ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2008年9月7日、唐津を歩く(3)

2014年04月23日 00時17分25秒 | 旅行記

今回は、「待合室」に第321回として2009年7月5日から14日まで掲載した記事の再掲載です。内容は、一部を修正しましたが、基本的に当時のままですので、御注意ください。

 

佐賀県唐津市の中心部を歩いています。城址に近くなってきました。

 一見、唐津城の門か何かの遺構かと思われますが、実は手水場(手洗い場、つまりトイレ)です。 ただ、ここにもしかしたら城に関係する何かがあったかもしれません。建物自体は最近のもので、近づいてみればわかります。

 城址に近くなると、やはり見所が多くなります。城址自体は丘の上にあるのですが、平地の部分にも城址に関係するものがあります。もっとも、近年に再建されたものなどのほうが多いようです。そもそも、日本にある城で、明治時代以降、とくに昭和になって再建されたものではないものは、姫路城、犬山城など、指を折って数えられるほどの箇所しかありません。

 時の太鼓もそうです。江戸時代に時鐘があった場所に、20世紀になって建造されたものです。「佐賀県の地域づくり推進事業の補助を得て」と案内板に書かれていますので、唐津市が観光基盤の整備のために、さらには町おこしのために「唐津城址整備計画」を立て、それに基づいて建造したということなのでしょう。

 時の太鼓は、上の写真のように、城内にある櫓のような建物になっています。私が訪れた時には16時を過ぎていましたので、時計の太鼓の音を聞くことも、人形の姿も見ることができなかったのですが、どのようなものなのでしょうか。もっとも、時間のせいなのか、別の理由もあるのか、この周囲を歩いている人はあまりいなかったのですが。

 時の太鼓にある時計です。これ自体はあまり芸のないもので、時計の文字盤に書かれているのが算用数字でもローマ数字でもなく、日本古来の時の数え方である干支になっているだけです。時々、時計店 などで干支の文字盤の時計を見かけることもあります。

 しかも、よく見ると「子」が通常の時計の6の部分にあります。 おそらく、12時を「午」としたためでしょう(正午というくらいですから)。しかし、真夜中の0時は「子」ですから、違和感もあります。市販されている干支の時計はどうなっているのでしょうか。

 もっとも、古来、日本では一日を12の時間に区分していましたので、時計盤の表示にこだわる必要もないのでしょう。というより、現在の時計盤に合わせること自体が無理なのでしょう。現在のように一日を24時間として捉えるようになったのは明治時代になってからです。また、何の本で読んだのかを覚えていないのですが、日本社会が一般的に分および秒という単位を用いるようになったのは、鉄道網の発達と深い関係がある、という話がありました。

 

城と言えば堀です。二ノ門堀に着きました。もう少し歩けば、丘の上にある天守閣に着きます。

江戸時代には改封が度々行われました。唐津城も同様であり、藩主は度々交代します。一時期には水野忠邦が藩主であったこともあります。

現在の二ノ門堀の様子です。唐津城址へ向かうには奥のほうへ進むことになります。

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2008年9月7日、唐津を歩く(2)

2014年04月22日 22時46分38秒 | 旅行記

今回は、「待合室」に第318回として2009年6月15日から22日まで掲載した記事の再掲載です。内容は、一部を修正しましたが、基本的に当時のままですので、御注意ください。

 

 唐津駅を降り、アーケード商店街を歩き抜けました。目標は唐津城址です。商店街を抜けてバス通りに出ます。すぐに、非常に気になる建物を見かけました。

 おそらくは大型店舗用のものであると推測できますが、既に店舗として使われなくなってから久しく、外壁が傷んでいることがわかります。 ここのところ、残念ながら日本各地の趨勢ともなっている中心街空洞化を象徴するものが、この唐津の街にもあります。

 唐津のバスターミナル(?)としても利用されている建物なのですが、人通りがありません。そもそも、私が歩いた日曜日の午後、というより夕方ですが、唐津駅前の商店街はそれほど人通りが多くありません。しかし、それでもこの建物の周りはほとんど人が歩いていないだけに目立ちます。

 上のほうに「MAIZURU」と書かれていた跡がありますが、おわかりでしょうか。実は、歩いている時には気付かず、こうして写真に撮影して、パソコンに取り入れてからわかったことでした。

  ピントが外れた写真になってしまい、申し訳ございません。ここは、地元のまいづる百貨店本店があった場所です。

 先ほどの建物に近づいてみました。明らかに店舗の入口であった所には、御覧のように警告表示が出ていました。ここがいつ閉店し、このようになったのかはわかりません。このような警告文が貼られているということは、 夜間に人が滞留したりするということでしょうか。建て替えたりしない限りは、犯罪の温床になりかねないようにも思われます。

