ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

不信のたとえ話

2018-05-30 | アメリカ事情

 https://www.istockphoto.com

  

これは、深刻な洪水に巻き込まれる不運に遭ったヨセフと呼ばれた好人物についての物語である。


水は彼の周りに上昇し、すぐに彼の膝丈までに及んだ。彼は上階への階段を昇ったが、水はまだまだ上がってきていた。まもなく水は腰まで上がり、彼は窓を見やり、隣人達はどうしているかと考えた。


そこへボートが通りかかり、乗っている人は「おい、ヨセフ! 私のボートに乗って、安全な所へ行こう」と叫んだ。ヨセフは微笑んで答えた、 「ありがとう、私は神と話し、彼が助けてくれるのを待つよ。君は私よりももっとたいへんな状況にいる人たちにそのボートの空いている場所を譲ってくれたまえ。」 すぐにボートは見えなくなった。

 

https://www.cbsnews.com

 

洪水は止まらず、水は上昇し続けた。ヨセフは自宅の屋根の上に昇ることを余儀なくされ、彼は眼下の大惨事を目の当たりにした。ヘリコプターがジョセフの上空を飛び、男がマイクを使ってヨセフにこれから洪水がますます悪化することを伝えた。 彼はヨセフにロープを投げつけて叫んだ。「早く、ヨセフ、まだチャンスがある間に避難せよ!」


それでも、好人物なヨセフは、生涯主に信仰を置いてきていたので、助けの必要な他の人々を探してくれ、と申し出を断った。 「私について心配する必要はありませんよ!」と彼は叫んだ。「私は主に話しました。主は私を死なせません。」

 

ヘリコプターは飛んでゆき、水位は上がりに上がっていった。そしてとうとうヨセフはこの地上から消え去ったのだった。

 

https://www.youtube.com/watch?v=j9o_mWIYMvE

 


先に述べたように、ジョセフは好人物であったので、当然、彼は天国への門へ連れて行かれ、そこで番人の聖ペテロにまみえた。 天国に入ると、両手を広げて歓迎なさる神の許へ連れていかれた。しかし、ヨセフは満ち足りた思いがせず、神に尋ねた。「主よ、私は混乱しています。私は生涯敬虔な信者であり、一度としてあなたがお備えになった道から逸脱したことはありません。 私は死ぬには若すぎたと思うのです。私はお救いください、と祈ったのですが、私の信仰はがっかりするものだったようです。何故主はそんな残酷なことをなさったのです?」


主はお答えになった。「私が汝を失望させた、というのは、どういう意味ですか? 汝を救うために、ボートとヘリコプターを送ったではありませんか。」

 

*****

 

私たちはしばしばお互いを助けようとするが、そんな努力は概ね不信や完全な無関心に遭遇するものだ。 相手方には、信ずること自体存在していない。人々を神の言葉に導こうとする時、そして神の人々への計画へ導こうとする時は、特にそうで、しばしば私たちは伝えたいメッセージを伝えることができない。 「あなたは馬を水のある所に導くことができますが、馬にそれを飲ませることはできません。」(イギリスの諺)と言うが、忠実な弟子として、私たちが努力を続けていくことこそが、主の希望であられるのだろう。


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意義深い再会

2018-05-28 | アメリカ事情

 https://nevma.deviantart.com/art/Golden-Gate-456465459

 

 

自殺に関する話は圧倒的に一般的で、巷には溢れている。 ニュースをつけると、あるいはGoogleに「自殺」と入力するや否や、悲惨さ、うつ病、辛苦、孤独死などの無数の悲しい言葉に襲われるかのようだ。しかし、試みられたすべての自殺がひどい結果で終わるわけではない。 時折、人は人生の暗い淵の底に達しながらも、小さな光がちらつく瞬間を見つけられる。その微妙な瞬間が人生はまだまだ生きる価値があることを実感させる。

 

2005年3月、22歳のケヴン・バーティアはゴールデンゲートブリッジ(金門橋)の手すりを上って飛び降りる準備をした。次に起こったことは、伝説になったくらいだ。


カリフォルニア・ハイウェイ・パトロールのオフィサー、ケヴン・ブリッグスは、かれこれ一時間余り、手すりの端で躊躇している奇しくも同じ名のケヴンに、我慢強く話しかけていた。ラッシュアワーの交通が溢れんばかりに二人を過ぎていく中、オフィサーは、どうにかしてバーティアを橋に戻そうと静かで懸命な会話をしていた。


この時点で、ほとんどの自殺の話は通常終わるが、結論から言うと、現在もバーティアは、安全に暮らし、よく話し、彼を救ったオフィサーは拍手され、誰もが最善を尽くした、とこれを過去の出来事のひとつとしてきた。しかし、これは普通の話ではない。


