ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

くびき

2022-12-04 | キリスト

2週間前の雨。我が家近くで。

 

 

 

昨日は1日降雨で、そうなると紅葉や落葉は一気に進む。 十何年にもなる旱魃が数日の降雨で解消されるとは誰も思わないが、それでも自然は自然なりに、この州にも雨季があることを思い出してくれている。 今週末も70〜90%のチャンスで雨が到来する予定だ。 

先回のブログから日を開けてしまったが、私の車が小さな事故に遭い、前方不注意の相手車に車体前方を凹まさせられるということが起こった。 年明けまでには再び運転できる筈。 誰も怪我もなかったのが幸いだが、事故以外にも人生は決してピクニックではないことも起こり、そう言えば、誰にも人生がピクニックだとは言われていなかったのを思い出す。 煩わしいこの世の事情に、対処すべくいたが、実際には大事ではないし、なによりも皆健康で不思議にCovidにも見舞われていない。 なにをそれほど思い煩うのかと我に返り、夜来の降雨が続く雨空を窓越しに見て、ふと元気にさえなった。 私の「くびき」は軽く、荷は軽いのだから。

くびき、という言葉をご存知であろうか。 重い荷物を引っ張ったり,運んだりするために,一人またはそれ以上の人間、あるいは牛馬などの動物をつなぐ枠や板のことである。 人間にとってこのくびきは、誰にでもある枷である。 それは健康、貧困、人間関係、などなど様々な枷である。 荷は非常な重みとなって、肩に首に大きな圧力をかける。 その枷、あるいはくびきについて、いつも心に留めている言葉がある。「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽い」とおっしゃった御方は、遠い日に遠い砂漠の地でお生まれになり、もうすぐそのご生誕を祝う日が今年もやってくる。

この世のくびきを抜けて、その御方のくびきを負うということは、その御方の御心を謙遜に実行し,生活の中で主の導きと指示を受けることである。 人々の中には、主の教えには制限事項が多すぎるなどと極めつけることが多い。 この世の果てなき重荷を背負うか,イエスのくびきを負うかを人が自由意志において選択できることは証されている。 この御方の教えが真実であり,この御方に従えば休みが与えられることは証されている。 そうだった、私のくびきはこの世のくびきではないのだ。(参考:マタイ伝第11章28−30節)

この夜長に、気に入っている万年筆と便箋で手紙を書いたり、読書をしたり、翌日の勤務に差し支えがない程度に、夜ふかししながら、日記を開き、「その御方の『くびきは負いやすく、その荷は軽い』」のだ、と記した。 そして、メイルを読んでいて、ある知人の小さな体験を知り、心が温まった。 

今朝出がけに子供がお寿司が食べたい、と言っていたのを仕事帰りに思い出し、夕食用のお寿司のプレイトを注文した母一人子一人の友人は、用意された小さな寿司プレイトの代金支払いにクレジット・カードを出すと、それは拒否された。 

カードが拒否された後、現金もチェックブックも持ち合わせていないことに気づいた彼女は、「すみません、これを持って帰れません。」と言った。

同じく注文した寿司プレイトを受け取り、支払いするのに彼女の後ろで待っていた若い紳士は、小声で「大丈夫ですよ、僕がお支払いを一緒にしますから。」と言った。

彼女はショックを受けた。

そしてすぐに「そんな、ご無理はなさらないでください、」言うと、彼は「ああ、大丈夫ですよ、ご心配なさらないで、どうぞこのプレイトをお持ち帰りください。いつかあなたもどなたかのプレイトを支払うことでしょう。」と言った。

この優しい若者に祝福があるように、と思わずにいられなかった友人は、 その場で泣いて彼を抱きしめんばかりに感謝した。 

その日は特に仕事が立て続けに忙しく、疲れ果てていた友人は帰宅後の家事などをする気力もつき、つい楽にテイクアウトで食事を済まそうと思っていたのだった。 実際店のガラスドアを開けた時、そのガラスに映った自分の姿は、疲れ果てた母親の様相だった。

いつか誰かがこの若者のために彼が行ったような親切をしてくれることと、次は友人が誰かのために前払いすることを願わずにはいられなかった、と友人は強く思ったそうだ。

 

 

エースランド海峡に架かるスウエーデン(右)とデンマーク(左)を結ぶ橋は、車用だけでなく鉄道用でもあり、次男の通勤に不可欠である。 早朝ジョギングを欠かさない次男、この次はボストンマラソン。 この子も「頑張っている」のだった。

 

 

 

 

 

 

 

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