ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

iPhone5を使ってみて

2013年01月31日 20時18分30秒 | デジタル・インターネット

1月12日からiPhone5を使い始めましたので、もうじき3週間となります。とりあえずの感想でも記しておきましょう。

 このブログでも何度か記していますが、私はMacBook Airを使用しています。同じアップル社の製品ということもあって、iPhone5とMacBook Airとの同期は容易で、役に立っています(VAIOと接続したことはありません)。MacBook Airのカレンダー機能をよく利用しているので、iPhone5にも登録できるのがありがたいのです。

 また、MacBook Airに接続することでiPhone5の充電もできます。前に使っていた携帯電話(京セラの、いわゆるガラケーです)でもパソコンへの接続による充電はできますし、よく研究室でそれを行っていましたが、接続用のコードは別売りで、コンビニなどで買えるとは言え、少しばかり面倒ではありました。同期などもできません。そもそも、日本の携帯電話のアプリは他の機種にコピーなどをすることができないという場合が多く、機種変更をしたら同じアプリを再び入手しなければならなかったのです。カレンダー機能も使い勝手が悪かったので、利用したことはありません。

 

 iPadと同じようにタッチパネルで操作できるのもよい点です。但し、操作性ということでは日本のガラケーのほうが上だと思うことも度々です。私は左手で打ち込んでいましたが、そのほうが打ち込みやすいという場合が多いのです。たとえばメールですが、iPhone5の入力画面は小さいのでミスタッチがどうしても多くなります。とくにアルファベットの入力は、慣れてもガラケーのほうが上です。指が太い人などにiPhone5は向かないのではないかと思っています。iPhone5に無線接続するキーボードなどもありますが、そんなものを持ち歩くのも面倒です。

 もう一つ、日本の携帯電話のほうが素晴らしいと見直したくなる点があります。電池です。iPhone5だけでなくMacBook Airにも言えることですが、電池の持ちが悪く、毎日充電しなければなりません。この点は使用頻度にもよるでしょうが、日本の携帯電話なら数日間、充電しなくても大丈夫という場合が多いでしょう。ブログでも、電池の持続性に触れている記事があり、一週間くらい充電しなくても大丈夫であったという内容でした。iPhone5ではこのようにいきません。

 あと一点だけ記しておきますと、iPhone5には当初からマイク付きヘッドフォンが付属しています。これを使って電話をすることも可能ですが、集音性能がいまひとつなので、電話の際には注意が必要です。

 以上のように書いてきましたが、まだ使い始めたばかりと言ってもよいような状況なので、さらに使い込んでいきます。

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今はどうなっているのか? 大分県中津市の新博多町

2013年01月29日 00時53分18秒 | 旅行記

 私が大分大学教育福祉科学部助教授(大学院福祉社会科学研究科担当専任)となったのは、今から11年前の2002年4月です。それまで講師を5年務め、大分県は大分市に5年住んだ私は、当時の58市町村の全部を周り、サテライト日田問題、市町村合併問題などに取り組んでいました。これらとは異なって論文などの形でまとめていませんが、中心街空洞化は、大分大学に講師として就職した1997年4月から、まさになりたての住民としてすぐに知った問題であり、現在に至るまで関心を持ち続けています。

 とくに関心を強めるきっかけとなったのは臼杵市の二王座へ行った時であったと記憶していますが、別府市、佐伯市などでも同様であり、とにかく自家用車か鉄道かを利用して当時の58市町村全てを周り、中心街と言える場所を歩いては実態を観察していました。中でも、私が最も強い衝撃を受けたのが、助教授となった2002年の9月23日に訪れた中津市新博多町でした。今回は、以下で「待合室」の第28回「中津市新博多町の現状」を再掲載し、皆様に「問いかけたい」と考えております。

 (以下、原文のままです。)

 久しぶりに大分県の様子を紹介します。今回は、大分県北部を代表する都市、福沢諭吉にゆかりのある中津市です。

 9月23日、大分駅から特急に乗り、中津駅で降りました。中津市には何度か行ったことがあるのですが、駅周辺をゆっくり歩いたことがなかったので、中心街がどのようになっているかと思い、行ってみることとしました。

 中津駅を降り、海側に出ると、すぐに細いアーケード街に出ます。その中を歩き、新博多町の山国川のほうに向かいました。祝日のお昼でしたが、人通りはそれほど多くなく、多くの店がシャッターを閉めていました。

 上の写真のように、私以外は誰も歩いていないような状況です。開いている店もあるのですが、お客さんはほとんどいません。大分県の各市街地は、大なり小なりこうした様子ですが、歩いた経験からすれば、ここまで惨憺たる状況は中津市と臼杵市くらいでしか見られないのではないでしょうか。別府駅周辺や豊後竹田駅周辺、そして佐伯市も空洞化の激しい場所ですが、もう少し人通りがあります。

 写真では奥のほうになりますが、アーケードが途切れる箇所があります。交差点になっていて、右折すると寿屋中津店跡があります。心なしか、建物が傷んでいるようにも見えました。寿屋の中には別の会社によって営業が再開された店舗もあるのですが、私が知る限り、中津店と三重店(大野郡三重町の郊外にある)では再開の目途も立っていないようです。また、寿屋中津店跡のそばにベスト電器中津本店もありましたが、既に郊外(旧国道10号線に沿った所)に移転しています。

 そして、新博多町をさらに歩くと、脇に入れば行き止まりというような、変な一角があります。ここに足を踏み入れた時、思わず驚きの声を上げました。いくら中心街で空洞化が進んでいると言っても、こんな光景を見たことがなかったからです。それが下の写真です。

 暗いので見づらいかもしれませんが、肉眼でもこのような感じでしたので、あえて修正していません。この奥に入ってみたのですが、時間が悪かったのか、それとも他の理由なのか、開いている店は一つもなく、歩いている人も私以外にいなかったので、不気味でした。もはや壊滅と表現してもよい状態です。

 この後、(名前を覚えていませんが)夜であればおそらく歓楽街であろうという所を歩き、中津駅に戻った後、旧国道10号線を宇佐方面に歩きました。川を渡ると、郊外型の駐車場つき店舗が建ち並ぶ街があります。商圏はここに移ったのかもしれません。また、中津市の隣、三光村には、新国道10号線沿いに大型のショッピングセンターがあります。山国川を越えると福岡県ですが、そちらからのお客さんも多いようです。

 新博多町を歩きながら、改めて、中心街空洞化の深刻さを思い知らされました。

 ※※※※※※※※※※

 上の記事を記してから数年後に、中津市と下毛郡の各町村(三光村、本耶馬溪町、耶馬溪町、山国町)は合併し、新しい中津市が誕生しました。勿論、新市の中心は旧来からの中津市の部分でしょう。空洞化は深まっているのか、止まっているのか。気になるところです。

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上野恩賜公園と国立西洋美術館

2013年01月28日 00時03分41秒 | まち歩き

(以下は、「待合室」の別室26として2012年4月4日に掲載したものです。2013年1月27日に閉じました。なお、写真は2011年12月4日に撮影しました)。

2011年12月4日、妻と上野の国立西洋美術館に行きました。地下鉄銀座線上野駅から美術館へ向かう途中、上野恩賜公園を歩きます。

 「上野と言えば西郷さん」という言葉があるのかどうかは知りませんが、東京周辺に住む者にとってのイメージを表すとこのようになります。それほど、高村光雲の作であるこの銅像は有名です(犬は別の作者によります)。今はともあれ、上京したらまずは上野公園のこの銅像へ、という方も多かったのではないでしょうか。

 しかし、西郷隆盛の写真は残されておらず、実像は不明と言われています。肖像画も有名ですが、これも実像を捉えたものではなく、親類の写真を参考にして作成されたものであるということです。

 また、この銅像は、鹿児島市にある銅像(これも私は見ています)と全く異なり、軍装ではありません。犬を連れて狩に出かける姿となっています。薩摩藩の下級武士から軍人となった西郷隆盛にはやや似つかわしくない像ですが、これは意図的なものであるらしいのです。

 彼は1827年、現在の鹿児島市に生まれ、薩摩藩主の島津斉彬の知遇を得て政治に参加します。その後、1867年12月9日に行われた王政復古の際に活躍し、翌年の江戸開城では大総督参謀として幕府側の勝海舟と会談を重ね、無血での開城に至ります。明治政府が誕生してからは参議筆頭として廃藩置県などを行いますが、1873年、明治6年の政変によって役職を辞して帰郷し、1877年、自らが経営していた私学校の生徒たちに煽られるような形で西南の役(西南戦争)を起こします。九州各地を舞台としたこの内戦の末、鹿児島市にある城山で西郷隆盛は自決します。

 明治政府に多大な貢献をしたとはいえ、最後は反乱者であった人物の銅像です。軍服姿とする訳にはいかなかったのかもしれません(多分に資金的な面もあったらしいのですが)。

