ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

明日

2020-07-31 | アメリカ事情 人間性

 

 

今朝読んだ「読者欄」にあった小さな小さな記事。

 

「私が今まで一目で判断してきた人々に対して申し訳ない思いでいっぱいです。

私は人種差別主義者の家庭で育ちましたが、私とは違う人々のすべてのグループを憎む理由が私にはないことに気付いています。 私たちは皆同じ色の血を流します。 私には知らない人を憎む理由がありません。 私の人生で遭遇した問題は、私自身の人種によるものでした。 私には知らない人を憎む理由が文字通りありません。

これからは、私は人々を助けるために何かをしたいですが、何ができるでしょうか。」

 

誰に言われずとも、今日世界のどこかで誰かが、自分の誤った考え方を反省し、もっと人々を助けるために何か良いことをしたい、と思い始めたら、なんて素敵だろう。

まず最初に人の幸せを心から喜ぶことから始められるかもしれない。

今日世界のどこかで誰かが人生で最高の日を今日過ごしている、と考えるとなんて素敵なことだろう。

今日、誰かが初めて「あなたをお慕いしています」と好きな人に言われているかもしれない。

今日誰かが今まで夢見た仕事に就こうとしているかもしれない。

今日誰かがちょっといい知らせを受けているかもしれない。

そして明日が、あなたにとっての最高の日になるかもしれない。

目に見えない敵に包囲されているような今でこそ、希望を捨てずにお互いに助け合い、思いあって、もっと良い明日を待ちたい。そんな素敵な明日があることを希望したい。

 

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木曜日の子供

2020-07-30 | 家族

クリスマス2019 教会での簡単な食事会で

 

 

英国の子守唄・童歌(nursery rhyme)でMonday's Child月曜日の子供、と言うのがある。1912年にはマザーグースに取り入れられたが、A.E. ブレイのデボンシャーの伝統という本(Volume II, pp. 287–288)に1838年初めて記録された。その詩は次である。

Monday's child is fair of face, 月曜日の子供はみめうるわしく
Tuesday's child is full of grace, 火曜日の子供は気品たっぷり
Wednesday's child is full of woe, 水曜日の子供は憂いにみちて
Thursday's child has far to go, 木曜日の子供はとどまることを知らず
Friday's child is loving and giving, 金曜日の子供は思いやりが深く
Saturday's child works hard for a living, 土曜日の子供は働き者
But a child that is born on the Sabbath day だけど安息日に生まれた子供は
Is blithe and bonny, good and gay. のん気で可愛く善良で陽気

 

長い間英語圏では愛されている童歌だが、歌詞は時代によって多少変化している。

 

高校三年の時、この曜日のどちらだったか忘れたが、例えば、Monday's Child(月曜日の子供)のような題名のペイパーバック小説を読んだことがある。いわばアメリカの青少年向けの話で、そう難しい英語ではなく、あっという間に読み切ったのは覚えている。その時、この童歌を知った私は、自分が月曜日生まれなので、ただ単純に御神籤の大吉を当てたように嬉しかったのを覚えている。当たるも八卦当たらぬも八卦で、外れの私ではある。

 

末娘の第一子として生まれた孫#7は、両家祖父母にとっても7番目の孫で、この子の両親の結婚7周年にやってきた。そしてこの子、クラークは、木曜日の子供。とどまることを知らずに健康に成長してくれている。

1番のお気に入りは、パパと遊ぶこと。パパは法科大学大学院生だから、とにかく分厚い法務・法例の本を毎日読まねばならず、忙しいけれど、暇を見つけては遊んでくれるのよね、クラーク。

 

ラッキー7のクラークは99%笑顔に溢れてとどまらない。

 

ベイビーフードを大急ぎで卒業しちゃった子。

 

