ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

夢で その2

2021-03-13 | 不思議

 

 

 

 

高熱の続く中、私はいくつか明晰夢を見た。それらは昔の映画でいうところの総天然色である。ただ宙を飛ぶのではなく、鳥瞰図のように上空から緑の島を見渡したり、行ったことのない場所へも「飛んで」行ったのである。

その中で今でもはっきりと覚えているのは、豪華絢爛な黄金色のオペラ劇場で、ローヤルボックス内の壁から天井にかけてにある装飾のケラビム(Cherub=まるまると太った愛らしい幼児の姿をした小天使)を蜂のように飛び回り眺めたことである。劇場内の金箔をふんだんに使った装飾は眩く、美しく感嘆したのを覚えている。けれども一体どの劇場なのかは見当もつかず、ただし、行ったこともないのに、何故かそこはイタリアのオペラ劇場の一つであるとは「知っていた」のだ。

去年11月いつもそのお写真と紀行文が楽しいFelice*mamma様のブログで、イタリア・ヴェネツィアにあるフェニーチェ劇場の内装の写真を見た時はとても驚いた。それはローヤルボックス内のケラビムの写真で、見た途端あっと声をあげて、思わず私はノートブックの画面をカウチで隣に座る夫に見せた。「これよ、この劇場の装飾よ、私が猩紅熱にかかった時、夢に見たのは。」

イタリアは一度も足を踏み入れたことがないのに、私はそのローヤルボックスの内装をしっかり覚えているのだ。もう何十年も前から、「知っていた」ケラビムの装飾を目にして、そこがフェニーチェという名の劇場であるのを知り、その名にさもありなんと思った。フェニーチェとはイタリア語で不死鳥(英語ではPhoenixフェニックス)という意味で、死んでも生き返るという鳥である。そして私はあの時、生死の間を彷徨っていたのだ。

フェニーチェ劇場はその名のごとく、1836年と1996年の2度の火災によって全焼したが、最初の再建築は火災の一年後1836年で、2回目は放火火災から5年経って2001年に再建が始まり、2003年にようやく再開場を果たしている。私がここのケラビムを間近で「宙を飛びながら見た」のは、1996年よりずっと以前で私の印象では内装は煌びやかであったが、全体的に少々薄暗く、それが劇場に重厚さを持たせていた。1996年以前の劇場内装をコンピューターで探しても、資料は少なく、2001年の再建事業ではかつての劇場を使ってルキノ・ヴィスコンティが制作した1954年の「夏の嵐」という映画を参考にするほど苦労して復元したと言う。

 

下の動画は8:13あたりからケラビムの映像がある。

 

写真中央と左上にいる白いケラビム:フェニーチェ劇場のローヤルボックス内

 

この他にも様々な場所へ飛んでいく夢はいくつかあった。その一つは、太平洋上にある東京都の新島・式根島で、勿論そこへも私は行ったことはないし、その上空を飛行機で飛んだこともない。それが新島・式根島であるのは、後日新聞の旅行記事で航空写真を見て初めて知ったことだった。かなり頻繁に飛ぶ夢を見た私はその頃寝付く前に、さて今日はどこへ行こうか、などとさえ思ったものだ。夢とは言え、何故あれだけ私は空を飛んでいたのだろう?

夢の中で飛行している時に眼下の鳥瞰図に気がつくのは、飛ぶ夢の共通のテーマであり、これは、困難な状況から逃れるための無意識な計画で、多くの心理分析科学者は、それは自分の本当の運命についての見通しを得ようとしていることを示していると言う。 これは、他人や状況が自分をコントロールするのを許さないことを示していると言う。この夢は、常識で考える知識枠の外で考えられ、まだ現れていない近い将来の機会を利用することだとも言う。

この夢は前向きでことを示し、人が進んで飛ぶことを選択した場合、それは地平線上に多くの目に見えない機会があることを示しているそうである。 この夢が「自由」に関連していることを示すもう1つの兆候は、霊的な幽体離脱の側面である。 これは、魂が人の目覚めている人生と明晰夢の間を超越する能力を持っている時で、言い換えれば、人は社会の中で典型的な夢である精神的な自由を求めようとしていると科学者は説明する。 人が夢の中で演じるキャラクターはまた、人が日常生活でとるべき行動の過程を表してもいる。

