ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2010年10月28日、宮崎台駅

2019年12月31日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第396回:「東急田園都市線途中下車(7) 宮崎台駅」〔2010年10月28日撮影(但し、1枚のみ、2009年10月8日、自由が丘駅にて撮影)。2010年12月26日〜2011年1月3日2掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 田園都市線を初めとして、東急全線の全駅(1968年以降に存在した駅です)を利用したことがありますが、やはり頻度の差はあるものです。渋谷、横浜、武蔵小杉、溝の口などは、それこそ何度利用したか覚えていないほど多用していますが、一度しか利用したことのない駅もあります。また、自動車でなら何度も通っているのに電車で行くことがあまりないという所もあります。今回、田園都市線途中下車シリーズの第7弾として取り上げるのは、私にとってはあまり利用する機会がない駅で、しかも、自動車であれば何度も近くを通っているという所です。

 朝、何となく宮崎台に行きたくなり、田園都市線の下り電車に乗りました。多摩田園都市の入り口である梶が谷を出てしばらくすると、高津区から宮前区に入ります。そして宮崎台駅に到着します。急行と準急は通過しますが、ここには電車とバスの博物館があります。また、上の写真でもおわかりと思いますが、マンションなどが多い地域です。

 川崎市が政令指定都市になったのは1972(昭和47)年のことで、当時は川崎区、幸区、中原区、高津区、多摩区の5区が置かれました。宮崎台駅がある宮前区は高津区の一部でした。1982(昭和57)年、高津区から宮前区が分区します。田園都市線の駅のうち、宮崎台、宮前平および鷺沼は、開業時は高津区にありましたが、分区によって宮前区にある駅となっています。宮前区役所は宮前平駅の近くにありますが、商業などの中心は急行および準急の停車駅である鷺沼にあります。

 この宮前区という区名ですが、この駅の読み方と関係があります。1889(明治22)年、大日本帝国憲法が公布された年、現在の宮前区の地域に宮前村と向丘村が成立しました。それぞれ、村の名前は「みやさき」、「むかいがおか」です。つまり、宮前と書いて「みやさき」と読ませた訳です。一方、馬絹(まぎぬ)には宮ノ前という字があり、こちらは「みやのまえ」と読みます。そこで、区名を制定する際に、漢字のほうはかつて存在した村の名前を採用し、読み方のほうは基本的に字のほうを採用しています。宮崎は、本来であれば「みやさき」と読むべきなのかもしれませんが、現在は「みやざき」となっています。

 電車とバスの博物館は、かつて高津駅の高架下にありました。入館料が大人も子供も10円という安さで、それでいて結構長い時間遊ぶことができました。しかし、田園都市線の二子玉川~溝の口の複々線化工事に伴って一時閉館し、2003年に宮崎台駅のそばに移転したのでした。現在の入館料は大人が100円、子供が50円です。高津駅の高架下に保存されていたデハ200形204号、モハ510形510号(後のデハ3450形)が、現在は宮崎台にあるという訳です。また、デハ3450形の3456号の一部がカットされて保存されています。

 駅の改札口を出ると、すぐに電車とバスの博物館への通路があります。宮崎台駅は坂の途中にあるような場所ですので、梶が谷側は高架となっており、その下に博物館があるのです。少し急な気もしますが、バリアフリーを考慮していると思われるスロープを下っていきます。右側には写真と解説文のパネルが貼られています。これをじっくり見るのも面白いかもしれません。

大井町~溝ノ口が大井町線であった時代、二子橋では道路の上を電車が走っていました。その時代の写真です。その右側には、戦前に東横線を走っていたガソリンカーの写真もあります。

 入り口のすぐそばに踏切装置が置かれています。田園都市線には、現在、どこにも踏切がないので、ここから警報機の音が鳴るのも不思議な気がします。この踏切装置の警報機は、田園都市線の電車が接近すると鳴り出します。

 電車とバスの博物館を出て、坂を登って再び駅に向かいます。奥のほうに電車とバスの博物館の入り口があります。1回入館料を払うと、その日のうちであれば何度でも入ることができるという話です。

 梶が谷方面に窪地のような場所があります。旧国道246号線は、高津区末長にある梶ヶ谷交差点(かつての笹の原交差点)で新道と分かれ、宮前生活環境事務所の辺りから長坂を下り、馬絹交差点の先で再び新道と合流します。途中に長坂下交差点があり、そこが窪地のようになっているのです。この交差点から土橋方面に伸びる道があり、宮崎台駅の近くを通ります。駅に向かうには、この坂を登らなければなりません。

 左側にある駅のほうへ登っていきます。まっすぐ進むと田園都市線の上を通る道路との交差点があり、そこからすぐに住居表示が宮前平となります。有名な金属バット殺人事件の現場は、宮前平駅よりも宮崎台駅からのほうが近いそうです。

宮崎台駅の北口に出ました。坂の途中にあるのがおわかりだと思います。反対側にバスターミナルがあります。ホームの梶が谷側は高架なのですが、宮前平側は掘割の構造になっています。

 宮崎台駅の2番線ホームに立っています。おそらく駅の係員のための出入り口でしょう。坂の感じがおわかりになるでしょうか。

 この駅が開業したのは1966(昭和41)年で、溝の口~長津田の開業と同時です。それ以来、建物が増え、大きく変化しました。かつて、この近くに陸軍の駐屯地があったということも、根っからの地元民などでないと知らない話になりつつあるのでしょう。分区してからもうじき30年、宮前区の人口は高津区より多く、一時期は川崎区に次いで2番目に多い区でした。

 1番線ホームを9000系9003Fの5両編成が通過していきました。回送です。大井町線での朝の運用を終えて、鷺沼(車庫があります)か長津田(検車区があります)へ向かうのでしょう。

 9000系の多くは現在でも黒地白字の方向幕車ですが、一部はLED化しています。また、最初から5両編成の9007Fを除き、8両編成で東横線で運用されてきました。しかし、2009年および2010年に、一部の編成が大井町線に転属しています。9003Fもその一つで、8両から5両になっています。残る3両は廃車になったのでしょう。これは、東横線で5050系が増備されていることに伴うもので、2012年に予定されている東京メトロ副都心線との相互乗り入れに備えたものでしょう(ホームドアの位置との関係もあるのでしょうか)。また、大井町線で運用される車両(新6000系、8090系、8500系、8590系、9000系)のほとんどは、パンタグラフがシングルアーム化されています(新6000系は当初からです)が、9003Fはまだ東横線時代のままです。

 上の写真のみ、2009年10月に東横線自由が丘駅5番線で撮影しました。同じ9003Fのクハ9103です。8両編成で、特急、通勤特急、急行、各停のいずれにも使われていました。そもそも東急には特急専用車がありません(特急料金も不要です)。

 9000系は、元々、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)南北線との相互乗り入れを前提として製造されました。様々な事情があって、結局、南北線および都営三田線との乗り入れには使用されなかったのですが、南北線の9000系、三田線の6300系も、初期に製造された車両は、連結部近くにあるクロスシートなど、東急9000系と共通する設計がなされています。

 さて、東横線から田園都市線に戻り、次はどこを取り上げようか、と考えています。御参考までに、田園都市線の各駅と所在市区を記しておきましょう。なお、赤字の駅は急行・準急停車駅、青字の駅は準急停車駅です。

 渋谷区:渋谷

 世田谷区:池尻大橋三軒茶屋駒沢大学桜新町用賀二子玉川

 川崎市高津区:二子新地、高津、溝の口、梶が谷

 川崎市宮前区:宮崎台、宮前平、鷺沼

 横浜市青葉区:たまプラーザあざみ野、江田、市が尾、藤が丘、青葉台、田奈

 横浜市緑区:長津田

 町田市:つくし野、すずかけ台、南町田(土休日のみ急行停車。準急は平日の朝、上りのみ)

 大和市:つきみ野、中央林間

 

 〔付記〕以上は最初に掲載した記事を原文のまま再掲載したものですが、2019年10月1日から急行・準急停車駅が変わり、南町田駅の名称も変わりましたので、記しておきます。次のとおりです。

 渋谷区:渋谷

 世田谷区:池尻大橋三軒茶屋駒沢大学桜新町用賀二子玉川

 川崎市高津区:二子新地、高津、溝の口、梶が谷

 川崎市宮前区:宮崎台、宮前平、鷺沼

 横浜市青葉区:たまプラーザあざみ野、江田、市が尾、藤が丘、青葉台、田奈

 横浜市緑区:長津田

 町田市:つくし野すずかけ台南町田グランベリーパーク

 大和市:つきみ野中央林間

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久しぶりに、或るドイツ語の体系書(教科書)を読んで

2019年12月30日 00時03分30秒 | 法律学

 仕事の関係もあって、久しぶりにHeinrich Wilhelm Kruse, Lehrbuch des Steuerrechts, Band I, Allgemeiner Teil, 1991を読んでいます。書名を訳せば「租税法教科書第1巻総則」というところです。

 ドイツにおいて租税法学が独立した分野として成立したのは、せいぜい100年程前のことで、きっかけは1919年のエルツベルガー財政改革の産物の一つであるライヒ公課法〔Reichsabgabenordung (RAO)〕の制定なのですが、その辺りの事情がなかなか興味深く、またこの本を読んでいると歴史の重さと深さを感じるのです。Albert Hensel, Der Finanzausgleich im Bundesstaat in seiner staatsrechtlichen Bedeutungを読んだ時にも感じたことではありますが、歴史を踏まえた書物は、それが近い過去に関するものであっても遠い過去に関するものであっても面白いし、薄っぺらくもないのです。

