Lady Justice, ユースティティア
「まともな」人生と感じられた生涯を送った後、地球上でのある男の時間は終わった。その後、彼が最初に覚えているのは、裁判所のようだと思えた場所の待合室のベンチに座っていたことである。ドアが開いて、彼はその部屋に入り、被告席テーブルのそばに座るように指示された。周りを見回すと、「検察官」が見えた。「検察官」は彼をじっと見つめながら、唸り声を上げた悪意のある男だった。あの男は間違いなく彼が今まで見た中で最も邪悪な者だった。
席に腰を下ろして左を見ると、その外見がとても馴染みのある親切で優しい見た目の弁護人がそのある男のために座っていて、男は彼を知っていると感じた。
角のドアが開いて、裁判官がひらひらと流れるようなローブを着て現れた。彼が部屋を横切って席へ行こうとしたとき、素晴らしい存在感を示していた。その男は彼から目を離すことができなかった。ベンチの後ろに座ったとき、裁判官は「始めましょう」と言った。
検察官は立ち上がって、「私の名前はサタンです。この男が地獄に属している理由をお見せするためにここにいます」と言った。
検察官はその男が生きている時に言った嘘、盗んだこと、過去に彼が他人をだましたときのことなどを話し始めた。サタンは、かつてこの男の人生にあったその他の恐ろしい倒錯やこじつけやらについて話した。そして彼が話すほどに、男は自分の席の下に沈みこむような気持ちだった。サタンがとうのその男本人でさえ完全に忘れていた罪について語り、男はあまりの恥ずかしさでたまらなくなり、彼自身の弁護士をさえ見ることができなかった。
サタンは滔々とこれらすべてのことを語っていたのに、そばに静かに落ち着いて座っていた男の弁護士にさえ、なにもサタンに返す言葉がないのかと動揺した男だった。自分はそれらのことで罪を犯したことを知っているが、人生でいくつかの良いこともしてきたのだ–それは男がした害の少なくとも一部を補うに匹敵することなのではなかったのか?と男は感じた。
サタンは怒りをもって終わり、「この男は地獄に属しています。彼は私が起訴したすべての罪を犯しており、他の方法で証明できる人はいない」と言った。
男の弁護士が自分の番になると、まず最初に裁判官の前に近づいていいかどうか尋ねた。裁判官はサタンの強い異議があるだろうことを理由に弁護士に許可を出し、彼に前に出るように手招きした。彼が立ち上がって歩き始めたとき、男はこの弁護人の完全な素晴らしさと威厳を見ることができた。そして彼がなぜそんなに親しみやすいように見えるのかを理解した。これはその男の主、そして救い主であるイエスだった。
彼はベンチに立ち寄り、裁判官に「こんにちは、父上」とそっと言った。それから彼は法廷で演説した。 「サタンはこの男が罪を犯したと言ったのは正しかったです。私はこれらの主張を否定するつもりはありません。そして、そうです、それらの罪の報いは死であり、この人は罰せられるに値します。」
イエスは深呼吸をして、腕を伸ばして父の方を向いて、続けた。「しかし、この人が永遠の命を得ることができるように、私は十字架で死にました。彼は私を救い主として受け入れたので、彼は私のものです」と宣言した。
この男の主は続けた。「彼の名前はいのちの書に書かれており、だれも私から彼を奪うことはできません。サタンはまだ理解していません。この男は正義の結果を与えられるべきではなく、むしろ慈悲を与えられるべきです。」
イエスが腰を下ろすと、しばし静かに言葉を止め、父を見て言った、「他に何もする必要はありません。私はそれをすべてやりました。」
裁判官は彼の強大な手を持ち上げ、槌を机上に叩きつけた。彼の唇から次の言葉が鳴り響いた…「この男は自由です。彼の罰はすでに全額支払われています。訴訟は却下されました。」
主がその男に次になにをするのか手順を教えてくれたとき、サタンが「わたしはあきらるものか、次の人のケースに勝つだろう」と怒鳴り声を上げているのが聞こえた。