 紅葉の時期が遅くなった、と言われて久しいのですが、2011年もそうでした。12月の上旬ですが、ちょうど見頃の時期でした。日曜日ということもあって、散策を楽しむ人も多い公園は、美術館や博物館の多い所でもあります。これから訪れる国立西洋美術館もその一つです。但し、名称に国立が関せられていますが、現在は独立行政法人です。

 右側に東京文化会館があります。JR上野駅の公園口からであれば、改札口を出てすぐの場所です。また、左側は正岡子規記念球場です。子規は野球を愛好していたようであり、ユニフォームを着た彼の写真も残されています。また、球場のそばに句碑があり、「春風や まりを投げたき 草の原」という句が、野球で用いられる硬球のデザインに彫られた石に刻まれています。なお、正岡子規が晩年に住んだ場所は、この公園から近い台東区根岸でした。

 それにしても、JR上野駅ほど、出口によって全く異なる印象を受ける駅も少ないでしょう。正面玄関口や広小路口は、いかにも下町という街並みが広がるのですが、公園口は下町という感じを一切覚えさせません。変な表現で誤解を受けたり叱られたりするかもしれませんが、出口によって客層、というより階層が全く異なるのではないか、という疑問すら浮かびます。私が上野駅を利用する時は、常に地下鉄のほうなのですが、まだ院生だった1990年代に東京文化会館を訪れた際に、そこで行われたコンサートの客層を見て、すぐ後に京成上野駅と地下鉄上野駅との間の通路にいた人々を見て、極端なくらいの階層の違いを実感したのです。当時、新宿、渋谷など、大きな駅の構内には多くのホームレスが生活していたのです。上野も例外ではありません。地下通路は格好の場所でした。

 国立西洋美術館での展覧会を見終わりました。入口のそばの前庭に、いくつかの作品が展示されています。一点を除き、オーギュスト・ロダンの作品です。

 上の写真は「地獄の門」で、この美術館が保有する松方コレクションの一つでもあります。上のほうに、非常に有名な「考える人」がありますが、実はこの「地獄の門」がオリジナルであるようです。

 ロダンは1840年にパリで生まれ、1917年にムードンで亡くなっています。「地獄の門」は、1880年にフランス政府から製作を依頼されたもので、元々はパリの装飾美術館の門扉となることが予定されていました。デザインはダンテの「神曲」から得られたものですが、国立西洋美術館の解説によると、どうやら最初の構想からは大きく変化したようです。「考える人」は、元々が詩作をするダンテの像が予定されていたものが大きく変化し、地獄へ墜ちる者たちを上から眺めるかのような姿になっています。

 このモニュメントは、結局、門扉として使用されることはなく、ロダンの生前にはブロンズに鋳造されていません。亡くなってから鋳造されたようです。

 これもロダンの作品で、有名な「カレーの市民」です。カレー(Calais)はフランスの北部にある港町で、ドーバー海峡のそばにあり、現在は英仏海峡トンネルのフランス側の入口ともなっています。

 この都市は英仏の百年戦争の際にイングランドに包囲されました。1347年のことです。その折、カレーの指導者の一人にして富裕層に属していたウスターシュ・ド・サン・ピエール(Eustache de Saint Pierre)が他の市民とともにイギリス国王の下へ、人質になるものとして赴き、カレーの街と市民を救った、という逸話が残っています。その後、1558年まで、この街はイングランドの領土となり、スペイン領を経て1598年にフランスの領土となります。

 時は下って1884年、カレー市ではウスターシュ・ド・サ・ピエールの記念碑の建設が決定されます。そこで指名されたのがロダンでした。彼は上に記した逸話に感動して、カレーの街の鍵を手にし、首に縄を巻き、裸足で門を出て行く6人の市民を像としたのです。ところが、完成した像を見て、カレー市はこの傑作を拒絶します。同市が望んでいたのは戦勝記念碑のようなものでしたが、ロダンの作品は全く異なっていたからでした。除幕式が行われたのは完成から7年も経ってからのことと言われています。

 さて、次があまりにも有名な「考える人」です。先に紹介した「地獄の門」の上にある像の拡大版です。実際にはロダンの作品というより、アンリ・ルボセが手がけた作品というほうが正確であるようですが、オリジナルがロダンのものであることに変わりはありません。

 

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再び、大分市大字河原内

2013年01月27日 15時13分36秒 | 旅行記

 (以下は、2008年4月4日に「待合室」の第259回として掲載し、2011年3月30日に別室22として再掲載したものです。2013年1月27日に別室22を閉め、こちらに移動しました。明らかな誤字脱字を除き、一切修正しておりません。)

 先日、どういう理由であったかは覚えていませんが、大分バスのホームページを見ていました。自然に、かつて住んでいた場所を中心としてあれこれの内容を見てしまいます。

 4年前まで住んでいたのは国道10号線の宮崎南交差点のすぐそばで、大分バスの宮崎バス停から歩いて1分以内という場所です。やはり、自分が住んでいた所を中心にして路線図を見てしまうものですが、私が住んでいた頃と比べると、随分と路線が減ってしまったことがわかりました。とくに驚いたのは、大分駅付近のトキハ前から西寒多神社、美し野へ行くバス路線がなくなっていたことです。これは、元々西寒多神社までの路線でしたが、大分大学の裏のほうに美し野というニュータウンができ、延長したバス路線だったのでした。ただ、寒田のマルショクの交差点から先の道路の幅が狭く、本数も少ない路線ではありました。それにしても、延長して数年で廃止になるというのは、よほど採算が合わなかったのか、自家用車の普及の勢いが怒濤の如き勢いであったのか、ということなのでしょう。

 2004年12月、大分市内にある学校法人平松学園大分柔道整復士専門学校の非常勤講師として集中講義を行った時、宮崎交差点の東側にある、大分大学時代には常連として通っていた母家というレストランに行き、ホテルに戻ろうとして光吉入口バス停に立った時に、12月31日は17時台で運転を終了し、1月1日は10時から運転するということが時刻表に書かれていて、年末年始は終夜運転などが当たり前という首都圏の感覚からはかなり違和感を覚えたのでした。

 別の日に、やはりバスに乗って大南大橋の近くに行ったのですが、行きはともあれ帰りには困りました。ブックス豊後や壱番屋(どちらも、大分大学時代は何回も足を運んだものです)などがある交差点のそばにあるバス停の時刻表を見たら、2時間近くもバスを待たなければならないのです。大分市に住んでいた頃には自家用車で走り回っていただけに、不便さを強く感じました。「そうだ、橋を渡れば別のバス路線がある」と思い出し、大南大橋を渡って中竹中バス停に行ったら、さらに愕然としました。中竹中バス停にはトキハ前から河原内へ行くバスがやってくるのですが、これが1日に2本しかありません(私が住んでいた頃よりも削減されていました)。しかも、河原内からのバスはトキハ前まで行かず、白滝橋近くの辰口バス停が終点となっています。そして、土曜日と休日にはバスが来ないのです。

 1日2本しかないのでは、利用したくともできないというものですし、いつ廃止されてもおかしくありません。果たして、大分バスが路線の統廃合を行った際に、河原内までのバスは廃止されてしまいました。河原内は、中竹中からでもかなり離れた山奥のほうにある所ですが、陶芸関係の施設があり、河川敷を利用したプールなどもあり、というように、大分市民の憩いの場所として生かそうと思えばそれなりのことができる場所です。しかし、竹中中学校前バス停から先は過疎地としか言えないような場所でもありますから、バスの利用客が多いとは思えず、廃止はやむをえないことであったのかもしれません。

 バス路線が路線図から消えているのを見て、またいつか、河原内へ行きたいという願望が出てきています。そこで、今回は河原内を取り上げます。

 実は、このコーナーが始まったばかりの頃、第5回(2002年5月25日~6月1日)と第6回(2002年6月2日~6月7日)に「大分市大字河原内―懐かしさを誘う風景―」と題して、何枚かの写真を掲載しています。また、別室7として河原内の動画を掲載していました。そのため、今回は部分的に再掲載となります。

 上の写真は、河原内バス停からさらに弓立、黒岩へ向かう道路の途中で撮影したものです。「あの山の向こうに、一体何があるのだろう?」、「もしこの山々を歩き抜けると、どこへ行くのだろう?」。こう記すと「そんなことは地図を見ればわかる」と言われそうですし、実際にその通りなのですが、山が目の前にあると「本当にここから●●まで行くことができるのだろうか?」と疑いたくなることがあります。何度も、こうした森林の中にある細い道路に車を入れて走り回ったものです。いや、走り回るという言葉は相応しくないかもしれません。実際には普通自動車でも走行が困難な道路が少なくないのですから。

