ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

そのような兄

2019-11-30 | アメリカ事情

crosswalk.com

 

 

 

 

 

友人のひとり、ポールはクリスマス前に兄から一台の新しい車をプレゼントされた。クリスマスイヴにポールがオフィスから出てくると、彼の新しい車の周りを一人の通りによくいる浮浪児のような少年が賞賛しながら見ていた。


「これはおじさんの車ですか?」と少年は尋ねた。


ポールはうなづいた。「兄が僕にクリスマスにとくれたんだよ。」

 

その少年はとても驚いた。「え?それじゃあおじさんはお金を出す必要がなかったってこと?わぁ、出来るのなら…」

 

少年はためらい、ポールはこの子が何を願うかわかった(と思った)。この子はそんな兄を持っていたらと願うのだろうと。しかし、少年が言ったことはポールを踵まで揺り動かした。


「僕は」と少年は続けた。「僕はそんな兄になりたいです。」

 

驚いたポールは少年の顔を見つめ、そして衝動的に聞いた、「私の新しい車でドライブしてみたいかい?」

 

「はい、もちろん!」


しばらくドライブしてから、少年は彼の方を向き、目を輝かせて言った、「おじさん、もしよかったら、僕の家の前まで運転してもらえますか?」


ポールは少し微笑んだ。彼は、この子が大きな自動車で家に乗れることを隣人に見せたかったのだろうと思った。しかし再びそれは間違っていた。

 

「あの階段のところちょうどに車を停めてもらえますか?」少年は尋ねた。そしてその階段を駆け上がっていった。そしてちょっとしてから戻ってくるのをポールは聞いたが、その足取りは早くはなかった。少年はポリオで足が不自由になった弟を抱えてやってきて、一番下の段に座った。そしてぎゅっと弟を抱きしめるかのようにして、車を指さした。


「ほら、これがその車だよ、バディ、上で話したやつだよ。このおじさんのお兄さんがクリスマスに彼にくれたんだって。そしてぜんぜんおじさんは支払わなくてもよかったんだよ。いつか僕は君にこんな車をあげるよ。そうすればきれいな物で飾られるクリスマスのショウウィンドウを自分で見られるんだよ。僕はそれをずっと君に言いたかったんだ。」


ポールは車から出て、その小さな少年を抱き上げ、前列席に座らせた。目が輝く年上の少年も弟の隣に座り、三人は忘れがたいホリデイのドライブを始めた。


そのクリスマスイヴ、ポールはキリストが言った「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)の意味を深く理解したのだった。





 

 

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感謝祭に

2019-11-28 | アメリカ事情

 A depiction of Thanksgiving in 1858, by Winslow Homer. Image courtesy of the Boston Public Library.

 

 

 

感謝祭が設立される前は、アメリカ原住民の収穫祭が何世紀にもわたって祝われ、植民地の人々とのそれは16世紀後半にさかのぼる。 1600年代初頭、マサチューセッツ州とバージニア州の両方の入植者が集まって、それまでの生存、豊穣な畑、そして彼らの信仰に感謝した。 最も広く知られている初期の感謝祭は、マサチューセッツ州プリモスの清教徒のもので、1621年に原住民ワンパノアグの人々と3日間饗宴をした。


感謝祭が国民の祝日となったのには、わずかに異なる理由があった。新しい国の、アメリカ合衆国憲法の創設に敬意を表してであった。 1789年、ジョージ・ワシントン大統領は、その年の11月26日を「公の感謝祭の日」と指定して、アメリカ合衆国と新しい連邦憲法の創設における摂理的な役割として認める宣言を発行した。 当時ワシントンは大統領としての最初の任期にあり、若い国が革命を成功裏に負えたばかりだった。 ワシントンは、「彼らの安全と幸福のための政府の形態を平和的に確立する機会」を与えてくれた神を合衆国民が認め頑張ってように求めた。こうして新しい国の新しい憲法の下での最初の感謝祭が祝われた。しかしながら、感謝祭は連邦政府の祝日ではなかった。 


トーマス・ジェファーソンとその後の多くの大統領は、宗教(教会)と国家の分離に一部基づき、政府の祝日には、公的な宗教的デモンストレーションとなることは適切ではないと感じていたからである。