 ライヒ公課法と言えば、日本では故中川一郎博士が長らく取り組まれており、大学図書館などで研究成果に触れることもできます。勿論、こうした業績を読むことも大事ですが、その上で原書にあたることも必要でしょう。

 学部生時代(とくに1年生であった時)に、一冊の参考書を徹底的に読み潰してよかったと思っています。私の場合は、青木一郎『わかりやすいドイツ語』(郁文堂)という本を購入し、読んだ上でノートに要点を書いたりして勉強しました。最終的に、ノートは数冊になりました。第二外国語が必修であった時代に学部生であったことはよかったと、常に思っています。

 また、学部生時代にドイツ憲法史に関する訳書〔C. F. メンガー(石川敏行他訳)『ドイツ憲法思想史』(1988年、世界思想社)〕を入手できたことも幸いでした。何度読み返したかわからないくらい読んだのです。

 このブログで、私はかつて、法学部の学生は社会思想史を学ぶべきであるという趣旨を記しました。「法学部の1年生は、社会思想史を勉強しなさい!」(2012年10月10日21時40分45秒付)、「レッセ・フェール(laissez-faire)」(2012年11月06日02時11分05秒付)および「法学部の学生は、世界史(とくに社会思想史)を勉強しなさい!」(2015年04月15日00時48分26秒付)を御覧ください。

 今もその信念に変わりはありません。ただ、憲法史、法制史というような分野にも目を通すとよい、ということを付け加えておきましょう。政治史、政治思想史でもよいです(かなり多くの部分で、憲法史、政治史、政治思想史は重なります)。何故、今の制度はこうなっているのか、その制度の背景は何であるのか、ということを知るには、結局、過去の経緯に遡らざるをえないからです。

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2011年4月4日、梶が谷駅

2019年12月30日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第419回:「東急田園都市線途中下車(11) 梶が谷駅(その1)」(2011年5月28日〜6月4日掲載)

 第420回:「東急田園都市線途中下車(11) 梶が谷駅(その2)」(2011年6月4日〜10日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2011年4月4日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 1963(昭和38)年10月11日、大井町線(大井町~溝ノ口)が田園都市線と改称されました。それ以前から多摩田園都市計画が実行に移されており、当時の高津区野川が第1弾として完成しています(おそらく現在の宮前区野川でしょう。野川の一部は高津区ですが)。そして、1966(昭和41)年4月1日、田園都市線の溝の口~長津田が開業しました。これにより、梶が谷、宮崎台、宮前平、鷺沼、たまプラーザ、江田、市が尾、藤が丘、青葉台、田奈、長津田の各駅が一斉に開業します(あざみ野駅だけは昭和52年、西暦に直せば1977年、5月25日の開業です)。

 田園都市線に乗れば、多摩田園都市計画の範囲がよくわかります。溝の口駅から下り電車に乗ると、ほどなくトンネルに入ります。それを抜けるとすぐに梶が谷駅に着きますが、二子新地駅から溝の口駅までと梶が谷駅とでは、風景の違いが大き過ぎて同じ川崎市高津区とは思えません。まして、溝の口駅と梶が谷駅とは800メートルしか離れていないのです。トンネルを境に、まるで別の市か県にやってきたように感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。多摩田園都市は梶が谷駅から中央林間駅までの間に展開しています。川崎市高津区に生まれ育った私も、田園都市線を渋谷~溝の口、溝の口~中央林間と区別するくらいでして、溝の口駅より奥は別世界と捉えてしまいます。

 そういうことで、今回は、溝の口駅より奥に展開する多摩田園都市の起点ともいうべき梶が谷駅を取り上げます。東急田園都市線途中下車シリーズの第11弾ということになります。

 梶が谷駅は川崎市高津区にあります。これまで、このシリーズでは二子新地、高津、溝の口を取り上げていますから、今回をもって高津区にある田園都市線の駅をすべて取り上げたことになります。駅名は「梶が谷」、地名は「梶ヶ谷」です。但し、この駅の所在地は高津区末長です。

 梶が谷駅には急行も準急も停車しませんが、運行上は重要な地点の一つとなっています。朝のラッシュ時にはここで急行または準急の退避が行われます。夕方のラッシュ時には原則として行われませんが、ダイヤが乱れた時には行われることがあります。また、おそらくは開業時から、宮崎台側に留置線があります。半蔵門線との相互乗り入れが本格化するまで、田園都市線には梶が谷で折り返す電車が走っていました。そのために留置線があったのです。現在、この留置線は大井町線の急行として運用される新6000系が止まっていることが多いようです。

 また、右のほうには車庫があります。こちらは最近できたもので、大井町線の急行として運用される新6000系がこの車庫に入ります。

 奥にトンネルがあります。その上が道路になっていて、末長と梶ヶ谷の境界になっています。トンネルの左側に、私がよく行く家電店の一つ、コジマNEW梶ヶ谷店が見えます。ここは私が大分大学に勤務していた頃に開店しました。それ以前はメイツレーン梶ヶ谷というボーリング場で、その1階にドアーズというホームセンター(ディスカウントショップ?)がありました。幼い頃、父に連れられてよく行ったものです。

 駅は2面4線、右側から1番線、2番線、3番線、4番線で、1番線と2番線が下り、3番線と4番線が上りです。2番線は急行の通過待ちをする各駅停車が止まります。また、4番線は、いつからかわかりませんが通過電車用となりました。

 ここは身代り不動の最寄駅でもあります。駅から徒歩で8分ほどの所にあります。起伏があるのですが、歩いて行くか、車で行くか、ということになります。実は「身代り不動尊前」というバス停もあるのですが、梶が谷駅からであれば1日1本、20時台にあるだけです。高津営業所へ行くバスですが、早い話が車庫に入るための回送のようなバスでして、1本だけがお客を乗せるという訳です。

 大井町線用の8090系が回送として走ってきました。早朝の上りの何本かが鷺沼から大井町へ、夕方以降の下りの何本かが大井町から鷺沼まで走ります。鷺沼に車庫があるためです。3月の震災以降、節電ダイヤとなっていますので、大井町線の場合、日中は大井町~二子玉川のみの営業運行となっています。

 こちらは4番線のホームです。何年か前までは、こちらでも乗降が可能でした。たしか、3番線が急行または準急(1980年代までは快速)の通過待ちをする電車のホームで、4番線がそれ以外の各駅停車のホームでした。急行または準急(快速)は、以前から4番線を通過していました。この先、ホームの途中にポイントがあり、大井町線の車庫への出入りをする電車を見ることがあります。今では通過専用のホームとなり、乗降ができません。

 田園都市線では、江田駅にも通過列車専用ホームがあります。下り電車の1番線と上り電車の3番線で、どちらにも柵が設けられています。また、欠番(?)がある駅もあります。大井町線が乗り入れる二子新地駅と高津駅には、2番線と3番線のホームがなく、田園都市線のホームは下り電車の1番線と上り電車の4番線しかありません。藤が丘駅にも2番線のホームがありません(ホームは下り電車の1番線と上り電車の3番線です)。ついでに記すならば、東横線と目黒線の元住吉には1番線と6番線のホームがありません(1番線は東横線の下り通過列車用、6番線は東横線の上り通過列車用です)。

 

 梶が谷駅は急行・準急通過駅ですが、運行において重要な駅の一つであり、構内も広くなっています。駅には大井町線急行電車のための車庫があり、その反対側に保線区の施設があります。

 保線用のディーゼル機関車が置かれています。クレーンも装備しています。これらは車両として扱われていないようです(東急に限ったことではありません)。保線作業を見る機会はなかなかないものです。

 マルティプルタイタンパー、通称マルタイです。線路の下に敷かれている石(バラスト)の高さを調整し、敷き直し、つき固めを行います。これによって線路の高さを調整することになりますが、この機械は線路を持ち上げることにも使います。また、線路が曲がっていてはどうしようもありませんから、修正もしなければなりません。これもマルタイで行います。安全な運行のためには必要不可欠な機械であるということです。

 マルタイの後にもディーゼル機関車があります。昔の国鉄のディーゼル機関車、DD16のような姿です。何のために使われるのかはわかりませんが、他の車両を牽引するのでしょうか。前部に機械が取り付けられていることがわかります。

 再び、宮崎台側の留置線です。手前にも保線用の機械が置かれています。留置線に旧5000系や7200系などが置かれていた1970年代を思い出します。現在のように10両編成が行き交うようになったのは1980年代になってからのことで、1970年代には本数も少なく、旧3000系、旧5000系、5200系、旧6000系、旧7000系など、ほとんど全系列と言ってよいほど様々な車両が、3両とか4両とかで走っていました。また、不定期列車もありました。そもそも、大井町から走ってきてこの駅止まりという電車すらありました。

 梶が谷駅の建物です。改札口は一箇所だけです。最近リニューアルされた東急線の駅には、改札口、自動券売機コーナーのスペースが広くとられている構造の所が多いのですが、この駅は昔ながらの私鉄の小駅という感じを強く残しています。開業してから45年、基本的な構造は変わっていないはずです。私自身は梶が谷駅を利用する機会をあまり持たなかったのですが、近くを通ることが多かったので、何度となく駅舎だけは見ていたのでした。駅の隣、この写真で言えば左側に東急ストアがあるという点も、何十年もの間に変わっていないはずです。

 もっとも、全く何も変わっていない訳でもありません。自動改札機の奥には1000円理容のQBハウスがありますが、これは最近のものでしょう。ただ、それ以前に何があったのかはわかりません。

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2010年3月3日および2011年1月3日、溝の口駅

2019年12月29日 11時22分50秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第400回:「東急田園都市線途中下車(8) 溝の口駅(その1)」(2010年3月3日撮影。2011年1月21日〜28日掲載)

