ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

第5回 行政法上の法律関係

2020年04月30日 00時01分00秒 | 行政法講義ノート〔第7版〕

 権利主体相互間に生ずる法律上の関係を、法律関係という。このように定義づけたとき、「行政法関係」とは、行政法によって規律される法律関係のことである。行政法上の法律関係ともいう。ここで再び、公法と私法との区別が問題となる。まず、公法と私法との区別を前提にして、議論を進める(なお、両者の区別は相対的であるというのが一般的である)。

 行政上の法律関係という場合、公法関係と私法関係とが存在することが基礎となっている。私法関係が私人相互間の関係におけるものと同一の規律による支配を受ける関係であり、これが一般的であるとするならば、公法関係は特殊なものである。そして、公法関係は権力関係と管理関係とからなる。

 (1)公権論

 国や地方公共団体と私人との間に権利が存在する(憲法における基本的人権は、まさにこの類のものである)。この権利を公権という場合もあるが、普通、公権は私法上の権利(私権)と異なるものという意味において用いられる。

 代表的な見解によれば、公権とは「公法関係において、直接自己のために一定の利益を主張しうべき法律上の力をいう」〈田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁〉。私人が自らの利益として主張しうる点において、「法が単に国又は個人の作為・不作為を規定していることの結果として生ずる反射的利益」とは区別される〈田中・前掲書84頁〉。国家的な公権として、警察権、課税権、統制権などがあげられ、個人的な公権として、参政権、受益権、自由権、平等権があげられる。以上は基本的人権と類似する分類であり、受益権は行政訴訟を提起する権利、生活保護請求権などを含む。

 公権は、公益上の見地から与えられるものとされる。そのため、公権が有する特色として、相対性(絶対不可侵性を有しない)、放棄不能性(不行使は自由であるが、放棄することはできない)、専属性(他人に移転したり、その権利を差し押さえたりすることは許されない)があげられる。

 しかし、この公権論は、現在、それほど強力に主張されている訳ではない。第一に、公法・私法二分論の妥当性に対する疑問があげられる。第二に、公権に独自性を認めがたい。例えば、相対性は、土地所有権などの私権にも見られる。専属性というのであれば、親権や夫婦間の権利にも認められなければならない(認められないとしたら訳のわからないことになる)。第三に、その内容が豊かでないことがあげられる。手続法上の権利(申請、聴聞、文書閲覧などに関する)なども、現在においては認められる傾向にあるし、認められなければならない。

 (2)権力関係と管理関係

 公法関係は権力関係と管理関係とからなることは前述した。ここで両者について説明する。

 権力関係(支配関係ともいう)は、国または公共団体が、法律上、優越的な意思の主体となって相手方たる私人に対するものであり、本来的な公法関係とも称される。行政行為などに見られる。「公権力の行使」とは、行政庁が私人に対して、法律に基づいて一方的に計画し、命令し、給付し、一定の法律関係を形成し、指導し、強制する活動の総称である。個別的な行政法規に、根拠規定を必要とする。行為規範を欠く場合、あるいは行為規範に違反する公権力の行使は、違法であって、効力を生じないのが原則である。

 或る行政作用が公権力の行使にあたるか否かの判定は、公権力の行使については、実体法上「法の規則」が強く要請される(行政行為論の中心的課題)、公権力の行使は、手続法上「行政手続」の要請に応ずるものであることを要する、公権力の行使は、「抗告争訟」(抗告訴訟、行政不服申立てなど)の対象となる、という三点と関連する。

 管理関係は、伝来的な公法関係とも称され、国または公共団体が公的事業または公的財産の管理主体として私人に対する場合を指す。この場合、私法関係に類似するが、公共の福祉との関係上、私法関係と異なる法的規律に服する。行政作用法において、民商法に見られない特例が多く設けられる他、行政救済法において、行政事件訴訟法第4条・第39条以下に定められる当事者訴訟が用意されている(もっとも、あまり活用されていない)。

 一応は上記のように説明できるが、先にも触れたように、権力関係だから民法の適用が排除されるという訳でもなく、管理関係だから民法の適用が排除されないという訳でもない。

 (3)特別権力関係論

 租税関係など、国民一般が国や地方公共団体の権力に服する関係が存在する。これが一般権力関係である。これを前提とするならば、特別権力関係とは、特別の公法上の原因(法律の規定または本人の同意)によって成立する、公権力と国民との特別の法律関係をいう。特別権力関係の理論は、公務員の勤務関係、国公立大学の在学関係、在監関係など、性質の異なる法律関係を、或る国民が公権力に服従するという関係として捉えている(それがそもそも問題である)。

 特別権力関係の中身として、公権力は包括的支配権(例、命令権、懲戒権)を有するから、個々の場合には法律の根拠がなくとも私人を包括的に支配できる(ここから、法治主義の排除ということが導かれる)、公権力は、私人に対し、一般国民として有する人権を制限できる、この関係の内部における公権力の行為は原則として裁判所の審査に服さない、と主張された。

 しかし、日本国憲法の下で、「特別権力関係」論はそのままで維持されえない。日本国憲法の下、実務上は修正された特別権力関係理論が維持されているが、最高裁判例は、行政事件訴訟の限界という観点から、特別権力関係を体系的かつ包括的に措定していない。むしろ、一般的外部関係に対する意味での個別的内部関係ないし部分社会的関係の存在を肯定しているにすぎないように見える(もっとも、特別権力関係を完全に否定しているとも言えない)。こうしてみると、「特殊自律的内部関係」は、公法私法の区別と無関係に、学校や宗教団体などの内部における自治自律的関係ないし専門的技術的関係から、一般社会の外部的関係と区別されて取り扱われるものであることになろう。

 ●公務員の人権

 国家公務員の政治活動の自由は、国家公務員法第102条および人事院規則14-7により制限されている。また、公務員・国営企業職員は、労働基本権が制限される(国家公務員法第98条第2項、地方公務員法第37条、国営企業労働関係法第17条など)。具体的には、警察職員・消防職員・自衛隊員・海上保安庁・監獄に勤務する者には、労働基本権全て(団結権・団体交渉権・争議権)が否定される。非現業の一般公務員には、団体交渉権と争議権が否定される。郵便などの現業の公務員には、争議権が否定される。

 初期の判例は、「公共の福祉」および「全体の奉仕者」を理由として、簡単にこれらの制限を合憲としていた(特別権力関係論の影響であろう)。最大判昭和41年10月26日刑集20巻8号901頁(全逓東京中郵事件)は、公務員の労働基本権を尊重する立場を採った。この流れは、最大判昭和44年4月2日刑集23巻5号305頁(都教組事件)にも受け継がれた(合憲限定解釈を用いた)が、最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁(全農林警職法事件)によって再度転換された。この判決は、一律かつ全面的な制限を合憲とした。また、公務員の政治活動の自由に対する制限については、最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁(猿払事件)がある。

 しかし、公務員の人権は、法律や条例により、勤務条件(俸給など)が詳細に規定されている。労働基本権の制約についても、法律の規定に基づいているのであり、特別権力関係によって説明する必要はないと思われる(特別権力関係理論の影響を否定しえないとしても)。

 もっとも、最大判昭和29年9月15日民集8巻9号1606頁、および最二小判昭和32年5月10日民集11巻5号699頁※は、公務員の勤務関係が特別権力関係であることを肯定する。その上で、このような関係の下で懲戒処分や専従休暇不承認処分を、司法権審査が及ぶものとした。その条件として、裁量者による処分が事実無根かあるいは著しい濫用と認められるとき、法的統制の実効性を保障する必要があるとき、としている。

 前掲最大判昭和29年9月15日および最二小判昭和32年5月10日は、公務員の懲戒処分と裁量審査との関係におけるリーディングケースでもある。最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(Ⅰ―80。私が解説を担当している)も参照されたい。

 ●在監関係

 在監関係についても、憲法第18条および第31条により在監者にも基本的人権が保障される以上、特別権力関係がそのまま妥当すると考えるべきではない。しかし、在監者に基本的人権が全て保障されるという考え方は、常識にも反するし、懲役などの目的などとも矛盾する。在監者の基本的人権を制限する目的は、拘禁と戒護(逃亡・証拠隠滅・暴行や殺傷の禁止・規律維持など)そして受刑者の矯正教化ということを達成するためにあるから、その範囲における必要最小限度の制限が必要である。

 この点に関して、最大判昭和45年9月16日民集24巻10号1410頁は、喫煙の禁止を定めた監獄法施行規則第96条の法律上の根拠が問題となった事案に対し、監獄法施行規則第96条を憲法違反でないとしたが、このような制限は法律で定めるべきであるという批判が強い。

 「よど号」ハイジャック記事抹消事件最高裁判決(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)は、監獄内における規律・秩序が放置できない程度に害される「相当の具体的蓋然性」が予見される限りにおいてのみ、監獄長による新聞記事抹消処分が許されるとの基準を示したが、その判断について監獄長の裁量判断を尊重している点には問題もある。その他、監獄法第50条・同法施行規則第130条による「信書の検閲」は憲法第21条に違反しないとする判決もある(最一小判平成6年10月27日判時1513号91頁)。

 ●地方議会の内部規律

 自律的な法規範をもつ社会ないし団体において当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せるのを良とし、裁判によって判断するのを適当としない事柄が存在する。最大判昭和35年10月19日民集14巻12号2633頁(Ⅱ―152)は、こうした見地から、地方議会議員に対する出席停止という懲罰議決は司法審査の対象外とした。なお、除名の場合は、議員身分の喪失(ある意味で一般社会との外部的関係である)に関する重大事項として司法審査が及ぶとする。

 ●大学と学生との関係

 国公立・私立を問わず、学校は学生の教育という特殊な目的を有する。よって学校は一般市民社会と異なる部分社会である。そのため、その目的の達成に必要な限度内において(法令がなくとも)学校側に包括的支配権が認められ、教育的裁量が認められることについて異論はない。また、私立学校の利用関係は私法上の契約関係であることは、争いのないところであろう。国公立大学については、特別権力関係と解するのが通説である。これは、国立または公立大学が営造物(公共施設)であることからみれば、例外であることになる。最大判昭和29年7月30日民集8巻7号1501頁、最小三判昭和52年3月15日民集31巻2号234頁(Ⅱ―145)は、単なる単位認定が司法審査の対象外であり、一般市民秩序と直接の関係を認められる特段の事情があるときのみ、司法審査が及ぶとする(懲戒処分についても同様)。

 

 ▲第7版における履歴:2020年4月30日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年11月11日掲載。

              2017年10月26日修正。

                                    2017年12月20日修正。

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2006年7月31日、不動前駅(その2)

2020年04月30日 00時00分00秒 | まち歩き

 今回は、次の記事の再掲載です。なお、基本的な内容を変更しておりませんが、文章の一部を修正しています。

 第195回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その4)」(2006年11月27日〜12月2日掲載)

 第196回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その5)」(2006年12月2日〜22日掲載)

 第200回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その6)」(2007年1月9日〜22日掲載)

独鈷の滝の続きからです。

 

 

 

 この道路はバス専用道です。上の写真の右側に目黒不動前バス停が写っています。

 実は、この時まで、山手七福神なるものを知りませんでした。目黒不動尊である滝泉寺から、東急目黒線(看板には「目蒲線」とあります)・東京メトロ南北線(都営三田線)の沿線にあることがわかります。大鳥神社から権之助坂を登り、自然教育園から日吉坂上を通って清正公前(上の写真では毘沙門天のある覚林寺)までの道路は、私自身が自動車で何度も通っているのです。覚林寺に入ったことはありますが、他の所には入ったことがありません。上の看板によると、瑞聖寺は白金台駅の近くにあるようです。そして、清正公前は、白金高輪駅の近くです(元々も、駅名も清正公前とする予定だったそうです。そのほうがわかりやすいと思うのですが)。

 恵比寿というと、山手線の恵比寿駅を思い起こされる方が多いと思いますが、実は、恵比寿という駅名の由来は、皆様もよく御存じのビールの工場なのです。

 

 

 

(2)

 目黒不動尊の西側の入口です。ここの路線バスは、この専用道路以外にも道幅の狭い所ばかりを走るため、小型の車両を使っています。実際、渋谷駅東口から五反田駅まで通しで乗ったのですが、目黒通りの元競馬場バス停の先から、「本当にこんな道にバス路線があるのか」と疑いたくなるような道が続きます。この専用道路を抜け、桐ヶ谷斎場の前を通って荏原一丁目の先で中原街道に出るまでは、住宅地の中を通っていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

(3)

 今回は、目黒不動尊を出て、不動前駅まで歩いていきます。

 目黒不動尊を出て、下目黒の商店街を歩いていきます。川崎市など、郊外では見かけなくなった子ども向けの遊具が、都内ではまだまだ残っています。のんびりした雰囲気の商店街も、都内には多いのですが、郊外ではあまりみかけません。

 目黒不動尊の周囲には、寺院が多く存在します。脇道を入って中に入らなかったので、よくわからなかったのですが、いい雰囲気ではあります。また歩いてみたくなる街です。

 しばらく歩くと成就院の前を通ります。蛸薬師とも言われています。蛸を多幸と引っ掛けるという洒落は、やはり日本語ならではの粋なものですが、最近はこういう洒落心がみられなくなりました。余計な話ですが、私は、九州に住んでいたせいか、よく福岡へ行くせいか、河豚のことを「ふく」と言います。言うまでもなく、福に引っ掛けた洒落です。下関から福岡にかけての言い方です。

 電車であろうが自動車であろうが、都内に行く度に、目黒区は必ず通ります。自由が丘、碑文谷などへ行くこともあります。しかし、この付近を通ることはあまりありませんので、蛸薬師のことは知らなかったのでした。そこで、入ってみました。 

 

 

 

 

 山手通りが見えてきました。そろそろ、この商店街も終わりです。その手前の交差点を右折し、不動前駅に戻ります。

 

