ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

ペパーミントティと本たちと孫と次男と

2024-02-13 | わたしの思い
かなりの日数をかけてようやく喘息症状は軽くなり、もちろんCovidも陰性になった。それでも子供たちは無理しないで、と私を休ませようとする。私が、あら、もう平気よ、と言っても、「お父さんが承知しないわよ」とばかり。はいはい、それなら、好きなミントティでも入れて、本でも読むわ、とお気に入りの椅子に腰掛ける。

 と 

手元には、ジャンルの全く異なる本二つ。一つは夏からちょこちょこと読んでいるカール・ユングの回想的な本。かたやもう一つは確かアニメイション部門でアカデミー賞受賞した「少年ともぐらと狐と馬」の話。児童書のようだが、私のように年を寄せた元子供も十二分に楽しめる。むしろ4歳の人が読み理解できたら、その人は天才的な感受性の持ち主に違いない。

去年の夏、この本は年長の孫#1にあげた。すると、しっかり理解し、感動し、好きな本だと言った。読んだ時は、まだ8歳だったが、すでにハリーポッターは何冊も読み終えていて、情緒的にも大人びてきた少年である。私の手元にあるのは2冊目で私がもう一度読みたかったものだ。

1979年に購入した私自身欲しかったハンス・クリスチャン・アンダーセンの下の童話集は、いつか結婚して子供が生まれたら是非読んであげたいと思っていた本である。これも孫#1にあげた。かつて若い母親だった私は、5人の子供に毎晩ベッドタイムにこの本を読んで聞かせた。この本はかなり大きくて全集が収められているけれど、もう孫#1には扱えるだろうと、先日渡した。年季の入った本である。

 


そして今年この孫は、フェンシングを始めた。私は孫の誰かが剣道をしてくれたらいいと思っていたので、隣街には、日本剣道を御指南なさる日本人がいらして、願わくば、この子は剣道少年になれるかもしれない。ずっと密かに憧れていた剣道に孫が、運動神経ゼロな祖母に代わって、凛々しく精神鍛錬と共に騎士道、武士道を修めてはくれまいか、と希望的観測が過剰にある祖母。尤も御本人は、「スターワーズ」的要素でやっている。

右側が孫#1。

そんなこんなで2月ももう半ば。来月早々には、スェーデンの次男がやってくる。妻の末弟が、カナダで教会伝道を務めていた時知り合ったアメリカ人と去年暮れに結婚し、出身地のアリゾナ州で彼女の家族親戚友人のために披露宴を行うことになったのだ。それに出席するために、次男があちらの家族代表で単身やってくる。スェーデンでは結婚式も披露宴もすでに済ませている。

次男の妻は、すでにバチェラー学位を持っているが、一昨年から教職に就きたくて、育児と学生業をしていて、学期半ばに授業を休みたくない故、結局次男一人が来米することになった。彼女の両親とて事業があるし、あちら側の披露宴は終えたので、次男にその役が回ってきたのだった。

アリゾナは長男から三男まで出生の地で、ツーソンには伯父夫婦もいる(末っ子の次女だけカリフォルニア生まれ)。伯父夫婦家族も含めて皆再会できることをとても楽しみにしている。ちょうど一年前には子供たち(孫#3と#4)を連れて、2度目は葬儀のために単身でやってきていたが、目的がお別れと葬儀だったので、今度はおめでたいことなのでありがたい。

ベルギー出張時の次男


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ふとした事

2024-01-21 | わたしの思い

私たちが後に残すものよりも、はるかにはるかに良いものがこの先にある。

C.S. ルイス

 

末娘一家4人は新年早々から風邪引きで、しかも私を含めて喘息持ちだから、ネビュライザー使用とインヘイラー2種使用で忙しいこと。治りは遅々としているが、先週よりはましになった。娘はいわば病み上がりの私の「世話」をするのも同居の目的と一人で決めていたが、実際は逆で、私が一家の世話をする方が多くて、申し訳ないと言う。

勤めていた大学院を引いた私は、それが今の仕事だと思うし、幼子2人を抱える娘の手助けをするのは一向に構わない。かつては5人の子供たちが全員水疱瘡にかかったことも経験している。一応今のところ、キャンサーフリーの状態なのは、ありがたく、再発すればすれで、夫が早く迎えにきてくれれば、などと構えている平和さ。



