ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

スプーン一杯ほどの笑い

2022-05-31 | わたしの好きなもの

 

 

 

世の中、犬派、猫派、その他諸々の動物派とありますが、今日は犬の小さなため息をお聞きください。

箱!箱!と夢中になるのは、猫の専売特許らしいけれど、実際は犬だって、箱は好きなんです。でも猫には誰も勝てません。*Sigh *(はあ〜。)

こんなに一生懸命屋内庭園を作ろうと重労働して疲れ果てても、飛んでくるのは賞賛ではなくて、ママの悲鳴だけです。

犬はいつも健気に「弱きを助け」精神満々です。ワフ!

ご主人様をこうしていつも待ち侘びていますし。

牛のリーダー(のつもり)もできるし。

犬はいろいろ忙しくたち働くので、日暮れには疲れちゃうんです。下敷きがいたなんて気が付きません。下敷きになった先客は、お疲れのあまり文句も言えませんが、ちゃんと目で気持ちを表しています。

これが冬季の犬の理想なんです。

行き倒れにみせかけるのがこのハスキーの趣味ですが、ママが「もういい加減にして中に入りなさい」と叫びます。あ〜あ、唯一の楽しみなのに。

時にはアングリーバードのようにこんなふうにボールになってしまいたい時もあります。

グルーマーに行けば、モホーク(モヒカン)刈にされるだけ。

やっぱり野生の狐はいいなあ。

猫の場合は犬の一生懸命感・観がかなり薄い。

共食いのように居眠るのもご愛嬌だし。

文字通りお金を使ったご愛嬌もできちゃうし。吹き出さずに見られる方は偉いです。

さてこの4つの猫に一つ間違いがあります。どれでしょうか。

ムッシュー・エロキュール・ポアロー。オリエンタル急行でのご活躍は感動致しました。

猫が厭世感に包まれる時さえ可愛らしい。

誰にも会いたくなく、でも誰がいるか見たい時の猫形。

夜風にあたろうと人間が窓を開けると、すぐお顔を出して、「こんばんわ、お元気?」と言う猫も。というより、「この夜風と夜景は私だけのものよ?」感満載。

犬はこんなことはしません。ポケット猫をやっているのは明らかに犬ではありません。

ついでにスギちゃんっぽい方のポケットバニー。

犬は結局猫には勝てない、ね、そうでしょ、デザート(砂漠)アマガエルさん。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠い国の言葉でも

2022-05-28 | わたしの思い

Disney

アリス「ここからどちらに行けばいいのか教えていただけませんか?」

チシャ猫「それはあなたが行きたい場所にかなり依存します」

魑魅魍魎的な世界に、アリスのようにこんな質問もしたくなる。

 

 

6月の北への旅行の航空券手配を終え、ついでに二番目のCovid-19ブースター接種を定期検診も済ませ、オフィスは卒業時期で、多忙に次ぐ多忙の日々も先週でついに終了。 それでもまだまだ学生の抱える問題は尽きず、そうしたことに対処するための電話相談は絶えない。 ブログを更新する暇は、なかなか見つけられずだったが、更新できる時が更新時と割り切り、ストレスを解消している。 否、ストレスはなくなるかと思う頃にどっとやってくるものだ。 

先週は別の場所で発砲事件を起こした者が、警察から逃げ切って1.5マイルほど離れたグローサリーストアまで運転し、駐車場に車を捨て、店内へ駆け込んだようだった。 警察は即時その店舗を立ち入り禁止にし、買い物客を店から出した。その周辺を含めての1ブロックは、封鎖状態になった。 大学の職場からそう離れたところではなく、案の定、同僚の子供がそのグローサリーストアの隣にある学校へ通っているため、学校も1日閉鎖された。 

容疑者がストアの天井に忍び込んだことは、その時点では警察は知らなかったため(警察は探しもせず、犯人は逃げたようだ、と住民の1人はコメントしていた)、うやむやではあったが、封鎖は解けた。 すると2日後の朝、空腹と疲れから、容疑者は天井を蹴破り、店内に文字通り落ちてきた。 そこにはちょうど元警官が買い物に来ていて、容疑者の容貌を知っていたため、早速通報し、素早く到着した警察によって逮捕された。 幸いなことに銃撃戦にはならず、負傷者もいなかった。