 第402回:「東急田園都市線途中下車(8) 溝の口駅(その2)」(2011年1月3日撮影。2011年2月4日〜10日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 2002年に開始してからおよそ9年、このコーナーも400回目を迎えました。果たして、どなたが読んでおられるのかわからないままなのですが、私の趣味嗜好のままに続けております。どこが登場するのかわかるようなわからないような「待合室」ですが、今後もよろしくお願い申し上げます。

 100の倍数の回数は節目と考えられることが多いようです。それにならうと、第100回(2004年6月)は長崎市、第200回(2008年1月、同年の1回目)は不動前駅、第300回(2009年2月)は太宰府天満宮を取り上げてきました。第400回となる今回、どこを取り上げようかと迷ったのですが、地元を取り上げることにいたしました。

 東急田園都市線途中下車シリーズも8回目となりました。これまで、渋谷からの順番で並べると池尻大橋(3回目)、三軒茶屋(1回目)、桜新町(4回目)、二子新地(6回目)、高津(2回目)、宮崎台(7回目)、そして長津田(5回目)を取り上げています。どうしてもランダムになってしまいますが、気ままに続けたいと考えています。

 さて、今回は、田園都市線で渋谷駅の次に乗降客が多い駅を取り上げます。川崎市高津区の代表駅でもある溝の口駅です。別室1「私の思い出の街・溝口」として、私が大分大学に在職していた時代に取り上げておりますし、その後も何回か登場しているのですが、今や「思い出の街」どころか「生活の根拠の街」となっています。

 その溝口(町名はこのように書きます)は、1990年代の再開発によって駅周辺が大きく変化しました。私は、大学院生時代の5年間、通学のために田園都市線溝の口駅を利用してきましたが、1997年4月に大分市に移しました。その後にノクティなどがオープンし、別の街に来たのかと思ったくらいです。しかし、少し離れると昔ながらの姿が残っています。とくに、西口商店街は、縮小されたとはいえこの何十年かの姿を残し続けています。日本全国広しといえども、焼き鳥屋を兼ねている八百屋さんは溝口の西口商店街にしかないでしょう。

 本来であれば、シリーズの趣旨からして田園都市線の溝の口駅からスタートすべきですが、上の写真はJR南武線の武蔵溝ノ口駅からの写真です。この駅も再開発に伴って大きく変わりました。私が院生であった時代までは、1番線(川崎方面ホーム)の側にしか駅舎がなく、南口(久本1丁目、下作延方面)には出られなかったのです。当時は、改札口から入って右側に1番線(川崎方面ホーム)があり、左側に跨線橋があって2番線(立川方面ホーム)・3番線ホームにつながっている構造でした。ホームが互い違いになっているような構造であったのです。そう言えば、武蔵溝ノ口駅の駅舎のそばに公衆便所があり、夜になると、何故かその公衆便所のそばに屋台のラーメン屋が出ていたことを思い出します。

 現在は橋上駅舎で、2階に改札口があり、田園都市線溝の口駅やノクティとはペデストリアンデッキでつながっています。そのため、乗り換えは楽になりました。武蔵小杉駅は乗り換えに時間がかかって不便ですが、武蔵溝ノ口駅は便利です。

 駅の南側を通るのが県道鶴見溝ノ口線です。かつては手前の道がその県道で、バス通りでもありました。道幅は狭く、渋滞することの多かった通りでした。再開発に伴って、それまではようやく車一台が通ることができるくらいの幅しかなかった奥のほうの道路が拡げられ、そちらが県道となってバスが通るようになりました。県道鶴見溝ノ口線は、その名称の通り鶴見から溝口までの道路です。終点はこの駅の付近ではなく、高津駅付近にある高津交差点で、国道409号線(地元では府中街道と言うほうが通じやすい)と交差します。高津交差点から溝口3丁目を南下し、そのまま2丁目に入って南へ進み続け、南武線の踏切を渡って片町の交差点を左折すると、上の写真の地点に出られます。

 JR武蔵溝ノ口駅は溝口1丁目にありますが、この辺りはかつて溝口の中心とは言い難い部分でした。実際、地図を見ると南の端にあり、手前の道路のあたりまでは溝口ですが、奥の道路(県道鶴見溝ノ口線)は久本1丁目を通っています。

 上の写真の地点から、さらに県道鶴見溝ノ口線を左のほうへ向かいます。そうすると久本2丁目の洗足学園音楽大学に出ます。川崎市内に本拠を置く数少ない大学の一つです。最近では、米良美一、平原綾香といった卒業生を輩出しています。また、洗足学園の幼稚園、小学校、中学校、高校、そして短期大学もこの一角にあります。さらに進み、第三京浜道路の下をくぐると千年(ちとせ)、子母口(しぼくち)、明津(あくつ)と読みづらい地名が続き、中原区に出ます。

 同じく南武線の武蔵溝ノ口駅から、今度は田園都市線の高架のほうを撮影しました。中ほどにある四角いスペースが溝口駅南口バスターミナルで、ここからは川崎市バスのみが発着します。市民プラザ、梶が谷駅、高田町、鷲ヶ峰営業所、聖マリアンナ医科大学、柿生駅、宮前平駅のほうへ向かいます。

 高架の先に片町交差点があり、そこから先は下作延で、高津区役所があります。1980年代までは現在の溝口1丁目、高津合同庁舎のある場所に区役所もありました。

 今度は北口です。南武線武蔵溝ノ口駅と田園都市線溝の口駅を結ぶペデストリアンデッキに、このような案内施設があります。また、ペデストリアンデッキではよく路上演奏が行われています。一度、聴きに行ってみるのもよいでしょう。私も、偶然ではありますが何度か聴いたことがあります。ジャンルも幅広く、渋谷よりもヴァリエイションは豊かであると言えます。

 このペデストリアンデッキの左下にバスターミナルがあります。こちらは川崎市営バスと東急バスが発着しますが、東急バスのほうが多いでしょう。小杉駅方面(高津駅、宮内経由)、川崎駅西口方面、井田営業所方面、向ヶ丘遊園駅方面、そして新横浜駅方面のバスが発着します。また、KSP(かながわサイエンスパーク)へのシャトルバスも出ています。シャトルバスは無料なので、院生時代に時々利用していました。

  かつてはヤストモというショッピングセンターがありました。ショッピングセンターと言っても、現在のものとは違い、それほど大きくない建物の中に店舗が並んでおり、アーケード商店街に近いような形態で、小売市場という表現のほうが適切かもしれません。ここの中ほどにあった珍来軒の弁当が安くて美味しく、院生時代には朝に買って昼に学校で食べたりしたものです。また、西の端に八百長という名前の八百屋さんもありました。他にえんよし(化粧品店)、みずほ(玩具店)、文教堂書店(溝口が発祥の地で、現在も本店はこの駅の近くにあります)、スギザキ(時計店)、石原文具などもありました。

 ここで、「みぞのくち」の表記について述べておきましょう。上を読まれてお気づきかと思いますが、同じ読みなのに表記が異なります。

  まず、JRの駅名は「武蔵溝ノ口」です。旧国名の武蔵が付されるのは、武蔵溝ノ口駅が開業した1927(昭和2)年、兵庫県を走る播但線に「溝口(みぞぐち)」駅があったことによります。南武線は、開業当時は南武鉄道という私鉄の路線でしたが、砂利運搬を目的とする会社であっただけに貨物運送が多く、貨物列車の国鉄路線への直通も考慮されていたのです。

 また、旧来から、地名としても「溝ノ口」の表記が使われていました。もっとも、「溝口」とも書かれていたようで、統一はなされていなかったようです。

 次に、東急の駅名は「溝の口」です。こちらは1927年に玉川電気鉄道溝ノ口線の駅として開業し、長らく「溝ノ口」の表記でしたが、1966(昭和41)年1月20日、現在の「溝の口」に改称されました。東急も、「溝の口」への改称の日までは「ヶ」や「ノ」を使用していたのですが、同日に全て平仮名の「が」や「の」で表記する名称に改められています。「溝の口」(←「溝ノ口」)の他には、自由が丘(←「自由ヶ丘」)、緑が丘(←「緑ヶ丘」)、鵜の木(←「鵜ノ木」)、「旗の台」(←「旗ノ台」)、雪が谷大塚(←「雪ヶ谷大塚」)、久が原(←「久ヶ原」)があります。一方、田園都市線の「溝の口」から中央林間までの間にある駅は、当初から「ヶ」や「ノ」を用いておらず、平仮名表記です(梶が谷、市が尾、藤が丘が該当します)。

 そして、川崎市の住居表示(公式の表記)は溝口です。このため、公的機関などは「溝口」の表記を使用しており、川崎市バスも「溝口駅」と表記しています。時折、郵便などで、住所として「溝の口」と書かれているものを見かけますが、ビル名やマンション名などの固有名詞でない限りは誤りです。

 溝口は1丁目から6丁目まで存在します。区画整理が行き届いていない所なのでわかりにくいのですが、おおむね、次のようになっています。

 1丁目は田園都市線の南側で二ヶ領用水の南側です。JR武蔵溝ノ口駅、ノクティ、高津合同庁舎、溝口中央商店会があり、人通りも多いのですぐにわかります。多くの方が溝口と聞いて湧くイメージは、1丁目のことでしょう。

 2丁目は田園都市線の北側で二ヶ領用水の南側です。東急溝の口駅は2丁目にあります。西口商店街、栄橋交差点、溝口神社、宗隆寺、すくらむ21(男女共同参画センター)があり、国道246号線のほうまで伸びています。

