ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

金沢駅東口の現代アート

2014年08月30日 08時53分42秒 | 写真

夕方の香林坊」で、金沢市の中心街の交差点にあるアートを紹介しましたが、今回は金沢駅東口にある面白い(?)アート作品を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

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北鉄金沢駅

2014年08月29日 00時49分59秒 | 写真

今回は、北陸鉄道浅野川線の起点、北鉄金沢駅の様子です。

 ここを訪れたのは、1989年の夏以来、25年ぶりのことです。当時は地上にあり、JR金沢駅の脇にある小さな駅でした。旧型の車両ばかりが走っており、終点の内灘まで乗った時には恐る恐るという感じで小さな橋を渡るなど、施設も老朽化していたように記憶しています。現在は、金沢駅東口の広大な地下道(地下街となっていないのが勿体ないと思われます)の一角に、やや目立たない形で設けられています。

 駅が地下化されたのは2001年3月28日のことです。これは金沢市の都市計画に基づくものであったようです。地方の中小私鉄で地下区間・地下駅は珍しいもので、北鉄金沢駅は二例目となります(最初の例は長野電鉄長野線の長野⇔善光寺下です)。どうせ地下化するのであれば、浅野川線を中心部(武蔵ヶ辻、香林坊など)へ地下線として伸ばし、石川線の野町までつなげることができたら、などと思うのは空想に過ぎないのでしょうか。

 地下化と言いますが、単純に地上の路線を地下に移せばよい、というものではありません。一つに車両の問題が生じます。東京や大阪の地下鉄や私鉄に慣れている方にはわかりにくいかもしれませんが、地下線を通る車両には不燃化基準が適用される必要があります。しかし、当時の浅野川線にはその基準を満たすような車両がなかったのでした。そこで、1996年、北陸鉄道は京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)の井の頭線で運用されていた3000系を購入することとしたのです。北陸鉄道では8000系となりました。なお、8000系の導入に伴い、架線の電圧も600Vから1500Vに改められています。

 8000系には片開き扉のものと両開き扉のものがあり、片開き扉は8800番台(3枚目の写真)、両開き扉は8900番台(4枚目の写真)となっています(京王3000系の初期製造車は片開き扉でした)。

 浅野川線は、浅野川電気鉄道により、1925年に開業した路線です(当時は七ツ屋⇔新須崎)。その後も部分開業を重ね、1929年に金沢駅前(現在の北鉄金沢)⇔粟ヶ崎海岸の路線となります。その後、1945年に浅野川電気鉄道が北陸鉄道に併合されています。1974年に内灘⇔粟ヶ崎海岸が廃止され(それ以前から休止していたようです)、現在の北鉄金沢⇔内灘の路線となっています。

 

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夕方の香林坊

2014年08月28日 08時58分49秒 | 旅行記

金沢市の中心街、香林坊を歩きました。その時に撮影した写真を、ここに掲載しておきます。

 渋谷ではおなじみの109ですが、金沢市にあることは知りませんでした。公式サイトではKORINBO 109(香林坊109)となっています。他には町田、静岡、阿倍野にありますが、KORINBO 109が渋谷以外の地域への初出店となります。

 ちなみに、109は東急を意味するのですが、御存知ない方は意外に多いようです。これを真似たのが東武(102)、東野交通(108)です(他にもあるかもしれません)。

 ここは金沢市の中心街にして繁華街ですが、20世紀の一時期、片町や武蔵ヶ辻にその地位を明け渡したことがあったそうです。しかし、1980年代に入ってから、再び中心街としての地位を取り戻しました。ただ、最近は金沢駅周辺の勢いが強まっているようで、路線価も金沢駅東口の堀川新町(金沢フォーラスがある所)が最高地点となっています。

 金沢市役所は、この香林坊交差点から東へ少し行った所、広坂1丁目1番1号にあります。これに対し、石川県庁は金沢駅西口から少し離れた場所にあります。実は、2002年12月下旬まで、県庁は金沢市役所の斜め向かい、広坂2丁目1番1号にありました。現在は石川県政記念しいのき迎賓館となっています。

 ちなみに、石川県は、知事の公選制が採られて以来、知事に選出された人物が最も少ないことでも知られています。4人しかいないのです。とくに、中西陽一氏は知事を八期も務めており、知事としては最長期間となります(次が奈良県知事を八期務めた奥田良三氏ですが、八期目の在任期間が異なります。このことは、少しばかりですが、月刊地方自治職員研修2003年10月号31頁~33頁所収の「リーダーたちの群像~平松守彦・前大分県知事」でも触れております)。

 ちょっと珍しいような気がしたので、撮影してみました。金沢市の中心部、香林坊、金沢城址、兼六園の周辺の立体地図です。城下町ということで、わざと道を曲げていたりするため、東西南北の方向感覚をつかみにくい街ですが、この立体地図を見るとよくわかります。

 香林坊アトリオです。先程の立体地図は、このアトリオのそばにあります。金沢の百貨店、大和(だいわ)の隣にあります。所在地は、アトリオ、大和のいずれも香林坊1丁目1番地1号となっています。

 交差点の南東側にある碑です。

 香林坊という名称の由来を記しておきましょう。いくつかの説があるようですが、最も有力なのは、比叡山の僧侶であった香林坊が還俗し、町人の向田家に養子として入り、目薬の商売を始めたところ大当たりし、香林坊家として栄えたことによる、というものです。

金沢市の所々に「まちなか彫刻作品・国際コンペティション」に出展された作品が置かれています。香林坊には、下の写真にある作品が置かれていました。

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「交通権」は法的権利たりえない、と考えるべきではないか?

2014年08月27日 18時21分09秒 | 法律学

 2012年11月18日に「気になる交通基本法案の行方」、2013年11月15日に「交通基本法案⇒交通政策基本法案」、2013年12月3日に「交通基本法案⇒交通政策基本法案(続)」 という記事を、このブログにアップしました。それ以来、久しぶりに交通政策基本法に関係する話となります。

 とある所での仕事の関係で、憲法の体系書や論文などを読み直しています。憲法改正の意味、集団的自衛権など、様々な話題がありますが、今回は人権の意味に関係することです。実のところ、かなり厄介な議論ではありますが、お付き合いください。なお、ここに掲げるのは仮の内容です。

 「交通基本法案⇒交通政策基本法案」において、私は「交通権」という言葉を取り上げました。そこで「交通権」が具体的にいかなる権利であるかを具体的に説明する見解が(管見の限りにおいて)存在しないことを記しました。それから9か月の間に、私は法律学を中心として論考を探したりしていますが、(これまた管見の限りにおいて)法律学では「交通権」についての議論がほとんどなされていません。

 交通経済学者や交通権学会には怒られそうですが、どう考えても「交通権」は法的な権利として認められるようなものではない、と思うのです。そればかりか、交通権学会には「交通権」の内容を、学会内の了解事項などとして閉じ込めるのではなく、大げさに記せば国民全体に向けて、具体的な内容を説明する責任があるはずです。

