ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

クリスマスの真理

2022-12-23 | クリスマス

 

 

 

 

下のミュージック・ビデオは8年前に男性トリオのGENTRIジェントゥリによってリリースされたが、これは和解の物語を語っている。 ふとした諍いから長い間疎遠になっていた父と娘が、クリスマスの日に再会し、一緒にその日を過ごすことを示している。 その物語、美しいハーモニーと心を揺さぶるようなオーケストラを通して、視聴する者は救い主がもたらす希望と癒しを思い起こさせられる。

GENTRI は、YouTube の説明で、ビデオを制作する際の目標を説明した。  彼らは、「このビデオに取り組んでいたとき、キリストがどのように古い傷を癒し、すべてを完全にすることができるかという実際の生活シナリオをビジュアルで示したいと考えました。 彼はまさに癒しのマスターです。  このメッセージと音楽を通して、あなたが安らぎを感じ、癒されることを願っています。」

このミュージック ビデオは、個人的にどのように感動したかについてコメントを残した多くの視聴者にとって意味のあるものだった。 ある視聴者、デイブ・クリステンセンは次のようにコメントを残した。

「古傷を癒し、家族を団結させるクリスマスのシーズンを始めるには、なんと素晴らしい方法でしょう。  私の父は2 か月前に亡くなりました。 父が私たちと一緒にいないのは、私の人生で初めてのクリスマスです。  母は22年前に私たちから去りましたが、今はそばに一緒にいます。 あなたの才能とあなたの動画が世界にもたらす感性に感謝します。 メリークリスマス!」

YouTube の説明で、GENTRI は「きよしこの夜」という曲の持つ力と、その音楽が伝えるものについて説明している。

「それは私たちの心の中で特別な場所を占めています」とグループは説明する。「これまで書かれた最も美しいクリスマスソングの 1 つであるだけでなく、飼い葉桶で生まれた嬰児(みどりご)キリストの柔和さだけでなく、彼の使命の威厳も捉えているようだからです。」

クリスマスの本当の意味は、特定のキリスト教会員でなくとも、そしてキリスト教を信じてはいなくとも、プレゼントやサンタクロース、消費や食べ物にまつわる喧騒とはほど遠いものである。  その代わりに、クリスマスは、人類に対する神の愛、神の一人子イエス・キリストの賜物、聖書、永遠の命の約束を思い出す時期だ。  クリスマスの物語は、まさに謙虚さ、畏敬の念、平和の物語である。

毎年 12 月 25 日に行われるクリスマスは、イエスの誕生を祝う日で、 クリスマスの起源は、ベツレヘムで約2000年前に展開された変革的なイベントである。

キリストの誕生は歴史を変え、人間が全能者と交流する方法を変えた。  イエスの誕生は過去になされた預言の成就であり、イエスの十字架での犠牲は人類を救った。  ヨハネ 第3章16節(欽定訳新約聖書)は次のように述べている。

「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは、ひとり子を信じる者が滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」

 

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クッキー・エクスチェンジに

2022-12-10 | クリスマス

punchbowl.com

 

 

 

 

今年もクッキー・エクスチェンジ(お手製のクッキーを友人・同僚同士と交換)の季節になった。 実際のナショナル・クッキー・エクスチェンジ日は、12月22日であるが、その日あたりから、休暇を取る者が多いから、オフィスでは、来週催す。 それぞれが自家製の大体2〜3打のクッキー(一種でも可、あるいは数種でも)と、交換したクッキーを入れて持ち帰る入れ物を用意して参加する。

 

iheartnaptime.net

 

大抵それぞれ家族の定番クッキーがケーキと同じようにある。 私の「十八番(おはこ)」は、ケーキなら、ワシントン・ケーキ、クッキーはクリームチーズ・ジェリー(あるいはジャム)・クッキーである。 このクッキーは、一回のバッチで3打は作れるので、エクスチェンジには、とても重宝する。 子供が巣立ってからというもの、久しくベイキングから離れているが、クリスマスが近づくと、長年の習性で、もぞもぞとパントリーに入って新鮮な小麦粉をはじめとして、材料が切れていないか調べ始める。

 

     

toriavey.com   /    livingbeyondallergies.com

カランツ(干したスグリの実)の入ったワシントン・ケーキとクリームチーズ・ジェリー(あるいはジャム)・クッキー

 