 撮影してから6年程が経とうとしていて、詳しい位置関係を思い出せませんが、1枚目の写真を撮影した場所から少し東側(竹中方面)に移動した所であったと記憶しています。

 この写真は、第5回で掲載したものです。せっかくですので、第5回の文章を再掲しておきましょう。

 ※※※※※※※※※※ 

 初夏。山の緑が美しい季節。もう少し経つと、高まる気温とともに葉の色彩も濃くなり、耳には山鳩や蝉などの鳴き声が心地よく響きます。静と動との見事な調和が、自然の中に実現しています。まさにこれからが、生命の力強い営みを感じさせてくれる時期です。

 人口43万人余りの大分市にも、このような自然が残されています。もしかしたら、見た目は美しくとも、実際には病んでいるのかもしれません。20世紀、我々人類は、思いのままに環境を破壊してきました。それは、自然が我慢し、受け入れてくれる範囲を超えていたことでしょう。そして、我々自身にも大きな代償として返ってきました。繁栄を得たかもしれませんが、それ以上に大切な何かを失いました。こうして自然に帰ると、現実に起こっているあらゆる事象が、実はそれほど大したことのない、余計なことばかりであることに気がつきます。我々は、真に本質的な事物を見失い、虚栄、虚飾の中に幽閉されているのです。

 2002年5月19日の午後、久しぶりに大字河原内に行きました。いや、私の心の中では「帰った」と表現するほうが妥当です。別に河原内地域で生まれ育った訳でもありませんし、都会の喧騒にも慣れ親しんでいます。しかし、或る種の懐かしさを感じるのです。人間の遺伝子に、緑に囲まれた山々で生活していた時の記憶が刻まれているのでしょうか。

 大字河原内は大分市内にあるのですが、大分駅周辺から20kmほど離れています。国道10号線を南下し、白滝橋手前の交差点を右に曲がって県道中判田犬飼線を走り続けます。最近できた竹中トンネルを越えてすぐの交差点を右に曲がり、県道622号線を直進すると大字河原内です。大分駅前からのバス路線もあるのですが、便数は少なく、車体も小型です。それでも離合ができない箇所があるほどに狭い道路を走っているのです。バスは河原内で終点となりますが、県道はさらに続き、弓立へ向かい、黒岩で県道41号線(大分大野線)と合流します。但し、そこまで行くと、自動車での通行は困難となります。また、この大字河原内字大津から分かれる細い道を進むと、本当にこんな所をダンプカーが走るのかと思うような場所に砕石工場があり、その先、黒仁田という集落へ進む道路があるのですが、さらに道幅が狭くなり、勾配もかなり急で(大げさかもしれませんが100‰くらいありそうです)、5ナンバーの車でも走行が困難なので、引き返しました。何しろ、5速マニュアルの車でギアを1に入れると車輪が空転し、2では坂を登るのにきついのです。オートマティック車では、軽自動車でないと走れないでしょう。

 ※※※※※※※※※※ 

 上の文章を書いてから約6年が経ちました。補足しておきますと、県道中判田犬飼線が631号、県道622号線が弓立上戸次線です。

 現在、このあたりはどのようになっているのでしょうか。バス路線が廃止されただけに、ほとんど変化がないのでしょうか。あるいは、民家が減っているのでしょうか。気になっています。

 段々畑というより、階段状の水田です。上のほうに民家があります。この辺りには平地がほとんどないので、このような水田になっています。既に農作業が行われていました(右の端に、農業用の機械が小さく写っています)。

 大分市で、このような水田が見られる所は、他にあったでしょうか。大分市のほぼ全域を自動車で走り回りましたが、よく覚えていません。

 

 大野川の支流、河原内川です。左側に、簡易舗装ではないかと思われる道路が写っています。よく覚えていないのですが、河原内バス停の先で、道路が二股に分かれ、また少し進むと合流する地点がありますので、おそらくその地点ではないでしょうか。あるいは、その先のほうだったでしょうか。

 ここから、写真で言えば奥のほうにも県道622号線が延びていて、弓立のほうへ向かうのですが、この奥のほうから先は自動車での通行が困難になります。

 それにしても、ここで生まれ育った訳でも何でもないのに、懐かしさを覚えるのは何故なのでしょうか。

 河原内川の水面です。先ほどの場所よりは少し東側、河原内川の河川敷プールに近い場所です。第6回に掲載したかもしれません(実は、何故か第6回の写真データが消滅しており、再現できないのです)。

 これも河原内川です。この川の幅は、短い距離でかなり変わります。もしかしたら、こちらのほうが河川敷プールに近いかもしれません。そこに駐車場があり、車を停めて、河川敷まで入って撮影した記憶があります。そして、山のほうに少し歩くと陶芸の里がありました。

 この辺りは、夏になると車も多くなります。家族連れなどが訪れる訳です。私がやってきたのは5月でしたので、周囲にほとんど人はいなかったのですが、それでも他に数台の車が停められていたはずです。また、県道622号線で、何回か離合していますが、地元の方が運転する車であったかもしれません。

 方角を変えまして、北のほうを撮影してみました。左側、山の途中にガードレールが見えます。そこに道路がある訳ですが、どういう道路であるかはわかりません。走ったことがないからです。黒仁田林道ではないはずなので、別の林道でしょうか。それとも大分市道でしょうか。この時は、走ってみようとも思わなかったのでした。当時、車の中には大分県の地図を入れていたのですが、その地図にも掲載されていない、あるいは、掲載されていても詳しいことがわからないような道路が、この周辺には多いのです。

 先に記したように、撮影地点に到達する前に、河原内字大津から分かれる細い道を進んだのですが、砕石工場から先はようやく5ナンバーの車が一台通ることができるほどの幅しかなく、しかも勾配がかなり急です。途中で引き返したのですが、簡易舗装で、しかも舗装部分にも大量の石が落ちており、舗装部分を外れるとすぐに大木や竹の幹があるような道路でしたので、ハンドルの切り返しにも苦労しました。方向転換に何分もかかったような記憶があります。そして、元の道に戻るのですが、急勾配の急カーブという難所が待ち受けています。ハンドルとブレーキペダルを慎重に操作し、エンジンブレーキを活用して走らなければならないので、訓練にはなりますが疲れます。大分県には、県道でもこうした道路がいくつかありますが、地図にはそうした情報が掲載されていませんので、御注意を。ちなみに、カーナヴィゲーションシステムではどうなのかについて、私は知りません。今も私の車にはこのシステムが付いておらず、全く利用したことがないのです。

 考えてみれば、大分時代は、時々、このような場所や道路を走っていました。その度に大変な思いをしました。当時のことですので(今もそうかもしれませんが)、このような場所では携帯電話など通じません。ガソリンスタンドも公衆電話も近くにありません。勿論、速度を出すことなどできません。いくら5ナンバーの車とはいえ、よくぞそのような道を走り回っていたものです。3ナンバーの車に乗っている現在では、険道などと言われるような県道を走る勇気がありません。

 詳しいことを思い出せないのですが、河川敷プールの近所に、こうした集落があったと記憶しています。違うかもしれません。見に行って確かめたいくらいなのですが、そのようなことをするのに時間的にも金銭的にも余裕がありません。しかし、いつかは再び訪れたいと思っています。バス路線もない現在ですので、日産のマーチ、トヨタのヴィッツなどのクラスの車を借りて、走り回るのです。横須賀から佐賀関までフェリー航路があるので、それを使ってもよいのですが、果たしてどのくらいの時間と費用がかかるでしょうか。

 大分県内の国道や県道を走っていると、脇道を進んで坂を登った所にこうした集落があるのをよくみかけます。大分市内では、河原内から竹中に戻って北のほうに走り、中判田駅付近から西のほうに出ると、やはりこのような集落があります。大分市でなければ、至る所にあると言ってもよいでしょう。

 一時期、このような所に住んでみたいと思っていたことがあります。周りにビルやマンションなどがないからです。建物は平屋でもいい、などと考えていました。ただ、通勤などは大変でしょう。買い物なども大変です。大分駅周辺などで酒席があったりすると、帰るのが一大事です。23時発の豊肥本線上り最終列車三重町行に乗り、竹中で降りるとしても、タクシーなど待っていないような無人駅から1時間くらい、暗い山道を歩かなければならないからです。タクシーであればかなり高額の料金を払わなければならないでしょう。それでも、休日だけでもこのような所で過ごすことができるとうれしいものではないでしょうか。考えてみれば、大分大学の周辺も、かつてはこのような場所だったはずです。

 先ほどの場所とほぼ同じ地点から、角度を変え、ふもとのほうを撮影してみました。民家の前にあるのは畑でしょうか。

 私が幼かった頃に読んだ百科辞典(子供向け)では、ニュータウンにある集合住宅が近代的で日当たりが良いという意味で取り上げられ、農村地帯にある旧家が前近代的で日当たりが悪いという意味で取り上げられていました。しかし、子供ながら、集合住宅の真四角の建物が並んでいる所のどこがよいのか、と疑問に思っていました。たとえ日当たりが多少悪くとも、庭があり、そこに木々が植わっているという家のほうが、はるかに住環境としては良いのではないかと思っていたのです。