 

Facebookで見つけた幽体離脱のわかりやすい写真・勿論このハスキーはたまたまこうした格好で二頭共、寝ようとしているところである。

 

夢で空を飛ぶことは、人が人生に突然何か気づくことを意味することもあると言われる。 精神分析学者たちは、次のように述べている:夢で空を飛ぶことは、彼・彼女の目覚めている生活のいくつかの実際的な困難にも関係しており、それらの困難には、経済的安定の欠如、仕事で自分を表現することの困難、仕事上の満足ではない創造性、上司や同僚からのマイクロマネジメント、または自分の能力に対する自分自身への信念の欠如が含まれる可能性がある。 これらの状況のいずれかがその人の抑圧された感じをもたらす可能性があり、そのためにまずは自分自身をしっかりと信じる必要がある。

当時私は20歩ほど人生を歩み出したばかりで、現実的に言う困難はなく、強いて言えば何週間も高熱でいわば昏睡状態であったことであろうか。それが「幽体離脱」を促したのかもやしれない。夢で飛んで行っても私はいつもちゃんと帰ってきていたし、むしろそのフェニーチェ劇場の名前、不死鳥や、魅惑されたケルビムの像が、私の健康が近い将来元に戻ることを示唆していたのかもしれない。

又同時期にあった幻視は、当時は訳がわからなかったが、その後こう言うことだったのかと気がついた。それは夜中暗闇の中で私の耳許で大勢の人々が小さな声でそれぞれ「お願いします」と言っていることだった。それはまるで本当にその人々、それも聖書でよく使われるmultitude(群衆)と言う言葉が当てはまる程の大勢が私のすぐ耳のそばにいて話しているようだったのだ。

病気になる前、17歳の頃から私は家族の歴史を辿る系図調査を始めていたが、すっかり健康を取り戻した時、少々難航していた戸籍謄本などの入手であったのに、ある日からたくさん届き始めた。その時口々にヒソヒソと私の耳許で懇願していたのは、実は私の祖先が自分の名前を、そして生きて生活していたことを探して欲しいと私に頼んでいたとしか思えない。その時から私の系図探究は趣味以上になった。

私のこのおかしな経験は、今思っても多くのことを教えてくれたように思える。夢は起きてすぐ書き留めなければ朝靄のように消えてしまうが、この経験した夢は今でも鮮明に覚えている。去年の11月のFelice*mamma様のブログでお写真を拝見してやっと少しその夢を理解できたように思える。そしてその不思議さと又指針を得たような気持ちをありがたいと思う。

 

 

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夢で その1

2021-03-11 | 不思議

 

 

 

 

二十歳の頃、日曜日には教会の託児兼幼い子供たち向けの日曜学校を教えていた私は、ある日麻疹を次々に三人姉妹の子供がかかっているのを知った。二人は回復し、妹一人は回復に向かいつつあった。そのような状態の子供を日曜学校へ連れてきた両親も、今思うと何故自宅で療養させていなかったのかと思うが、もう皆治りかけだし、という点で教会へ来たようだった。私自身はすでに小学校へ上がる前に麻疹は済ませていたし、真冬のことで風邪で休む子供も多く、結局教えたのはその三姉妹だけで、他の子供達への感染の懸念はなかった。

ところが、罹患するはずのない私が感染したと気づいたのは、7日ほど経っての週日だった。出先の東京で突然耳が聞こえなくなり、発熱し、急いでハイヤーで横浜の自宅へ帰り、床についたのだ。当初ひどい風邪だと思ったが、熱が高く、聴力を失い、両眼はひどく充血し、視力も薄れていき、そのうちに発疹が現れ、母は私をかかりつけの内科へ連れて行った。医師は、私の年齢から、その頃に麻疹の抗体が弱まることが多いので、麻疹の2度目と診断したが、やがて発疹部分の皮膚が剥け落ちるようになり、その時は、おそらくA群溶血性レンサ球菌咽頭炎になっていたようだった。つまり猩紅熱である。1998年の法改正前には、この病気は法定伝染病で保健所へ届け出なければならなかった。