 3丁目は二ヶ領用水の北側、国道409号線の南側です。つまり、二ヶ領用水と国道409号線にはさまれたような形です。帝京大学溝口病院、大山街道ふるさと館などがあります。川崎溝ノ口郵便局も3丁目にあります。この辺りは高津駅のほうが近いでしょう。

 4丁目は、高津駅前(高津駅そのものは二子4丁目にあります)、国道409号線の北側です。高津警察署、高津図書館、高津小学校の所在地です。

 5丁目は、国道409号線の北側で国道246号線の東側にあります。4丁目との境界の辺りは細い道が入り組んでいますので説明しにくい所です。東急バスの高津営業所、トナミ運輸、佐川急便、高津休日急患診療所などがあります。

 そして6丁目は国道246号線の西側にあります。最寄駅は高津か二子新地となります。大正堂、トイザらス、川崎市総合教育センターなどがあります。

 田園都市線溝の口駅周辺の散策は、まだ続きます。

 

 田園都市線溝の口駅は高津区溝口2丁目にあります。この駅の東口とJR南武線の武蔵溝ノ口駅の北口とはペデストリアンデッキでつながっており、乗り換えの利便性は高くなっています。川崎市は、最近、横須賀線・湘南新宿ラインの武蔵小杉駅がオープンしたことを10大ニュースの1つにあげましたが、この駅の乗り換えの不便さは市内で一番ではないかと思われるほどで、南武線から横須賀線・湘南新宿ラインへ乗り換えるのに、待ち時間を含めずに10分は見ておかなければなりません。このため、私は一度も横須賀線・湘南新宿ラインの武蔵小杉駅を利用したことがありません。

 もっとも、溝の口駅・武蔵溝ノ口駅の乗り換えが便利になったのは最近のことです。以前は少し離れておりまして、歩行者しか通ることができず、しかも人通りの多い道路を歩いていくしかなかったのです。さらに悪いことに、JR武蔵溝ノ口駅は、かつて、北口、つまり1番線(川崎方面)ホームの側にしか駅舎がなく、従って、改札口も1か所しかなく(臨時の改札口もあったのですが、それも1番線ホーム側しかなかったのでした)、2番線(立川方面)・3番線(基本的に武蔵溝ノ口止まりの折り返し電車の発着ホーム)からの乗り換えは不便でした。救いは、溝の口駅と武蔵溝ノ口駅との間にヤストモというショッピングセンターがあったことです。これにより、乗り換えの途中の買い物なども楽しめました。

 再開発によって道が広がり、バスターミナルも大きくなり、乗り換えの利便性も高まりました。しかし、私には、再開発によってむしろ溝口の街が衰退しているような気がしてなりません。JR武蔵溝ノ口駅前から田園都市線高津駅方面に伸びる商店街は、距離が少し短くなったのとともに、人通りも少なくなりました。うなぎの大関など、少なくとも沿線やAMラジオでは有名であった店もなくなっています。

 一方、ノクティを訪れる人の数は結構多く(難点は夜、閉まるのが早いことでしょうか。これは昔からの溝口の特徴です)、駅の乗降客も多いのです。田園都市線では渋谷に次ぐ乗降客数となっているのが溝の口駅です。

 溝の口駅の東口です。こちらがバスターミナルやJR武蔵溝ノ口駅との連絡口にもなっています。奥へ進むとみずほ銀行のATMやコインロッカーがあり、さらに西口があります。私が大学院生であった頃には、現在とは全く違う構造で、西口はなく、東口の改札口は1階にありました。私がこの駅を使うようになったのは小学校高学年時代になってからですが(それまで、溝口の街に行ったことがほとんどなかったのです)、今に至るまで何回か構造が変わっているような記憶があります。とくに、当時の改札口の右側にあった店舗はよく変わっていました。一時期、文教堂書店の本店(?)もありました(現在は南武線の沿い、久本3丁目にあります)。

 1月3日にこの駅の構内を通りましたので、右側にある売店はお休みでした。売店の手前にエスカレーターがあり、24時間営業の東急ストアにつながっています。そして、売店の奥が改札口になっています。左側は定期券売り場とテコプラザ(旅行センター)です。また、溝の口駅の梶が谷側には南口もあります。改札口から階段、エスカレーターまたはエレベーターを使って昇ればホームで、1番線が田園都市線の下り(長津田、中央林間方面)、2番線が大井町線の下り(当駅止まり)、3番線が大井町線の上り(当駅始発)、4番線が田園都市線の上り(渋谷、押上、久喜、南栗橋方面)です。

 2010年6月8日(火)付の朝日新聞朝刊28面(第2神奈川)13版に「くらし・経済」の欄があり、そこに「私鉄 東急『一人勝ち』 延伸効果、働き盛り世帯増 09年度輸送実績」という記事が掲載されていました。神奈川県内に路線を持つ大手私鉄(東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道)の2009年度輸送実績に関する内容で、それによると小田急、京浜急行および相鉄の輸送人員は2008年度より減少しているのですが、東急だけは僅かながら増加したということです。やはり大井町線の延伸効果があったのでしょうか(2009年7月、大井町線が溝の口に戻ってきたのでした)。

 また、溝の口駅は、一日の平均乗降客数が10万人を超える駅(神奈川県内の大手私鉄の駅としては21駅が該当します)のうち、2009年度に乗降客数が増えた数少ない駅の1つです(他には、川崎市内にある小田急小田原線の登戸駅と同線・多摩線の新百合ヶ丘、横浜市内にある東急東横線・目黒線の日吉駅と東横線・みなとみらい線の横浜駅のみ)。

 改札口です。東急は関東の私鉄の中では早くから自動改札機を導入していましたが、この駅での導入はそれほど早くなかったと記憶しています(高津のほうが早かったはずです)。改札口を入ると立ち食い蕎麦屋や1000円理髪店などがあります。

 いつもであれば、とくに朝夕には多くの人が行き交うのですが、正月三が日の昼間はさすがに少ないようです。

 溝の口駅は、田園都市線の急行と準急、大井町線の急行も停車する駅ですが、長らく駅長が置かれていませんでした。私の大学院生時代には二子玉川駅の管理下に置かれていたのです。最近になって溝の口駅にも駅長が配置されて、二子新地駅、高津駅および梶が谷駅も管理しています(これらの駅も二子玉川駅の管理下にありました)。

 さて、溝の口駅から少しばかり歩いてみましょう。東急溝の口駅前交差点に出てから、田園都市線の高架の下を通る道路を進みます。その交差点から栄橋交差点までは、再開発によって誕生した新しい道路です。栄橋交差点を直進すると津田山駅方面、左折すると踏切を越えて高津区役所方面ということになります。我々は右折します。俗称は大山街道、現在の正式名は県道鶴見溝ノ口線を高津交差点方面に進むと、溝口神社の参道が左側に見えてきます。ここで初詣をすることとしました。私も妻も、溝口神社での初詣は初めてです。

 1月3日、短い参道は人であふれていました。大山街道まで行列ができるということはなかったのですが、ここは明治神宮や川崎大師ではないのですから、駅から行列ができるほうが不思議です。あくまでも地元の神社なので、ちょうどよい長さの行列です。

 参拝を済ませました。甘酒(アルコール分はゼロ)がふるまわれており、我々も飲みました。コクがあってなかなか美味いもので、これを無料でいただけるとはありがたいものです。お札や破魔矢が売られている箇所には人が集まるものです。巫女さんはアルバイトかな、などと思うのですが、どうなのでしょう。私が非常勤の仕事で行っている大学では、キャンパスでこのような格好をしている学生をよく見かけます。

 溝口神社のすぐそばです。参道を離れると、ごらんのように静かな住宅街です。田園都市線の沿線というと新しい住宅地というイメージがあるかもしれませんが、溝口は古い街で、住宅地としても古いでしょう。そのためか、古い建物も多く残っています。

  高津区は幅の狭い道が非常に多く、車では通り抜けができないような道もたくさんあります。溝口もそうです。ここは、田園都市線の駅と同じ2丁目なのですが、少し離れただけで雰囲気が駅前とは大きく違ってきます。

 上の写真で、奥のほうに雑木林が見えます。宗隆寺の境内です。このお寺の裏側が丘となっており、国道246号線の切通しを経て、久地駅近くまで続きます。その途中、津田山駅の近くに川崎市の葬祭場(かわさき北部斎苑)があります。現在は川崎区にもかわさき南部斎苑がありますが、それまでは川崎市立の葬祭場は津田山にしかなかったのでした。そのためなのか、下作延は勿論、溝口も葬祭場に多少とも関係のある業者が少なくありません。

 溝口と言えば、二ヶ領用水を忘れてはいけませんが、これについては機会を改めて取り上げます。

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おしらせです(2019年12月27日)

2019年12月27日 17時32分10秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、おしらせです。

 地方自治総合研究所から刊行されている雑誌「自治総研」の最新号(2019年12月号。通巻494号)が刊行されました。

 この中に、私の「地方税法等の一部を改正する法律(平成31年3月29日法律第2号)(地方自治関連立法動向研究28)」が掲載されています(19〜49頁)」。お読みいただければ幸いです。

 また、この雑誌は、地方自治総合研究所のサイトでもPDFファイルで見ることができますので、御覧いただけば幸いです。

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2010年3月3日および5月25日、高津駅

2019年12月27日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第368回:「東急田園都市線途中下車(2) 高津駅(その1)」(2010年5月25日撮影。2010年6月17日〜25日掲載)

 第369回:「東急田園都市線途中下車(2) 高津駅(その2)」(2010年5月25日撮影。2010年6月25日〜7月1日掲載)