つい先だって、小学校近くで銃撃があり、孫息子達生徒と教職員は直ちに教室内のロックダウンに従った。 それも平和裡に終了した。 ところが5月24日テキサス州ユーヴォルディの小学校で起こった銃撃事件は教員2人を含む21人が死亡し、17人が負傷した(5月26日現在)。 結局銃撃犯は、射殺されたが、18歳の若者だった。 射殺された教師だった女性の夫は、その2日後に心臓麻痺で亡くなった。 これは明らかに最愛の妻をこのような形で奪われたことへの傷心からに違いはない。

その後政治家間では、銃規制に関しての意見の差から、醜い口論が繰り返され、パンデミック、インフレーション、物価高、物不足、不法移民問題の無策、多発する犯罪など、現政権の無能さばかりを次々と見せつけられて米国民は、忿懣やるかたなく、末の世の兆候だと絶望気味である。

なにしろその5月24日には、ユーヴァルディだけでなく全米の至るところで30件,銃撃事件が起こっていたし、その前も後もほぼ毎日アメリカのどこかで二桁数の銃撃事件が起こるこの国の現実は考えなくとも耳にし、目にしている。 なんと暗く、苦しい世界であろうことか。

DCコミックスやマーベルコミックスのヒーローたちの名を叫んでもひとりもやってこない虚無感が押し寄せるだけ。 この世は試練の場、ああ、今が心身打たれている状態なのだ、と理解しても心はほぼ冷え切ってしまいがちな人々は多い。 私もそんな1人であるが、こんな時、チシャー猫ではなく、どうしたらいいのか吐露できるお方を知っているのが救いである。

 

救い主的なスーパーヒーロー、というより心をなごまさせてくれる孫娘。

 

以前から疑ってはいたが、私は、おそらくポリアンナ症候群に罹っているのかもしれない。 何故ならば、こうした軋轢ばかりで憂慮の堪えない世の中にあって、ふと口をつく言葉が、Baba Yetuババイェツの歌、であるからして。 スワヒリ語の歌詞で、ほんの17年前、ゲームクリエイターのソーレン・ジェンセンがシヴィライゼイション4というゲームを作り、そのテーマソングをスタンフォード大学在籍時のルームメイトだったクリストファー・ティンに依頼し、作ってもらった。 その曲はアレンジされてグラミー賞も獲得した。その歌詞はスワヒリ語だが、何を歌っているのかというと、つまり英語でいうLord's Prayer、「主の祈り」(マタイ伝第6章6-13節)である。

数多くの合唱団や歌手が、アカペラやあるいは楽器演奏とでリリースしているが、私のお気に入りは、次。 難しいことなくスワヒリ語の美しさを楽しめ、最後には、少しだけ光を見たような気持ちにさえなれる。

歌詞は下記:スワヒリ語、それから日本語。

 

 

Baba Yetu 

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Utupe leo chakula chetu
Tunachohitaji utusamehe
Makosa yetu, hey
Kama nasi tunavyowasamehe
Waliotukosea, usitutie
Katika majaribu, lakini
Utuokoe, na yule, milele na milele

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Ufalme wako ufike utakalo
Lifanyike duniani kama mbinguni, amina

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina
Baba yetu, yetu, uliye
M jina lako e litukuzwe

Utupe leo chakula chetu
Tunachohitaji utusamehe
Makosa yetu, hey
Kama nasi tunavyowasamehe
Waliotukosea, usitutie
Katika majaribu, lakini
Utuokoe na yule msiba milele

Baba yetu, yetu, uliye (Yetu, amina)
M jina lako e litukuzwe (Baba yetu)

Baba yetu, yetu, uliye (Yetu, amina)
M jina lako e litukuzwe (Baba yetu)

主の祈り

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼ばれて

2022-05-18 | 家族

hospitality-on.com

 

 

 

母の日は今年は三男の誕生日でもあった。 長男は手術一辺倒の週末勤務になってしまい、実家に来れず、長女と次女の家族がいつものごとく日曜の午餐にやってきた。 その時次男は、母の日のメッセージを送るとともに、「あ、そういえば、明日からちょっとだけリオに一応出張。」と言う。 リオ、って。。。あのリオ? リオデジャネイロ? 