 「交通権」が権利であるというのであれば、それは実現されるものでなければなりません。もう少し丁寧に記しますと、個人の「交通権」が存在するならば、誰かがその「交通権」を守る、または実現するという義務を果たさなければなりません。次に、「交通権」が侵害されたならば、個人は侵害者に対して原状回復なり損害賠償なりを請求できる必要があります。そして、侵害者がこれら(原状回復なり損害賠償なり)を果たさないのであれば、個人が裁判所に訴え出て、勝訴判決を出してもらい、その判決の内容が執行されなければならないのです。日本国憲法に明文の規定がないプライヴァシー権、名誉権、人格権が権利たりうるのは、裁判所による判決の中身が執行されうるからなのです。もしも勝訴判決を得たところで中身を実現できないのであれば「絵に描いた餅」です(そもそも、そのような場合に裁判所が勝訴判決など出す訳がありません。棄却、却下のいずれかです)。

 以上については、既に「交通基本法案⇒交通政策基本法案」にて詳しく記しましたので、御参照ください。

 新たに加えるのは、以下の事柄です。

 「交通権」の内容が不明確なのでよくわかりませんが、おそらく、公共交通機関を中心とする地域交通体系の維持ないし発展が、内容の根本にあるものと思われます。つまり、社会的な利益です。地域社会全体の利益と考えられるものが保護される必要があるというのは当然のことでしょう。次いで、社会的な利益が個人の権利につながることが望ましいということも否定しません。しかし、そのことから、社会的な利益が個人の権利に還元される、ということにはならないのです。

 長尾一紘「個人の権利と社会的利益」〔『基本権解釈と利益衡量の法理』(2012年、中央大学出版部)所収〕は、Robert Alexyの議論に依拠しつつ、「<社会的な利益は、すべて個人の権利に還元されうる>とする命題は、概念論の上では成立可能であるが、規範論の上でこれがそのまま妥当するわけではない」と述べています。長尾教授の論考は「交通権」を考える際にも大いに参考となるので、ここで紹介させていただきます。

 権利の概念が拡張されれば、それだけ権利の内容が薄くなり、空洞化することにつながりかねない。このことは、憲法学などにおいて度々指摘されます。長尾教授は「都市美観権」や「好景気享受権」というものを想定し、「『有用なこと』『快適なこと』そして『価値があること』すべてについて、このそれぞれに対応する個人の権利が創出されなければならなくなってしまう」と述べます。ここで面白いのが「好景気享受権」でして、10年以上も不景気が続いたという仮定(?)が立てられています。「好景気享受権」が具体的な権利であるとすれば、90パーセント以上の国民が権利侵害を主張することができる、ということになります。長尾教授は「損害賠償請求権を認めることはできない。これを認めることは、財政の上から可能であるとは思われないからである」と述べるのみですが、実現の不可能性から原状回復請求権が認められえないことや、「好景気享受権」を誰に対して主張できるのかという問題もあるものと思われます。単純に国または地方公共団体を被告にすればよいというものでもないと考えられるからです。もう一つ記すならば「好景気享受権」が法的権利として認められるならば、政策決定などが権利問題に「矮小化」される可能性が出てきます。景気対策を初めとする経済政策などは、国民主権国家においては最終的に国民が主権者として判断すべき問題です。

 別の問題として、個人の権利には、長尾教授の表現を借りるならば「その作用として権利者の『持分』についての強制的実現可能性が生ずる」のです。教授は、この問題については「都市美観権」の例を出しています。美観は人によって異なるものですから、住民間で都市の景観について現状維持を主張する者と現状変更を主張する者とに分かれることでしょう。そして、両者の(主張の)優劣を判定するための基準はないし、「持分」を確定することもできない訳です。この際、注意しなければならないのは、現状維持VS.現状変更を権利問題として考えるならば、単純に多数決で優劣を決めることはできない、ということです(多数決は政策決定などの場で用いられるべきです)。

 同じことは「交通権」についても妥当するでしょう。例えば、或る鉄道路線が廃止されようとしているとします。おそらく、「交通権」を主張する人々は、沿線住民(これを画定することも実は困難です)が廃止反対・路線維持を国、地方公共団体または運行会社に請求することができ、国、地方公共団体または運行会社がこれを守る義務があると語ることでしょう。一見すると、この主張は成立しえます。しかし、沿線住民が「交通権」によって具体的にいかなる利益を主張できるか、という問題があります。

 「交通権」が法的権利として認められるならば、路線が廃止された場合には沿線住民が損害賠償請求権を行使することが認められるのでしょうか。そうであるとすれば、路線廃止による沿線住民の逸失利益はどれだけなのかを算定し、主張することが可能でなければなりません。これ自体は可能であるかもしれませんが、運行会社の経営権を犠牲にしてよいという理屈、つまり、「交通権」は経営権に優越するという理屈はどこから発生するのでしょうか。

 こうなると、損害賠償請求権は発生しないが、路線の維持を請求する権利は発生する、と考えることができるかもしれません。しかし、これにも問題があります。やはり「交通権」が経営権に優越するという理屈の根拠です。法的問題ですから、法律に根拠づけられたものでなければなりません(注意的に記しておくと、憲法上の根拠は最後の、または最後に近い段階での主張となります)。

 また、運行会社が路線の維持の請求に応じないのであれば、沿線住民は国または地方公共団体に主張するのでしょうか。そうであるとすれば、裁判で沿線住民は、いったい、具体的に何を主張するのでしょうか。

 現在の鉄道営業法は、路線の廃止について届出制を規定していますので(第28条の2第1項)、国土交通大臣ができることは届け出られた後に「関係地方公共団体及び利害関係人の意見を聴取する」ことです(同第2項)。届出制の場合、行政手続法第37条により「届出が届出書の記載事項に不備がないこと、届出書に必要な書類が添付されていることその他の法令に定められた届出の形式上の要件に適合している場合は、当該届出が法令により当該届出の提出先とされている機関の事務所に到達したときに、当該届出をすべき手続上の義務が履行されたものとする」とされていますから、形式的要件に適合しているのであれば、中身を見て届出を受理しないということは認められていません。つまり、届出を受け取ったことが違法であるという主張は成り立ちません。

 軌道法に準拠する路線であれば、廃止の許可(同第22条の2)を裁判で争うことは、一応可能です。ただ、この場合も廃止によって沿線住民が具体的にいかなる権利や利益を失うことになるのかが問われることとなるでしょう。そして、再び運行会社の経営権との比較衡量という話につながります。「交通権」が経営権に優越するという理屈が裁判所に認められなければ、意味がありません。

 (ついでに記しておくならば、路線の維持によって運行会社が一層の損害を被った場合のことも考えなければならないはずです。運行会社は、沿線住民の「交通権」行使によって損害を負ったとして、沿線住民に損害賠償請求権を行使しうるのでしょうか。)

 そして、先程記した別の問題としての「持分」の話に行きます。2005年の名鉄岐阜市内線等の廃止の際に、岐阜市民の間でも意見が分かれました。意外に報じられていなかったようですが、路線の維持に公費を投入することに反対する市民団体も存在していました。つまり、路線廃止について賛成の意見もあれば反対の意見もあります。このような場合、意見を戦わせて最終的なものにまとめること、場合によっては選挙権を行使することが、民主主義の基本でしょう。裁判にはなじまないのです。「交通権」の主張は、社会的な利益に関して常に一方的な決定を迫りかねないものであり、危険なものです。政策決定の過程に瑕疵があるというのであれば、それは法的な問題として争いえます。しかし、そのことと「交通権」の法的権利性とは別の問題です。