 不動前駅通り商店街に入りました。短い商店街です。夕方の買い物時に入っていました。突き当りを左に折れ、すぐに右に折れると、駅に着きます。まっすぐ歩けば1分もかかるかどうか、という距離です。

 目黒線の高架が見えてきました。右側に不動前駅があります。ここから武蔵小杉行きの電車で帰ります。撮影当時は、まだ急行電車がなかったのですが、現在は急行電車が走っており、通過していきます。

 これで不動前駅の回は終わりです。残ったのが、目黒線の起点である目黒駅です。

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2006年7月31日、不動前駅(その1)

2020年04月29日 00時00分00秒 | まち歩き

 東急目黒線を田園調布から目黒に向かって進んできました。今回は不動前です。駅周辺のみならず、目黒不動尊の様子も紹介したので、6回にわたりました。長くなりますので、2回に分けて再掲載します。今回は、次の記事の再掲載です。なお、基本的な内容を変更しておりませんが、文章の一部を修正しています。

 第182回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その1)」(2006年9月1日〜8日掲載)

 第187回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その2)」(2006年10月3日〜10日掲載)

 第192回:「東急目黒線途中下車(5) 不動前駅(その3)」(2006年11月6日〜13日掲載)

 

 (1)

 2006年9月5日〜8日、11日および12日に、西南学院大学法学部において集中講義を担当させていただきました。実際に福岡入りをしたのは9月1日で、これは大分大学時代のゼミ生数名と会うためです。

 福岡は、私が大分大学に就職した1997年の4月になって初めて訪れたのですが、それ以来、東京とともに私が大好きな都市の一つです。とくに、天神、大名、今泉、六本松は即座に気に入ってしまい、何度も遊びに行きました。とにかく、そこにいるだけでも楽しいのです。福岡には、強烈な独自性を持っているのにそれを表に出さない奥ゆかしさがあります。そのような場所で3年も続けて集中講義の仕事をさせていただけるので、大変光栄に思っています。

 そんな福岡で、この待合室を更新するのですが、取り上げるのは東京の風景です。おかしなことになっているのですが、これは手持ちのネタなどの関係で仕方のないことですので、お許しいただきたいと思います。

 関東の三不動というと、成田、高幡、そして目黒です。成田不動尊は、言うまでもなく千葉県成田市にあり、小学生時代に行ったことがあります。高幡不動尊は、東京都日野市にあります。京王線と多摩モノレールの乗換駅が高幡不動です。私が大学生の頃には多摩モノレールがなかったので、中央大学には京王線と動物園線とを乗り継いで行っていました。不動尊にも何度か行きました。ここは新撰組の土方歳三の出生地に近い所でもあります(多摩モノレールの万願寺駅のほうが近いのですが)。また、京王線の特急停車駅の中では、車庫があることもあってか、高尾山口駅を除けば駅前の商店街などが最も貧弱だったのでしたが、多摩モノレールが開業してからは変わってきているようです。

 そして、目黒不動尊なのですが、どういう訳か、私は東急バスの渋谷駅から五反田駅までの路線で通ったことがあるだけで(このバス路線は、境内にある専用道路を走り抜けます)、不動尊の境内に入ったことがなかったのです。目黒線の不動前駅を利用したのも、大東文化大学に勤務するようになってからです。

 もっとも、よく言われるように、地元の人間ほど地元の名所には行かないものです。故宮脇俊三氏は、名著『時刻表2万キロ』で「いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。東京の人はいつまでたっても泉岳寺を訪れないし、東京タワーには昇らない」と書かれています。私自身は泉岳寺にも東京タワーにも行ったことがありますが、宮脇氏が書かれたことはすぐに理解できますし、そのとおりだと思うのです。

 実のところ、私自身がまさにそうです。大分県の全市町村を、58市町村時代に、しかも大分大学に就職してから2年弱で全て回ったのに、神奈川県には足を踏み入れたこともない市町村がたくさん残っています。幼稚園時代から何度も恵比寿に行っているのに、恵比寿ガーデンプレイスに入ったことがありません。高校時代からWAVEの閉店まで15年間も六本木に通っていたのに、2010年まで六本木ヒルズに入ったことがありません。そして、今でも心残りなのですが、大分市に住んでいた7年間に、いつでも高崎山に行けると思っていたせいで、 結局、一度も高崎山を訪れないままに終わっています。おそらく、こういう例を探そうと思えばいくらでも見つかるはずです。

 やはり、目黒線を通勤路線として使い、目黒線(だけでなく、東急線全線なのですが)の全ての駅を利用したことのある私が、目黒不動尊へ行ったことがないというのでは全くお話にならないでしょう。しかも、関東の三不動の中では自宅から最も近い所なのです。そこで、7月31日、途中下車をして目黒不動尊へ行くことにしました。

 目黒線の起点、目黒駅から一つ目の駅が不動前です(木に隠れて駅名標が見えませんが)。目黒線に急行が走ると、残念ながら不動前は通過駅となります。どうでもいい話ですが、個人的な趣味では、駅名標にある「東急電鉄」ではあまり格好がよくありません。少し前まで「東京急行」としていたのですが、そのほうが格好がいいと思うのです。駅名標、パスネットなどの社名表記を「東京急行」に戻して欲しいと思っています。

 ちょうど下校時間帯で、この駅の近くにある攻玉舎中学か高校の生徒らしい姿が写っています。

 ここで問題です。目黒不動尊の最寄り駅である不動前は、何区にあるでしょうか。

 実は、ちょっと難しい問題です。フジテレビ系列の番組「クイズ・ミリオネア」に出してもいいような問題だと思います。

 目黒不動尊は、目黒という地名の由来でもあるという説があるくらいで、目黒区にあります。その最寄り駅で、不動前と名乗っているのですから「目黒区にある」とお答えになる方が多いと思われます。

 残念ながら、不動前駅は目黒区にありません。正解は品川区です。品川区西五反田にあるのです。「2006年5月24日、洗足駅」でも記しましたが、目黒線という線名にもかかわらず、目黒区にある駅は洗足だけです。起点の目黒駅は品川区上大崎にあります(もっとも、駅を降りてすぐそばにある権之助坂から目黒区ですが)。JRと京浜急行の品川駅が品川区ではなく港区にあるように、名前と所在地が一致しない駅は多いものです(中目黒駅は上目黒にある、というようなものです)。新宿駅も、山手線や京王線、小田急線、丸ノ内線、都営新宿線の駅は新宿区にあるのですが、埼京線や湘南新宿ラインのホームは渋谷区にあります。新宿高島屋なども渋谷区にあるのです。 ついでに記しますと、東武東上線の下板橋駅は豊島区にあり、東武練馬駅は板橋区にあります。

 品川区にある不動前駅商店街を抜け、目黒不動尊に向かって歩きます。ただ、写真のルートは遠回りになっています。バス通りに出ようと思っているのです。不動前駅にはバスの停留所がありません。山手通りに出るか、写真に登場する道を歩き続けなければ、バス停には出られません。歩いている場所は品川区西五反田です。

 東京の脇道です。ようやく車一台が通れるほどの幅です。3ナンバーでは少々厳しいでしょうか。私の当時の愛車であるVolkswagenの5代目ゴルフGLiも3ナンバー車ですので、こんな道を通ることができるかな、などと思いました。通れるはずではあるのですが、対向車があった時には難儀がありそうです。

 品川区や目黒区、大田区、世田谷区でも、脇道と言えばこういうものでしょう。とにかく、こういう幅の狭い道路が多いのです。でも、よく考えると、私が生まれ育った川崎市もこんな道ばかりでした。私が通っていた小学校の近所でも、最近片道2車線の道路が新たに設けられたのですが、古くからある道は、今でもこの写真より狭いような幅で残っていたりします。

 つい懐かしくなって撮影したものです。私が小学生だった頃までは、オリエンタルカレーの看板を時々見かけましたが、 いつしかあまり見なくなったのでした。そういえば、サザエサンカレーというものもありました。工場が実家から自転車で15分くらいのところにあったのです。

 不動前駅の近くにオリエンタルカレーの東京支店があるというのを初めて知りました。もっとも、有名な会社の本社や支社が意外なところにあるというのは、よくあることです。川崎フロンターレの球団事務所がうちから歩いて数分の所にあるのを知った時には驚いたのですが、考えてみれば、今は富士通の系列会社となっている電機会社の本社が、やはりうちから歩いて10分くらいのところにあります。

 先ほどの道を歩いていると、寺院にたどり着きます。まだ目黒不動尊ではありません。不動前という駅名にもかかわらず、駅から目黒不動尊まではそれほど近くはありません。15分以上は歩きます。まだそんなに時間が経っていないのです。

 勾配の途中にあるのですが、この寺院に入るためにはさらに急な勾配を登って行くことがわかります。

 東京は、とにかく坂の多い街です。中央区、台東区、墨田区、江東区、江戸川区などのように勾配がほとんどないような平らな所もあるのですが、地下鉄の駅名にも中野坂上、志村坂上、神楽坂、牛込神楽坂がありますし、ランダムにあげれば夫婦坂、権之助坂、芋洗坂など、きりがないほどです。品川区では、大井町駅の近くにゼームス坂があります。 今歩いている坂の名称はわからないのですが、それほど急ではないものの、長く続きます。

 

 (2)

 2006年9月25日、目黒線のダイヤ改正が行われ、急行が走り出しました。この急行の停車駅は、私が予想していた通りで、目黒、武蔵小山、大岡山、田園調布、多摩川、武蔵小杉です。残念ながら不動前は通過しますが、これはしかたのないところでしょう。沿線最大の商店街がある所と言えば武蔵小山で、その次が大岡山だからです。 不動前駅は、目黒駅と武蔵小山駅との間にあります。

 さて、前回は不動前駅を降り、少し遠回りですがバス通りへ出て目黒不動尊へ行こうとしていました。そのバス通りに出ることができましたので、あとはその通りを歩けばよいだけです。

 マンションなどが建ち並ぶ、静かな道路ですが、これが目黒不動尊の境内を抜けるバスが通る道路です。東急バス渋72系統、渋谷駅(東口)~五反田駅という路線で、これまでに2回乗っています。小型のバスですが、バスが通るとは思えないほど狭い道も通ります。バスの旅で一番面白いのは、こうした普通の路線バスとコミュニティバスではないかと思うのですが、その中でも渋72系統は楽しめます。但し、目黒不動尊の縁日などがあると運転区間などが変わったりすることもあるようです。

 一方通行の脇道です。多分、こちらのほうが近道だったのでしょう。不動前駅は品川区にあり、目黒不動尊は目黒区にありますので、歩いているうちに区界を越えているのですが、どこがそうだったのかよくわかりません。もっとも、こういう狭い道は、品川区にも目黒区にも、そして世田谷区や大田区にもたくさんあります。

 京浜地区では色々な所に安養院というお寺がありまして、私が今住んでいる所の近くにもあります。上の写真は、目黒不動尊へ行く途中にある安養院です。

 さて、もう目黒不動尊が近くなってきました。もう少し歩くと参道の小さな商店街に入ります。小さい、と記しましたが、駅前商店街よりは大きいかもしれません。もう、このあたりは品川区ではなく、目黒区となっています。

 お昼時なら、どこかの店に入って食事をするところでしょう。しかし、この時は食事を取るべき時間帯ではなかったので、どこの店にも入っていません。

 そもそも、私は、外出すると間食などをあまりしません。一人で出歩いている時は、とくにそうです。喫茶店に入ることはありますが、コーヒーか紅茶を飲むだけで、ケーキを食べたりすることもほとんどありません。食事時でなければ、何かを食べる気にならないことが多いのです。そのため、時々テレビで食べ歩きのようなものを見ていると「よくあんなことができるな」と思うだけです。食事の際に結構な量を食べたりしますが、食いしん坊ではないのかもしれません。もっとも、そのほうがよいと思っていますが。

 

 

 

 目黒不動尊の山門前に着きました。詳しいことを全く知らないのですが、江戸時代に白井権八という男と、小柴という遊女がいたそうで、白井が処刑された後、小柴が後追い自殺したという話があり、この比翼塚が建てられています。心中がこのように美化されるのは、江戸時代になってからでしょうか。

 山門のすぐ左側にバス専用道路があり、ちょうど渋72系統のバスが出てきた所です。全国にこのような路線バスがどの程度あるのかわかりませんが、東京都23区内、川崎市内および横浜市内という京浜地区に限定すると、神社や寺の中を通り抜けるバス路線はここしかありません。この専用道路は、勿論、一般の自動車などが入ることが禁止されています。ちなみに、この専用道路の途中に目黒不動尊バス停があります。

 先ほどは記さなかったのです、渋72系統は、渋谷駅東口から恵比寿駅前を通り、林試の森、目黒不動尊、そして桐ヶ谷斎場の前を経由して五反田駅へ向かうバス路線で、一度は乗ってみる価値があります。

 

 (3)

 いよいよ、目黒不動尊に入ります。今住んでいる場所から決して遠くないのに、しかも、バスで通ったことがあるのに、初めてのことです。

 なお、今回は写真だけをあげていきます。

 

 

 

 

 

 

 

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2006年7月3日、武蔵小山駅

2020年04月28日 00時00分00秒 | まち歩き

 「東急目黒線途中下車」シリーズ再掲載を進めています。今回は武蔵小山です。元は「待合室」の第190回「東急目黒線途中下車(6)武蔵小山駅」として、2006年10月25日〜31日に掲載したものです。基本的な内容は掲載当時のままですが、文章の一部を修正しています。

 

 大東文化大学板橋校舎への通勤路線として私が利用している路線の一つが、東急目黒線です。東急の歴史は、かつての目蒲線、現在の目黒線と多摩川線から始まるというほどです。現在まで、東横線と田園都市線が本線級なのですが、目黒線と多摩川線は、独自の色彩を保った路線です。たしか、東急線で最初に冷房車が走ったのも、目黒線と多摩川線であったはずです。