私の喘息も多少落ち着いてきた金曜日は、Whole Foodsというオーガニック・健康志向者向けの食糧品やアロマオイル中心のグローサリーストアへ出かけることにした。気に入っているサワードウのパン2種を仕入れたかったし、ここのオリーブ・バーで、オリーブオイルに浸かったピクルスマッシュルームとオリーブを備えてある容器に入れて買うことも。そして青果売り場では、オーガニック栽培のサツマイモを選んだ。その他の必要な品をカートに入れ、最後にベイカリーで焼き立てのブーレと呼ばれる丸いサワードウのパンを選んだ。レジに並ぶ前に生花コーナーで小ぶりのバラの花束を一つ。今月で半年経った夫の墓前に供えようと思ったのだ。

この店は、Amazonと提携して、携帯電話で店内コードを使うと、割引になる。キャッシャーがすぐスキャンしやすいように、コードの画面を取り出しながら、レジの列に並び、支払う時、私の後に並んでいた紳士に、「グローサリーショッピングに、花束を加えるのは、なんと素敵なことでしょう。」と声をかけられた。

「夫の墓前にお供えしようと思いまして。」と返すと、彼はレジ台の上にあるバラ売りのキャラメルの一つを私に差し出し、「これはとても美味しいですよ、あなたに差し上げます。」と言い、キャッシャーに代金を渡した。

普段ならば、丁重に断る私だが、その時、この紳士は私の返事に心をつかれたのかもしれなかったと感じ、咄嗟に「まあ、ありがとうございます。いただきましょう。」と一粒50セントほどのキャラメルを受け取るのが礼儀に叶うのではないかと思った。

そんなふとした見ず知らずの方との短い交流は、私に笑みを浮かべさせた。アメリカの詩人で作家のJack Kerouac(ジャック・ケロウアック1922〜1969)を好むような、それでいてその作家の深酒癖とは隔たった人生を歩いていらした方と、その瞬間感じた私は、車に戻りながら、「それにしても、キャラメル貰っちゃうなんて。。。」と苦笑い。生きていることは面白い。


笑みの元

 


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新しい年に

2024-01-17 | わたしの思い

人生に大きな変化の風が吹いて、吹き飛ばされそうになったとき...目を閉じて、しっかりと耐えて、信じる。




最後の投稿から早半年も経て、ようやく記事を書くことになった。 
夫の葬儀・埋葬の翌日から私の化学療法が始まり、3ヶ月余りで終了後、すぐに放射線療法が始まり、11月の感謝祭の週に終了した。夫が私の半身を持って行ったかのような自己喪失感は変わらないが、師走に末娘一家4人が越してきて、自分の声のエコーを聞かずに済んでいる。5寝室、書斎、フロントルーム、居間、食堂、キッチンダイニングというかつて7人家族が賑やかに住んでいた家は、私一人が住まうのには、あまりにも無駄で、用心も悪いからである。

拙宅の後と横の庭にはストーンフルーツ類(核果ー硬い種のある桃、チェリー、杏、ネクタリン)や柑橘類一揃い、それにイチジクの果樹があり、前庭には大きな葉のプラタナスや花無し梨とやはり花のない桜系の樹木もあって、秋の落ち葉集めさえも私一人では手に負えない。夫が今までしてきた果樹の手入れや庭仕事には、私一人ではヤードケアを雇わねばならない。なにせ芝生の手入れさえままならない。ほぼ毎週末に眼科外科医として開業しているニューポートビーチからやってくる長男は、庭仕事をこまめに見てくれてはいるが、その手指を傷つけたりしては手術や治療に差し障ると私は杞憂に過ぎないとは言えず、心配していた。

すると娘夫婦はそれならば、娘一家が一緒に暮らせば、家の世話や私の話相手になれる、と提案してきた。長女家族も近くに住まいを構えているが、気に入った家を買ってまだ10年ほどで、その点末娘夫婦は家を探していた矢先だった。末娘の夫は地元の弁護士事務所の一員となり、なにか必要とあれば、すぐ週末はもちろん、週日でさえ即座に力になれるし、娘の夫の法学校での学生ローンを早く返済するために、賃貸料なしのここで住めば、孫たちが、この地域の優秀学区で就学できるのも魅力である。