 実際のところ、どこかのニュータウンを走っていて、建築年数が経過した集合住宅を見ると、老朽化ばかりが目立ちます。貫禄もありません。並んでいる所を見ると不気味さを感じることすらあります。その点、こうした場所にある民家の場合は違います。勿論、維持などは大変ですし、面倒な点が多いことは当然です。それでも、木々に囲まれた家屋のほうに魅力を感じます。育った環境によるのかもしれません。

 川崎市の高津区、宮前区、麻生区、横浜市の青葉区、緑区、都筑区などでも、一昔前まではこのような風景が当たり前のように見られました。今でも所々に残っていますが、随分と少なくなってしまいました。上の写真に近い風景が色濃く残っている場所と言えば、川崎市であれば麻生区早野、横浜市であれば青葉区寺家でしょうか。

 大分市を離れて4年が経ちます。また訪れてみたいと思っているのですが、とくに足を運んでみたい場所は、郊外型大規模ショッピングセンターがあるような場所でもなく、観光地のような場所でもなく、河原内、黒仁田林道、天面山、といったような場所なのです。再訪の時期はいつになるでしょうか。

 

〔追記〕

 上記のように、今回掲載した写真を撮影したのは2002年5月19日です。私が大分大学教育福祉科学部の助教授に昇格したばかりの頃、ということになります。それから9年が経とうとしています。私が河原内を最後に訪れたのがいつのことであったか、よく覚えていないのですが、おそらく8年の時間は経過しているはずです。どのように変わっているのか、あるいは変わっていないのか、見たいという気持ちはあります。

 8年、9年という時間は、やはり長いものです。その間、私は、2004年に大分大学教育福祉科学部を離れて大東文化大学法学部に移り、4年前に助教授から教授に昇格しました。その他、私的な事柄を含め、私の環境は大きく変わりました。おそらく、私自身も変わったことでしょう。2011年4月で、大分市を離れて7年が経ったことになります。

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岳南鉄道が鉄道事業を分割

2013年01月25日 01時35分55秒 | 社会・経済

 昨年の12月25日、静岡県富士市を走る岳南鉄道線を利用しました。翌日付の「岳南鉄道線に乗ってきました」でも記しましたが、昨年3月に行われたJRのダイヤ改正に伴って貨物輸送が廃止されたことにより、存続が危ぶまれる状況になりました。あるいは、決定的な危機を迎えた、とも言えるかもしれません。

 その岳南鉄道について、1月24日、静岡新聞と静岡放送の共同サイト「アットエス」に、7時50分付で「岳南鉄道、鉄道事業を分割 経営改善目指す」という記事が掲載されました(http://www.at-s.com/news/detail/474560537.html)。今後の行方が気になるという内容です。

 上記記事によると、岳南鉄道は、今年の4月に鉄道事業を分割した上で「岳南電車」という子会社を設立する方針を固めたとのことです。これにより、「意思決定の迅速化と財務状況の透明性を高め」て同社の経営改善を目指すとのことですが、赤字部門を本体から切り離すということは、鉄道線の廃止を視野に入れた方針である、ということでしょう。また、岳南鉄道線に対しては、富士市から年間6500万円の補助金が支払われることとなっています(2014年度まで)。そうである以上は経営努力の姿勢も見せなければなりません。1990年代に廃止され、会社も消滅した野上電気鉄道のように、補助金に頼り切り、ほとんど経営努力もしてこなかったというのでは、補助金の正当性すら疑われることとなります。

 「鉄道」を名前に掲げる会社の多くでは、もはや鉄道は主力事業ではありません。岳南鉄道もそうであるかどうかはよくわかりませんが、不動産事業や物品販売事業も行っており、これらは黒字なのだそうです。かつてはバス事業も行っていましたが、全て同系列の富士急静岡バスに譲渡されています(岳南鉄道は富士急行の系列に属します)。

 上記記事には、次のようなことも書かれています。

 まず、子会社は、資本金を1億円とし、普通株式を1000株発行します。その上で、普通株式は全て岳南鉄道に割り当てられます。

 次に、現在岳南鉄道の鉄道部門に勤務する従業員24人は、全員が子会社に移籍します。

 利用者にとって最も関心が高いのは運賃とダイヤでしょう。これらは、子会社設立後も変更しないとのことです。

 JR北海道で試運転が行われていたDMVも走ったことのある岳南鉄道線は、子会社に分離されることでどのようになるのでしょうか。存続か、廃止か。注意深く見ていく必要があります。

 静岡県と言えば、天竜浜名湖鉄道についても議論があります。元々は国鉄二俣線であり、1980年代に現在の形態に移行された訳ですが、赤字続きであり、長らく赤字補填が続いています。現在は年間で2億円ほどで、設立から2010年度までの合計は焼く26億円にのぼります。静岡県のプロジェクトチームは5年以内の営業黒字化を求めるという内容の報告書をまとめていますが、実際には困難でしょう。元来が東海道本線の迂回ルートであり、平成の市町村合併で現在の浜松市が成立するまでは同市を経由していなかったのです。つまり、現在でも浜松市の中心部などを通らないのです。

 以上の件は、やはり「アットエス」で1月16日の7時45分付で「天浜鉄道に『5年以内黒字化』要求 県検討チーム』(http://www.at-s.com/news/detail/474558355.html)として報じられていました。それによると、代替交通機関の整備が困難であるとしながらも、5年以内の黒字化達成がなされなければ改めて存続か廃止かと審議すべきであるという趣旨の提言がなされています。ただ「民間委員からは赤字体質を問題視する厳しい意見もあった」とのことです。こういう見解は必ずといってよいほど出されますが、少しばかり筋違いのような気もします。炎上を覚悟で記すならば、1980年代の国鉄分割民営化の際に、国鉄二俣線は特定地方交通線のうちの第二次廃止対象路線にあげられていたのですから、その時点で廃止していれば、今のような問題は起こらなかったでしょう。第三セクターを設立して二俣線を引き継いだということにより、問題を先送りしたのであり、そのツケが21世紀になってまわってきた、ということなのでしょう。

 しかし、単純に赤字か黒字かで判断をすることができないのが公共交通機関の問題です。廃止するのはたやすいでしょう。ただ、それが地域の長期的な発展に資するかどうか、慎重に判断しなければなりません。鉄道もバスもない、自家用車か自転車だけが頼りであるという地域に、長く住み続けることはできるのでしょうか。川崎市高津区に住み、東急田園都市線を通勤などの手段として利用する私は、大分市で7年間も住んでいたにもかかわらず、車社会に戻ることができません。大分県の県庁所在地から離れて、もうじき9年が経ちます。

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自動車重量税を再び道路特定財源へ?

2013年01月23日 22時39分00秒 | 国際・政治

 今日の朝日新聞夕刊1面4版(トップ記事ではありません)に、驚く記事が掲載されていました。「自動車取得税 15年廃止  政権方針  重量税、再び特定財源化」という見出しです。

 私が驚いたのは、自動車取得税の廃止ではありません。これはむしろ、消費税率の引き上げによる廃止が見込まれるものでした。自動車業界対都道府県(課税主体)という構図は存在していましたが、自動車取得税は、本来の性質はともあれ、機能としては消費税または地方消費税と変わらないような側面を持っていたからです。この税が道路特定財源であった時にはまだ存在意義があったともいえますが、一般財源化されれば消費税との二重課税と理解されても不思議ではないのです。

 記事を読み進めて驚いたのが、自動車重量税が再び道路特定財源化されるという方針が打ち出されたことです。今月24日(この記事を書いている時点では明日の話ということになります)に平成25年度税制改正大綱が決定されますが、2014年度に消費税率が引き上げられるとともに自動車取得税の減税が進められ、2015年度に再び消費税率が引き上げられるとともに自動車取得税は廃止され、自動車重量税も減税されるとともに特定財源化される、という方針が盛り込まれることとなるようです。

 2009年に道路特定財源は一般財源に変えられましたが、特定財源の復活が予定されたこととなります。まさに、時計の針を逆に進めたかのような話です。もっとも、それは自動車重量税に限りません。経済財政諮問会議などにも現われているように感じられます。それは私だけのことでしょうか。

 安倍政権は「三本の矢」政策を進めています。その中で特に目立つのが公共事業の強化です。どれだけの景気浮揚効果があるのかという疑問が多くなり、その結果としてムダばかりが指摘されるようになり、「コンクリートから人へ」というスローガンとともに民主党が政権をとったのは2009年秋のことです。しかし、民主党政権も時間が進むと「コンクリートから人へ」ではなく「人からコンクリートへ」という方向性を取るようになりました。自民・公明連立政権が復活してからは、この方向性がより明確になっています。