 長くなりましたが、以上はまだ暫定的な内容です。これからさらに詰めていきたいと考えています。

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全国模擬試験も廃止へ

2014年08月24日 11時41分21秒 | 受験・学校

 代ゼミの大規模となる縮小(妙な言い方ですが)のニュースは、今日の朝日新聞朝刊や日本経済新聞朝刊にも掲載されていますが、今朝の8時44分付で読売新聞社が報じたニュースに再び驚かされました。「代ゼミ、センター試験の自己採点集計も中止へ」(http://www.yomiuri.co.jp/national/20140824-OYT1T50008.html)です。

 記事によると、代ゼミは、来年1月に実施される大学入試センター試験の自己採点結果集計および分析を実施しないということです。センター試験そのものの変更も取沙汰される中での話ですが、あまり関係はありません。ともあれ、全国の多くの大学が参加しているセンター試験の自己採点結果は、受験生本人や高校にとっても貴重なデータであり、最終的にどこの大学に出願するかを決める際に重要な役割を果たします(とくに国公立大学の場合)。記事には書かれていませんし、私自身の記憶も曖昧ですが、代ゼミによる自己採点結果集計および分析は最も規模が大きかったはずですので、受験シーズンに混乱や困難が予想されるところです。

 また、2015年4月以降には、全国模擬試験も廃止されます。代ゼミによる全国模擬試験には「全国センター模試」、「センター試験プレテスト」、「国公立2次・私大全国総合模試」などがあります(代ゼミのサイトによります)。これらはいずれも2014年度には行われるのですが、2015年度からは行われないということになります。「国公立医学部模試」なども今年度限りということでしょうか。

 一方、「大学別入試プレテスト」ですが、読売の報道によると「存続の方向で検討している」とのことですが、代ゼミのサイトでは「国公立入試プレテスト」(「東大入試プレ」、「京大入試プレ」など)について「全国センター模試・センター試験プレテストとドッキングして総合合格判定を実施します」と案内されています。実際の入試を考えても、まずセンター試験があり、それから二次試験がある訳ですから、少なくとも国公立大学入試に関しては、二次試験の模試だけで十分なデータが得られるかどうかは疑わしいでしょう。受験生にとってどの程度の利用価値があるか、という問いかけが出るはずです。

 ただ、代ゼミは私立文系コースが実質的な中心となっていたようであり(これは今日の日本経済新聞朝刊7面13版の「代ゼミ20校閉鎖 受験生の変化 対応できず」、朝日新聞朝刊37面14版の「少子化 苦しむ予備校 代ゼミ 校舎7割閉鎖へ」にも書かれています)、国公立入試模試については駿台や河合塾より弱かったのかもしれません。この辺りのことは、残念ながら私にはよくわかりません。

 なお、代ゼミのサイトでは、私が参照した限りにおいては、校舎の閉鎖、模試の廃止などの情報が掲載されていません。

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代ゼミが大規模閉鎖

2014年08月23日 18時20分45秒 | 受験・学校

 ここ数年、時々、平日の昼間、法科大学院での講義を終えて代々木駅前を歩いたりすると、私が高校生であった1980年代と比べても人が少なくなり、閑散としているという印象を受けていました。そのようなことを思い起こさせるニュースが、夕刊に掲載されていました。我々のような大学関係者にとっても「衝撃」のニュースです。

 「代ゼミ、校舎7割閉鎖へ 7校に集約 従業員400人退職募る」(今日の朝日新聞夕刊1面4版朝日新聞夕刊)

 「代ゼミ、20校閉鎖 全国7校に 浪人制限で業績悪化」(日本経済新聞夕刊1面4版日本経済新聞夕刊)

 代々木ゼミナールは、言うまでもなく大手予備校で、学校法人高宮学園が経営しています。17都道府県に27か所の校舎(日経)・29の校舎(朝日。NHKもこのように報じています)があるとのことですが、このうちの20か所の校舎について2015年度以降を「休校」とします。実質上は閉鎖と表現してよいようです。朝日、日経ともに、残す校舎は東京の本部校(代々木の代ゼミタワー)、札幌、新潟、名古屋、大阪南、福岡、造形学校(芸術大学受験専門。原宿駅の近く)の計7つであると報じています.仙台、大宮、横浜、京都、神戸、小倉、熊本などの校舎は閉じることになるようです。

 また、これだけの「休校」を決めたことで、リストラも進める方針を立てているようです。日経では100人前後、朝日では40歳以上を対象にして400人規模(但し、まだ確定した訳ではない)と報じられています。100人前後と400人規模ではかなりの開きがありますが、具体的にはこれから決まるということでしょう。いずれにしても相当な規模になることは間違いないところです。

 以上についての背景には、少子化、現役志向、国立大学への回帰(代ゼミはどちらかと言えば私立文系志向が多いそうです)があり、浪人生が減少しているのです。また、東進ハイスクールなどとの競合も無視できません(代ゼミでも多様化を図っているようですが)。

 今は、確かに、贅沢なことを言わなければどこの大学でも入れてしまう、と言われる時代です。浪人を決め込む必要性(必然性)が相当程度に失われているのです。これがよいことかどうかはわかりませんが、ここ10年ほどの間にますます声高に主張される学力の低下の一員になっているのかもしれません。

 そして、我々のような大学関係者にとっても、代ゼミのような予備校の縮小は大きな話なのです。いや、追い討ちをかけるような話でもあります。理由は、ここに記すまでもないでしょう。

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北陸鉄道石川線鶴来駅にて

2014年08月22日 00時01分24秒 | 写真

野町駅から北陸鉄道石川線を利用し、現在の終点、鶴来駅で降りました。雨が降り続いています。

 どちらも7000系で、元東急の初代7000系ですが、前面の顔つきが全く異なります。左側の7111号は、初代7000系のデハ7000形であった車両を改造したものですが、車体は東急時代の雰囲気をよく残しています。但し、東急時代には冷房装置が取り付けられていなかったのに対し、北陸鉄道では冷房装置が取り付けられています。網棚のスペースを利用したものです。

 これに対し、右の7211号は、中間車であったデハ7100形を改造したものです。こちらにも冷房装置が取り付けられました。前面がのっぺらぼうのような感じを与えますが、これは弘南鉄道や福島交通へ譲渡されたものと基本的には同じスタイルで、東急9000系の前面のデザインを基本としたものです。しかし、北陸鉄道の場合は方向幕が設置されていないため、とくに違和感を強く与える姿になっています。

 石川線では、この元東急7000系が中心となっています。7100番台はデハ7000形からの改造車で冷房装置付きです。7000番台もデハ7000形からの改造車ですが、冷房装置が取り付けられておらず、夏は運用されません。

 東急7000系には日立製作所製の電装品を備えた車両(日立車)と、東洋電機製造製の電装品を備えた車両(東洋車)がありました。日比谷線乗り入れ用とされたのは東洋車ですが、北陸鉄道に移籍したのは日立車です。

 7200番台には前面にも側面にも行先表示機がなく、運転室の隣の窓(3枚窓のうちの中窓)に行先表示板が掲出されます。もっとも、現在の石川線には途中の駅で折り返す電車が運行されていませんので、方向幕のようなものは不要でしょう。

もう一度……

 鶴来駅からは、石川線の加賀一の宮までの区間、および能美線が伸びていました。その痕跡がはっきりと残っています。カーブのためにわかりにくいのですが、この先に踏切の跡があり、線路はそこで断たれています。