家に子供が5人いた頃(私が専業主婦・母の頃)は、ほぼ常にベイキングに明け暮れていて、祭日の用意に、あるいは子供たちのランチのお供用にブラウニーや、レモンバーや、クッキーは不可欠なものだった。 下校してくれば、おやつにバナナブレッド等を用意していたし、学校関係でベイクセールを催すとなると、いろいろなバントケーキの一つや二つは焼き、寄附した。 クリスマスには、ユールログ・ケーキ(Buche de Noel)を作り、ログの上や周りに置くメランゲを焼いて作るマッシュルームも手作りした。 

 

craftybaking.com

ユールロッグ・ケーキ(Buche de Noel)

 

土曜日の朝にはブルーベリーマフィンを手作りし、日曜の午餐のデザート用にレイヤードケーキも作った。 クリスマスベイキングのクックブックも何冊か持っていて、毎年11月に入ると、翌月のために何か目新しいレセピを探してみるのが楽しみでもあったのだ。 

子供たちが幼い頃は、ゾロゾロとアヒルの親子のように、図書館へ一緒に連れていき、児童図書コーナーが親の目の届く所にあったから、クッキングやベイキング、その他の料理本のある書棚で何か目新しいレセピがあるか調べたものだ。 

好きだったのは、ホワイトハウスのクックブックである。 そこに出ていたピーナッツ・ブリトルは、簡単であるのに、実に美味しかった。 確かピーナッツ・ファーマーであったジミー・カーター大統領のお気に入り、だったと思う。 

 

                       

joyofbaking.com

ホワイトハウスのクックブックとピーナッツブリトル(非常に簡単)

 

そういえば、その頃住んでいた市が小さな博物館を建立し、日本と日本人移民のセクションが作られ、そのファンドレイザーがあった時、私は生まれて初めて日本のお饅頭を作った。 あっという間に売り切れたのを覚えている。 蒸して作るからベイキングではないが、あの時は小豆や白いネイビービーンズで餡を作った。

今思うと、通常の食事調理に加え、しょっちゅう和洋問わずスイーツ・お菓子をまめに作っていて、なんとドメスティックな人間だったろうか。 なんというエネルギー。 それも今は昔の物語である。ちなみにこうした物を食した後は必ず歯磨きをさせ、子供たちは10代の後半まで虫歯を経験したことはなく、特に長女は今まで一度も虫歯ひとつも知らない。長女以外は歯科矯正をしていたので、その間に虫歯がやってきたようである。

今では娘たちも息子たちもクッキーやらブラウニーやらケーキも作る。 孫たちもお手伝いするようになった。 それはスエーデンの息子一家も同じで、5歳と3歳は、ママに教わっている。 こんなことでも家族で一緒のことをして、楽しんでいる様子が伺えて、なんだかほっとする。

さあ、昔の思い出に浸っていないで、私もクッキーを作ろう。 エクスチェンジ用だけでなく、袋小路の隣人方にもお裾分けをしよう。

 

 

 

 

「クリスチャンではないが、この時期ワクワクする」、とおっしゃる方々が多く、楽しい気持ちを宗教に当てはめずにどうぞお楽しみください、と私は思う。  

 

 

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癒されること

2022-12-06 | 自然に憩う

credit: youtube dreamy sound

もちろん、末娘の部屋とは大違い。理想的な書斎・図書室。

 

 

 

夜明け前に私が書斎代わりにしている末娘の部屋で、書き物をしていると、雨垂れに混じって、紛れもないホホウと言う鳴き声。 ここは市街地、住宅地と言えど、背の高い見上げるレッドウッドやコットンウッドなども植えられているし、野鼠、リス、オポッサムそして狐さえ豊富にいるから、フクロウもシエラ・ネヴァダの麓の森やもっと遠くの古い森から飛来しても不思議はない。 ただその鳴き声を聞くのは、ここへ越してきて25年で、これがただの2度目である。 あれはアメリカコノハズクだろうか。 