1863年、リンカーン大統領は、1863年11月26日木曜日に感謝祭とする宣言を行い、それはワシントンの宣言の引き継ぎであった。南北戦争という血なまぐさい軍事的対立の中、ゲティスバーグの激しい戦いに成功したユニオン(北軍)の軍隊を神に感謝したのだった。 彼はアメリカ国民の受けてきた祝福を列挙し、同胞たちに「感謝と神への賛美の日として、11月の最終木曜日を感謝祭とするように求めた。


1939年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、感謝祭を11月最終木曜日から第3木曜日に変更したのは、それが大恐慌時代の最後であり、彼の目論見としてはクリスマス前の買い物日を増やし、経済を後押しすることだった。 しかし、多くは11月の第4木曜日に感謝祭を祝い続けた。1941年、その混乱を終わらせるために、大統領と議会は、今日まで続く11月最終木曜日を最終的に米国連邦の祝日として感謝祭を設立した。


勿論本当の感謝祭の意義は政治的なことではなく、いまでも昔と変わらず、植民地時代のアメリカ原住民の助けや豊作や受けてきた祝福を感謝し、祝うことに変わりはない。今年の感謝祭は11月28日である。


その三日前の11月25日の朝刊に、私のお気に入りのビジネス欄コラムニストのハーヴィ・マッケイ氏の記事があった。以下はその記事である。

********

 

感謝祭のこの季節、私はビジネスのアドバイスから寄り道をし、代わりに感謝に焦点を当てる。その人生の教訓が万人への良き例えとなる、注目に値する、ある女性を知る機会を得たことに、私は非常に感謝している。

  

最近私はミネアポリスのテンプル・イスラエル(シナゴーグのひとつ=ユダヤ教会堂)での礼拝に出席した。そこで友人がある年配の女性を指摘し、彼女に私は会うべきだと言った。彼女が109歳であるのを知って私は驚いた。

 

私はしばしば高齢者を見つけると、彼らに人生の秘密と彼らがどのように忍耐してきたかを尋ねる。だから私はルース・クネルマンを彼女のアパートへ訪問し、そして彼女が一人暮らしで、自炊していることを知って驚いた。

 

ルースには人生から得た教訓が満々と満ちている。彼女はテンプル・イスラエルで読み語りをしてきたすべての子供たちから愛情を込めてグランマ・ルース(ルースおばあちゃん)と呼ばれている。過去少なくとも30年間、毎週金曜日に、彼女は生後18ヶ月から幼稚園入園前の年齢の子供たちの7クラスで読み語りをしてきた。

  

彼女は読書に強い信念がある。読むことは、脳を使い、自尊心を高め、創造性を向上させ、語彙を増やし、ひとりひとりを賢くすると信じ、彼女は自身の息子や孫息子達に読んで聞かせてきた。彼女は新聞のミネアポリス・スター・トリビューン紙を、スポーツ欄を含めて、隅から隅まで読む。

 

グランマ・ルースは、ジェファーソン・コミュニティ・スクールや他の多くの組織でその生涯にわたって30年以上ボランティア活動をしている。何故それほどにボランティアをするのだろうか? 彼女はいつもなにか良いことをしたいのだと言った。「地域にとってなにか良いことをしなければならないのですよ。」

 

 他の人をボランティアで助ける人は、より健康的な人生観を持っていると言われる。そういう人々は敏腕家になる傾向があり、常に幸せであることが報告がされている。ルースはまさにその幸せな人の典型である。

  

 ボランティア活動を通じて多くの素晴らしい友人にルースは会ったことで、彼女はネットワークと友情の重要性を理解している。彼女はそうしたすべての友人にとても感謝し、決してその人々を利用しようとはしない。

 

「友人同士はお互いに寛容で忍耐強くなければなりません」と彼女は言った。 「あなたの親友はあなたの感情を傷つけることができます。あなたはこれを決して忘れませんが、あなたは許します。あなたが攻撃をするなら、あなたは友人を持っているとは言えません。誰も完璧ではないのです。」

 

ルースは次のように付け加えた。「人生はすべてが良いわけではありません。人には浮き沈みが必要です。人は常に沈みよりも浮きがもっとあります。」

  

彼女は、人々にとって現代の大きな問題はストレスだと考えている。人々が運転するのを見れば、毎日それを見られる。彼女は長年病院で奉仕活動をし、ある男性が自分の仕事と上司が嫌いだったために神経衰弱を起こしたのを覚えている。もしあなたが幸せに思えない時、彼女のアドバイスは何か他のものを見つけることだと言う。人生は短すぎるのだ。