 目黒線は、現在、東京メトロ南北線および都営三田線と相互乗り入れをしています。相互乗り入れという点で最も便利なのは田園都市線なのですが、目黒線も、南北線直通と三田線直通とを乗り間違えると白金高輪より先で大変な目にあいかねないとは言え、便利になりました。2006年9月25日からは急行電車も走っています。

 2006年7月2日、武蔵小山駅と西小山駅が地下化されました。目黒線の起点である目黒駅も地下駅で、発車するとほどなく地上に出て不動前駅に到着しますが、不動前駅を発車するとまた地下にもぐり、武蔵小山駅に到着します。

 武蔵小山と言えば、日本最初のアーケード商店街として有名で、テレビやラジオでも、街角での取材場所としてよく登場しています。この商店街は、アーケード商店街としてもかなりの距離でして、池上線の戸越銀座駅の近くまで伸びています。今回はアーケード商店街を取り上げませんが、東京都内にある東急線の駅でも、渋谷と蒲田を除けば最も繁華な商店街を抱えていますので、急行が止まるのは当然です。

 7月3日、武蔵小山で降りてみました。線路は地下化されていますが、まだ駅の工事は続いていました。小山台高校に近い西口にしか通路がないのですが、アーケード商店街に近い東口への通路も、もうじき完成することでしょう。

 目黒線をよく使うようになったのは大東文化大学法学部に勤めるようになってからのことですので、過去のことはよく覚えていません。記憶に誤りがなければ、武蔵小山は、ホームが地上にあり、改札口は地下にあったはずです。つい最近までの元住吉駅(9月25日に高架化されています)と同じような構造でした。その後、地下化工事により、改札口がホームの上に移動して橋上駅舎となっていました。

 7月1日まで使用されていた地上時代の線路です。アーケード商店街につながる踏切がありました。これから撤去工事が始まるのでしょう。懐かしさだけではない、複雑な気分に囚われました。

 元の踏切から西小山方面を見ています。もう、この線路の上を電車が走ることはありません。線路が撤去され、新しい何かができるはずです。この先、西小山までは完全に地下化されており、西小山を出発すると、洗足の手前で地上に出たかと思うとすぐに地下に入り、洗足駅に到着します。大岡山も地下駅です。

 地上時代の武蔵小山駅のホームです。ホームドアも残っています。ドアの部分が黄色に塗られています。これは武蔵小山駅のカラーです。目黒線の場合は、駅によってホームドアの色が異なっており、識別に役立っています。この手法は、1977年に開通した新玉川線(現在は田園都市線の一部)で採用されており、全国に、様々に形を変えて広まったものでした。ここに何ができるのか、期待しています。

 地下化されてからはあまり利用していないのですが、地上時代には、よく武蔵小山で途中下車をしていました。東口の古レコード屋、西口の古本屋など、よくまわったものでした。

 地下化されてからの武蔵小山駅です。下りホームに立っています。

 地上時代の武蔵小山駅のホームとは全く別の駅になったかと思えるほどに、様変わりしていました。ホームドアの黄色はそのままです。

 地下化されて、武蔵小山駅は2面4線のホームとなりました。私が上の写真を撮影した7月3日には、1番線と4番線がまだ使用されていなかったのですが、急行運転が開始された9月25日からは、1番線と4番線も利用されています。ここは急行の停車駅ですので、各駅停車が待ち合わせのために1番線(下り)、4番線(上り)が停まるのです。

 先ほど記したように、目黒線の場合は、駅によってホームドアの色が決まっています。このような手法は、新玉川線に始まり(ホームの壁に帯が入っていて、この帯の色が駅によって異なっています)、各地に広まりました。半蔵門線の半蔵門駅、九段下駅、神保町駅などは、駅周辺の特徴を示すデザインで識別していますし、福岡市営地下鉄などは駅のロゴマークで識別しています。

 今回は駅しか取り上げられなかったのですが、やはり武蔵小山のアーケード商店街などを歩き、撮影して、このブログにて紹介したいものです。

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ただの愚痴です

2020年04月27日 23時15分50秒 | 受験・学校

 早いところでは先週か今週から、オンライン講義による前期講義期間が始まっています。

 しかし、これを実際にやるとなると非常に面倒です。あれこれのチェックなどをしなければなりませんし、某大学のマニュアルを印刷してみたら何十頁にもなりました。

 うちのラップトップ(MacBook Pro、MacBook)にはカメラがついていますし、テストしたところでは内蔵マイクでもそこそこ行けそうなのでよいとしても、手間がかかるのです。しかも、たとえばオンデマンド型で録画か何かをあげるとしても、制限が僅か10MBなどと書かれていたりします。iPhone8で29秒の動画を撮影してみたら38MB以上になりました。HD仕様と思われるので、相当に画質を落とさなければならないことになります。

 これなら、電車賃をかけて大学へ行き、教室へ行って講義するほうがよほど楽です。勿論、実際にはできないことくらいわかっています。厳しい入構制限がかかっているのです。

 通常時の有り難みが身にしみます。

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2006年8月25日、西小山駅

2020年04月27日 00時00分00秒 | まち歩き

 私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」のコーナーから「東急目黒線途中下車」シリーズを取り上げ、再掲載を進めています。元々は、奥沢、田園調布、洗足、大岡山、不動前、武蔵小山、不動前、西小山、目黒の順に掲載していたのですが、これではランダムですので、田園調布→目黒の方向で再掲載を進めています。但し、実際には、大岡山田園調布奥沢洗足の順となっています。これは、大岡山が大井町線の駅でもあるためです。

 さて、今回は西小山です。元は「待合室」の第197回「東急目黒線途中下車(7)西小山駅」として、2006年12月5日〜10日に掲載したものです。基本的な内容は掲載当時のままですが、文章の一部を修正しています。

 ここで、東急目黒線の路線図を確認しておきましょう。何度も記していますが、正式の区間は目黒〜田園調布です。ここでは、駅ナンバリングとともに目黒〜日吉として見ておきます。

 目黒(MG01。品川区。急行停車駅。ほとんどの電車は東京メトロ南北線または都営三田線に直通。JR山手線は乗り換え

 →不動前(MG02。品川区。急行通過駅)

 →武蔵小山(MG03。品川区。急行停車駅。待避施設あり)

 →西小山(MG04。品川区。急行通過駅)

 →洗足(MG05。目黒区。急行通過駅)

 →大岡山(MG06、OM08。大田区。急行停車駅。東急大井町線は乗り換え)

 →奥沢(MG07。世田谷区。急行通過駅)

 →田園調布(MG08、TY08。大田区。急行停車駅。ここから日吉まで、正式には東急東横線。同線の自由が丘・渋谷方面は乗り換え)

 →多摩川(MG09、TY09。大田区、急行停車駅。東急多摩川線は乗り換え)

 →新丸子(MG10、TY10。川崎市中原区、急行通過駅)

 →武蔵小杉(MG11、TY11。川崎市中原区、急行停車駅)

 →元住吉(MG12、TY12。川崎市中原区、急行通過駅)

 →日吉(MG13、TY13。横浜市港北区、急行停車駅)

 それでは、以下から再掲載ですが、お楽しみください。

 

 

 2006年7月2日、東急目黒線の武蔵小山駅と西小山駅が地下化されました。そして、同年9月25日からは急行電車が走っています。西小山駅は急行通過駅となりましたが、これは仕方のないことでしょう。急行停車駅は上記の通りですが、通勤利用者として、これ以外の停車パターンは考えられません。

 私は、何度か西小山駅を使っています。今回の写真は、2006年8月25日に撮影しました。急行運転開始のちょうど1ヶ月前、ということになります。西小山駅が地下化されたとはいえ、まだ工事は続いていました。

 利用者として言わせていただくならば、駅名の看板には「東急電鉄」ではなく「東京急行」と書かれていたほうがよかったと感じています。私が生まれる前から「東京急行」と書かれていたのですが、2006年の秋から、何故か「東急電鉄」と書かれるようになりました。様々な意味で東京急行電鉄と縁がある私としては「東京急行に戻してくれ!」と言いたいのです。

 高架駅時代のホームなどが残っていました。勾配票まで残っています。しかし、ホームドアは撤去されていました。

 立体化工事が始まる前の西小山駅については、全く記憶にありません。ここは、不動前駅、洗足駅、大岡山駅とともに、自動車で行きにくいところです。しかも、西小山駅前を通るバス路線はないので、バス停もありません。そのためもあって、よく覚えていないのです。東急には、近くを路線バス(東急バス、都営バスなど)が通らないという駅が他にもいくつかあります。思いつくのは、目黒線と大井町線の大岡山、大井町線の下神明・戸越公園・旗の台・北千束、池上線の荏原中延・御嶽山・久が原、多摩川線の沼部・鵜の木・下丸子・武蔵新田です。「●●駅前」というバス停がない駅なら、もう少し増えます。

 西小山駅は、その名の通り、品川区小山にあります。西口に出て、道幅の狭い商店街を歩いています。エリアは狭いのですが、急行通過駅にしては人通りの多い街です。西口は、とにかく小さな飲食店が多いのです。もっとも、途中下車をして夕食などをとったことはありません。私が途中下車をするのは、何となく歩いてみたくなるからなのです(大学院生時代もそうでした)。

 西小山駅西口の商店街を歩いていると、すぐに目黒区に入ります。上の写真は、目黒区原町の様子です。もう少し歩けば、渋谷駅から洗足駅まで走っているバス路線の道路に出られるのかもしれませんが、このあたりは、目黒区や品川区の多くの場所と同様に、幅の狭い道が複雑に入り組んでいますので、下手をすると道に迷いかねません。もっとも、それだからこそ、歩いていて面白いのですが。

 西口を一回りして、また駅に戻ってきました。駅名標が残っていました。わびしさを覚えます。優れたデザインの駅名標ですので「一枚欲しいな」と思ったほどなのですが、既に処分されているのでしょうか。地下化されてからの駅名標は、少しばかりデザインが異なっています。

 今度は東口に出ます。アーケード商店街といえば、何と言っても全国的にも有名な武蔵小山が代表格なのですが、隣の西小山にもアーケード商店街があります。但し、距離は武蔵小山の何分の1というほどのものです。道幅も武蔵小山の半分に満たないでしょうか。それでも、人通りは多いのです。歩いたのは夕暮れ時、つまりは買い物で最も混む時間帯です。ちなみに、東口は品川区小山です。

 アーケードの終着点の交差点です。この 写真の左側がアーケードですから、写真の上のほうに歩いていけば武蔵小山駅のほうに出られるはずです。一度だけですが、武蔵小山駅から西小山駅まで歩いたこともあります。自転車での買い物客が多いことがわかります。もっとも、自転車での買い物客は、川崎市の溝口や小杉などのほうが多いのですが(平らな地形のためです)、武蔵小山や西小山では自転車を多く見かけます。

 さて、一通り歩いたので、目黒線に乗って帰ることとしましょう。現在の西小山駅のホームです。ホームドアがピンク色に塗られています。目黒線の場合、駅によって色が決まっています。これは、1977年に開通した新玉川線(現在の田園都市線の渋谷~二子玉川)に始まっており、形を変えつつ、福岡市営地下鉄(全駅に固有のシンボルマークがあります)、東京メトロなどに広がったものです。地下駅ということで、識別のために、駅によって壁やホームドアなどの色を変えているのです。西小山駅の色は、新玉川線(田園都市線)の桜新町駅と同じです。

 現在の西小山の駅名票です。地上駅時代の駅名標を基調にしつつも、デザインを少し変えています。以前のものよりわかりやすくなったと言えます。上の写真は、上り電車(目黒方面)のための駅名標を撮影したものです。私が帰る方向とは逆です。

 田園都市線を通勤ルートにするようになってから、目黒線をあまり利用しなくなったため、西小山の駅周辺を歩くこともなくなりました。しかし、品川区小山は、東京のまち歩きを趣味とする者にとっては楽しめる場所の一つです。武蔵小山を降りて商店街を歩き、西小山まで歩いてみたいものですが、それには新型コロナウイルスの収束(終息?)を待たなければなりません。

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第1部:租税法の基礎理論 第09回:租税法と信義誠実の原則

2020年04月26日 08時00分00秒 | 租税法講義ノート〔第3版〕

 今回の内容は「行政法講義ノート」〔第7版〕の「第4回 法律による行政の原理」、「4.行政法の一般原則(条理)」の「〈3〉信義誠実の原則」と重複する。これは、公法の分野、すなわち憲法、行政法などの分野において信義誠実の原則が最初に問題となったのが租税法に関する事件であったためであり、租税法学において信義誠実の原則が適用されるか否かが議論されたためである。

 このように、最初に租税法学において取り上げられ、行政法学においても検討の対象となるようになったものは、信義誠実の原則の他にもいくつか存在する。行政調査が典型例であろう。

 信義誠実の原則は、元々債権法の領域におけるドイツ法の一般原則であり、法律関係の当事者は相手方の信頼を裏切らないよう、誠意をもって行動すべしというものである

 なお、芝池義一『行政法読本』〔第4版〕(2016年、有斐閣)60頁を参照。

 しかし、信義誠実の原則は、租税法律主義、さらに法律による行政の原理と抵触する可能性を有する。公法の分野において信義誠実の原則をそのまま援用すると、租税法律主義や法律による行政の原理と抵触し、違法な行政活動を有効としてしまう場合があるからである。

 租税法において信義誠実の原則の適用が問題となるのは、税務官庁の表示または不表示である。代表的な判例として、まずは文化学院非課税通知事件をあげておく。

 事案は次のとおりである。

 X(文化学院)は、当時、民法上の法人であった〈学校法人となったのは1972(昭和47)年になってからである。なお、Xは2018(平成30年)3月に閉校した〉。Xは、直接に教育の用に供する土地および建物について、東京都某税務事務所長に対し、固定資産税を非課税として欲しい旨の文書を提出した。税務事務所長は、この土地および建物が地方税法第348条第2項第9号に該当するものと誤認し、1953(昭和28)年9月17日付で非課税とする通知を発した。それから8年ほど経った1961(昭和36)年6月に再調査がなされ、Xが学校法人などの法人ではなかったことがわかり、同号に該当しないとして、税務事務所長は同年9月末日付で価格決定通知書をXに対して発し、同年10月10日付で徴税令書を発して1957(昭和32)年分にまで遡って固定資産税を賦課した。同年11月20日にはXに対して督促状を発したが、Xが納税しなかったので、翌1962(昭和37)年2月27日に税務事務所長は徴収事務をY(東京都知事)に引き継ぎ、Yが同年9月12日付で本件土地について差押手続を行った。XはYに対して異議の申立てを行ったが、Yは1963(昭和38)年2月12日付でXの異議を棄却する旨の決定を行い、同月15日付でXに通知した。