夜明け前の闇を突くように連れ合いや仲間に何かを知らせたのだろうか。 隣の市では、人通りの多い、交通量もある街区で、昼間ボブキャットが平然と歩いていたのが、つい最近新聞の記事になった。 ボブキャットは小型の野生ネコで、クーガーやマウンテイン・ライオンやプーマほどの大きさではないが、野生は野生、不用心に近づいたり、触れることは危険である。 シリコンヴァレーのサンノゼ市中や住宅地でさえ、そしてサンフランシスコの丘にさえ、クーガーは出没するのだ。 クーガーやクマは困るけれど、コノハズクや古い納屋に住み着くメンフクロウなどは、いくらでもいらっしゃいと歓迎したい。

 

Credit: Brandon K. Percival

あれはあなたでしたか、アメリカコノハズクさん。

 

まだ暗いうち(と言ってもほぼ7時)に下へ行き、ガラージから日曜版の分厚い新聞を拾おうとすると、すでにガラージの外へのシャッターが暗い外へ全開していて、湿った冷たい空気が入っている。 2台の車はガラージに整然と収まっているし、夫は2階でまだ寝ているし、はて、一体どういうことだろうと首を傾げた。 土曜日は午後からずっと子供たち家族が来て、クリスマスクッキーを焼き、飾り付けていたから、誰かが帰宅する折、壁のオープニング・ボタンを押して外に駐車した車へ向かい、そのまま閉め忘れたに違いない。 ということは、一晩中ガラージ・ドアは開けられていて、野鼠や虫や野良猫などが、冷たい雨と風をさけて入ってきていたのかもしれない。 幸い人間が侵入した気配はなく、第一ガラージの片隅にはハスキーのブーがクレイトのふかふかの寝床でカバーもされて寝ていたから、おそらく何事も起こらなかったのだろう。 よかった。 それで気がついた。 さっきのホホウは、ガラージに侵入せんとした野鼠のような小動物を獲得後の鳴き声だったのかもしれない。 やけに2階の私の「書斎」近くで聞こえたのだから。 完全に私の妄想かもしれないが、なんだか嬉しくなった。 カリフォルニア州農家が広大な畑のあちらこちらに猛禽類、特にフクロウの巣箱を設置しているのは、以前ブログに書いたが、その恩恵を受ける農業従事者のような気持ちになった。 フクロウや猛禽類による農業への多大な恩恵は、計り知れない。 

しばらく前に、大学図書館の駐車場に駐車した車へ向かい歩いていると、夕焼け空に聳える図書館屋上の端に鳩を威嚇するために置いてあるフクロウにそっくりのディコイ(偽物)をふと見上げると、その偽物がホーホーと言ったので思わず足が止まった。 「最近のディコイはなんと精巧に出来ているんだろう、鳴き声も発するなんて、」とじっくり眺めてしまった。 するとそのディコイは突如大きく翼を広げ、飛び立ち、その時初めて本物だと気がついた。 あの大きさからすると、あれは、アメリカワシミミズクに違いない。

Credits: Alan  Andrew / Copyright: RichardSeeley

アメリカワシミミズク

 

 

南カリフォルニアではついぞお目にかからなかった野鳥である。 もともとそう複雑な精神構造ではない私は、感激した。 そして今でもあの時お目にかかれて幸いだったと思う。 カリフォルニア州のこの種のフクロウは比較的アラスカ州のよりも小さいが、それでも平均50センチの長さがある。 おそらくこのアメリカワシミミズクが一番大きなフクロウだとすると、一番小さいと思われるジョニーフクロウは、南カリフォルニアに住んでいた頃しょっちゅう見かけたものだった。 子猫のような大きさだが、獰猛なところが多く、教会の側壁のところに簡単な巣を作って家族で住んでいた。 そして畑地を流れる水路の土手に穴がたくさん開いていて、そこには大抵ジョニーフクロウが住んでいるのだ。

 

 

Credit: Alan Vernon 2010 

Burrowing Owl ジョニーフクロウ

 

人間社会の軋轢や生きることのしがらみに心が擦れているような時、自然はこんな形でも癒してくれる。 朝早起きして書き物をしていて、ラッキーだった、と思える日曜は幸先の良い一週間が待っているような気がする。 頑張れば、こんなことでもご褒美が与えられるものなのね、と妙にうなずいた。

 

 

 

 

 

 

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くびき

2022-12-04 | キリスト

2週間前の雨。我が家近くで。

 

 

 