 第370回:「東急田園都市線途中下車(2) 高津駅(その3)」(2010年3月3日撮影。2010年7月1日〜8日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 「田園都市線途中下車シリーズ」第2弾は、高津駅です。区の名前を冠していますが、田園都市線の急行も準急も停まらず、大井町線に至っては通称「青各停」 (または「B各停」)しか停まらず、「緑各停」(または「G各停」)は通過します。

 朝の高津駅交差点です。ラッシュ時は過ぎていますが、近くに帝京大学附属病院があることもあって、人も車も多い所です。旧大山街道も近く、田園都市線では最も宿場町の雰囲気を強く残す所でしょう。

 高津駅の下を通るのが府中街道です。長らく県道でしたが、現在は、この先の国道246号線との交差地点である溝口交差点まで国道409号線となっています。東京湾アクアラインも国道409号線でして、川崎市高津区溝口3丁目を起点として中原区、幸区、川崎区を通り、東京湾を横断して千葉県木更津市に入り、茂原市、東金市を経由して成田市まで伸びています。

 高津区の中心は溝口で、区の代表駅も田園都市線・大井町線の溝の口駅、南武線の武蔵溝ノ口駅です。そもそも、現在、高津区に高津という町名はありません。駅は二子4丁目にありますが、私が立っている場所が溝口4丁目、信号を渡ると溝口3丁目です。

 区役所は溝の口駅、武蔵溝ノ口駅の近くにありますが、高津警察署は高津駅のすぐ近く(上の写真では右側のほう)にあります。もう少し歩いて高津交差点には公証役場があります。 さらに、高津交差点を右折して歩き続けると高津図書館に到着します。

 国道409号線も、それほど幅の広くない道路ですが、高津駅の付近は御覧のような狭い道路が多く、自動車では通行困難な場所も少なくありません(行き止まりの道もあります)。かつての宿場町は、現在、住宅地となっています。上の道路が溝口と二子との境界になっており、田園都市線の高架下は二子、歩道の反対側は溝口です。ちなみに、町名の表記は「溝口」でして、「溝の口」でも「溝ノ口」でもありません。 読み方は「みぞのくち」で、正しくは「ぞ」から「ち」まで高い音のまま発音します。最近は何故か「くち」で下げる発音が多くなっていますが、これを聞くと「この人、訛ってるな。地元の人間ではないな」とわかります。

 高津駅の改札口です。急行、準急は勿論、大井町線の緑各停も通過すること、隣の溝の口駅とあまり離れていないことから、乗降客は多くありません。それでも、朝のラッシュ時にはこの駅で降りて高津駅前バス停でバスを待つ客も少なくありません。

 この駅は1927(昭和2)年に、玉川電気鉄道の駅として開業しました。つまり、玉電の駅であった訳です。1943(昭和18)年、戦時輸送の強化という観点から二子玉川~溝の口を大井町線に移しており、高津も大井町線の駅となりました。1977(昭和52)年に完全な高架駅となりましたが、私は、下り線、上り線のどちらかのホームがまだ地上にあった時のことを、かすかに覚えています。

 高架化されてからの改札口は、ここよりかなり手前にあったはずです。また、電車とバスの博物館が高津駅の高架下にあり、改札 口より奥はその博物館の敷地でした。奥に白い工事用の柵がありますが、そこも博物館であった場所です。

 2009(平成11)年7月11日からの大井町線延伸に向けて、駅は大幅にリニューアルされました。改札口が二箇所に増え、エレベーター、エスカレーターも設置されました。

 改札口を入ると売店がありますが、この売店がかなり変わっています。何故かわからないのですが輸入ビールを、しかも瓶で売っているのです。街の酒屋ではなかなか見られないような種類のものが売られて おり、私も時々買って帰ります。

 このリトルマーメイドという店の辺り、上の写真で言えば右側のほうに、以前、 「ペコちゃん」などの愛称で知られるデハ200形の204編成が保存されていました。これは、1969(昭和44)年に廃止された東急玉川線(渋谷~二子玉川園)で活躍した2両編成の連接車で、現在の多摩川駅前にあった遊園地、多摩川園で保存されてい たものです。 閉園後、しばらく経ってから高津駅に移動されました。

 1982(昭和57)年4月、電車とバスの博物館が高津駅の高架下にオープンします。しばらく経ってから、204号編成は二子新地側に増設された3号館に移 され、この場所に東急の前身である目黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄のモハ510形が置かれていました。東急になってからデハ3450形となり、 最後は目蒲線と池上線で活躍した車両で、トップナンバーである3450号がモハ510形の登場時の姿に復元されたのでした。高津駅の複々線化工事が開始されるに伴い、電車とバスの博物館は休館となり、2003(平成15)年に宮崎台駅の高架下に移転して再開しました。それとともに、204号編成とモハ510形も宮崎台駅高架下に移転しています。

 既にデハ200形およびモハ510形が宮崎台に移動してからかなりの時間が経っていますので、記憶が曖昧になっていますが、いずれの車両も2本の柱の後ろ辺りに置かれていたはずです。これらの電車が置かれたのは1980年代で すので、私の中学生時代、高校生時代と重なります。時折、ここに寄っては見ていましたし、入場料が大人も子どもも10円という安さもあって、よく電車とバスの博物館に入りました。宮崎台に移転してからは、大分大学在職中に一度だけ行ったことがあります。

 

 前回は高津駅を取り上げましたが、その続きです。駅に入り、4番線に上がって電車を待ちます。各駅停車しか停まらないとはいえ、東急、東京メトロ、東武の車両が走りますから、楽しめると思います。田園都市線の10両編成として見られるのは、東急なら8500系、8590系、2000系、5000系、東京メトロなら8000系、08系、東武なら30000系、50050系です。大井町線の5両編成として見られるのは8090系、8500系、8590系、9000系で、6両編成の急行として見られるのは6000系です。

 田園都市線の二子玉川駅から溝の口駅までは複々線となっており、外側を田園都市線が、内側を大井町線が走ります。二子新地駅と高津駅には大井町線のホームがなく、通称「青各停」以外は両駅に停まりません。これに対し、田園都市線の各駅停車は全て高津駅に停まります。

 隣の溝の口駅まではそれほど離れていないので、溝の口駅が見えます。元々、二子玉川~溝の口は玉川電気鉄道溝ノ口線として開業しており、軌道線だったこともあって駅間距離が短いのです。昭和18年、戦時輸送強化のため、二子玉川~溝の口は、線路の幅を1372ミリメートルから1067ミリメートルに変更し、大井町線に 編入されました。これによって大井町線が大井町~溝の口となったのです。昭和38年に大井町線は田園都市線に改称されますが、昭和54年に大井町~二子玉川園(当時)が大井町線となります(現在も、大井町線の正式な区間は大井町~二子玉川です)。

 高津駅のホームです。私が立っているのは田園都市線上り電車が発着する4番線で、下り電車が発着するのは1番線です。つまり、2番線と3番線のホームはなく、大井町線が通過します。二子新地駅も同じ構造になっています 。また、東横線の元住吉駅も類似の構造となっています(1番線と6番線は通過線のため、ホームがありません)。

 高津駅のホームから溝口4丁目・5丁目のほうを撮影してみました。この辺りは、以前から住宅が密集しており、狭くて曲がりくねったような道があちらこちらにあります。旧大山街道より奥のほうには自動車の通り抜けができない道路もあります。しかし、渋谷から20分ほどで行けるという場所でもあるため、最近はマンションなども多く見られます。

 今度は北のほうを撮影してみました。現在進められている二子玉川駅周辺の再開発の様子が、高津駅からでもわかります。奥のほうに見える高層建築物は、二子玉川駅付近にあるものです。

 この写真ではわかりにくいのですが、実は高津駅から隣の二子新地駅までの距離も短く、二子新地駅から二子玉川駅もよく見えるほどに近いのです。それでも十分に需要はあります。

 今回は高津駅だけを取り上げましたが、近所を散歩するのも楽しいので、駅の周辺を歩き、ここで紹介いたします。

 

 高津駅、その両隣の溝の口駅、二子新地駅については、今後も何度となく取り上げることになると思いますが、二子新地駅付近から溝の口駅付近までの旧大山街道は、何度歩いても独特の味わいを楽しめる、川崎市では最も楽しい散歩コースの一つでしょう。

 今回は高津駅周辺として取り上げますが、高津駅と溝の口駅との間は田園都市線の営業キロ数で700メートルしか離れていません。そのため、上の写真(実はトップページの写真と同じです)の場所にはどちらの駅からでも行けます。近いのは高津駅です。同駅を降りて国道409号線(府中街道)を西の方(久地、稲城、府中方面)に向かいます。程なく、高津交差点に着きます。そこが国道409号線と旧大山街道との交差点ですので、その交差点を左折し、溝の口駅方向に歩くとすぐに到着です。また、溝の口駅からであれば、小杉駅行のバスに乗ると二つ目のバス停が「高津」で、そのバス停のそばにあります。

 ここは溝口三丁目です。奥に公園がありますが、ここにかつて高津図書館がありました。小学生の頃、私はよく高津図書館に行き、本を借りたりしていました。現在は溝口四丁目、高津小学校の裏にありますが、そこには文教大学附属小学校がありました。大田区にあった文教大学附属立正小学校と統合され、現在は池上線石川台駅の近くにあります。そして、文教大学附属小学校の跡地に高津図書館が移転したのです。

 今となってはあまり覚えていないのですが、上の道を真直ぐ進むと図書館の玄関があったはずです。そして、道を囲むようにして木造の建物が並んでいたのではないでしょうか。溝口三丁目には、まだ木造の建物が多いのですが、マンションなども増えてきています。