その医師は発疹の皮膚が剥けること以外麻疹と全く症状が似ていて、はっきり猩紅熱と診断せずに、(法定伝染病として届けることをせず、)あくまでも麻疹の重症化として穏便に済ませたかったと今は思える。もちろん猩紅熱治療の一環として抗生物質を使用したが、医師は両親に、決して人を家に招かず、患者の私を自宅に隔離することを命じたのだった。

結局高熱は発症から三、四週間経っても続き、聴力と視力はかなり低下し、ほとんど昏睡状態であった。一日に一度摂食するかしないかで、強烈な眠気が勝っていた毎日で、たまにふと目を開けると、ぼんやりと見えるのは、心配顔の両親だった。後日母は、その頃私を失うのではないかと恐れ、父はそんなことがあってたまるか、と答えていたと聞いた。昼も夜もなく眠っていた私は、自分が今どのような状態にいるのかも定かではなく、高熱にうなされていた。ひと月はその状態でいたが、やっと抗生物質が効果を表し始めたのは五週目で、その頃には視力や聴力も大分戻っていた。両親の必死の看護で生かされてもいた。

六週目にはふらつきながらも床を離れ、少し歩くことができた。ところが人は一月も歩かないとかなり足の筋力を失い、家の周りを歩きたくなって、ブーツを履くと、足が極端に細くなっているのに気がついた。久しぶりに胸いっぱいにまだ寒い初春の大気を吸ったことがとても気持ちよく嬉しかったのを覚えている。世の中の流れに一人止まっていた時間が過ぎ去った私は、やっと医師から回復していると言われた。高熱や発疹から開放されて、顔に触れる大気の寒さがとても心地よかった。

しばらくして、罹患中の様々なことを思い起こすようになった。昏睡状態で見た夢は、どれもがはっきりとくっきりと総天然色という言葉が相応しく、また高熱にうなされて見たと思える幻視も覚えていた。二十歳で得た思いがけない流行病は、その後の生き方を多少変えるようなものでもあった。面白いことに、罹患していた間肉体的に苦痛だった覚えはなく、むしろ学びの期間であったような気も少なくはなかった。両親には大変な思いをさせてしまって、申し訳なく、また感謝に絶えなかった。

そして私が書きたいのは、その間に見た夢についてである。勿体ぶるわけでは決してないが、それは3月13日のブログに続いて書くことにする。

 

 

 

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クッキーモンスター!!

2021-02-09 | 不思議

 

 

 

世界中がCovid-19に振り回されて鬱々とした空気の中で人々は暮らしているが、先月25日に見たフェイスブックに、思わず笑みがこみ上げるヴィデオがあった。今日はそれをご紹介。

ブラジルで地質学者が岩層の中に発見した火山岩の内部には、セサミストリートのクッキーモンスターに驚くほど類似した不思議さがあったのだ。

この火山岩内部の珍しい瑪瑙(めのう)は、ブラジル最南端の州、リオグランデドスルでルーカス・ファッサリによって2020年11月に発見された。

それは、岩の形成を専門とするアメリカの地質学者マイク・バウアーズに送られた。

早速バウアーズは彼のFacebookページに「クッキーモンスター瑪瑙」のビデオを投稿した。

「これは非常に珍しいことです。フクロウ、怖い顔など、有名な瑪瑙はいくつかあります。瑪瑙はたくさんありますが、このように明確に形成されていることはめったにありません」とバウアーズはデイリーメール誌に語った。

バウアーズは、クッキーモンスター瑪瑙について多くの申し出を受けたと言う。「価格は非常に高くなる可能性があります。私は5人の異なるバイヤーたちから10,000ドル以上で買い取りたいと提案されました」と彼は言った。

 

 

 

ダイアモンドよりも欲しい!!

