能を有し、かつ、適当と認定したもの

 (4)沖縄の復帰に伴う厚生省関係法令の適用の特別措置等に関する政令(昭和47年政令第108号)第17条第1項の規定により医師法の規定による医師免許を受けたものとみなされる者であって、厚生労働大臣が認定したもの」

 ここにいう予備試験は、日本の大学の医学部を卒業していない者(外国にある大学の医学部を卒業した者、または外国の医師免許を取得した者)で、日本語診察能力調査で一定の基準を満たしていない者が受験資格を認定されるというものです。さすがに、業務の内容からして、医学部を卒業していない者、そもそも医学部に入ったことのない者などには受験資格を与える訳にもいかないのでしょう。〕

 法曹と医師とでは、業務の内容および性質があまりに違います。比較の対象がおかしいとしか言えません。敢えて似ている所を探すのであれば、弁護士は裁判所などにおいて訴訟業務(民事訴訟などであれば原告または被告、刑事訴訟であれば被告人を代理する業務)を独占的に行うこととなっていることでしょうか。しかし、医師国家試験のようにしたいのであれば、法科大学院をわざわざ設置する必要はなく、法学部を卒業し、さらに法学研究科の博士前期課程(修士課程)を修了するという制度、または法学部を6年間にする(コースを設けるのでもよいでしょう)という制度にすれば足りました。ドイツのように、法学部を卒業するには国家試験を受験しなければならないとする制度も選択できたはずです(これにより、司法試験受験資格を与えればよいのです。日本では教育学部が参考になります)。

 むしろ、司法試験と比較すべき対象は、隣接法律職などと言われる業種でしょう。我々の業界用語(しかも俗語)でいうところの「士業(さむらいぎょう)」です。これでもおかしいと言われることは承知しています。しかし、少なくとも、医学部と法科大学院とを並べるよりも、弁護士とその他の士業とを比較するほうが妥当であるはずです。

 有名なところでは、行政書士試験、司法書士試験、公認会計士試験の受験資格には、年齢や国籍などの制限が全くありません。法科大学院と比較されることもある会計大学院の場合は、修了すれば公認会計士試験の短答式試験について一部科目が免除されるにすぎないのです。また、税理士は、大学(学部)を卒業した者の他、学部の3年生以上、専修学校の専門課程を修了した者、などとなっています。

 記事に戻りますと、記事の最後に「担当者は『改革は進めるが、水道管に大きな穴(予備試験)が開いていれば、蛇口から良い水をたくさん出すのは難しい』とこぼす」と書かれています。文部科学省の担当者の発言なのでしょうが「ふざけるな!」の一言で済まされるでしょう。それなら誰が予備試験という制度を設計したのでしょうか。文部科学省か法務省でしょうが、どこに責任を転嫁するつもりなのでしょう。今や「良い水」をたくさん出せるのは予備試験のほうでしょう。

 もう一つ、上記朝日新聞記事の問題を記し、批判します。今回の「考/論」です。普段であれば、或る論点について異なる見解が示されるのですが、今回は二人とも法科大学院関係者です(先の大貫教授と慶応大学法科大学院の片山直也教授)。偏りがひどすぎるとしか言いようがありません。もう一人は法科大学院廃止論を唱える方(など)の意見を載せるべきです。インターネットで弁護士の方のブログを検索すると、実務界で反法科大学院の傾向が強いことがうかがわれますかし、法学部の教員でも法科大学院に批判的な見解をもつ人は少なくないのです。

 大分大学時代には私も新聞社から電話などでコメントを求められたことが何度もありましたので、記事の紙面にはわずかしか反映されないことは承知しています。その上で記すならば、片山教授の意見には疑問符ばかりが浮かびます。「柔軟な法的思考ができる人材の育成という意味では、予備試験の『弊害』は大きい」というのですが、どういう弊害なのかが全くわかりません。法科大学院だから「柔軟な法的思考ができる人材を育成」できるのかということについても、証拠となりうる材料がないのです。要するに一方的な断言にすぎない訳で、「考/論」以外の部分にも弊害は書かれていません。試験の答案ならば「問題外の外」です(「問題外」のさらに外ということです)。

 どうしても予備試験の受験資格制限を行いたければ、法科大学院の教育効果が厳密に(厳格に)審査され、「柔軟な法的思考ができる人材の育成」が実現していることを客観的に示す必要があります。次に、予備試験の弊害を、抽象的にではなく、具体的に示す必要があります。そのためには調査が欠かせません。頭の中であれば、いくつかの弊害を考えることはできるでしょうが、これでは説得力も何もないので、誰も真剣に聞きません。

 予備試験を批判する者の多くは、おそらく当初の司法改革の理念のみに基づいて抽象的な表現をスローガンのように繰り返しているに過ぎません。1917年のロシア革命以降に登場した社会主義国家のように、プロパガンダと現実とが大きく乖離しているのでは、全く説得力を持たないのです。法科大学院と予備試験についても、現在、まさにスローガンばかりが強く主張され、不都合な現実が蓋で隠されようとしているのです。

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偶然、見かけた記事ですが(続)

2015年02月22日 00時00分05秒 | 受験・学校

 今月18日の18時23分48秒付で「偶然、見かけた記事ですが」を掲載しました。今回はその続編です。

 withnewsというサイトがあり、今日付で「講義は中学レベル、入試は同意で合格 ”仰天”大学に文科省ダメ出し」という記事が掲載されていました(オリジナル記事でしょうか)。Yahoo! Japan Newsで見つけたので、アクセスしてみました。

 記事は、次の文から始まります。

 「文科省は今月19日、講義内容や運営方法などに不備があるとして、改善を求める大学253校を公表しました。新設された大学や学部を昨年度から調べており、対象となった502校の約半数に問題が。多くは学生の定員割れや、教職員の高齢化などでしたが、大学としての“適格性”が問われそうなものも少なくありませんでした。」