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軽減税率見送りは当たり前、なんだけど……

2013年01月20日 09時30分22秒 | 国際・政治

 今日の朝日新聞朝刊1面14版に「消費税8%引き上げ時 軽減税率見送り 政権方針」という記事が掲載されています。

 それによると、安倍政権は来年4月からの消費税率(地方消費税の税率を含みます)引き上げの際に、低所得者対策として「1人あたり約1万円を配る『簡素な給付』で対応する」ということですが、軽減税率の採用は見送ったとのことです。もっとも、完全な見送りとは言えません。2015年10月に予定されている10%への引き上げの際には軽減税率の採用も考えられるからです。今後も検討されなければならないでしょう。

 安倍政権の方針は、少なくとも来年4月の税率引き上げについては「当然のこと」と評価すべきです。上記記事にも書かれていますが、軽減税率を採用するにはインボイス方式への変更が不可欠です。しかし、いきなり切り替える訳にもいきません。そもそもインボイス方式が採用されてこなかったのですから(その意味では消費税の導入は時期尚早であったとも言えます。日本の事業の大部分は、消費税の納税義務者としての能力を欠いている、と自ら主張してきたのですから)、整備をしなければなりませんし、周知期間も必要でしょう。日本の場合は習熟期間すら必要となるでしょう。8%への引き上げの時点から軽減税率の採用を主張しているのは公明党ですが、政治的な思惑を考慮に入れても無理な主張であるとしか言えません。短かった民主党政権時代に議論された消費税増税の議論の折に、軽減税率導入に向けての具体的な政策論を展開したのでしょうか。ただ、軽減税率を採用せよと主張しただけでしょう。インボイス方式のことについて全く知らなかったとしか思えません。

 なお、軽減税率を導入している国でも廃止の議論があるようです。これには注意を向けておく必要があります。

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西鉄宮地岳線乗車記(3)

2013年01月19日 06時03分20秒 | 写真

 前回に引き続きましての西鉄宮地岳線乗車記、その3です。津屋崎駅から歩いて海岸に出て、玄界灘を見ようと思います。津屋崎は海水浴場でもあり、時期を完全に外しているとはいえ、海を見ておこうと考えたのです。そう言えば、一昨年には、JR香椎線の西戸崎駅付近から海を眺めていました。

 いきなり、海とは全く関係のない写真で申し訳ございません。駅から歩いて1分も経たないような場所に、フォルクスヴァーゲンの名車の一つ、カルマン・ギアが置かれていたので、撮影してみました。ナンバープレートが外されていますし、タイヤはパンクしていますし、車体も傷んでいます。しかし、レストアすれば現役で走れそうですし、東京都世田谷区や目黒区にあるワーゲン屋さん(フォルクスヴァーゲンの空冷式自動車を販売しているお店のこと)では立派な現役車を購入することができます。この車を見て「もしも少しばかり手を入れたら走れそうなら、欲しいなあ」と思ったくらいでした(ただ、色を変えたいとは思うのですが)。

 マツダのファミリア・シャテレ(スカイブルー)、日産パルサーJ1J(茶色のメタリック)、日産ウイングロードX(黒)を経て、現在は5代目ゴルフGLi(黒)を愛車としている私ですが、幼い頃から、何故かドイツ車には興味を持っていて、とくにフォルクスヴァーゲンのビートルなどが好きでした。免許を取って間もない頃には等々力でビートル(VW1303)を見て、あと少しで購入というところまで行きましたし、大分市に住んでいた時には、大字宮崎にある下水処理場の近くに白いビートルが置かれていたので買おうかと思ったくらいです。ただ、メインテナンスが大変なようなので、結局は購入をあきらめました。渋谷のエンワ、レオ、東急ハンズで売られている、ヴィキングやブッシュのミニカーで楽しめます(ドイツのミニカーは、鉄道模型のHOゲージに合わせたサイズとなっていて、非常に精巧です。そのため、私の愛車であるゴルフについては、初代から5代目まで揃えてしまいました)。

 このカルマン・ギアは、エンジンなどの基礎的な部分がビートルと共通なのですが、ビートルやゴルフのカブリオレも手がけているドイツのカルマン社と、イタリアのギア社が車体のデザインなどを手がけています。この種の車でファンが多いのはアメリカと日本で、両国で人気が高い車です。

 持ち主の方に。無断で撮影して、しかもこのブログにあげてしまい、申し訳ございません。私もフォルクスヴァーゲンのファンであるということで、お許しを。

 駅から少し歩き、交差点を越えると、防風林沿いに海の家などが並んでいるという道があります。上の写真がそれで、右側が海の家やレストハウスで、玄界灘はすぐそこです。海水浴の時期は過ぎていますので、人通りは少ないのですが、何故か駐車している車は多いのです。海水浴なんて、もう16年くらい遠ざかっています。それに、海よりは緑に囲まれた山の中のせせらぎのほうが好きなのですが、時には海岸で波を見ていたいという気になるのです。

 「♪今はもう秋 誰もいない海」という歌がありました(私が生まれる前か、生まれて間もない頃の歌です)。全くその通りではないのですが、秋の海、津屋崎海岸です。日本海の一部とも言える玄界灘を見ています。2年ぶりに砂浜を踏みしめています。

 右側に見えるのが相ノ島で、左側に見えるのは玄海島、志賀島のいずれかでしょうか。 砂浜を歩いていると、所々に船が見えます。久しぶりに波のハーモニーを耳にしました。すると、頭の中に、ラヴェルのピアノ曲「海原の小舟」(Une barque sur l'ocean)が流れてきました。1987年秋、予備校に通っていた時に六本木WAVEで購入したフランスEMI盤で聴いて以来、今に至るまで聴き続けている、ラヴェルのピアノ曲らしい美しい曲です。

 海と言えば、やはり六本木WAVEで大学院生時代に買った、ギドン・クレーメルのアルバムFrom My Homeのジャケットを思い出します。モノクロームの写真で、何故か1台の自転車がポツンと置かれている、不思議なものでした。今も忘れられない秀逸なデザインでして、私には、そのアルバムのジャケットといい、9月3日(日曜日)の津屋崎海岸といい、寂しい海岸の情景こそが好ましく思えてくるのです。

 今度は、南のほうをとらえてみます。福間、古賀、そして福岡市のほうを見ています。宮地岳線は、貝塚から津屋崎まで、この海岸線に近いところを走っているのですが、海は見えません。一昨年、香椎線に乗った時に、海ノ中道を通り、少しばかり車窓から海を見て、西戸崎駅周辺で玄界灘を眺めていましたが、その海ノ中道などから津屋崎は或る程度離れています。

種類がわからないだけに、気になりました。

 

 海を見て、心を洗ったところで、駅へ戻ろうと思いました。そして、津屋崎駅前にある児童公園に入ります。立派な松が何本も生えている立派な公園で、児童公園という名称がもったいないくらいです。私も日本人で、松の木を愛する者です。

 この児童公園には写真にあるように「ふるさと」と「赤とんぼ」の歌詞を記した看板が立てられています。見た瞬間に思ったのですが、両方ともこの津屋崎町に縁(ゆかり)がない歌ではないでしょうか。海岸に近いこの場所に「ふるさと」の歌詞は似合いませんし、「赤とんぼ」の歌詞は、一番を歌ってみればすぐにわかるように、近畿地方の山里の情景でしょうから、やはり海岸に近いこの場所には似合いません。そんなことにこだわるほうがおかしいのかもしれませんが。

 2005年、津屋崎町は福間町と合併し、福津市になりました。そのため、津屋崎町はもうありません。しかし、公園には津屋崎町が残っていました。昭和60年は1985年、その年に町村合併30周年ですから、津屋崎町は昭和30年、1955年に誕生したことになります。結局、一地方公共団体としての命はちょうど50年ほどだったということになります。地方公共団体は法人ですから、人格を持っています。人生50年という言葉もありましたが、今の日本人の平均寿命は大体80年前後ですので、今や、人生50年という言葉は市町村にこそふさわしいのかもしれません。

 時間を見計らい、また西鉄宮地岳線に乗り、津屋崎を離れることとしました。果たして、次にここに来るのはいつのことになるかと思いながら。来年の3月末日をもって西鉄新宮~津屋崎が廃止されてしまうと、京浜地区に生まれ育ち、今も住んでいながら、大分市に7年間住み、その間に福岡に何度も足を運び、大分市を離れてからも集中講義のために年に1回、10日間前後を福岡で過ごし、すっかり九州に馴染んでいる私としては、また一つ、行きにくい場所ができてしまいます。残念なことです。

