ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

「青い蓮」とハスキーと

2021-02-27 | わたしの好きなもの

inspire21.com

 

 

皆様は、ティンティン(日本語ではタンタン)とスノーウィ(英語・実際はMilouミロウ)をご存知だろうか。そう、ベルギーのコミックでGeorges Prosper Remiジョルジュ・プロスペル・レミの作品である。彼は姓名のイニシャルGRを逆に使ってRGとし、フランス語読みでHergéエルジェとして、それをペンネームにした。日本でも過去「タンタンの冒険旅行」など数冊が出版されているし、アニメ放映もされたと聞く。2007年のスピルバーグ監督によってデジタル3Dアニメーション映画を封切ったことでも知られているかもしれない。

エルジェの画風は比較的シンプルだが、色が綺麗で、私は特に白いワイヤー・フォックス・テリアのスノーウィが大好きだ。数年前に、次男はスェーデンからアメリカへ来る時、コペンハーゲン空港の土産店で、このスノーウィの小さなキーホルダーを見つけ、私に買って来てくれた。息子よ、よく覚えていてくれた、と大喜びした私はかなり単純である。1929年の創作からすでに100年近いが、このコミックはいまだに人気があり、夫はアリゾナで学校図書館のティンティン物の本で育った、と言うほどである。スピルバーグが映画化したのは、案外彼も夫のように、幼い日々エルジェのコミックで育ったからなのかもしれない。

 

 

作者のエルジェの1936年の作品「青い蓮」で、勇敢な少年記者ティンティンがスノーウィと共に中国に旅行し、そこで彼らは日本のスパイネットワークを解体し、アヘン密輸リングを破裂させると言う、日本人としては、微妙な時代背景の物語の是非はともかくとして、注目すべきは、その表紙の絵である。表紙画は、黒い背景に囲まれた大きな花瓶に隠れて、頭上に迫る巨大な浮かぶ赤いドラゴンをのぞき込むティンティンとスノーウィーが、インク、ガッシュ(顔料を使用する不透明絵具)、水彩で精巧なデザインが描かれている。

壮大なドラゴンに直面しているティンティンは、不安な表情をして、今にも襲いかかる可能性のある危険を示唆している。実際の表紙は、このオリジナル絵にある意味不明な漢字らしき文字は使われてはいない。それは当時オリジナル作品を本の表紙として使用するには、あまりにも高価過ぎで大量生産向きではないとされ、結局エルジェの妥協案で漢字らしき文字を削り、色を交換し、ドラゴンの陰影を変え、簡素化した絵が使用された。

 

Photo: Artcurial

エルジェの青い蓮(1936)のオリジナルのカバーデザインは、顔料をアラビアガムの水溶液で練ったガッシュ(不透明な水彩絵具)と水彩絵具の絵画で、何年もの間引き出しの中に折りたたまれていて、その折り線は今でも見えている。

 

オリジナル作品は、編集者の7歳の息子であるジャンポール・キャスターマンに贈られた。作品は折りたたまれて引き出しに入れられ、1981年まで残っていたと言う。そしてこれまで民間市場に出回ったことがないため、非常にまれな作品となった。その後キャスターマンの子供たちは、今年1月14日に「青い蓮」のオリジナル表紙絵をオークションに出した。当初200万ユーロから300万ユーロの売り上げが見込まれていたが、熱狂的な入札が開始されるや否や、その値は200万ユーロを超えた挙句に3,175,400ユーロ(約384万米ドル)で落とされた。この絵が、世界で最も高価なコミックアートとなったのは言うまでもないが、エルジェのティンティンの冒険シリーズのもう一つの絵も、265万ユーロでアメリカのコレクターに販売され、2014年に最も高価なコミックアートの記録を打ち立てている。

「青い蓮」は、ブリュッセルに住んでいた中国の彫刻家兼芸術学生の崇仁(チョンジェン=チャンチョンレン)と友好のあったエルジェが彼に聞いた話を基にしている。崇仁は中国での日本の軍事行動を批判していたが、エルジェはそれをそのまま受け止めて「青い蓮」を制作したのだ。作品中で、中国人に関するヨーロッパの誤解を風刺し、中国での日本の軍事行動を批判しているわけである。しかしながら、エルジェの中国に対する「理解」は、友人としての崇仁からの聞き伝えに憤慨しただけで、実際には彼の意識は、数十年後に問題視された。

