伊豆七条町の勝福寺では毎月1日に朔日参りをされている。
おばあちゃん講とも呼ばれている尼講の人たちだ。
その寺では8月に施餓鬼会が営まれる。
早朝から集まった檀家の世話人たちは先祖供養の塔婆申込の取り纏めに忙しい。
その場には二人の僧侶が一心に塔婆書きをされている。
一枚、一枚、申込者の名前を確認しながら丁寧に墨書される。
Nさんはこれをトーバツキと呼んでいる。
塔婆を作るということなのだろうか。
それはともかく普段が無住のお寺では毎月の営みのお念仏は尼講の人たちで、この日やお彼岸、十夜には僧侶がやってきて法要をされる。
天理市の南六条にある西福寺の住職だ。
以前は小林町在住に移った新福寺の住職が住んでいたそうだ。
事情があって西福寺になったが二人の僧侶を示す額も掲示されている。
僧侶が替っても感謝の気持ちを込めているのだろう。
ご本尊の阿弥陀如来さんにお花を飾って供物を供えた。
かつてはそこが本堂だった。
生活改善で市内ではいち早く会所となった勝福寺。
座敷は縦長である関係であろうか、中央には施餓鬼の祭壇が組まれている。
位牌や過去帳などが置かれている。
中央にはどでんと大きなスイカがある。
黒皮スイカと呼ばれるものだ。
戦中体験がある東隣村の南六条北方に住むNさんの話ではその色合い、姿、格好からこれをテツカブト(鉄甲)と呼んでいた。
大和のスイカは古くはテツカブト、昭和の時代の薄い色を経て縞しまのスイカに移っていったそうだ。
最近はこの黒皮スイカになっている。
皮が軟らかい縞シマのスイカはカラスの餌食になるが、高価な黒皮スイカも出没するアライグマが・・・。
ところが皮が固いので手形だけが残っているという。
Yさんの話によればスイカの最盛期の出荷は力仕事だという。
それでも丸くて大きいスイカをひょいひょいと持って運搬トラックに投げ上げたという。
そのころはコムギを栽培していた。
二毛作である。
そのコムギワラは輸送の詰め物にしていた。
刈り取ったワラを長いままで敷きものにもしていた。
その後、紙に替って箱入りとなったスイカの出荷は美装になったそうだ。
大和スイカの最盛期はこれだったのだろうNHKアーカイブに残された映像が物語る。
その映像によれば東京汐留駅を出荷された大和スイカで埋め尽くす風景があった。
トラックに載せるスイカをひょいひょいと投げる男たち。
そのスイカの山にはYさんが話したワラの詰め物が見られる。
映像ではその問屋の人気ぶりが判り高値で卸されたようだ。
このアーカイブに出てくるスイカは縞しま模様だった。
スイカのブームに載って作り上げられたのが全国に大和スイカをピーアールするスイカ音頭だった。
姉さんかぶりの着物姿の女性たちが舞い踊るスイカ踊り。
「そろた そろたよ すいかの本場 大和西瓜の 踊り子がそろた そろた踊り子が 何踊りませう 西瓜一代 旅日記 わたしゃ 大和の日の丸西瓜 さても みなさん・・・」昭和5年頃の貴重なフィルム映像だ。
後日、白土町の住民Nさんから伺った話では大和西瓜は一代種。
その種を栽培していた地域は田原本町の八田(はった)辺り。
一大産地にあるのは土壌が栽培に適していたからで種苗を販売しているという。
水質も関係していたのであろう大和川水系は大和郡山の平端までの広い地域。
それは三輪から流れる川に沿った一大産地だった。
大和の西瓜と言えばスイカそのものを思い起こすがそうではなくて、実は種苗だったのだ。
横道に逸れ過ぎた。話は施蛾鬼会に戻そう。
お供えはそれだけではなく、ウリ、カボチャに果物のナシ。
それにカンピョウ、コーヤドーフ、ソーメンもある。
一息つけてお茶をいただく世話人。
勧められた一服ではあるが住職の手は止まらない。
それは150枚もの塔婆書きをしなくてはならないからだ。
寄せられた牌名に違和感をもった住職。
世話人はその家まで行って位牌を確認して訂正された。