夫の亡くなるひと月前には、夫とこの件について話し合い、夫は心から歓迎していた。私一人ここに残していくことを大変に気にかけていた夫だったが、人生の卒業は誰にでもあり、できるなら残される私が不安なく暮らせることを常に願っていた。おかげで、確かに義理息子は週日でも私のさまざまな税金関係書類やなにかの手続きなどすぐに相談に乗ってくれる。ついでに電気配線関係のあれこれにも通じ、日曜大工もお手のもので、実に役立つ「婿殿」だ。特に夜間、私一人が暗い家の一室で怯えずに済む安心を提供してくれている。

二人の孫息子たちは4歳と7ヶ月。兄はプリスクールへ行き、弟は、愛嬌のある乳児である。孫たちのそれぞれの部屋は若い両親らしいアイデアにあふれ、皆すっかりこの家に馴染んでいる。この兄は、たった4歳ではあるが、夫が息を引き取った数時間前に訪問していて、夫の右手を握りしめ、明日また来るね、と話しかけ、夫は、その子の瞳を見つめながら何度も何度も”I love you, I love you..."と囁いてていたのが最後の会話だった。夫は末娘の次男、私たちの10番目の孫の誕生を5月に迎え、とても喜んで会えたことを感謝していた。

夫が「卒業」してから、とても不思議なことがいくつか起こり、夫のいる霊界は、実はヴェール一枚ほどの隔のあちら側だという感覚がある。なにがあったのかは追々書くことにしよう。

*******

私の忌引や治療中、拙ブログを訪問してくださり、温かいコメントもいただき、感謝に絶えません。ご存知のように、忌引、服喪は、きちんと線引きされた終了があるものではなく、あるいは終了があるのかさえ、個人個人異なりますが、少なくとも半年経って、日々泣き濡れて世を儚む、ということは落ち着いてきていて、それよりも再会の時を希望を持って待っている心境です。それでも日々の細々とした事柄に、津々夫を思い出すことはたくさんあり、そうして思い出に感謝しています。夫は親切で、忍耐強く、まず私や家族のことを常に先行させ、また助けの必要な方々には手を差し伸べ、キリスト者として試しの世を果敢に生きてきた人として、良き模範を示してくれました。学生時代からのお付き合いで培った歴史や思い出は、今は生きていく上での糧となっています。

家族は永遠

故意にぼかしています。
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近況

2023-01-07 | わたしの思い

 

 

 

夫が倒れ、緊急入院を致しました。 脳血管造影やその他諸々の検査の結果は、原因を突き止めるに至らず、その間に夫は足がうまく動かせなくなり、現在の病院から物理療法専門の病院へ転院することになります。 そこでは2週間の入院となり、問題はその後で、24時間7日体制で、自宅で夫に付き添うことになります。 主寝室は2階なので、下の客用寝室を使わせ、そこはバスルームも隣接し、なによりも階段を使う必要がありません。 昨夜はここに住む二人の娘家族、そして全ての眼科医専門医のトレイニングを終えて休暇をとっている長男とこの先どうするかについて家族会議をしました。 子供たちは2階の寝室や夫の書斎はもう考えからはずし、とにかく夫の身の安全が第一と、てきぱきとああしてこうして、と計画していますが、正直夫にしてみたら、180度変化する生活に対応できるのか私は不安に感じます。 確かに身の安全を図ることは大切ですが、夫の精神的心理的な面を思うと、極端にあれもこれもと制限してしまうことが、果たして正しいことなのか不安なのです。 夫は穏やかな性格で、言い争いをしたりすることはなく、そしていつもなにかすることはないかと外回りから家内のことまで心を砕いてしてきた働き者なので、突然なにもかも取り上げて、ただただ療養していなさい、と言うのは、夫にとってはどれだけ辛いことか42年の夫婦の歴史が疑問を投げかけてきます。 ここは夫と私の家、そして夫の生き方は、夫の物なので、そこを中心に考えていきたいと思っています。

こうしたことで、毎日非常にめまぐるしく過ごし、夜はベッドによじ登るように就き、泥のように眠る毎日です。 ブログは今のところ私のプライオリティ・リストの下方にあり、もう少し物事が上昇気流にある時、改めて書き始めるつもりです。 と言うわけで「秀和」様からの2度の長文コメントには、未だお返事できておらず、どうぞしばしの間ご容赦くださいませ。 このような試練に遭遇しても、持つ信仰は失せもせず、ますますその灯りは明るさを増しています、とだけ今はお伝え致します。 どちら様もお風邪や流行病に罹患なさらず、お元気にお過ごしくださいませ。