 奥の公園につながる道路の部分は「大山小径」と名付けられています。 この辺りは、旧大山街道の宿場町でした。今もその雰囲気を色濃く残しておりますが、やはり面影は徐々に薄らぎつつあります。

 現在の国道246号線は、この旧大山街道より西のほうを通っており、東京都世田谷区瀬田、同区玉川から新二子橋を通り、溝口5丁目と6丁目の境界を抜けて梶が谷駅の西のほうに抜けますが、基本的には旧大山街道の道筋となっています(地図によっては厚木街道とも書かれています)。そして、現在の東急田園都市線も、ほぼ全線にわたって旧大山街道と並行する路線です。

 旧大山街道の宿場町としては、三軒茶屋、溝口、荏田、長津田があり、田園都市線にも三軒茶屋駅、溝の口駅、江田駅(町名は荏田ですが、駅名は江田です)および長津田駅がありますが、この中では江田駅のみが急行・準急通過駅であり、また、江田駅の周辺には宿場町の雰囲気があまり残っていません(江田駅から新石川のほうに向かうと旧道があり、その辺りにかすかに残っているとも言えますが)。また、長津田は、最近でこそ南方で住宅地としての開発が進められてきていますが、私が院生であった頃までは、ここが宿場町であったとは思えないくらい静かな場所であり、田園都市線でここほど変化のない場所も珍しい、とすら言われていました。その意味では、三軒茶屋と溝口が、最も宿場町らしい雰囲気を残しているとも言えます。

 「大山小径」の反対側に、御覧のような案内板が設けられています。かつて、溝口と言えば旧大山街道が中心街としての機能を持っておりましたので、現在でも古い建物などが残っています。その一つが薬屋です。どのような建物であるかについては下の写真を御覧いただくこととしましょう。

 

 高津駅と溝の口駅の周辺には灰吹屋という薬屋があります。この建物は、昭和35年、西暦に直せば1960年まで、灰吹屋の店舗として使用されていたようです。この右側に少し歩くと高津交差点です。この辺りには、交差点のそばを中心に田中屋というお店が多く、二子新地駅付近にかけて、古い建物も点在しています。逆に左側に歩くとすぐに高津バス停があります(駅前のバス停は「高津駅前」)。さらに歩くと溝口神社、田園都市線溝の口駅(南武線武蔵溝ノ口駅)、そして高津区役所です。

 これからも、旧大山街道の様々な場所を取り上げたいと思っています。

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2010年10月23日、二子新地駅

2019年12月26日 10時39分10秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第390回:「東急田園都市線途中下車(6) 二子新地駅(その1)」(2010年11月21日〜28日掲載)

 第391回:「東急田園都市線途中下車(6) 二子新地駅(その2)」(2011年11月28日〜12月4日3掲載)

 いずれも、写真撮影日は2010年10月23日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください(但し、今回は追記のようなものがありますが、その部分については〈 〉で記します)。また、文中にある「別室19」は、2015年11月26日0時30分33秒付で「2003年12月30日の長津田駅周辺」としてこのブログに再掲載しておりますので、御覧いただければ幸いです。

 

 私が田園都市線を通勤路線としたことで始めた東急田園都市線途中下車シリーズでは、これまで、三軒茶屋、高津、池尻大橋、桜新町、そして長津田の順に取り上げてきました(長津田だけは別室19として取り上げています)。路線を行ったり来たりと、順番は乱雑になっていますが、これは私の都合によるものです。今回は第6弾として、二子新地駅の周辺を取り上げます。10月下旬に3台目のデジタルカメラを買いまして、その日に散歩し、撮影してきました。実は体調が悪く、前の日に病院へ行って診断を受けたのですが、歩けるのであれば少し歩いたほうがよいという判断で、近所を散歩した訳です。

 ちなみに、シリーズ化する前に渋谷、溝の口、青葉台、中央林間の駅(またはその周辺)を取り上げていますが、これらについても改めて取り上げる機会があるでしょう(ただ、いつになるかがわかりません)。

 渋谷から田園都市線に乗り、二子玉川を出発して二子橋を渡ると川崎市高津区に入り、すぐに二子新地駅に到着します。急行および準急は止まりません。また、大井町線の緑各停も止まりません。田園都市線の中では利用客が少ないほうに入るためなのか、のどかさすら感じさせる駅でしたが、複々線化を機に改築されており、以前とはだいぶ印象が変わりました。

 新しい路線というイメージがある田園都市線ですが、二子新地駅は1927(昭和2)年、玉川電気鉄道の二子新地前駅として開業しています。当初は玉電の駅であった訳です。戦時体制の強化とともに輸送力の増強が課題となり、二子読売園(現在の二子玉川)~溝ノ口(現在の溝の口)は大井町線に移管されます。以後、1963(昭和38)年に大井町線が田園都市線と改称され、1977(昭和52)年に現在の名称である二子新地に改称されました。

 二子新地駅の4番線に、御覧のような階段が設けられています。これは、年に一度、二子橋で川崎市の市制記念多摩川花火大会が行われ、この駅が最寄となるために設置されています。普段は使われません。

 川崎市の市制記念日は7月1日です。市制記念多摩川花火大会は、市制記念日に近い7月中に行われていたのですが、この時期には雨が多かったためなのか、この何年かは8月中旬に、世田谷区たまがわ花火大会と同時に行われています。会場への最寄り駅は二子新地と二子玉川です(会場の関係で高津も最寄駅となります)。最近はどうかわからないのですが、1990年代には、田園都市線の電車が二子橋を普段よりもかなり速度を落として走り、花火を電車の中からじっくり楽しむことができました。

 途中下車と言いますが、実は当日、電車には乗っていません。二子新地駅までは高津駅のほうから歩いてきました。元々が玉電の区間であっただけに、二子新地駅と高津駅の間は近く、600メートルくらいしか離れていません。散歩にはうってつけです。この辺りは区画整理が行き届いておらず、細い道が入り組んでいて覚えにくいのですが、自動車の通行量も少ないですし、所々に梨畑などもありますから、散歩のコースとして楽しめるはずです。

 二子新地駅には長らくエレベーターがなかったのですが、現在は設置されています。私が立っているのは道路の上で、ここが諏訪と二子との境界になっています。右が諏訪で、左が二子です。ちなみに、二子は、現在の川崎市の地名としては「ふたご」と読みます。しかし、駅は「ふたこ」ですし、二子橋も「ふたこばし」と読むのが一般的です。

 二子から諏訪に入り、二子新地駅前の商店街である松栄会に入りました。以前から人通りの少ない商店街ですが、肉屋、魚屋などが健在です。最近は魚屋をみかけなくなりましたが、この商店街にはあります。

 商店街の名称は、諏訪の一本松に由来します。上の写真で手前のほうに進んでいきますと、その一本松があった場所に着きます。現在は石碑が立っています。今からおよそ400年前、この地に信州の豪族の諏訪左近頼久が訪れ、開拓をしました。そして諏訪大社にこの松を植えたのです。幹の太さは7メートル、高さは25メートルにも及んだといいます。残念ながら、1965(昭和40)年に切り倒されました。寿命であったようです。

 松栄会の通りを一歩脇に入ります。「松栄会」の看板はあるのですが、住宅街になっています。高津区は、諏訪、二子、北見方、溝口、坂戸など、幅の狭い道路が多い所です。

 新地という言葉は、関西方面ではよく耳にします。曽根崎新地、飛田新地などが有名でしょうか。JR東西線には北新地駅があります(JR大阪駅とつながっています)。元々は「新しく居住地として開けた土地。新開地」、あるいは「新しく手に入れた領地」を意味し(デジタル大辞泉によります)、そこから遊郭を意味することがあります。関東では新地という言い方を関西ほどには使わないようで、あまり耳にしません。その中で、二子新地は駅名にもなっている珍しい例です。

 二子新地駅周辺は三業地でした。三業とは料理屋、待合、芸者屋の三業種のことで、これらの営業が許可される地域を三業地と言います。関東ではこの三業地という表現がよく使われており、東急線の沿線では新丸子駅周辺と二子新地駅周辺が代表的な三業地でした。新丸子駅の近く、とくに綱島街道沿いにはホテルなどが多く、かつての三業地の雰囲気が残っていますが、二子新地駅のほうにはそのような雰囲気がほとんどありません。

 〈この記事を最初に「待合室」に載せてからかなりの年月が経過した或る日、駅から少し離れた、多摩川に近い場所に、現在も料亭があることを知りました。〉

 二子新地駅の改札口が左側にある箇所です。つまり駅前に出ました。1980年代に私が自転車でよく通りかかった頃よりも、奥のほうは店が増えたような気がします。この道を奥に進むと旧大山街道との交差点があり、その周辺が、かつて三業地であったことをよく偲ばせる場所とも言えます。

 旧大山街道との交差点に近づいてきました。信号の先は多摩川で、土手と新二子橋(国道246号線)がかすかに見えます。交差点を右折すると二子橋で、土休日ともなるとバーベキューの会場としてにぎわいました。あまりにごみが多いことなどから、川崎市は有料化しました。また、バーベキューで訪れる人が多いことからこの商店街にも人があふれたのですが、トイレを借りるだけという人も多かったようで、私が何度か歩いて見たところでも、商店街の売り上げなどにはつながっていないように思えました。

 右のほうに、かつてパチンコ屋とゲームセンターがありました。1980年代まではあったはずですが、いつなくなったのかはわかりません。覚えているのは、木の床で歩く度にかなり大きな音がしたことです。旧大山街道にも、駅から少し離れた所に小さなゲームセンターがありましたが、現在はゲームソフトの店になっています。もっとも、二子橋を渡って二子玉川駅周辺まで歩けばパチンコ屋とゲームセンターがありますし、高津駅周辺まで歩けばボウリング場があり、そこにゲームコーナーがあります。

