マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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お守りの系譜~記紀の時代から現代まで続く庶民の信仰~

2011年08月31日 16時01分20秒 | 民俗を聴く
今年は講演を聞きにいくことが随分と増えた。

民俗行事の取材はフィルードで見聞きすることも大切だが座学も重要だと機会があれば出かけるようにしてきた。

この日は田原本町観光協会が主催されている歴史講座の事業の一つで奈良女子大准教授の武藤康弘氏の講演。

祈祷を中心とした「お守りの系譜~記紀の時代から現代まで続く庶民の信仰~」が開催された。

参加者はおよそ80人。

いつもなら100人は越えるそうだがこの日は少ない。

それはともかく氏が長年に亘って収集された貴重な収集品も並べて映像がプロジェクターに映し出された。

氏は今年の春に撮りためたビデオ映像(DVD)が付録に付いている「映像で見る奈良まつり歳時記」を発刊された。

その本も購入できるとあって紹介された。

その本は奈良県の無形民俗文化財に指定されたいろんな民俗行事が33祭礼も収録されている。

本文とともに映像を拝見すれば実感がわくことだろう。

古い時代から続く庶民の信仰を民俗学と古代学の接点を繋ぐのは難しいと前置きされて話された。

ヤナギの木を挿す「牛玉」の札が田原本町で見られる。

カラスを文字化した那智の山。

東北にも熊野信仰があった。

秋田では熊野神社を祀るところが多い。

平安時代、神仏混淆された時代にそれは遡る。

石上神宮の茅の輪や人形(ひとがた)を川に流す。

伊賀の注連縄は蘇民将来の飾りが多く見られる。

昭和10年から13年に亘って記録取材された写真が残されている和州祭礼記(昭和19年発刊)などを紹介されて演題に移った。

<牛玉宝印>
疫病は疫病神ほか御霊などがあり、きちんと拝まないと災いがやってくるとされた。東北は馬頭観音であるが、西日本は牛頭信仰が多く見られる。明治に統一されて祭神を明確にしようと統一され神社の名前が替えられた。牛頭社は八坂(阪)神社となった。それは杵築神社や素盞嗚神社でもそうであって合祀されたところもあるそうだ。明治2、30年辺りのことだ。江戸時代の絵馬がかつての神社名が残されている。それを見つけることが重要である。石燈籠の年代記銘があればその当時の名称が判る。牛玉宝印は仏教系、大寺院で行われた国家鎮護を営む正月行事。ときおり「玉」が「王」になっている場合があるが、正しくは点がある「玉」だと話される。チベットでは丸いお札である牛玉札。それが原型なのであろう。神仏に誓った牛玉宝書には裏書に血判をする誓約書が見られる。襖張りの宝書がある。それは水に溶ける。おそらくその宝書を飲んだのではないかという。飲んで神仏に誓約するというわけだ。では、何故に牛玉と呼ぶのか。東大寺の堂司が漢方薬をすり潰して墨に混ぜている。牛の結晶石である牛黄(ごおう)。その名から呼ばれた牛玉(ごおう)は国家鎮護をするだけに皇室にも届けられる重要な牛玉宝印書である。初祈祷は年始めの正月行事。それは大寺院で行われる。民間に下りてくれば地域の安全を守ることになりそれをオコナイと呼んでいる。川西町下永の牛玉刷りがある。ヤナギの木に取り付けて田んぼに挿す。かつて神宮寺の白米寺があった証拠である。都祁針の観音寺では乱声(らんじょう)が行われている。すごい音を立てて邪気を祓う。叩いたフジの木に牛玉宝印書を挟んで水口に立てる。豊作になるようにと祈る農耕の風習である。生駒の往馬大社では牛玉神符となる。長谷寺は牛玉宝印。それは水引で締められている。田原本町の矢部にはツナカケの行事がある。県内中央部に散見するノガミの一例として紹介されているのだが子供の姿は見られない。地区の南側、結界と思われる地に綱が掛けられる。村の入り口だという。その行事では牛絵の版画が配られる。牛をよく見れば頭の上に宝珠があるのが判るだろうか。おそらくノガミの行事ではなく正月行事が移行したのではないかと語る氏。このお札は各戸に貼られているそうだ。ちなみに私は平成17年に訪問した。

その際に配られた牛の版画を持っている。牛の頭部分は突起がでているものの後から墨を塗ったようにも見える。もらった当時もなんかおかしいと思っていたのがこの話ですっきりとした。