昨日は1日降雨で、そうなると紅葉や落葉は一気に進む。 十何年にもなる旱魃が数日の降雨で解消されるとは誰も思わないが、それでも自然は自然なりに、この州にも雨季があることを思い出してくれている。 今週末も70〜90%のチャンスで雨が到来する予定だ。 

先回のブログから日を開けてしまったが、私の車が小さな事故に遭い、前方不注意の相手車に車体前方を凹まさせられるということが起こった。 年明けまでには再び運転できる筈。 誰も怪我もなかったのが幸いだが、事故以外にも人生は決してピクニックではないことも起こり、そう言えば、誰にも人生がピクニックだとは言われていなかったのを思い出す。 煩わしいこの世の事情に、対処すべくいたが、実際には大事ではないし、なによりも皆健康で不思議にCovidにも見舞われていない。 なにをそれほど思い煩うのかと我に返り、夜来の降雨が続く雨空を窓越しに見て、ふと元気にさえなった。 私の「くびき」は軽く、荷は軽いのだから。

くびき、という言葉をご存知であろうか。 重い荷物を引っ張ったり,運んだりするために,一人またはそれ以上の人間、あるいは牛馬などの動物をつなぐ枠や板のことである。 人間にとってこのくびきは、誰にでもある枷である。 それは健康、貧困、人間関係、などなど様々な枷である。 荷は非常な重みとなって、肩に首に大きな圧力をかける。 その枷、あるいはくびきについて、いつも心に留めている言葉がある。「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽い」とおっしゃった御方は、遠い日に遠い砂漠の地でお生まれになり、もうすぐそのご生誕を祝う日が今年もやってくる。

この世のくびきを抜けて、その御方のくびきを負うということは、その御方の御心を謙遜に実行し,生活の中で主の導きと指示を受けることである。 人々の中には、主の教えには制限事項が多すぎるなどと極めつけることが多い。 この世の果てなき重荷を背負うか,イエスのくびきを負うかを人が自由意志において選択できることは証されている。 この御方の教えが真実であり,この御方に従えば休みが与えられることは証されている。 そうだった、私のくびきはこの世のくびきではないのだ。(参考:マタイ伝第11章28−30節)

この夜長に、気に入っている万年筆と便箋で手紙を書いたり、読書をしたり、翌日の勤務に差し支えがない程度に、夜ふかししながら、日記を開き、「その御方の『くびきは負いやすく、その荷は軽い』」のだ、と記した。 そして、メイルを読んでいて、ある知人の小さな体験を知り、心が温まった。 

今朝出がけに子供がお寿司が食べたい、と言っていたのを仕事帰りに思い出し、夕食用のお寿司のプレイトを注文した母一人子一人の友人は、用意された小さな寿司プレイトの代金支払いにクレジット・カードを出すと、それは拒否された。 

カードが拒否された後、現金もチェックブックも持ち合わせていないことに気づいた彼女は、「すみません、これを持って帰れません。」と言った。

同じく注文した寿司プレイトを受け取り、支払いするのに彼女の後ろで待っていた若い紳士は、小声で「大丈夫ですよ、僕がお支払いを一緒にしますから。」と言った。

彼女はショックを受けた。

そしてすぐに「そんな、ご無理はなさらないでください、」言うと、彼は「ああ、大丈夫ですよ、ご心配なさらないで、どうぞこのプレイトをお持ち帰りください。いつかあなたもどなたかのプレイトを支払うことでしょう。」と言った。

この優しい若者に祝福があるように、と思わずにいられなかった友人は、 その場で泣いて彼を抱きしめんばかりに感謝した。 

その日は特に仕事が立て続けに忙しく、疲れ果てていた友人は帰宅後の家事などをする気力もつき、つい楽にテイクアウトで食事を済まそうと思っていたのだった。 実際店のガラスドアを開けた時、そのガラスに映った自分の姿は、疲れ果てた母親の様相だった。

いつか誰かがこの若者のために彼が行ったような親切をしてくれることと、次は友人が誰かのために前払いすることを願わずにはいられなかった、と友人は強く思ったそうだ。

 

 

エースランド海峡に架かるスウエーデン(右)とデンマーク(左)を結ぶ橋は、車用だけでなく鉄道用でもあり、次男の通勤に不可欠である。 早朝ジョギングを欠かさない次男、この次はボストンマラソン。 この子も「頑張っている」のだった。

 

 

 

 

 

 

 

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