「そう。クライエントがリオに住んでいて、僕が担当なんだけど、ポルトルガル語がわかるということで特に依頼されたんだ。」 けれど、あなたの勤務するオフィスはコペンハーゲン。 確かに世界的な会社であるけれど、コペンハーゲンからパリへ飛び、エア・フランスでリオへの直行便で11時間ちょっと。 ほぼ11時間ならばサンフランシスコやロサンジェルスから東京への飛行時間とだいたい同じ。 東京帰りは偏西風に乗って2時間は早くなるが。

そんな会話の最中に長女が、それじゃあ、Yerba Mate(イェーバ・マテ)のカップ買ってきてちょうだい、などと口を挟む。次男は弟らしく快諾して、それから家族の世間話を多少し、時差のせいでスェーデンでは夜が更けていくので会話終了。 Yerba Mateイェーバ・マテとは、マテ茶のことでそれ専用のカップである。

15年前2年間住んだブラジルから帰還した次男は、知り合いのブラジル人画家が、ブラジル産の細かに砕いたジェムを使った一種の貼り絵でキリストの復活の朝を描いた作品を抱えて空港に着いた。 持っていった荷物の大半は地元の若い人たちにあげてきて、軽々としたスーツケースのなかには、大事に包んで下の写真のようなカップを持って帰ってきたのだ。

マテ茶というのは、イェルバ・マテというモチノキ科の常緑喬木で、その葉や小枝がマテ茶の原料になる。ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンにまたがるイグアスの滝周辺が原産地だが、成分にカフェインに似たマテイン(カフェイン、テオフィリン、テオブロミンなどの混合物)と呼ばれる物質があり、私たち家族は嗜まないので、次男はもっぱらホット・チョコレートのために使っている。

さて無事にリオに到着した次男は、早速かつてお気に入りだった庶民的ワンプレイト料理を堪能し、ホテルからの窓外のリオの街風景やらの写真を次々に送ってきた。このブログ主(次男の母親=わたし)は、よって今日は息子の撮った写真で楽をしよう。

ブラジルの国民定食と呼ばれる定番食

素晴らしいリオ市内中心部 

ホテルからの眺望

市内中心部にあるオフィスからの眺め。

余った時間で近未来的博物館を覗く。

リオデジャネイロのコパカバーナ・ビーチへも。

コルコヴァドの丘へとコグ鉄道で登る先にはあの御方が。

Cristo Redentor(Christ the Redeemer贖い主キリスト)

コルコヴァドのキリスト像

次男の名は、クリストファー、その息子はリスト、フィンランド語のクリストファーである。その名の意味は「キリストの担い手」。

駆け足出張は3泊4日で強行(母の世代には)だが、早速その土曜日にはいつものように南スェーデンのエーレスンド海峡沿いのジョギングに勤しんでいた。 お帰り、そして君は若い!!

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シエラ・ネヴァダに寄せる ー3ー

2022-05-16 | アメリカ事情

timberlinetrails.com

インヨー郡側のシエラ・ネヴァダ山脈

 

 

マツムラ・ギイチ氏の遺骨との関係性を調べるためにDNAサンプルを提供した彼の孫娘、マツムラ・ロリに、インヨー郡保安官事務所のネイト・デアは、彼女の祖父の遺骨が発見されたと信じていると彼女に連絡した。結局のところ、マツムラ氏は75年近く前(発見時の2019年時点で)に一度発見され、埋葬されていたのだ。

「それはちょっとした再発見でした」と彼女はAP通信に語った。 「何が起こったのかを知っていたので、彼がどこにいるのかを知っていました。祖父がそこにいることを知っていたんです。」