 

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こんなこと

2020-02-16 | 不思議

ancestorcloud.com

 

 

 

先週の日曜日朝、教会へ行く仕度をしていると、突如動悸が激しく、鼓動数があっという間に100台から200まで昇りつめた私は、フロリダの長男に電話し、医師である息子の一声で夫は私をERに連れていった。女性は特に初期の段階で心臓麻痺の症状を軽くとりがちで、手遅れになることも多い、と怖ろしいことを言う。鼓動の速さと息切れは辛いが、胸の痛みはなく、ERに着くと、夫は、60人はいた救急手当の必要な患者を見て、「これは心臓麻痺の傾向、と言ったほうがいいかもしれない」とトリアージュでそう申告した。結局すべての検査を受け、終わったのは、夕方5時過ぎであった。子供の何人かは我が家で待機していて、帰宅するや否や心配気に結果を尋ねた。血液検査、EKG, X-線、そしてキャットスキャンの検査を受けたが、異常なし。医師は結局、過度の脱水症状か、心因だろう、という診断。脱水症状?それは二週間砂漠をさまよえば陥っていただろうが、水は、しごく飲む方だから、あたらない。そうすると心因性なのかもしれない。早速翌日かかりつけの内科医の許を訪れた。

 

二年前心臓の詳細な検査はしていて、その時心臓超音波検査、心電図から、ストレステストを含めてすべて行い、その結果は95%良好で、残りの5%は、加齢によるもの、と言われた。加齢、ね。”脱水症状”という診断と似て、大概はそれで片づけられるそうだが、それでも決して心臓に疾患があるわけでもなく、また、飲酒も喫煙もせず、オピオイドだのの怖~い薬も常習せず、その5%は加齢というよりも、心当たりのある遺伝かもしれない。母は心臓が弱かったし、父も結局は心臓関係で眠るように亡くなった。母方の叔母もひとりそうだった。

 

かかりつけの内科医は、話を聞いてから、ごく少量の抗不安薬を気持ち程度の感じで処方してくれた。薬瓶にはDaily(毎日摂取)とあるが、何時とは書いていないので、朝服用した私は、そのままオフィスへ行った。まあ、その眠たいことと言ったら。同僚の何人かは抗不安剤を自身や家族の誰かが使用したことがあるという。「それは夜摂取するもの」と言われてしまったが、眠気を払って頑張ったオフィスの一日。このような薬剤は一度も使用したことがないのだもの。で、不安症状は?と言うと、もともと一体なにに不安があったのか思い出せないし、心当たりもなくて、まるで宇宙遊泳をしているような一日を過ごした。

 

ところが、夜床についてハッと気づいたことがあった。あれだ!あれが原因に違いない!!と夫を揺り動かした。寝付きを妨げられた夫が、「だから~、言ったでしょう?」とつぶやいた。「あれ、あれに決まっているでしょう?」

 

丁度一年前のこと。知り合いがそのまた知り合いの系図調査を依頼してきた。私はいままでよほどのことがない限り、調査依頼を断ったことがない。通常頼まれた調査は、3,4か月でリポートに仕上げ、依頼者にお渡ししてきた。ケーキの箱のような高さ10㎝の11インチX8.5インチの、通常卒業論文を入れる箱に一杯のリポートにしてお渡しする。系図調査で最低限のやるべきことは人の生、結婚、死亡などの記録を探し、国勢調査から家族構成を知り、移民記録・渡航記録から海外移住者の事情を見つける。その他学校書類や軍役、社会保障番号を出願した時の書類、死亡後の公的・私的遺書はその人の最後の居住地区の裁判所に保管されているから、そうした書類も調べる。また欧米の教会記録や墓所の情報はすでにデータ化され、オンラインで調べることができるので、そうした情報も貴重である。手間はかかるが、ある程度切りの良いところまで調べてから、結果をお渡しするのだ。(ちなみに私はお代はいただかない。)

 

