マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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片平の民俗調査

2020年04月09日 08時58分14秒 | 楽しみにしておこうっと
平成21年に書き残していたマツリ日程。

祭事の場は山添村の大字片平。

氏神社は八柱神社。

行事の特徴に書いてあった「まつりど」メモに「九献の儀」、「子供相撲」の文字があった。

10年前のメモにあった行事日は、第二日曜日。

かつては10月16日であったが現在は第二日曜日。

県内事例の行事数がいちばんに多い第二日曜日。

未だに足を運べない地域は200以上にもおよぶだけに詳細はいっこうにつかめていない。

大病を患ってからは無理の効かない身体になった。

できる限りも難しい身体状態に取材数は極端に絞らざるを得なくなった。

ふと、目についた片平のマツリに興味をもった。

場所だけでも目に入れておこうと車を走らせた。

先に調べておきたい地域がある。

山添村に行く道中に立ち寄った奈良市の旧五ケ谷地区。

その一つにある興隆寺町・八坂神社の祭りである。

以前、お世話になったK家の向かいに住む旦那さんの聞取りによれば、先週の10月7日だった、という。

10月7日であれば第二日曜日。

いつかは拝見したいマツリは千本搗きもあれば、きなこ餅に醤油味噌を包んだ餅喰いもある。

また、村人大勢集まって松茸飯に豚汁喰いもしていると聞いているマツリ。

すぐ近くにある公民館からのお渡りもある。

ここ興隆寺町もまたマツリは第二日曜日。

2地区とも取材するには2年かかりになる。

旦那さんが云うには、隣村の高樋も中畑も7日だと云ったが、後日に確認した高樋のO総代の話によれば平成28年から第四日曜日に移したようだ。

前年の平成29年の3月1日に行われた興隆寺の祈年祭に供えるシロモチ御供。

今も、毎月の朔日にしていると聞いてほっとする。

ここ興隆寺町から山添村の片平まではおよそ40分。

カーナビゲーションの指示に沿って車を走らせる。

西名阪国道を走って三重県境手前にある五月橋ICを下りて、地道の県道25号線に入り、中峰山の三差路を左手に上がって大字の中之庄、吉田を抜けて名張川沿いに村道を走る。