  

私はルースに、彼女が大学の卒業生に何を言うか尋ねた:「人々を好きになり、優しくして、そして忍耐強くなければなりません。」彼女はまた、良い人望を持つことの重要性と、たった一つの軽率な行動が一生の良い仕事を破壊できることも知っている。

  

ルースは頻繁にアドバイスを求められると、こう返事する:「知らないということを恐れないでください。すべてを知ることはできませんから。」

 

ルースには素晴らしい記憶力がある。彼女は、いつも人々に会うと、二回名前を繰り返し言ってもらうのは、その名前をよりよく覚えるためだからである。

  

彼女は毎週ブリッジ(トランプ遊びの一種)をすることで頭の働きを鋭敏にしている。彼女は15歳から94年間、そのカードゲームをしている。ジン・ラミー(トランプ遊びの一種)もする。少々お金も使う(つまり賭ける)らしい。

 

 彼女がこれほど長く生きる秘訣について尋ねることに抵抗できなかった私は訊ねた。彼女は言った、「私はすべてを間違えたんですよ。」彼女は遅くまで夜更かしし、朝は早く起きる。彼女は日中遅くに食事をする。真夜中に目が覚めると、コーヒーを飲みながらテレビを観る。彼女は水を飲まず、クラブ・ソーダ(炭酸水、ただし甘味料はなし)を好む。彼女は1錠だけ薬を服用する。 

 

そして彼女は運動の大ファンでもない。彼女によれば、定期的に運動する人はやがて腰と膝の関節を痛め、人工関節置換をする必要があるからと言う。彼女の運動は歩くことである。

 

ルースはどのように人々に覚えられたいか?  彼女は彼女に親切だったすべての人々にとても感謝している。「あなたは人々を好きでなければなりません。あなたは退屈にしていられません。私はいつも何かすることがあります。」

 

私がルースを訪ねていた時、彼女の電話は少なくとも5回は鳴り、まるでグランド・セントラル駅のようだった。そして私が暇を告げると、訪問してきた彼女の別の友人に挨拶された。私の去り際に、ルースはひとつ頼み事をした。「ハグをしてもいいですか? これがいつ最後の抱擁になるかわからないのですもの。」

  

マッケイの教訓:年数を数えるのではなく、 一年一年を大切にすることだ。





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ポマンダー

2019-11-26 | 手作り

recreamaison.canalblog.com 

 

 

 

 

ポマンダーとは?


中世の薬草(漢方)医は、病気予防あるいは剛健と幸運をもたらすために、布袋またはいくつか穴をあけた箱に香草や乾燥した薬草を入れたポマンダーと呼ばれる物を使用した。


「ポマンダー」という言葉は、「アンバーのりんご」を意味するフランス語のpomme d’ambreに由来する。これは、丸い形と、アンバーグリス(竜涎香=マッコウクジラの胆管からの老廃物質で主に食したタコやイカの固い嘴が結石化した―捕鯨が盛んな頃は鯨の胃から得たが、蝋状で軽いので海水に浮き、ごく稀に海岸に打ち上げられる。臭気の強い物質で、は香水の基になるために高価な値がつく)を指している。ヨーロッパでは、ペストが蔓延した時期に「悪い空気」を覆い、浄化するために、アンバーグリスの強い香りのポマンダーが使用されていたと言う。


こんにち、ポマンダーボールはその頃よりもずっと簡単にできる。大抵はクローブが皮の表面にちりばめられたオレンジや他の柑橘系の果物でできる。以下のレシピをご参照あれ。


オレンジとクローブで作るポマンダーボール


しっかりと固いオレンジの皮にクローブの軸を挿していく。クローブを散りばめれば、それでおしまい!


クローブ


つまようじを使用して、クローブの軸を挿す穴を開けてもよい。クローブは幼い小さな手(および大きなの大人の手)を傷つける可能性があるので、先につまようじで穴を開けておけば、簡単にできる。


創造的に、ダイヤモンド、円、または他のパターンでクローブを配置する。オレンジが乾くと、繊細でスパイシーな香りがしてくる。
香りを強くするために、オレンジ全体をクローブで覆い、次に小さじ1杯のシナモンパウダー、小さじ1杯の粉上のクローブ、大さじ1杯の粉上のナツメグ、大さじ1のオールスパイス、1/4カップの粉末オリスルートなどのスパイスを混ぜてそこにオレンジを転がし、一週間ほどそのままにしておき、1日に1回回転しておく。


ポマンダーを吊るすには、オレンジに長いワイヤーを通し、下部に結び目を作り、上部に吊り下げ用のループを作る。あるいは、赤いリボンをポマンダーの周りに結ぶ。


ポマンダーを長持ちさせたい場合は、紙袋に数週間保存する。天然の保存剤であるクローブをたくさん使用すること。クローブはジュースを引き出すので、オレンジのサイズが縮小するため、シナモンパウダーを散布する。


みかんなどの小さな他の柑橘類を使用して、クリスマスツリーのための香りのよい飾りを作成できる。


乾燥したら、クローゼットにポマンダーを掛けるか、サシェット(香袋)のように引き出しに入れてもよい。



cookme-shop.com





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逆境大学へ行く時

2019-11-24 | アメリカ事情

terrylige.com

 

 

 

 

出勤前に簡単な朝食を取りながら、朝刊を読む夫と私だが、先週のある朝、普段は時間がなくて飛ばすビジネス欄にあるコラムに目が行った。それはタイトルが”Time to attend Adversity University”(逆境大学へ集う時)と注意を惹きつけるものだったからである。ざっと読むと、これはビジネス界にだけ通用することではなく、社会一般の年齢も男女も関係なく誰もが生きるために役立つ内容で、夫に聞くとビジネス欄を主に読む夫の気に入っているコラムニストだと言う。このコラムニスト、Harvey Mackayハーヴェイ・マックケイ氏は、1932年生まれの実業家で、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー作家、アメリカ合衆国の新聞雑誌連盟のコラムニストである。逆境に負けずに生きていくお手本は、例えば日本では、路傍の石や次郎物語があるが、双方とも作者の死去により未完だとは言え、十分に学ぶことがある。ここでは、現代社会での打たれ強い生き方のヒントをご紹介。


*******

  

人生において、いろいろな事が私たちに起こるが、本当に重要なのは私たちの内で何が起こるかだけである。

 

私は最近、ミネソタ大学のフットボールヘッドコーチP.J.フレックと座って話す機会があった。私はP.J.に、彼が選手を募るときに何を見ているのか尋ねた。 P.J.は、逆境に直面したことがあり、その若い人生で多くのことを経験した子たちが欲しいと言った。

 

たぶんそれが、(彼が)伝説の大学フットボールコーチである理由であり、長年の友人であるルー・ホルツがこう言った理由だろう:「何か価値のあることをした人を見せてください。私は逆境を克服した人をお見せましょう。」

 

私は、彼または彼女の人生で少しの、または多くの逆境を克服する必要がなかったのに成功した人にまだ会ったことがない。目標を達成できる人が欲しい。競争相手よりも、より強く、より良く、より賢く、より勤勉で、より能力のある人が欲しい。人々が自分自身を信じているなら、達成できないことはほとんどないからだ。

 

成功の秘訣を尋ねられたとき、小売業界大物のJ.C.ペニーは、「逆境。私が苦労して立ち上がることを強いられなかったなら、私は決して何にもならなかっただろう」と答えた。

 

誰もが人生の逆境、痛み、喪失、苦しみに直面する。こうした期間を経て、あなたが感じる感情はほんの一時的なものに過ぎないのを思い起すのは難しい。最善の方法は、これらの時期が訪れたときに何をするかについて計画を立て、再び希望を感じることができる場所ー雲の銀色に輝く裏側へたどり着く道を見つけることである。

 

まず、自分に次のものがあるかどうかを調べる。

 

•人生における言質への個人的な感覚
•人生に対するコントロール感
•適切なときに手放す機能
•強力な個人的サポートシステム
•強い価値感

 

これらの特質がなければ、小さなつまずきでも、すべてを拡大して失敗を引き起こす可能性がある。これらの特性の開発に取り組むことである。


覚えていなければならないのは、交通量、1日の時間数、年齢、他人の気まぐれや反応、そしてもちろん死や税金など、人に制御できないものがたくさんあるということである。


しかし、あなたは、他人への処遇、仕事以外での時間の過ごし方、自己イメージ、感情を共有するタイミングと方法、他の人にあなたがストレスを感じていること、あなたの行動が何歳としてなのかを知らしめることで、遭遇する逆境を最小限に抑えて、いくつかの重要な領域を制御できる。