 この300形3両編成で、貝塚に戻ります。現在、宮地岳線を走る電車の多くは、天神大牟田線(太宰府線と甘木線を含める場合も多い)を走っていたもので、この300形もそうです。中古車らしくという表現がふさわしいかどうかわかりませんが、かなりの改造が加えられています。天神大牟田線を走っていたかつての特急用の名車、1000形より古いので、吊り掛け駆動かと思ったのですが、カルダン駆動に改造されていました。しかも冷房化されています。

 津屋崎駅に戻った時には、駅員と私以外に誰もおらず、上の3両編成の電車が到着した時、果たして降りたお客がどれくらいいたのかわからないような状態でした。この電車には、運転士と私だけしかいなかったのでした。発車間際に女性の客が乗ってきましたが、それでも、津屋崎を出発した電車の中は、真ん中の車両に私、後の車両に女性の客、この2人しかいなかったのです。西鉄福間で数人乗ってきましたが、前の1両が運転士だけ、真ん中の車両が私だけ、そして後の車両に残りの数人だけがいました。徐々に客が増えてくるのですが、空気だけを運んでいるような車両がなくなったのは西鉄古賀か西鉄新宮に到着してからでした。西鉄新宮、三苫で客が増えてきて、和白、西鉄香椎、西鉄千早では入れ替えもありました。

 それにしても、3両は多すぎるという感じです。平日にはもう少しお客が多いのでしょうか。しかし、推して知るべしという気もしなくはありません。ちなみに、宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎の廃止とともに、この3両編成は廃車となっています。

 数年ぶりに宮地岳線に乗ってみて、少なくとも西鉄新宮~津屋崎に関して言えば、よくぞここまで生き残ったとも思います。JR鹿児島本線とほぼ並行しながら、しかも貝塚~三苫は福岡市内を走りながら、全線単線ですし(しかも、複線化しようと思えばできるようになっている場所が多いのです)、車両も見劣りのする古いものばかりです。終点の津屋崎も、開業当時はともあれ、現在の視点からすれば中途半端な場所ですが、何といっても起点の貝塚が致命的です。福岡市内線があったころならまだよかったのかもしれませんが、福岡市の市街地からは完全に外れたところですし、どうして、福岡市営地下鉄箱崎線との相互乗り入れを実現させなかったのか、理解に苦しみます。このために、名香野駅が移転して西鉄千早駅となって鹿児島本線と乗り換えられるようになるまでは、博多に出るにも天神に出るにも面倒な路線でした。これでは、通勤路線としての役割を十分に果たせないでしょう。莫大な費用がかかることは承知していますが、関東の私鉄であれば、その莫大な費用をかけてでも地下鉄と相互乗り入れを実現させたりして、路線の存在意義を高めていたでしょう。

 宮地岳線で天神、西新、姪浜まで乗り換えなしで行ければ、本当に便利です。あるいは、今の七隈線も違った形になっていたでしょう。宮地岳線に乗っていればだまっていても六本松などに行けるならば、もっと乗客は増えていたはずです。

 それに、宮地岳線ではよかネットカードも使えないのです。福岡市営地下鉄、西鉄天神大牟田線・太宰府線・甘木線、そして西鉄バスで使えるカードですから、宮地岳線でも使えるようにすべきだったのですが、宮地岳線には投資しないという姿勢のためなのでしょうか。

 不利な線形ですが、宮地岳線の一部区間をこのまま廃止させるのはもったいないのです。並行している鹿児島本線も、決して便利な路線ではありません。快速電車が走っていますが、その停車駅などが非常に複雑でわかりにくく(しかも、電車の正面には快速という表示がありません。こんな電車が京浜地区や京阪神地区を走っていたら総スカンを食います)、普通電車の本数も少ないので、昼間の快速通過駅では結構待たされます。特急優先のダイヤだからということなのか、普通電車に乗ると、とくに博多から久留米の間ではやたらと特急や快速の通過待ちなどをしますし、快速電車でも特急の通過待ちなどということで南福岡などで長い時間停車しています。原田から博多まで乗った時には、本当にうんざりしました。これなら、やはり鹿児島本線に並行している西鉄天神大牟田線のほうが便利です。博多から福間の間でも同じようなものですから、宮地岳線も、工夫次第でいくらでも改善できたはずです。そして、宮地岳線がもう少し便利な路線であれば、福岡市営地下鉄箱崎線の利便性が高くなったでしょう。

 関東地方であれば、地下鉄に乗り入れるなど、様々な手を使って利便性を高めようとするのが当然なのですが、福岡ではそのような姿勢が感じられないのです。

 あれこれと書いてきましたが、宮地岳線で貝塚に戻るまで、こんなことを考えたりしていたのでした。

 貝塚に戻り、箱崎線に乗りました。中洲川端で乗り換えて博多駅に出て、山陽新幹線に乗って小倉に出て、日田彦山線と後藤寺線を乗り継いで飯塚に出るという、私にとっては非日常的である生活をおくる日々を利用しなければできないことをやるのですが、それについては、また、機会を改めて。

  (以上は2006年10月17日、第189回として掲載したものです。その後、2007年12月31日に、第186回および第188回と統合し、一部変更の上で、別室9として再掲載しました。2010年10月17日に別室8へ移行しましたが、2010年11月10日に掲載を終了しました。

 

 (追記:2007年12月31日)

 2007年4月1日、西鉄宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎は廃止されました(営業最終日は3月31日で、その翌日を廃止日とするのが通例です)。同時に、残された区間の貝塚~西鉄新宮は貝塚線と改められました。

 当初は、福岡市内の貝塚~三苫を残し、三苫~津屋崎を廃止する予定であったようです。詳しいことは不明ですが、おそらく通学の利便性のために貝塚~西鉄新宮が残ったということです。貝塚線に名称を改めるとともに、運転本数も若干減りました。ただ、地下鉄箱崎線との接続は改善されたようですので、今後を期待したいところです。

 西鉄と言えば、2000年11月に北九州線が全廃されました。その半年ほど前に、最後の区間となった黒崎駅前~折尾に乗りました。その時には一枚も写真を撮っておりませんので、今となっては残念なことです。なお、黒崎駅前~熊西は、現在は筑豊電気鉄道の一部として残っています(但し、正式には西鉄が保有し続けています)。

 そして、2007年12月、ついに、高千穂鉄道の全区間が廃止となることが決まりました。既に延岡~槇峰の廃止は決定していますが、槇峰~高千穂についても廃止届が提出されたのです。2008年の12月までに廃止されることとなります。高千穂鉄道は、まだ私が大分大学教育学部の講師であった時に、一度だけ、延岡から高千穂まで乗りました。天岩戸駅の近くにある、日本で一番高い場所にある鉄橋のことを思い出します。非常に残念な話ではあるのですが、乗客が非常に少なく、早晩、経営資金が底をつく状態であったこと(私が乗車した頃にも廃止の噂はあったようです)、そのような経営状態で営業再開のために必要な資金を確保することが無理であるということなので、廃止はやむをえないでしょう。

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西鉄宮地岳線乗車記(2)

2013年01月18日 01時00分41秒 | 写真

  前回に引き続き、西鉄宮地岳線を取り上げます。なお、2007年4月1日に同線の西鉄新宮~津屋崎が廃止されると同時に、西鉄貝塚線と改称されています。なお、修正等については前回の記事を御覧下さい。

 今回は津屋崎駅周辺を歩きます。私が乗車した2006年9月3日の時点では、翌年の4月以降に津屋崎駅がなくなっているかもしれないので、今のうちに取り上げておこう、と考えていました。

 津屋崎駅を出るとすぐに見えるのが、この新浜山児童公園です。児童公園というには立派に過ぎるほどの松並木に圧倒されますが、私が訪れた時には児童と言える人はおらず、10代後半か20代前半の人が数人いただけでした。

 駅の周囲を回ってみることにしました。私が乗ってきた313形は、貝塚行となり、ここで折り返しの準備に入っています。しかし、乗客らしい人は1人しかいないようです。いかに日曜日の午後とは言え、寂しさを通り越しているような気がします。

 そして、西鉄が1時間に4本から5本も走らせていることに驚かされるほどです。「宮地岳線の存続を求める会」の方からいただいたメールによると、12.5分間隔であるとのことです。列車交換の便宜によると推測されるとは言え、何とも中途半端な運転間隔ですが、考えようによっては、この間隔を維持しているということは、それなりの利用客が存在するということでもありますし、将来的な可能性を今も残しているということになります。

 もし、昔の国鉄の路線だったら 、福岡県内にあった甘木線、勝田線、上山田線などと同じく、1日に10往復以下としていたでしょう。これでは(よほどの好事者でなければ)乗りたくとも乗れない路線、それどころか乗る気を起こさせない路線となってしまい、乗客減と赤字に拍車をかけてしまいます。また、JR九州の路線として残ったとすれば1時間か2時間に1本くらいとされた可能性もあったと思うのですが、これでも不便なことに変わりはありません。