娘は、仲良し3人組の1人で、全員法学生の妻である。これは去年の写真で皆大事な大事なスイカを抱えているところ。

左から妊娠9ヶ月、8ヶ月、5ヶ月

そして今年の同じ日に。

生後9ヶ月、生後8ヶ月、生後5ヶ月になった子供達;娘はこの2人の子供達の乳母でもあり、ふた月後に生まれた孫#8にもそうした。

 

クラーク満1歳!クリブに入れて横にすれば、お気に入りのブランケットと共にすぐ寝つき、熟睡する優れもの。

 

4歳上の, 金曜日の子供の歌詞通りの思いやり深い夫とクラークと娘。娘は水曜日の子供で、数年前、待望の第一子を流産し、生まれて初めての大きな悲しみを経験した。結婚して7年目に両家にとっての7番目のクラークが誕生した時、私と共に立ち会った娘の夫は、落涙しながら、私にこう言った:

I've never been more in awe of my wife, such a beautiful strong woman and I'm grateful we have each other for eternity.

私の美しく強い女性である妻にこれほど畏敬の念を抱いたことはありません。私たちがお互いに永遠に一緒にいられることを私は、感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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遅くない

2020-07-29 | 人間性

 

 

23歳の時、ティナ・フェイはYMCAで働いていた。(合衆国テレビ・映画女優ーコメデイー, エミ―賞受賞数回)

23歳の時、オプラ・ウインフリーは最初の報道職から解雇された。(自身のトーク番組司会者、最も裕福なアフリカ系アメリカ女性)

24歳の時、スティーブン・キングは清掃人として働いていて、トレーラーに住んでいた。(ホラー・ミステリー作家)

27歳の時、ヴィンセント・ヴァンゴッホは宣教師として失敗し、美術学校に行くことにした。

28歳で、J.K.ローリングは、生活保護を受け、自滅気味の未婚の母だった。(英国人、ハリー・ポッターシリーズ、その他の著者)

30歳の時、ハリソン・フォードは大工だった。

30歳の時、マーサ・スチュワートは株式仲買人だった。(合衆国の料理、園芸、手芸、室内装飾など生活全般を提案するライフコーディネーターでいくつかのTV番組を持ち、雑誌・本も出版)

37歳の時、アング・リーは在宅父親であり、雑多な片手間仕事をしていた。(アカデミー賞二度受賞の台湾の映画監督)

ジュリア・チャイルドは39歳で最初の料理の本を出版し、51歳で彼女自身のテレビ料理番組を始めた。(合衆国のシェフ、料理研究家)

ベラ・ワンはオリンピック・フィギュアスケートチームに入ることに失敗し、ヴォーグ誌で編集長に抜擢されず、40歳で彼女は最初のドレスをデザインした。(中国系アメリカ人の人気デザイナー)

スタン・リーは、40歳で最初の大ヒットとなる漫画本を出版した。(合衆国の漫画原作者、マーベル・コミックの編集者から名誉会長も務めた)

アラン・リックマンは、42歳で演技を続けるためにグラフィックデザインのキャリアをあきらめた。(英国の舞台・映画俳優)

サミュエルL.ジャクソンは、46歳で最初の映画の役を演じた。(合衆国のアフリカ系アメリカ人俳優)

モーガン・フリーマンは52歳で最初のメイジャー映画に出演した。(合衆国のアフリカ系アメリカ人俳優)

グランマ・モーゼスは、76歳で画家キャリアを始めた。(合衆国の国民的画家で、田園風景・農民生活を主に描き、101歳で逝去するまでに約1600点の作品を残した)

ルイーズ・ブルジョワは、78歳になるまで有名なアーティストにはならなかった。(フランス出身で合衆国に移住、彫刻家、版画家、画家。彼女の巨大な蜘蛛の作品が特に有名)

 

あなたやわたしの夢が何であれ、それを達成するのに遅すぎることはない。夢がまだ何であるかさえ知らなくても大丈夫である。年を取りすぎて夢なんて、チャンスを逃した、十分ではない、そんなことを自分に言わないことである。できるのだ、それが何であれ。

 

おまけ

Photo:tammybryant

 

”Don't let your ice cream melt while counting somebody else's sprinkles.