それが、一年前の3月に受けた依頼は、ひと月調査してから、突然、困ったことが生じた。それはそのファイルを開くたび、私が、やる気をすっかり失くしてしまったことだった。系図調査に対する興味や情熱を失ったのではなく、なんとも説明しがたいが、やる気がなくなってしまったのだ。その人の調査だけ。ちなみに依頼は一件だけ、というわけではなく、時には4,5件の依頼を同時に受ける。それなのに、その特定のファイルを開くだけで、もう気持ちはそぞろで、一体どうしたものか。それを脇に置いておいて、あとでやろうと思っても、いつもそのままである。その間に受けた他の依頼はすべて完了したというのに。そのうちにその系図調査のファイルのことは、だんだんと胸にのしかかってきて、その懸念の大きさ・重さは増すばかり。気に病むと言っていいほどであった。私はほとんど毎日のように、そのことを夫に何気なく言い、どうしたのかなあと独り言ちていたのだ。

 

たとえば二つに分かれた山道の起点で、一つは先がほの暗く水木しげるの描くところの妖怪が出そうだが、もう片方は、陽が燦々と照っていて、見るからに道中楽しそうな道がある。どちらの道を行くか、おそらく大抵は明るい道を行くだろう。何故なら片方は見るからに不安を抱かせ、怖ささえあるからだ。そういう暗い道のようなファイル、というわけである。4,5世代遡ってみたところで、決しておどろおどろしい事実が見つかった、というわけではないし、世紀最大の非情なガンマン先祖もいず、毒婦といわれるような女性もいない。一見見るからにごく普通のアメリカのどこにでもいるような市井の人々の系図なのである。それなのに、何故こうも私は抵抗を感じるのか理解できない。。。ほとんど一年経ったが、私が思うに至ったことは、これはもう私ではなく、別の調査者にお渡しすべきファイルなのではないか、ということ。

 

そんなことが気にかかっていると言えば、気にかかっていることなんです、それにその気がかりがだんだん胸の上でずんずんと重みをましてきまして。。。と医師に話すと、彼女はスパッと言った。「おやめなさい。それ以上調査をせず、他のどなたかに託した方がよろしいです。」と。ああ、よかった、科学者の医師が、この話を「そんな馬鹿な!」と切り捨てずに、「そういうことは世の中あります!」と受けてくれたのだった。それだけで、気が楽になった私は相当単純だが、だが、その時、ふわっと楽になったのだ。

 

早速調べた期間の短い、けれど几帳面に記録してきた調査録をきちんとまとめて、その中途半端な系図調査につけて、郵送することにした。すると知り合いから、メイルが入り、その依頼をした人が先週金曜日に心臓麻痺を起こし、即手術をして、今日あたり退院する、とあった。え?!その依頼者が?この人は知人から依頼されてそれを私に依頼したのだった。同じ心臓関係で?そして再び別の友人から、もう一人系図調査に関わることをする仲間の方が、少し前に行なった心臓手術の折使ったステントに血栓が見つかり、即時に手術をしたと言う。え?! そんなことって。。。

 

とにかく、この調査ファイルは早速お返ししなければ。なんだかこの系図に関わった人々に心臓関係の不具合が見つかって、二人は手術まで。私のケースは、それではムシの報せ的ではないか。こんなところで神懸ることは書きたくないのだが、考えれば、系図調査というのは、つまり死人と話をするようなものである。中にはゆがんだ精神や気持ちを持って亡くなった人もいるのかもしれない、と、独断気味な私は、大きな封筒にそのファイルを入れ、封をし、切手を貼って投函するばかりにした。もしかしたら、肩越しに一握りの清めの塩を投げた方がよいのかもしれない。

 

 

farmersalmanac.com

 

 

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こんなことがある

2020-01-22 | 不思議

ピム・ヴァン・ロンメル医学博士著「生命を超えた意識:臨死体験の科学」

(New York: HarperCollins, 2010)

 

 

 

ヴィッキーは1951年に非常に時期尚早に未熟児で生まれた。当時の原始的な保育器の非常に高い酸素濃度により眼球と視神経が損傷し、その後すぐに後頭葉の視覚皮質が萎縮した。

 

「私は光も、影も、何も見たことがありません。多くの人は私が黒を見ているかどうか尋ねます。いいえ、黒は見えません。何も見えていません。そして、私の夢では視覚的なことを見られません。味、感触、音、匂いだけです。何の視覚的なことはないのです。」

 

1973年、ヴィッキーは深刻な自動車事故に遭い、昏睡状態に陥り、頭蓋骨骨折と重度の脳震盪、首と背中の脊椎骨折、足の骨折という怪我を負った。

 