裏のほうに回ると、閉店してから結構な年数が経っているということがわかります。営業当時の様子も想像できるだけに、非常に痛々しい姿です。

 しばらく歩くと、現在のまいづる百貨店に着きます。正確に記すならば、経営しているのがまいづる百貨店で、ここはまいづる本店というショッピングプラザです。詳しい経緯はわかりませんが、 駅の近くにあった本店がこちらに移動し、業務形態を変更した、ということのようです。

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川崎駅東口のさいか屋が来年5月に閉店する、と聞いて

2014年04月11日 10時18分44秒 | 社会・経済

 川崎市と言えば、現在も人口が増えている政令指定都市です。最近では武蔵小杉駅周辺の再開発により、全国的にも小杉の名前が知られるようになりました(根っからの地元民は「武蔵」をつけたりせず、ただ「小杉」と言います。但し、駅所在地の正式な町名は小杉町です)。川崎市役所が川崎区から小杉に移転するという噂は、市民の間でかなり流布しておりましたし、実際に市役所が小杉町か溝口の辺りに移転するという計画もあったようです。

 そのためか、最近では川崎駅周辺に対する注目度も低くなっているのではないでしょうか。それでも、勿論、川崎市の本来の中心地は川崎区であり、川崎駅周辺、とくに東口です。

 川崎駅東口と言えば、地下街のアゼリア、ルフロン、アーケード商店街の銀柳街(「ぎんりゅうがい」と読みます)、チネチッタ、DICE、川崎モアーズなどがあります。そして、老舗と表現してよい百貨店として、さいか屋があります。公式サイトに拠れば、元々は横須賀市で不動産賃貸業を営んでいた会社であるということですが、後に掲げる今日付の朝日新聞朝刊の記事によると、1872(明治5)年に横須賀市で開業した呉服店が母体であったということです。1955(昭和30)年に商号を川崎さいか屋と改め、1956(昭和31)年、本社を横須賀市から川崎市川崎区に移転するとともに、川崎駅東口に百貨店を開店させます。これがさいか屋川崎店です。ちなみに、1969(昭和44)年に商号を現在のさいか屋に改めています。

 以来、現在まで58年間、さいか屋川崎店の営業が続けられてきたのですが、来年の5月31日をもって閉店となります。今日付の朝日新聞朝刊27面14版(神奈川・川崎)に「さいか屋川崎店 来年5月に閉店 『百貨店ない街寂しい』」という記事が掲載されており、さいか屋の公式サイトにも「さいか屋川崎店の営業終了について」という文書が掲載されています。

 理由として挙げられるのは、来年、つまり2015(平成27)年の5月31日に定期建物賃貸借契約期間が満了となることです。さいか屋は、公式サイトによれば2009(平成21)年、京浜急行電鉄を割当先とする第三者割当により増資を行いました(これにより、資本金は31億4906万3737円となっています)が、同年の夏に事業再生実務家協会へ事業再生ADR手続を正式に申請しています。そして、上記朝日新聞記事に拠れば2009年12月、公式サイトに拠れば2010(平成22)年3月に、川崎店の土地・建物を東京都内の投資組合に76億円で売却しました。その上で定期建物賃貸借契約を締結して営業を続けてきたという訳です。

 (新聞記事と公式サイトとの間にズレがありますが、土地・建物の売却、および定期建物賃貸借契約が締結されたのが2009年12月、正式に売却されたのが2010年3月ということのようです。)

 この時期、さいか屋は横須賀店の大通り館を閉鎖し、川崎店の外商部を廃止するなど、リストラを進めています。事業再生ADR計画は昨年の3月に完了したとのことですが、売り上げは減少しているようで、上記朝日新聞記事によると、2009年2月期で194億円ほどであったのが2014年2月期には108億円ほどとなっています。

 閉店の原因には様々なものが考えられますし、該当するものも複数でしょう。まず、長きにわたる消費低迷です〔しかし、2002(平成14)年2月から2009年3月までは「いざなみ景気」とも言われています〕。これにリーマンショックが重なりました。そして、2011(平成23)年の東日本大震災です。この他に、川崎駅周辺地域の事情として、2006(平成18)年に川崎駅西口(幸区)にあった東芝川崎事業所(堀川町工場)の跡地にラゾーナ川崎プラザが開業したことをあげておきましょう。具体的なデータを持っていませんのでよくわからないのですが、川崎駅西口の再開発は、東口の百貨店や商店街に対してかなり大きな打撃となったはずです。それだけでなく、川崎市の性格の変化をよく示す例ともなっています。ラゾーナ川崎プラザは前記の通りであり、ソリッドスクエアは明治(かつての明治製菓)の工場の跡地です。