 結局、乗客は増えないまま、電車は貝塚に向けて発車しました。左奥のほうに、旧津屋崎町が建設したと思われる施設があります。そこそこですが、利用者はいます。多分、徒歩か自家用車で来るのでしょう。

 駅の周囲を一回りしてきました。昭和40年代までは多かったと思われるような姿の民家などが多いのですが、周囲はいたって静かです。こうして、行き止まりになった線路を道路から見ると、終着駅のわびしさのようなものを強く感じます。手前のひまわりも花を散らせ、枯れつつあります。よく見ると、手前の架線柱は木製です。

 暗い写真になって申し訳ございません。津屋崎駅の改札口です。宮地岳線には自動改札機がありませんし、よかネットカードも使えません。そのためか、JR九州でもローカル線なら見られる改札口となっています。駅の係員が立つスペースがありますが、この日は駅員が立っていません。

 改札口の右側が乗車券の発売窓口です。その右側に売店があるのですが、実は乗車券の発売窓口と売店はつながっています。そのため、売店で缶ジュースや菓子などを買う際には乗車券の発売窓口でお金を払うことがあります。首都圏、とくに京浜地区でこういう構造の駅は存在しないでしょう(もしありましたら、御教示下さい)。京阪神地区でも存在しないはずです(もしありましたら、御教示下さい)。

 まだ学部生だった時に近鉄大阪線の大福駅を利用したことがあるのですが、その駅の場合は乗車券の発売窓口がなく、隣にある小さな商店で乗車券を買いました。ローカル線なら時折見られる構造です。しかし、西鉄の場合は、天神大牟田線はもとより、甘木線や宮地岳線でもそのような駅はありません。改札口と売店とがつながっているような駅が多いようなのです。

 先ほどの線路の行き止まりの写真を撮影したのと同じ地点から、方向を変えてみました。津屋崎駅は、つい最近まで津屋崎町にありました。いわば町の代表駅とも言えるのですが、それにしてはひなびた駅です。御覧のように、台数こそ少ないとは言え車は通っています。しかし、歩いている人がほとんどいません。1時間ほど前まで天神の雑踏の中を歩いていたのに、まるで別の県に行ったような感じがします。

 でも、よく考えてみると、今、県庁所在地の中心街や郊外の大規模商業施設の周囲でもない限り、このように人通りが少ない所は多いのです。おそらく、これは九州に限らない全国的な現象でしょう。京浜地区や京阪神地区に留まっている人にはなかなか理解できない光景かもしれません。

 津屋崎町は、2005年1月24日に福間町と合併して福津市になりました。以前から、鹿児島本線も通る福間町のほうが賑やかでしたが、合併でその傾向が強まったのかもしれません。ただ、歩いた日は日曜日でした。平日の朝や夕方なら、もう少し人通りがあるのでしょうか。

 津屋崎駅前のバス停です。誰もいません。本数などを確認していないのですが、少ないのだろうと思われます。そもそも、ここからバスに乗ってどこまで行けるのかを知りません。ここは日本海に近いのですが、そんな感じを全く受けません。

 駅のすぐそばを通る国道を渡ると、数件の商店があります。その一角に、こんな貼り紙がありました。宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎の廃止が表明され、届出がなされたのは今年の3月31日でした。福津市などの沿線自治体は廃止に反対の立場をとっています。しかし、津屋崎駅周辺を歩いて、このように廃止反対の意見を表明するような貼り紙を、私はこの一箇所でしか見ていません。もしかしたら、他の場所にもあるのかもしれませんが。

 もっとも、西鉄宮地岳線の沿線などを地図で見ておいてから実際に乗ってみると、貝塚~三苫はともあれ、三苫~津屋崎は、よくぞ今まで存続できたと思います。戦前に福岡市周辺に存在した私鉄は戦時体制の要請によって西鉄に統合されたのですが、その後に香椎線と勝田線が国有化されています。いずれも石炭輸送に重要な役割を果たすからですが、香椎線は現在もJR九州の路線として残っているものの、勝田線は国鉄の民営化とともに廃止されてしまいました。この勝田線は、博多の次の吉塚から、福岡空港に近く、福岡市のベッドタウンとして発展している志免町(かつて国鉄の炭鉱があった)、宇美を通って筑前勝田まで走っていた路線で、国鉄がもう少し努力していれば廃止を免れたはずの路線です。大都市(政令指定都市)を走る路線が国鉄民営化の影響で廃止されたという点で、勝田線は例外的な存在でした。もし、戦時中に宮地岳線が国有化されていたら、やはり1980年代に、少なくとも部分廃止される可能性は否定できなかったはずです。

 今回は、津屋崎海岸に到着することができません。またの機会に、日本海(玄界灘)を見ることとしましょう。

 

  (以上は2006年10月10日、第188回として掲載したものです。その後、2007年12月31日に、第186回および第189回と統合し、一部変更の上で、別室9として再掲載しました。2010年10月17日に別室8へ移行しましたが、2010年11月10日に掲載を終了しました。)

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西鉄宮地岳線乗車記(1)

2013年01月17日 22時09分34秒 | 写真

  私のサイトに設けている「待合室」では、関東や九州を中心に、これまで歩いてきた街の様子などを、写真と文章で紹介しています。その中で、存続か廃止かで論議された鉄道路線の様子を取り上げた回があります。今回はその再掲載です。なお、一部を修正しています。

 「待合室」および「ひろば」を御覧になられている方は、私がいかに出歩くことが好きか、街中などを歩くことが好きか、ということがおわかりかと思います。

 「いつからそうなったのか」と問われるならば「幼い頃から」としか答えようがありませんが、大分大学に就職してからその傾向が強くなったことは確かです。大分市に住んでいた7年間は、自宅から一歩も出ない日のほうが珍しいくらいでした。仕事のためにあちらこちらに行くことは当然として、仕事以外でも、最初の2年半は日産パルサーJ1Jで、残りの4年半は日産ウイングロードXで、大分県内をはじめとして福岡県、熊本県、宮崎県などを走りました(九州島内で、車で走ったことがないのは長崎県だけです)。列車で大分市中央町へ、足を伸ばして佐伯市、当時の湯布院町、竹田市、日田市、さらに福岡県などにも行きました。

 時には、とくに目的地を決めることなく移動を楽しんでいました。私の場合は、自分で車を運転することも好きですし、列車に乗るのも好きですので、移動の過程を楽しんでいるのかもしれません。九州に住んでいると、車さえ持っていればどこへでも足を伸ばす気になりますので、休日などのドライブの距離が長くなります。福岡の天神まで行けば往復で300キロメートルを超えますし、大分県内を走り回っていたらやはり300キロメートル以上になっていたことがあります。1999年の夏休みには、川崎に帰らず、南九州を一回りする自家用車の旅に行きましたが、やはり運転している時が一番楽しかったような気がします。

 しかし、移動の過程を楽しむといえば、列車に乗る時が一番かもしれません。私は、首都圏でも京阪神地区でも、とくに私鉄の通勤電車や地下鉄に乗るのが好きです。車両を楽しむということもできます。それだけでなく、新幹線やJRの特急電車では味わえないものがあるのです。車内で飛び交う方言などです。福岡での集中講義の際にも、ホテルから大学までは地下鉄を使っていますし、講義が終わってから、あるいはオフの日などには、それこそ福岡県内のJR、西鉄、地下鉄を使ってあちらこちらをまわったりします。福岡や大分などの場合は、ローカル線という楽しみがあります。もっとも、乗り換えなどで長時間待たされたりするのですが、それはそれとして面白さがあるのです。

 2006年9月は、台風に備えてという意味もあって、少し早めに福岡市に入りました。大分大学時代のゼミ生たち、つまり卒業生たちと会い、それから、1日で200キロメートル以上をまわるという変な旅をしました。さすがに、こんな旅に付き合おうという人はあまりいませんので、私一人でまわったのです。今回は、その第1弾として、西鉄宮地岳線乗車記その1をお送りします。

 宮地岳線の起点、貝塚駅です。午後、地下鉄箱崎線に乗り、何年ぶりか覚えていないのですが終点の貝塚に出ました。福岡市東区、九州大学箱崎キャンパスの北側にあります。すぐそばをJR鹿児島本線が通っていますが、そちらのほうには駅がありません。従って、貝塚駅はJR箱崎駅と千早駅との中間にある、ということになります。

 これから宮地岳線に乗るのですが、これは当初から予定に入れていました。2006年3月31日に、宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎の廃止が届け出られており、このまま行けば2007年の3月末日限りで廃止される可能性が高く、その区間については2006年9月が私にとって最後の機会となる可能性も高かったからです(実際に、そのようになりました)。

 貝塚駅の、宮地岳線のほうの改札口です。天神大牟田線には(一部の駅を除いて)自動改札機が導入されていますし、よかネットカードも使えたのですが、宮地岳線では使えません。そのため、津屋崎までの切符を買わなければなりません。