少女の頃、祖母が遠くの山の小さな石を重ねた即席の墓に紙切れの墓標を貼ったそんな写真を見せてくれた。その重ねられた石の下に祖父が眠ると、聞かされていた。

 

Photo: sierrawave.net Charles James

マツムラ・ギイチ氏の1945年に作られたマウント・ウィリアムソンでのオリジナルの墓所

 

「久しぶりに、祖母はその写真を持ってきて、 『そう、この写真があの山から持って来られたあなたの祖父の全てなのよ。』と言うでしょう。そして、私の叔母は、『いいえ、ロリにその写真を見せないでちょうだい』となるでしょう」とマツムラ・ロリは言った。 「その写真は私を怖がらせました。何故なら『ああ、神様、その下に私の祖父が埋まっているんですもの。』」

彼女の叔母のカズエさんは、ロリの祖父が「マンザナーの幽霊」として知られていると彼女に話した。

「今日までも、マツムラ・ロリの祖父は亡くなってはいませんよ」と、2年前に83歳で亡くなったカズエさんは生前マンザナー国定史跡事務所にそう語った。 「私は彼の遺体を見なかったので、彼はどこかに行ってしまっただけなんです。」

 

Photo: sierrawave.net Charles James

マツムラ・ギイチ氏(後列中央)はマンザナール日系人収容所内16ブロックの食堂で料理人をしていた。そのマツムラ氏は1945年山へ出かけ帰らぬ人となった。

 

マツムラ氏が山で亡くなった当時10歳だった娘のカズエさんによると、その頃マツムラ氏の妻イトさんは心配のあまり髪の毛が白い雪色に変わってしまったと言う。

「彼女をとても気の毒に思いました」とカズエさんは国立公園局のインタビューに語った。 「彼女は何も食べられなかったんですよ…それまでは黒い髪をしていたのに、突然真っ白くなってしまって。」

マツムラ氏のばらばらになってしまった遺骨は、彼が行方不明になってひと月ほど経ってから近くのインデペンデンスの町に住むハイカーによって見つけられた。

公園管理局によると、あの釣りハイキングのメンバーはその後、マツムラ氏の妻イトさんが用意したシートの下に遺骸を埋葬するべく山腹の斜面に墓を作るために山に登っていった。彼の遺骸の上に花崗岩を置き、墓碑銘の代わりに紙のメモをその岩に貼り、目印とした。その紙には、日本語で、彼の名前と年齢を示し、「安らかに眠れ」と書いた。

埋葬者は、収容所での追悼式のために、故人の頭髪少しと指の爪を切ったものを持ち帰った。これは、体が戻れないときの仏教の伝統であるとした。

家族の過去の古い傷口を開けるのではなく、この簡易墓所の74年後(2019年当時)の発見は、収容所での人々の話とそこで過ごした時間についてもっと学び、甥と姪にそれを伝えて、家族の歴史を共有したいという興味を呼び起こした、と故人の孫のロは言った。

最近たまたま当時の捜索隊の写真を見るまで、ロリは自身の父親のマサルが彼の父親そしてロリの祖父であるマツムラ氏を探す役割を果たしていたことさえ知らなかった。

彼女の父親マサル氏は寡黙で、ことさらその経験について決して話さなかったし、彼女自身もっと父親に多くを尋ねなかったことを悔やんでいる。祖国に忠実であり続けることを恐れて、11万人以上の日系人(アメリカ市民が3分の2)が投獄されたとき、米国史上最も暗い章の1つである苦難と屈辱に耐えた多くの人々のように、マツムラ・マサル氏は、苦渋に満ちた収容所生活と時代について滅多に話さなかった、と娘のロリは、語ったが、生まれた国からの偏見と差別と無条理な仕打は、その後の人生をそう楽しくはさせなかった。