「次に覚えているのは、ハーバービューメディカルセンターにいて、その時(自分の身に起きていることを)上から見下ろしていたことです。そして、物事を視覚的に見ることに慣れていないので、恐ろしかったです。そして最初はかなり怖かったです!そして、ついに私は自分のしている結婚指輪と髪の毛を認識しました。私は考えました:下に見えるこれは私の体だろうか? 私は死んでいるのだろうか? 彼らは『彼女を蘇生できない、彼女を蘇生できない!』と言い続けていました。彼らは私がさきほど発見した自分の体(の蘇生)に必死に取り組んでいたのですが、私は自分の体から離脱していて、それだから何?というふうに思ったのです。そしてこれらの人々が何故そんなに怒っているかのように狼狽しているのか、と思いました。そう思った途端、私はまるでそこに何もないかのように天井を抜け出たのです。何かにぶつかるのでは、と心配せずに、そのように自由であるのは素晴らしいことで、そして、私は自分がどこへ行くのかを知っていました。それから、えも言われぬこの素晴らしい風鈴が聞え、最も素晴らしい音でした。非常に低い音から非常に高い音まであるのでした。私がこのエリアに近づいたとき、木々があり、鳥とかなりの数の人がいましたが、すべて皆、光で作られているのを私は見ることができました、そしてそれは信じられないほど、本当に美しく、私はこの経験に非常に圧倒されました、何故なら、私には光がどのようなものか本当に想像できなかったからです。私はまだ、これについて話すとき、非常に感情的になってしまいます。 。 。そこで私が持ちたいと願っていたどんな知識もが、私にもたらせられたからです。 」

 

 

さらにヴァンロンメル博士は、ヴィッキーの経験の一部について、彼女が以前の知り合いと出会った(そして見た)ことの要約を引用している。

 

その人々は5名である。デビーとダイアンはヴィッキーの盲学校の学友であり、ずっと前にそれぞれ11歳と6歳で亡くなっていた。生きていた時は、彼ら両方とも重度の知能発達障害で盲目だったが、ここでは明るく、美しく、健康で、生き生きと見えた。彼らはもはや子供ではなく、ヴィッキーが言うには、「彼らの人生最良の時」にいた。さらに、ヴィッキーは彼女の子供時代に世話をしてくれ、とうに亡くなった二人、ズィルク夫妻を見た。最後に、ヴィッキーの祖母がいた。彼女は本質的にヴィッキーを育て、この事件のわずか2年前に亡くなっていた。しかし、祖母は他の誰よりもずっと後ろにいて、ヴィッキーを抱きしめようとしていた。

 

最後に、ヴィッキーは彼女の体に再び入る義務があった。

 

「そして、私は送り返され、自分の体に戻りました。それは耐え難いほど痛みがあり、非常に重く、とても気分が悪いことだったのを覚えています。 」

 

オランダの医師で心臓病専門研究者であるヴァンロンメル博士は、ヴィッキーの事例についてコメントしている。

 

「眼球と視神経の萎縮の結果として生まれつき盲目であり、視覚大脳皮質が発達していない人が、それにもかかわらず、人と周囲を見ることができるというのは、重要な疑問を提起します。この女性は、深刻な交通事故で受けた脳の損傷によって昏睡状態になった瞬間に、体の外側とその上の位置からどうやって自分の体を見えたのでしょうか。彼女は全く見ることができなかった(視覚障害者である)のに、です。その上、彼女は体を出た外側の位置から物事を知覚しています。彼女はどうやってこれをしたのでしょうか?これは何が影響したのでしょうか? 彼女は昏睡状態でどうやって自分の認識に気づけたのでしょうか? 現在の医学知識によれば、これは不可能です。ヴィッキーや他の臨死体験者の視覚障碍者の話は、科学者に意識と脳の関係についての新しい考え方を模索させています。報告されたヴィッキーの観察結果は、知覚や機能的(視覚)大脳皮質による産物ではなく、検証可能な側面を考えれば想像力の産物でもありませんでした。」

 

 

 

 

 

 

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