 そして、百貨店という業種そのものが抱える構造的な問題もあるでしょう。1990年代からと記すのが正確か否かわかりませんが、日本全国で百貨店の閉店などが相次いでいますし、百貨店として開業しながら業態を転換し、専門店街のようなものになっている所も多くなっています(私がよく行く青葉台東急スクエアも、元々は青葉台東急百貨店でして、他の施設と統合して現在の業態となっています)。

 川崎駅周辺も同様です。先に記した川崎モアーズは、1970年代前半まで百貨店でした。一旦閉店しましたが、1978年にショッピングセンターとして再開業しています。なお、モアーズを展開する横浜岡田屋は、現在、本社を横浜市に置いていますが、発祥の地は川崎市です。

 また、DICEの場所には、かつて小美屋(こみや)がありました。小美屋の場合は、1980年代に三菱電線工業川崎工場跡地に開業した川崎ルフロンに川崎西武(西武百貨店)と丸井が進出したこともあり、赤字経営となりました。結局、1990年代に閉店しています。一方、川崎西武も、21世紀に入ってから程なく、川崎ルフロンから撤退しています(現在、ヨドバシカメラなどが入居しています)。他方、丸井は日本百貨店協会に加盟しておりません(但し、百貨店に含める見解もあります)。

 岡田屋はモアーズとなってかなりの時間が経っており、小美屋は消滅し、川崎西武も撤退したので、日本百貨店協会に加盟する百貨店は、川崎駅周辺ではさいか屋だけとなっていました。そのさいか屋も来年の5月末をもって閉店するということになると、街に百貨店がないということになります。これも時代の変化なのでしょうか。

 そう言えば、私は川崎市に生まれ育ち、大分大学在職中の7年間を除いて川崎市に住み続けていますが、ここ何年か、川崎駅周辺を歩いたことがありません。一度だけラゾーナ川崎プラザに入ったことがありますが、それが4年ほど前のことですし、川崎ルフロンに入ったのも5年以上前のことでした。最後にさいか屋へ行ったのは20世紀中のことです。幼少の頃から何度も川崎駅東口へ行き、街中を歩いているのですが、大学院生となってから機会が減りました。しかし、さいか屋川崎店閉店のニュースを知り、やはり周辺の様子を改めて知っておかなければ、と思った次第です。

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おしらせです(2014年4月8日)

2014年04月08日 00時06分49秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 既に、3月14日付の「2014年度の担当科目の教科書について」に対する3月24日付のコメントとして、石村耕治編『現代税法入門塾』〔第7版〕(清文社)について記しましたが、昨日(4月7日)、清文社のサイトを確認したところ、「新刊案内」中の「4月の新刊書籍」として取り上げられています(http://www.skattsei.co.jp/search/053524.html)。

 「著者紹介」の欄にもありますように、この第7版から、私が執筆者の一員に加わっており、同書の「Part1 税法の基礎知識を学ぶ」の一部を担当しております。

 2014年度の講義「税法」(大東文化大学法学部法律学科)の教科書としており、「法学特殊講義2A・2B(財政法A・B)」の参考書とも位置づけておりますが、是非とも御一読をいただければ、と思い、記す次第です。

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4月7日3限の「税法」初回について(続)

2014年04月07日 00時18分00秒 | 受験・学校

 初回の講義にプリントを配布する予定です。

 但し、人数によっては十分な枚数を確保できないかもしれません。既に6日付でアップしておりますので(http://kraft.cside3.jp/slide00D2014.pdf)、活用してください。

 

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4月7日3限の「税法」初回について

2014年04月06日 00時49分32秒 | 受験・学校

 いよいよ、7日(月)より前期の講義が始まります。

 3限に「税法」(大東文化大学板橋校舎)の講義を行いますが、その前に会議が入っているため、開始時間が遅れるかもしれません。あらかじめ、お断りをしておきます。

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2008年9月7日、唐津を歩く(1)

2014年04月05日 00時01分06秒 | 旅行記

今回は、「待合室」に第317回として2009年6月7日から15日まで掲載した記事の再掲載です。内容は、一部を修正しましたが、基本的に当時のままですので、御注意ください。

 

 西南学院大学で集中講義を担当していた2004年から2012年まで、折を見ては福岡県、佐賀県などを周りました。2008年9月7日には、佐賀県の佐賀市や唐津市を歩いています。

 佐賀駅から唐津線のキハ47に乗り、唐津駅に到着しました。この列車は西唐津行ですが、唐津~西唐津については以前利用したことがあり、西唐津駅周辺と言えばJR九州の車両基地の他には目立ったものがありませんので、今回は唐津駅で降ります。

 私にとっては、西南学院大学で最初に集中講義を担当した2004年8月28日以来、およそ4年ぶりの唐津市訪問となります(もっとも、街中をゆっくり歩くのは今回が初めてのことです)。

 首都圏や京阪神地区でなら、高架駅は当たり前の存在として目に映ることでしょう。そればかりか、地下駅も増えつつあります。しかし、九州では福岡市営地下鉄の駅以外に地下駅はありませんし、高架駅も少数派です。山陽新幹線の駅でもある小倉、博多、博多南線の博多南、九州新幹線の新八代、新水俣、出水、 川内、鹿児島中央、北九州モノレールの全駅は高架駅ですが、肥薩おれんじ鉄道の新水俣駅、出水駅および在来線(鹿児島本線、日豊本線、指宿枕崎線)の鹿児島中央駅は高架駅ではありません。宮崎県内では宮崎駅と西都城駅だけですし、熊本県内でもついこの間までは新水前寺駅だけでした。佐賀県では、佐賀駅、唐津駅、そして隣の和多田駅だけなのです。

 ここは元々、佐賀からの唐津線だけの駅でした。その時は地上駅でしたが、1980年代に筑肥線の経路変更があり、この唐津駅に筑肥線が延びてきました。そこでここが高架駅になったのです。筑肥線は福岡市営地下鉄空港線と相互直通運転を行っていますので、この駅から西新、天神、中洲川端、博多、そして福岡空港まで乗り換えなしで行くことができます。航空便を利用して唐津市へ行くのであれば、佐賀空港からよりも福岡空港からのほうが圧倒的に便利です(1時間以上かかりますが)。

 駅前にある地図です。2005年1月1日、旧唐津市、浜玉町、厳木町、相知町、北波多村、肥前町、鎮西町および呼子町が合併して新しい唐津市が誕生しました。 また、2006年1月1日に十七山村を編入合併しています。中心となるのは、勿論、旧唐津市の部分です。

 自宅に、ぎょうせい(出版社の名称です)から発行された『全国自治体データブック2006』があります。それを見ると、2006年3月31日の時点における唐津市の人口は134,343人、面積は487.45平方キロメートルです。人口では佐賀県内で第2位(第1位は佐賀市)、面積では同県内で第1位(第2位は佐賀市)ということになります。

 これも駅前にあった地図で、こちらは駅から市街地を示すものとなっています。現在地を確認し、目的地と、途中にある施設などを確認します。 駅から少し離れた所にバスセンターがあり、さらに北のほうへ歩き、唐津城址を目指します。

 駅を離れ、歩き出します。ほどなく、道幅の狭い、或る意味ではお馴染みのアーケード商店街があります。この辺りは、同じような作りでありながら名称が異なる商店街がいくつかあります。私が入ろうとしているのは京町商店街です。

 自動車進入禁止という意味で置かれているのかもしれませんが、 何故か二体のキリンが置かれています。子どもが乗って遊ぶためのものでしょう。 しかし、子どもの姿はありません。そればかりでなく、通行人がいたのかどうかもわかりません。とりあえず、商店街に入ってみます。

 いつの間にか呉服町商店街になっています。日曜の午後、というより夕方です。人通りは多くありません。私が訪れた商店街の中では比較的良い状態ではありますが、シャッター通りへの兆候は顕著です。

 アーケード街の場合には、店の上、屋根の近くに店舗名を示す案内板が取り付けられていることが多いようです。この呉服町商店街の場合は店舗に番号が付けられています。撮影したのは50番ですが、店舗名は示されていません。営業を終了してから久しいのでしょう。 このように、店名が空白になっているような案内板が多くなればなるほど、商店街が迎えている危機の深刻さが増していることとなります。

 私は、唐津市を自動車で訪れたことがありません(大分大学時代に訪れたことがないためです)。そのためによくわからない部分も多いのですが、唐津市の市街地でない地域に郊外型大規模店舗があり、そこに集客力を奪われている可能性も高いでしょう。また、唐津市の場合、筑肥線に乗れば乗り換えをせずに福岡市内まで行くことができます。地域ごとに実情が違うために難しいのですが、中心街空洞化現象を食い止めるためには、相当に精緻な分析が必要ではないでしょうか。

 また登場しました。昔ながらの赤い円柱型郵便ポストです。首都圏では滅多にお目にかからないのですが、九州では現役のものが結構残っています。奥のほうに見えるシャッターが気になるところですが、この先は機会を改めて。