 東京地判昭和40年5月26日行裁例集16巻6号1033頁(一審判決)は、信義誠実の原則(禁反言の原則)の適用を認め、賦課処分を無効とした上で差押え処分を取り消した。判旨より、一般論を述べる部分のうちの一部を引用しておく。

 「思うに、自己の過去の言動に反する主張をすることにより、その過去の言動を信頼した相手方の利益を害することの許されないことは、それを禁反言の法理と呼ぶか信義誠実の原則と呼ぶかはともかく、法の根底をなす正義の理念より当然生ずる法原則(以下禁反言の原則という。)であつて、国家、公共団体もまた、基本的には、国民個人と同様に法の支配に服すべきものとする建前をとるわが憲法の下においては、いわゆる公法の分野においても、この原則の適用を否定すべき理由はないものといわねばならない。(すでに公法の分野において確立された法理と目されている次の法理、すなわち相手方に利益を付与する行政処分については、その処分が違法であつても、処分庁が後にこれを自ら取り消すことには制限があるとする法理の如きは、この原則の一適用を示すものと解される。)それのみならず、国家、公共団体の行政は、いわゆる権力作用によつてのみ行なわれるものではなく、実際上、法の根拠を欠くとはいえ、法の禁止しているものとは認められない数多くの、事実上の行政作用(たとえば、行政法規の解釈、適用等に関する通達、その他本件で問題となつている非課税決定通知なども、かような事実上の行政作用に属する。)によつて行なわれるものであり、ことに、国民の社会生活が公法法規により規制される度合が増大し、しかも、この種の法規がますます専門技術化するに応じて、かような事実上の行政作用の果す役割りはますます重要なものとなり、その反面、国民は、善良な市民として適法に社会生活を営むためには、かような事実上の行政作用に依存しこれを信頼して行動せざるを得ないこととなる。ことに、租税法規が著しく複雑かつ専門化した現代において、国民が善良な市民として混乱なく社会経済生活を営むためには、租税法規の解釈適用等に関する通達等の事実上の行政作用を信頼し、これを前提として経済的行動をとらざるを得ず、租税行政当局もまた、適正円滑に税務行政を遂行するためには、かような事実上の行政作用を利用せざるを得ない。かような、事態にかんがみれば、事実上の行政作用を信頼して行動したことにつきなんら責められるべき点のない誠実、善良な市民が行政庁の信頼を裏切る行為によつて、まつたく犠牲に供されてもよいとする理由はないものといわねばならない。」

 「禁反言の原則は、もともと、制定法上、形式的には適法とされる行為であるにかかわらず、個別的、具体的事情の下で、これを行なうことが法の根底をなす正義の理念に反するところから、これを行なうことを許さないとするものであつて、前述のような事実上の行政作用の果している役割りにかんがみれば、個々の場合に、租税の減免が法律上の根拠に基づいてのみ行なわるべきであるとする原則を形式的に貫くことよりも、事実上の行政作用を信頼したことにつきなんら責めらるべき点のない誠実、善良な市民の信頼利益を保護することが、公益上、いつそう強く要請される場合のあることは否定できないところであるから、租税の減免が法律上の根拠に基づいてのみ行なわるべきであるということは、税法の分野に禁反言の原則を導入するについて、その要件及び適用の範囲を決定する場合に考慮を払うべき要素の一つとはなつても、この原則の導入を根本的に拒否する理由とはなり得ないものと解すべきである。」

 「以上に判断したとおり、禁反言の原則は、いわゆる公法分野についても、その適用を否定すべき根本的理由はないと解すべきであるが、このことは、右の原則が私法分野におけると同じ要件の下に、同じ範囲、程度において適用されると解すべきことの理由となるものではなく、公法分野とくに税法の分野においては、前述のように、積極、消極両面の行政作用につき厳格な法律の遵守が要請されていることにかんがみれば、かような法分野について禁反言の原則がいかなる要件の下に、いかなる範囲において適用されるかについては慎重な判断を要することはもちろんである。すなわち、この原則の適用の要件の問題としては、とくに、行政庁の誤つた言動をするに至つたことにつき相手方国民の側に責めらるべき事情があつたかどうか、行政庁のその行動がいかなる手続、方式で相手方に表明されたか(一般的のものか特定の個人に対する具体的なものか、口頭によるものか書面によるものか、その行動を決定するに至つた手続等)相手方がそれを信頼することが無理でないと認められるような事情にあつたかどうか、その信頼を裏切られることによつて相手方の被る不利益の程度等の諸点が、右原則の適用の範囲の問題としては、とくに、相手方の信頼利益が将来に向つても保護さるべきかどうかの点が吟味されなければならない。」

 この判決に対してYが控訴した。東京高判昭和41年6月6日行裁例集17巻6号607頁は、Yの控訴を認容して一審判決を破棄し、Xの請求を棄却した。信義誠実の原則に関する部分を引用する。

 「本件の場合、千代田所長は昭和28年9月17日付で被控訴人に対し非課税取扱いの通知をした。しかし、この通知が免税その他何らの法的効果を生ずるものでないことは前記認定のとおりであつて、それは、単に、本件土地建物が地方税法348条2項9号所定の非課税の固定資産に該当すると認められるという所長の見解、ないし、その見解からして当然右土地建物については非課税の取扱いになるという部内の方針を、便宜、文書で被控訴人に知らせた事実上の措置にすぎない。また、被控訴人としても、右通知があつたのでそれではじめて本件土地建物が非課税であると誤解するに至つたとか、本来は課税されるべきものなのを右決定通知により免税になつたと誤信したとかいうのでない。まして、右通知による誤解、誤信のゆえに被控訴人が特段の行動をしたというのでもない。(そのような事情を認めるべき資料は存しない。)被控訴人は従前より本件土地建物は非課税と誤解しており、それゆえに私立学校法附則六項による組織変更もしなかつたのであつて、ただ、右通知により、被控訴人はその誤解を深め、安心して従来どおりの学校経営を続けたというにすぎない。(仮にこのような通知がなかつたとしても、千代田所長が右誤解のもとに事実上非課税の取扱いを続ける限り、同じように、被控訴人もその誤解を深めて、そのつもりで学校経営を続けたであろうことは推測にかたくないところである。)かような誤解に基く違法な取扱いは少しでも早く是正されるべきであつて、千代田所長が昭和36年になつてこれに気づき、法の命ずるところに従い、法の許容する範囲内で昭和32年度まで遡つて本件課税処分をした、これを禁反言の法理に反するものとして無効ということはできないものといわねばならない。」

 「もつとも、法の解釈・適用の誤りに基く違法な措置にせよ、右のように長年にわたつて課税庁が非課税の取扱いを続け、そのため納税者の方も非課税と信じてそのつもりで経営経理を続けてきているとき、一度に、過年度に遡つて多額の課税をすることにより、納税者は甚大な支障、不測の損害を受けることがないとはいえず、事情いかんによつてその救済が考慮されねばならぬ場合もあり得ようが、本件の場合、被控訴人の全立証によるも、本件課税処分が禁反言の法理ないしはそれを含む信義誠実の原則に違背し、当然無効と解すべき理由をみいだすことができない。」

 それでは、租税法の領域において信義誠実の原則はどのような場合に認められるべきか。事案は多様たりうるため、一義的に判断することはできない。また、租税法律主義が妥当するのであるから、これとのバランスが求められる。租税法の領域における信義誠実の原則の適用について基準を示したのが、最三小判昭和62年10月30日訟務月報34巻4号853頁である。まず、事案を紹介しておく。

 Xは、Aが経営する酒屋に勤めており、しばらくしてからは実質的に経営をなすようになった。Aは青色申告について所轄税務署長Yの承認を受けており、昭和29年分から昭和45年分まで、事業所得に関する青色申告はAの名義で行われていた。しかし、昭和47年3月に行われた昭和46年分の青色申告はAの名義ではなく、Xの名義で行われている。Xは青色申告についてYの承認を受けていなかった(そもそもそのための申請を行っていなかったようである)が、どういう訳かYはX名義の青色申告書を受理し、その後、昭和47年分から昭和49年分についても青色申告用紙をXに送付し、Xの青色申告を受理していた。なお、Aは昭和47年秋に死亡している。

 或る日、YはAの相続人について相続税の調査を行った。その際にXが青色申告の承認を受けていないことを知った。そこで、Yは昭和48年分および昭和49年分の青色申告の効力を否認し、白色申告とみなして更正処分(以下、本件更正処分)を行った。Xは、本件更正処分が信義誠実の原則に違反するなどとして、本件更正処分など複数の処分についてYに異議申立てを行い、取消訴訟を提起した。

 福岡地判昭和56年7月20日訟務月報27巻12号2351頁は、本件更正処分についてXの請求を認容した。信義誠実の原則に関する部分を引用する。

 「所得税法143条によれば、事業所得を生ずべき業務を行う居住者が青色申告書による確定申告をするには、税務署長の承認を受けることが必要とされており、税務署長の承認のなされていない以上、一般的には、青色申告書の提出による確定申告がなされても当然には青色申告としての効力を認めることができないことはいうまでもない。しかしながら、青色申告制度が課税所得額の基礎資料となる帳簿書類を一定の形式に従って保存整備させ、その内容に隠蔽、過誤などの不実記載がないことを担保させることによって、納税者の自主的かつ公正な申告による課税の実現を確保しようとする制度であることから考えると、右のような制度の趣旨を逸脱しない限度においては、仮に、青色申告書の提出について税務署長の承認がなされていなかったとしても、青色申告としての効力を認めてもよい例外的な場合があるというべきである。」

 「Xが同人の昭和46年分の所得について青色申告書の提出による所得税の確定申告をしたところ、Yはこれを受理しただけでなく、昭和47年分から同50年分までの所得税についても同人に青色申告用紙を送付し、これに従った同人の確定申告をいずれも受理するとともに、青色申告により計算された所得税額を収納してきたこと、Aに対しては既に青色申告の承認がなされており、昭和29年から同45年分まで同人名義による青色申告を継続したがその間承認を取り消されるようなことがなかったことはいずれも当事者間に争いがなく」、「昭和46年以降も事業所得の形式上の名義がAからXに変わるだけでその経営実態や帳簿書類の整備保存態勢には何らの変化がなかったことがそれぞれ認められる。したがって、こうした特段の事情がある場合には、青色申告書を提出することについて新たにX名義の承認申請をしなかったとしても必ずしも右青色申告制度の趣旨に背馳するとは考えられないから、被告が青色申告書による確定申告をいったん受理した以上、単にXが自己名義による新たな青色申告書の提出についての承認申請をしていなかったことだけで右青色申告の効力を否認するのは信義則に違反し許されないというべきである」。

 X、Yの双方が控訴し、福岡高判昭和60年3月29日訟務月報31巻11号2906頁はXの勝訴部分の一部を取り消す判断を示したが、本件更正処分については前掲福岡地方裁判所判決を支持してYの控訴を棄却した。本件更正処分についての判断は基本的に前掲福岡地方裁判所判決の引用であるが、次のような判断が付け加えられている。

 「一般に税法における信義則の適用が問題とされる事案にあつては、信義則が適用され処分が違法とされた結果、納税者に与えられる非課税等の利益は、如何なる処理をしても適法となる余地のない違法なものが多い。しかるに、本件においては、Xは、青色申告の承認申請を怠りその承認がなかつたものの、前記のとおり、実質所得者の点については相当ではなかつたものの、昭和46、47年分については青色申告による確定申告を受理されて納税し、昭和50年分以降はYに右更正処分によつて青色申告の承認申請のなかつたことを指摘されるや直ちにその申請をして昭和51年分以降についてその承認を受け同年分以降青色申告による確定申告、納税をしていることからも明らかなように、青色申告の申請、承認のなかつたことを除いては、昭和48、49年分の青色申告による確定申告は相当であつてXが不当に課税上の利益を得るというものではない。したがつて、本件について前記の諸事情があることによつて信義則を適用して、前記各更正処分を違法として差支えない」。

 Yが上告し、最高裁判所第三小法廷は前掲福岡高等裁判所判決を破棄し、事件を同裁判所に差し戻す旨の判決を下した。信義誠実の原則の適用に関して述べている部分を引用しておく。

 「租税法規に適合する課税処分について、法の一般原理である信義則の法理の適用により、右課税処分を違法なものとして取り消すことができる場合があるとしても、法律による行政の原理なかんずく租税法律主義の原則が貫かれるべき租税法律関係においては、右法理の適用については慎重でなければならず、租税法規の適用における納税者間の平等、公平という要請を犠牲にしてもなお当該課税処分に係る課税を免れしめて納税者の信頼を保護しなければ正義に反するといえるような特別の事情が存する場合に、初めて右法理の適用の是非を考えるべきものである。そして、右特別の事情が存するかどうかの判断に当たっては、少なくとも、税務官庁が納税者に対し信頼の対象となる公的見解を表示したことにより、納税者がその表示を信頼しその信頼に基づいて行動したところ、のちに右表示に反する課税処分が行われ、そのために納税者が経済的不利益を受けることになったものであるかどうか 、また、納税者が税務官庁の右表示を信頼しその信頼に基づいて行動したことについて納税者の責めに帰すべき事由がないかどうかという点の考慮は不可欠のものであるといわなければならない。

