ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

変わらぬ思いやり

2021-06-23 | 恋愛・結婚

 

 

 

30年間結婚している夫婦がいた。 結婚30周年に、妻はいつものように丸い小さなパンを焼いた–毎朝それを焼いてきて、伝統のような物だった。 朝食時、妻はそれを、いつものように上下に切り、両方にバターを塗って、いつものように夫に上半分を与えようとして、手が途中で止まった…

彼女は考えた。「30周年の日に、この良い焦げ色の上側のパンを食べたいわ。 私はこれを30年間夢見てきたのですもの。 それに私は30年間模範的な妻であり、夫のために良い息子たちを育てたわ。 私は家族の幸福のために多大な努力と健康を注いできたのですもの。」

それで彼女は決断をして、夫にパンの底半分の方を渡したが、彼女の手は少し震えていた– 30年来の伝統を破ったのだから。 
夫はパンを取り、彼女に言った:

「今日、君が私にくれた素晴らしい贈り物だ。 30年間、私は大好きなパンの底の方を食べてこなかったのは、それが当然君が食べるべき一番美味しいところだと思ってたからなんだ。」

Eat a humble pieと言う英語の言い回しは、甘んじて屈辱を受ける、と言う意味があるが、30年間この妻は、丸い小さなパンの下半分は取るに足らない部分だと思ってきて、それは自分が食べ、良い部分の(と妻は思ってきた)上半分を愛する夫に食べさせてきたのだった。ところが、夫は、自分の好きな部分、パンの下半分、を好きだと言わずに、30年間妻の好きなようにさせてくれていたのだった。30年経っても、お互いを思う気持ちは、新鮮で、嬉しい物である。

 

 

 

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必要とされる必要

2021-06-21 | 考え方

 

 

 

すっかり水分の枯れた砂漠の熱い砂の中に孤独な木が生えていた。 灼熱のトゲのような砂はその木を覆っていた。 太陽は容赦なく樹皮を燃やした。 しかし、そんな残酷な環境にもかかわらず木は生き続けた。


ある日、鷹が砂漠の上空を飛んだ。 鷹は砂の中に生えている木を見て、その枝に座った。 鷹は砂漠を見回して言った:
「あなたは奇妙な木ですね、なぜあなたは死んだ熱い砂の中で生き続けるのですか? 誰がそんなあなたを必要とするんでしょうか?」


「あなたですよ。」と木が答えた。
「私? 」鷹は驚いた。 「私はあなたを必要としませんよ。」


「けれど、私がいなければ、」木は言った、「あなたは私の枝の代わりに熱い砂の上に座らなければならないでしょう。 私がいなければ、誰かはあなたが一人でただの木に座っているのを見て、あなたがあれにも必要とされていないのだろうと思い、あなたが何のために生きているのかと尋ねるでしょう。 私の枝に座っている鷹さん、私にはあなたは必要だと思います。」


鷹はしばらく考え、木に同意するのが道理だろうと思った。 確かにこの木がなかったら、鷹はこの広大な砂漠の中で孤独で役に立たないと感じていたに違いなかった。

 

砂漠の木と鷹のようにお互いが必要な従姉妹同士。

 

例えばこのグレイヴィ・ボート(グレイヴィ=肉汁ソース)は、ソースを入れるだけしか自分には用がないと思っていても、シンデラやプラスティックのフォークやレゴのピースやお風呂のお供のラバーダッキー(アヒル)やボタンや何かの金具やビー玉やその他もろもろの失くしたら厄介なものが一時的にせよ、避難できる容れ物として役立つ。キッチンのジャンク引き出しに仕舞われたままでいるよりも、ここならシンデレラも威厳が保てよう。ありがとう、グレイヴィ・ボート、必要な物。

 

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人生を楽しむ

2021-06-19 | 考え方

 

 

人生は呼吸の数によって測定されず、私たちの息を呑む瞬間の数によって測定される。

 

二人の友人同士が山に行った。山の中腹に差し掛かったとき、二人のうちの山歩き初心者は草深いルートを見て嘆き始めた。た

「それにしても、ずっと話に聞いていた美しい景色はどこにあるんでしょうね?」

経験豊富な友人は微笑んで答えた。

「私たちはちょうどその中途にいるんですよ。 山の頂上に着くと、あなたはその景観を見るでしょう。」

 

2回目の誕生日を祝うこの2歳児だってすでにたくさん息を呑む瞬間を経ている。おめでとう!