 駅前というと必ずと言ってよいほどパチンコ屋がある、と思われる方も多いでしょう。首都圏では、確かにそのような所が多いのですが、例えば代官山駅周辺にはパチンコ屋がありません。川崎市内でも、たとえば二子新地駅、高津駅、津田山駅の周辺にはパチンコ屋がありません。高津駅の近くには1980年代までパチンコ屋があったのですが、1990年代にはなくなっていました。津田山駅の周辺には昔からありません。また、武蔵中原駅の周辺も、高架化以後、かなりの時間が経つまではパチンコ屋がなかったのです。田園都市線には、他にも周辺にパチンコ屋がないという駅がいくつかあるはずです。

 パチンコ屋やゲームセンターの話はともあれ、二子新地駅の周辺は、商店街の規模が小さく、住宅が多いものの少し離れると梨畑などがあり、少しばかり時の流れがゆっくりと流れているかのような印象を受けます。駅から北見方にかけての狭い道をゆっくりと歩いたり、自転車で走ったりすると、不思議な気分を味わうことができます。そう言えば、対岸にある二子玉川駅の東口も、再開発事業が始められる前は二子新地駅周辺と同じような、のどかさを覚えさせる空気が漂う所でした。

 これから、二子神社のほうへ歩いていきます。

 

 二子新地駅の西側に出て、旧大山街道を南下します。溝口方面に少し歩くと、二子神社があります。現在の町名は「ふたご」なのですが、神社や橋は「ふたこ」の読みとなっています。高津区に生まれ育った私は、高津区に根を下ろしている親族の影響もあって「ふたこ」と言うのですが、どちらが正しいのでしょうか。また、このような環境におかれてきた私は、最近の「みぞのくち」の発音がおかしいことが気がかりです。正しくは、「ぞ」から「ち」まで高いまま発音します。最近のように「の」まで高く発音して「くち」で下がるというように訛りません。

 高津区二子と言えば岡本かの子、つまり岡本太郎の母親です。彼女はこの二子の旧家である大貫家の人です。大貫家と言えば、現在は二子二丁目公園となっている場所が大貫病院でした。現在は公園とマンションになっています。二子神社から旧大山街道を溝口方面に歩くと数分で着きます。

 神社は二子1丁目にあります。鳥居を抜け、多摩川のほうに歩くと神社があり、そこに岡本太郎の作品が置かれています。

 旧大山街道は、二子橋から二子新地駅の西側、二子1丁目と2丁目の境界を通り、高津図書館の前を経由して、国道409号線との交点である高津交差点に出ます。ここからJR武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅方面に向かう道路は県道鶴見溝ノ口線となります。大山は伊勢原市にある山の名前で、大山阿夫利神社があります。私は、小学生の時に一度だけ行きました。ケーブルカーに乗ったことを覚えています。

 その大山に向かう街道に、二子宿と溝口宿がありました。高津交差点を境にして北側が二子宿、南側が溝口宿であったという話がありますが、歴史学の文献(インターネットではありません)を読んでいませんのでよくわかりません。現在、旧大山街道での溝口と二子の境界は高津交差点ではなく、高津図書館(ここの所在地は溝口4丁目)の近くにあります。高津交差点の南側は溝口3丁目、北側は溝口4丁目です。ちなみに、溝口4丁目1番は高津駅のすぐそばにあるのですが、高津駅の所在地は二子4丁目1番1号です。

 二子神社です。右の道路が旧大山街道です。奥のほうに進めば二子橋で、かつては渡し船があったところです。

 旧大山街道でも、二子と溝口では違いがあります。古い家屋は溝口に多く、二子には歴史的に価値があって案内板がそばに置かれているような建物がほとんどありません(案内板はたくさんあるのですが)。その中で、二子神社は昔ながらの雰囲気を濃厚に漂わせています。もっとも、二子と溝口の違いは旧大山街道沿いに集中して表れているような感じでして、一歩裏道に入ると、非常に細く、入り組んでわかりにくい道ばかりで、あまり大きくない家屋が多いという共通点があります。また、マンションも増えています。

 二子神社に着きました。参拝でもしようかと思ったのですが、何故か賽銭箱の前に柵が張られています。右奥に道路があって、すぐに多摩川の堤防があります。付近は完全な住宅街となっています。

 田園都市線で二子橋を渡る際に、西側のほうを見てください。そうすると、上の写真にある前衛彫刻が見えてくるはずです。これが岡本かの子文学碑で、彫刻は彼女の息子である岡本太郎の作品であり、「誇り」と名付けられています。

 岡本かの子は東京の青山に生まれましたが、そこに二子の旧家、大貫家の別邸があったということで、彼女はこの二子で育っています。歌人、仏教研究者、小説家として活躍し、また、岡本一平と結婚し、太郎を生んだのでした。

 下のサムネイルの写真は、いずれもこの文学碑の下のほうにある解説板などです。

 

 

 

 神社の境内には小さな公園がありますが、遊具には子供がいません。その後ろに大木があります。私が小学生の頃には、このような公園にはたくさんの子供がいたものですが、もうかなり前から、公園で遊ぶ子供の姿をあまり見かけなくなりました。私が歩いたのは土曜日の午後ですが、右側の多摩川の河川敷で遊んでいる子供が多いのでしょうか。

 二子橋です。手前が道路、奥が田園都市線の橋梁です。バーベキューで有名になりましたが、その場所は田園都市線の高架下と言ってよいところにあります。この橋を渡ると世田谷区玉川で、二子玉川駅周辺も見えます。奥のほうに見える高層建築物は再開発によるものです。私は、再開発の前の二子玉川駅東口にあったのどかさが好きでした。急行停車駅とは思えない雰囲気があったのです。

 国道246号線は、現在、新二子橋のほうを通っていますが、かつては二子橋を通っていました。そして、1966(昭和41)年3月まで、田園都市線の電車は二子橋の道路の上を走っていました。二子橋の部分だけは単線で、道路の真ん中に線路が敷かれていたのです。最近まであった名古屋鉄道の犬山橋のような感じであったようです。同年4月に溝の口~長津田の開業を前に、田園都市線専用の橋が完成し、切り替えられています。

 川崎市側にあります。こちらは「ふたこばし」と書かれています。旧大山街道と多摩沿線道路(川崎市主要地方道幸多摩線)との交差点である二子橋交差点のそばにあります。

 多摩沿線道路にはサイクリングコースがあります。小学生の頃には二子橋と丸子橋の間などをよく走りました。また、宇奈根から東名高速道路の下を通って宿河原の稲田中学校の前を通り、登戸へ出たり、多摩川を渡って小田急の和泉多摩川駅まで走ったりしたものです。私が通っていた県立多摩高校も多摩沿線道路沿いにありました。この場所というのが、ドラマ「岸辺のアルバム」でも有名な多摩川水害の現場のすぐそばです。今はどうなのかわかりませんが、毎年1月、多摩高校では大師強歩大会が開かれ、宿河原から二子橋、丸子橋を通り、何故か途中から東京都大田区側を歩き、六郷橋からまた川崎市側に戻り、川崎大師まで歩いたのです。

 二子橋ができたのは大正14年、西暦に直せば1925年のことです。それまで、ここには橋がなかったのでした。渡し船が活躍していたのです。聞いた話によると、橋が架かってからも渡し船はあったようです。何故、長らく橋を架けなかったのか。技術的な問題もあるのかもしれませんが、江戸時代の政策が後世に大きな影響を与えているとも考えられます。東海道の大井川が典型的な例で、江戸幕府は意図的に橋などを架けさせなかったらしいのです。これは技術などについてマイナスの効果を持ったことでしょう。

 上の案内板も二子橋交差点のすぐそばに置かれています。信号を待つ間、こうした案内を読んでみたりするのも楽しいものです。この交差点から南へ、旧大山街道を田園都市線溝の口駅のほうまで歩けば、そこには歴史がたくさん詰まっています。川崎市でもこうした場所は意外に少ないので、散歩にはうってつけです。

 最近は通勤のために電車で二子橋を渡る訳ですが、時には自転車で旧二子橋(国道246号線の新二子橋に対する表現です)を渡ったり、歩いて渡ったりすることもあります。二子玉川駅のある世田谷区玉川も、私にとっては徒歩圏内であり、自転車走行圏内です。

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予想されるサプライズ? 予想される電撃●●?