マツムラ家族がその祖国出身(子供たちは米国市民であったにもかかわらず)故に、ルーズベルト大統領の大好きな大統領令の一つで、強制的に荒地のマンザナールに送られ、収容所に収監されたとき、息子のマサルは高校を卒業する寸前だった。父の死後、マサルは母親と3人の弟妹とでサンタモニカに戻ったときには、一家の長として家族を支えていかねばならなかった。彼は父親と同じように庭師としての仕事をしなければならなかった。

妹のカズエさんは、マンザナール強制収容所での口語歴史伝によると、43歳で未亡人となった母親は2、3の仕事を掛け持ちして働きに働いていた、と語った。

未亡人となったマツムラ・イト氏は2005年102歳で逝去した。彼女は夫の一房の頭髪と彼の名前を書いたものと共に埋葬された。

孫のロリ・マツムラがキャンプについて知っていることのほとんどは、サンタモニカで育った小さな家の向かいに住んでいた彼女の祖母イトさんと叔母カズエから聞いてきたことである。

家族の過ぎ来し方に好奇心が刺激された今、ロリさんは収容所での彼らの経験や彼女の祖父の死が家族に与えた影響についてはもう誰にも尋ねることができない。彼女の父親マサル氏は去年の夏(2019年)、その世代の最後手であるかのように94歳の生涯を閉じた。

「もう少し深く掘り下げて、父からもっと多くの話を聞き出せてたらどんなによかったか」と彼女は言う。 「父はそれについて本当にあまり話しませんでした。もっともっと聞きたかったのですが。」

 

Sierra Wave Media/Charles James

サンタモニカの新しい墓所でご夫婦揃って眠るマツムラ・ギイチさん、イトさん。この墓地にはご子息二人も埋葬されている。安らかにお眠りください。

 

inyocountyvisitor.com

マンザーナールと同じインヨー郡オーエン・ヴァレーにあるシエラ・ネヴァダ山脈ホワイトマウンテンには、古代ブリッスルコーンパイン森林があり、そこには、樹齢4千年を超える地球上で最古の生物の1つの樹木がある。小さく遅く成長する高地の松は、ひび割れたような錆色・茶色の樹皮と5つの束になった短い針葉と棘が先に被ったコーン型の皮を持つ厚い枝がある。高地の強い風、積雪などに耐えてそれでも何千年と生きるこの松を目にするたびに人生こうありたいと思う。そして11万以上の収容所に収監された日系人の生き模様もさもありなんと思い起こさせる。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シエラ・ネヴァダに寄せる −2−

2022-05-13 | アメリカ事情

マウント・ウィットニー山頂付近に咲くスカイパイロットの美しい花

 

 

 

academic.csuohio.edu

 

民主党のフランクリン・デレノア・ルーズベルト大統領は歴代で最多の3721本の大統領令を発しているが、そのうちの大統領令2066号は、通称「防衛上のための(日系人)強制移動の権限」と言われ、第二次世界大戦中の1942年2月19日に署名、発令した。そして米国西部を主に十ヶ所の日系人収容所を建設した。カリフォルニア州ではシエラ・ネヴァダ山脈に沿った西側盆地の北はシスキュー郡トゥーリーレイクに、南はインヨー郡マンザナールに建てた。

 

britannica.com/s

カリフォルニア州インヨー郡マンザナールの荒地にあったマンザナール日系収容所

 

二人のハイカーたちが、最高峰のマウント・ウィットニーに次ぐ高さのウィリアムソン山頂上に向かう途中で遺骨に偶然出くわしたのは、2019年10月7日のことだった。彼らはハイキングコースをはずれ、湖の流域にある花崗岩の岩の寄せ集めのような岩場を通る険しいルートを歩いていた。ひとりが眼下を見やると、骨らしきものを見た。

その日の早い段階で、ハイカーたちはシェパードパスの下に骨の山を発見した。そこでは、2年前に移動する鹿の群れが急な氷の斜面で滑り落ちて死んでしまった場所だと当初は思えた。それで骨はその多くの鹿の残骸であると考えたが、詳しく調べてみると、そこには人間の頭蓋骨があった。