<オンダ祭り>
年初に農耕の予祝として祭礼されているのがオンダ祭り。一般的には6月頃に実際の田んぼで田植えをされるのだが、それを前もってその年の豊作を祈願しているオンダ祭り。それは田植えの真似事をしている。それが特徴である奈良のオンダ祭。予めにその豊作を願う行事である。農家の人たちはその祭礼でたばったお札を水口に供えて豊作を祈る。それはなかなか見られないものになってきた。なぜかと言えば苗は本来、モミオトシをして自家で苗を作る。JAが普及するようになってその苗は包括的にされるようになった。そうすることで苗はJAで購入されることになった。そうして農家の水口祭りが廃れていった。須佐之男神社のでたばった松苗は箸中の田んぼの中にあった。田原本町の村屋神社はそれを宮司が作っている。田の神さんが天から降りてくるときに目印になった水口祭のイロバナ(色花)。水路を遡って疫病がやってくるので水口祭が求められる。都祁友田では枡があった。それは都祁水分神社の祈年祭でたばったものだ。桜井市の小夫ではその場にアラレがあった。田原本町の伊与戸の水口なども紹介された。農家の人が稲育に対する思いやりであろう。同町の鍵では松苗だけであったという。

田原本町の阪手のケチンで弓を引く際に祭文(さいもん)の奉読がある。天理の藤井では弓矢が水口に挿される。なんと下永では唐招堤寺で行われる宝扇が田んぼで見つかったそうだ。

<サビラキ(サブラキ)>
サビラキにフキダワラを供える。それは盆地部ではなく山間部である。焼き米をフキの葉に包んで供える。子供たちは唄を歌ってその中のお米を取っていった。奈良市日笠町のサブラキ小夫のサビラキが映像で紹介される。その小夫の枝村になる小夫嵩方はクリの木が見られる。田植え初めの儀式に対してサナブリがある。それは無事に田植えが終わったことを氏神さんに報告される儀式。それは村全体でされる村サナブリと各戸でされる家サナブリがある。矢部のサナブリの際にはサナブリモチやタコの酢ものがつきもの。タコが出るのは稲の根が張るようにという願いの食べ物。昔はカマドに稲苗を供えたと京都山城町の事例も紹介される。

蘇民将来
それは何者なのか。備後風土記逸文の記述によれば武塔(むとう)の神が茅輪を付けると命が助かるといったそうだ。疫病が流行ってもそれを祀ることで救われた。武塔の神はいつしかスサノオの神と入れ替わった。祇園祭に粽がある。それは蘇民将来の子孫成り。京都の壬生寺境内の遺跡から発掘された木簡には「蘇民」の文字が浮かぶ。それは平安時代だった。静岡浜松の中村遺跡から出土されたのは室町時代。信濃の国分寺からも出土された。

<夏越しの祓>
半年に一度は穢れ(ケガレ)を人形(ひとがた)に移して祓えをする。奈良時代の遺跡からもその人形が発見されたようだ。罪や穢れを祓って川に流した。春日大社に春日祭がある。勅使が祓え戸神社に参って行う作法。そこではオオバクの木を使った人形だったそうだ。石上神宮では神の剣である御神宝が使われる珍しい儀式。環境問題でいつしか川に流せることができなくなった人形。それも祈願した人の名があるから個人情報流出だと昨今は最近の法令が近年の行事に影響が・・・。夏越しの祓は神道だけにお寺でされているのは・・・首をかしげる。ならまちには多く見られる夏越しの人形。クルマ型もあるらしい。

<ヒイラギ>
オニノメツキとも呼ばれるヒイラギの木に挿した魚。春日権現霊記の絵巻には屋根にとりついた鬼が登場している。魚のアタマをくっつけた棒のようなものが見られる。鬼をもてなしたのであろうと語る。

<虫送り>
御霊信仰と虫送り。殺生した虫を供養する証しにそれを祈祷したお札を立てる。そこから疫病が村に入ってこないようにというお札だ。稲を脅かす病害虫は御霊信仰からだと説く。村から松明で追い払ってお札を立てる。「イネの害虫に祟って出てきてやる」と言ったサネモリ伝承。サネモリ人形は御霊が実体化したものであるという。奈良坂の善城寺の虫供養はハライグシ(祓櫛)で祓った疫病を虫送りのように村外へ追い払う。京都和束町の虫送り人形や奈良十津川村などが紹介される。

<さまざまなお守り>
珍しい形態の山添村切幡の一万度ワーイ。東吉野村の木津川の祈祷念仏は風祈祷が念仏踊りと結びついた。雨乞いは干ばつの時期に行われる祈祷。吉野川分水ができてからは県内からは消えていった雨乞いの風習。天保十二年の雨乞いの様相が描かれている川西町結崎の糸井神社の雨乞い絵馬。そこにはスイカ売りの姿もある。
道教系の祈祷札がある。修験道のクジの護法。台湾には「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」が書かれたお札がある。上に戸、中は鬼(上の点がない)、下は□が三つの文字。離れているからオニのシカバネだというそうだ。神教も道教もごっちゃにしたお札だそうで、その文字は平城京跡からも発掘されている呪符(じゅふ)木簡。どうやら伝染病を祓った木簡らしい。

奈良町に多く見られる屋根瓦の鍾馗さん。十字路の突きあたりといったところだ。疫病は直進しかしないとされたからそういうところに立てる。日本人の信仰はなんでも取り込んでいく。矢部でツナを巻き込むのは除災の意味があるという。また、ケチンやケイチンと呼ばれる祭礼は結願(けちがん)が訛ったものであろうと締めくくられた。

(H23. 8. 6 記)