またまた……

鶴来駅には1番線と2番線があります。駅舎は1番線にありますが、これから乗ろうとする野町行きは2番線から発車しますので、駅の構内にある踏切を渡ります。

かつて、石川線には準急が走っていました。そのため、方向幕には「普通」の字が残されています。現在はこの「普通」、つまり各駅停車しか走っていません。

 鶴来駅の構内に車庫があります。遠くからではありますが、その様子を撮影してみました。

 右側に止まっているのが7000番台で、夏は運用されません。左側のオレンジ色が目立つ車両は7700系で、元京王3000系として井の頭線を走っていたものです。東急7000系に次ぐオールステンレスカーですが、前面の上半分がFRPで製造されていたため、「ステンプラカー」とも言われていました。京王時代、FRPは7色も用意され、ホームで待っている乗客を楽しませてくれましたが、北陸鉄道ではオレンジ色に統一されました。

 なお、石川線の7700系は1編成だけですが、浅野川線にはやはり元京王3000系が8000系として走っています。浅野川線の車両は8000系に統一されていますが、扉が片開きか両開きかで8800番台(片開き車)と8900番台(両開き車)に分かれています。

 また、中程の奥に、黄色の大きな雪除けを付けた電気機関車が止まっています。ED20形で、冬の除雪用に残されています。

 石川線の駅で、現在、駅員が配置されているのは、この鶴来駅と野町駅だけです。また、乗り場に番号が付けられているのも、この鶴来駅と野町駅だけです。途中、道法寺、額住宅前、新西金沢で列車交換ができるようになっていますが、番号は付されていません。

 関東地方の、とくに大手私鉄の駅では、乗り場が二つ以上あれば1番線、1番ホームというように番号が付されているのが普通です。西武多摩湖線の青梅街道駅のように乗り場が一つしかなくとも自動放送で番号が言われる駅も少なくありません。二つ以上乗り場があるのに番号が付されていない駅は、都電荒川線や東急世田谷線のような軌道、東京モノレール、首都圏のJR各線の中のほんの一部の駅くらいでしょう。

 これに対し、関西の大手私鉄など、西日本では乗り場が二つあっても番号が付されていない駅は少なくありません(代表例は阪急、京阪京津線・石山坂本線)。JR西日本でも多いようです。

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北陸鉄道石川線野町駅

2014年08月21日 10時17分17秒 | 写真

 8月15日から17日まで、24年ぶりに金沢市を訪れました。雨模様が続いた3日間でしたが、そのためなのか酷暑ではなく、またいくつかの仕事を抱えていたこともあり、気分も改まりました。

 愛用のカメラを2台持っていき(Canon EOS Kiss X5とSony Cyber-shot DSC-WX100)、たくさんの写真を撮ってきました。どこから取り上げようかと迷いましたが、今回は北陸鉄道石川線の起点、野町駅の様子を紹介します。

 観光などのために金沢市を訪れたことのある方でも、野町駅を知らないという方は少なくないでしょう。それもそのはず、書店などで販売されている観光ガイドにはあまり取り上げられていないからです。

 この駅は、金沢市の中心部である香林坊や片町から南へ進み、犀川を渡って野町広小路交差点をさらに進んで脇に入った所にあります。西茶屋街も野町にありますが、そこからも少し離れています。金沢駅、武蔵ヶ辻、香林坊からバスで向かうのがよいでしょう。

 朝から雨が強かったこともあって、駅舎の写真を撮影していません。駅前のバスターミナル(?)の写真で御容赦ください。「喫茶未完成」が写っていますが、撮影した時には気づきませんでした。入ってみたくなる名前なのですが……。

 

 隣県の県庁所在地である福井市や富山市には、中心街を通る鉄道・軌道があります。これに対し、金沢市の場合、金沢駅が中心部からやや外れた所にありますし(武蔵ヶ辻から近いのですが)、香林坊や片町には鉄道が通っていません。北陸鉄道には浅野川線という路線もありますが、そちらは金沢駅に隣接する北鉄金沢駅から北の方へ走りますから、中心街を通らない訳です。それでも、金沢駅は県の代表駅ですし、金沢フォーラスなどの商業施設もあり、北陸新幹線開業を控えて西口も発展しつつあります。しかも、北鉄金沢駅は県内唯一の地下駅なのです。これなら、中心部まで地下鉄として延長することも考えられなくはないでしょう(あとは建設費用と需要の問題です)。

 これに対して、野町駅は住宅街の中にあり、表通りからも離れているので、地元の方でなければわかりにくいでしょう。二つ先の新西金沢駅でJR北陸本線と接続しますが、西金沢駅には普通電車しか止まりませんから、あまり利便性は高くないでしょう。起点の不便さという点では、熊本電気鉄道の藤崎宮前駅を思い起こさせます。

 バスが到着していました。野町駅は石川線と路線バスの接続点で、バスの運行本数も少なくないようです。

 北陸鉄道や金沢市の歴史などを調べると、この駅の位置にもそれなりの理由があるようです。中心街に乗り入れようとすると、土地の買収、会社の資金というような問題があります。手持ちの資料に乏しいため、詳しいことはわかりませんが、資金調達にかなりの困難があったようです。

 石川線の起点は、現在でこそこの野町駅ですが、1970年までは北隣に白菊町という駅があり、そこが起点でした。おそらく、西茶屋街のそばにあったのでしょう。ただ、白菊町駅は、1967年2月に廃止された金沢市内線(軌道)と接続しておらず、利便性も高くなかったようです。そこで、1970年に白菊町駅の旅客営業が廃止されました(貨物営業は1972年まで続いたようです)。

 金沢市内線という単語が登場しました。かつては、福井市や富山市と同様に、中心街へ向かう鉄道・軌道が存在していた訳です。これが廃止されたことで、野町駅は孤立したようなターミナルとなったのでした(この点も熊本電気鉄道の藤崎宮前駅と似ています)。ちなみに、1944年までは松金線の起点駅でもありました。

 暗い写真になってしまいましたが、駅の待合室です。時刻表と出発案内があり、その下に改札口がありますが、列車別改札ですので、列車が入ってこないとホームに入ることができません。

 現在は野町から鶴来までの路線となっている石川線ですが、2009年10月末日まではさらに先、有名な白山比咩神社の最寄り駅である加賀一の宮まで伸びていました。また、1980年9月までは鶴来から新寺井までの能美線が営業しており、野町から新寺井までの直通運転も行われていました。1987年4月までは加賀一の宮から白山下までの金名線があり、やはり野町から白山下まで直通運転が行われていました(但し、金名線は1984年12月中旬から営業を休止しています)。

 野町行きの電車が到着しました。折り返しの鶴来行きとなります。土曜日の9時台ですが、予想よりお客は多く、通勤・通学線として機能しているようです。ただ、20代から50代までの男性の客はあまりいません。各地のローカル線に共通している点でしょう。

 私にとっては見慣れた、懐かしい電車でした。東急の初代7000系です。日比谷線乗り入れ用として東横線に登場した、日本最初のオールステンレスカーです。一時期は東横線の急行と言えばこの7000系でした。また、田園都市線の溝の口~長津田が開業した時の祝賀列車にも使われています。長らく東横線、田園都市線、大井町線で運用されており、晩年に目蒲線でも運用されたので、結局、新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)と池上線を除く全鉄道線で運行されました。現在は、一部がVVVF化されて池上線と東急多摩川線で7700系として運行されている他、弘南鉄道、福島交通、秩父鉄道、北陸鉄道、水間鉄道、東急車輌に譲渡されました。また、伊豆急行線で走ったこともあります(小田急線でも試験走行をしました)。秩父鉄道に譲渡された分は早々に廃車されましたが、他の会社では現在も活躍しています。