大きな岩を動かしてみると、そこには腰あたりにベルトがあり、足あたりには革の靴が履かれた無傷の骸骨を見つけた。腕が胸を横切っているようにも見えた。

 

Photo by: CHP Inland Division Air Operations ABC10 サンディエゴ局の写真から。

二人のハイカーたちが遺骨を発見したマウント・ウィリアムソン頂上下の水辺近く。捜索・回収に使われたCHP(カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール)ヘリコプター。

 

一人のハイカーはFacebookフォーラムにこの発見について投稿し、靴はロッククライマーが履いているタイプらしいのと、頭蓋骨が骨折しているように見えることから、不正確に判断し、犯罪ではと示唆したのだった。

通報を受け取り、調査とヘリコプターによって遺骨回収をしたインヨー郡保安官は後にAP記者に答えて、これは犯罪ではないが、ただの謎の死因だとだけ述べた。実は彼はその時これが「マンザナールの幽霊」ではないかと予感していたのだった。

あまり知られてなかったが、2012年にコーリー・シオザキ氏によるドキュメンタリー映画「マンザナールフィッシングクラブ」が公開され、それが注目を集めたのを保安官は覚えていたのだった。それはマンザナールに収監されていた日系人男性たちが夜収容所を抜け出して山の湖へ釣りに行ったという話もあった。その「脱走」は時には数週間からひと月にも及んだということだ。

戦争の最終年には、収容所警備塔にはもはや武装した兵士が配置されておらず、人々は自由に収容所を離れることができた。マツムラ家は、他の多くの人と同じように、帰る家も仕事もなかったので、退去には遅れをとっていた。

釣り好きの男性グループがウィリアムソン・ボウルの湖へ釣りとハイキングとを計画したとき、マツムラ氏は自分も同行したいと言った。グループリーダーは、当時マツムラ氏が年を取り(46歳で!)、体調が良くないと知っていたので加わっては欲しくなかったが、結局は彼の同行を許した、とドキュメンタリー制作者のシオザキ氏は語った。 よって1945年7月29日、6人から10人の日系人男性グループは、シエラ・ネバダ山脈に向かった。

厳しいトレッキングをしていたが、ある時点で、マツムラ氏は水彩画を描きたいので、後から合流するからと言ってその地点で皆と別れたようだった。別れた直後、7月なのに突発的に高山特有の気まぐれな異常な吹雪が吹き荒れ始め、マツムラ氏以外は皆洞窟に避難した。マツムラ氏はどうやらこの吹雪によって低体温症を起こして落命したようである。

天気が回復するや否や、収容所からの有志が高山に戻り捜索したが、闇雲に見当をつけて険しいところを歩いたが、徒労に終わった。彼の遺体はその後1か月は発見されず、1945年8月2日(日本では3日)に米国が最初の原子爆弾を投下した直後の数日間は、その悲劇が収容所の人々の上にも影を落とし、やがて日本の降伏となり、マツムラ氏遺体捜索はすぐには再開されなかった。西部の10の収容所で亡くなった1,800人以上の日系人拘留者の1人であったマツムラ氏は特に珍しい死10件のうちのひとつであった。

ひと月少しになってから、マツムラ・ギイチ氏の息子マサル氏が、父親の遺骨を見つけて、没した場所の高山のその地で、マツムラ氏の埋葬を収容所のメンバーと家族とで催した。海抜12,000フィートの人里遠く離れた岩だらけの高山にしつらえられた彼の簡易墓地はその正確な位置と共に人々の記憶から薄れていった。即時に彼の遺体が見つからなかったことから、「マンザナールの幽霊」と家族は呼んだ。遺骨発見が、長い間マツムラ氏の息子マサル氏によってなされたことは、実は、孫娘のロリさえ知らなかった。

 

Japanese American Relocation Collection

      収監されていても日系人は収容所内に耕地を願い出て、耕作をする勤勉さがある。故国に於いても、移住先の冷たいあしらいの国で不当な扱いを受けていても。こうした写真を見るとどうしても目頭が熱くなる。

 

シエラ・ネヴァダに寄せるー3ーへ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする