ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

北へ

2022-06-30 | 家族

Photo courtesy of David Rosen

 

 

時々その意味もわからないで、なにかに導かれるように行動することがある。別に犯罪的な意味合いではなくて、もっと普通のことで、そんなことを経験なさった方々もいらっしゃるだろうと思う。そしてその行動の後で、理由をはっきり知ることがある。カール・ユングなら、それはただのsynchronicity(シンクロニシティ=意味のある偶然の一致)と判断するのだろうが、信仰を持つ者には、それが「ただの」偶然の一致ではないことが多々ある。特にそれが生死に関わることになると。

私は通常6月に旅行はしない。大学は夏学期に入り一月目で、仕事は一段落しているが、秋学期の支度をするには絶好の時期で、ヴァケイションを取るなら、暑い盛りの7月末か8月、北の姉を訪問するのは、義兄の命日である9月30日前後にしている。それなのに今年は、5月にすでに6月の北への航空券を入手し、先日旅を終えた。

訪問してから2、3日経って、朝姉が起きてきて言うのだ。「まるで雲の上を歩いているような気持ちがするのよ。」そして話し方がどことなくはっきりせず、アルコール類を嗜まない人の呂律が怪しくさえ聞こえた。テーブルに着く姉のそばへ寄り、その腕をつかんで私は、「今からER(救急救命室)へ行きましょう!検診と検査でなにもなくてもそれは安心料と思えばいいのよ。」と言って、躊躇する彼女を車に乗せた。

ERの病室では、ただちに心電図や血圧計やら装着され、その数値が刻々とモニターに映され、その高さに驚いていると、医師がやってきて、瞳孔検査をしながら、「おそらくマイルドなストロークがあったようですね」と言った。その後広い一人部屋の病室へ移された姉は、MRIやCTスキャンやエコー検査などの様々な機器が病室に持ち込まれ、血液採取や、またIV(静脈内注射によって生理食塩水とともに降圧剤などを注入するため)の針が腕に刺され、またたくまに入院患者の体裁となった。

ことの発端はそのひと月ほど前に、ナースプラクティショナーが、姉が毎日血圧ケアのために摂取していた子供用アスピリンを「もうお辞めになっては?」などと申したので、辞めていたことらしい。その頃ニュースでは高血圧を制御するアスピリンは、人によっては胃潰瘍、胃癌を発生するので命取りになるかもしれない、という科学者のコメントが報道されていたのだ。そのつけは、たちまち牙を剥いて姉を襲ったようなものだった。だから、別の医師の二次、三次の意見を聞くのは、大切なわけだ。

医師や看護師は、症状が出始めたごく初期に姉をERに連れてきたのは大正解で、たまたま私が訪問していたことが姉の命を救えた理由だ、と話してくれた。その時、初めて今この時期に私がここへ来なければならないとほぼ焦って決心した理由ではないかと気がついた。

姉はつい最近ホンダのパイロットの新車を購入したばかりで、それを初めて私が運転することこそ、心臓麻痺を起こしかねない私だったが、留守にした姉の家には、二頭のオールドイングリッシュシープドッグと一匹の猫がいて、その世話のため、入院することになった姉を残して夜半に帰宅した。

結局その夜に325ミリグラムのアスピリンを摂取するよう処方され、その他諸々の薬の処方箋を手配され、様々な処置をされた姉はようやく翌日夕方退院となった。大きな一人部屋の病室にはピクチャーウィンドウがあり、そこからは遥か彼方のオリンピック半島の山脈がまだ残雪を乗せていた。

今まで背中は悪いが、健康に恵まれてきた姉は一番ショックを受けただろうと思う。口数も少なくなり、食欲も減退し、これからの食事に憂いを覚えるような困ったような表情をしながら、姉は、「せめてこの子たち(二頭の大型犬と一匹の猫)を最後まで見てあげなきゃいけないわね。」とつぶやいた。そして森のある裏庭を見遣って、「ああ、鹿の餌を買わなきゃ。」と言った。そんなことを聞いたら、多くの果樹を庭に植えている隣人たちは「狂気の沙汰」に思うのだろうが、森の奥の境界フェンスをひらりと超えて庭へやってくる小鹿や親子鹿が給餌器から溢れ落ちた鳥の餌を啄むのを見ては、哀れに思うのだ。