バーティアは、あの寒い金曜日の朝自分を助けてくれたBriggsのことを決して忘れていなかった。 2013年アメリカ自殺防止活動財団が懸命にバーティアを救ったブリッグスを称賛し、感謝することにした時、ベルティアはこの賞を救われた自分以外に渡せる者はありえないと思った。オフィサー・ブリッグスがベルティアの人生を救ってから約8年後、ベルティアは公に彼に感謝するだけでなく、あの朝ブリッグスが介入していなければ決して存在しなかった2人の子供たちを彼に紹介することができたのだった。


https://listverse.com


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Memorial Day

2018-05-26 | アメリカ事情

 http://onthemat.com

 

墓地を掃除し、墓を飾ることによって祖先を敬うという習慣は、古くからの世界的な伝統だが、今年5月28日のメモリアル・デイ(あるいはデコレーションディ)の起源は不明である。初期のアメリカの田舎では、こうしたことは通常夏の終わりに行われ、ファミリー・リユニオン(家族同窓会)やピクニックの場となった。 南北戦争後、北軍の戦死者を敬うために、愛国心にかなう儀式の必要性が顕著になり、戦死者の記念碑が建てられ、戦没者の墓石を飾り付けるなどを中心とした儀式が全米の町や都会で行われた。


やがて第一次世界大戦後、アメリカのすべての戦争で死亡した人々に敬意を表することに拡大した。メモリアル・ディの起源に関連して25以上の場所が指定されており、州によって異なる日の祝日であったが、1971年、メモリアル・ディは合衆国議会制定法により、統一された国民の祝日、5月の最後の月曜日になった。この祝日のすべてが南北戦争で始まったので、1000を超える写真を含むアメリカ合衆国議会図書館の南北戦争コレクションを訪れて、このイベントの知識を磨きたいものである。

 

このメモリアル・デイの象徴は、赤いポピーである。アメリカの戦死者の名誉を守る証として、ポピーを身に着けるのは伝統的にメモリアル・ディ(カナダなどでは11月11日ヴェテランズ・デイ退役軍人の日)で行われる。 この日を象徴する現代的な赤いポピーの起源は、アメリカ女性、ミーナ・ミカ嬢の考えであった。そしてカナダ人のジョン・マックレイであろうか。


戦争で破壊された戦場では、赤い畑のポピー(papaver rhoeas)が、最初に成長する植物の1つで、その種子は風によって散らばり、地面に着地し、なんらかの理由で地が荒れ、土が割れるようになると、根を伸ばす。第1次世界大戦の非常に残忍な戦いによって地面が荒れた時のように。1915年にカナダ兵士ジョン・マックレイによって書かれた「In Flanders Fields」(フランダースの野にて)という詩からさらにポピーの着用は、鼓舞された。 彼はベルギーの砲兵部隊周辺にある戦死者の埋葬地であった野原で、まるで地からあふれ出た血のように群生するポピーを見たのだった。


今日、ポピーは、回復の象徴としての人生の喪失の象徴であり、又、戦争で身体的または感情的に傷ついた兵士の支援のための、回復と新しい生活への希望の象徴である。アメリカ、カナダ、英国、オーストラリアそしてニュージーランドで、赤いポピーは同じ目的で胸を飾る。

 

 

https://www.almanac.com


In Flanders Fields

by John McCrae, May 1915

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.


フランダースの野にて 


フランダースの野でポピーがそよぐ
我らが横たわる場を示す
十字架の間に 何列も何列も
空を飛ぶひばりは、いまだ果敢に鳴き
地に響く銃音かすかに聞こえ

 

我ら死者、 数日前には
生きていて、夜明けを感じ、夕焼けを目にした、
愛し、愛され、そして今我らは横たわる
フランダースの野に

 

敵との闘いを続けてくれ
弱った我らの手からあなたにトーチを投げる

それを高く掲げてはくれまいか
これからあなたが死ぬ私たちと信仰を破るならば
私たちは、羊は成長するが、眠らないだろう
フランダースの畑で

 

敵との戦いを続けてくれ
弱った我らの手からあなたにトーチを投げる
これからはあなたが高く掲げてくれたまえ
もし我らの信頼をあなたが裏切るのなら
我らは眠れない、ポピーがそよぐ
フランダースの野に

 

 


さて多くの人々がメモリアル・ディとヴェテランズ・デイ退役軍人の日を混同する。 メモリアル・デイは、自国への奉仕で死亡した軍人、特に戦闘で死亡したあるいは、戦闘で負傷・死亡した軍人を追悼し尊重する日である。ヴェテランズ・デイ退役軍人の日は、戦時または平時に奉仕したすべての人々、そして死亡・生存にかかわらずに感謝し、敬意を表する日である。 ヴェテランズ・デイ退役軍人の日は、それがどの曜日でも、11月11日にアメリカでは制定されている。