「他の人のアイスクリームにかかったスプリンクル(色の違うチョコレートなどのかけら)を数えるうちにあなたのアイスクリームが溶けてしまわないように。」

他の人の良いところだけを見ていると、忘れがちだが、生きると言うことは誰にとっても難しいものである。

(隣の芝生が青いと見えても、あなたの隣人はあなたの芝生の方が青いと見ているかもしれない。)

 

 

 

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ランチタイムのレッスン

2020-07-28 | 私の好きなこと

dreamstime.com

 

もうずっと昔のことであるが、よく住宅街をリアカーや自転車でやってくる修理・修繕屋業と言うのがあった。そう、昭和の話。傘、鍋、釜、ほとんどなんでもござれ。時折、道端でムシロを広げてそこでちんまりと仕事道具を取り出してハンマーやペンチやあるいは糸や針で壊れたものを直し始める。それを「見学」するのが大好きだった。壊れたり、破れたり、穴が空いちゃったりした物を捨てるのではなく、修繕するなんて、まるでマジックのようだった。その直し具合は、職人にもよるのだろうが、大抵は、驚くように本来の形に直していたように思える。

そして最近英国放送局のヒットシリーズと言われるThe Repair Shop(修繕屋)がここアメリカでも観られることになった。持ち込まれる物は、人形、ぬいぐるみ、陶器、木製品、家具、手風琴(わざとこの日本語を使ってみたかったーアコーデイオンのことである)、幻燈機(この言葉も好きだ。ースライド映写機の原型)、日本土産の古い洒落た小引き出し、アンテイークな衣装、蒸気力で動く車やボートなどの玩具、蓄音機(蝋菅式で大きな朝顔のようなところから音が聞こえる)など様々である。英国では4シーズンあるようだが、アメリカでは2シーズンだけ。自宅退避という重しを頭に乗せていた私は、勿論熱心にひとエピソードづつ鑑賞し、頭を軽くしていった。

このショウの修理職人は皆優秀で、それなりの教育と訓練を受けていて、見事に壊れたものを元どおりに直してしまうのである。小さな村の入り口や広場にずっと立てられていた村の看板を年代物にも関わらず、修理してしまうし、子供時代の愛着のこもったぬいぐるみも、かつての輝きを取り戻す。物を大切にするということは往々にしてHoarders(なんでも貯め込み、ゴミさえも捨てられないひと)、つまり汚屋敷道をまっしぐらのひとになってしまいがちだが、私がここで意味をするのは、修理が必要になる程愛用されてそれでも修理して使うことである。過去は2度と戻らなくとも過去の楽しかったことは、修理すれば再び今の自分に繋がる。

ロサンジェルスである商社で働いたことがあるが、そこで知り合った日系人の御婦人は、母親と呼べるほどの年嵩で、私は彼女と部署が異なっても、一緒に毎日お昼を食べるのが好きだった。小柄で穏やかな喋り方の彼女から習うことはたくさんあった。日系人と言うよりも日本からお嫁に来た、と言う方が妥当だが、彼女はここへ写真花嫁のごとく遠い昔やってきたのだった。

嫁ぎ先は、日系二世で、若い頃はお金があまりなく、苦労したとのことだった。1人息子が誕生し、その子の寝巻きは彼女が作り、それの丈を伸ばしたり、衣服も鉤裂きを作ってしまうと丹念に繕っていたと言う。靴下も穴が開けば、きちんと丁寧に繕うのが当たり前だった。やがて私は結婚し、ロサンジェルスから地の果てのような気がしたアリゾナへ移り、彼女はしばらくして引退した。それでも毎年今でも季節の挨拶状は欠かさない。彼女の几帳面な、旧仮名遣いの便りは、年ごとに寂しくなっていくが、今でも一人息子さんと仲良く暮らしている。そろそろ90の声を聞くのではないだろうか。