 これを本件についてみるに、納税申告は、納税者が所轄税務署長に納税申告書を提出することによって完了する行為であり(国税通則法17条ないし22条参照)、税務署長による申告書の受理及び申告税額の収納は、当該申告書の申告内容を是認することを何ら意味するものではない(同法24条参照)。また、納税者が青色申告書により納税申告したからといって、これをもって青色申告の承認申請をしたものと解しうるものでないことはいうまでもなく、税務署長が納税者の青色申告書による確定申告につきその承認があるかどうかの確認を怠り、翌年分以降青色申告の用紙を当該納税者に送付したとしても、それをもって当該納税者が税務署長により青色申告書の提出を承認されたものと受け取りうべきものでないことも明らかである。そうすると、原審の確定した前記事実関係をもってしては、本件更正処分が上告人の被上告人に対して与えた公的見解の表示に反する処分であるということはできないものというべく、本件更正処分について信義則の法理の適用を考える余地はないものといわなければならない。」

 差戻控訴審判決である福岡高判昭和63年5月31日税務訴訟資料164号927頁も取り上げておこう。同判決は、結局、Xの請求を棄却した。

 「租税法規に適合する課税処分について、法の一般原理である信義則の法理の適用により、右課税処分を違法なものとして取り消すことができる場合があるとしても、法律による行政の原理なかんずく租税法律主義の原則が貫かれるべき租税法律関係においては、右法理の適用については慎重でなければならず、租税法規の適用における納税者間の平等、公平という要請を犠牲にしてもなお当該課税処分に係る課税を免れしめて納税者の信頼を保護しなければ正義に反するといえるような特別の事情が存する場合に、初めて右法理の適用の是非を考えるべきものである。そして、右特別の事情が存するかどうかの判断に当たつては、少なくとも、税務官庁が納税者に対し信頼の対象となる公的見解を表示したことにより、納税者がその表示を信頼しその信頼に基づいて行動したところ、のちに右表示に反する課税処分が行われ、そのために納税者が経済的不利益を受けることになつたものであるかどうか、また、納税者が税務官庁の右表示を信頼しその信頼に基づいて行動したことについて納税者の責めに帰すべき事由がないかどうかという点の考慮は不可欠のものであるといわなければなら」ない。

 「納税申告は、納税者が所轄税務署長に納税申告書を提出することによつて完了する行為であり(国税通則法17条ないし22条参照)、税務署長による申告書の受理及び申告税額の収納は、当該申告書の申告内容を是認することを何ら意味するものでなく(同法24条参照)、また、納税者が青色申告書により納税申告したからといつて、これをもつて青色申告の承認申請をしたものと解しうるものでない」。また、「税務署長が納税者の青色申告書による確定申告につきその承認があるかどうかの確認を怠り、翌年分以降青色申告の用紙を当該納税者に送付したとしても、それをもつて当該納税者が税務署長により青色申告書の提出を承認されたものと受け取りうべきものでないことも明らかであり、さらに、このことは、納税者が青色申告書による納税申告をした際、青色申告の承認手続を経ていないことにつきなんらの摘示をしないままであつたのに対し、税務署所得税課所属調査官が納税申告につき、調査をし修正申告の勧告をしたとしても同様であ」り、「本件各処分が控訴人の被控訴人に対して与えた公的見解の表示に反する処分であるということはできない」。

 「青色申告制度は、申告納税制度のもとで、(中略)青色申告の承認を受けたものに対し、課税手続上及び実体上種々の特典(租税優遇措置)を与えるものであつて、右特別の租税優遇措置を受けられないため、本来の納税義務を負担したことをもつて、重大な経済的不利益ということはできず」、「本件各処分が控訴人が被控訴人に対し著しい経済的不利益を与えたということはできない」。

 「Xは元税務職員で、青色申告の承認が必要なことは十分知つていたし、B商店の営業所得が自己に帰属すると主張できる立場にもなかつたが、A死亡後の相続税対策の一環として、営業資産の従前よりの自己への帰属を装うために、自己名義の承認手続をしないままA名義の青色申告に引き続くかたちで本件確定申告を継続したとの推認もあながちできないではなく」、「XがYの行為を信頼しその信頼に基づいて行動したとは到底いいがたく、その行動は被控訴人自身の責めに帰すべき事由によるものといわなければならない。」

 (以上、マーカー部分は全て引用者による強調箇所である。)

 

 ▲第3版における履歴:2020年4月26日掲載。

 ▲第2版における履歴:2011年3月16日掲載。

            2011年3月21日修正。

            2011年3月31日修正。

            2012年8月5日修正。

            2013年3月3日修正。

            2017年10月19日修正。

            2019年5月24日補訂。

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2006年5月24日、洗足駅

2020年04月26日 00時16分30秒 | まち歩き

 考えてみれば、今年の4月25日はゴールデンウィークの初日とも言える日でした。しかし、皆様御承知の、このような状況です。私は、中原区宮内のライフへ一人で買い物に行ったくらいでして(うちでは、私が食料品などを買いに行くことが多いのです)、地元では府中街道と言われる国道409号も驚くほどに空いていました。それでも、報道によれば一部のパチンコ屋では人が多かったとか。

 さて、今回は、タイトルに示した通り、2006年5月24日に東急目黒線奥沢駅の周辺を歩いた時の様子を取り上げます。基本的に「待合室」の第171回「東急目黒線途中下車(3)」(2006年6月7日〜19日掲載)の再掲載ですが、大幅な修正を施しました。

 

 2004年4月から2010年4月8日まで、板橋校舎への通勤で使っていた東急目黒線ですが、「待合室」での途中下車シリーズとして取り上げるのは、ようやく3回目、しかも1年3ヶ月ぶりとなりました。2006年5月24日、目黒線の不動前から洗足まで立体化工事が行われていたので、少々取り上げにくいと感じる部分があったのです。また、途中下車をする時間帯が夕方から夜になるため、撮影しにくいということもありました。

 私は「待合室」で「東急目黒線途中下車」の他、「都営三田線途中下車」、「東急池上線途中下車」、「東急多摩川線途中下車」、「東急田園都市線途中下車」および「東急大井町線途中下車」というシリーズの記事をあげていました。これらの特徴として、駅の順番などに関係なく、ランダムに取り上げるという点がありました。しかも、「都営三田線途中下車」、「東急池上線途中下車」および「東急多摩川線途中下車」は完結していません。

 「東急目黒線途中下車」シリーズにしても、本当は、田園調布、奥沢、大岡山というような順番か、目黒、不動前、武蔵小山というような順番で取り上げたかったのですが、撮影日などの関係もあり、1回目が奥沢、2回目が田園調布となりました。

 なお、ここでお断りしておきます。目黒線は目黒から日吉までとして営業中ですが、正式の区間は目黒から田園調布までであり、田園調布から日吉までは東横線複々線区間への乗り入れという形です。そのため、多摩川、新丸子、武蔵小杉、元住吉および日吉については「東急目黒線途中下車」シリーズにおいて扱わないこととしました。

 上の写真をみれば、今回は目黒線の洗足駅を取り上げることが一目瞭然です。現在の皇后様の御出身地が、この洗足駅周辺なのです。珈琲を飲みたくなって駅を降り、改札を出ようとした瞬間に横断幕が目に飛び込んできたので、カメラを取り出し、撮影してみました。

 洗足駅は、目黒蒲田鉄道の開業当初からある駅ですが、昭和40年代に地下化されました。改札口を入り、階段を下りるとホームがあります。幼少時から、目蒲線を使うことは時々ありましたが、洗足駅を初めて使ったのは、大東文化大学法学部に着任してからのことで、しかも、この駅の近所に用があったからではなく、目黒線の車内にいた時に携帯電話の呼び出し音がなったために降りざるをえなくなったからです。

 目黒蒲田鉄道は、名前の通り、山手線の目黒駅から京浜東北線の蒲田駅までの路線で、現在の東京急行電鉄の母体でもあります。2000年に、目蒲線は目黒線と多摩川線に分割されます。現在は目黒駅も地下化されていますが、長らく、目蒲線では洗足駅のみが地下駅でした。

 目蒲線、目黒線といいますが、起点の目黒駅は目黒区になく、品川区にあります。次の不動前駅は、目黒不動尊に近いことから名づけられていますが、この駅も品川区にあります。武蔵小山駅、西小山駅も品川区にありますので、洗足駅付近で、ようやく線名にふさわしい目黒区に入ります。しかし、大岡山駅が(微妙な所ですが)大田区にありますので、目黒線という名称にもかかわらず、唯一の目黒区内の駅が洗足駅であるということになります。ちなみに、池上線の洗足池駅は大田区にあります。

 洗足駅から渋谷駅までのバス路線があります。左側にバス停があります。

 駅の裏側です。道幅が狭いのがおわかりになると思います。私は、東京都23区部の南半分であればほとんどを車で通っているのですが、この洗足駅付近を通ったことはありません。目黒線の駅は、自動車では行きにくい所ばかりで、洗足はその一つではないかと思います(あとは不動前、西小山、大岡山 。この3つの駅前にはバス停がありません。但し、不動前駅から少し離れた所に、目黒不動尊の中を抜けるという、渋谷から五反田までのバス路線が通っています)。少なくとも、私にとってはわかりにくいのです。

 駅前を通る表通りの商店街です。 この日は妙な天気で、雨が降り出したと思ったら程なくしてやみ、晴れてきました。このあたりの道路事情をよく知らないのですが、おそらく、奥のほうへ行けば環状7号線の大岡山か碑文谷のほうに出られるはずです。ただ、地図を見ると、結構入り組んでいるようです。

 

 洗足駅を正面(?)から撮影してみました。

 洗足駅は既に地下化されていますが、当時、不動前駅から洗足駅まで立体化工事が行われていました。完成すると、武蔵小山駅と西小山駅が地下化される、という訳です。2006年秋に、 目黒線に急行が走り始めましたが、洗足駅は通過します。急行の停車駅は目黒、武蔵小山、大岡山、田園調布、多摩川、武蔵小杉、そして日吉です。妥当なところでしょう。

 洗足も有名な住宅地で、この奥にも住宅地が広がっています。さらに進めば、品川区の旗の台か荏原のほうに行けるようです。地図を見た限りでは、荏原警察署の近くに出るようです。中原街道であれば、何度でも通っていますのですぐにわかるのですが。

 洗足駅の改札口から目黒線で帰ります。次は大岡山で、駅を出るとすぐに掘り割りのような所を走り、いったん地上に出たと思うとすぐに地下に入り、大岡山に到着します。大岡山もかつては地上駅でして、子どもの頃、友達と行ったことがありました。今の大井町線が田園都市線の一部で、目黒線がまだ目蒲線といっていた頃、3両編成の緑色の電車が走っていた頃です。

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2004年7月3日、奥沢駅

2020年04月25日 07時00分00秒 | まち歩き

 新型コロナウイルスの影響が、この日本では長く続いています。ついこの間まで、渋谷の街、東京メトロ半蔵門線の車内などでたくさんの外国人観光客を見かけたのは、僅か1か月前か2か月前くらい前までのことなのに、少し遠い過去の話のように思われることもあります。

 4月に入ってから、電車に乗ったのは数回だけです。利用の範囲は、東急田園都市線の溝の口〜二子玉川、東急大井町線の(溝の口〜)二子玉川〜尾山台、JR南武線の武蔵溝ノ口〜武蔵新城。これが全てです。

 このような調子なので、面白い訳がないのですが、或る程度は多くの方々と同じ思いを共有しているでしょう。そこで、という訳でもないのですが、今回は、タイトルに示した通り、2004年7月3日に東急目黒線奥沢駅の周辺を歩いた時の様子を取り上げます。基本的に「待合室」の第107回「東急目黒線途中下車(1)」(2004年7月30日〜8月6日掲載)の再掲載ですが、若干の修正を施しています。

 

 自由気ままにどこかの街を歩く。以前から、私はこれを楽しみにしています。定期乗車券を持っている時には、途中下車をして色々な街を歩きます。1997年4月から2004年3月まで勤めていた大分大学教育福祉科学部を離れ、首都圏に戻ってきてよかったと思ったのは、途中下車などを楽しめることです。

 大学院時代は、東急田園都市線・営団半蔵門線と営団東西線を使っていましたので、溝の口~九段下、九段下~早稲田の全駅を使っていました。九段下で降りて神保町まで歩き、古本屋をまわったり、池尻大橋か三軒茶屋で降りて、やはり池尻や太子堂の古本屋をまわって、それから食事をしたり(三軒茶屋駅付近には美味い店が多いので)、永田町で降りて国会図書館へ行ったり、というようなことを繰り返していました。

 大東文化大学法学部法律学科に移った2004年4月から2010年4月8日まで、通勤のために東急目黒線と都営三田線を使っていました(現在も、時折ですが目黒線の目黒〜大岡山を利用することがあります。また、三田線の神保町〜西台は、1年か2年の間を除き、現在も私の通勤ルートです)。田園都市線・半蔵門線に比べるとつまらないというのが私の印象なのでしたが、それでも、とくに板橋区内では途中の駅で降りることがあります。

 2002年4月27日から2014年10月14日まで、「川崎高津公法研究室」に「待合室」を掲載していました(正式に終了したのは2015年1月24日です)は、私の趣味的要素を前面に出していました。2004年になってから、私が通勤で利用している東急目黒線の途中下車シリーズを始めました。その第1弾が奥沢駅です。起点の目黒駅から、あるいは本来の終点である田園調布から順番に取り上げていた訳ではありませんし、大分市を取り上げていたかと思えば板橋区に飛び、渋谷区を取り上げていたかと思えば長崎市に飛び、世田谷区に移ったりしていたので、本当に気ままな進行です。

 東急目黒線は、2002年8月5日まで目黒と蒲田とを結んでいた目蒲線を二分割した結果、誕生した路線です。系統上は、目黒から武蔵小杉まで(日吉まで伸びたのは2008年)が目黒線、多摩川から蒲田までが東急多摩川線です。但し、目黒線の正式の区間は目黒〜田園調布であり、田園調布〜日吉は東横線です。目黒線のほうは、目黒線は、東京メトロ南北線(さらに埼玉高速鉄道)および都営三田線と相互乗り入れをしています。