1983年にエルジェが亡くなってから数十年間、彼の漫画のフランチャイズは、アジア・アフリカに対する植民地主義者の態度を描写したことで批判に晒された。よく引用される例の1つは、アフリカの人々を幼稚で怠惰な似顔絵として描いた1931年コミックのベルギー領コンゴのティンティンのエピソードにある。ご存知のように、ベルギー領コンゴでのゴムのプランテイションでの原住民の取り扱いは、酷く、規定量の働きや生産をなさなかった者は時に手首から手を切り落とすような処置もあった。

ヨーロッパ植民者は、アフリカ大陸の一部の搾取と植民地化を(白人の義務として)正当化し、彼の絵のように人種差別的な特徴をしばしば採用していたのだ。ここで面白いと思うのは、日本のアジア植民地化を批判しつつも、自国を含む欧米諸国の植民地政策には、便乗していたことである。つまり、白人欧米人の政策は許せるが、アジアの日本が同じ政策を持ってはいけない、と言う二枚舌のようことだ。

こうした矛盾は、当時様々な形で様々な著名人が不思議とも思わずにやり過ごしていたわけである。ジャングルブックのキプリングは、「白人の負担」(The White Man's Burden)と言う詩を米国とフィリピン諸島での紛争において詠んだ。英国のペア石鹸会社は、堂々とそれを石鹸の宣伝に使用し、絵本作家のドクター・スースなどもその範疇に入っていた。ただ注目すべきはアメリカのマーク・トウエインは、そうではなかったことだ。アフリカを暗黒大陸とし、原住民は皆野蛮で無知だから、白人が「面倒をみてやらねばならぬ」と言う根拠のないことを押し進めた欧米に、「野蛮なのは、欧米白人なのではないか」と異論を唱えた一人だった。

そうした背景があっても、アートとして私はエルジェの作品は好きである。昨今BLMを応援したり、差別を排除する努力を多分に要請する社会だが、奴隷制度や植民地主義が大手を振っていた時代も歴史にはあるのだ。だからと言って、その時代の産物を撤廃したり、無視したりすることは、それまた問題だと思う。それが人間の進歩過程の一部であるからだ。歴史から学ぶとは、都合の悪い過去をことごとく捨て去ることではない。

 

*******

 

さて、私事だが、先週火曜日の午後SPCA(動物虐待防止協会)から二頭目のサイベリアン・ハスキーを引き取った。去年12月に一頭を引き取ったが、一頭だけでは寂しかろうと二頭目を探していたのだ。どちらも茶色と白の雌、年齢は1歳少しと見立てられ、両方とも非常に人懐こく、新入りは特に家へ連れて来てから、その青い瞳で私をじっと見つめては、カウチに座る私の膝に前足を置き、微笑むような表情で手を舐め続ける。

下の写真で、「恥の円錐=襟](Cone of Shame)をしているのは、避妊手術を終えてから引き取った新入り。この二頭は、1歳なのに、すでに経産犬である。おそらくパピーファームでパピーを「収穫」するために使用され、使い捨ての如く、それでも保護されることを期待して、SPCAのある道沿いに放たれたと思われる。二頭とも市役所で鑑札を得て、マイクロチップも入れてあり、来月からは、躾をはじめとする訓練をする予定だ。

SPCAは殺処分のない、全て寄付で賄う動物保護施設で、爬虫類、牛馬を含む家畜類、鶏、アヒル、齧歯類などを犬猫と共に保護し、引き取る時には、避妊手術、マイクロチップ、数種の予防接種、ノミ・ダニ駆除、寄生虫管理をし、獣医師がその動物の性格を把握してから、希望者はそれらの費用を支払って引き取れる。

保護犬や保護猫の多くは、雑種であるが、引き取ったこの二頭のように、純粋種も多い。多頭飼育の崩壊や、パピーファームから流れてくる動物も多い。雑種であるか、純粋種であるかは、私にはどうでもいいが、犬種による性格や飼育方針を探るためには、犬種調べのDNAテストが60ドル代から200ドルを超える額であり、サンプル採取は人間のように、口内を綿棒でこすり、それを検査期間に送ると判明する。

