ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2007年9月4日、日田市を歩く(6)

2014年03月31日 00時00分58秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 

 (以下は、第247回として2008年1月15日に掲載したもので、一部を修正しました。)

 花月川は、自宅にある地図をみると、三隅川(筑後川)の支流であり、サテライト日田建設予定地の近くを流れています。光岡駅の南側に流れる川もそうです。さらに遡ると源流に行ける訳ですが、地図で見る限りは日田市の東部、中津市(旧山国町の部分)に近い場所のようです。

 コミュニティバスのバス停が公園にあり、この公園の名前がわかりました。

 右側に「御幸橋」とあるのは、次のバス停の名前でもあり、一新橋の次の橋(下流に向かって)の名前でもあります。小さな字で読みにくいのですが、時刻表を見ても、非常に本数が少ないことがわかります。かなり道幅が狭いので、相当な小型のバスではないでしょうか。そうすると、一日に何人のお客を運べるのか、 少々疑問も湧いてきます。私がこのあたりを歩いている時、ついにバスを見ることはできずに終わりました。

 バス停から少し離れて右側、クンチョウ酒造の建物に沿うようにして、上の絵図が掲げられています。

 このあたりは、たしかに大分県の中でも特別な味わいがあります。大分市に住んでいる時に、もっと日田の街並みを歩けばよかった、と思ってはいるのですが、大分市から90キロメートル以上も離れており、公共交通機関で行くとなるとごく僅かな本数の特急列車くらいしか利用しうるものがないので、やはり二の足を踏みました。自家用車で行くにしても、大分自動車道の通行料金などを考えると、そうそう何度も行けるものではない、ということになりかねなかったのでした。しかも、このあたりは少しばかり車で走りにくいところでもあります。もし、私がサテライト日田問題に取り組んでいなければ、日田市の中心部に行く機会はほとんどなかったかもしれ ません。

 集中講義の中休みの日を使えば、日田には行けます。しかし、2004年は天候に恵まれず、2005年は大分大学時代のゼミの卒業生たちと会ったこともあって日田に行く時間がなく、2006年は日田に行く計画を立てていたのですが体調が悪かったので柳川市で止めておきました(日本税法学会九州北部支部の研究会に参加したことも理由としてあげられますが、次の日に行こうと思えば行けました)。それで、ようやく、2007年に行くことができたのでした。ただ、8月の福岡大学での集中講義の時期には時間的な余裕が全くなかったので、9月の西南学院大学での集中講義初日の前の日に行きました。

 集中講義と言えば、2008年も西南学院大学で担当させていただきました。その時に、また日田に行こうか、などと考えていました(実際には行かなかったのですが)。

 2012年までに私のホームページを御覧いただいた方は「森稔樹と言えば九州での集中講義」などというイマージュをお持ちであったかもしれません。たしかにそのように思われても仕方がないですし、実のところ、福岡での集中講義を楽しみにしているところがあります。しかし、私が集中講義を担当し始めたのは2003年、熊本県立大学総合管理学部の「財政法」であり、大学の教員としての生活を始めてから6年後、大分大学教育福祉科学部助教授2年目にして最後の年度のことなのです。そもそも、私は、大学院生時代に非常勤講師を務めた経験がなく、さらに大分大学に就職してからの3年間、非常勤講師を務めたことがなかったのです。

一新橋です。右側が豆田、左側は丸山で、月隈公園のほうに行けます。川に沿って進むと慈眼寺公園に行けます。

 再び、豆田の通りです。南に向かっているところを写しています。車道の真ん中を歩いていますが、そんなことができるのもこのような街並みであるからです。私の幼少時から小学生時代にかけてであれば、このような道で遊んでいる子どもはたくさんいたものでした。

 旅館がありました。これを見て思い出したのですが、もう20年近く、こうした造りの旅館に宿泊したことがありません(大学のゼミ合宿というような、我々にとっての公用の場合を除きます。もっとも、大分大学時代の合宿はホテルのようなところばかりでしたし、大東文化大学ではゼミ合宿を一回しか行っておらず、その一回は黒磯付近の貸別荘に宿泊しました)。出張の際はビジネスホテルに泊まることが多いのです。今回も、福岡市内某所のビジネスホテルに宿泊していました。

 この旅館は伯亭若の屋といい、明治初期に創業したそうです。皇族の方々をはじめ、川端康成、日野葦平、大佛次郎などの文人も利用したことがある、と言います。やはり、一度はこういうところに宿泊したいものです(ただ、食事の量が問題です。食べきれないほどにたくさんの料理を出すところもありますが、そういうのが苦手です)。

 今では珍しくなりつつあるホーローの看板です。かなり朽ちてはいますが、字は十分に判読可能です。木の壁にはピッタリです。

 1970年代までは、ホーローの看板が川崎市でも至るところにありました。ボンカレー、オロナミンC(何故か巨人の星、または天才バカボンの漫画も描かれていました)、オロナインH軟膏、アース製薬の蚊取り線香、どこかの布団屋さん、などの広告が中心です。東急溝の口駅から少し離れた菓子屋さん(現在はコンビニエンスストア)には、幻 (しかも「超」が付くほど)の清涼飲料であるミスタービブ(もう一度飲んでみたいのですが、ほんの数年で消えてしまいました)の看板がありました。これまた幻のスナック菓子であるトレッカの看板は、川崎市内でも所々で見られました。写真にあるように、どこかの民家の木の壁にホーローの看板が貼られていたりしたものです。

 しかし、1980年代にこういう看板が急激に減少しました。今では見かけることのほうが珍しいくらいです。 それでも、農村部の街道筋のようなところでは時折見かけますし、私が知っている限りでは小平市にある西武多摩湖線の一橋学園駅の近くでも見られます。

再び豆田の通りです。

 上町通りというバス停です。先ほどのホーローの看板も見えます。ここでバスを待ち、日田駅のほうへ出ようと思っています。まだ十分に歩けますが、別の街へ行き、歩き回りたいと考えていましたので、暑い中で体力を温存するという意味で、バスに乗ることにしました。

 日田市には日田バス(西鉄系)の路線もあるのですが、この豆田のあたりは大分交通系の大交北部バスが通っています。以前は中津観光バス(これも大分交通系)のバスでした。日田から守実温泉までのバス路線があります。以前は日田バスセンターから中津駅までのバス路線がありましたが、今はどうでしょうか。

 大分交通系の路線バスに乗るのは何年ぶりか、というところです。大分交通と言えば、大分空港から大分駅までの特急バスにばかり乗っていて、普通の路線バスを利用したことはあまりありません。私が住んでいた大字宮崎は、大分交通系ではなく、大分バスの路線エリアでした。

 それにしても、京浜地区(東京都23区地域、川崎市、横浜市)のバス停は親切です。たいてい、料金が掲示されています(少なくとも、都営バス、東急バス、川崎市バス、横浜市バスはそうです)。京浜地区は、大部分が均一料金ですが、バス停に170円(都営バスの学バス)、180円(新宿駅から都庁までのシャトルバス)、200円(都営バス、川崎市内のバス)または210円(東京都23区内の民営バス、横浜市内のバス)、などと表示されています。また、路線図などが書かれているバス停も多いのです。横浜市都筑区の東急バスのバス停には、終点までの全てのバス停が案内として表示されているところもあります。運転区間の距離から考えると料金は高いのですが、整理券を取る必要がないのもありがたい話です。京浜地区で生まれ育ったので、今も整理券方式が苦手です。そのためか、整理券方式が乗客のサービスなのか、疑ってしまいます。

 九州地方のバス停も様々ですが、概して大分県内のバス停は不案内です。京浜地区以外の大部分の地域では区間制料金のはずですが、一体いくらくらいかかるのか、バスに乗って目的のバス停で降りてみるまでわかりません。このバス停から出るバスがどのようなところを通るのかについても、ほとんど案内らしい案内がないのです(バスセンターのような場所は別ですが)。これでは乗る気もしません。何処を通るかもわからなければ、いくら払うことになるのかもわからないのですから。公共交通機関の衰退の原因の一つが、この不案内なバス停にあるような気がしてなりません。国鉄の末期のように、衰退するには衰退するだけの理由があるということでしょう。

 またまた豆田の通りです。時折、固まっているかのように何台かの車が通り、場合によっては離合のようなことをやっています。 小型の乗用車であれば、充分に余裕を持って通ることができるはずですが、それでも離合のようなことをやっています。私を含めて、自動車の運転技術が低下しているのかもしれません。今の乗用車の大部分はドアミラーですが、1970年代までは一般的だったフェンダーミラーであれば、わざわざ離合のようなことをやらなくともらくらくと通行できるでしょう。

 バス停で待っていたら、こんな虫が止まっていました。胴体は緑色、羽は黒色という、おそらくはトンボの一種ではないかと思うのですが、よくわかりません。御教示いただける方がおられるならば幸いです。

 トンボと言えば、京浜地区ではすっかり見かけなくなりました。しかし、九州では、たとえば福岡市中央区の街中でも飛んでいるのを見かけることがあります。さすがに天神では見かけないのですが、天神から少し離れた所、たとえば薬院駅周辺では見かけます。私が薬院駅周辺を歩いていた時には、駅の近くを流れる川の付近で赤トンボが何匹も飛び回っていました。大分市でも、とくに大分川の河原では群がるように飛んでいることがあります。

 それにしても、こんなところでこんな独特の美しさのトンボにお目にかかるとは。記憶に誤りがなければ、この時まで見たことがなかった種類のものでした。

 

(完/Ende/Fin)

 

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2007年9月4日、日田市を歩く(5)

2014年03月30日 01時19分03秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 

 (以下は、第246回として2008年1月7日に掲載したもので、一部を修正しました。)

 この辺りを歩いていると、何故か、遠くへ行った、あるいは遠くからやって来たという感じがしません。近所を歩いているかのような、あるいは東京の何処かを歩いているかのような感覚に包まれます。

 街道筋など、歴史を感じさせる街は、歩いているだけでも楽しいものです。とくに九州は、古代からの歴史の重みなどを感じさせる場所が多いのですが、そのような点で、私が大分市に住んでいた頃から大分県内でとくに好んでいた場所が、宇佐市の宇佐神宮、そして日田市の豆田界隈です。

 「天領まちの駅」という施設です。よく、国道に「道の駅」という施設がありますが、それと似ており、休憩所あるいは土産物屋というところでしょうか。

 駅というので思い出したのですが、実は、この豆田のあたりには軽便鉄道が通っていました。筑後軌道といい、久留米市からこの豆田あたりまでの路線でした。50キロメートルを超えますから、軽便鉄道としてはかなり長い距離であると言えます。久留米市付近では小さな電車も走っていたそうですが、現在の朝倉市や日田市では蒸気機関車が走っていたようです。残念ながら、昭和初期に、久大本線の開業と引き換えに廃止されています。

 現在でも日田市の三隅川、夜明付近には橋梁の痕跡があるそうですが、この豆田には軽便鉄道の駅の痕跡は見当たりません。

 ここはお寺だったでしょうか。ちょうど、修繕か改築の作業をしているところでした。片手に案内用の地図を持って歩いている訳ではないので、よくわかりません。首からデジタルカメラをぶら下げて、デイバッグを背負いながら歩いているのです。

 豆田町を北のほうに歩いていきます。北端のほうに川が流れています。花月川です。その川に近づくと、このように、このあたりでもとくに風情のある建物があります。橋に向かうために上り勾配になっていて、そこに、南北に長い壁と屋根が見えます。大きさからして、個人の建物ではなく、昔からの商売屋さんの建物だと思われるのですが、何の建物なのでしょうか。

 造り酒屋の建物でした。クンチョウ酒造です。ここには酒蔵資料館もあります(ちなみに、この時は入っていません)。ここからでも、酒樽が見えます。

 現在の社名はカタカナで書くのが正式であるようですが、主要な製品である薫長は、同じ読み方ですが漢字で記します。大分県には、日本酒(清酒)の酒蔵があまり存在していないと記憶していますが、ここはその酒蔵の一つです。

 但し、日本酒については、あまり詳しいことを知りません。実は、私は日本人なのに日本酒、とくに清酒が苦手であり、ほとんど飲まない、というより飲めないのです(屠蘇も飲めません)。大分市に住んでいた頃には、それこそ焼酎はよく飲んでいましたし、宮崎県と鹿児島県を車で走り回った時には車のトランクが焼酎だらけになり、当時の自宅に帰ってから処理が大変だったほどでしたが、日本酒は全くダメでして、そのために全く味も何もわかりません。従って、残念ながら薫長を飲んだこともありません。日本酒を好むのであれば、酒蔵資料館に入って試飲くらいはしたいと思うのでしょう。ただ、私は、昼間から酒を飲むようなことはしませんが。

 江戸時代中期から後期に建てられた酒蔵資料館です。おそらく、徐々に建て増したか、再建をしたか、ということなのでしょう。その後も、現在まで補修などを何度も重ねているはずです。

 昨年買った電子辞書で調べてみると、元禄は東山天皇の時の年号で、1688年9月30日から1704年3月13日まで、安永は後桃園天皇および光格天皇の時の年号で1772年11月16日から1781年4月2日まで、文政は仁孝天皇の時の年号で、1818年4月22日から1830年12月10日まで、安政は孝明天皇の時の年号で、1854年11月27日から1860年3月18日まで、とのことです。

 (私は1968年生まれなので、当然、日本史で歴代の天皇と在位期間、元号などを暗記するというような教育を受けていないのですが、必要な場合もあるものです。)

 よく考えてみると、九州では日本酒の銘柄が少ないはずです。記憶に誤りがなければ、宮崎県と鹿児島県には日本酒を醸造しているところはないはずです。気温の関係だという話を聞いたことがあります。大分県や熊本県は、日本酒醸造の南限ということになるのでしょう。

入口の南側に、酒林または杉玉の由来に関する案内板があります。下のほうは草に隠されていて読みにくいのですが、御覧下さい。

 その杉玉が上の写真に登場する球です。酒屋の看板として掲げられているとのことですが、私はあまり見たことがありません。おそらく、造り酒屋などに目を留めるようなことがなかったからでしょう。それに、京都で某有名日本酒醸造メーカーのそばを通ったことがあるのですが、それは酒蔵というよりは大規模な工場で、どこかの製鉄所か化学工場かというような施設でした。

 花月川に橋があります。ここで豆田は終わりとなり、橋を渡ると別の町となります。大分交通系のバスが、この橋を超え、現在は中津市の一部となっている山国町の守実温泉まで走って行きます。以前は、さらに耶馬渓を経由して中津駅前までのバスが通っていましたが、現在も走っているのでしょうか。

少々読みにくい字体ですが、一新橋という名前の橋です。

 私は、この日、福岡の天神バスセンターから特急バスに乗って田川後藤寺に出て、田川後藤寺から日田彦山線のキハ125形単行に乗って日田に出てきたのでした。途中、宝珠山駅を通ります。この駅を単行が発車した途端に、福岡県を出て大分県に入ります。およそ2年9ヶ月ぶりの大分県、そしておよそ4年ぶりの日田市です。

 それから何時間か経ち、花月川のほとりに立っています。奥に見える山々の近くを通って、大分県に入ってきたのです。久大本線は左側のほうを走っているはずです。大分市に住んでいた頃には、大分自動車道を使ってここまでやってきたことも何度かあります。大分自動車道は右側のほうを通り、山を超えて萩尾から杷木、甘木、鳥栖のほうへ抜けます。

 日田市は大分県内にありますが、大分市に出るよりも福岡市に出るほうが楽です。近いですし、日田バスセンターからですと福岡県方面に走るバスばかりが出ています。列車も同様で、由布院・大分方面よりも久留米・博多方面に向かう列車の本数のほうが多いのです。