読み名も間違ってはいけないので一字、一字を確認される。
伊豆七条町はおよそ40軒だが地区を出た人も塔婆を申込されるだけにその数をこなすには午前中いっぱいかかった。
施餓鬼会の法要では僧侶が四人となった。
隣町の横田町から来られた西興寺の住職も加わって始まった会式。
本堂も含め僧侶たちは融通念仏宗派。
毎年11月9日は大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる融通念仏の地区なのだ。
祭壇の前には低い椅子が並べられた。
そこに座る檀家の人たち。
ほとんどが尼講のみなさんでおよそ20数人が参列された。
カン、カン、カンと鐘が打たれて施餓鬼のお勤めを始めると挨拶された住職。
読経が始まって間もないころに手に持ったシキビの葉をパラパラと落とした。
いわゆる散華の作法であろう。
座敷にそれが散らばった。
僧侶たちは本尊と施餓鬼の祭壇の間に座って法要をされる。
参列者から見れば祭壇に飾られたお花などでその向こうは見えないが手を合わせて拝んでいる。
「のーまーく さらまんーだー」のお念仏が聞こえてくる。
そして用意されていた串に挿した五色の仏旗を供物の横に添える。
それは椀に盛られたごはん(仏飯)にも・・・。
ここでは山盛りの頂点に挿された。
その姿は亡くなったときに供えられる箸を挿したマクラメシのようだ。
住職も「そう言えばそのように見える」と話す。
それを頭上に高く掲げて念仏を唱える。
それと同時に始まったご焼香。
祭壇の前にでることも不自由なので焼香盆は順次席に回される。
そのころには申込をされた塔婆回向。
一枚、一枚詠みあげる代々の先祖供養だ。
「なーむあみだーぶつ なーむあんだいだー なんまいだ」。この年の塔婆回向では東日本震災にあった霊も慰まれた。
こうして地獄に堕ちて苦しむ蛾鬼どもを果物などの供物やお経をあげて助け上げた施蛾鬼の法要は先祖供養も併せて終えた。
(H23. 8. 5 EOS40D撮影)
おばあちゃん講とも呼ばれている尼講の人たちだ。
その寺では8月に施餓鬼会が営まれる。
早朝から集まった檀家の世話人たちは先祖供養の塔婆申込の取り纏めに忙しい。
その場には二人の僧侶が一心に塔婆書きをされている。
一枚、一枚、申込者の名前を確認しながら丁寧に墨書される。
Nさんはこれをトーバツキと呼んでいる。
塔婆を作るということなのだろうか。
それはともかく普段が無住のお寺では毎月の営みのお念仏は尼講の人たちで、この日やお彼岸、十夜には僧侶がやってきて法要をされる。
天理市の南六条にある西福寺の住職だ。
以前は小林町在住に移った新福寺の住職が住んでいたそうだ。
事情があって西福寺になったが二人の僧侶を示す額も掲示されている。
僧侶が替っても感謝の気持ちを込めているのだろう。
ご本尊の阿弥陀如来さんにお花を飾って供物を供えた。
かつてはそこが本堂だった。
生活改善で市内ではいち早く会所となった勝福寺。
座敷は縦長である関係であろうか、中央には施餓鬼の祭壇が組まれている。
位牌や過去帳などが置かれている。
中央にはどでんと大きなスイカがある。
黒皮スイカと呼ばれるものだ。
戦中体験がある東隣村の南六条北方に住むNさんの話ではその色合い、姿、格好からこれをテツカブト(鉄甲)と呼んでいた。
大和のスイカは古くはテツカブト、昭和の時代の薄い色を経て縞しまのスイカに移っていったそうだ。
最近はこの黒皮スイカになっている。
皮が軟らかい縞シマのスイカはカラスの餌食になるが、高価な黒皮スイカも出没するアライグマが・・・。
ところが皮が固いので手形だけが残っているという。
Yさんの話によればスイカの最盛期の出荷は力仕事だという。
それでも丸くて大きいスイカをひょいひょいと持って運搬トラックに投げ上げたという。
そのころはコムギを栽培していた。
二毛作である。
そのコムギワラは輸送の詰め物にしていた。
刈り取ったワラを長いままで敷きものにもしていた。
その後、紙に替って箱入りとなったスイカの出荷は美装になったそうだ。
大和スイカの最盛期はこれだったのだろうNHKアーカイブに残された映像が物語る。
その映像によれば東京汐留駅を出荷された大和スイカで埋め尽くす風景があった。
トラックに載せるスイカをひょいひょいと投げる男たち。
そのスイカの山にはYさんが話したワラの詰め物が見られる。
映像ではその問屋の人気ぶりが判り高値で卸されたようだ。
このアーカイブに出てくるスイカは縞しま模様だった。
スイカのブームに載って作り上げられたのが全国に大和スイカをピーアールするスイカ音頭だった。
姉さんかぶりの着物姿の女性たちが舞い踊るスイカ踊り。
「そろた そろたよ すいかの本場 大和西瓜の 踊り子がそろた そろた踊り子が 何踊りませう 西瓜一代 旅日記 わたしゃ 大和の日の丸西瓜 さても みなさん・・・」昭和5年頃の貴重なフィルム映像だ。
後日、白土町の住民Nさんから伺った話では大和西瓜は一代種。
その種を栽培していた地域は田原本町の八田(はった)辺り。
一大産地にあるのは土壌が栽培に適していたからで種苗を販売しているという。
水質も関係していたのであろう大和川水系は大和郡山の平端までの広い地域。
それは三輪から流れる川に沿った一大産地だった。
大和の西瓜と言えばスイカそのものを思い起こすがそうではなくて、実は種苗だったのだ。
横道に逸れ過ぎた。話は施蛾鬼会に戻そう。
お供えはそれだけではなく、ウリ、カボチャに果物のナシ。
それにカンピョウ、コーヤドーフ、ソーメンもある。
一息つけてお茶をいただく世話人。
勧められた一服ではあるが住職の手は止まらない。
それは150枚もの塔婆書きをしなくてはならないからだ。
寄せられた牌名に違和感をもった住職。
世話人はその家まで行って位牌を確認して訂正された。
読み名も間違ってはいけないので一字、一字を確認される。
伊豆七条町はおよそ40軒だが地区を出た人も塔婆を申込されるだけにその数をこなすには午前中いっぱいかかった。
施餓鬼会の法要では僧侶が四人となった。
隣町の横田町から来られた西興寺の住職も加わって始まった会式。
本堂も含め僧侶たちは融通念仏宗派。
毎年11月9日は大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる融通念仏の地区なのだ。
祭壇の前には低い椅子が並べられた。
そこに座る檀家の人たち。
ほとんどが尼講のみなさんでおよそ20数人が参列された。
カン、カン、カンと鐘が打たれて施餓鬼のお勤めを始めると挨拶された住職。
読経が始まって間もないころに手に持ったシキビの葉をパラパラと落とした。
いわゆる散華の作法であろう。
座敷にそれが散らばった。
僧侶たちは本尊と施餓鬼の祭壇の間に座って法要をされる。
参列者から見れば祭壇に飾られたお花などでその向こうは見えないが手を合わせて拝んでいる。
「のーまーく さらまんーだー」のお念仏が聞こえてくる。
そして用意されていた串に挿した五色の仏旗を供物の横に添える。
それは椀に盛られたごはん(仏飯)にも・・・。
ここでは山盛りの頂点に挿された。
その姿は亡くなったときに供えられる箸を挿したマクラメシのようだ。
住職も「そう言えばそのように見える」と話す。
それを頭上に高く掲げて念仏を唱える。
それと同時に始まったご焼香。
祭壇の前にでることも不自由なので焼香盆は順次席に回される。
そのころには申込をされた塔婆回向。
一枚、一枚詠みあげる代々の先祖供養だ。
「なーむあみだーぶつ なーむあんだいだー なんまいだ」。この年の塔婆回向では東日本震災にあった霊も慰まれた。
こうして地獄に堕ちて苦しむ蛾鬼どもを果物などの供物やお経をあげて助け上げた施蛾鬼の法要は先祖供養も併せて終えた。
(H23. 8. 5 EOS40D撮影)