言い換えれば、ささいなことを大事にすると、突然、大きなことへのより現実的な視点が得られる。


私はしばしば逆境にどう対処するか尋ねられる。私が最初に行うことは、目の前の課題に集中することである。逆境に対処するとき、その瞬間に存在し、留意することが重要である。


二番目は、物事を分解することである。何が重要か? 逆境や挫折に直面したときに圧倒されないようすること。


第三に、すぐに必要な行動を取るが、時間に余裕がある場合は、慌てて結論を出さず、一晩考えてみる。


そして最後に、良き指導者または信頼できる「キッチンキャビネット」(私設顧問団=仲間)を堅実な委員会にすることは常に良いことである。

 

夜の暗闇の中で仕事から家に歩いている男についての面白い話がある。 彼は通りの最近の工事で生じた大きな穴に気付かずに穴に落ちてしまった。そこから出ようとした努力はすべて無駄だったので、彼は隅に身を寄せて眠った。
しばらくして、別の歩行者がすぐに穴の底に落ちた。彼も這い上がろうと苦労した。 疲れ果てて、仕方ない、朝日を待つか、と腰を下ろそうとしたとき、暗闇の中で声がした、「心配することはないですよ。ちょっとやそっとでは抜け出られませんから。」

 

驚愕した男は一瞬のうちに穴から跳び出た!

 

突然に、男がもうちょっと高くジャンプし、もうちょっと努力し、もうちょっと高く登って、苦境を逃れることができたのは驚くべきことではないだろうか? 「夜の声」は、彼が必要とする動機(恐怖・驚愕)だけを提供した。

 

マッケイの教訓:逆境を正しい態度で利点にする。


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日本人になりたかったアメリカ人

2019-11-22 | アメリカ事情

ドナルド・キーン氏、大津市馬場、義仲寺にある芭蕉の墓にて。1955年。(セイキ・キーン所蔵の写真)


夫と私の出会った大学で、夫は日本文学のクラスを取り、私はその教授に授業の合間を縫って働いた。二年目には私も興味があった400レベルの日本文学クラスをEasy A(たやすく取れるA)を取るためにも、履修した。その時よくコロンビア大学のドナルド・キーン教授の書物を読み、彼の知識に圧倒されたりした。日本語や日本文化をアメリカで学ぶ人には、ドナルド・キーンは必ず耳にする名前で、その著作は一度は必ず手にしているはずである。その博士は今年二月亡くなったが、彼についてコロンビア大学機関紙に載った記事をここに掲載する。作者は例の如くポール・ホンド氏である。


 *******

 

アメリカの一流の日本学者、ドナルドキーンを追悼して

このコロンビア大学教授は、選んだ祖国日本と彼の学生のために生きた。

 
 
コロンビア大学を卒業したジャーナリストのフレッド・カタヤマは、日本の記者として5年間働いた後、1994年にニューヨークに戻り、彼の恩師ドナルド・キーンに連絡し、キーンの誕生日に共に夕食を一緒にと依頼した。カタヤマはキーンの日本文学の学部課程を履修しており、恩師を忘れていなかった。二人はキーンの誕生日の夕食に行き、次の25年間、この儀式を繰り返した。
 
今年の2月に96歳で亡くなったコロンビア大学教授のキーンは、西洋における日本文化学の第一人者だった。彼はコロンビアで56年間教鞭をとり、数十冊の著作をした。文学と歴史の間を流動的に移動し、能楽や明治天皇に関する主要な作品を執筆し、友人の三島由紀夫や阿部公房を含む多くの日本の詩人や作家の作品を英語に翻訳した。 1955年に出版され、現在も印刷されている彼の日本文学選集と、記念すべき4巻の「日本文学の歴史」は、日本文学についてあまり馴染みのなかった西洋人に恩恵をもたらした。
 
しかしカタヤマにとっては、キーンの学識に個人的な意味あいがあった。 60年代にロサンゼルスで育ったカタヤマは、日本の伝統をむしろ恥じていた。たまたまコロンビア大学で、キーンのクラスを受講し、文化「風景とポートレート:日本文化の鑑賞」という彼の著書を読んで、日本文化のはかないものへの審美主義の原則を理解し始め、さらに探っていったのだった。 「彼は日本への私の目を開かせたのです」と、カタヤマは言う。
 