 先ほどのクンチョウ酒造の北側に、公園のようになっている一角があります。こじんまりとしていますが、庭園のようで、なかなか趣向が凝らされているとも言えます。歩き疲れたら、こんな場所で一服するのもよいでしょう。私が歩いている時には、人がほとんどいなかったのですが、これは平日の昼間であるからでしょう。

 この公園の中に、コミュニティバスの停留所であることを示す標識と時刻表があります。本数は極めて少ないですし、日田駅からであれば、バスを待っているより歩いたほうが速いでしょう。これではコミュニティバスの意味があまりないのですが、全国的に見てもそれが現実のようです。

 コミュニティバスと言えば、私は渋谷区と東松山市のバスに乗ったことがあります。渋谷区のコミュニティバス(ハチ公バス)は、比較的本数が多いほうですが、それでも1時間に2本くらいであり、一方向にしか行かない路線なので、100円と安いとはいえ使いにくいものです(おまけにバス共通カードもパスモも使えません)。東松山市のほうは、2006年6月7日、東松山市きらめき市民大学での講義を行うために利用したのですが、1日にわずか5本ほどで、おまけに定刻になってもバスが来ないのです。道路が渋滞していないことは明らかで、運転士同士の私語という、非常に許し難い愚かな理由によって遅延したのです。これでは使い物にならないので、翌年の講義の際には私が愛車を運転して行きました。

 日田市のコミュニティバスも、少なくとも観光客にはわかりにくい存在です。地元の人々にさえわかればよいのでしょうが、果たして、どれだけの人が利用しているのでしょうか。友田地区にも路線があるようですが、やはり本数は少ないようです。通勤や通学には使えないでしょう。何かの本で読んだのですが、新潟交通電車線廃止後の月潟村あたりのコミュニティバスは1日3本しかないという話です。老人が病院に行くために利用するとしても、この本数では使えないのではないでしょうか。

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2007年9月4日、日田市を歩く(4)

2014年03月29日 08時50分07秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 

 (以下は、第241回として2007年12月6日に掲載したもので、一部を修正しました。)

 かつて岩田屋日田店があり、現在はマンションが建っている交差点を左折して北へ進路をとり、久大本線の下を潜り抜けます。すぐに咸宜小学校に出ます。そこに交差点があり、右へ曲がると日田市役所のある田島本町などに出ますが、直進すれば豆田に行けます。そして、その交差点が淡窓町の入口でもあります。

 この町名は、日田市出身の儒学者で咸宜園を開いた広瀬淡窓(1782~1856)に由来します。広瀬淡窓は、大村益次郎(1825~1869)や高野長英(1804~1850)の師でもあった人です。日田市は、旧国名で言えば豊後にありますが、かつて、中心部は天領(江戸幕府の直轄地)でして、九州の金融の中心地ともなったところですので、学問なども相当に発展していたのでしょう。

 日田の淡窓町、豆田と言えば、以前、この「待合室」でも取り上げたことがあります。同じような写真を掲載してしまうのですが、仕方のないところです。上の、「中城町  祗園山鉾」も、以前に取り上げたことがあります。 考えてみると、日田市を訪れるのは4年ぶりだったのですが、淡窓町から豆田までを歩いたのは2002年8月19日以来、およそ5年ぶりのことでした。

 このあたりを歩いていると、私が何処を歩いているのかを厳密に知る必要がない、ということに気付きます。町名標識もそれほど多くありませんし、何処までが淡窓町で何処からが豆田なのか、その境目などが明示されていないからでもありますが、このような感じの通り、建物がしばらく続くからでもあります。

 それにしても、上の写真を見ていて、改めて、道路の幅のことを考えてしまいます。手前のほうは少し広いのですが、奥へ進むと少しばかり狭くなっています。道の左側は真直ぐのようですが、右側が曲がっています。土地の所有権など、様々な問題があるでしょう。近所で道路の幅などについてのトラブルを体験しているだけに、しかも土地の面積が測量屋によって変わることがあるということを知っているだけに、「市などとのトラブルはないのかな?」などと想像してしまいます。

 淡窓町、豆田の通りは、小型車であれば何とか対面通行ができるものの、大型車などでは離合が困難なほどに狭い道路です。ここには大分交通グループのバス路線もあります。通り過ぎるバスを見ると、車種などはわかりませんが路線バスとしては中型くらいのものでした。渋谷あたりで言えば、新橋駅や六本木ヒルズなどへ向かう都営バスの大きさではなく、目黒不動尊経由五反田行の東急バスの大きさくらいでしょうか。そのくらいでないと、この道路を抜けるのは難しいでしょう。さらに適切な大きさはハチ公バスでしょうが、これでは輸送人員が少なすぎます。

 しかし、考えてみると、人が通る道路、とくに商店街であればこの程度でよい訳です。むしろ、淡窓町から豆田にかけては大分県西部きっての観光地でもありますから、曜日などによっては交通規制をしたほうがよいのではないかと思われます。路線バスを通さないわけには行かないので、路線バスと地元の商用車だけは通行を許可する、というようにしたほうが、観光客にとっては安全でしょう。こんな道路でスピードを出されたらたまりません。

 写真館、八百屋のあたりを通ります。奥のほうに大分銀行の支店があります。この街並みに合わせた建物の姿です。マンションなどの高層化に疑念を抱き続けている私としては、街、建物は2階建てか3階建てが最も望ましいと思うのです。圧迫感などがありませんし、日もよくあたりますし、適度に風を通してくれます。西新宿を歩いていると、超高層ビルばかりのために何処から何処へ吹いているのかわからないような強風や突風に悩まされることがあります。傘が風で壊れたこともあります。そして、地震や火事などが生じたらたまらないだろうと思うのです。医学的なことなどはよくわかりませんが、おそらく、超高層ビル、超高層マンションは、人間の精神面、心理面にもかなり悪い影響を及ぼしうるものではないでしょうか。

 上の写真を見る度に、そして、実際に歩く度に、日田市の淡窓街から豆田までの雰囲気は、川崎市高津区の溝口(みぞのくち)から二子(ふたご)までの旧大山街道(とくに、高津交差点から北のほう)と似ています。5年前に歩いた時は、一瞬、私が日田市を歩いているのではなく、川崎に帰って旧大山街道を歩いているかのような錯覚に囚われました。道路の幅は旧大山街道のほうが広いし、自動車や自転車の通行量も旧大山街道のほうが多いですが、建物の外観などが似ているのです。日田市のほうは天領の中心、旧大山街道のほうは宿場町、出自は違いますが、歴史に彩られている点など、共通している部分もあるのです。旧大山街道のほうで残念なのは、高い建築物が増えていることであり、せっかくの風景や景観が台無しになりつつあります。また、旧家の建物なども減ってしまいました。

 豆田上町にたどり着きました。日田市には、駅前など、所々に上の写真のような町名表示(?)があります。

 淡窓町からはのんびりと歩いています。このあたりは盆地ですし、30℃を超える9月上旬なのでかなり暑いはずなのですが、東京に比べればさわやかなものです。汗をかいても、むしろ心地よさを感じます。

斜めから写していますので、何屋さんなのかはわかりません。

 こちらも、建築されてからかなりの年数が経っていると思われる日本建築です。お土産屋さんです。日田に限らず、各地で見られるような造りではあります。そういえば、5年前、このようなお店で古本を買ったことがありましたが、その店がこの通りのどこにあったかはわからないままに終わりました。 それにしても、ゆっくりと歩ける、少しばかり昔に戻ったような雰囲気の街はよいものです。上の写真では、いかにもという感じの旧家があり、隅のほうにコカ・コーラの自動販売機があるという、或る意味で昭和時代の日本らしい、少しばかりの懐かしさを思い出せる風景を捉えたものになりました。

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2007年9月4日、日田市を歩く(3)