 その途中にある、目黒線、そして東急線全線の運転の要所が奥沢駅です。目黒線では唯一、世田谷区にあります。昔、この辺りが世田谷城主吉良氏(有名な吉良上野介の祖先)の所領だったとのことで、その経緯もあって世田谷区になっています (この地区は玉川村でした。九品仏として知られる浄真寺の近くに奥沢城があったそうです)。開業は1923(大正12)年3月11日で、この日に目蒲線が開業しています(当時は目黒蒲田電鉄で、これが後の東京急行電鉄に発展していきます)。

 なお、この記事の写真を撮影した日には、まだ目黒線に急行が走っていなかったのですが、現在は急行通過駅です。

 奥沢駅南口にある池(?)です。奥沢駅の場合、田園調布・武蔵小杉方面が南口、目黒・南北線・三田線方面が北口と完全に分かれており、駅構内には跨線橋も連絡地下道もありません(大井町線の尾山台駅も同じ構造です)。奥に踏切が見えますが、その踏切を渡ってすぐに北口の改札口があります。さらにまっすぐ進むと自由が丘のほうに行けます。

 地名の由来というものは面白いものです。世田谷区については、ここが伊勢神宮の領地で谷地だったから、という説と、アイヌ語起源説とがあります。野毛(下野毛は川崎市にありますが、上野毛などは世田谷区にあります)についてもアイヌ語起源説があります。奥沢については調べ切れなかったのですが、おそらく地形に由来するものと思われます。

 ちなみに、東京の地名について記しておきますと、深沢は「ふかさわ」と読みますし、白金も「しろかね」と読みます。また、三田線の志村坂上が「しむらさかうえ」、丸ノ内線の中野坂上が「なかのさかうえ」と読むように、「●●坂」という場合には「●●ざか」ではなく「●●さか」と読むことが多かったようで(今はわかりませんが、東急バスのバス停名が地名に忠実でした)、このように濁音を使わない所が多いのです。駒沢も、現在は「こまざわ」ですが、元来は「こまさわ」でして、地元の老人などでは今でもこのように言うそうです(野沢はやはり「のざわ」でしょうか)。

 また、この奥沢は意外に広く、奥沢駅南口が三丁目、北口が二丁目、東横線・大井町線の自由が丘駅付近が五丁目(駅自体は目黒区にありますが、少し歩くと世田谷区奥沢五丁目になるのです。また、東横線に駅はないのですが奥沢を通ります)、大井町線の九品仏駅が七丁目です。

 駅前にある和菓子屋さんで「氷」の暖簾を見つけました。少し前まで、世田谷区を歩いていると、所々で見かけたものです。板橋区などでも時折見かけます。不思議なことに、こういう懐かしいものには、川崎市などでよりも、都内でのほうが出会うチャンスがあるのです。

 そう言えば、大分市に住んでいた7年間、このようなものを見た記憶がありません。中央町や府内町にあったかもしれませんが、私が住んでいたのは中心街でなく、新興住宅地のほう、豊肥本線敷戸駅付近でしたから、昔からの和菓子屋などがないのです。

 奥沢駅南口から東玉川、田園調布方面に歩き、脇に入った所です。奥沢四丁目にある商店街です。土曜日の夕方にしては人通りが少ないのですが、以前から、奥沢などの商店街はこのような感じだったと記憶しています。自由が丘に近いですし、目黒線には武蔵小山という買い物スポットがあります。目黒線とともに目蒲線を構成していた多摩川線や池上線の沿線にある商店街の多くも、大体このような感じです。

 もっと歩くと、何か面白い発見があるのではないか。目黒線の沿線には、そんな期待感があるのですが、それはまた、別の機会に、時間を見つけて。

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第4回 法律による行政の原理

2020年04月23日 00時04分00秒 | 行政法講義ノート〔第7版〕

 1.法治主義(Rechtsstaatsprinzip)と法律による行政の原理(Der Grundsatz der Gesetzmäßigkeit der Verwaltung)

 今回の題目に掲げられている「法律による行政の原理」(法治行政の原理ともいう)は、ドイツ公法学、とくにオットー・マイヤー(Otto Mayer. 1846-1924)によって確立された法治主義理論に由来するものである。そこで、まず、法治主義の内容をみることとしよう。

 法治主義は、法治国家ともいうことがある。ドイツ語ではRechtsstaatという。この言葉自体に、法治主義の本来の意味が隠れている。Rechtは、法を意味すると同時に権利をも意味し〈最近では「主観的権利」という言葉が氾濫しているが、権利そのものが主観的なものであるし、客観的権利というものは想定されていないから、誤訳、もっと言えば悪訳である〉、正義をも意味する。権利という場合にはSubjektives Recht、法という場合にはObjektives Rechtと区別することもある〈権利が主観的な正義であるとするならば、法は客観的な正義ということになるのであろう〉。また、Staatは国家を意味する。このことから、Rechtsstaatは、やろうと思えば権利国家とも訳せるのである。

 日本国憲法の下における法治主義は、基本的に二つの内容を前提としている。

 第一に、公権力によって国民の権利・自由を制約する場合には、必ず、立法府たる国会(議会)の制定した法律の根拠が必要である

 第二に、法律の根拠があるからといって国民の権利・自由をどのように制約してもよいという訳ではない。立法府(国民の代表からなる)による法律であっても制約できない権利・自由が存在する。すなわち、基本的人権が尊重されなければならないのである。

 このうち、本来の法治主義の内容は第一のものであるが、これはイギリス法の「法の支配」(Rule of Law)と土台を同じくする。しかし、法の支配と異なる点は、法治主義の場合、立法作用などが行われるための手続を示すものであり、形式的な概念であるということである。法の支配の場合は、元々が王権に対する封建貴族の権利を擁護するためのものであったが、それが一般的に発展し、国民(とくに市民階級)が立法過程に関与し、自らの権利や自由を可能な限り防衛しようとすることに資する原理である。これに対し、法治主義の場合は、ドイツにおいて市民階級の発達が十分でなかったという社会的背景が存在したため、法の支配にみられるような契機は皆無でなかったものの、弱かったのである。また、法の支配の場合は、市民階級の権利や自由の防衛という目的のために法の実質的内容と合理性を問うものであったのに対し、法治主義の場合は、法の実質的内容と合理性はそれほど強く問われなかったのである〈もっとも、法規(Rechtssatz)の概念には注意しなければならない。「行政法学(など)にいう『法規』の意味」において説明したので、参照されたい〉

 しかし、第一の内容のみでは、結局、法律さえあれば如何様にも権利や自由を制約しうるということになる。これでは国家による不法な行為を防ぐことが十分にできなくなる。そこで、第二次世界大戦後のドイツ公法学においては、法治主義に第二の内容が加わり、憲法裁判所制度の設置および発達によって法治主義の概念が豊かなものになっている。これを日本において高く評価するのが長尾一紘教授であり、現在のドイツ公法学における法治主義の内容を「①権力分立原則、②憲法の優位、③基本権の保障、④法律適合性の原則、⑤法的安全性の原則、⑥比例の原則、⑦裁判による権利保護」とまとめている〈長尾一紘『日本国憲法』〔第3版〕(1997年、世界思想社)25頁〉。いずれも、行政法との関連において重要なものである。

 以上のような法治主義を行政法に当てはめる際に、法律による行政の原理が導き出されることとなる。オットー・マイヤー以来、この原理は次の三点を主な内容とするものである。

 第一に、前述の狭義の法規を作りうるのは法律のみであるという原則を生み出す。これは「法律の法規創造力の原則」とも言われる。ここでは法治主義の元来の内容がそのまま導入され、国民の権利や自由を直接的に制限し、あるいは国民に義務を課する法規範(法規)は、国民の代表機関である議会によって定立される法律によらなければならないとされる。日本国憲法第41条における立法とはこの意味であり、行政機関が単独で実質的な意味における立法の権限を行使することは許されないのである。

 もっとも、実際には例外もある。行政立法がそれに該当するが、この場合であっても、日本国憲法においては、法律の委任なくして法規を定めることはできないとされている。詳細は「第6回 行政立法その1:行政立法の定義、法規命令」において扱う。

 第二に、行政の様々な活動が法律に反してはならないという原則を生む。これは「法律の優位の原則」(Der Grundsatz des Vorrangs des Gesetzes)とも言われる。従って、行政決定や行政慣例が法律の内容と矛盾する場合には、その範囲において行政決定や行政慣例が違法となる。なお、憲法に違反してはならないことは当然のことである。

 第三に、行政が何らかの活動を行う際に、その活動を行う権限が法律によって行政機関に授権されていなければならない(すなわち、与えられていなければならない)という原則を生む。これは「法律の留保の原則」(Der Grundsatz des Vorbehalts des Gesetzes)と言われている。第一の内容から導き出されるものであり、少なくとも、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課するような活動を、法律の根拠なくして行政権が単独でなすことは許されないということになる。

 

 2.法治主義の射程距離―侵害留保説、全部留保説など―

 但し、法律の留保の原則については、適用される範囲という問題がある。

 まず、既に述べたように、少なくとも国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課する行政活動については、法律の根拠を必要とする。この考え方については一致がみられる。自由主義を前提とする限り、当然のことである。

 問題は、その他の行政活動にも法律の根拠が必要であるのかということである。上述の考え方に留まる考え方が侵害留保説であり、日本国憲法の下においても支持されてきた。通説であり、判例も、この考え方を前提としているものと思われる。ちなみに、侵害留保説を採りつつも、法律の根拠を必要とする範囲を拡大することは可能であるし、望ましい。

 しかし、民主主義の原則は、国民主権を前提とするから、行政権の発動も国民の意思に従うべきである、という考え方も、当然成り立ちうる。そこで、(少なくとも国民に対する)全ての行政活動に法律の根拠を必要とするという考え方がある。これを全部留保説という。しかし、この考え方に対しては、現実的でない、行政が硬直化して臨機応変に需要の変化に対応できないなどの問題がある。

 侵害留保説と全部留保説との間に、様々な説が展開されている。そのうちの代表的なもののみを取り上げておく。

 まず、権力留保説は、侵害留保説を拡張し、行政がおよそ権力的な行為形式によって活動をなす際には法律の根拠を必要とするという考え方である。国民に権利を与えたり義務を免ずるものであっても、法律の根拠が必要とされることになる。

 次に、社会留保説がある。これは福祉国家理念から発生したもので、国民の社会権を確保するために行われる生活配慮行政についても法律の根拠を必要とするという考え方である。給付行政にも法律の根拠が必要であるということになる。

 また、ドイツにおいて「本質性理論」(Wesentlichkeitstheorie. 以下、本質留保説とする)が有力になり、連邦行政裁判所の判例において形成・採用された。この内容は必ずしも明確でないが、基本権(基本的人権)に関する憲法上の条項を基準として、「基本権実現にとって本質的」である領域については、必ず法律の根拠を必要とする、ということである。問題は、本質的か本質的でないかの判断に関する基準であろう。

 本質留保説に関する日本語の文献として、大橋洋一『行政規則の法理と実態』(1989年、有斐閣)93頁、同「法律の留保学説の現代的課題―本質性理論(Wesentlichkeitstheorie)を中心として―」『現代行政の行為形式論』(1993年、弘文堂)1頁が参考になる。

 現在のところ、この他にも様々な説があるが、なお侵害留保説の妥当性が大きい。

 なお、以上は行政作用法の根拠に関する議論である。行政組織法の根拠は全行政領域に要求される。また、権力的手段に関しては行政作用法・行政組織法・行政手続法の根拠を必要とするのであり、非権力的手段に関しては行政組織法・行政手続法の根拠を必要とすると考えるべきであろう。

 行政手続法の根拠については、以前ならば不要と考えられていた。新井隆一編『行政法』(1992年、青林書院)20頁。

 

 3.法律による行政の原理、とくに「法律の留保」との関係が問題になる事例

 日本において、行政活動は法律による行政の原理に服すべきであり、少なくとも侵害留保説が妥当すべきである。しかし、実際には法律の留保の要請を充たしていないのではないかと考えられる事例が存在する。ここで若干の裁判例を概観する。

 〔1〕自動車の一斉検問

 交通取締の一環として行われる自動車の一斉検問であるが、実のところ、そもそも、法的根拠は何かという問題がある。

 判例は警察法第2条第1項説に立つ。行政実務も同じであり、学説においても多数説ではないかと思われる。しかし、警察法は行政作用法ではなく、行政組織法に属する。しかも、同第2条第1項は「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする」と定めている。「交通の取締」が明示されているからであろうが、このような規定が自動車の一斉検問の法的根拠になりうるのであれば、犯罪の捜査についても法的根拠となりうるから、刑事訴訟法の第2編第1章にある規定の一部が不要になるはずである。しかし、そのような説を述べる者は存在しない。警察法第2条第1項説は論旨が一貫せず、妥当性を欠く。

 判例の立場を採りえず、しかも行政作用法に根拠を求めるとすれば、警察官職務執行法第2条説が浮かび上がる。かつて、私はこの説を採っていた。しかし、同条は職務質問、すなわち特定の者に対する質問に関する規定であるから、犯罪の嫌疑の有無を問わない一斉検問を文言解釈によって導きうるはずもなく、類推解釈の許容範囲を超えていることも否定できない。そうなると残るのは、法的根拠がないので違法であるとする説である。

 ●最三小決昭和55年9月22日刑集34巻5号272頁(Ⅰ―107)