その彼女の昔の修理修繕の小さな話をいつも私は楽しみ、今も耳の奥から聞こえてくるようだ。物はたくさん持たなくても、一つ良い物を持ったら、それを長く大事に使い、時たまほころびなどを繕えば良いのよ、と。ほんの短い昼食時間に私は一生のレッスンをもらったような気さえする。私自身もやがて子供を持ち、それが5人になると、いつも彼女の言葉を思い出しては、それを右にならえしようとしたものだ。子供達は丈を伸ばすのが間に合わないほど、早く成長し、それが5人だから、丈が短くなれば、下の子に回すことにした。

今あの昼食を共にした頃の彼女の年齢になった私は、自作の子供服やクリスニング・ガウン(強いて言えばお宮参りに着せる着物的な白いガウン)は綺麗に清潔に保存し、孫たちに使う。娘たちのプロムドレスも制作したし、末娘のウエデイングガウンもデザインは私だが、日本の姉の義妹がプロフェッショナルなので、制作してくれた。こうしたガウンは定評のあるクリーナーで綺麗にしてもらい、防虫加工し、酸化しない保護紙に包み、同じ状態の厚紙の箱にきっちりと収めてもらってある。11歳の時娘が、楽器演奏のコンサートでスーツを着てみたい、と言うので作った毛織のシャネルタイプのスーツも同様である。保存するなら、本当に気に入ったもので、後に使用可能な物を、良い状態にして取っておく。Hoarderにだけはなるまい、と頑張り、断捨離の必要性も重々承知しているが、もともと子供服やガウンは飽きのこない伝統的な物を選んで作り、家族の伝統として後日の孫たちの使用を鑑みて制作したものである。少々古い例えだが、マルコス元大統領夫人イメルダのように、何百、何千もの靴を専用にしまう部屋を作りたくはない。

こうした「取ってある」物は、娘たちだけではなく、息子の妻たちも後を引き受けてくれると言ってくれている。別に私は押し付けはしない。私の足跡は私だけのものなのだし、自由にしてくれて結構でもあるのだ。そう、砂浜に残る足跡はやがて波が持ち去る。それで良い。

 

今日も懐古的な気分のためにロッド・スチュワートのLong ago (and Far Away)を選んだ。

 

遠い昔はるかな

退屈な日々は終わり
人生は四つ葉のクローバー
憂鬱な会議は終わり
ずっと昔に憧れていた希望が叶う

遠い昔はるかなところで
ある日夢を見た
そして今、その夢は私のすぐそばにある
空は曇ったけれど
今、雲は過ぎ去り
ついにあなたはここに来た
寒気が背骨を上下に走る
アラジンのランプは私のもの
私が夢見た夢は否定されず
一目で私は知っていた
ずっと昔から憧れてたのは君だけだと

 

 

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純粋な喜び

2020-07-27 | アメリカ事情

ABCニュース写真:リーハンと兄レジー。

 

 

 

ハーバードロースクール(ハーバード法科大学院)について思いつくのは、富、名声、著名な図書館、おそらくセーター・ベストだろうか。誰も午前4時に起き、学校へ行く前に清掃作業員としてゴミ収集トラックに乗り込む風景を思い浮かべはしないだろう。

 

Google.com

 

しかし、そうすると、あなたはリーハン・スタットンをご存知ではない。

ハーバード法科大学院に入学するのは誰にとっても簡単なことではないが、ひとり親の貧しい家族のリーハンは、本当に自分で未来の教育のために道を切り開いたのだ。働き者で勤勉な彼は、それが周囲の人々のおかげだとへりくだっている。

24歳のこの大学生は次のようにNBCのTodayと言う番組で語った。「家族として行なったすべてを経験した後、ハーバード大学に入っただけだと感じています。うまく説明すらできませんが、それは自分一人ではなく『私たち』がそうしたのです。」自分のいるコミュニティがすべての違いを生み出したと彼は言う。