2014年03月28日 00時06分21秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 

 (以下は、第230回として2007年9月27日に掲載したものです。)

 元サテライト日田予定地を訪れてから、とりあえず日田駅のほうに戻ろうと思い、東のほうに向かって歩きました。バス停があることは知っていましたので、そこまで歩き、バスに乗ろうと思ったのです。日田市の友田地区には想夫恋(そうふれん)という焼きそば屋の本社があり、そのそばにバス停があるのです。そう言えば、想夫恋の支店は大分市の羽屋地区(上田町の近く)にあり、さらに東京の渋谷にもあったと聞いたことがありますが、今はどうなのでしょうか。

 バス停に着いて時刻表を確認したのですが、日田バスセンターまで行くバスに乗るためには、あと3時間以上も待たなければなりません。その1本しかないのです。福岡市の天神、北九州市の小倉、大分駅、さらに東京の渋谷や新宿のような場所であれば、1時間や2時間は待てますが、ここは日田市の友田地区です。周囲に時間をつぶせるようなところはあまりありません。元々、長い待ち時間や、行列の中に並ぶことをあまり好まない私にとって、そんな場所での3時間以上の待ち時間はつらいのです。

 一方、日田駅までは3キロメートルほどありますが、ほとんど平らで、しかも直線コースですから、十分に歩ける距離です。東京都内、福岡市内などであれば、このくらいの距離は歩いてしまうものです。たいして時間はかからないであろうと思い、歩いてみることとしました。ただ、曇ってきて、雨が降りそうです。

 国道386号線を歩き続けます。こんな案内板があります。日田温泉は、日田駅から近い三隅川(筑後川のことですが、日田市では三隅川と呼ばれます)の沿いにあり、平成の大合併の前から日田市の地域ですが、フィッシングパークと鯛生金山は旧中津江村の領域にあります(フィッシングパークについては自信がありませんが)。合併により、日田市の面積も非常に広大になりました。旧上津江村の地域までであれば、ここから50キロメートル以上離れているはずです。熊本県阿蘇郡小国町の地域にも届きます。旧中津江村から日田市の中心部まで車を走らせたことがありますが、それほど幅の広くない一般道路で、その時には2時間近くかかったはずです。このあたりから鯛生金山までの道のりは、東海道本線で東京から戸塚までの営業キロとほぼ同じなのです。時間がかかった訳です。

 顔に僅かな水滴がぶつかります。雨が降ってきたのです。もっとも、まだ傘をささなければならないほどの量ではありません。しばらく行くと、今度は小鹿田(おんた)や豆田町への案内標識があります。小鹿田、豆田町のいずれも、この「待合室」で取り上げました。小鹿田は焼物の里、豆田町はかつての天領時代の街並みを今に残す所です。日田市から小鹿田への入口、現在は中津市となっている旧山国町の守実温泉、耶馬渓を経由して中津駅まで走るバス路線がありますが、本数が少ないため、小鹿田には行きづらいでしょう(日田彦山線の大鶴駅か今山駅から歩いて行けるかもしれませんが、道路事情がよくなく、道筋も非常にわかりにくいので、一度車を走らせたことがある私はお勧めいたしません)。一方、豆田町は、日田駅の北側から淡窓を経由して歩いて行けます。ここまで歩いたので、どうせのことだから淡窓や豆田まで歩いてしまおうと思います。

 玉川町の交差点を抜け、さらに歩き続けます。しばらくして三叉路を直進し、日田駅前までの商店街を通ります。三本松二丁目の交差点そばに、白い壁の、どのようにしてもスーパーマーケットにしか見えない建物がありました。

 この建物には見覚えがありました。日田市だけでなく、大分市、佐伯市、中津市などで何度も見ている色と形の建物です。「もしや、寿屋の跡では?」と思ったのですが、現在は違う店舗が入っています。壁を見ていてもわかりませんから、空を見上げます。すると、写真の通り、やはりかつての寿屋でした。マークと文字は消されているはずなのですが、跡がはっきり残っています。

 寿屋は、大分県の佐伯市を発祥の地とし、後には熊本市を本拠地としたスーパーマーケットでした。熊本県や大分県などに多くの店舗を構えていたのですが、今世紀に入ってからまもなく、経営が破綻し、全ての店舗が閉鎖されました。その後、別の資本系列の店舗になった所などもありましたが、譲渡先がなかなか決まらず、閉鎖状態が続き、建物の傷みが進んだという店舗もありました。果たして、佐伯市大手前の寿屋の建物はどうなったのでしょうか。

 寿屋の建物に現在入っている店舗です。木に隠されていますが「黒潮市場」という看板が見えます。また、100円均一ショップのダイソーも入っています。建物の中に入っていないので、どのくらいの客入りなのかはよくわかりません。

 実は、4年ぶりに日田市に行き、一番驚いたのが高層マンションの存在でした。福岡市内であれば、このくらいの規模のマンションは当たり前のように存在しますし、首都圏ではもはや高層マンションと言わないかもしれません。しかし、日田市では、ホテルなどでなければ、これほど大きな建物はなかったのです。駅前のスーパーマーケット、サンリブやダイエーの建物も、ここまで高くありません。マンションの裏にも、現在建設中のマンションがあります。

 日田駅から友田まで乗ったタクシーの運転手さんが話してくれたところによると、最近、日田市にもこういうマンションが次々に建てられているということでした。地理的に見ると、日田市は大分県内にあるとはいえ、大分市から90キロメートルほど離れていますし、中津市からでも50キロメートルくらい離れているはずです。福岡県に近いとはいえ、久留米市からでも40キロメートルほど離れています。こうした点が、マンション建設の背景にあるのでしょうか。よくわからないのですが。この地域は大分県西部の中心地でもありますから、県内企業をはじめとして、少なからぬ企業が支店などを置いています。

 さらに歩きます。奥のほうに見える信号を直進すると、日田駅まではもうすぐです。左折すれば、久大本線の下を通って淡窓、田島のほうへ行けます。

 このあたりに、かつて岩田屋がありました。福岡市中央区天神二丁目に本店がある、百貨店の岩田屋です。本店のほうは、かつて天神交差点にありましたが、現在は天神西通りのほう、警固神社の西側に移転しています。その支店が日田市にあったのです。私も何度か入ったことがあり、日田の焼酎を買ったことがあります。

 大分県は、百貨店(デパートメントストア)という部分で見れば日本で最も例外的な都道府県でしょう。県庁所在地である大分市に、地元資本の百貨店、トキハしかないからです。他の都道府県庁所在地であれば、百貨店は最低でも2つはあります。福岡市であれば岩田屋、井筒屋、三越、大丸というようにです(博多リバレインの場所には玉屋という百貨店もありました)。しかし、大分市には、トキハ以外の百貨店が進出したことはありません。大分県の場合、トキハ以外の百貨店は日田市、別府市などでなければ見つけることができなかったのです。しかし、詳しいことを覚えていないのですが、岩田屋日田店は2002年あたりに閉鎖されました。別府市には近鉄百貨店があったのですが、私が大分市に住み始めた頃には既に閉店となっていて、建物も解体されました。そのため、大分県には、大分市の府内町と稙田、別府市の北浜にあるトキハだけが、百貨店の店舗として存在しています。

 「たしか、この辺りだったよなあ」と思いながら、通りを見回しました。そして、建設中のマンションが、その岩田屋の場所だったことがわかりました。交差点で交差する南北方向の道路を見て思い出したのです。

 交差点を左折し、久大本線のガード下を通り、淡窓、豆田へ行こうとしています。ここが、岩田屋日田店があった場所で、現在は分譲マンションが建設中です。かつての岩田屋が何階建てだったのか覚えていないのですが、岩田屋時代より高い建物かもしれません。

 「日田駅周辺も変わったなあ」と思いながら、淡窓、豆田へ向かって歩いていきました。また天気が回復し、盆地特有の暑さでかなりの汗を出しながら。

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2007年9月4日、日田市を歩く(2)