 発車時刻が近づいています。電車に乗り込み、運転台を撮影してみました。元は東急の初代7000系ですが、下回りなどはかなり改造されており、モーター音などは7000系というより旧国鉄の101系か103系のように感じられました。初代7000系と言えば、他にパイオニアⅢ型台車が大きな特徴ですが、これも北陸鉄道では使われていません。運転台でも、目立つところでは左側のマスコン(マスターコントローラー)が取り替えられています。東急時代はデッドマン装置付きのマスコンでしたが、北陸鉄道に移る際に元東急3450形のマスコンが取り付けられました。

 鶴来行きの電車の車内には、あまり客が乗っていません。とくに後の車両の場合、途中の駅では扉が開かないため、終点まで乗っていた客は、外国人の親子連れ3人、妻、そして私の5人でした。


YouTube: 北陸鉄道石川線後面展望(野町駅→鶴来駅)

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憲法ノート:平和主義 憲法第9条をめぐる諸問題

2014年08月20日 02時01分30秒 | 法律学

 今回も、「日本国憲法ノート」〔第5版〕からの復活掲載です。第5回の「平和主義 憲法第9条をめぐる諸問題」で、やはり基本的な内容は2007(平成19)年5月17日のものであることをお断りしておきます。

 ★★★★★★

 戦争放棄を定める憲法の規定自体は、他国にもある。しかし、日本国憲法の特徴は、侵略戦争その他の一切の戦争、武力行使、武力による威嚇を放棄したこと、戦力の不保持を宣言したこと、国の交戦権を否定したことにある。

 改憲論は憲法第9条をターゲットにしているが、この条文は占領軍側のみの創意によるのではなく、幣原喜重郎首相(当時)の思想が反映されているともいわれる。

 2007(平成19)年5月、日本国憲法の改正手続に関する法律が成立した。このこと自体は歓迎すべきである。何故なら、憲法第96条第1項により「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」が国民の「承認」とされており、国民投票手続に関する法律の制定が憲法の要請するところと考えられるからである。また、このような法律が制定されないことにより、憲法変遷が生じたり、解釈改憲などが(半ば脱憲法的に)行われたりするとも考えられるし、さらには憲法廃棄や憲法廃止〔いずれについても第02回(ー注:このブログに「憲法ノート:日本国憲法制定までの過程/憲法改正」として復活掲載)を参照〕に至りかねない。憲法の保障のためには、改正手続が明確に示されたほうが良いのである。

 しかし、今回成立した法律には、多くの問題が残されている。たとえば、この法律には、有効投票数の規定が存在しない。地方自治法によって正式な法制度として位置づけられておらず、法的効力を認められていない住民投票であっても、有効投票数の要件が定められている場合が多いことと、著しい対照をなしている。投票制度は、可能な限り忠実に、国民全体の意思を反映するものでなければならないはずである。そのためには、有効投票数、とくに最低得票数の要件が必要である。有効投票数が定められていないとするならば、極端な例をあげれば有権者(投票権者)の99.9パーセントが棄権し、あるいは法律違反などの故に投票権を行使できない状態に置かれ、残りの0.1パーセントの有権者による投票により、憲法改正が承認されることとなる。国民主権の理念からみれば問題があることは明らかであろう。

 この問題については、項目を改めて詳しく検討したいと考えている。参考までに、公職選挙法の第95条ないし第95条の3を参照していただきたい。

 1.憲法第9条の解釈

 この条文は、一読しただけであればすんなりと読解しうると思われるのであるが、多少とも詳しく分析すれば、すぐに難しいものとなる。その理由の一つが、日本国憲法の原草案になかった芦田修正(芦田均氏によって追加された文言のこと)である。これは、第1項の冒頭にある「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という部分と、第2項にある「前項の目的を達するため」という部分である。芦田均氏、そして政府は、当初、これらの文言を追加したことによって第9条の意味が変わるものではないという趣旨の説明を繰り返していたが、1960年代に憲法改正論議が高まった時、芦田氏自身が日本の再軍備を予定したものであるという説明を行った。この修正の意味は、日本国憲法が無条件で戦争を放棄したのではなく、自衛のための戦争以外のものを放棄したことを示すことにある、というのである。

 もう一つが、第1項にある「国際紛争を解決する手段としては」という部分である(第3版までは、これを芦田修正の一つとして紹介していたが、実際には異なるようである)。これについての解釈が難しいため、全体として非常に複雑な問題となっている。

 まず、第9条第1項の解釈について検討を行う。ここで最大の問題となるのが「国際紛争を解決する手段としては」という部分の意味である。

 A説は、侵略戦争のみの放棄を定めたものであると解する。これは1929年の不戦条約の解釈に由来する。同条約の解釈において、自衛戦争が排除されていないことは、国際的な共通理解であった。芦田氏は、外交官であったため、このあたりの事情を熟知していたようで、第2項に「前項の目的を達するため」を追加した理由も、おそらくはここにあるものと思われる。また、マッカーサー三原則において侵略戦争と自衛戦争とが区別されていることも、理由としてあげられている。

 これに対し、B説は、自衛戦争を含めて全ての戦争の放棄を定めたものであると解する。その理由として、およそ戦争は国際紛争を解決する手段であって、この点において侵略戦争と自衛戦争とを区別することはできないこと、実際にも両者を区別することはできないし、実質は侵略戦争でも名目は自衛戦争であるという例が多かったこと、などがあげられる。

 次に、第9条第2項の解釈についてである。ここでは「前項の目的を達するため」の意味が問題となる。

 C説は、「前項の目的」を第1項の「国際紛争を解決する」ことと理解する。

 D説は、第1項の特定の部分を示すのではなく、全体の趣旨を「目的」として捉える。従って、「前項の目的」は戦争を放棄するに至った動機を一般に指す、と理解することとなる。

 E説は、第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という部分を指すと理解する。ただ、この説を主張する論者は少ないようである(私が参照した文献では、辻村みよ子『憲法』〔第4版〕(2012年、日本評論社)77頁において紹介されているに過ぎない)。

 第1項についてA説を採る場合については、第2項においてC説を採るかD説を採るかで見解が分かれる。文理解釈からすればA説→C説が正当であるとも指摘される〔西修『日本国憲法を考える』(1999年、文春新書)84頁を参照〕。この考え方によると、結局、放棄されているものは侵略戦争だけであり、自衛戦争は認められることとなる。また、交戦権についても、戦時国際法上の権利と解することによって、自衛戦争が認められるという解釈につながる。現在の政府の見解は、A説→C説、あるいはこれに近いものと考えられる。ただ、この解釈によると、戦力を自衛のための戦力と侵略のための戦力を区別することになるが、これが非常に難しいこととなる(実際、自衛を名目にした侵略戦争が度々行われた)。A説→C説によると、自衛のための戦力を持つことは許されるのであるから、自衛隊も、それが自衛のための戦力に留まる限りにおいて合憲である。

 一方、A説→D説も存在する。憲法学界においては、これが通説であろう。第1項においてまず侵略戦争が否定され、第2項において全ての戦争が否定されると理解するのである。結果としては、後に示すB説→D説と変わらない。

 なお、A説→E説という選択肢も考えられうるが、明示的にこの見解を採る者は、管見の限りでは存在しない。そのため、不明確な部分も残るが、A説→C説とほぼ同じ結論になるのではなかろうか。

 第1項においてB説を採る場合には、B説→C説もありえない訳ではなかろうが、B説→D説というのが通常の選択肢であろう。この考え方によると、第1項において全ての戦争が否定されるのであり、第2項はその確認に過ぎない、ということになる。おそらく、「国際紛争を解決する手段」について法学上の解釈に通じていない者であれば、B説→D説が最も素直な解釈であろう。この説であれば、自衛隊は憲法違反の存在となる(A説→D説も同じ。そして、B説→E説も同様であろう)。

 ここで、自衛権とは「急迫した危害を除去するために必要な行為をする国際法上の権利」であり、国際連合憲章第51条によっても確認されている。必要性、(危害の)違法性、均衡性の三つの要件が必要とされる。日本国憲法も自衛権(但し、個別的な自衛権)まで放棄したのではない、と解するのが通説である。もっとも、自衛権が認められるといっても、具体的にどこまで認められるかは問題である(「戦力」の解釈につながる)。

 学界の通説は、「戦力」を、軍隊、および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊を指すものと解する。軍隊と警察との違いは、目的および内容にあるとされる。この解釈からいけば、自衛隊は違憲である(当初の政府解釈も同様)。

 軍隊の目的は外国に対して国土を防衛することにあり、警察の目的は国内の治安の維持と確保にある、とされる。

 また、軍隊は、人員、編成方法、装備、訓練、予算などの諸点から判断して、外国の攻撃に対して国土を防衛するという目的に相応しい内容を持った実力部隊(名称は無関係)である、という解釈が一般的であると思われる。

 これに対し、現在の政府の公定解釈によれば、自衛権は国家固有の権利であり、憲法第9条によって否定されていない。そして、自衛権を行使するための必要最小限の実力は、憲法第9条によって禁止される「戦力」ではない(だから、自衛隊は合憲であるということになる)。

 これは、他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的な武器は保持できない、ということを意味する。しかし、防衛用の兵器と攻撃用の兵器を分けることは容易であろうか。この疑問は、政府見解が、核兵器の保持については、1957年5月7日の岸信介首相発言、および1978年3月11日の真田法制局長官発言により、憲法上は禁止されていないが政策的に禁止されている(と言うよりも、自己制約をかけていると表現したほうが適切である)と述べられていることから、ますます増大する。原子力基本法第2条は「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として」と規定するが、政策如何で法律を改正して防衛目的にも拡大することが可能になる、ということであるのか。なお、生物・化学兵器(BC兵器)の保持については、1969年7月15日の真田法制局第一局長発言により、憲法上可能とされているが、核兵器の保持と同様の問題点がある。

 また、政府の解釈によれば、急迫不正の侵害があった時にやむを得ない措置として相手国の基地を攻撃することは自衛の範囲に入る。さらに、自衛隊の海外出動については、かつて、憲法上は可能であるが自衛隊法上は不可能というような解釈を採っていた。しかし、いわゆるPKO協力法により、可能になった(武力行使を伴わないことを条件にする。最近では、さらにPKFの凍結解除も検討されている)。また、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を巡り、深刻な意見の対立がある。

 ここで、ガイドラインについて簡単に述べておく。ガイドライン(guideline)は、指針などを意味する言葉であるが、英米法では要綱や基準を、また、日本の政治などにおいては政策の指針や指導目標を意味するものとして用いられる。現在、問題となっているのは、新聞などの報道によって周知のように、日米防衛協力のための指針(およびこれに関連する法案)であり、これをガイドライン(これに関連する法案が、周辺自体措置法案などである)とも言っている。

 日米防衛協力のための指針は、1978年に策定され、1997年9月23日に改められて策定された。このガイドラインそのものは、法律でも条約でもない。1978年に策定された時には閣議決定とされているが、閣議書が作られていないとのことであるから、法的な性格は不明である(敢えて言うならば、政府、とくに防衛庁による計画書ということになるのか)。ガイドラインは、所々で、文章の主語として「日米両国政府」を使っているが、日米安保条約を運用するための具体的な基準とはなりえても、条約として国際法上の効力を与えるものではない。あるいは、国際法としても不明確な性格を与えられているとも言いうる。

 現在のガイドラインは、目的として「平素から並びに日本に対する武力攻撃及び周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、頑固な基礎を構築すること」をあげ、さらに「平素からの及び緊急事態における日米両国の役割並びに協力及び調整の在り方について、一般的な大枠及び方向性を示す」ものとされている。文言は、「米軍の活動に対する日本の支援」、ガイドラインの「運用面における日米協力」などについては、それなりに具体的である。しかし、肝心なところが曖昧である。例えば、「周辺事態は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態である。周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」と定義される。しかし、これだけでは不明確であるし、さらにガイドラインを読み進めても、周辺事態の意味が一向に明確にならない。他に、後方地域支援という用語も、わかりにくいものの例としてあげられよう。

 また、このガイドラインについて、憲法第9条に違反するおそれは勿論、日米安全保障条約との整合性の問題も指摘されている。

 (ガイドラインに関する参考書としては、さしあたり、山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法?いま「平和」の構築への選択を問い直す?』(1999年、法律文化社)をあげておく。なお、この部分は、1999年4月22日1限の講義に関連して、或る学生から受けた「『ガイドライン』とはそもそもどういう意味ですか」という質問への返答を基にしている。)

 この他、自衛隊を合憲とする説にはいくつかのヴァリエーションがある。

 2.自衛隊に関する判例

 ◎恵庭事件(札幌地判昭和42年3月29日下刑集9巻3号359頁)

 北海道恵庭町(現在は恵庭市)にある島松演習場付近に居住する被告人は、爆音などによる乳牛の被害に苦しんでおり、砲撃訓練に抗議したが何の進展もないので演習場の通信回線を切断し、自衛隊法第122条違反に問われた。被告は自衛隊の合憲性を争ったが、裁判所は被告に無罪判決を下して、自衛隊が合憲か違憲かを判断しなかった(憲法判断の回避)。

 ◎長沼ナイキ事件

 北海道長沼町に航空自衛隊のナイキ基地が建設されることになり、農林水産大臣は、森林法に従い、基地建設予定地となっている国有保安林の指定を解除する処分を行った。これに対し、周辺住民が、自衛隊が憲法に違反することなどを理由として、保安林指定解除処分の取消を求めた。

 札幌地判昭和48年9月7日判時712号249頁は自衛隊違憲の判決を下したが、札幌高判昭和51年8月5日行裁例集27巻8号1175頁は、日本流「統治行為論」を用い、一見極めて明白に違憲・違法であるといえない場合には司法審査の範囲外にあるとした。最一小判昭和57年9月9日民集36巻9号1679頁は、自衛隊の問題には触れていない。

 ◎百里基地訴訟最高裁判所判決(最三小判平成元年6月20日民集43巻6号385頁)