リーハンは、長年にわたる家族が瀕してきた困難と貧困を乗り越えた後、「もっと多くのことを求めていた」と認める。メリーランド州ボウイで育った彼は、8歳の時に、母親が家族を捨て、国外に引っ越してしまった。しかし、それは彼が、勤勉の価値を学び始めたときでもあった。彼の父親は、リーハンと兄息子レジーをサポートするために、複数の仕事を掛け持ちしなければならなかった。

その頃は家族の試練の時だった。リーハンの成績が少し下がった時、そのエネルギーをスポーツに向けた。リーハンはボクシングと武道に秀でており、それらが貧困から抜け出すための道となることを望んで、国内および国際大会で優勝した。だが肩回旋筋腱板によってそうした夢は完全に打ち砕かれた。

何年にもわたる苦労の末、リーハンの高校の成績は非常に悪かったため、志願したすべての大学から拒否された。そのため、18歳で大学に行く代わりに、ベイツ・トラック輸送とゴミ収集会社に就職した。そこでの同僚のほとんどは、投獄歴があった。多くの人にとって、この仕事を引き受けることは全くの人生の低点のように感じるかもしれない。しかし、リーハンにとっては、自分の人生を好転する良い機会となった。

「父や兄のような家族ではないグループが私の周りにやってきたのは、自分の人生で初めてのことでした。でも、この人たちは本当に、僕に力を与え、元気づけ、僕が利口だと言ったのです。」

そうしてこうした同僚はリーハンが学校に戻るよう勧め、この会社の所有者の1人であるブレント・ベイツはリーハンがボウイ州立大学に入学するのを助けてくれた。 リーハンは平均4.0(4点満点)の成績を獲得し、メリーランド大学に編入できた。

しかし、リーハンの試練はまだ終わっていなかった。メリーランド大学での3年目に、父親が脳卒中を患い、家族を救うためにベイツ社で仕事に戻る必要があった。多くの人々はここであきらめただろうが、リーハンは学校生活の上にベイツでの仕事を一日のスケジュールに入れたのだ。学校を中退する代わりに、毎日午前4時に起きて、授業の前に清掃車乗務をこなし、授業が退けると又働いた。

2018年にたくさんの栄誉と称賛をもってリーハンは大学を卒業し、卒業式ではスピーチをする総代に選ばれた。 LSATテスト(法学系大学院共通入学試験)を受けると、彼は80パーセンタイルで並外れたスコアを記録し、法科大学大学院への入学願書を出し始めた。

リーハンは照準を高く合わせたーハーバードに。

その学校には高額な値札が付いているが、幸いなことに、リーハンはある後援者を見つけた。情報伝達学のコーチ、カーミー・マクックが、学費援助のためにGoFundMeページを始めたのだ。当初の目標は75,000ドルだったが、185,000ドルを超える寄付が集まった。カーミーは(GoFundMeページ)にこう書いた。 「私は彼から非常に強い共感と賞賛を感じたのです。そこで絆が生まれ、彼が何かのために私を必要とするなら、そのために私はいつもそこにいると言いました。彼は今では、私を『お母さん』と呼んでいます。」

ハーバードが合否をようやく知らせる時が来て、リーハンはその瞬間をビデオに記録した。兄が隣に座り、彼は自分のコンピューターでその通知を開いたのだ。彼らの反応は純粋な喜びだった。

「そうです、リーハンは賢いです、けれど彼の業績をさらに立派なものにしているのは、この喜びの瞬間までの彼の勇気ある人生の旅です」と彼の良き指導者は言った。

ハーバード法科大学大学院に向かうほとんどの人は、ずっと良い成績、豊かな経済的支援、そしておそらくセーター・ベストを持っているが、リーハンは彼自身の辛かった人生の物語を持ち、同時にそれが彼に激励を与えるのである。リーハンは言う:人生は決して公平ではありませんが、だからと言って自分の夢や目標を捨てることはないのです。

上記は下のABC ニュース(2020春)のヴィデオの要約である。

 

 

 

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