2014年03月27日 00時01分31秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 (以下は、2007年9月20日に第229回として掲載したものです。なお、一部修正を施しています。)

 このホームページを始めたのは2000年6月3日で、その翌月にはサテライト日田問題に関するページを作成しました。それ以来、意図するところがあって独立したコーナーにしなかったものの、不定期の連載となった「サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題」は2004年まで続けました(現在も掲載しておりますので、お読み下さい)。そして、この問題に関する論文を4編書きました。最後のものは2006年6月に公表されています。日田市対別府市訴訟、および日田市対経済産業省訴訟という事態にまで発展したサテライト日田問題は、当時、行政学や行政法学など、地方自治に関係する学問からの関心をも呼びましたが、そのような時期に、大分県に住み、大分地方裁判所、福岡高等裁判所に足を運べたことは、私自身、貴重な機会に恵まれたということである、と考えています。そればかりでなく、私は、学者としてだけではなく、一大分県民としての立場を示してきたつもりです。

 そして、サテライト日田問題に関わった者としては、その後の状況をも見ておく必要があるはずです。日田市に行く機会に恵まれるのであれば、サテライト日田建設予定地を再び訪れたい、と思っていました。実は昨年(2006年)にも、福岡滞在期間中の後半に日田市へ行く予定を立てていましたが、私が少しばかり体調を崩しましたので(集中講義はきちんとおこなうことができましたが)、長距離移動には慎重になりました。西鉄天神大牟田線沿線であれば楽ですが、それ以外では不安を感じたので、日田市へ行くのをあきらめました。今年(2007年)は、体調を万全に整えた上で、できるだけ早い時点で日田市へ行こうと思い、計画を立てました。9月4日、天神バスセンターから田川後藤寺までバスで行き、田川後藤寺から日田彦山線に乗り、宝珠山駅を発車してすぐに日田市に入り、夜明を通って日田駅に到着しました。いよいよ、サテライト日田予定地へ行きます。

 今回は、短いながらも不定期連載「サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題」の復活というべき内容と言えるかもしれません。

 日田駅のすぐ近くにある日田バスセンターで時刻表を見たところ、サテライト日田予定地のそばを通るバスの本数は極端に少ないことがわかりました。そこで、駅前からタクシーに乗り、友田にある100満ボルト日田店まで行くこととしました。国道386号線を通ると、それほど大きな変化はないものの、所々で「変わったな」と思えるような箇所を見つけました。確実に時間は経過しています。もっとも、タクシーやバスなどに乗っているのと、自分で車を運転しているのとでは、同じ場所を通っていても景色の見え方などが違うものです。総じて、自分で車を運転していると、景色をそれほどよく見ていないものです。考えてみれば当然のことで、景色に気をとられていたらたちまち事故につながります。

 国道386号線は、曜日や時間帯によっては渋滞するのですが、今回はスムーズで、程なく100満ボルト日田店に到着しました。短い距離だったのでタクシーの運転手さんには申し訳ないと思いましたが、ここが目的地ですから仕方がありません。私がサテライト日田問題に取り組んでいた頃、何度もこのあたりに来ていますが、100満ボルト日田店は当時も今もあるものの、駐車場を共有している別の店舗がドラッグストアになっていました。あやふやな記憶ですが、たしか、ここにはスーパーマーケットがあったはずです。

 上の写真は、その駐車場から撮影したものです。サテライト日田予定地ではありませんが、その隣です。奥に山林が見えますが、その下のほうに久大本線が通っていて、大分県では最も難読度が高いと思われる光岡(てるおか)駅は右のほうにあります。夜明を発車してしばらくすると、トンネルを抜ける前あたりからこのあたりの看板などがよく見え、さらに近づいて真横に見ながら通過しますが、光岡駅はここから少し離れています。日田彦山線のディーゼルカーに乗っていた私は、光岡駅到着寸前まで光岡駅で降りるかどうか考えていたのですが、道がわからないので日田駅まで乗ったのでした。

 ドラッグストアで買い物をして、目的地へ向かいます。アーバンピラミッドがその目的地です。この写真ではわかりにくいのですが、手前に見える赤いSEGAの看板と猫のノボリがある店はカラオケ屋で、実はアーバンピラミッドの一角です。奥のほうの入口にコンビニエンスストアがあり、隣がピエトロ、その奥がパチンコ屋とゲームセンターが同居している建物です。

 この道路が国道386号線で、一日数本しかないバスのうちの一本は久留米駅まで、もう一本は西鉄天神大牟田線の急行が止まる朝倉街道駅まで走っています(余談ですが「あさくらかいどう」ではなく「あさくらがいどう」と読みます)。奥のほうに走っていけば夜明で、さらに福岡県の朝倉市などに行くことができます。週末には渋滞します。最初にサテライト日田予定地へ行った時、場所がわからず、この道をひたすら走って夜明まで行き、引き返してきてようやく見つけたことを思い出しました。

 「目的地はパチンコ屋とゲームセンターなのか?」と思われた方もおられるでしょう。「そうではない」と答えておきます。私は、何もパチンコ、パチスロ、テレビゲームをやるために片道3000円以上も使って福岡(天神)からここまで、しかもバスとディーゼルカーとタクシーを乗り継いで来た訳ではありません。このあたりが今どうなっているかを知るために来たのです。もっとも、ただ来ただけであるというのもどうかと思われるので、少しだけゲームをやりました。

 アーバンピラミッドの駐車場です。ここに来たのはおよそ4年ぶりです。2003年8月25日(月曜日)、私は、当時の愛車である日産ウイングロードXを運転して、大分自動車道を使い、日田市対別府市訴訟を担当された弁護士さんの事務所を訪問したのでした。そして、ここを訪れています。右側の奥に写っている建物はうどん屋と公衆浴場で、上の写真には登場しないのですが右側にパチンコ屋とゲームセンターが同居する建物があります。

 実は、手前の駐車場こそがサテライト日田の予定地でした。2000年12月3日(日曜日)に初めて現場を訪れた時には鉄製の柵で囲まれていたのですが、2001年12月8日(土曜日)には元の駐車場に戻っていました。2003年8月25日も同様です。結局、ここに場外車券売場が建設されることはなかったのですが、どのような大きさ、高さ、形、色彩の建物が想定されていたのでしょうか。

 私自身は競輪(のみならず公営競技全般)をやったことが一度もなく、競輪場に入ったことが二度あるだけで、しかもそれは川崎競輪場でバザー(今で言えばフリー・マーケット、つまり蚤の市)が行われていたから入ったというだけなのです。別府競輪場の場所は知っていますし、すぐそばを歩いたこともあるのですが、一度も入ったことがありません。場外車券売場も、サテライト宇佐のそばを何回か通ったことがあるだけで、一度も入ったことがありません。そのため、場外車券売場にいかなる設備があるのかということなども、よく知らないのです。そう言えば、私が非常勤講師として仕事をしている國學院大學渋谷校舎の近く、並木橋には場外馬券売場がありますが、そこにも入ったことはありません。

 なお、この場所については、「サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題」の"第6編"で2000年12月3日の様子を、"第35編"で2001年12月8日の様子を述べておりますので、御覧いただければ幸いです。

 同じ駐車場ですが、撮影地点と角度を変えてみました。この中を歩いたことがありますが、けっこう広いスペースで、何台もの車を停めることができます(ただ、以前よりも面積が広げられているような気もします。奥のほうに停まっている2台のトラックあたりまでであったかどうか、記憶が定かではありません)。