その男はイエスに、次にどこへ行くべきかを教えてくれたので、「あなたは裁判で負けたことがありますか?」と尋ねた。
キリストは愛情を込めて微笑んで言った、「わたしのところに来て、わたしに彼らを代表するように頼んだ人は皆、あなたと同じ評決を受けました。 『全額支払われた』と。」
B. Kershisnik ”Divine Intervention" (天の介在)
神の言葉はしばしば私たちに、Be Stillじっとせよ、と聞こえるような気がする。それでも、この忙しい世界で、ただ立ち止まって熟考する時間を見つけるのは難しい、あるいは難しいように思える。
友人のブレント・ハイアーにとってのそれは、踏切で列車が通り過ぎるのを待っている間、一瞬の静けさが訪れた。しかも、その時、まるで神はブレントに強力なメッセージを送るためにそのタイミングで、ラジオから流れ始めた歌を利用したようだった。
ブレントは、踏切遮断機の赤いライトが点滅している手前で車のブレーキをかけて停車したとき、ちょうど仕事の会議に向かっているところだった。その会議予定時間に間に合うのに十分な時間があったので、踏切でのちょっとした遅れは気にもならなかった。彼は静かな車内で列車が通過するのを待ちながら、想いにふけ始めている自分に気づいた。
踏切で誤って電車によって轢死した同僚の記憶を呼び戻した。ブレントは、その悲劇的な事故から何年が経過したかを思い起こし、その経年数に驚いた。
「彼と僕は実際に同じ職場でも正反対のシフトで働いていたので、彼がイエスがもたらす自由な救いと恵みを受け入れたことがあるかどうかなどを知るほどに、よく彼を知ってはいませんでした」とブレントは回想しつつ語った。
ブレントはその友人についてずっと疑問を持ち続けていた。彼には信仰があったのだろうか? キリストを救い主として受け入れていたのか?
これらの質問への答えを知らなかったので、ブレントは引き続き思い巡らし始めた。心は痛み、徐々に落ち込んだ気分になった。
そこで仕事の会議に向かおうとしていたことを思い出し、自分の気分を変えようと、ラジオをつけた。すると、ラジオから流れてきた歌は、神からのヒントなのではないかと感じられ、彼の気分は一気に高揚した。
その亡くなった友人はエリック・クラップトンの大ファンだった。そう言えば、ブレントはその亡くなった同僚がエリックは世界で最も偉大なギタープレーヤーだと話していた日のことを思い出した。
ブレントがラジオをつけた瞬間、エリック・クラップトンの曲「ティアーズ・イン・ヘブン」【天国の涙】の冒頭の言葉が流れてきたのだ。「わたしが天国で君に会ったら、君は私の名前を覚えているかな?」という歌詞で始まる歌。
「この亡くなった友人がキリストを受け入れたかどうか、私はもはや疑問に思いませんでした」とブレントは言った。 「こうした神の介在を通して、私は自分への答えを得たのです。本当にそう思います。」
神は多くの方法で私たちに語りかける—時には信仰を持たない人が偶然に過ぎないと呼ぶ方法で。そしてそれが、いまだ起こることがとても重要なのである。もしただの偶然と思うなら、あなたはそれを見逃しているだけなのかもしれない。
The Choir Boys クワイヤーボーイズ
"Tears in Heaven" by Eric Clapton
エリック・クラップトンは、4歳の愛息を高層階のアパートからの転落で亡くし、長い間自宅に籠り切りで、やがて哀悼からこの曲を作った。原題は、直訳で「天国の涙」だが、この曲風・歌詞に寄り添うのは、「天国の君へ」、「愛する天国の君へ」などではなかろうか。
英語や日本語訳での歌詞については、次のサイトへご訪問ください。
<歌詞和訳>Tears In Heaven – Eric Clapton 曲の解説と意味も | LyricList (りりっくりすと)
Eric Clapton - Tears In Heaven エリック・クラプトン - ティアーズ・イン・ヘヴン 199...