Susan Walsh/AP Photo


一般には、このメモリアル・デイがアメリカの夏の皮切りで、国旗を掲揚し、墓参したり、ピクニックをしたりする。ひと月少しで独立記念日もやってくる。赤・青・白の季節が始まる。


http://www.nashvillesmls.com

 

The Old Farmer's Almanac
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親切というもの

2018-05-24 | アメリカ事情

これから述べる優しさと思いやりに満ちた行為は、気づかずに通り過ぎることができない。


ガイシンガー・シャモーキン地域コミュニティ病院の緊急治療室から帰宅してすぐ、私は誰かがドアをノックするのを耳にした。立ち上がってドアのところへ歩いていくべきか、それに伴う激痛に耐えられそうにないためにそのまま放っておこうか、と咄嗟に判断しあぐねた。

すると警察/救急車/消防士の無線ラジオの音がして、それならば、とドアを開けに行った。先刻医師とスタッフが、痛み止めの処方箋をくれたが、それを薬局で買うことができずに、一切痛み止めのない状態で耐えがたい痛みに耐えていたのである。私は「この先二週間傷痍恩給が支給されるまでは、ずっと一文無しなんです。ですから処方箋をいただいても、買えません。」と告げたのだった。


ドアを開けると、シャモキン警察の警察官がそこに立っていた。彼は、私がその日早くER(Emergency Room = 緊急治療室)に行きましたか、と尋ねた。
「はい、今朝早くERに行きました。」と私は答えた。彼は続けて私の具合はどうですか、と尋ねた。 「痛いです。非常に痛いです。」

彼は妻がERの看護婦だと言った。そして私に紙袋を手渡し、「妻がこれをあなたのためにと、買いましたのでお渡しします」、と述べた。 「あなたと奥様に感謝します。ありがとうございます。」と私は答え、それを受け取った。そしてドアを閉め、やっとの思いでソファに戻った。 


紙袋には、二瓶の”Extra Strength Tylenol”*が入っていた。たった今自分が受けた優しさ、思いやり、親切が信じられず、私はソファに座って泣いた。


それ以来、ひましに、私の具合は良くなっていった。

リチャード・ユハス

この話はShamokin、PAの地元ニュースとしてNewsItem.comに提出されている。



*Extra Strengthタイレノール(Tylenol)は、ジョンソン・アンド・ジョンソンが販売するアセタミノフェン(アスピリン系ではない)を単一成分とする解熱鎮痛剤の処方箋なしで買える中で効き目の強力なもの。

 

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思いがけない贈物

2018-05-22 | アメリカ事情

 

2年前、私はある都市のスラム街区画を通りかかりました。私は7歳ほどの少年がマーケットスタンドから果物をこそめようとしているのを見ました。痩せた、青白い男の子で、大きな灰色の目と数か月刈られたことのないような毛むくじゃらの黒い髪をしていました。それにしては、彼の服は妙に清潔そうで、片方の肩にバックパックを下げていました。

「食べ物を盗んではいけませんよ、」と、私は彼を私の横にこさせるように引っ張りました。 「代わりにそれを買うようにしなきゃ。」

「できません」とむっつりとして彼は言いました。 「誰も僕を雇ってはくれないんだ。」

「それならば、君自身のビジネスを始めたらいいんではないかな。君は何が得意なの?」

「工作と音楽、多分。」

「どんな工作なの?」 彼は肩をすくめて言いました。「木彫り、彫刻、絵画、粘土模型制作かな。」

「ほら。」 と私は彼に20ドル札を渡しました。「これで君が必要とするものを少し先のダラーストア(日本の100均のような店)で買って、それで作ったものを売りなさい。」 私は彼にその店の方向を示し、彼はそのままそこへの道を行きました。

昨日私はそのスラム区画を通り、その反対側に住んでいる友人を訪ねました。その途中私はその少年を二年前見つけた同じ場所のあたりで、美しい彫刻、木製の模型、粘土の装飾品で埋め尽くされたスタンドの前で、古びたキーボードで「エリーゼのために」を弾く9歳くらいの少年を見ました。彼には観客がいて、彼らはペニーなど少しをその演奏に対して投げていました。その観客の中に私は訪問しようとしていた友人を認めました。 私は声をかけました。彼女は私を見て、少年を指差して微笑みました。 「この子が演奏する音楽は素晴らしいの。キーボードは自分の家から探し出され、見知らぬ人が彼に二十ドル札を渡したと言っていたわ。」

その少年は私に気づき、みんなに注意を喚起しました。 「この人が、二年前に二十ドルと貴重なアドバイスをくれた人だよ。彼がいなければ、僕はスリをして、そのために自分を憎んでいたと思う。」 彼は私に握手をし、言いました。「ところで、僕の名前はザカリーです。ありがとうございました。」

私はその時そこで泣きそうになりました。

 

(匿名の方が経験した話。https://www.passiton.com)

コメント (5)
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