公民館(※後日にわかった五月老人憩いの家)らしき建物があるからここが大字片平の中心地と思ったが、八柱神社へ向かう道はどっち。

右手、左手に分かれる道のどちらを選択するか。

えいやっ、で決めた選択道。

急こう配の狭い道はどこに到達するのだろうか。

先を目指して坂道を登っていったら四つ辻に出る。

さてさて、ここも選択地。

辻近くの畑地で作業されていた婦人に声をかけて尋ねた神社行事。

それならすぐ下に区長さんがおられるから紹介してあげる、と案内してくださったが、生憎の不在。

副会長のIさんならおられるはずだからとあらかたの所在地を教えてもらった。

会長、副会長を紹介してくださったW婦人にお礼を伝えて、八柱神社へ向かう道を歩いていく。

車は辻に置いてきたのは、左崖に並ぶ路傍の石仏の向こう側は墓石群。

その角を曲がったところでしていた樹木伐採の工事中。

作業に伐った雑木が道に散らかっているから車は通れない。

歩いていくしかないからどこかに車を停めなくては・・。

それならその辻に、通行の邪魔にならんよう停めてもいい、とWさんが云ってくれた。

少しの時間なら畑作業で見ているし・・とありがたく甘えて、神社に向かって歩いた。



なだらかな道を歩いてすぐわかる右手の建造物。

八柱神社の社務所若しくは参籠所であろう。

さらにその右手に五色の幕を張っている寺院が見える。



上り切ったところが境内地。



鳥居下からまずは拝ませてもらう。

石段を登った参道に建った灯籠に「八王子」の刻印がある。



かつて、というか江戸時代はおそらく八王子社であったろう。

県下では、山添村の他、奈良市旧都祁村や田原の里でわりあい多くに見られる。

明治時代の神仏分離の際、牛頭天王と習合していたスサノオ神と天照大神の誓約によって化生した五男三女神の八柱に変えられた、とウキペデイアにある。

しかも、その灯籠には16花弁の菊花紋章を彫りこんでいる。

いわゆる菊の御紋であるが、灯籠に菊花紋章を拝見するのは初めてだ。

風になびく五色の幕。



真言宗豊山派の金剛山浄明寺である。

本堂近くに建つ五輪塔は正中二年(1325)乙丑四月□日大願一緒」の銘があり、鎌倉時代の造立。

山添村指定の文化財である。

短時間の参拝を済ませて車を停めた処に戻ってきた。

その辻に建つお家の壁に見た構造物。

どことなく田舟のような形だと思った。



仮に田舟としても古びていないのが気になる。

結んだロープも真新しいから現役のようであるが、用途は何であろうか。

また、その建物の南角に地蔵堂らしき祠がある。



ぐるっと廻ったそこに錫杖をもつ石仏が立っていた。

まさに地蔵さんである。

畑作業をしていたWさんに再びお会いして尋ねた舟。

名張川対岸に片平の土地があり、そこへ行くに箱舟を浮かして渡っている、という。

たぶんに軽トラなどの荷台に載せて出かけているのだろう。

その渡船、民俗の1件として是非拝見してみたくなる。

また、地蔵石仏は、愛宕さんとして崇めてきた、とも。

また、この地区は、大晦日の12月31日に「フクマイリ」をしている、という。

午後6時。もう真っ暗になっている時間帯。

辻から西へ行った処に組んだ大きなトンドに火点けをする。

地区の人は、場に順次やってきて、午後7時ころになったら持参した2個の餅を焼く。

1個はそのトンド場で食べて、残りの1個は持ち帰るそうだ。

一部の地区であるが、片平の地域文化に興味を惹かれる。

車を動かして村道に戻り、そこから片平の南部地区に向かう。

W婦人に教えてもらった副区長の家を訪ねて南に下る。

ほぼ目印のない三差路。

右手にある狭き道を登っていくとどんつきに出た。

その辺りに数軒の家がある。

すぐ近くにある1軒のお家を訪ねた。

そのお家が副区長のI家だった。

玄関前から声をかけさせてもらったらI家のご婦人がおられた。

しかじかを伝えたら向こうの山にご主人が作業をしている、という。

もうすぐ戻ってくると思うから、少し待ってくださいと云われて十数分。

Iさんが戻ってこられた。

取材主旨を伝えて片平の行事を教えてもらう。

一つは八柱神社の秋祭りである。

今年は、体育の日の前日になる日曜日。

10月7日にしていた。

その祭りに初めて村入りする儀式がある。

村入りは、この片平で今年生まれた子どもと大人であるが婿養子に村入りした人を役受けする「まつりど」である。

村入りする人は、小トウ(3、4人)と呼び、小トウを務めた最後の年はノキド(※トウを退くからノキド)と呼ぶそうだ。

先に訪れていた八柱神社に平成31年度の役を知らせる貼り紙があった。

「退営」役はN家三男の名。

「初営」役は、H家の孫の名がある。

それぞれの役に、施主さん2名の名前も記されていた。

また、「用意」役に、施主Nさんの名があった。

山添村年中行事編集委員会・山添村教育委員会が編集、平成5年に発刊した『やまぞえ双書』に、片平八柱神社の秋祭りが詳しく書かれており、「まつりど」については、次の文で紹介されている。

「まつりどは、子どもの誕生順に、男子は全員、女子は長女だけが資格を得る。なお、婿養子にきた者は、その年をもって一歳とみなし、その役を得ることになる。まつりどの構成は、初営(※しょうと)3人と退営(※のきど)の3人。初営にあたれば数年を経て、退営をするように組み合わされている」とあった。

なお、『やまぞえ双書』によれば「用意」役は当屋の補欠である。

当屋に万が一の場合となったときに、その当屋に代わって、急遽役に就く「補欠」である。

また、1月6日は神社参籠所でオコナイ行事をしているそうだ。

参集した村人は、ランジョーの床叩きがある。

また、額に朱印を捺すごーさんの所作もある。

ごーさんの木は藤の木。藤の木肌は剥がしやすく、剥がした木肌は紐のようにして結ぶ、というからこれまで県内各地で拝見してきたオコナイと同じ所作をしている、と思った。

大晦日の午後は山の神の場に架ける注連縄作りをする。

地区外れの場に大きなとんどを組む。

時刻は午後6時。

先ほどWさんが話した「フクマイリ」と同じことをしているらしく、火を点けたとんどを燃やし、餅2個を焼いて食べる。

火が衰えてからになるが、フク火を家に持ち帰る。

その際、若水を汲んで雑煮を炊く火種にする。

正月明けた6日はオコナイ。

直会を終えたら自宅に戻って、山の神に祭る農具を作る。

農具は斧や鍬に鎌など。木材で作った農具は7日早朝の山の神参りにもっていって祭る。

また、その際にカギヒキをしている。

「西の国東の国に・・・」とかの詞章を唱えるカギヒキの所作である。

山の神参りを済ませたら七草粥である。

片平の民俗行事の概観が掴めた。

取材にあたってはあらためて年末近くに電話させていただくこと、お願いして片平を離れた。

(H30.10.14 SB932SH撮影)