 

 

4歳児も、然り。毎日が目を見張る新しいこと、楽しいことに溢れている。

 

4歳児は「もう一人のおじいちゃん」の片手間牧場で、アルパカやエミュー、馬やポニー、アヒルや鶏と遊ぶ毎日が楽しくて仕方がない。牧場の片隅の果樹園での収穫も面白いし、美味しい。

 

外が華氏75度(摂氏約24度)でもスイスの服装をしたければできる自由を持つ4歳児。

 

ママの出身地の古い昔ながらのモルトショップ(ミルクシェイクに麦芽を加えたシェイクに似た飲み物を売る店)で初のチョコレート・モルトを楽しむ4歳児は、一口飲んだ瞬間、世界は薔薇色になった。それに明るい黄色の太めのストローさえ楽しいと言う。

 

この子はポニーがいなくても、ショップヴァキューム(作業場やがラージで使用するヴァキューム掃除機)に乗れば、楽しさに変わりはないと喜ぶ。

 

はちゃめちゃなもうすぐ2歳は、好物がお口にあれば、幸せである。なくてもこちらのおじいちゃんが大のお気に入りなので、一緒に遊べればこの世は楽しいことだらけ。

 

 

お隣のおばあちゃんがガラージセールで売れ残った小さなベンチをくれたら、早速キャスパーの指定席になった。自分のサイズでお気に入り。

 

同じく2歳になるこの子も、大好きなパパとママと遊ぶのが大好き。特に仮装パーティは最高!

 

海賊がなんなのか知らなくても、楽しいから構わない。あなたも願えばいつか七つの海へ出て行ける将来がある。海賊以外のことでね。

 

年長組の6歳と5歳は、ママの携帯電話でポケモンか、動物の森のゲームを従兄弟同士楽しんでいる。二人は一人がいないと、常に相手がどこか尋ねる。一緒にいることは二人にとって幸せな時間。

   

 

4歳児のもう一人のおじいちゃんは、この子がお気に入りで、オフィスの待合室にかけるポスターはこの孫との写真から作って壁にかけることにした。このポスターを見るたび、おじいちゃんは心が暖かくなる。

 

私や夫にとって、そして各祖父母にとって、この孫だらけの光景は、山頂の景観に勝る。これでスエーデンの二人が加わればもっと素敵な光景になる。

 

 

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Simple, simple, simple

2021-06-17 | アメリカ事情

alltherooms.com

Lund, Sweden

 

次男がスゥエーデン・ルンドからデンマーク・コペンハーゲンの会社への通勤に使うオーレスン・ブリッジを通る電車からの景色。距離にして片道24マイル(39Km) 52分ほど。清々しい窓外のエーレスン海峡の景色をシンプルに楽しめる。

 

 

10年以上忠実に働いていた古いデスクトップのコンピュータが「ついに死んでしまった!」とある友人が嘆いた。まさにある日突然うんともすんとも言わず、とにかくスタートさえしてくれない。コンピューターの修理屋が開いていない時間だったので、友人の娘は、友人にこの際新しいラップトップを購入して交換するように言った。購入後に続いたのは、2日間の純粋な欲求不満だったと友は言う。それは、まるで太古の昔のフォード社のモデルTの運転に慣れていたのに、突如スペースシャトルの飛行操縦に移行するようなものだと形容しつつ言った。

娘が新しいラップトップを設定した後、友人は以前から使用していた古い電子メールプログラムを探した。古いバージョンを新しいコンピューターにダウンロードしようとしても、機能しなかった。その後4人の異なるいわゆるコンピューターSavvyサヴィ(コンピューターに詳しいオタク)と話したが首を振るばかり。つまり全て無駄な努力てあると示唆された。ジャンプドライブで保存した古いストーリーなどをすべてラップトップへ転移送するのももちろん困難だった。ラップトップのいかにも派手な(友人の感想による)新しいプログラムは、まるでアイコンの地雷原で、誤ってそれらの1つに触れるたびに、画面のすべてが変更され、元に戻す方法を見つけるためにさらなる必死な努力が必要とされた。結局、友人は新しいラップトップコンピューターの設定をひどく台無しにしてしまい、娘にリセットをしてもらい、最初からやり直すことができた。やっとその2日後、友人は新しいコンピューターの必要ないくつかのごく簡単なことを実行できるようになったらしい。そして、おそらく永遠に使用しないだろう他の何千もの機能を無視しつつ、古いデスクトップと同じくらい長く忠実に動作機能することを願っているそうだ。

これらすべてから友人が学んだことは、コンピューターと生活に関して、物事をシンプル、シンプル、シンプルに保ちたいということであった。朝起きて急いで真っ先にコンピューターに向かいたくないし、その代わりに、まず愛犬を撫でて外に連れ出し、ここの山の端から太陽がゆっくりと昇るのを眺めたいと思うと言う。子供たちを抱きしめたり、友達と話したり、神様に祈ったりして時間を過ごしたい、とも。自然の鼓動と天の御父の愛を感じたいと言う。ゆっくり、と故意にでも、神聖に日々を過ごしたい。自分の時間と才能を費やして、この世界をより速くではなくより良く機能させたいと思うからだと友人は言った。

人生はそもそもシンプルなものである。愛もそうだ。物事を複雑にするのは他ならぬ私たち自身ではないか。「今日は少し時間を取って、電子機器の電源を切り、心臓の電源を入れてみよう。」と朝起きてまずそう思い、プログラムではなく人になろう。「自(分)撮り」ではない本物の私でいたい。小さくとも何か目的を持って、コンピューターや携帯に惑わされずに、自分の日々を過ごしてみたい。だから、なるたけシンプルに生きていきたい。

人生をなるべくシンプルにして生きていくこと、と、子供達が幼いうちから家訓のように言ってきた母親の私。それはシンプルに日々を大事にして、シンプルに人に親切にし、男女関係においても然り。良い伴侶を穴のあくほど見つめ、本当に大切な人か見極め、一度結婚したら、シンプルに添い遂げ、仕事にしてもシンプルに真面目に働けば良い。家族の運営にも、シンプルに、見栄だの、虚栄だのを蔑ろにして、何が一番大切かシンプルに判断し、子供や伴侶を愛し、シンプルに生活していくこと。そう言うことをシンプルに言い続けると、そのうち、何を決心するのでもシンプルに答えはやってこよう。そうでない場合は、シンプルに、神と対話し、シンプルに神に常に近くあることである。

 

コンピューターにかじりつく事が短ければ、シンプルに家族で近隣のトナカイに会いに公園へ行ける。

2歳児がトナカイに餌をあげることを助けられる。

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再びヴィンセント その2

2021-06-15 | 私の好きなこと

(Image credit: The Samuel Courtauld Trust, The Courtauld Gallery, London)

ヴァンゴッホの「包帯された耳のある自画像」1889年 Credit: The Samuel Courtauld Trust

背景に日本画からの影響がある。

 

 

オーストラリアで生まれたブルックは、日本に移転したときはまだ子供だった。彼の父親であるジョン・ヘンリーは、横浜を拠点とする英字新聞、ジャパン・デイリー・ヘラルドの記者兼ディレクターを務めていた。父は最終的に「横浜の駐在員社会で重要な地位を占めるようになった」と小寺教授は展覧会のカタログ「ゴッホと日本」で述べている。

しかし、ブルックの伝記の残りの部分をつなぎ合わせることが大きな課題であることが判明した。 2年間の研究の後、小寺教授はなんとか神戸市立外国人墓地でこの芸術家の墓を見つけることができた。驚くべきことに、宝塚に住む教授の自宅からわずか30分の距離である。

「ブルックは58歳で何も持たずに神戸に引っ越してきたのです」と教授は言った。 「それはとても悲しい話です。」

同様に、ブルックの仕事の痕跡を見つけるのも困難だった。数年前、教授はカリフォルニア州ラグナビーチのレッドファーン・ギャラリーがE.W.ブルックというアーティストの絵画を販売したことを示す記録を見つけたが、そのギャラリーの所有者は誰がそれを購入したか思い出せないと述べた。 E.W.ブルックの作品は、ロサンゼルスでの2014年の不動産売却記録に登場したが、彼の実際の作品は雲隠れしているかのように探しにくく、また見つけにくいとわかった。

小寺教授は、メイン州からの知らせでブルックの絵がアーティストがいたとされる場所と関係がない場所にある可能性があることに、誰よりも驚いた。ブルックの日本女性と子供のこの作品はまだ完全には認証されていないが(ブルックの他の作品と比較できるものが他にほとんどないため、特に注意が必要な作業となる)、こうした初期段階での兆候は非常に有望である。

この作品の紙に透かしが見つかっており、ゴッホや他の多くの芸術家が使用する高品質の紙を製造したイギリスを拠点とする会社、J・ワットマンの製品であることがわかっている。

小寺教授によると、絵の内容もブルックが描いたものだと言う。帰国後も調査を続ける中、ブルックが住んでいた横浜で、画家の娘と思われる「ウメ・ブルック」と記された墓を発見した。

 

横浜根岸の外人墓地にあるウメ・ブルックの墓石:享年1912年4月12日

URLhttps://www.findagrave.com/memorial/145598089/ume-brooke

 

メイン州で見つかった水彩画の日本女性におぶわれている小さな少女は、6歳で亡くなったブルックの子供で、女性は彼女の母親である可能性が非常に高いと彼は言った。

ブルックに関する検索のターゲットの1つは、ブルックの生活のどこかで、ゴッホとの交友の証拠がさらに増える可能性を追うことである。おそらく、かつてはアーティストからの贈り物であった未発見の作品でさえも隠されている可能性がある。しかし、教授は横浜のブルックの家が1923年の地震【関東大震災】とそれが引き起こしたひどい火災によって破壊されたことを発見し、ブルックの作品も焼滅してしまったかもしれず、それには、今までの期待がへこんでしまった、と言う。

そして今、いくつかの楽観が再浮上したのである。ブルック作品がありそうにもなかったメイン州に見つかったように、どこか思いも掛けないところで、災害や時間によるダメージを逃れて存在しているのではないかと言う可能性が彷彿するのだ。

「これは画期的なことかもしれません」と小寺教授はメールで、「この画家とゴッホの晩年に新たな光が当たるのかもしれないのです」と強調しながら述べた。

*******

付記:

この記事を読み、早速私は手元にある横浜外国人墓地埋葬者リストを開いてみた。観光客がよく訪れる元町の外国人墓地には、ブルックの両親が眠っている。ブルックの赤子、と言う墓石もあるが、これはE.W.ブルックの子供ではなく、別の子供のようで、実際小寺教授は横浜のもう一つの外人墓地、根岸墓地にウメ・ブルックは眠っていると述べた。早速Findagrave.comサイトへ行くと、上記のウメ・ブルックの墓所の写真があった。華やかにさえ見える元町の墓地のような観光はされないが、数多くのウメ・ブロックや、彼女の母親のような日本女性はひっそりとこの墓地にいる。

私はさらにAncestry.comの先祖データサイトで、ブルックは二人の兄がカリフォルニア州中部の小都市ストックトンと南カリフォルニアのサン・ディエゴに住んでいたことを見つけた。そう大昔のことではなく、その二人の子孫は、ブルックの他作品について知っているかもしれないし、また近隣のギャラリーやアンティクショップにメイン州での件のようにひっそりとしまわれていたり、コーナーの壁に飾られているかもしれない。ストックトンは私の住む市から近いし、サン・ディエゴは運転して6時間だが、夫や私が行くことは結構あるのだ。この次のちょっとした遠出の際には、そうした店を覗いてみたいものである。

 

540ページのこの目録本は、私の系図調査にとって一つの大事な道具でもある。

 

”武志”氏による撮影

横浜市中区仲尾台のもう一つの外国人墓地:横浜根岸線山手駅の近くの高台にひっそりとある。

 

 

 

 

 

 

 

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