 事案:警察官が、飲酒運転の多発地帯である場所で交通違反取締りを目的とする自動車検問を行った。X運転の車は、外観からは不審な点が存在しなかったが、警察官の合図に従い停車した。警察官はXに運転免許証の提示を求めた際、酒の臭いを感じたので降車を求め、派出所で飲酒検知を行ったところ、酒気帯び運転の事実が確認された。Xは自動車検問が何の法的根拠もなく行われたなどとして争ったが、一審判決(宮崎地判昭和53年3月17日判時903号107頁)および二審判決(福岡高宮崎支判昭和53年9月12日判時928号127頁)は、自動車検問の法的根拠を警察法第2条第1項とした上でXの主張を退けた。最高裁第三小法廷も、次のように述べてXの上告を棄却した。

 判旨:「警察法2条1項が『交通の取締』を警察の責務として定めていることに照らすと、交通の安全及び交通秩序の維持などに必要な警察の諸活動は、強制力を伴わない任意手段による限り、一般的に許容されるべきものであるが、それが国民の権利、自由の干渉にわたるおそれのある事項にかかわる場合には、任意手段によるからといつて無制限に許されるべきものでないことも同条二項及び警察官職務執行法一条などの趣旨にかんがみ明らかである。しかしながら、自動車の運転者は、公道において自動車を利用することを許されていることに伴う当然の負担として、合理的に必要な限度で行われる交通の取締に協力すべきものであること、その他現時における交通違反、交通事故の状況などをも考慮すると、警察官が、交通取締の一環として交通違反の多発する地域等の適当な場所において、交通違反の予防、検挙のための自動車検問を実施し、同所を通過する自動車に対して走行の外観上の不審な点の有無にかかわりなく短時分の停止を求めて、運転者などに対し必要な事項についての質問などをすることは、それが相手方の任意の協力を求める形で行われ、自動車の利用者の自由を不当に制約することにならない方法、態様で行われる限り、適法なものと解すべきである」。

 〔2〕緊急措置と法律による行政の原理との関係

 既に述べたように、法律による行政の原理は、最低限度として、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課する行政活動について妥当すべきものである。しかし、現実には、目前に公共の安全や秩序に対する危害が存在し、これに緊急に対処しなければならない場合が存在する。このような事態が発生しているのに、対処方法を規定する法律の規定が存在しないならば、行政は何らの予防策などをとることもできず、危害を放置して安全や秩序が崩れるまで待たなければならないのであろうか。これでは、行政が国民の安全を確保することができず、ひいては生命、身体、財産などを保護することができないということになる。緊急措置として、例外的ではあれ、法律の根拠がなくとも何らかの措置をとることができると考えなければならない場合があるのではなかろうか。 

 ●最二小判平成3年3月8日民集45巻3号164頁(Ⅰ-101)

 事案:千葉県浦安町(現在は浦安市)を流れる某河川に、河川法および漁港法による占用許可を受けずにヨット係留施設が設置された。そのため、船舶の航行にとって危険な状態が続いた。Y(浦安町長)は千葉県葛南土木事務所長に撤去を要請したが、撤去はなされなかった。そこで、Yは、本来の河川の管理者である千葉県知事の措置を待たず、この施設の鉄杭を独自に撤去することとし、A社と撤去工事請負契約を締結した。某日、浦安町職員とA社従業員が鉄杭の撤去作業を行った。

 本来、撤去作業を進めるためには漁港法に基づいて漁港管理規程(条例)が制定されるべきであったが、浦安町は漁港管理規程を制定していなかった。そのため、千葉県知事は河川法に違反する施設の撤去命令を発する権限を有するが、浦安町長はその権限を有していなかった。

 この撤去作業のために浦安町長が公金を支出したところ、X(浦安町住民)は、同町の職員に対する時間外勤務命令およびA社と締結した請負契約のいずれも違法であるとして、時間外勤務手当および請負代金につき、Yが浦安長に対して損害賠償を行うよう請求する住民訴訟を提起した。一審判決(千葉地判昭和62年3月25日民集45巻3号180頁)はXの請求を認容した。Yが控訴し、二審判決(東京高判平成元年5月30日民集45巻3号189頁)は、損害賠償の額を減額したものの、Xの請求を認容した(判決としては一部棄却となる)。Yが上告。

 判旨:最高裁判所第三小法廷は、次のように述べてY(引用文中では上告人)の主張を認め、Xの請求を棄却した。

 ①「本件鉄杭は、本件設置場所、その規模等に照らし、浦安漁港の区域内の境川水域の利用を著しく阻害するものと認められ、同法39条1項の規定による設置許可の到底あり得ない、したがってその存置の許されないことの明白なものであるから、同条六項の規定の適用をまつまでもなく、漁港管理者の右管理権限に基づき漁港管理規程によって撤去することができるものと解すべきである」が「当時、浦安町においては漁港管理規程が制定されていなかったのであるから、上告人が浦安漁港の管理者たる同町の町長として本件鉄杭撤去を強行したことは、漁港法の規定に違反しており、これにつき行政代執行法に基づく代執行としての適法性を肯定する余地はない」。

 ②しかし、「浦安町は、浦安漁港の区域内の水域における障害を除去してその利用を確保し、さらに地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全を保持する(地方自治法2条3項1号参照)という任務を負っているところ、同町の町長として右事務を処理すべき責任を有する上告人は、右のような状況下において、船舶航行の安全を図り、住民の危難を防止するため、その存置の許されないことが明白であって、撤去の強行によってもその財産的価値がほとんど損なわれないものと解される本件鉄杭をその責任において強行的に撤去したものであり、本件鉄杭撤去が強行されなかったとすれば、千葉県知事による除却が同月9日以降になされたとしても、それまでの間に本件鉄杭による航行船舶の事故及びそれによる住民の危難が生じないとは必ずしも保障し難い状況にあったこと、その事故及び危難が生じた場合の不都合、損失を考慮すれば、むしろ上告人の本件鉄杭撤去の強行はやむを得ない適切な措置であったと評価すべきである」。従って、「上告人が浦安町の町長として本件鉄杭撤去を強行したことは、漁港法及び行政代執行法上適法と認めることのできないものであるが、右の緊急の事態に対処するためにとられたやむを得ない措置であり、民法720条の法意に照らしても、浦安町としては、上告人が右撤去に直接要した費用を同町の経費として支出したことを容認すべきものであって、本件請負契約に基づく公金支出については、その違法性を肯認することはでき」ない。

 この判決に対する評価は分かれており、法律による行政の原理に対する例外を認容した判決とする評価と、町(長)とヨットクラブ代表者との関係について撤去を適法としたものではないとする評価が存在する。この訴訟の原告はヨットクラブ代表者でなく住民であったため、直接、法律による行政の原理が争われていたと言い難い部分もある。また、ヨット係留施設の存在による危害と撤去措置とが比例関係にあるか否かも問われうるであろう。

 その点を承知した上で、一般論として述べるならば、本来、私人の意思に反して私人の財産たる工作物を撤去するには、撤去命令を定めた法律の根拠が必要である。その根拠が欠けているならば、民事執行によらざるをえない。これが原則であることを認めない訳にはいかない。しかし、国民・住民(私人)の生命や身体を保護しなければならないような場合など、緊急を要するような場合にまで、法律の根拠がなければ活動をなしえないのか。緊急措置(緊急避難措置)が必要ではないのか。極めて限定的に解さざるをえないとはいえ、民法第720条に定められた正当防衛および緊急避難のいずれかが、行政法においても適用される余地はあるものと解される。

 

 4.行政法の一般原則(条理)

 行政法の一般原則というのであれば、先の法律による行政の原理が例であるが、ここでは、不文法の一種としての条理をあげておく。

 条理とは、社会生活において相当多数の人が一般的に承認する道理である。但し、実際には、条理は、裁判官が具体的な事件に即して適切な裁判規準を形成するための手がかりであり、または心構えである。その意味において、慣習法のように、一般的規準として存在するものではない。

 なお、少数説ではあるが、条理の法源性を否定する見解もある。

 刑事裁判においては罪刑法定主義が支配するため、不文法たる条理が援用されてはならない。これに対し、民事裁判の場合、成文法にも慣習法にも判例法の中にも適切な裁判規準がない場合には、条理に従うものとされる。

 〔1〕比例原則

 比例原則とは、国民の権利や自由を制約する際に、その制約の程度に見合うように公権力の行使がなされなければならない、という原則である。換言すれば、国民の権利や自由を制約する際には、必要かつ最小限の手段が用いられなければならない、ということである(必要性の原則、過剰禁止の原則)。警察官職務執行法第1条第2項は、この原則を確認した規定であると言われる。「警察は、大砲を使って雀を撃ってはならない」という名言がある〈Fritz Fleiner, Institutionen des Deutschen Verwaltungsrecht, 8. Auflage, 1928, S. 412〉

 〔2〕平等原則

 平等原則は、憲法第14条に根拠を求めることができる。法律による行政の原理に適合しているとしても、平等原則に違反する場合には行政活動などが違法となることもありうる〈スコッチライト事件として有名な大阪高判昭和44年9月30日判時606号19頁を参照〉

 〔3〕信義誠実の原則

 民法第1条第2項に規定されている信義誠実の原則は、元々、ドイツの債権法に由来する考え方である。これが民法全体の原則に、さらに法の一般原則にもなり、行政法の分野にも妥当するようになった。行政庁(行政機関)の活動の継続に対する私人の信頼を保護するという意味で、信頼保護の原則ということもある。

 なお、日本の判例は「禁反言の原則」という、英米法に由来する語も用いる。ほぼ同義であるが、信義誠実の原則のほうが若干広範囲であるといわれる。

 しかし、行政法において、信義誠実の原則をそのまま援用すると問題が生ずる場合がある。それは、この原則が法律による行政の原理と抵触し、違法な行政活動を確定的に有効としてしまう場合があるためである。信義誠実の原則は、行政活動によって何らかの損害を受けた私人を救済するための手段であるが、これを無条件かつ安直に用いるとすると、他者にとって不公平な結果を招く危険性もある。従って、具体的な事案への適用の妥当性が問題となる。以下、判例の状況を概観しつつ、検討する。

 ▲租税法律主義と信義誠実の原則との抵触

 憲法第30条および第84条(とくに後者)は、租税法律主義を規定する。これが妥当すべき租税関係(さらに言えば租税法)に信義誠実の原則をそのまま援用すれば、当然、租税法律主義との抵触が生じることとなる。具体的な事件に関し、法律に定められた課税要件を行政が勝手に変更することになるからである。一方、結果的には法律が定める課税要件に適合するとしても、手続の面において何らかの問題があった場合には私人の権利や利益が侵害され、納得のできないものとなる可能性もあるから、可能な限りこれを避けなければならない。法律に従った課税を選択するか、私人の権利や利益の擁護を選択するか、難しい判断を迫られるのである。

 なお、信義誠実の原則については、「租税法講義ノート」〔第3版〕の「第1部:租税法の基礎理論 第09回:租税法と信義誠実の原則」も参照していただきたい。

 租税法において信義誠実の原則の適用があるか否かという問題が、初めて本格的に扱われたのが、次に示す判決である。

 ●東京高判昭和41年6月6日行裁例集17巻6号607頁(文化学院非課税通知事件)

 事案:原告X(文化学院)は当時、民法上の財団法人であった〈学校法人となったのは1972(昭和47)年になってからである。なお、文化学院は2018(平成30)年3月に閉校した〉。Xは、自らが保有し、直接教育の用に供している土地および建物について固定資産税を非課税とするように求める文書を東京都千代田税務事務所長に提出した。同事務所長は、本件土地および建物が地方税法第348条第2項第9号に該当するものと誤認し、本件土地および建物については1953(昭和28)年度から非課税とする趣旨の決定を行い、同年9月17日付で通知した。しかし、それから8年ほど経った1961(昭和36)年6月に同事務所が調査したところ、Xの土地および建物は非課税物件ではなく、課税物件であることが判明した。そこで、同事務所長は本件土地および建物について固定資産税を賦課徴収するという趣旨の決定を行い、Xに送付した。Xは固定資産税を納めなかったので、Y(東京都知事)が土地について差押処分を行った。Xは、この差押処分の取消を求める訴訟を提起し、固定資産税賦課処分の無効も主張した。一審判決(東京地判昭和40年5月26日行集16巻6号1033頁)は、本件について信義誠実の原則(同判決では禁反言の原則)の適用を認め、差押処分を取り消したが、Yが控訴した。東京高等裁判所は、次のような趣旨を述べてXの請求を棄却した。

 判旨:税務事務所長の通知が何らの法的効果を生ずるものでもなく、単に所長の関係や部内の方針を知らせた事実上の通知にすぎず、他方でXが学校法人でもないのに本件土地建物が非課税物件であると誤解しており、通知が誤解を深めたという程度にすぎない。このような「誤解に基づく違法な取扱いは少しでも早く是正されるべきであ」る。

 この事件において、Xは、かつてなされたYの決定内容を信頼していた訳である。この場合、Xの信頼を保護する必要性があったのであろうか。Xは学校法人でないため、地方税法第348条第2項第9号の適用を受けないという前提事実を基にして考えてみていただきたい。

 そして、次の判決において、最高裁判所が租税法の領域に関する信義誠実の原則の適用に関する原則らしきものを提示している。

 ●最三小判昭和62年10月30日判時1262号91頁(Ⅰ—24)

 事案:Xは、Aが経営する酒屋に勤めており、しばらくしてからは実質的に経営をなすようになった。Aは青色申告について所轄税務署長Yの承認を受けており、昭和29年分から昭和45年分まで、事業所得に関する青色申告はAの名義で行われていた。しかし、昭和47年3月に行われた昭和46年分の青色申告はAの名義ではなく、Xの名義で行われている。Xは青色申告についてYの承認を受けていなかったが、何故かYはX名義の青色申告書を受理し、その後、昭和47年分から昭和49年分についても青色申告用紙をXに送付し、Xの青色申告を受理していた(なお、Aは昭和47年秋に死亡している)。或る日、YがAの相続人について相続税の調査を行った際に、Xが青色申告の承認を受けていないことが判明した。そこで、Yは昭和48年分および昭和49年分の青色申告の効力を否認し、白色申告とみなして更正処分を行った。Xは、この更正処分が信義誠実の原則に違反するとして処分の取消訴訟を提起した。一審判決(福岡地判昭和56年7月20日訟月27巻12号2351頁)および二審判決(福岡高判昭和60年3月29日訟月31巻11号2906頁)はXの主張を認めた。