私の素人判断と経験から、この二頭は、その比較的小柄な体躯、耳の形状、性格、そして碧眼から、アラスカンではなく、サイベリアン(シベリアン)ハスキーと見る。この犬たちを、初見からもう私は気に入り、初対面では10秒で引き取ることを決意した。ハスキーは、決して扱いの容易い犬ではないが、独特の人懐こさがあり、また手から食べ物を食べる時、決して噛み付くような食べ方をしない。そのくっきりとした表情も、その性格も私は好きである。この二頭は究極は家の中で飼うから、その抜け毛の始末も覚悟している。そのために動物のいる家庭用の最も強い掃除機も入手した。全くもってとんだシニア・プロジェクトである。

 

左がマヤ、右が新入りBoo(ブー)、双子の姉妹かもしれない。この二頭間でアルファは、新入りと即決した。

 

 

参照:

  • Smithonian Magazine, January 15, 2021
  • Wikipedia

 

 

 

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Snow Moon

2021-02-26 | 私の好きなこと

 

 

 

 

私の好きなThe Old Farmer's Almanac(老農夫の生活暦)の1988年号に、ロバート・X.・ペリーという人が寄稿した記事「満月と陣痛:出産民間伝承」という興味深い話を読んだ。この伝承は、私自身も5回出産して看護師や医師から聞いていたし、また先年ここのカトリック病院産科の看護師長を努めて引退した友人のグレイスからも聞いていた。「明日の晩は満月だから、忙しくなるわ」や「一昨日の満月の夜は、次から次へと産科では子供が生まれて大変だったわ」などと話していたのだった。それではまずはペリー氏の話から始めよう。

月の一月(29.5日)の間、月の形は毎日異なる。満ちていく月の見かけの形は、欠けていく月と一致して、完全な円として表示される。一致する2つの形状は、約2週間離れて空に現れ、それは「ムーンメイト(月仲間)」と呼ばれることもある。

第1四半期と第3四半期は仲間で、満月と新月も同様に仲間である。ムーンメイトは、形が相反することに加えて、人間に貴重な教訓を提供している。たとえば、ムーンメイトは、潮汐で証明されているように、地球上で同じ引力を生み出す。

潮汐表の作成中にペリー氏がわかったことだが、月の年齢と赤ちゃんの誕生との非常に興味深い関係があるように見えた。

そしてペリー氏は、3人の子供達と9人の孫の誕生日の月の状態を調べると、3人の子供達は満月から6日目に3人とも生まれ、孫のうち7人はそうした月のパターンに沿って生まれたとわかった。残りの二人の孫は、一人が早産、一人が帝王切開だった。そして隣人二人の家庭でもこのパターンは見られた。ペリー氏自身、もっと精密な検査やデータを集めなければならないと言う。それでもペリー氏は月と関係して誕生があるのを実際に経験しているわけだ。

ここでは満月の日ではなく、満月後二週間以内と言うことである。

さてこうした「伝承」について、反論するのは、ベイビーセンターというウェッブペイジでそのサイトのエデイターをするダリーアン・ホスリー・スチュワート女史である。彼女は「満月になると、より多くの赤ちゃんが生まれるというのは本当ですか?」という問いにこう答えている。

「いいえ、そうではありません。多くの産科看護師や母親は、満月の間に出産が急増すると誓うようにいいますが、科学的研究はその概念を反証しています。統計によると、満月の間に出生(または先天性欠損症)の増加はありません。

1950年代のニューヨーク市での研究では、満月後2週間で出生数が1%増加することが示されました。同じ研究で、満月の前後の数週間で1パーセントの増加が見られました。そして数年後、他の研究者が同じ地域での出生を調べ、満月の前に1パーセントの増加を発見しました。

それ以来、他の多くの研究がその関係性を探してきましたが、説得力のある結果は得られていません。過去10年間の少なくとも6件の研究では、出生と満月の間に関連性は見られませんでした。

2001年に発表された最大の研究では、天文学者で物理学者のダニエル・ケイトンが、国立衛生統計センターからの20年間のデータ(約7000万人の米国の出生)を調べました。彼は満月と出産との間に相関関係を見つけられませんでした。 (ほぼ同時に、フランスの研究者はヨーロッパでの1,450万人の出生を調べましたが、そのパターンさえ発見しませんでした。)

これらの発見は、満月の間に一気に出産することを確信している人々の心を変える可能性は低いですが、偶然をあてにしている場合は、満月に出産することを期待しないことです。ただし、それが予定日でない限り、偶然性はそれほど大きくありません。 (American College of Obstetricians and Gynecologistsアメリカ産婦人科医協会によると、出産予定日に生まれる赤ちゃんは約5%にすぎません。)