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おしらせです(2014年4月4日)

2014年04月04日 17時41分32秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 4月4日付で、TKCローライブラリー(http://www.tkc.jp/law/lawlibrary/commentary/)の「新・判例解説Watch」に、私が担当した「自己株式による代物弁済と『みなし配当』該当性」(租税法No. 89)が掲載されました(https://www.lawlibrary.jp/pdf/z18817009-00-130891038_tkc.pdf)。これは、大阪高等裁判所平成24年2月16日判決の解説です。

 御一読をいただければ幸いです。

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今読んでいる本

2014年04月04日 13時15分17秒 | 本と雑誌

 二子玉川駅の中にある本屋で、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を見つけ、購入しました。今、読んでいるところです。

 今の資本主義は、もう行き着くところまで行ってしまい、これ以上に成長も拡大もできない。既に自壊の段階に入っている。これまでの、たとえば日本で繰り返されてきた政策は、よくて延命治療程度の対処療法にすぎず、大きな失敗に見舞われる。

 これが、水野氏の主張の骨子です。資本主義と民主主義との乖離(離反)も見事に指摘されています。また、氏は、構造改革や積極財政が無意味である、否、有害ですらあるという趣旨の主張も行い、もっと歴史に学ぶべきであるとも述べています。

 大局的に物事を捉えるならば、水野氏の主張には肯けます。もっとも、いくつかの疑問も浮かびます。たとえば、日本は最も早く資本主義の限界に突き当たっているから、現在の資本主義に変わる新しいシステムを生み出す潜在的可能性という面で日本が最も優位にある、という趣旨の論述です。限界に突き当たったという部分は正しいかもしれませんが、潜在的可能性という部分にはどうなのだろうか、と思うのです。可能性があってもそれを活かすことができず、何も生み出せないのが日本ではないでしょうか。何も今に始まったことではないはずです。教訓を無視したり「臭いものに蓋をする」ことは得意ですが、新たな方向性を見つけ、それに従って進むこと、あるいは、根本的な部分で反省することは苦手である、というのが日本でしょう。少なくとも、ここ数年の政治や経済を概観すると、そう考えざるをえません。

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高津小学校の桜と椿

2014年04月02日 01時46分04秒 | まち歩き

 新年度が始まりました。消費税・地方消費税の税率引き上げもあり、これからどうなるのかわかりませんが、少なくとも今年度歳入予算(日本国の)で消費税が所得税を抜いてトップの座に着いたという現実の重みを考えなければなりません。

 さて、先月末あたりから、近所の高津小学校でも桜の花が咲いています。そこで、4月1日、愛用のSONY Cyber-shot DSC-WX100で撮影してみました。

高津小学校は高津区溝口4丁目にあり、区内では最古の小学校です。我々が府中街道と言い習わしている国道409号線のほうに正門があり、そのそばにある桜の木を撮影してみました。

拡大するとこのような感じです。もっと接近するか望遠をきかせればよかったかな、と思いました。そうすると、ソフトフォーカスが生きてくるのです。

  桜の木は、この小学校を囲むように何本も植えられています。それを見ながら、私は通勤をしたりする訳です。

 左側の道路が府中街道こと国道409号線で、この先の国道246号線との交差点が409号線の起点です。そこから高津区、中原区、幸区、川崎区を通り、東京湾アクアラインとなって千葉県木更津市へ出て、成田市が終点となっています。

 桜ではなく、椿の花を撮影しました。「意味があるのか」などと問われそうですが、勿論、意味はあります。椿は川崎市の「市民の木」なのです(http://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/63-1-0-0-0-0-0-0-0-0.html)。

 ちなみに、「市民の花」は躑躅(つつじ)でして、川崎駅東口の地下街「アゼリア」の名称の由来でもあります。

 府中街道と旧大山街道が交差する高津交差点に近い側にある桜の木です。そばには二宮金次郎像があります。私が通っていた小学校は1960年代の開校ですので、このような像はありません。

 今でこそ、溝口と言えば武蔵溝ノ口駅(JR東日本。溝口1丁目)・溝の口駅(東急。溝口2丁目)の辺りがすぐに思い浮かぶのでしょう。しかし、本来は旧大山街道沿いが中心でした。灰吹屋の旧本店が高津交差点付近の溝口3丁目にある理由もそこにあります。川崎溝ノ口郵便局も3丁目にあります(高津小学校の向い側です)。宿場町であったこの辺りは、現在もその名残りを多く留めるものの、閑静な住宅地でもあります。

 桜と言えば、2丁目と3丁目の境、二ヶ領用水の並木があります。歩いてみたいものです。

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