LyricList (りりっくりすと)
ーサンプソンインディペンデント2017年11月13日付けメル・ジョンソン記者
blackwelljournaltribune.net
復活祭(イースター)は、色付けされた卵を探すゲームではなく、チョコレートのウサギでもなく、大騒ぎをする「お祭り」ではなく、復活「祭り」でもなく、また子供たちだけの「行事」でもない。実はクリスマスよりももっと大切な意味がある。
***
昨年の初春から、COVID-19検疫と社会的距離を保つという義務により、私たちのほとんどは家に閉じこもり、愛する人から隔離されてきた。去年、皆、これまでとは大きく異なるイースターのお祝いをすることとなった。
それまで、豪華なドレス、手の込んだ食事、そして訪問する家族や毎年2回教会へ赴く日の1つである「クリースター」(クリスマスとイースターだけに礼拝堂に赴く出席者)に対応して、ぎゅうぎゅう詰めの教会の礼拝堂、と毎度おなじみの伝統が続いていた。去年のイースターから、それは静かで親密であり、イエスを主であり救い主と呼ぶ人々にとってはるかに深い意味を持つ、一切の人工的な飾りを削ぎ落とした日になると期待した。
ラスベガスの若い母親エリン・ホームズが書いた伝播力のあるFacebookの投稿で、彼女はイースターの核心が本当は何であるかを教えてくれる。彼女の簡潔だが力強い言葉は大衆の心に響き、その記事は、2日間で46,000回以上共有された。
ホームズさんのメッセージの核心は、このイースター、私たち皆が必要としていたものだった。以下はその記事:
「私たちは初めて今までと異なるイースターを過ごす最初の世代にならんとしています。次の事柄がイースターなのではありません:
新しいドレス
派手な帽子【ブログ主注記:私の幼少時にはイースター・ボンネットというものがあった−日本で現に7歳頃には叔母から美しいボンネット=帽子を貰った】
きっちりコーディネートした衣服
大きく見せる髪型
花柄のドレス
色付けあるいは装飾された卵
装飾的な十字架
(司祭や牧師によって)よく書かれた説教
誇大なほどの音楽プログラム【He Is Risen=主はよみがえりぬ、だけでも多いに復活を祝福できる】
自分撮り
友達
チョコレート
新しいおもちゃ
キャンディー入りのバスケット
うさぎ
家族写真
感動的なドラマ
満員の教会
ゲストを飽きさせない工夫
特別子供向けプログラム
家族の大仰な午餐
私たちはイースター…または復活の日曜日…についてを学ぼうとしています。
空の墓
死を超えた人生
成就した約束
答えられた祈り
死に対する勝利
地獄の勝利
明日への希望
このリストのどれも一つも物を必要としません。
今年、イースターは静かで、イエスとの親密な交わりになります…そしてそれでいいのです。
私たちのイースターの見方が変わるかもしれません。
それが私たちの礼拝の仕方を変えてくれますように。
それが私たちの生活を永遠に変えることができますように。」
Photo credit: meisterdrucke.uk
A Hopeless Dawn by Frank Bramley 1888
フランク・ブラムリーという画家の1888年に描いた上記の、題してA Hopeless Dawn「絶望の夜明け」という絵画は、コンスタブル、レインズビル、レンブラントなどの数々の巨匠の絵画を蔵する英国ロンドンのテイト美術館の片隅に、ひっそりと展示されている。
この一点の絵画、瞳がその光景を捉えるのと同時に、心を強く惹きつける。若い漁師の夫が嵐の海に出て夜になっても帰らず、妻は夫の老いた母親と二人でまんじりともしない夜を過ごし、二人の目はずっと窓越しの海原にやられ、そしてとうとう夜が明けるが、それは絶望の夜明けであったのが手に取るようにわかる。若い妻が年老いた義母の膝に顔を埋めて泣いている。この絵には不安、失望(絶望)、悲しみがはっきりと浮かんでいる。窓辺の燃え尽きた蝋燭が一晩中の募る不安と絶望をよく表し、観賞する者の心を抉るような悲しみを与える。そしてこの絵を見て、すぐに頭に浮かぶ言葉がある。
旧約聖書ヨブ記にある言葉:人がもし死ねば、また生きるでしょうか。(ヨブ記第14章14節)この質問は何千年もの間おそらくこの地上に生まれた全ての人が問うだろう質問である。