何百もの研究が「トランシルバニア効果」(月の満ち欠けと他の現象ー自殺、危機センターへの電話、災害、暴力的な行動、気分の変化などとの関連)も探しており、そこにも相関関係は見られませんでした。」

 

さて私は、夫と私、五人の子供達の誕生時の月について調べてみると、満月の前日に生まれた子供は一人、新月に向けて欠けていく状態に生まれた子供は一人で、満月の二日後、満ちていく月の日に生まれた子供は二人で、満月後15日目と8日目である。一人の子供は新月の日に生まれている。夫は満ちていく13日前に生まれ、私は欠けていく月の間に生まれ、満月9日目であった。こうしてみると、私たちの誕生は満月の2週間前後生まれのようである。9人の孫に至っては、数が多くて端折ることにして。

日本でもこのような言い伝えがあるのだろうか?

ちなみに27日は2月の満月夜である。アメリカ原住民、植民地のヨーロッパ人らによって呼ばれる名前は、雪の月である。これは例年大雪となることの多い2月だからである。実際には、この満月にはたくさんの原住民により呼び名がある。

今月の月の名前は、歴史的に動物と関係がある。 クリー族は伝統的にこれを白頭鷲の月または鷲の月と呼んでいた。 オジブウェ・ベアムーンとトリンギット・ブラックベアムーンは、クマの子が生まれた時期を指す。 ダコタ族はこれをアライグマの月とも呼び、特定のアルゴンキン族はそれをグラウンドホッグの月と呼び、ハイダ族は雁の月と名付けた。

今月の月の名前のもう1つのテーマは、希少性で、 骨の月と空腹の月という名前をつけたチェロキー族はこの時期食べ物を手に入れるのが困難であったという事実の証拠を示している。

こうした何の役にも立ちそうにないほとんど「駄」のつくような知恵を増やしてもどうにもならないが、だから私はThe Old Farmer’s Almnacが大好きで、勿論今年号もすでに買ってあるのだ。

ほらね!

 

萩原朔太郎の「月に吠える」はどの月だったのだろうか。死や哀しみの詰まった詩集は、なんだかこの2月の雪月のような気がする。それでなければ1月の「狼の満月」かもしれない。とても3月の「ミミズの満月」には思えない。あるいは欠けていく痩せ細っていく月だったのだろうか。

 

 
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火の滝

2021-02-25 | アメリカ事情
 
 
 
 
 
 
 
 

我が家に近いヨセミテ国立公園は、毎年2月中旬から数日間世界中から何千人もの人々が訪れ、歓声を上げたり、カメラでその瞬間を捉えようとする。Covid-19禍中でも、それは起こる。

その現象は、馬の尻尾と呼ばれる滝で起こり、日光、滝の水量によって起こらないこともある。晴れた澄んだ空気も必要である。旱魃が発生しやすいシェラネヴァダ山脈でこの「火の落下」を目にすることは毎年とは限らない。だから目にすることができると、歓声を揚げずにはいられない。

「火の落下」は、2月中旬の日没時に約10分間、条件が揃えば、エルキャピタン岩の東斜面に、見られる。

今年2月16日は、多くの観客を失望させた。人々はエルキャピタン東側にカメラを設置し、今か今かとシャッターチャンスを狙っていた。ところが日没時寸前という土壇場で、雲が出始め、人々は落胆のどよめきを発した。オレンジと赤の入り混じった日没の太陽光が滝を火のように燃え立たせ、まるで溶岩が岸壁を滑り落ちるように見えるはずだったのだ。それまでの豊富な日光と温暖な空気は雲が遮断してしまった。

遠くからやって来た人々の中には、この一年在宅勤務をこなし、この機会にシエラに命の洗濯をしに来たという人も少なくない。二回のワクチン接種を終え、長距離旅行もそう不安ではなくなった自然愛好家も多い。

Covid-19による各種の制限規制で、ヨセミテ公園への入場も毎日通常のごく一部に制限されている。そのため、入場者は入場できたことを感謝し、普段に増してより身近に自然の懐を感じ、さらに規制された人数のために、風光明媚な景色をより楽しめたと喜んでいる。「まるでディズニーランドを自分だけのものにしているような気分」と言う人もいる。