 茨城県小川町(現在は小美玉市の一部)に土地を所有するA(本訴原告・反訴被告・被控訴人・被上告人)は、基地反対派の町長B(控訴参加人・上告人)の使用人C(本訴被告・反訴原告・控訴人・上告人)との間で土地の売買契約を締結した。しかし、Aは、売買代金の一部が未払いであり、債務不履行であることを理由として、Cとの契約を解除し、土地を国に売却した。この裁判は、Aおよび国からBおよびCに対する所有権確認などの請求、それに対する反訴請求という形で展開した。

 第一審判決(昭和52年2月17日訟務月報23巻2号255頁)および控訴審判決(東京高判昭和56年7月7日訟務月報27巻10号1862頁)は、Cの請求を棄却した。最高裁判所の判旨は、国が私人と対等の立場で締結する私法上の契約が原則として憲法第9条の直接的な適用を受けず、自衛隊基地建設のための土地売買取引が民法第90条に違反する行為であるという認識が一般的に存在したとは言えない、というものである(憲法の規定の間接的効力という前提)。

 3.日米安全保障条約と憲法第9条との関係

 自衛隊は、日本国の一行政組織であり、さしあたりは国内法の問題である。これに対し、国際法的な問題として、日米安全保障条約の存在がある。同条約の問題として、①憲法違反ではないのか、②日本の施政下にあるアメリカの基地に対して攻撃がなされた場合に、日本が防衛行動をとりうるというが、自衛権行使の三要件が常に満たされうるのか(この場合の決定権は、日本にではなく、アメリカにある)、③国際連合第51条によって認められる自衛権の行使の具体的な意味について、日本とアメリカとの間に見解の相違がある、④「極東」の範囲が明確でない、という点が指摘されている。

 日米安全保障条約に関して正面から判断する判決は、現在のところ一つしかない。

 ◎砂川事件最高裁判所判決(最大判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)

 昭和32年7月8日、東京都砂川町(現在は立川市の一部)にあった立川飛行場内の民有地において測量がなされていた。そこに千名を超える集団が気勢を上げて、滑走路付近の境界柵を破壊した。これが日米安全保障条約(改定前)に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反に問われた。第一審判決(東京地判昭和34年3月30日判時180号2頁)は、日米安全保障条約(改定前)が憲法第9条に違反すると判示したが、検察官側から跳躍上告(刑事訴訟規則第256条以下、刑事訴訟法第406条)がなされた。最高裁判所大法廷は、憲法第9条にいう「戦力」が日本の戦力のことであって外国の戦力のことではないとし、日米安全保障条約は高度の政治性を有するから、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法裁判所の審査にはなじまない、と判示した。

 ここで示された判断の方法を「統治行為論」ということがあるが、厳密に言えば誤っている。

 「統治行為論」とは、高度な政治性を有する事柄が訴訟の対象となったとき、憲法判断が可能であっても憲法判断をしない(してはならない)という考え方のことである。従って、裁判所は、その事案が「一見極めて明白に違憲無効であると認められ」る場合であっても憲法判断をしてはならないのである。

 砂川事件最高裁判所判決の採った手法は「統治行為論」と「裁量行為論」とが混ざり合ったものである。「裁量行為論」の場合には、憲法または法律が(一定の)国家機関に裁量の余地を与え、その機関による裁量行使に逸脱または濫用があった場合にのみ、違法または不当である場合にあたるとして違憲(違法)判断が下される(行政事件訴訟法第30条を参照)。結局、砂川事件最高裁判所判決は、何を言いたいのか?

 純粋な「統治行為論」は、苫部地訴訟最高裁判所判決(最大判昭和35年6月8日民集14巻7号1206頁)においてみられるのみである。

 

 付記:平和的生存権について

 憲法前文は、憲法改正に対して法的な限界を与え、憲法改正権を法的に拘束する。しかし、狭義の裁判規範として、すなわち、その規定を直接の根拠として裁判所に救済を求めることのできる法規範として捉えることはできない、と解すべきである。

 平和的生存権は、憲法前文第2項・第9条・第13条を根拠とする具体的人権として主張されているようである。しかし、私は、平和的生存権を具体的人権として理解する見解に疑問を持っている。

 第一に、権利とは、佐藤功教授が述べるように「実定法規範によって個人に一定の個別的・具体的な内容の利益が認められ、それによって個人が相手方(その利益の実現の義務を負う者)にその実現を要求する力を与えたときに成立」し「その実現が妨げられた場合には裁判によりその実現が保障される」ものでなければならない〈佐藤功『憲法』〔新版〕(上)(1983年)28頁〉。平和的生存権を個人が有する場合、具体的に何を請求し、実現しうる権利であるか。憲法学説を見る限り、この点について満足な解答は与えられていない。判例において認めらないのも当然である。

 第二に、平和という語には、多義性が認められる。J.ガルトゥング以来、平和学においては「消極的平和」と「積極的平和」の両概念が認められている。「消極的平和」とは、単純に言えば戦争のない状態を意味するのであるが、戦争や内乱の原因が存在しない状態ではない(貧困、差別などは存在する)。「積極的平和」とは、単に戦争のない状態なのではなく、貧困や差別などの「構造的暴力」のない状態を意味する。平和的生存権が主張される場合、どちらの平和が念頭に置かれているのか。なお、法律学においてもこの両者は知られているが、「積極的平和」を法律学に導入することに成功した例は存在しないようである。

 なお、ここで小嶋和司『憲法概説』(2004年復刻版、信山社)45頁を引用しておきたい。博士は、この「われら」が日本国民を指すとした上で、次のように述べられている。

 「この文章(引用者注:憲法前文第2段)は、日本国民が国際社会に対して、その国家行為のあり方についての覚悟を宣言するものである。したがって、『われら』が『全国民の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利』を確認するとは、戦争が他の『全世界の国民』の生活を恐怖と欠乏に陥れることを認識して、それをしないことの宣言で、ここにいう『全世界の国民』(all people of the world)の主役と考えられているのは、他の国の国民ではあっても、『われら』ではない。しかるに、学説には、日本の個々的私人もまた『全世界の国民』の中の一人であり、前文のこの部分は、それに具体的効果をもつ『平和的生存権』を保障すると説くものがある。この宣言が外国の国民に対し具体的請求権まで『確認』するとは考えがたいが、日本国民にそれ以上の請求権を保障するとなす解釈は、文理や法理を無視している。」

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憲法ノート:日本国憲法制定までの過程/憲法改正

2014年08月19日 00時45分31秒 | 法律学

 私は、大分大学教育福祉科学部講師であった2000(平成12)年の6月3日に、現在の川崎高津公法研究室(当時は「大分発法制・行財政研究」。「高島平発法制・行財政研究」を経て現在の名称へ)というサイトを立ち上げました。行政法を専攻分野としてきた私ですが、サイトを作った理由の一つは憲法でした。大分大学在職中の7年間は憲法の講義を担当しており、その便宜を図ることが目的の一つであったのです。

 以上のことから、開始以来、2009年2月10日まで「日本国憲法ノート」〔第5版〕を掲載していました(第4版までは「『日本国憲法』講義ノート」)。現在も休止中としていますが、解除するかどうかはまだ決めていません。

 勿論、行政法であれ租税法であれ、憲法と無関係ではありえません。そればかりか、ここ数年、憲法をめぐる情勢が急速に変化してきています。そこで、今日は「日本国憲法ノート」の第2回「日本国憲法制定までの過程」を復活掲載することとします。なお、若干の修正を加えたものの、内容の基本線が2007(平成19)年5月17日のものであることをお断りしておくことといたしましょう。