2019年12月24日 00時20分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

 時々、ネットで「来年にもサプライズ?」や「来年にも電撃●●?」というような表現が見受けられます。

 私は、見た瞬間に「おかしな表現だな」といつも思っています。

 surpriseは、驚かす、不意を突く、というような意味があります。予想していなかったことが起こるから驚いたり不意を突かれたりする訳で、予想されるものであれば驚きも不意打ちもないのです。当たるか外れるか、どちらかしかないでしょう。

 電撃もそうです。『岩波国語辞典』〔第八版〕には「①稲妻(=電)のようにすさまじい勢いで敵を攻撃すること」、「②比喩的に、人の意表をついたすばやい行動」、「③電流を受けた時に感じる衝撃」と書かれています。もし②の意味で使われるのであれば、「来年にも電撃●●?」という表現は全く意味不明です。「人の意表をつい」ておらず、むしろ予想されているからです。③に近い意味であればまだ理解可能なのでサプライズよりはましというところではあるかもしれませんが、そのような意味で用いられているとは読み取れません。

 記事を書かれている記者の方々などにうかがいたいのですが、予想されるサプライズ(surprise)とは、一体どういうものでしょうか。想定を超える、というように理解すればよいのでしょうか。

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フタコエール 

2019年12月23日 23時56分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

 二子玉川駅の構内にブックファーストがありましたが、そこに東急ストアフードステーションミニ二子玉川駅構内店があります。11月27日にオープンしたところですが、小さいながらなかなか面白い店です。

 その店に、私が好きなビールのエルディンガー(ドイツ)と、夫婦で好きなビールのブドバー(チェコ。元はと言えば、私がたまプラーザか梶が谷で、学部生時代以来、何十年ぶりかで見つけたもの)があるのですが、21日の夜に妻と一緒に寄ってみたところ、フタコエールという見慣れないものがあったので、買ってみました。

 ふたこ麦種公社という、玉川三丁目にある会社の製品で、どういう訳か東急ストア二子玉川ライズ店や成城石井二子玉川東急フードショー店では見かけなかったものです。

 かなり前から地ビールが首都圏のあちらこちらで売られていて、私も何種類かを買って飲みましたが、このフタコエールは我が川崎市高津区の地ビール、ブリマーブルーイングのペールエールとゴールデンエール(残念ながら、私の知る限りでは溝口でしか見かけません)に匹敵するほどに美味いと思いました。地ビールで繰り返し購入するのはブリマーブルーイングのビールだけなのです。

 このフタコエールは、少々濃い味なのですがスッキリして飲みやすいのです。ともすれば矛盾する表現ですが、そうでないところがビールの面白さでしょう。ドイツやチェコからの輸入ビールではこの表現に合うものを見つけることができますが(逆がベルギービールです。私の経験上ですが)、日本の大手酒造会社のビールではほとんど忘れられているのではないでしょうか(ドライ系がもてはやされた日本では、発泡酒、第三のビールに直行するのも当然と思われますが、売れなくなるのも当然というところでしょう)。

 値段は高いのですが、これだけ美味しければまた買ってみようと思っています。田園都市線や大井町線を利用する私にとっては、二子玉川駅は寄りやすいところです。

 それにしても、多摩川の両岸の世田谷区と川崎市高津区で美味い地ビールが製造されるようになったのは、地元民にとっても驚きです。

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2011年3月23日、用賀駅

2019年12月19日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第430回:「東急田園都市線途中下車(13) 用賀駅」(2011年7月24日〜30日掲載)

 いずれも、写真撮影日は2011年2月3日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 ランダムではありますが、このところ、田園都市線沿線ばかり取り上げています。別に田園都市線沿線に特化したページではありませんから、他の所も取り上げたいのですが、諸般の事情によるところが大きいのです。今回は、東急田園都市線途中下車シリーズの第13弾として、用賀駅を取り上げます。

用賀駅には世田谷ビジネススクエアのタワーが接続しています。1993年に竣工したビルで、28階建てとのことです。基本的にはオフィスビルとなっていますが、地下には書店などがあります。

 世田谷ビジネススクエアの所在地は、1969(昭和44)年に廃止された東急玉川線(玉電)の用賀停留所に隣接する車庫予定地でした。車庫と言っても玉川線の車庫ではなく、当時の帝都高速度交通営団銀座線の車庫と想定されていました。そもそも、新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)は、当初、銀座線の延長区間として計画されていたのです。しかし、銀座線では車両が小さく、輸送量に問題があることは明らかでした。そこで、新たに11号線が計画され、新玉川線はその11号線の一部とされたのです。残りが半蔵門線となります。

 世田谷ビジネススクエアのタワーのそばにある交差点です。再開発で道路などは変わっていますが、街並みにはあまり変化がないように見受けられます。もっとも、1977年に新玉川線が開業してから用賀駅を何度も利用してきた、という訳ではありませんので、よくわかりません。開業して間もない頃に、小学校3年生の私は用賀駅を利用したことがあるのですが、どのあたりを歩いたのかも覚えていません。

 上の写真で言うならば、左奥のマクドナルドから右の世田谷信用金庫のほうへ向かう道路が玉川線のコースで、田園都市線もこの道路の地下を通っています。

 同じ地点ですが、逆の方向です。左に世田谷ビジネススクエアのタワーがあり、その下にバスターミナルがあります。

 用賀駅には朝ラッシュ時の準急が停車します(かつては快速が停車しました)が、急行は止まりません。しかし、乗降客は多く、バスターミナルもあります。急行停車駅の三軒茶屋にもバスターミナルはありませんので、バスにとっては要衝というべき所でしょう。このバスターミナルからは、世田谷美術館、二子玉川駅、成城学園駅、田園調布駅、恵比寿駅などへ向かうバスが発着します。

 先ほどの交差点から商店街を歩いてみます。奥に首都高速3号渋谷線が見えますが、時間帯のためか、自動車の音は聞こえてきません。人通りはあまり多くないのですが、商店街を歩いて見ると、昔ながらの商店街という感じもします。もっとも、建物は鉄筋のビルばかりですが。

 商店街の途中にスーパーマーケットがあります。そこから世田谷ビジネススクエアが見えます。この建物は川崎市側からもよく見えます。とくに南武線の高架区間を通りますと、武蔵中原駅付近などでよくわかります。

 このような高層建築物ができると、街並みは大きく変わるものである、と思われることでしょう。しかし、意外にそうではないものです。たとえば、溝の口駅周辺を例とすると、再開発事業の一環としてノクティができ、その周辺はたしかに変わりました。バスターミナルの構造は勿論、道路も変わりました。しかし、商店街の構造はほとんど変わりません。変わったのは人通りでしょうか。三軒茶屋駅周辺も、キャロットタワーがオープンしてから変わりましたが、やはり変わったのはその周辺だけで、以前からの街並みは残っています。

 用賀駅東口です。渋谷~用賀の地下駅は、改札口の数に関わらず、地上への出入り口は数か所あります。用賀駅の場合、この東口、世田谷ビジネススクエアと直結する北口、そして南口があります。東口からは国道246号線が近いでしょう。私も、時々、用賀一丁目を通ります。

 用賀駅の上にある交差点です。奥に見えるのが首都高速3号渋谷線で、右のほうへ行くと用賀パーキングエリア、そして用賀インターチェンジです。道路はそのまま東名高速道路につながっており、環状8号線の上を越え、砧緑地公園の近くを通って東京インターチェンジ、そして名古屋、大阪方面へ向かいます。また、用賀インターチェンジの近くに住友スリーエムの本社があります。

 玉川線は、この道路を通って二子玉川に向かっていました。この先、国道246号線と環状8号線が交差する瀬田交差点があります。玉川線には瀬田電停がありました。田園都市線もこの交差点の下を通りますが、駅はありません。瀬田交差点も混雑の激しい所で、とくに環状8号線の外回りが酷い状況です。上野毛駅から瀬田交差点まで1時間くらいかかることもあります。

 2010年5月31日から、用賀で或る実験が行われていました。6か月間の予定でしたが、今も行われているのでしょうか。

 東名高速道路と首都高速3号渋谷線には高速路線バスが通っていますが、首都高速3号渋谷線はとにかく渋滞の多い道路で、ラジオの交通情報を聞けば「谷町ジャンクションから○○キロの渋滞」は日常茶飯事です。池尻や三軒茶屋も渋滞の名所です(というより、谷町からの渋滞が池尻や三軒茶屋まで伸びることが多いのです)。これではバスを定時に運行することができませんので、用賀パーキングエリアにバス停(降車専用)を設け、そこから田園都市線に乗り継ぐという実験をしているのです。バスから田園都市線に乗り継ぐ場合に限り、田園都市線の用賀から渋谷までは大人も子どもも100円です(通常は大人が190円、子どもは100円)。用賀パーキングエリア内のバス停から田園都市線の用賀駅からまでは徒歩5分ということです。

 首都高速3号渋谷線の渋滞は、首都高速の数ある路線のなかで最もひどいものです。そこで、急行通過駅とはいえ首都高速に近い用賀駅が選ばれたのでしょう。他の駅ではバス停の設置が難しいからです。問題は田園都市線の混雑です。それでも、渋滞よりは混雑のほうがマシでしょう。そう言えば、東名高速道路に東名江田バス停があり、やはり渋滞が激しい時はこのバス停で降りて田園都市線を利用するお客もいるそうです。但し、東名江田バス停から田園都市線江田駅までは少し離れており、歩いて15分くらいかかるそうです。横浜市営地下鉄の駅もあるあざみ野のほうが近いようです。

 用賀駅の改札口です。こちらは開業から変わっていないようにも思えるのですが、どうなのでしょうか。改札口は一箇所だけで、左側が世田谷ビジネススクエア、右側が東口です。この駅の色は水色です。

 さて、ここで改めて田園都市線の全駅を、所在市区とともに記しておきましょう。赤字は急行・準急停車駅、青字は準急停車駅(急行通過駅)です。また、駅名の後にある( )と数字は、このシリーズで取り上げた順番などを示します。

 渋谷区:渋谷(12)

 世田谷区:池尻大橋(3)、三軒茶屋(1)、駒沢大学(9)、桜新町(4)、用賀(13)、二子玉川(14の予定)

 川崎市高津区:二子新地(6)、高津(2)、溝の口(8)、梶が谷(11)

 川崎市宮前区:宮崎台(7)、宮前平(15の予定)、鷺沼(16の予定)

 横浜市青葉区:たまプラーザ(10)、あざみ野、江田、市が尾、藤が丘、青葉台(17の予定)、田奈

 横浜市緑区:長津田(5)

 町田市:つくし野、すずかけ台、南町田(土休日のみ急行停車。平日は急行も準急も通過)

 大和市:つきみ野、中央林間

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