2月16日にファイアフォール(火の落下)現象を目にすることができずとも、公園への入場者はほぼ満足していたようだ。

この現象が知れ渡ったのは、実はごく最近のことで、州外者はほとんど知らなかったことである。それが10年も経たないうちに、「ファイヤーフォール」イベントはあまり知られていない奇妙な現象から、ウイルスのように伝播して行った。このユニークな光景を捉えたドラマチックな写真を一目見れば、その魅力が爆発的に人気を博している理由は簡単にわかる。しかし、新たな注目は、マイナスなことも生じさせる。

ここ数年ファイアフォールを見にくる観光客は、国立公園の自然よりも、まるで遊園地の催し物かのように勘違いし、よって公園の植生は荒らされ、メルセッド川沿いの侵食を起こし、川岸は混み捨て場や公衆手洗いと化し、衛生面は勿論、在来の野生生物・植物に害を及ぼす可能性が大きくなっている。

国立公園管理人たちは、駐車場をヨセミテ滝に限定し、入園するための車線を少なくしたり、ファイアフォール観光客は$35の日帰り予約を確保するように指導し、加えて指定されたエリアまでは1.5マイルのハイキングをする必要性を決めた。

幸いなことに、各予約は、一週間有効で、ヨセミテ公園当局は、最近の雪と降雨のおかげで、今年は2月12日から24日まで見ることができるはずだと言う。つまり、観客は「ファイアフォール」を見るチャンスが7回あると言うことである。

ほとんどの予約チケットは2月の初日に売り切れたが、入場の2日前の午前8時からいくつかのチケットが入手可能である。人気パフォーマーのコンサートチケット同様に、国立公園入場予約は、通常数分で売り切れるので、訪問したい人は迅速に行動しなければならない。

たまたま2月の中旬に入園し、たまたまファイアフォールを目撃したとしても、そうでない日が「ついていない」日であるとは決して言えない。頻繁に入園するカメラマンによれば、「ヨセミテでは決して悪い日はない」。

このとても人気のある国立公園は、カリフォルニア州セントラルヴァレーの住民にとって、大きな庭であり、誇りでもある。エルキャピタンとて、ファイアフォール以外にもその美しさは誰もが感動させられる。そして公園を自然に保ち、管理しているレインジャーに感謝することしきりである。

それでは約3分のヨセミテ国立公園のファイア・フォールをご覧あれ。

 

 
 
 
 
 
 
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もしノアが

2021-02-23 | アメリカ事情

 

 

 

今やアメリアだけではなく、世界のあらゆるところで、陰謀説や偽情報が溢れている。アメリカ合衆国でも、Qアノン、ANTIFA, Deep State(国家内部の国家)などなどかまびすしいものに溢れている。これらの定義するところを調べることにいとまがないのが事実で、実はどうでもいいのかもしれない危うさも含んでいる。それが現代社会の魑魅魍魎である。インターネットを媒体にして、今までのいつの時代よりも一瞬のうちにそうした情報が世界中飛び交う。何が正しく、何が誤りであるのか、その判断は個人の自由だが、こうしたことに洗脳されたくはない。覚醒はあっても、洗脳はいらない。そんな中で、先日見つけた記事は、笑えたので、ここに訳してみた。現代ノアが生きていたら、きっとこのようになることは間違いない。

 

*******

 

そして主はノアに語られて仰せられた、「一年以内に、私は雨を降らせ、すべての肉体が滅ぼされるまで、地球全体を水で覆うつもりです。しかし、私はあなたに義人と地球上のあらゆる種類の生き物のうちの2つづつを救ってほしいのです。したがって、私はあなたに箱舟を造るように命じます。」稲妻の閃光の中で、神は箱舟の仕様を伝えた。恐れと慄きの中で、ノアは計画を立てて箱舟を造ることに同意した。 「覚えておきなさい」と主は仰せられた、「あなたは箱舟を完成させて、1年ですべてを乗せなければなりません。」

ちょうど1年後、激しい嵐の雲が地球を覆い、地球のすべての海が激しく荒れた。主はノアが前庭に座って泣いているのをご覧になられた。 「ノア!」彼は叫んだ。 「箱舟はどこですか?」