 判旨:最高裁判所第三小法廷は、次のように述べて破棄差戻判決を下した。

 「租税法規に適合する課税処分について、法の一般原理である信義則の法理の適用により、右課税処分を違法なものとして取り消すことができる場合があるとしても、法律による行政の原理なかんずく租税法律主義の原則が貫かれるべき租税法律関係においては、右法理の適用については慎重でなければならず、租税法規の適用における納税者間の平等、公平という要請を犠牲にしてもなお当該課税処分に係る課税を免れしめて納税者の信頼を保護しなければ正義に反するといえるような特別の事情が存する場合に、初めて右法理の適用の是非を考えるべきものである。そして、右特別の事情が存するかどうかの判断に当たっては、少なくとも、税務官庁が納税者に対し信頼の対象となる公的見解を表示したことにより、納税者がその表示を信頼しその信頼に基づいて行動したところ、のちに右表示に反する課税処分が行われ、そのために納税者が経済的不利益を受けることになったものであるかどうか 、また、納税者が税務官庁の右表示を信頼しその信頼に基づいて行動したことについて納税者の責めに帰すべき事由がないかどうかという点の考慮は不可欠のものであるといわなければならない」。

 黄色のマーカー部分をまとめると、信義誠実の原則が適用されるためには、次の3点が必要である。

 ①信頼の対象適格性:行政庁が、納税者(例.青色申告者)に対して信頼の対象となる公の見解を、通達の公表など一般に対し、あるいは申告指導のように個別に示したこと。

 ②信頼保護の正当性。行政庁の表示を納税者が信頼し、その信頼に基づいて行動したことについて、納税者に帰責事由があるか否か(帰責事由があれば保護されないこととなる)。

 ③信頼保護の必要性。②で納税者に帰責事由がなく、後に行政庁の表示と異なる行為(処分)が行われたために、納税者が経済的不利益を被ったか否か。

 原文をお読みいただければおわかりのように、判決文においては上記要件を一つの文章で表現しており、とくに「第一に」、「第二に」というように記している訳ではない。そのため、 論者・教科書によってまとめ方が異なる。私は、この講義ノートでは、判決文において使われている接続詞などから判断して3つに分けたが、石村耕治編『税金のすべてがわかる現代税法入門塾』〔第10版〕(2020年、清文社)163頁においては4点にまとめた。

 上の例からわかるように、信義誠実の原則は、多くの場合、相手方の信頼保護と関わる。厳密に言うならば、信義誠実の原則と相手方の信頼保護(の原則)は等号で結ばれない場合があるが、基本的には同じものと考えてよいであろう。

 さて、上記最高裁判所第三小法廷判決は、どの要件に照らして信義誠実の原則の適用を否定したのであろうか。これを試験やレポートの問題として出すと、②、あるいは③の要件を満たさないものと考えられる、という答案が少なくない。

 既に述べたように、判決文では上のようには書かれておらず、ただ一つの文章で表現しているだけであるから、どの要件に該当するかを答えることは難しいかもしれない。しかし、事案をよく読み、さらに、判決文を丁寧に読み返してみると、次に示す文章が続いていることがわかる。

 「納税申告は、納税者が所轄税務署長に納税申告書を提出することによって完了する行為であり(国税通則法17条ないし22条参照)、税務署長による申告書の受理及び申告税額の収納は、当該申告書の申告内容を是認することを何ら意味するものではない(同法24条参照)。また、納税者が青色申告書により納税申告したからといって、これをもって青色申告の承認申請をしたものと解しうるものでないことはいうまでもなく、税務署長が納税者の青色申告書による確定申告につきその承認があるかどうかの確認を怠り、翌年分以降青色申告の用紙を当該納税者に送付したとしても、それをもって当該納税者が税務署長により青色申告書の提出を承認されたものと受け取りうべきものでないことも明らかである。そうすると、原審の確定した前記事実関係をもってしては、本件更正処分が上告人の被上告人に対して与えた公的見解の表示に反する処分であるということはできないものというべく、本件更正処分について信義則の法理の適用を考える余地はないものといわなければならない。」

 すなわち、①の段階で適用がないものと判断されていることが理解されるであろう。①の要件に適合してこそ、②ないし③を論じる意味がある。従って、①の要件は他の要件の前提となっている訳である。

 所轄税務署長の承認を受けずに青色納税申告書を提出したからといって、これが青色申告をなすことと言えないことは当然であろう。また、このように提出された申告書を税務署長が受理し、申告納税額を収納したからといって、これが直ちに青色申告納税の承諾を意味するものではなければ、納税者が青色申告者であることを公的な見解として表示したことにもならない。しかし、本件の場合、誤った扱いであるとはいえ、受理ないし収納という手続を税務署長が行い、しかも数年続いていたということになれば、これはもはや、黙示的であるとはいえ、公的見解を示したと理解してもよいのではないか、という意見も成り立ちうる。納税義務者の立場からすれば、たとえ税務署長の誤りによるとはいえ、一度は青色申告を受けつけ、その申告書に示された税額を収納しているのであるから、自らの誤りを棚に上げて青色申告を否認して更正処分をなすというのは背信的行為であると言わざるをえない。

 ▲行政庁(などの行政機関)の活動に対する相手方の信頼と信義誠実の原則

 信義誠実の原則については、行政行為の撤回などについても問題となる場合が存在する。判例などで問題となったのは、計画や政策の変更に伴う損害である。このような場合には信義誠実の原則が適用されやすいとも言える。下級審判決において、信義誠実の原則の適用を認めた例として、次のものがある。

 ●熊本地玉名支判昭和44年4月30日判時574号60頁

 熊本県荒尾市は、昭和30年代に住宅難を解消するため、公営住宅団地の建設計画を立てた。この計画による公営住宅には浴室設備の計画がなかったので、荒尾市は公衆浴場の建設設置者を募集し、甲を選んだ。荒尾市と甲は協議の末、公営住宅の建設、およびその公営住宅の所在地における公衆浴場の建設を内容とする契約を結んだ。この契約を履行するため、甲は公衆浴場の建設に着手し、翌年に99パーセントほどを完成させ、営業許可も得た。ところが、荒尾市長が死亡したことによって交代し、新市長は突然この建設計画を縮小したため、公衆浴場は経営が不可能な状態に陥った。そこで甲は荒尾市に対して損害賠償を請求した。判決は、荒尾市の行為が不法行為を構成するとして、甲の請求を一部認めた。

 逆に、信義誠実の原則の適用を認めなかったものとしては、札幌高判昭和44年4月17日行集20巻4号486頁、仙台高判平成6年10月17日判時1521号53頁などがある。

 最高裁判所の判例のうち、信義誠実の原則または信頼保護の原則の適用を認めたものの代表例として、次の判決がある。

 ●最三小判昭和56年1月27日民集35巻1号35頁(Ⅰ−25)

 事案:Xは、沖縄県のY村に製紙工場を建設する計画を立てた。Y村の当時の村長であったAは、Xからの陳情を受け、工場を誘致してY村所有の土地をXに譲渡する旨の議案を村議会に提出した。これが可決されてから、AはXの工場建設に全面的に協力する旨を言明し、さらに手続を進めた。Xも、村有地の耕作者に対する補償料の支払い、機械設備の発注の準備などを進め、工場敷地の整地工事も完了させた。ところが、ちょうどその頃に村長選挙が行われて工場誘致反対派のBが村長に当選し、就任した。BはXに対し、工場の建設確認申請に同意しない旨を伝えた。Xは、工場の建設や操業ができなくなったとして、Y村を相手取って損害賠償を請求する訴訟を起こした。一審判決(那覇地判昭和50年10月1日判時815号79頁)および二審判決(福岡高那覇支判昭和51年10月8日金判618号36頁)はXの請求を棄却したが、最高裁判所第三小法廷は破棄差戻判決を下した。

 判旨:「地方公共団体の施策を住民の意思に基づいて行うべきものとするいわゆる住民自治の原則は地方公共団体の組織及び運営に関する基本原則であり、また、地方公共団体のような行政主体が一定内容の将来にわたつて継続すべき施策を決定した場合でも、右施策が社会情勢の変動等に伴つて変更されることがあることはもとより当然であつて、地方公共団体は原則として右決定に拘束されるものではない。しかし、右決定が、単に一定内容の継続的な施策を定めるにとどまらず、特定の者に対して右施策に適合する特定内容の活動をすることを促す個別的、具体的な勧告ないし勧誘を伴うものであり、かつ、その活動が相当長期にわたる当該施策の継続を前提としてはじめてこれに投入する資金又は労力に相応する効果を生じうる性質のものである場合には、右特定の者は、右施策が右活動の基盤として維持されるものと信頼し、これを前提として右の活動ないしその準備活動に入るのが通常である。このような状況のもとでは、たとえ右勧告ないし勧誘に基づいてその者と当該地方公共団体との間に右施策の維持を内容とする契約が締結されたものとは認められない場合であつても、右のように密接な交渉を持つに至つた当事者間の関係を規律すべき信義衡平の原則に照らし、その施策の変更にあたつてはかかる信頼に対して法的保護が与えられなければならないものというべきである。すなわち、右施策が変更されることにより、前記の勧告等に動機づけられて前記のような活動に入つた者がその信頼に反して所期の活動を妨げられ、社会観念上看過することのできない程度の積極的損害を被る場合に、地方公共団体において右損害を補償するなどの代償的措置を講ずることなく施策を変更することは、それがやむをえない客観的事情によるのでない限り、当事者間に形成された信頼関係を不当に破壊するものとして違法性を帯び、地方公共団体の不法行為責任を生ぜしめるものといわなければならない。そして、前記住民自治の原則も、地方公共団体が住民の意思に基づいて行動する場合にはその行動になんらの法的責任も伴わないということを意味するものではないから、地方公共団体の施策決定の基盤をなす政治情勢の変化をもつてただちに前記のやむをえない客観的事情にあたるものとし、前記のような相手方の信頼を保護しないことが許されるものと解すべきではない」。

 〔4〕権利濫用禁止の原則

 民法第1条第3項に規定される権利濫用禁止の原則も、民法に限らず、あらゆる法領域に適用されるべき法の一般原則である。

 そもそも、民法が明治時代に制定されてから長らくの間、信義誠実の原則および権利濫用禁止の原則に関する明文の規定は民法に存在しなかった。信義誠実の原則が日本の学説や判例において肯定されるようになったのは大正期である。また、権利濫用禁止の原則は明治期から判例において登場していたが、本格的に定着したのは宇奈月温泉事件として有名な大判昭和10年10月5日民集14-1965によると言われる。両原則が民法第1条として明文化されたのは第二次世界大戦後の1947(昭和22)年であり、親族編・相続編の大改正と同時に第1条が追加されたのである。

 形式的には法律による行政の原理に適合する活動としても、その活動の目的が不当なものであれば、違法と判断されざるをえない。行政法学においては、とくに行政裁量論において裁量権の逸脱・濫用の例として取り上げられることが多かった。

 ●最二小判昭和53年5月26日民集32巻3号689頁(Ⅰ―29。国家賠償請求訴訟)および最二小判昭和53年6月16日刑集32巻4号605頁(Ⅰ―68。刑事訴訟)

 事案:X社は、個室付公衆浴場の設置を計画し、山形県公安委員会に営業許可を申請した。しかし、この計画を知った余目町(現在は庄内町の一部)は、個室付公衆浴場の予定地である場所から200mも離れていない場所にA児童遊園を設置するために県知事に認可を申請し、X社への営業許可よりも早い日に認可を得た。X社は個室付公衆浴場を開業したため、同県公安委員会から営業停止処分を受け、また、風俗営業等取締法違反に問われて起訴された。そこで、X社は、営業停止処分の取消を求めて出訴するとともに(途中で山形県に対する国家賠償請求訴訟に変更した)、刑事訴訟においては無罪を主張した。

 国家賠償請求訴訟については、一審判決(山形地判昭和47年2月29日判時661号25頁)がXの請求を棄却したのに対し、二審判決(仙台高判昭和49年7月8日判時756号62頁)はXの請求を認容した。山形県が上告したが、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却した。

 また、刑事訴訟については、一審判決(酒田簡判昭和47年10月23日刑集32巻4号623頁)がX社に対して罰金刑を言い渡し、二審判決(仙台高秋田支判昭和49年12月10日判タ323号279頁)はX社の控訴を棄却した。X社が上告し、最高裁判所第二小法廷は二審判決を破棄し、X社を無罪とする判決を言い渡した。

 国家賠償請求訴訟の判旨:「所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし是認することができ、原判決に所論の違法はない。そして、原審の認定した右事実関係のもとにおいては、本件児童遊園設置認可処分は行政権の著しい濫用によるものとして違法であり、かつ、右認可処分とこれを前提としてされた本件営業停止処分によつてX社が被つた損害との間には相当因果関係があると解するのが相当であるから、X社の本訴損害賠償請求はこれを認容すべきである」。

 刑事訴訟の判旨:「本来、児童遊園は、児童に健全な遊びを与えてその健康を増進し、情操をゆたかにすることを目的とする施設(児童福祉法40条参照)なのであるから、児童遊園設置の認可申請、同認可処分もその趣旨に沿つてなされるべきものであつて、前記のような、X社のトルコぶろ営業の規制を主たる動機、目的とする余目町のA児童遊園設置の認可申請を容れた本件認可処分は、行政権の濫用に相当する違法性があり、X社のトルコぶろ営業に対しこれを規制しうる効力を有しないといわざるをえない」。

 

 ▲第7版における履歴:2020年4月23日掲載。

                                    2020年4月27日修正。

 ▲第6版における履歴:2015年9月22日掲載。

              2017年10月19日修正。

                                    2017年10月26日修正。

              2017年12月20日修正。

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