 先ほどの細い道路から、再び国道386号線に出てみました。すぐ近くにバス停はありません。この日に限らず、集中講義期間中は運転免許証を携帯していません。福岡滞在中の主な移動手段は、第一に福岡市営地下鉄、第二に西鉄天神大牟田線、第三に西鉄バスであるためです。しかし、日田に来たこの日だけは、運転免許証を持っていればよかったと後悔しました。まさか、川崎から福岡まで愛車ゴルフを運転する訳にはいきませんが(実は一度やってみたいと思っていますが)、レンタカーを借りれば移動が楽です。合併によって広大な面積になった日田市の他の場所、たとえば旧天瀬町や旧大山町などの領域をまわることもできますし、小鹿田(おんた)をまわることもできます。大分時代の7年間は自家用車通勤でしたし、大分県内を自家用車で走り回っていただけに、車社会を歩き回ることのつらさを改めて感じました。

 曇ってきました。この日の天気予報では雨が降るかもしれないということでした。先ほどタクシーから降りた100満ボルト日田店が右に、アーバンピラミッドは左にあります。ここから大分自動車道の日田インターチェンジまでは3キロメートルほどです  (日田駅までの距離も同じくらいです)。100満ボルトと言えば、大分市内の店にはよく行きました。関東地方にはあまり支店がなく、とくに神奈川県には一つもないので、大東文化大学に移ってからは一回も行っていません。この日、久しぶりに入りました。

 さて、ここから日田駅に戻らなければなりません。東のほうに数百メートルほど歩けばバス停があるはずです。光岡駅に出てもよいのですが、道がわかりません。とにかく、再び日田駅を目指します。

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2007年9月4日、日田市を歩く(1)

2014年03月26日 00時03分05秒 | 旅行記

 〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕

 (以下は、2007年9月13日に第228回として掲載したものです。なお、一部修正を施しています。)

 2004年3月下旬に大分大学を離れ、4月に大東文化大学法学部に着任しました。しかし、その年の8月下旬に西南学院大学法学部の集中講義「税法」を担当しており、それ以来、毎年1回、大体10日間前後を福岡市で過ごしています。2007年は8月と9月の2回、福岡市で仕事をしました。

 その度に、福岡県内の各地を列車で周ったりしています。2004年には佐賀県唐津市を訪れたこともあります。不思議なもので、大分大学に着任するまで一度も九州を訪れたことがないにもかかわらず、しかも九州を離れて3年以上が経つにもかかわらず、福岡をはじめとして九州各地を訪れることを楽しみにしています。単に、7年間も大分市に住んでいたためではないでしょう。九州に何かがあるから、ということなのでしょう。とくに福岡ですと、福岡市内であれば天神、薬院、西新(西南学院大学の所在地ですから当然なのですが)、藤崎、大橋、福岡市内ではないのですが二日市など、滞在時に必ず訪れる街があります。

 こうして、毎年のように福岡市、さらに福岡県に滞在している私ですが、しばらく大分県に行っていません。2004年12月下旬に、やはり集中講義のために大分市を訪れていますが、それ以来、大分県のことはどこかで気になっていながらも、2年以上、足を踏み入れたことがありません。そこで「時間があれば今年は大分県のどこかにも行ってみよう」と思いました。飛行機とホテルの予約などをして少しずつ準備を進める中、6月末日に或る新聞記事を読み、「日田へ行ってみよう」という気になりました。サテライト日田問題に取り組んでいた、という理由もあります。今どうなっているかを知りたいという気持ちもありました。

 そうと決まれば、あとは天神または博多からどのようなルートで行けばよいかを、時刻表などで調べればよいだけです。複数のルートを割り出し、福岡入りの日程を決め、日田へ行く日を決めました。ホテルでの起床時間と体調によって最終的なルートを決めればよい、というところまで進めました。

 福岡から日田に行くには、博多駅から特急「ゆふ」もしくは「ゆふいんの森」に乗る、または天神バスセンターから日田バスセンターまでのバスに乗る、というのが通常の方法です。しかし、この日、私はいずれの方法も採らず、天神バスセンターから田川後藤寺までは西鉄バスに乗り、田川後藤寺から日田までは日田彦山線に乗るという、考えようによっては危険な方法を採りました。バスの運行時間は道路事情などに左右されますし、日田彦山線のこの区間はとくに本数が少ないので、接続がうまくいかないと田川後藤寺で2時間も3時間も待たされかねないのです。地下鉄→篠栗線・筑豊本線→後藤寺線乗り継ぎという手段もあり、当初はこの方法で行くつもりでしたが、乗り換えの回数が多いということと、あまり眠ることができないままに朝を迎えたために列車では乗り過ごす危険性があるということで、天神から田川後藤寺までは西鉄の高速バスで行くこととしました。ちなみに、私は九州に住んでいたことがあるにもかかわらず、これまで高速バスに乗ったことがなかったのでした。

 天神バスセンターを出発した後藤寺バスセンター行のバスは、時刻表に書かれていた予定時刻より20分ほど遅れて後藤寺バスセンターに到着しました。予定時刻どおりであれば田川後藤寺駅前で30分ほど時間をつぶさなければならないのですが、おそらくそうはならないだろうと予想していました。後藤寺バスセンターから田川後藤寺駅までは、徒歩で2分もかかるかかからないかの距離ですが、私が乗ったバスの次のバスであれば列車に間に合わなかった可能性が高かったのでした。そうなると、30分どころか、3時間以上、田川後藤寺駅で時間をつぶさなければならないというところです。何度かここを訪れていますが、私には、とてもではないが3時間も時間をつぶすだけの能力がありません。おそらく、また時刻表をみて、日田彦山線で小倉へ行くか、後藤寺線で新飯塚へ行くでしょう。

 田川後藤寺駅に到着すると、目当ての日田彦山線日田行が止まっていました。上の写真がそれです。大分車両センターに所属するキハ125で、私が大分に住んでいた時には豊肥本線と久大本線で何度も乗っています。完全にワンマン運転に対応した車両で、豊肥本線、久大本線の他には唐津線と筑肥線の山本~伊万里で見ることができます。日田彦山線では、本数の少ない田川後藤寺~日田で見ることができます。

 実は、この列車に乗りたいがために、天神でのバスの時刻、博多駅からの乗り継ぎなどを調べました。10時17分発を逃すと、日田行は13時28分発までないのです。その間に添田行が来ますが、それに乗っても日田には行けません。

 福岡県および大分県の鉄道路線のうちで私がまだ利用したことがなかったのが、日田彦山線の田川後藤寺~夜明でした。この区間の近くを車で通ったことはありますので、大体、どういう場所なのかは見当がついています。山の中を走るローカル線には何とも言えない魅力を感じるので、この列車に乗って日田に入りたかったのでした。

 

 予想よりお客は多く、20人くらいを乗せて、キハ125は発車しました。と言いたいところですが、初老の男性が、先ほどまで乗っていた小倉発田川後藤寺行の列車の中に帽子を忘れたということで、発車した瞬間にブレーキがかかりました。首都圏であれば、こんなことはありえませんが、その乗客は列車を降りて帽子を探し出し、戻ってきたのです。そんなことで、少々遅れて出発となりました。20人くらいとはいえ、結構にぎやかでした。

 添田までは比較的住宅も多く、盆地のような所を結構なスピードで走っていきますが、豊前桝田からは車窓に山が迫ってきます。杉林などが多いのですが、倒木が目立ちました。大雨の影響でしょう。

 有名な英彦山の入口である彦山駅で、何人かの客が降りていきます。無人駅ですが、登山口というだけあって意外に立派な駅でした。

 英彦山も彦山も「ひこさん」と読みます。山のほうは英彦山と書きます。標高は1200メートルで、福岡県では2番目に高い山です(1番目は、日田市との境にある釈迦岳で、ここは大分県内の天気予報では雨量で必ず登場するくらい、雨の多い所です)。耶馬溪から英彦山にかけては国定公園に指定されています。「こんな所に小さな家でも建てて、夏の間だけでも住んでみたい」と思わせるような場所でした。ただ、生活には厳しい場所かもしれません。

 さらに山が迫り、釈迦岳トンネルに入ります。このトンネルは4キロメートル以上もあります。わずかに、篠栗線の篠栗トンネルより短いのですが、ディーゼルカーがエンジンを唸らせたりするので、かなり長く感じます。東急東横線なら渋谷~学芸大学に相当する距離です。