「主よ、お許してください」とノアは叫んだ。 「最善を尽くしましたが、大きな問題があったのです。

最初に、私は箱舟建設許可を取得しなければなりませんでした、そしてあなたのご計画は建築基準を満たしていませんでした。私はエンジニアリング会社を雇い、計画を書き直さなければなりませんでした。それから私は、箱舟がスプリンクラーシステムと承認された浮揚装置を必要とするかどうかをめぐって米国労働安全衛生管理局OSHAと戦いました。それから、隣人は、私が前庭に箱舟を建てることによって地区制特例許可条例に違反していると主張して反対したので、私は都市計画委員会から有利差異許可を得なければなりませんでした。

それから、ニシアメリカフクロウを保護するために木を切ることが禁止されていたので、箱舟のために十分な木材を手に入れるのが問題になりました。私はついに、フクロウを救うために本当に木が必要だと米国森林局に確信させました。ただし、魚類野生生物局では二羽のフクロウを連れて行くことを許可しませんでした。

大工たちは組合を結成し、ストライキを行いました。誰かがのこぎりやハンマーを手に取る前に、私は全米労働関係委員会と和解を交渉しなければなりませんでした。現在、箱舟には16人の大工がいますが、フクロウはまだいません。

私が他の動物を寄せ集め始めたとき、動物愛護団体が私を訴えました。彼らは私がそれぞれの種類の2つだけを乗船させることに反対しました。この訴訟は係属中です。

その間、アメリカ合衆国環境保護庁は、提案された洪水について環境影響供述書を提出せずに箱舟を完成させることはできないと私に通知しました。彼らは、宇宙の創造主の行動を管轄できない、という考えにあまり親切に応じませんでした。

次に、陸軍工兵隊は、提案された氾濫原の地図を要求しました。私は彼らに地球儀を送りました。

現在、私は無神論者を乗せないことで差別を行っているという雇用機会均等委員会に提出された苦情を解決しようとしています。

個人年金制度事務局は私の資産を押収し、税金の支払いを逃れるために国から逃げる準備として箱舟を建てていると主張しました。たった今受け取ったのは、州からの通知で、ある種の使用税を支払う義務があり、箱舟を「レクリエーション用ウォータークラフト」として登録できなかったというのです。

そして最後に、アメリカ自由人権協会は、神が地球を氾濫させているので、それは宗教的な出来事であり、したがって違憲であると言って、箱舟の建設に対してさらなる差し止め命令を出すよう裁判所に求めました。もう5、6年は箱舟を完成させることはできないと思います。」

ノアは待っていた。空が晴れ始め、太陽が輝き始め、海が落ち着き始めた。虹が空を横切ってアーチを描いた。

ノアは希望的観測を持って空を見上げた。 「主よ、あなたは地球を破壊するつもりはおありにならないということですか?」

「いいえ」と主は悲しそうに仰った。 「私がそうする必要はありません。政府がすでに破壊させてしまいましたよ。」

 

ーpreparingforeternityより

 

Playmobil

 

 

 

 

 

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神聖なる喜劇:茶番というコメディ

2021-02-21 | 調査・探求

beinecke.library.yale.edu

 

 

 

すでに離任したR党大統領を罷免裁判にかけ、大騒ぎの挙句にわかり切っていた無罪判決。それでも完全に打ちのめせしめんと躍起なD政党の茶番劇に、先日読んだSmithonian Magazine(スミソニアン・マガジン=スミソニアン博物館のマガジン)の記事を思い出した。それは700年経て、偉人の子孫が、1302年の祖先の冤罪裁判を覆したいと訴訟したという話である。以下はその抜粋。

 

1301年に故郷のフィレンツェを離れている間、ダンテ・アリギエーリの人生は一変した。
教皇に忠実な政治派閥であるブラック・ゲルフ(グェルフィ党=教皇派)は、市政の政権を握るや否や、ダンテを含むイタリアの詩人・文芸家と政治家をメンバーに数えたライバルのホワイト・ゲルフ(ギベリーニ党=皇帝派)を攻撃した。フィレンツエの支配権を握り、新たに大胆になったブラックゲルフは、街の6人評議会に所属していたダンテを含むホワイト・ゲルフという敵に対して報復した。

ダンテに詐欺、偽証罪、恐喝、横領の罪を着せ、冤罪にも関わらず、法廷に出廷しなかったとして、カンテ・デ・ガブリエリ治安判事は彼に火刑を宣告した。2020年に出版されたガイP.ラファの「ダンテの骨」によると:この残忍な判決に直面し、「いつでもコミューンの権力の範囲内に入る」と、ダンテはフィレンツェに戻ることはなかった。代わりに、彼はラヴェンナの街に定住し、1321年にマラリアで死ぬ前に、絶賛された詩「神曲」を完成させた。