 ★★★★★★

 1.大日本帝国憲法の制定、特徴

 大日本帝国憲法の制定過程などについては、既に、高等学校までの段階において社会科(とくに日本史)において扱われている。また、憲法学の教科書などにおいても検討が加えられている。そこで、このノートにおいては省略し、1889(明治22)年2月11日に公布され、1890(明治23)年11月29日から施行されたことだけを記しておく。

 大日本帝国憲法も、一応は立憲主義的憲法である。しかし、次の諸点において、立憲主義的憲法としては極めて不十分なものであった。

 a.「臣民」の権利・自由は天皇によって与えられたものにすぎず、しかも「法律ノ範囲内」などの用語に見られるように「法律の留保」の下において認められたにすぎない。

 ここにいう「法律の留保」には注意が必要である。行政法学において、法律の留保とは、行政が何らかの活動を行う際に、その活動を行う権限が法律によって行政機関に授権されていなければならない(すなわち、与えられていなければならない)という原理をいう。従って、元来、少なくとも、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課するような活動を、法律の根拠なくして行政権が単独でなすことは許されない、ということを意味する(「行政法講義ノート」〔第5版〕の第04回を参照)。しかし、これを逆手に取るならば、法律さえあればいかなる権利や自由を制約してもよい、という意味になりうる。大日本帝国憲法が施行されていた時代に、「法律の留保」は、元来の意味から逆手に取られた意味に変質していった。

 b.権力分立の原則が採られていたとは言え、これも不完全であった。立法・行政・司法とも天皇を「翼賛」するにすぎなかったのである。

 c.衆議院と貴族院は対等であった。このため、非民主主義的に構成される貴族院によって、多少とも人権保障に寄与しうる法律案などが容易に否定されえた。そればかりでなく、議会の権限は非常に弱かった。

 d.内閣制度は憲法上の制度ではなく、各国務大臣は天皇に対して責任を負うのみであり、内閣の(議会に対する)連帯責任は存在しなかった。

 e.そもそも、天皇は神聖不可侵であり、国の元首であって、統治権を掌握・統括する権限を有していた(つまり、主権を有していたことになる)。とくに、皇室の事務に関する大権、栄典の授与に関する大権、軍の統帥に関する大権は、一般国務から独立していた。また、皇室典範が憲法とは独立して存在し、両者が同等の関係にあったことも見逃せない。

 天皇の地位は、皇祖天照大神が皇孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を「葦原千五百秋瑞穂国」(あしはらのちいほあきのみずほのくに)に降臨せしめた際に賜ったという勅語(『日本書紀』)を根拠にしていた。

 2.ポツダム宣言

 これは、軍国主義の除去(およびそのための手段)、民主主義的傾向の復活ないし強化、言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重を確立することを、日本に対して求めるものであった。そして、これらの目的が達成され、しかも日本国民が自由に表明する意志に従って平和的な傾向を有する、責任ある政府が日本にできることを、占領の解除条件とした。この宣言が大日本帝国憲法の終焉を直接的に招いたか否かについては議論の余地があるが、この宣言は、大日本帝国憲法の完全な存続を許すものではなかったと言いうる。

 3.マッカーサー・ノートなど

 1945(昭和20年)10月頃から、大日本帝国憲法改正の動きが見られる。1946(昭和21)年1月末までには、憲法問題調査委員会(松本委員会)が審議の末に三案を成立させた。しかし、この案は保守的であったために総司令部の失望を招く。そして、総司令部自身が憲法改正案を作成した。その基礎は、マッカーサー・ノートおよびSWNCC-228にあり、この改正案が日本国憲法改正案の基となって、大日本帝国憲法第73条による改正として第90帝国議会に提出された。1946年11月3日に公布、1947(昭和22)年5月3日に施行された。

 マッカーサー・ノートの概要は、次の通りである。概要は次の通りである。①天皇は元首であり、皇位は世襲である。天皇の職務および職能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところによって国民の基本的意思に対して責任を負う。②戦争を放棄し、そのための手段をも放棄する。③華族制度の廃止。予算の型は、イギリスの制度に倣う。

 また、SWNCC-228とは、国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書228号のことである。1946年1月11日に総司令部に送付されたもので、「日本統治制度の改革」という題であった。

 4.日本国憲法は大日本帝国憲法第73条によって改正された?

 日本国憲法は、大日本帝国憲法第73条に定められた改正手続により成立した。

 しかし、大日本帝国憲法と日本国憲法との間には、無視できない断絶がある。

 a.手続上は上記の通りで、日本国憲法は大日本帝国憲法と同じく、欽定憲法である。

 b.しかし、大日本帝国憲法は、主権が天皇に存することを示している(主権という語は使われていないが、第一章を見れば明らかである)。これに対し、日本国憲法は、前文第1項において、国民主権原則を採用する民定憲法であることを明示する。

 c.憲法改正に限界がないとする説を採るならば別であるが、主権の担い手が変化したのに、この点を単純に「改正」によって処理するのは、理論的にはおかしい。

 カール・シュミット(Carl Schmitt)によれば、 憲法改正は厳格に解されなければならず、用語として、次のように区別されなければならない。

 憲法改正(Verfassungsänderung)とは「従来通用していたVerfassungsgesetzeの条文の変更。これには、個々のVerfassungsgesetze上の規定の排除、および個々の新たなVerfassungsgesetze的命令(Anordnung)の受け入れをも含む」。

 これに対し、憲法廃棄(Verfassungsvernichtung)とは「既存の憲法の根底にある憲法制定権力の同時的排除の下での、既存の憲法(一つまたはそれ以上のVerfassungsgesetzeのみではない)の排除」をいう。

 また、憲法廃止(Verfassungsbeseitigung)とは「既存の憲法の排除であるが、憲法の根底にある憲法制定権力の維持の下に行われる」として、憲法改正から区別される。

 [以上、Carl Schmitt, Verfassungslehre, 1. Auflage, 1928, 8. Auflage, 1993, S. 99ff.〔邦訳書は、阿部照哉=村上義弘訳『憲法論』(1974年、みすず書房)126頁〕による。但し、VerfassungとVerfassungsgesetzeについて適切な訳語を見い出すことができなかったので、原語をそのまま使用している。]

 このように考えるならば、理論的には、大日本帝国憲法から日本国憲法へ「改正」されたと言うには無理がある。そこで、これを円滑に説明するための試みとして「八月革命説」が提唱された。宮澤俊義博士によると、ポツダム宣言が国民主権主義を採ることを要求しているから、宣言受諾の時点で一種の革命があったことになる(但し、この革命によって大日本帝国憲法が廃止されたという訳ではない)。大日本帝国憲法第73条は、便宜的に用いられたにすぎないこととなる。このような説明に対し、佐藤幸治教授は、ポツダム宣言が国民主権主義を採ることを要求したか否かについては疑問の余地があり、そうであったとしても、宣言の受諾は国際法上の問題であって国内法の変化を誘発したとみるにはかなりの困難がある、しかも占領軍の下でも大日本帝国憲法が施行されていたことを説明するのが難しい、などの理由をあげ、八月革命説を否定する。

 (佐藤幸治『憲法』〔第三版〕を参照したのですが、頁がわからなくなりました。判明次第、ここに補充します。)

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