そして次に脳裏に浮かぶ言葉は:わたし(イエス・キリスト)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(新約聖書のヨハネによる福音書第14章27節)
過越(すぎこし)の祭の前に、キリストは御自らこの世を去り、天の父の元へ時が来たと知り、また弟子たちの一人が裏切ることを知っていたのでそう仰ったのだった。キリストは続けて仰った。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』...もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネによる福音書第14章28節)
イエス・キリストが神の属性を持っておられることで、苦しみと死をその身に受け、復活を遂げることにより、霊と肉体の死に打ち勝たれ、だからこそ無限にして永遠の贖罪を全人類のために行うことが可能だった。彼が救い主と呼ばれる由縁がここにあり、救い主は全てのことを正しくされる。死すべきこの世の不公平や死でさえも永久のものではない。何故ならば彼は生命を再び回復し、主の絶対的な正義と憐れみがあるので,屈辱,障害,裏切り,虐待が最終的に償われるのである。
同時に,人は皆,その人生,選択,行い,思いさえも主に対して責任を負っており、人々を堕落から贖われたので,人の生命は現実に主のものである。そして全ての人には復活と最後の裁きとがある訳である。
キリストの恵みは実在し,悔い改めた罪人に対して赦しと清めの両方をもたらす。キリストへの信仰は実に想像や人が心の中で創り上げたものを超えるものであり、絶対的で普遍的な真理があり,普遍的で変わることのない道徳的な標準がある。
100年ほど前、ロバート・ブラッチフォードは、その著書『神とわたしの隣人』(God and My Neighbor)の中で,神,キリスト,祈り,不死不滅といった,キリスト教徒が信仰する事柄を激しく攻撃した。大胆にもこのように主張もした:「わたしは自分が証明を試みた事柄は全て完全に,はっきりと証明し尽くしてきた。たとえどんなに偉大で能力のあるキリスト教徒であっても,わたしの主張に対抗し,論拠を覆すことはできない。」
彼はいわば,懐疑論という壁で完全防備していたが、ある日そんな彼の妻が亡くなった。打ちひしがれて,妻の亡骸が安置された部屋で彼は,心から愛した彼女の死に顔を見詰めた。その部屋から出て来た彼は,友人にこう語った。「あれは彼女だが,彼女ではない。何もかも変わってしまった。以前にはそこにあった何かが取り去られ,今は前と同じ彼女ではない。その取り去られた何かが魂というものでなかったとしたら,いったい何だろうか。」
主は本当に亡くなられて,再び生きられたのだろうか。そのとおりである。世界的なキリスト教リーダーの一人トーマス・モンソンは言った:「キリスト教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストに立てた証です。すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえって,天に昇られたことです。わたしたちの宗教に関する他の全ての事柄は,それに付随するものにすぎません。」(トーマス・S・モンソン「主は生けりと知る」『リアホナ』2007年5月号,23)
故に多くのキリスト教徒と同じく、わたしは,新約聖書の中にある救い主の復活に関する多くの証人,すなわち,ペテロと十二人の使徒たち,清いマグダラのメリー(マリヤ)とその他の人々の経験や証を信じるのである。
フランク・ブラムリーという画家の1888年に描いたA Hopeless Dawn「絶望の夜明け」という絵画の海に失われた漁師の妻とその母親の嘆きが実はこの世限りのもので、やがてこの二人がいなくなったと思った愛する人に再びまみえることを、その希望をも、わたしは、その暗い部屋に見るのである。ちょうど復活祭の日曜日の今日、燦々と降り注ぐ陽光に、木々に色とりどりの花々が、また草花が輝くように。
もう【主は】ここ【墓】にはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。
さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい
マタイ伝第28章6節