「ドナルドは、どんな西洋人よりも日本について多くのことを知っていました」と、コロンビアの歴史学教授の一人キャロル・グルックが言う。
「彼にとって、日本文学は世界文学の一部であり、それを日本語で読む必要はありませんでした。 彼は私たちに日本文学を愛する方法を教えてくれましたー興味を持つだけでなく、それを批判するだけでなく、それを愛するために、です。」

1986年に設立されたコロンビアのドナルドキーン日本文化センターのアシスタントディレクターのヨシコ・ニイヤは、「キーン教授は、小柄で、静かに話す、穏やかな方でした」と述べている。「でも講義では、彼の愛と情熱の満ちた雰囲気を感じることができました。」

キーンはブルックリンのフラットブッシュで育ち、16歳でコロンビア大学に入学し、ギリシャとフランスの文学を学んだ。 「ドナルドは早熟だったが、コロンビアは彼を知的に形作った」とグラックは言う。 「彼は感じやすいティーンエイジャーが核心に出会ったときに何が起こるかの完璧な例です。」

キーンは、詳細に語ることを好んだ。それによれば、「日本」との最初の接触は1940年に学部生としてタイムズスクエアの書店のショーウィンドウを通りがかり、広大な11世紀の世界初の小説と言われる源氏物語の一冊49セントのコピーを見たときだった。そのバーゲン品に惹かれて、彼はそれを買った。そしてヨーロッパの野蛮な文化よりも、キーンは、光源氏のロマンチックな陰謀と平安時代の宮廷の絶妙な礼式に没頭した。そして1941年12月7日、日本は真珠湾を爆撃した。米国は戦争に突入した。

平和主義者であるキーンは、1942年2月にアメリカ海軍日本語学校に入学した。 そこで彼はセオドア・”テッド”・デ・バリィ(同じくコロンビア大出身)に出会い、二人は通訳としてハワイに送られた。キーンは捕虜を尋問し、死んだ日本兵の日記を読んだ。戦後、彼はコロンビア大の日本研究の主流である角田柳作(コロンビア大に日本文化研究所設立し、そこのキューレイターでもあった)のもとで大学院へ進むためにコロンビアに戻った。彼は1955年にフルタイムで教え始めた。

教師として、キーンは、時間を厳守し、ジャケットとネクタイを身にまとい、教える課題に喜びを感じながら、ノートなしで講義し、学生に自分の洞察についてを直接伝えた。 「私たちは皆、彼をセンセイ『先生』と呼びました。」と、コロンビア大学C.V.スター東アジア図書館の元館長のエイミー・ハインリッヒは言う。「”センセイ”は教師・先生を意味しますが、それは敬意の言葉でもあります。彼は生涯、私たちの先生でした。」

キーンは2011年の春コロンビア大学で最後のクラスを教えた。翌年、彼は帰化して日本国民となり、東京に常在して生活する日本人となった。 「最初は私の祖先とは関係がなかった日本人、私の文学の趣味、あるいは自分自身を一人の人間として認識していた日本人は、私の人生の中心的な要素になりました」とキーンは彼の回想録クロニクルズオブマイライフ(私の人生の年代記):日本のこころに書いている。

昨年8月、カタヤマは「愛する先生」の自宅を訪問した。二人は近くのレストランに行ったが、あいにくレストランの定休日だった。しかしレストランのオーナーはキーンのために店を開き、キーンのお気に入りの食事を作ってくれた。 「ドナルドは天皇と皇后について話していましたー彼は両殿下を知っていらして、両方を愛していましたね。それから彼の親友である故テッド・デ・バリィに関する本を仕上げつつある、と言い、もうそれ以上研究はしていないと言いました。それは聞いて私は悲しく思いました。」

晩年の数ヶ月で、キーンは多くの友人訪問を受けた。 「彼はとても疲弊していたように見えました、」とグラックは言う。「それでも最後まで、彼が一番会いたかったのはかつての教え子たちでした。」

キーンは今年2月24日に心不全で亡くなった。彼の死は世界中で話題になった。 天皇と皇后は葬儀場に花輪を送った。 4月、東京での公開追悼式には、ハインリッヒを含む1,500人が集まった。 そして、ニューヨークで、フレッド・カタヤマは、彼が日本のもつ無常の美しさを発見するのを助けた先生に敬意を表して、ドナルド・キーン・センターに寄付をした。


 

 
我が家の書棚にもあるキーンの著書
キーンの著書は、非常に理解しやすく、彼がいかに聡明な書き手であったかがわかる。


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