700年後、ダンテの子孫の1人で宇宙物理学者Sperello di Serego Alighieriスペレーロ ディ セレゴ アリギエーリは、詩人に恩赦を求めている。マルコ・ガスペレッティがイタリアの新聞コリエーレ・デラ・セラが報告しているように、アリギエーリとフィレンツェの法学教授アレッサンドロ・トラヴェルシは、ダンテの信念を覆すことができるかどうかを調べる5月の学会会議を主催する予定だ。イタリアの刑法は、最初の有罪判決からどれだけの時間が経過したかに関係なく、無実の新しい証拠が提示された場合、裁判所の判決は改訂される可能性があると述べている。

「あれは政治的動機による裁判であり、私の親愛なる祖先に課せられた亡命と死刑は不当です」と、アリギエーリは、コリエーレ・デラ・セラ新聞で語っている。

ガーディアン新聞のアリソン・フラッドによると、次回の会議では、歴史家、弁護士、言語学者が登場する。
「ダンテに対する判決が通常の司法手続きの結果なのか、それとも政治の毒が為す実なのかを我々に自問することを求めます」と法学教授トラヴェルシはコリエーレ・デラ・セラ新聞に説明する。

ラファムの季刊誌に寄稿したラファは、ダンテがフィレンツェを離れて、トスカーナの土地の併合をめぐってそれを計画していた教皇ボニファティウス8世と会ったと述べている。ダンテと他のフィレンツェ代表団が教皇ボニファスに彼の計画を放棄するよう説得しようとした一方で、フランスの王子シャルル・オブ・ヴァロワは、おそらく教皇の和平工作者としてダンテを派遣した。ダンテたちがフィレンツェを不在にしたことをいいことに、ブラック・グエルフ党がホワイト・グエルフ党政権政府を倒し、本質的に教皇が認可したクーデターを引き起こしたのだ。しかしフランス王子シャルルが街に到着すると、ダンテはまだ戻っていなかった。

ラファムの季刊誌に寄稿したラファは、ダンテがフィレンツェを離れて、トスカーナの土地の併合をめぐってそれを計画していた教皇ボニファティウス8世と会ったと述べている。ダンテと他のフィレンツェ代表団が教皇ボニファスに彼の計画を放棄するよう説得しようとした一方で、フランスの王子シャルル・オブ・ヴァロワは、おそらく教皇の和平工作者としてダンテを派遣して、フィレンツェを不在にしたことをいいことに、ブラック・グエルフ党がホワイト・グエルフ党政権政府を倒し、本質的に教皇が認可したクーデターを引き起こした。しかしフランス王子シャルルが街に到着すると、ダンテはまだ戻っていなかった。

数々の汚職容疑に加えて、ダンテは5,000フローリンの罰金を科され、2年間フィレンツェから追放され、残りの人生の間、市内での職を探すことを禁じられた。 (死刑判決は、これらの容疑で当局に身を明かさず出廷もしなかったため。)1315年にフィレンツェに戻る許可を得たものの、そのために罪悪感を認めて罰金を支払う必要があると言われ、詩人は断った。 この拒否は2回目の死刑判決につながり、彼の刑罰は火刑から断頭刑罰になり、息子のピエトロとジャコポの処刑も含まれていた。(ラファム季刊誌による)

ダンテの最高傑作である神曲は、詩人が地獄と煉獄を旅して天国へ向かっていて、カトリックの贖いのテーマに触れている。詩の大部分をラテン語ではなくトスカーナ語で書くというダンテの大胆な決定は、イタリアの文学と国語の両方としてのトスカーナ語の採用に影響を与えていると考えられている。

1321年9月14日の「イタリア語の父」ダンテの死の700周年を記念して、イタリアの美術館、ギャラリー、図書館が提供するのは、神曲の珍しい絵、詩人の原稿を展示し、彼の「フィレンツェとの劇的な愛憎関係」についてのズーム講義も開かれる。 

 

ドミニコ ディ ミチェリーノによるこの1465年のフレスコ画は、地獄の入り口の横に神曲のコピーを持っているダンテを描いている。(ウィキピイデア)

 

 

 

 

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