 

 

 

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夜のどこかで

2022-09-23 | わたしの思い

Pampers

 

 

 

 

何が嫌かと言ったら、疲れてやっと就寝したのに、夜中にふと覚醒してしまうことである。 それは大抵夜明けには程遠い。 明日は大事な予定や、旅に出る、などがあるから、しっかり睡眠をとっておきたいのに、と再び寝入ろうとすると、ますます目が冴えてしまう。 

そんな話を同僚たちと話していると、皆あるある、その体験。 「家族の中で夫も子供たちもすでにすっかり寝入っているのに、私だけ夜中にひとり取り残されて、仲間はずれな気分がしないでもないわよ。」とある同僚は言った。 

昔バリー・マニロウがSomewhere In the Nightという歌を作り、ヒットさせたが、そのメロディが脳裏を駆け巡る。 でも「夜のどこかで」ぱっちりと目をあけてしまうことは、ちっともロマンティックではないのだ。

すると、ある55歳の同僚が話し始めた。 

「僕は11歳になるまで、母、父、兄二人、祖母と一緒に、築70年の壊れそうな木造の家に住んでいたんだ。 ところがある運命の夜、火事で家もなにもかもを焼失してしまってね。 僕たちは皆、命からがら逃げ出せたが、所有していたものすべてを失ってしまって。 ありがたいことに、愛情と思いやりのあるコミュニティが助けてくれて、すぐに父は小ぶりの家を手に入れることができたんだ。 でも、祖母だけは、数マイル離れた所に小さな 二つ寝室のついたトレイラー・ホームを購入してね。 それまで毎日祖母と暮らしてきて、その時から毎日会えなくなって僕はかなり寂しい思いをしたんだ。 でも、祖母の新しい家を訪れては、彼女が作ってくれたおいしい食事を楽しみ、さらに、そこには僕が今まで見たことのないケーブル・テレビという贅沢があったんだよね。

祖母のトレイラーハウスで初めて一泊したときのことをよく覚えているよ。 僕は祖母が寝てからもずっとテレビを観ていたのさ。 そしてとうとう夜も更けたから、テレビの電源を切ったとき、しーんとした家の中で、奇妙な感覚になったんだ。 両親や祖母さえも先に寝てしまうほど夜更かししたのは、僕には、これが初めてだと気がついたんだ。 すると突然、世界は暗く、怖く、孤独な場所に思えちゃってね。 僕は起こさないように静かに祖母の部屋に行き、かすかに寝息をたてているのを静かに見ていたんだ。 自分は安全だと思ったのさ。

あれから44年経った今でも、夜中に目が覚めると、時々あの時のような感覚がするんだよ。 僕は自分の家族の中で今や最年長の世代であることにまだ慣れていないかのように。 両親や祖母が恋しいほど懐かしくなるんだ。 そしてふと、この世界はいまだ冷たく、暗く、孤独で、恐ろしい場所なのかもしれないとさえ思っちゃうのさ。」

実際、私たちは何歳になっても、その心の一部はまだ子供で、どこかまだ親の愛を必要としているような気がする。 心の一部は、祖父母や両親に抱きしめられ、慰められる必要がまだあるような気がする。 セピア色になった古い家族写真を見る時、そこに写っている幼い自分は、今と比べるとなんと自由だったのだろう、としばし思うこともある。 その時は、電気不足だの、ガソリンの高騰だの、そんな世間の喧騒など憂うことなく、明日の宿題をすれば、逆上がりが格好良くできれば、世の中は暮れて明けていたのだった。 夜、突然暗闇のなかで目が覚めて、ああでもないこうでもないと下降するような気持ちにもならなかった。 

そんな中途半端に覚醒した夜、不安な気持ちを優しく背中を撫で、時には抱きしめてくれる父母、祖父母はとっくのとうに、亡い。 隣の夫をたたき起こすのも無慈悲だから、寝かせておく。 その代わり、私は天父に心のなかで小さな祈りを捧げる。 それは何かを求めるのではなく、平安と愛と光が心にあることを確かめるためである。 そしてそれはいつもあるのだ。 それは温めたミルクよりもずっと効果がある。

 

 

 

 

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