鹿用の餌や牛馬用の固形塩を置く店へ行って重たい餌の袋を二つ買いに出かけた。すでに野鳥の餌はガラージにスゥエット(牛や羊の腎臓付近の脂に種子を入れて四角な固形状にした餌)を含めかなり蓄えている姉宅である。野鳥はまるで商品見本のように、キツツキは大中小数種類がやってくるし、そのほかの野鳥もとにかく色とりどりにやってくる。

リスも大中小と3種類がやってきては用意してあるピーナッツを食べていき、残すまじと最後まで口にためて運んでいく。白頭ワシ、オスプレイ、そしてグレートホーンドと呼ばれる大きめの耳をたてたような大型フクロウも姉の森には住んでいる。そうした猛禽類は、野鼠やドブネズミ、はたまた子ウサギなどを獲物にしている。

まるで白雪姫の生活環境に一人住む姉である。大学生の頃私は夏にやってきてはポーチやパティオにハンモックチェアを置いて、木々を渡る風の音や小鳥の鳴き声に耳を澄まし、ぴょんぴょんと飛び回る子ウサギや鹿を目の端に湛えて日がな1日読書して過ごしたものだった。

そうすることは姉の「冒険」後の静養にはうってつけのように思える。一人きりの家だが、実は母を気遣い助ける孝行息子のような隣人が常に姉の様子をチェックし、一週間に一度は必ず食事を共にし、買い物の際には何が必要か尋ねてくれ、グローサリーストアで、ワサビのチューブを見つけては、気を利かせたつもりで買ってくる。その隣人の16歳の娘と14歳になる息子のふたりは週末には家の掃除をしてくれるし、冬には薪を用意して、きっちりとパティオの端に置いていってくれる。

現金を決して受け取らない父子家庭の人たちに、姉はちょこちょことアマゾンのカードを送っている。姉と亡き夫は子供がなく、今まで多くの人々を親身になって助けてきたのが報われているのかもしれない。同じく未亡人となった弁護士の妻も子供がなく、姉の人生のかけがいのない友人で、こまめに姉を見守ってくれている。

そんな素晴らしい人々が遠くに住む妹たち(一人は日本在住)の心苦しさを少なからず和らげてくれる。遠くの家族より近くの他人、とは本当にあたっている。人の字のごとく、人間は実に頼り、頼られているもので、心からありがたい。

私自身が帰宅する前日には、姉の食料品を仕入れ、軽く掃除をして、家事をこなしてから床についた。翌朝、空港へのシャトルバスに揺れながら、窓外に万年雪(氷河も含む)の厚いベイカー山の勇姿に目を奪われながら、やがて機上の者となり、夫の待つ我が家へ向かった。

当初はわけがわからない気持ちで馳せた姉宅だったが、今はその気持ちに従ったことを喜んでいる。帰宅一番に、夫は、”I'm glad that you heeded the warning."「君が『警告』に従ったのは良かったね。」と言った。そんなことはあるのだ。

 

常連の面々

 

 

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悲しい共通分母

2022-06-18 | アメリカ事情 人間性

honorsociety.com

 

 

【注:長文】

 

今年6月1日にデイリー・シグナルというニュースに、ジョシュア・アーノルド記者がテキサス州の小学校での銃乱射事件の悲惨な結末に関して、「父親:集団銃撃事件犯の人生から欠落している家族の構成要素」という記事を載せた。 それが以下の要約である。

*******

上院民主党は先週、テキサス州ユヴァルデでの大きな犠牲者数を出した学校乱射事件に対応してさらなる銃規制法を検討したが、共和党はそれだけの対応が実際にこの深刻な問題に適宜に対処できるかどう疑問視した。

「なぜ私たちの文化は、罪のない人々を殺したい多くの若い男性を突然のように生み出しているのですか?」マイク・リー上院議員(ユタ州選出共和党)は尋ねた。 「父親のいないこと、家族の崩壊、市民社会からの孤立、暴力の美化などが要因になっているのではないでしょうか?」

リージェント大学法学部の家族法教授であるリン・マリー・コム氏は、「ワシントン・ウォッチ」というトーク番組で、マイク・リー上院議員の述べた事柄が、絶対的に乱射事件に貢献している要因だとした。 「家族の状態は大きな違いを生みます。」と彼女は述べる。少年暴力犯罪に関する広範な調査の結果、5つの「暴力を振るこれらすべての少年に共通する分母」のリストをまとめた。

1.「親の関与がほとんどない。」コム氏は、こうした少年たちの両親は、息子が誰と付き合っているのか、または友人が誰であるのかを知ろうと十分な時間を息子たちと一緒に過ごしていなかったと説明した。会話、趣味、その他の親子・家族としての活動のいずれであっても、両親はことごとく「子供の生活に関与していない」のだ。そして、特に警告を発するような兆候が現れたとき、こうした両親は自分達の子供に対して無知か、不信感を持つ。 「こうした両親は自分の子供を大変に怖れているのです」と彼女は言った。

2.「子供に対するある種のストレス。」コム氏が特定するように、いじめは一般的なストレス要因だが、それだけではない。子供たちは自分でストレスに対処する手段を持っていない。両親はストレスをいかに管理するかを子供に教えるという必要性があるにもかかわらず。自分の子供が親を必要としている、とさえ思いつかない。

3.「一人でかなりの時間過ごす。」怠惰につながりかねない孤独は子供に「暴力への過激さを増加させる時間を残すことです」と彼女は説明した。他の人を大切にすることや、過激な考え方を持たず、それに抗えるように行動できるように教えられるコミュニティの利益から切り離されている。

4.「真実の感覚と道徳」。 「彼らは何が正しく何が間違っているのかを本当に知らないのです。誰も子供に指し示さないのです」、とコム氏は説明した。道徳教育は長い間公立学校から追放されており、多くの家庭も同様にそうした教えに不足しています。親は子供に不正か正しいかを教える根本的責任を負うことになっていても(旧約聖書申命記 6:7)、多くの親はこの義務を怠っている。

5.「反省の信じられないほどの欠如。」コム氏はこれを「最も憂慮すべきこと」と呼び、「良心に最も衝撃を与えることです」と言う。これらの若い男性は自らの良心を凍結したかのように、「最も凶悪な犯罪を犯す前に、ことの良し悪しを判断し、少年を一時停止させさえしないのです。伝えられるところによると、ユヴァルデの乱射犯人は普段から理由もなく人々の車に卵を投げつけたり、BB銃で通りすがりの人を撃ったり、自分自身の顔を切り付けたり、動物を虐待することを自慢し、複数の拳を振り回して殴り合いをし、女の子を脅し強姦し、人間を殺すことについても話していたそうです。」「親や保護者に無視されてきたすべての若者が銃撃犯になるわけではありませんが(自由意志による自身の言動の選択は言うまでもなく、ストレスと孤独も要因であることも考慮のうちに入れて)、暴力への道はまず父親の不在から始まるようです」。

「多くの子供たちは、父親が我が子らと関わっていないために憤慨して成長していきます」と、家族研究評議会の会長であり、「ワシントンウォッチ」トーク番組のホストであるトニー・パーキンスはエペソ人6:4(父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼を育てなさい)を例えにして嘆いた。父親は「自身の子供たちの生活に存在し、成人期への移行を支援している」わけではない。

5人の子供を持つパーキンス氏は、良い父親であるということは、「単に肉体的に存在しているだけではありません」と主張した。それは感情的・精神的に関与し、子供の生活に従事していることです。」

コム氏は、「父親がいない場合でも」、子供にはその成長期に子供たちに「介入できる人」(子供の存在を真に気にかけ、舵取りの助けをしてくれる人ー兄、叔父、伯父、祖父、保護者など)が必要だと同意した。

父親は子供の幼いうちから関わり始めなければならない。 American Worldview Inventoryという調査会社によると、ジョージ・バーナ博士(市場調査会社を設立、さまざまな宗教と社会の関係を研究する社会科学者)は「13歳までに、子供の世界観は、ほぼ完全に整っていくのです」と述べている。

次世代を担う子供たちを育てる責任は、国家ではなくまず(父)親と家族にあるはずだが、そこに政府の政策が何の役割も果たさないという意味ではない。

「親の権利の復活、親の関与が必要です」とコム氏は述べた。「親の権利に対する攻撃的なことがあり、親は無力なものだと感じ、子供を守るために何もできないことになってしまいます。」

この無力感は学校に於いて特に深刻であり、政府は親を締め出し、子供の幸福に関する情報を親から隠しているように見える。

「政府の介入は両親を困惑させました。 自分の子供を育てることに消極的で、恐れてさえいる一部の親たちを、政府はさらに混乱させているようなものです、政権や政治家は親の力と権威を奪いました」とパーキンス氏は言った。

それでも、「本当の質問をする勇気を持っている政治指導者はほとんどいないのです」と彼は続け、多くの人が「同じ古い話に重点を置き、つまり『銃の制御規制、精神的健康への支出の仕方』を探すのに躍起になっているのです」、と付け加えた。 その間、若者世代は、成熟するまで成長する方法を教えるはずの良い父親の存在不足のために苦しんでいる。

したがって、次にある青小年が生きることに、社会に訳のわからない怒りを持ち始め、それが煮詰められると、無実の民間人にその怒りをぶつけたくなるのだ。そうなると人々の疑問は「彼はどこで銃を手に入れたのか」ではなく、それと同じくらい関連性のある質問を持たねばならない。つまり「彼はどこで父親の姿を失ったのだろうか?」なのである。

*******

この記事を読み、私の脳裏に彷彿としてきたのは、1968年日本で起こった4名の犠牲者を出した連続射殺事件の被告永山則夫だ。1968年の犯行は原審での死刑に始まり、事件当時未成年だったことが考慮の一つにあり、無期懲役になったが、結局は1990年逮捕から21年後に再び死刑が確定した。1997年永山は死刑に処された。その犯行も残酷だが、それ以上にまるで胸に風穴が開いたような暗澹たる気持ちになったのは、永山の凄惨な生い立ちで、父親の不在を原点として彼はどんどん破滅への道を転げていったことだ。

その永山則夫は、育ってきた家庭環境(子供を守り育て正しい選択のできる人格を形成する努力や義務を怠った父親の不在と欠落は顕著である)が、おおいな犯罪要因であることは間違いない。彼にやっと人としての人格を立て直す機会を与えたのは、死刑とつながった刑務所生活だったわけだ。悲しすぎはしないか。

そんな悲惨な過酷な人生を歩ませるか、あるいは慈しみながら制御のある道徳を持たせ、人らしく生きていく力を与えるか、それは親の最初のそして究極の子供への責任であり、ギフトでもある。誰でも生物学的に、養子縁組で、あるいは里親としてでも親になれるが、真の父親、母親は、強い意志を持ち授かった命に道理・道徳を教えていく覚悟や決心や愛情がどれだけ必要なのか、永山事件当時、未だ学び舎にあった私でさえ、若年ながら強く感じたものだ。

昨今の日本における親の乳児・幼児・児童虐待・殺人は、本当に心が引き裂かれる。親として資格試験が必要なのではなどと過度なことを思わず考えてしまうほどだ。親という意味は、決して軽く考えてはならない。

今年の父の日は6月19日、その日に限らず、毎日の終わりには、常に私の父や夫の父、そして夫へ、あるいは私たちの息子・義理息子たちに、父親として人道を外すことなく、その役目を十二分に果たし、むしろそれを喜びとしていることを心から感謝したい。そして英雄の陰には女あり、のごとく父親を支える母親への感謝も忘れまい、そのつながりが生物学的であろうが、法的つながりであろうが。子供は親への天からの授かりであり、親は子供を預けられて存在しているのを忘れたくはない。

願わくば1日の終わりには、子供が親(保護者)に託されている命であることを感謝したい。

 

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我が家の6月

2022-06-16 | わたしの好きなもの

visitcalifornia.com

カリフォルニア、特に中央部の夏の恵!!

 

晩秋、今年の初春の思いがけない雨がいくつかあったせいか、今になっても木々や地面の緑は、みずみずしく涼しげな様子を見せている。だが、相変わらず西部州の旱魃は解消されず、ユタやカリフォルニアのダム湖の水位がさらに異常低下しているため、電力不足が起こり、輪番停電は避けられない模様である。暑く乾燥しきって草が擦れただけで発火するここ数年来の盆地の夏は、今年もすでに山火事の季節を起こしている。先週末は100度少しの暑さだったが、不思議なことに今週は例年よりも少しだけ涼しい。特に今週は最高気温もせいぜい90度台止まり。つかぬまの爽やかな6月を楽しむ。

6月に入ってから、三男一家は一年住んだ州からマサチューセッツ州へ引っ越した。三男は6年間学び得た知識と学位が有効に使えるバイオテックノロジー(生物工学・生命工学)関係職の申し出を受けたのである。教職にあったため、学年最終日の翌日には、住んでいた州を後にして東部へ向かった。マサチューセッツ州へ行く前には、この家族の習慣化した、最終目的地までにあちらこちらに寄って観光するのを再び始めた。もちろんニューヨーク州クーパーズタウンのアメリカ野球殿堂博物館にも寄り、サンフランシスコ・ジャイアンツ贔屓の孫息子を大いに喜こばせた。

三男一家はいざマサチューセッツへと風になびかれて。

 

先週末妻子を連れて無事ここ中央カリフォルニア州まで夏季の里帰りのため飛んできて、息子はトンボ帰りでボストンへ戻った。この月曜日が出勤初日だったので、夫が電話で聞くと、意気軒昂に声を弾ませて、おおいに豊富を語ってくれた。この息子は非常に鷹揚な子で、物怖じせず、誰にでも気軽に話しかけ、仕事は熱心にするので、自分にあった職を得て、親はどれだけ安心したことか。

 

物価はカリフォルニアに比べて安く、州境のあちらのセールスタックス(消費税)の付かないニューハンプシャーのコスコへ出かけたところ、ガソリンは1ガロンあたりほぼ$2カリフォルニア州より安かったそうだ。ちょっと前までは東部は西部に比べて生活費はもっとかかるのが当たり前だったのだが。

長男の一人娘も今月プリスクールを「卒業」し、花の5歳孫娘トリオ(長男、次男、三男の長女たち)は今秋からそれぞれ幼稚園である。

「うち」のマーメイド・プリンセスはプリスクール卒業!

 

長男も11月末で2回目の長いフェローシップを終え、角膜専門眼科医として完成する。始めた時には10年近くの果てしなく見える長い道のりに、私でさえ、ため息をついたが、それも終りに近づく今、その月日の経つ早さに驚く。結婚と同時に医学部に入り、卒業年に待望の子供を授かった。その子ももう5歳なのだ。

医学部卒業後カリフォルニア大学医学部提携病院でインターンシップに始まり、次はフロリダの眼科専門病院のフェローシッププログラムに入り、小児眼科やヴェテランズ病院で通算7年間の診察、治療、多くの外科手術をこなし、現在の南カリフォルニアの大学病院でのフェローシップの仕上げが11月でとうとう終了する。万歳!その日には長男はぐっすり枕を高く寝られることだろう。

再びフロリダに於いての仕事の申し出もありがたいことにすでにある。フロリダへ移るとなると、冬でも暖かなビーチを恋うる5歳孫娘の願いは叶う。マーメイドになりたくて、夏の間に、せっせとスイミング・レッスンを欠かさないプリンセスである。

秋から幼稚園へ行くマーメイド

 

次男は次男で週60時間(於オフィスと自宅オフィス)は働き、南スゥエーデンの自宅とコペンハーゲンのオフィスを電車通勤している。その合間に4月はパリマラソン、今月はストックホルムマラソンを走り、ベルギーとリオデジャネイロへ出張している。かつては、その姿も態度も(ははは)スケートボード少年だったこの子も、今や働き盛りのマラソンマンである。アメリカだけでなく、日本からも遠いところにいるこの孫たちは、特に5歳の孫娘は、しっかりとハローキティのクロミを知っていて、彼女にとっては、世界はより狭いらしい。

娘と息子と妻と妻の両親という心強い応援団付きでストックホルム・マラソン

 

先週末の土曜日はハムレットのクロンボー城のあるデンマーク・ヘルシンオアへ日帰りの

家族サーヴィス。対岸はスエーデン。

 

そして私たち夫婦の近くには二人の娘たち家族がいる。長女も次女も同じブッククラブで読書を楽しみ、育児にいそしんでいる。 長女は、先週末から南加へ家族旅行で行き、子供たちをナッツベリーファームや博物館で楽しませ、親子4人でアナハイムのエンジェルス球場へメッツ戦のために行った。

 

ナッツベリーファームのキャンプ・スヌーピー

 

エンジェルス・スタディアムのあそこに見えるはヤクルトマン!

 

ヤクルトとの撮影が気に入った孫。

 

席は前方だったが、孫たちはNosebreed と呼ばれる天井桟敷席、つまり最後方、てっぺん席を希望した。すると見晴らしはよく、影になるところで炎天下の試合を、涼しく見学できたそうだ。そのメッツ戦には大谷さんはおやすみで、ファンになったばかりの長子の孫息子は、がっかりしたが、ヤクルトマンを見られたし、エンジェルズの野球帽を買って貰い、パネルの大谷さんの横で写真も撮れたし、なにしろロサンジェルス市立博物館で、三葉虫化石を手に入れられたこともあって、上機嫌だった。あら、なんだ、私とそう変わらない楽しみ方。

メッツファンの父親はメッツの帽子を被せたが、このあと、エンジェルスの帽子を得た兄孫。

 

はちゃめちゃ弟孫は、あとふた月ほどで3歳だが、初めての球場でヤクルトマンがいたのを見ておおいに気に入ったらしい。エンジェルスはいつものように負けてしまったが、孫たちの父親は大のメッツファンなので特別気分の良い日だった。

末娘の夫は昨年の司法試験合格後、父親の事務所でしばらく働いていたが、最近同じ市にある弁護士事務所に働かないかと誘われて、早速雇用された。面白いことに、この夫は、一人息子と同じ年の従兄弟トリオ(次男、長女の二番目の子)や長女の兄息子や三男の長子に非常にモテる。それは彼がサンフランシスコ・ジャイアンツのファンで、ゲームの知識豊富で、いわば男の子たちのアイドル的存在である。やっと結婚7年目の7ヶ月目に、「うち」の七番目の孫として生まれてきた息子も来月には3歳になり、この子は長いセンテンスも喋られるし、食べ物に好き嫌いはなく、健やかに成長している。波打際でわざと転ぶのが面白い同じ年の従弟よりも、貝を拾う方を好む子である。孫もいろいろ選り取りみどりで、それぞれ祖母は楽しませてもらっている。

パパはヒーローで、ママはいつも一緒にいたい人。

 

食糧貯蔵用のピントー豆をローテイトするため、古目の豆を大きめのプラスティック容器に入れ、そこへ小さな子を入れ遊ばせると、実に嬉々として、写真でもおわかりのようにT-シャツの中にたくさん豆を入れて喜んでいる。グランマ(つまり私)のアイデアで、私も一緒に遊びたい。。。ちなみにこの豆は、食用にも使う。この孫はポークアンドビーンズが大好き。ただし、こうして遊ばせられる子供はなんでも拾って口にいれない年齢でなければならない。

 

駆け足で我が家の6月を忘備録として書いた。あちらこちらに散らばる息子家族たちや近くでも育児に一生懸命な娘たちであるが、抜け殻に属する夫や私は、なんとか生きながら得ている。思うと、Covid-19 にも罹患せず、4度のワクチン接種のおかげなのか達者なものだ。それにしてももういい加減ウィルスも退散してくれまいか、とウィルスを前に一喝したいものだ。

日本人は几帳面だし、人に迷惑をかけたくない一心で、きちんとマスクをつけているが、欧米ではほとんど無装着だ。そしてどこが一番人口に対して罹患率が低いかといえば、その几帳面さと律儀さが勝っている日本ではないか。

欧州はともかく、マスクがいくら疫病蔓延を阻止する有効防具と知っていても、息苦しい、銀行強盗じゃない、と頑固に避けるのは、アメリカ独立戦争や建国時のあの有名な言葉が実はいまだに人々の心に根付いているからに違いない。その言葉とは、英国支配に対するパトリック・ヘンリーの有名な演説の締めくくりだ:Give me liberty, or give me death! 「自由を与えよ。然らずんば死を」

やれやれ。

 

 

 

 

 

 

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本当のLet It Go

2022-06-12 | アメリカ事情

ehorses.com

 

 

 

1991年にニューヨーク州北部で生まれたZippy Chippy、ズィッピー・チッピーは、競争馬サラブレッドの王族血統を持って生まれてきた。誕生時この馬の将来の成功は確約されたかのように見え、1964年にカナダ産馬として初めてケンタッキー・ダービーを制したサラブレッドで20世紀で最も成功した牡馬ノーザン・ダンサーの再来かと期待されていた。ところがこの馬には、燃えるような闘争心は見当たらず、むしろ花の好きな平和なあの牡牛、フェルディナンド・ブル*だった。レースに勝つためではなく、100連敗したことで記録を保持し続けた。
 
*「牡牛のフェルディナンド」(Ferdinand the Bull)は1938年製作のディズニー・アニメーション映画。原作はマンリー・ローフ・文、ロバート・ローソン絵の絵本『はなのすきなうし』(日本では光吉夏弥訳で岩波書店から発行)。

牡牛のフェルディナンド (1938年ディズニー)

 

この馬は勝利に近づくことさえもなかったが、それなのに、多くの人々の心を獲得したのは何故なのか。

ズィッピー・チッピーは、2022年4月15日に、引退馬牧場で、その31年の生涯を終えたが、100戦100敗という肩書きのつくこの馬を多くの人々は愛してやまなかった。 先月5月6日にはニューヨーク州のグリーンフィールドセンターでは、この馬の友人やファンが多く集まって最後の敬意を表した。

Ron Thompsonのフェイスブックから。

ズィッピー・チッピーの追悼式

 

ケンタッキー・ダービーの優勝者であるノーザンダンサーの孫であり、競馬ロイヤルファミリーに生まれたズィッピーは当初、史上最高の競走馬の一頭であった可能性があった、もしレースの開始時にだけ、他の競走馬と共に走り始めたならば。

ところがズィッピーは、誰も(人も馬も)が何故そんなに急いでいるのかを完全には理解していなかったらしく、その結果、参加していたすべてのレースで負けたため— 100レース中100敗(または、マイナーリーグの野球選手との駆けっこに負けたことを数えると101敗)ということになり、史上最悪の競走馬の記録を打ち立てた。

1995年に1988年型フォード社のトラクターと引き換えにズィッピーを譲り受けたオーナーで、トレイナーでもあったフェリックス・モンセラーテは、ズィッピーを家族の一員として扱い、忠実な仲間意識があった。 数年前故人となったが、モンセラーテは、決してこの馬を否定せず、諦めなかった。

「ズィッピーは私の息子のようなものです。私はこの馬が本当に大好きなのです。彼が走るたびに、私の気分を良くさせてくれます」と生前モンセラートは「CBSサンデーモーニング」に語った。

オーナー亡き後、ズィッピーは、ニューヨーク州北部のキャビンクリークにあるオールドフレンズ引退競争馬農場でその余生をこの4月15日に逝くまでのんびりと過ごした。 

「勝つことが当たり前で、すべてである競馬で、ズィッピーは負けることは普通のことだと教えてくれた」と感傷的にその馬を愛した人々は言う。 常に己を持ち、己の哲学(馬の)に基づいて生きてきたズィッピーに、多くの人々は皆自分自身を見ているかのように見ていたのだった。ズィッピーが何を望んでいたとしても、彼はいつも自分自身であり続けた。

Zippy Chippy / Credit: Samantha Decker

レースに勝ったことのない馬は多くの心を勝ち取った。

 

ケンタッキー・ダービーで、重要なのは馬のスピードだ。 しかし、ズィッピーは、優勝のバラの花束を求めて走る以上のことが人生(馬生)にあることを私たちに思い出させてきた。 時々、ただ立ち止まって花の香りを嗅ぐ余裕が良い場合だってあるのだということを教えてくれたのだ。

tvo.org

フェリックス・モンセラーテと彼の馬ズィッピーは、おそらくサラブレッド・レースで最も堅固な関係があった。

 

 

 

 

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103年前に

2022-06-10 | 考え方

joom.com

ポケット電話?

 

 

 

英国の漫画家で風刺画家のW. K. ヘイゼルデンは、「ポケット電話」と言う漫画小片を1919年3月5日付けのデイリー・ミラー紙のために描いた。

当時この漫画家は時代を先取りしていることで知られていた。

ウィキペディアによると、「ヘイゼルデンは、ファッション、カメラフォン、フェミニズムなど、未来がどのようになるかについて大胆な予測を行うことで、当時の社会的および技術的傾向をしばしば風刺・揶揄していた。」とある。

この漫画のタイトルは「私たち全員がポケット電話を持つとき」であり、現在はほぼ彼の予測通りになっている。

 

W. K. Haselden / The Mirror

汽車に遅れまいと走っている時、汽車の中で両手が塞がっている時、赤ちゃんを渡された時、結婚式をつつがなく行っている時、ポケットの中ではリンリンとポケット・電話は鳴るのです。日常生活の中で最も厄介な瞬間に必ずや(ポケット電話は)鳴るのです!

 

かなり正確な予測である。

彼が予測していなかったのは、電話をサイレントモードにする機能だった。

 

 

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