 釈迦岳トンネルを出ると筑前岩屋駅で、その次が大行司駅、そして、上の写真、宝珠山駅です。11時過ぎに到着しました。キハ125の中から写したので、変な色調になっています。

 この駅は、一応、福岡県朝倉郡東峰村にあることとなっています(かつて、ここは宝珠山村でしたが、2005年3月に小石原村と対等合併しています)。一応、と記したのは、たしかに駅舎は東峰村にあるのですが、ホームの一部が大分県日田市にあるからです。この写真は福岡県側を撮影したものですが、少しばかり右に行けば大分県日田市で、境界標も立っています。キハ125は福岡県側に停車しますので、列車がこの駅を出発すると、すぐに大分県に入る訳です。なお、添田駅を出ると、そこから先は全て無人駅です。

 こうして、私は大分県日田市に入りました。2003年8月下旬以来、およそ4年ぶりのことでした。大分県に入ったのも、およそ2年9ヶ月ぶりのことです。列車は大鶴駅、今山駅を通り、大分自動車道の立派な橋を上に見つつ、左に大きくカーブを切り、夜明駅に到着します。この駅も無人駅です。夜明が日田彦山線の終点ですが、列車は久大本線に入って日田まで走ります。夜明から日田までは、大分大学時代に特急ゆふ号で通ったことがあります。

 ほぼ定刻に、キハ125は日田駅3番線に到着しました。日田駅を利用したのはおよそ5年ぶりのことです。大分市から90キロメートルほど離れているとはいえ、同じ大分県の市です。目指す所がありますので、改札口を出て、駅前に立ってみました。これだけの規模の駅ですから、勿論、有人駅です。しかし、日田市にある有人駅は、合併前はここだけでしたし、合併後もここと天ヶ瀬くらいではないでしょうか。

 このホームページ(注:「川崎高津公法研究室」)に、2002年8月19日、当時の湯布院町の中央公民館で行った講演の草稿を掲載していますが、その日の午前中に、サテライト日田関係訴訟の件などのために日田市を訪れています。大分駅から特急ゆふ2号に乗って日田に行きました。そして、サテライト日田関係訴訟のうち、日田市対別府市訴訟を担当された弁護士の方の事務所にお邪魔し、お話をうかがったりしていました。それから、九州をはじめとして人気のある、緑色の芋虫のような形をした特急ゆふいんの森号に乗り、列車の中で昼食を済ませ、由布院駅で降りて会場に行き、仕事をさせていただきました。

 日田と言えば水郷(関東地方では「すいごう」と読みますが、九州では「すいきょう」と読むことが多いようです)、天領、温泉です。とくに、私にとってはやはり天領という言葉が日田のイメージに合います。ここは江戸時代に幕府の直轄地で、九州地方における金融の中心地でもあったのです。 今でも、淡窓から豆田にかけて、当時の面影が残っています。最近では、私が大分大学に勤務していた頃に操業を開始したビール工場でしょうか。勿論、全国的に有名になった日田天領水を忘れてはなりません (実は飲んだことがありません)。

 ただ、日田市というと、大分県に住んでいたことのある私でも、大分市、別府市、臼杵市、佐伯市、竹田市などとはかなり違う印象を受けます。中津市と宇佐市は豊前の領域にありますから、豊後の領域とは少々雰囲気が異なります。日田市は豊後の領域ですが、駅前などを歩いていると、豊後の領域にある他の市町村とは空気などが違うような気がするのです。町並みから受ける印象のためなのかもしれません。

 以前から何度も書いていますが、私は温泉にあまり興味も関心もありません。大分県に住んでいた7年間でも、友人が大分に来た時などでなければ、温泉に行ったことはほとんどありません。近くを通ったりしたことは何度もありますが、わざわざ入浴していこうという気にならないのです。そのため、日田温泉も、三隅川(筑後川)の近くにあるということは知っていますし、そばを何度か通っていますが、入ったことはないのです。

 平成の大合併で、日田市は日田郡の各町村を併合し、かなり大きな面積の市となりました。そのため、日田市で有名な温泉として天瀬温泉が加わりました。かつての天瀬町です。この他、日田郡には、2002年のワールドカップの際にカメルーンのチームが合宿所とした中津江村(鯛生金山でも有名)、一村一品運動(今の宮崎県がやっていることは、私から見れば大分県のこの運動の別ヴァージョンのようなものです)の原型となる運動を展開していた大山町、子ほめ条例を制定した前津江村、熊本県との県境にあり、オートパークなどがある上津江村といった個性的な町村がありました。こうした地域をどのように生かしていくかが、今後の日田市の課題であるかもしれません。

 日田駅前の通りです。これを見ると、大分県内でも日田市は独特の雰囲気を持っているということが理解できます。大分市はともあれ、首都圏の郊外、とくに私鉄の駅前を思い起こさせるような駅前の風景は、この日田駅にしかないのです。

 日田駅前から南のほう、日田市中央のほうに伸びる通りの歩道です。ここだけ切り取ると、大分県の風景とは思えません。首都圏の私鉄、あるいはJR中央本線のどこかの駅を参考にしてこのような街並みにしたのでしょうか。あるいは、地理的に見て、福岡県内の西鉄天神大牟田線のどこかの駅、福岡市内のどこかを参考にしたのでしょうか。そうとしか思えないほどです。正確にどこに似ているとは記すことができないのですが。

 

 今度は車道です。このあたりは、何度も私の愛車で通っていますし、歩いてもいます。その時とあまり変化がないことに気付きました。これは、悪い意味ではありません。あまりに変化が激しいと戸惑いますし、変化することが良いものとは限りません。

撮影したのは、9月4日の午前中、と言ってもあと少しで正午という時間です。

 関東地方では見かけなくなりましたが、大分県内ではまだまだ現役の円筒型郵便ポストです。日田駅前交差点の西南側に、九州では一般的なスーパーマーケットであるサンリブがあります。そのそばにこのポストがあります。いつまで役目を果たし続けるのでしょうか。

 ここからタクシーに乗り、目的地の一つに向かいます。

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阪急梅田駅にて(2003年6月7日)

2014年03月25日 10時56分17秒 | 写真

 昨年、学会報告のために京都へ行きましたが、ここ何年間か、大阪を訪れていません。4年ほど前に神戸に行った際にも、大阪を通過してしまいましたので、今年は行こうか、などと思っています。それで、また、過去に「待合室」に載せた記事の再掲載をします。今回は、第65回として2003年9月6日から12日まで掲載したものを、一部修正の上でお届けします。

 2003年6月7日、或る研究会に出席するために京都へ行きました。前年の11月下旬以来、約7か月ぶりのことです。

 2002年11月に訪れた際には、大分駅から寝台特急彗星号に乗りました。大分駅を21時台に発車し、終点の京都駅には朝8時頃に到着するので、街を歩くにはよいだろうと思ったのです。ただ、慣れていないからなのか、十分な睡眠をとることができなかったことを覚えています。そこで、2003年6月7日には、大分駅から小倉駅までは特急「ソニック」20号に乗り、小倉駅から新大阪駅までは「ひかり」370号に乗りました。大阪の梅田にでも寄ろうかと思ったからです。また、京都での会場が阪急京都線の烏丸駅に近いことから、約14年3か月ぶりに阪急京都線を使おうと思い、阪急梅田駅に向かいました。

 まだ時間に余裕があったので、この写真の電車で河原町(京都の中心街に最も近い駅)まで行きました。写真ではわかりにくいかもしれませんが、阪急電車の塗装は本当に美しいのです。特急用としては、6300系という、ローレル賞を受賞した2扉車もありました。

 隣のホームに停まっていた急行電車です。もっとも、以前私が乗った時に比べると、特急も急行も停車駅が増えました。たしか、約14年3か月前に特急に乗った時には、梅田を出発すると十三(じゅうそう)、大宮、烏丸、河原町の順だったと記憶しています。2003年6月7日の時点では、特急が梅田→十三→茨木市→高槻市→長岡天神→桂→烏丸→河原町の順で、急行は梅田→十三→淡路→南茨木→茨木市→高槻市→その先は各駅に停車、となっていました。ちなみに、現在、阪急京都線には急行という種別がありません。

 どうでもいいことですが、特急の方向幕に比べて、急行の方向幕は少々寂しい感じがします。東急東横線や田園都市線のような色彩が望まれるところです。

 奥の電車は阪急の原点である宝塚線(箕面有馬電気軌道として開業)の特急です。あの宝塚歌劇団も阪急系で、元はと言えば、この宝塚線の増客策として行われた事業の一つで、宝塚唱歌隊として1913(大正2)年に創設されました。宝塚音楽歌劇学校が開設されたのは1919(大正8)年のことです。こうした多角経営は、箕面有馬電気軌道が先鞭を付けたもので、東京急行電鉄(戦前の目黒蒲田電鉄)などにも影響を与えました。なお、箕面有馬電気軌道は、1918(大正7)年に阪神急行電鉄と改称しています。

 京都線は、元々が新京阪鉄道で、名前の通り京阪電気鉄道系でした。戦時中に京阪と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄となりました。戦後に再び分離したのですが、新京阪鉄道(京都線と嵐山線)は京阪ではなく、京阪神急行電鉄の路線となりました。1973(昭和48)年に、現在の阪急電鉄となります。

 阪急の路線図を見ればすぐにわかりますが、主要路線である京都線、宝塚線、そして神戸線(写真の手前から奥への順)は、JR大阪駅に連絡する梅田駅から出発します。そして、十三まで三路線が併走するのです。そのため、阪急梅田駅は、私鉄の起点駅としては相当に大きな規模です。これに匹敵するのは、小田急の新宿駅でしょうか。

 関西、というより阪神地区をみると、阪急の沿線に大学が多いことがわかります(例、大阪大学、神戸大学、関西大学、関西学院大学、大阪経済大学)。そのため、私の場合、関西の大手私鉄で最も利用する機会が多いのは阪急なのです。しかし、神戸線・神戸高速線の六甲~新開地、今津線全線、甲陽線全線および箕面線全線を利用したことがありません。阪神地区の御屋敷街という場所も歩いてみたいので、今年こそは大阪へ行こう、と考えています。

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平成26年度予算成立 消費税が歳入のトップに

2014年03月20日 20時02分41秒 | 国際・政治

 本日(3月20日)の夕方、参議院本会議で平成26年度予算が可決され、成立しました。朝日新聞社が18時26分に「当初予算、3年ぶり年度内成立 一般会計総額95兆円超」として報じているところによると、いわゆる年度内成立は3年ぶりで、成立の早さは戦後3番目です(1999年と2000年に3月17日成立という例があります)。

 4月からの講義に役立てようと、平成26年度予算を読んでみました。一般予算のうち、歳入予算をみると、興味深い事実がわかります。あるいは、驚くべきこと、と記してもよいかもしれません。

 財務省の分の歳入合計は93兆8056億9346円で、このうちの「租税及印紙収入」が50兆10億80万円で、租税による収入が48兆9450億円となっているのですが、消費税法施行後に初めて、消費税が租税による収入のうちのトップにランクされました。

 消費税:15億3390億円

 所得税:14億7900億円

 法人税:10億180億円

 平成25年度一般会計予算(歳入予算)では、次のようになっていました。

 所得税:13兆8986億円

 消費税:10兆6400億円

 法人税:8兆740億円

 平成25年度までは、所得税が常にトップに立っていたのです。税率の変更など様々な要因はありますが、消費税が租税収入のトップに立つという予算を、果たしてどのように考えればよいのでしょうか。

 もとより、歳入予算は見積もりにすぎませんので、この通りの収入となるかどうかはわかりません。平成25年度についても、この通りになったかどうかはわかりません。それでも、全く何の根拠もない見積もりもなされないでしょうから、今年度予算は、或る意味で一定の人々にとっては宿願を果たしたものになった、と言えるかもしれません。

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関東学院大学、新潟大学の法科大学院も募集停止

2014年03月18日 23時02分10秒 | 受験・学校

 今日になって知ったのですが、関東学院大学が、2015年度以降に法科大学院の募集を停止することを発表していました。毎日新聞社が、3月14日20時26分付で「関東学院大:法科大学院の募集停止 15年度以降」として報じています。

 関東学院大学が発表したのは3月14日のことです。2004年の入学者は68人でしたが、これがピークで、2005年度から定員割れが続き、合格者数・合格率の低迷も続きました。その結果としての募集停止です。

 そうかと思うと、今日の日本経済新聞朝刊42面14版に、新潟大学の法科大学院が2015年度から募集を停止する旨の記事が掲載されていました。小さな記事で見落としそうになりました。

 朝日新聞の朝刊には載っていなかったのですが、新潟版には掲載されたようです。サイトには、今日の3時付で「(新潟)新潟大法科大学院が募集停止 15年度から」として掲載されています。

 先月、信州大学も法科大学院の募集停止(2015年度以降)を発表しました。2月12日19時8分付で毎日新聞社が「信州大:法科大学院の募集停止…2015年度以降」として報じていたのですが、大きく取り上げられなかったようで、朝日新聞でも日本経済新聞でも記事を読んだ記憶がなく、今月になってから知ったのでした。信州大学が国立大学で2例目ですので、新潟大学は3例目ということになります。

 発表は昨日(3月17日)のことで、2015年度から募集を停止し、在学生が全員修了する時点で廃止することになります。これまでの合格者は75名ですが、入学者が減少しており、今年度の入学者は1人のみとのことです。

 法科大学院は74校でしたが、姫路獨協大学が最初に撤退を表明し、2012年度に法科大学院を廃止しました。現在は73校が残っていますが、新潟大学を含めた12校が既に募集を停止しているか、停止を表明しています(上記朝日新聞記事によります)。私が勤務する大東文化大学も、2015年度以降の募集を停止することを決めています。おそらく、今年中にあといくつかの大学が募集停止ないし撤退を決めるものと思われます。

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2014年度の担当科目の教科書について

2014年03月14日 23時58分47秒 | 受験・学校

 少々気が早いのですが、2014年度に担当する予定の科目の教科書について記しておきます(但し、全科目ではありません)。4月を前に、手に入れられるものは購入しておくことをおすすめいたします。

 (1)大東文化大学法学部法律学科の「行政法1」/国学院大学法学部の「行政法Ⅰ」

 櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第4版〕(2013年、弘文堂)

 (2)大東文化大学法学部法律学科の「税法」

 4月にならないと発売されないようです(都合上、まだ発表できません)。

 (3)大東文化大学法学部法律学科の「専門演習(3年生)」/大東文化大学大学院法務研究科の「租税法Ⅰ」

 金子宏・佐藤英明・増井良啓・渋谷雅弘『ケースブック租税法』〔第4版〕(2013年、弘文堂)

 (4)大東文化大学法学部法律学科の「専門演習(4年生)」

 金子宏・佐藤英明・増井良啓・渋谷雅弘『ケースブック租税法』〔第3版〕(2011年、弘文堂)←昨年のものをそのまま使います。

 (5)大東文化大学法学部法律学科の「基本法学概論」

 石山文彦編『ウォーミングアップ法学』(2010年、ナカニシヤ出版)

 また、各自が所持する(はずの)教科書(憲法、民法総則、刑法総論)

 (6)大東文化大学法学部法律学科の「法学特殊講義2A」および「法学特殊講義2B」

 教科書を使用しません。但し、2Aについては各自が所持する憲法学の教科書を、2Bについては各自が所有する行政法学の教科書(行政組織法、地方自治法に関する章を設けているもの)を持参してください。

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