 内容は、私にとっては「今更……」とも言えるものでした。このブログでも、2014年2月12日23時50分48秒付で「大学でbe動詞の授業~~しかし、実態は、少なからずこのようなもの~~」という記事を掲載し、同日の読売新聞社の報道を紹介しつつ、若干の問題を示しました。文部科学省が、いかに「改善」を求めようとも「改善」のしようがない、という実態があることも記しています。

 withnewsの前掲記事にも、英語の「講義」(最近はこの言葉を使わなくなっています)でbe動詞、(動詞の)過去形などが扱われるという話が登場します。動詞の現在・三人称単数形なども教えたりするのでしょう。文学部英文学科などで本格的な分析などを学ぶというのであれば大学らしい講義になりますが、そうではなく「中学校レベルの内容が並びます」ということなのでしょう。確かに、暗澹とします。

 数学の講義では、微分・積分や行列をやり直すのかと思ったら、そうではなく、百分率、小数、四捨五入から始められるという話も登場します。共通センター試験を受験できるようなレベルではないのですが、実際にそうせざるをえない大学があるのでしょう。

 仮に大学の教員がこの程度しか教えることができないというのであれば、あまりに大きすぎる問題です。しかし、そうであるとしても、むしろ義務教育レベルの学習内容を理解できていない学生が多いということのほうが、よほど重要な問題です。つまり、小学校、中学校、そして高校は「一体何をやっているのだ!?」ということです。

 そして、この問題は、そもそも誰が種を蒔いたのか、と尋ねたくなります。

 なお、低学力の原因を考えるにあたって、AERA2015年2月23日号の17頁以下に掲載された「格差と貧困 日本の現実」という記事が参考となります。どの程度まで経済格差と結びつくのかという問題は別としても、学習時間と家庭環境の関係は一つの要素として考慮すべきでしょう。

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神田神保町にまだ残っている

2015年02月21日 01時12分25秒 | まち歩き

 2004年4月から大東文化大学法学部法律学科に勤務している私の通勤ルートには、神田神保町が入っています。現在は半蔵門線と三田線との乗換駅としてですが、勿論、古本屋街に寄ることも多いのです。書泉グランデが法律学や経済学などの専門書を扱っていた頃には、度々寄っては購入していました(方針を変えて現在のようになってからは一度しか入ったことがありません)。

 以前にも記しましたが、私が初めて神田神保町を歩いたのは高校生の時、1980年代の半ばです。それから、この街には何度となく足を向けています。とくに、1989年1月に半蔵門線の半蔵門~三越前が開業してからは、溝の口から乗り換えなしで行けるようになったため、訪れる機会が増えました。大学院生時代には、ここに寄りやすくするために通学ルートを溝の口⇔早稲田(九段下乗り換え)としたくらいです。

 ただ、1980年代の後半、バブル経済真っ盛りで東京の地価が上昇したこともあり、神田神保町から次々に古本屋が消えていきました。三丁目は壊滅状態と言ってもよいくらいです。当時は神田小川町や西神田なども含めて200~300ほどの店がありましたが、1990年代には100店くらいになっていたはずです。街もずいぶん変わりました。

 さて、今回は神保町駅を出て神保町交差点から少し北側に歩いた所です。すき家のある三つ角を右に曲がります。何軒かの古本屋があり、響というジャズ喫茶もあった辺りです。靖国通りからであれば、古くからある洋菓子店の柏水堂の脇を入ってまっすぐ進んで突きあたった所です。

2013年3月に閉店したゲームセンター、ミッキーです。たしか新聞でも報じられました。ネットでは今でも記事が残っているくらいで、非常に有名でした。

建物の老朽化により閉店するとアナウンスされていました。確かにその通りです。しかし、まだ建物は解体されていません。

 このゲームセンターには何度か入ったことがあります。今は降ろされているシャッターの箇所が出入口で、そこに一台だけ、テーブル形のゲーム機が置かれていました。すぐに何段かの階段を昇ります。何台かのゲーム機が置かれていましたが、奥に向かってパチスロ機ばかりであったことを覚えています。そして、左に進んでまた数段の階段を昇ると管理人がいるコーナーがあり、その前に、テレビゲームが置かれていました。ほとんどが50円でしたが、その奥、南側にはまた何台もパチスロ機が置かれていました。パチンコ屋ではないのでメダルを特殊景品に取り替えたりすることはできませんが、一定の点数を超えると景品が出てきました(何が出てきたのかは記さないこととします)。

 間取りとしては広いのですが、段差が多く、今から考えると妙な構造です。2階と中2階があるような感じでしょうか。

 今、ゲームセンターは数を減らしています。2013年、3月にミッキーの閉店が報じられ、8月には宇田川町のセンター街にあった渋谷会館の閉店も報じられました(確か新聞記事になったはずです)。私が院生であった時代には西早稲田や馬場下町に何軒かありましたが、ほとんどが閉店しています。

 神田神保町でも、1980年代、90年代には白山通りの二丁目側に何軒かありましたし、靖国通りの三井住友銀行神保町支店から明治大学のほうに抜ける、ロシア料理店のサラファンなどのある脇道(正確には神田小川町三丁目)にも何軒かありました。しかし、現在はその辺りに一軒が残っており、他には駿河台下交差点から靖国通りを神田淡路町のほうへ少しばかり歩いた所に一軒あるだけです。少なくとも、私が知る限りではこの二軒のみです。神田駿河台の楽器街にもゲームセンターがありましたが、かなり前に閉店しています。

 ところで、この建物はいつまで残るのでしょうか。建て替えられるとすると、どのようになるのでしょうか。

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