 最近では首都圏でも女性の駅員が増えているようですが、西鉄の場合は以前から宮地岳線などに女性の駅員がいます。もっとも、宮地岳線の場合は売店の店員を兼任しているような場合などが多いようです。そう言えば、まだ、西鉄電車で女性の運転士や車掌を見たことがないのですが(西鉄バスなら女性の運転手は多いのですが)、宮地岳線はワンマン運転ですので男性でも車掌はいないと思われます。

 先ほどの改札口と反対の方向を見ると、地下鉄貝塚駅の改札口があります。やろうと思えば線路をつなげることができそうです。地下鉄のほうは自動改札機があり、よかネットカードも使えます。6両編成ですがワンマン運転です。お客が少ないのは日曜日だから、というだけでもなさそうです。私が箱崎線に乗っていて、混んでいた例(ためし)がないからです。

 ちなみに、ここにはかつて福岡市内線の路面電車が来ていました。そもそも、宮地岳線の本来の起点は新博多でしたが、新博多~貝塚は福岡市内線に編入されており、貝塚起点になったのです。福岡市内線が廃止されたことにより、中途半端な路線になってしまいました。もし、新博多~貝塚を福岡市内線に編入していなければ、宮地岳線はもう少し発展したかもしれませんが、よくわかりません。新博多は、後に名を千鳥橋と改めており、現在の西鉄バス千代営業所にあったようです。川崎に帰ってから地図を読み、車で通ったことを思い出しました。御笠川に沿っていて、千鳥橋を渡って那の津通りを通れば天神や長浜に出られます。

 もうじき出発時刻です。この電車、313形に乗って津屋崎へ行きます。左に見えるのは地下鉄の線路ですが、車止めが置かれていて、宮地岳線にはつながっていません。そして、公園(?)があり、何故か飛行機が置かれています。

 先ほど、貝塚が起点であると記しました。たいていの本にそう書かれているからです。しかし、これから乗る津屋崎行は上り電車です。どう考えても下り電車に乗るようなものなのですが。

 津屋崎側の車両です。私はこちらの車両に乗りました。乗ってからわかったのですが、外見とは裏腹に、昔の国電や多くの路面電車のように低いモーター音が唸る吊り掛け駆動の電車でした。そのため、線路からの衝撃などをまともに受け、かなり揺れます。走っている間の吊り革の揺れ具合が何とも言えない雰囲気を出していました。なお、この電車が発車した時の乗車率は、私が見たところでは50パーセント弱という感じでした。

 宮地岳線は全線単線です。ここで折り返す電車が来なければ、津屋崎行が発車できません。その折り返し電車が到着しました。かつては天神大牟田線を走っていた600系で、線路の幅が違うために台車を履き替えて宮地岳線に移ってきたのでした。

 駅前の公園(?)です。貝塚駅の西側にあります。以前乗った時にも貝塚駅を利用していますし、車でもこの近所を何度か通っていますが、飛行機が置かれていることは知りませんでした。中に入れるかどうかまではわかりませんが(おそらく入れないでしょう)、いい遊び場にはなっているようです。

 さて、出発時間がやってきました。私は先頭車両のほうに乗りました。音といい揺れ具合といい、昭和時代の目蒲線や池上線を思い出させます。名島を通り、以前は名香野と称していた西鉄千早で最初の列車交換をします。最近になって鹿児島本線に駅ができ、宮地岳線も高架化されています。香椎宮前も高架駅です。この高架区間は、最近、西鉄香椎まで伸びました。西鉄香椎までは完全な住宅地ですが、この駅を過ぎると急に丘の掘割を通ったりします。西鉄香椎の次の香椎花園は、文字通り香椎花園の最寄駅で、すぐに遊園地が見えるのですが、夏休みが終わったとはいえ、お客が少ないのは気になりました。北九州市にあった到津遊園も、私が大分大学に在職していた時に閉園となっていますが、ここも西鉄が経営していました。

 宮地岳線は単線ですが、よく見ると、敷地は複線分が確保されているという区間が多いようです。複線化されていたらもう少しスピードアップしていただろうと思うのですが、西鉄のワンマン運転の仕方では、扉が閉まってから発車するまで、停車してから扉が 開くまで結構な時間を食います。

 しばらく、写真がありませんがお許し下さい。唐の原を出ると、しばらくしてJR香椎線の線路が寄り添ってきます。そして和白に到着します。ここでJR香椎線に乗り換えることができます。香椎線には一昨年の8月下旬、集中講義の中入りの日に乗りました(西戸崎から海ノ中道を通り、神宮皇后が応神天皇をお産みになった場所であるという宇美八幡宮に行きました)。現在は違う会社となっていますが、元々、宮地岳線と香椎線は同じ会社の路線で、いずれも博多湾鉄道汽船という会社が運営していました。戦時体制のために西日本鉄道に統合されたのですが、香椎線は後に国有化されました。

 和白の次が三苫で、福岡市はここまでです。ここで折り返す列車もあったくらいで、乗客はかなり減ります。次の西鉄新宮で数えたら、先頭車には私を含めて10人ほど、後の車両には4人か5人くらいしか乗っていません。

 西鉄新宮を発車し、古賀ゴルフ場前という無人駅を過ぎて西鉄古賀に到着したら、後の車両に乗っている客はいなくなりました。上の写真がその様子です。ワンマン運転ですから車掌はいません。従って、後の車両には、文字通り、誰も乗っていません。前の車両に乗っている客は、私を含めて8人になりました。


YouTube: 西鉄宮地岳線の西鉄古賀駅から花見駅まで

 西鉄古賀を発車し、かつては列車交換ができたことがホームの構造や敷地のスペースなどからわかる無人駅の花見では乗り降りがなく、交換駅でありながら無人駅である西鉄福間(JR鹿児島本線の福間駅にも近い)で客は私を含めて4人になりました。いかに日曜日の午後とはいえ、お客が少なすぎます。一応は福岡市内まで走っている路線で、貝塚から西鉄福間まで18.1キロメートルしか離れていないのですが、もっと離れているかのように思えてきました。

 西鉄福間駅を発車して、次が宮地岳駅です。写真は、その宮地岳駅のホームではなく、反対側を撮影したものです。

 線名にもなっている宮地岳駅は、終点の一つ手前にあり、やはり無人駅です。ここも、かつては列車交換ができました(ホームの形や敷地の広さなどですぐにわかります)。ついに、この宮地岳駅で、乗客は私を含めて2人になりました。私は、単に趣味的に乗っている神奈川県在住者、もう1人は、本格的な一眼レフなどを持ち歩いている、鉄道ファンかどこかの記者かフリージャーナリストかという風体の男性です。

 宮地岳線の沿線というのは、他の沿線とは比較し難い雰囲気を持っています。通勤路線なのかローカル線なのかわからないからです。住宅の多さなどからすれば、天神大牟田線の西鉄小郡~宮の陣、および試験場前~新栄町よりもよほど通勤路線らしいのですが、マンションなどがあってもどこかひなびた印象を与えるのです。すぐ近くに鹿児島本線が通っていますが、同線の筑前新宮駅や古賀駅、そして福間駅の周りであれば、新興住宅地という印象を当てます。宮地岳線の沿線のほうが、古い家も目立ちますし、田畑や空き地も目立ちます。とくにJRの福間駅と西鉄福間駅とは、あまりに歴然とした差があります。JRの福間駅は、特急などで通ったことしかないのですが立派な駅で、もちろん駅員もいます。しかし、西鉄福間駅は無人駅です。通り一本でつながっているので、差が目立つ訳です。

 貝塚を発車してから40分ほどでしょうか、終点の津屋崎に到着しました。降りたのは、私を含めて2人だけです。折り返しの列車に乗ろうとした客が1人だけいたのでしょうか。日曜日の午後、閑散とした駅でした。

 終点の津屋崎駅は、御覧のように小さな駅です。駅員がいますが、改札口の右側にある売店の店員を兼ねているような女性の駅員が1人か2人いるだけです。日曜日の午後、駅の周囲にはほとんど人がいません。一般的には、首都圏でも、平日より休日のほうが、鉄道の利用客は少ないものです。しかし、ここまで少ないと言葉を失います。まして、1時間ほど前までは天神にいたのですから。

 津屋崎は海水浴場としても知られています。私は、この後、海のほうに向かって歩きました。季節はずれの海水浴場も、結構オツなものです。

 なお、9月24日、宮地岳線の存続を求める会の方からメールをいただき、御教示などを賜ったことを記しておきます。

 

  (以上は2006年9月26日、第186回として掲載したものです。その後、2007年12月31日に、第188回および第189回と統合し、一部変更の上で、別室9として再掲載しました。2010年10月17日に別室8へ移行しましたが、2010年11月10日に掲載を終了しました。)

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